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2016年6月 4日 (土)

27年目の「六四」に想う

 毎年6月4日になると、日本のテレビや新聞は1989年の「六四天安門事件」のことについて報じます。毎年、この時期、中国外交部報道官による定例記者会見において外国人記者が「六四天安門事件」についてコメントを求めると、報道官は「1989年の政治風波については、党と政府はとっくの昔に結論を出している」という「模範解答」を返します。中国外交部報道官の記者会見の内容は、中国外交部のホームページにアップされますが、六四天安門事件に関する外国記者とのやりとりの部分はいつも削除されています。また、毎年この時期「六四天安門事件」の際の映像をNHK国際放送テレビが流すと、中国国内では検閲により真っ黒に「ブラックアウト」されます。毎年同じことの繰り返しなので、「六四天安門事件」に関する中国国内での取り扱い方は、全く変わっていないし、変わる気配もないと感じます。

 ただ、昨年(2015年)11月21日のこのブログでの発言「胡耀邦氏生誕100周年記念座談会開催の意味」で書いたように、その死去が「六四天安門事件」の運動の切っ掛けとなった胡耀邦元総書記の取り扱いについては、明らかに変化が進みました。この発言の中でも書いたのですが、その「変化」は、習近平総書記の「私は江沢民氏の影響下からは完全に脱却したのだ」という政治的意図表明の流れの中で進んでいるのだと思います。

 しかし、「変化」はここまでであって、少なくとも習近平氏が中国共産党のトップにいる間は、「六四天安門事件」の再評価やこの事件の対処を巡って失脚した趙紫陽元総書記の名誉回復は無理だと思います。政界を引退したとは言え、江沢民元総書記(トウ小平氏によって六四天安門事件で失脚した趙紫陽氏に代わって上海市党書記から二階級特進で中国共産党総書記に抜擢された)や李鵬元総理(六四天安門事件の時、国務院総理として戒厳令を発表した)が健在の間は、そうした古老幹部との間であからさまな軋轢(あつれき)を引き起こすことは、習近平総書記としては望んでいないと思われるからです。

 一方で、私が気になっているのは、現在の中国共産党指導部が「六四天安門事件」について「全く触れない」方針を貫いているため、「六四」を連想させることになる1976年の「四五天安門事件」についてもほとんど語られていないことです。「四五天安門事件」について語られる機会がないため、若い世代は「四五天安門事件」について何も知らない(つまり、文化大革命とそれを批判することで成り立っている改革開放政策の基本理念を知らない)おそれがあります。

 「四五天安門事件」は、1976年1月に亡くなった周恩来元総理を偲んだ北京市民が清明節(亡くなった方を追悼する日:日本の「お彼岸」に相当する)の4月5日に天安門広場の中央にある人民英雄記念碑の下に数多くの花輪を供えたのに対し、当時「四人組」が中核にいた中国共産党がそれを自分たちの「文化大革命路線」に反対する運動だと見なして、花輪を撤去し、集まった人々を解散させた事件です。トウ小平氏による改革開放政策(=文化大革命の否定)への路線転換の中で、「四五天安門事件」は一般市民が「四人組」に反旗を翻した「革命的運動」であったと高く評価されるようになりました。

 「六四天安門事件」以降(江沢民総書記時代以降)は、「六四」をタブー視するために、「四五」も語られなくなり、その結果、一般市民の動きが「四人組」(=文化大革命路線)を覆す切っ掛けなったことも語られることがなくなってしまいました。その理念は現在の中国共産党指導部にとって「正しい」ものであったとしても、「一般市民が中国共産党中央に対して異議申し立て、当時の中国共産党中央を牛耳っていたグループが追放された」という事実自体が今の中国共産党中央にとっても大きな「脅威」だと映り、そのために「四五天安門事件」の方も語られなくなってしまったのかもしれません。

 私は、1986年10月~1988年9月までの最初の北京駐在の期間中、北京の本屋さんで「天安門事件~我らの十年」と題する本を見かけました。その時はパラパラと「立ち読み」しただけだったのですが、買っておけばよかったと今思っています。この本は、「四五天安門事件」の際の写真を豊富に掲載し、その後の改革開放路線への転換と急速に経済発展しつつあった当時の中国の直近の十年間(1976年~1986年)を誇らしげに回顧したものでした。当時は「六四」が起こる前でしたので、当然「天安門事件」と言えば1976年の「四五天安門事件」のことでした。「四五天安門事件」は当時「誇りとともに語られるべきできごと」だったわけですが、改革開放路線は当時と変わっていないのですから、現在の中国においても「四五天安門事件」は「誇りとともに語られるべきできごと」であり続けているはずです。そうなっていないのは、「一般市民の運動により中国共産党中央の中核グループが追放された」という事実が「語ってはならない事実」だと見なされているからでしょう。

 私は、「中国現代史概説」(左側の「目次」から各項目へのリンクを張ってあります)などこのブログ内の過去の発言の中では、多くの場合1976年の「四五天安門事件」を「第一次天安門事件」と、1989年の「六四天安門事件」を「第二次天安門事件」と表記しています。これは「天安門事件」と呼ばれる出来事は二回あって、それぞれが重要な意味を持っているということを読んだ人にわかって欲しいからです。

 過去に起こった事件をどう評価するか、は、現在の政治路線と密接に関係するので、時により非常に微妙な問題を含むことは事実です。しかし、過去にあった事件を事実としてきちんと若い世代に伝え、それを教訓とすることは、歴史を先に進めるために非常に重要なことです。「微妙な問題」であって意見の対立があるならば、事実を正確に把握した上で、議論を深めてこそ、次の段階に進むことができるのです。時として「歴史の針を先にひとつ進めること」には非常に長い時間が掛かることがあります。しかし、行きつ戻りつはするけれども、歴史は着実に一歩ずつ前に進むものです。

 今回、今日6月4日に改めて「六四天安門事件」のことを書こうと思ったのは、やはり5月27日にオバマ大統領が広島を訪問したことが印象的だったからかもしれません。1989年、6月に「六四天安門事件」が起きた後、11月にはドイツで「ベルリンの壁」が崩壊したのを切っ掛けにドミノ倒しのように「東欧革命」が起き、1991年12月には二大超大国の片方だったソ連が崩壊しました。当時、日々のニュースを見て、「世界の歴史は怒濤のような勢いで前に前進している」と感じていました。

 1989年6月1日にはNHK衛星放送が正式放送を開始したのですが、当時の衛星放送の宣伝のキャッチ・コピーは「確かに人類は進歩した」でした。ソ連・東欧諸国の人々が衛星放送で西側のテレビを見るようになったことが、ソ連・東欧諸国の人々の考え方を変えた、それが歴史を一歩前に進める力になった、という実感がその当時にはあったのです。

 その後、世界の歴史は一歩前進、一歩後退、という感じで、特に最近は「時計の針を逆に回すような」動きばかりが目につきます。その中で、オバマ大統領の広島訪問は、久し振りに「確かに歴史は一歩前に進んだ」という印象を与えました。今回、オバマ大統領は、来日する直前にはベトナムを訪問していましたが、現職アメリカ大統領のベトナム訪問は既に三回目だったのだそうです。ベトナム戦争が終わったのは41年前の1975年4月ですから、それを考えると現職のアメリカ大統領が初めて広島を訪問するのに71年も掛かった、というのは、ちょっと時間が掛かりすぎた感じもしますが、それだけアメリカ国内にもいろいろ意見があり、現職大統領の広島訪問は「微妙な問題」だったのでしょう。

 ですから、私は、中国においても、時間が掛かってもいいから、「六四天安門事件」の再評価と趙紫陽元総書記の名誉回復は、いつかは行われて欲しいと思うのです。逆に、そうしないと、中華人民共和国の歴史を一歩前に進めることができないような気がします。

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コメント

中国が健全な発展をしてくれないと、世界がぎくしゃくすると思います。
一党独裁も何とかならないか、と思うのですが、こちらは時間がかかりそうなので、せめて中国共産党政府が、世界の趨勢をもう少し考慮した謙虚な外交、経済活動をしてもらいたいと切望するものです。

投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2016年7月 1日 (金) 18時41分

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