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2016年6月

2016年6月25日 (土)

たぶん中国の構造改革は遅れる

 昨日(2016年6月24日(金))付け日本経済新聞朝刊の記事によれば、このほど中国は銀行に対する金利規制を復活させた、とのことです。中国は去年(2015年)10月、銀行の預金金利上限を撤廃して金利自由化を達成しましたが、今般「業界団体の自主ルール」という形で金利規制を復活させた、とのことです。

 去年10月の金利自由化などの中国の金融自由化推進への動きを受けて、去年11月、IMF(国際通貨基金)は、中国の人民元をSDR(特別引き出し権)の算出対象通貨とすることを決めました。IMFによるSDR採用前に金利自由化を行い、SDR採用決定後に金利規制を復活させた今回の行為は「中国の金利自由化は人民元のSDR入りを認めさせるための一時的な『だまし』だったのではないか」と勘ぐる向きもあるかもしれません。でも、たぶん本当のところは、中国自身も金融自由化を進めたかったのだが、経済全体の構造改革がうまく進まず、金融自由化だけ先走ったのでは経済全体のバランスを欠くことになる、として、やむなく金利規制を復活させた、というところなのではないかと私は考えています。

 今年3月の全人代まで、中国指導部は「断固として『ゾンビ企業』の処理を進める」と繰り返し宣言していましたが、その後、鉄鋼、セメント等の業界において「ゾンビ企業」が淘汰され、余剰設備が大幅に減ってきている、といった話はあまり聞こえてきません。余剰設備の削減は段階的に実施されていると思いますが、やはり大量のリストラといった「痛み」を避けるため「ゾンビ企業の処置」をスピード感をもって進めるのは難しいのだと思います。

 一方、金利自由化により(銀行間競争により預金金利を高く貸出金利を低くせざるを得なくなることによって)銀行の経営基盤が厳しくなれば、「ゾンビ企業」の処置により発生した新たな不良債権を銀行が処理することが難しくなります。このため、まずは銀行の経営基盤を盤石なものにするために、金融自由化が遅れることには目をつぶって、金利規制を復活させたものと思われます。

 6月20日、李克強総理は、中国建設銀行と中国人民銀行を視察し、その様子が夜のテレビニュース「新聞聯播」で放映されました。中国人民銀行の周小川総裁も李克強総理の視察に同行していました。国家指導者による企業や機関への視察は、中国ではよくある話ですが、周小川総裁は、もともと李克強総理の「腹心」のような方ですので、必要な指示があればいつでもできるはずであって、わざわざ「視察」をする必要はないはずです。ですから、今回の中国建設銀行と中国人民銀行の「視察」とその報道が行われたのは、金利規制復活をはじめとして、銀行に対する政府の「指導」を今後強化するぞ、というメッセージを中国全土の金融関係者に発したいと李克強総理が考えたからだと思います。

 ただ、こうした政府による銀行への「指導」の強化は、結局は銀行側に「政府におんぶにだっこ」の気持ちを温存させてしまうと思います。今回の金利規制の復活をはじめとする政府による「指導」の強化は、中国においては自由な市場経済への道はまだまだ遠いことを印象付けるものでした。

 一方、李克強総理自身が銀行の「視察」によって銀行に対する「指導」を強化するような姿勢を見せたことは、李克強総理自身が「構造改革重視」から「景気重視」に姿勢を変えたことをアピールする効果もあったと思います。李克強総理は明日(6月26日(日))から天津で開かれる世界経済フォーラム年次大会(通称「夏季ダボス会議2016」)に参加する予定ですので、李克強総理自身がどう考えているのか、このフォーラムでの発言が注目されます。

 このほどEU離脱を決めたのイギリスの国民投票(日本時間では昨日(6月24日)結果が判明)は世界に衝撃を与えました。今後、ヨーロッパでの先行き不透明感が高まって、世界の企業家は新規投資に慎重になり、世界的にデフレの傾向が強まるかもしれません。中国では、そうした中で構造改革を急ぐことは経済の「腰折れ」を招くおそれがあることから、政府によるコントロールを維持(場合によっては強化)しながら景気を維持することを重視し、一方で構造改革が遅れることはやむを得ない、という選択肢を採ることになるのかもしれません。

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2016年6月18日 (土)

中国共産党内の論争は李克強総理の一人芝居ではないか

 2016年6月13日(月)に放送されたテレビ東京「Newsモーニング・サテライト」で、最近注目されている中国の経済政策に関する「論争」について特集していました。今年5月9日付け「人民日報」が現在の中国経済の現状に関する「権威人士」に対するインタビュー記事を掲載し、この「権威人士」が構造改革を重視していて、経済成長については「『V字回復』や『U字回復』ではなく、『L字回復』(当面、低成長が継続しても致し方ない)との見方を示したことから、この「権威人士」とは誰の意向を受けた者なのかが話題になっている、という件に関する話でした。この番組に出演していたSMBC日興証券の肖敏捷氏は、「権威人士」は習近平主席の「構造改革重視」の意向を踏まえた人物であり、李克強総理は「構造改革よりも雇用の維持などのための景気維持を重視すべき」と考えていることから、習近平主席と李克強総理の間で党内論争が起きているようだ、と紹介していました。

 今、中国共産党内部で、当面の経済運営に関して論争が起きていることはそのとおりだと思いますが、「習近平主席=構造改革重視」「李克強総理=構造改革より景気維持を重視」という分類の仕方には私は相当違和感を覚えました。というのは、これまで(今年3月の全人代まで)李克強総理は「ゾンビ企業の処理」を幾度となく強調して構造改革に積極的に取り組む姿勢を示していたのに対し、習近平主席の方は貧困層対策を重視するなどむしろ構造改革による経済失速を懸念するような発言が多かったからです。

 過去の実績を考えても、李克強氏は構造改革に熱心でした。李克強氏は胡錦濤主席の時代の2008年の全人代で決まった国務院改革を主導しました。李克強氏は、この時、国有石油化学企業をコントロールするために「エネルギー部」を設置するとともに、特権集団化している鉄道部門を管理するために「交通運輸部」を設置しようとしていたようです。結局この時の国務院改革では、「エネルギー部」は設置されずに国家発展改革委員会の管理下に国家エネルギー委員会と国家エネルギー局が設置され、道路運輸と水運を担当する交通部、航空輸送を担当する中国民用航空総局、国家郵政局を統合して「交通運輸部」が設置されましたが、「鉄道部」は手つかずのまま存続しました(私は「交通運輸部」が鉄道を所管しないことになったこの時の改革について、「相当にいびつだ」との印象を持ったことを覚えています)。

 この時の国務院改革については、下記に掲げるレポートでNPO日中産学官交流機構特別研究員田中修氏が、李克強氏は既得権益グループを管理監督するために「エネルギー部」「交通運輸部」の設立を試みたが、国有石油化学企業や鉄道部などの「抵抗勢力」からの巻き返しで、改革は中途半端なものに終わってしまった、と指摘していました。

(参考)過去NPO日中産学官交流機構のホームページに掲載されていた田中修氏のレポート2008年2月19日付け「政府機構改革をめぐる議論」

 これら過去の李克強氏の過去の言動を考えると、「権威人士=構造改革派」と「李克強総理=景気重視派」との論争は、実は構造改革を進めたい李克強総理による党内をまとめるための「一人二役の一人芝居」なのではないか、と私には思えるのです。そこには、来年(2017年)秋の党大会での人事へ向けて、「権威人士は習近平主席に近い人物である」と見せ掛けることによって、構造改革を嫌がる既得権益グループの中に「反習近平主席」の機運を盛り上げようという李克強氏側の「作戦」があるのではないか、と私は見ています。

 ただし、私がこういった「憶測」をしたくなるそもそもの原因は、「強大な権力を手にした」と言われている習近平主席がどちらの方向に進みたいと思っているのか「本心」が見えない点にあります。習近平主席については、相変わらず外国訪問など外交案件でのテレビの露出が多くて「私は権力を一手に掌握している」と内外に示したい意欲は強く感じる一方で、経済政策についてどういう考え方を持っているのかイマイチよくわかりません。私は、経済問題については李克強総理が国務院の官僚組織を通じて実権を掌握しており、習近平主席は経済問題に関する強いリーダーシップを発揮できていないのではないか、とさえ疑っています。

 先週、ドイツのメルケル首相が中国を訪問し、習近平主席や李克強総理と会談しましたが、私は、今回のメルケル首相訪中時の「習近平-メルケル会談」が北京市内のホテルで行われ、「李克強-メルケル会談」が人民大会堂で行われたことに強い違和感を感じました。メルケル首相は国家元首ではなく、メルケル首相のカウンターパートは李克強氏であるのだから、「李克強-メルケル会談」が「メイン・イベント」であり、「習近平-メルケル会談」は外交儀礼上の「表敬訪問」に過ぎない、その違いが会談場所の違いに表れた、という見方もできますが、「場所の格」としては、言うまでもなく人民大会堂は一般のホテルに比べて格段に「格上」ですから、外交儀礼上の「重要さ」としては、「李克強-メルケル会談」の方が「習近平-メルケル会談」より「格上」に見えてしまうからです。

(注)「習近平-メルケル会談」が中南海(中国共産党本部のある場所:中国共産党幹部の住居もここにある)で行われたのなら全く違和感はありません。メルケル首相が習近平主席の住んでいる場所に訪ねていく、という形になるので、外交儀礼上の「表敬訪問」(格上の人のところに挨拶にいく)の形式に合致します。昔、人民大会堂で国務院総理と会談した外国要人が中南海に行って毛沢東主席やトウ小平氏と会談する、といったケースは多々あったと記憶しています。

 いずれにせよ、これまでこのブログで何回も書きましたが、中国の経済政策に関して、誰がリーダー・シップを持っていて、どちらの方向に持っていこうとしているのかよくわからない、というのが一番困った状況だと思います。今週は、6月23日に行われる予定のイギリスのEU離脱を巡る国民投票が世界の関心を集めていますが、それが終わると次は9月に杭州で行われるG20首脳会談へ向けて、「中国の経済政策は誰がどちらの方向に舵を切るのか」に世界の注目が集まることになると思います。中国の指導部には内部でしっかり意思統一を行って内外に明確なメッセージを出して欲しいと思います。

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2016年6月11日 (土)

「人民公社はなぜ失敗したか」はもっと研究されるべきなのに

 現在の中国では、過去の中国共産党政権の政策の是非を客観的に議論することはできないので、「人民公社はなぜ失敗したか」について客観的な議論がなされていないことを私は非常に残念に思っています。というのは、「人民公社」というひとつの理想的制度がなぜ実際にはうまく行かなかったかについては、中国に限らず、世界各国において、様々な政策の選択肢を考える上で、非常に貴重な教訓を含んでいると思うからです。

 「人民公社」は、1958年に始められ、「文化大革命」期には社会の中核的存在でしたが、1976年の「文化大革命」の終了後には批判的に捉えられるようになり、「改革開放」政策が開始された後、1982年に完全に解体されました。

 「人民公社」は、農村における農業の共同経営を行う経済的主体であると同時に、地方行政組織(「村」とか「鎮」とかに相当するもの)でもありました。

(注1)日本語では「電電公社」などの使い方があるので誤解する人も多いのですが、中国語の「公社」は、フランス語の「コミューン」の中国語訳で「人民による自治組織」という意味です。

 「人民公社」では、農作業は共同で行われ、「人民公社」全体の収穫に応じて、公社のメンバー(=村民)に報酬(平等を原則とする)が支払われました。公社のメンバーの住居は「人民公社」が用意し、幼児の保育、こどもの学校、病院、引退後の高齢者の世話なども「人民公社」が担当しました。女性を家事労働から解放する目的で「公共食堂」が設けられ、公社のメンバーは基本的に「公共食堂」でみんなで一緒に食事をしました。つまり現代社会において行政が担当する教育や社会福祉を全て農業生産の主体である「人民公社」が担っていたのでした。公社のメンバーは、皆、等しくこれらの「ゆりかごから墓場まで」網羅する完璧な教育や社会福祉のサービスを受けることができました。これは毛沢東が思い描いた共産主義的「ユートピア」でした。

(注2)中国では同様の考え方が農業以外の企業体(組織体)でも行われていました。国有企業や行政機関などは、職員の住居を用意するとともに、職員の居住区域近くに幼稚園、学校、病院、退職後職員の住居などを持つことが普通でした。現在でも、例えば、国立大学のキャンパス内には既に退職した元教授や元職員が大勢住んでいて、この人たちをどうするか(一般のマンションは非常に高価なので、元教授や元職員にキャンパスから出て行ってくれ、とも言えない)が問題になっていたりします。

 この「人民公社」の制度は、灌漑設備の整備や収穫期の共同作業など、地域共同体がないと経営できないという農業が持つ特殊性を踏まえた制度でした(この農業が持つ特徴は、各農家の戸別経営が原則である日本においても、農業協同組合が担う役割が大きいなど、世界各国の農業の制度を考える上で重要な視点です)。

 しかし、この「ユートピア」である「人民公社」には次のような問題点がありました。

○全ての公社メンバーが平等を原則として報酬を受け取るので(頑張っても頑張らなくても報酬は同じなので)、労働のインセンティブ(やる気)が沸かず、生産性が向上しなかった。初期の頃、自宅周辺の空き地に各戸の責任で農作物を作ることが認められていた。これを「自留地」と呼ぶが、「自留地」では、頑張っただけ収穫することが認められていたので、「自留地」の農作物はよく実り、公社の田畑の農作物は収穫量が少ないという現象が見られた。後期には「自留地」は「資本主義のしっぽ」として批判されて禁止されるようになった。

○どの「人民公社」も目的は「公社のメンバーを食わせること」であり、「売れる農作物を作ろう」という発想はなかったので、社会全体として農業が発展しなかった(今の言葉で言えば経営上のイノベーションが生まれなかった)。「人民公社」が解体された後で、各農家が、例えば、大都市近郊に位置する村では鶏卵の生産に力を入れる、とか、その土地の環境に合わせてニンニクなどの「特産品」に力を入れるとか、した結果、中国全体で農業の活性化が進んだことを踏まえれば、「人民公社」制度は農業におけるイノベーションを生み出す上ではむしろ阻害要因だったのである。

○「公共食堂」では、食べ物は共有だったため、コスト意識が働かず、大量の食糧が無駄に使われた。

○「公共食堂」の制度については、「メシくらい自分の家で女房とこどもと一緒に食いたい」といった生活のプライバシーに関する農民の素朴な希望を無視するものだった。

 このような問題点があったため、毛沢東が死去して、「文化大革命」が終わると、農村では、「人民公社」は解体され、各農家が各戸の責任で農業生産を行う「責任請負生産制」が行われるようになりました(各農家は、農地の所有権は持っていないので、農地を村から借りて生産を請け負う、という形になった)。

(注3)共産主義革命が起こる前の中国では、少数の大土地所有者が多数の小作人から小作料を厳しく徴収していて、小作人らには常に飢餓の危機がありました。毛沢東が起こした共産主義革命の目的は「中国の農民を皆平等な存在にし、皆にメシを食わせること」であったことを考えれば、「人民公社」は毛沢東の目的を達成した存在であった、と言うことができます。「農業の生産性を上げる」とか「中国全体で農業を活性化させる」といった話は、「全ての農民がメシを食えるようになった後に考える話」ですので、「人民公社」が解体されたのは、「人民公社は誤りだったから」ではなく、「中国が人民公社を必要としない時代に進んだからだ」と考えるべきなのかもしれません。

 「人民公社」の制度が「責任請負生産制」に変わって、農業の生産性は格段に向上しましたが、「人民公社」が担っていた幼児保育、教育、医療、高齢者対応などの部分のうち、行政が十分に担えていない部分については「エアポケット」的に欠落する状況が生じました。現在でも、農民が都市部に出稼ぎに行った場合、出稼ぎ先の都市部では、子女の教育を受けさせられない、医療保険の適用を受けられない(故郷の農村の医療保険は都市部の病院では使えない)ので病院に掛かれない、などの問題が残っています。

 世界各国の主要な政策軸として「大きな政府」を目指す方向(平等を重視し、政府が手厚い社会福祉制度を用意する)と「小さな政府」を目指す方向(競争原理と自己責任を重視し、政府が担う社会福祉は最小限にする)とがあります。各国事情は異なりますが、おおざっぱに分類すれば、日本で言えば前者が民進党で後者が自民党、アメリカで言えば前者が民主党で後者が共和党、イギリスで言えば前者が労働党で後者が保守党、ということになります。単純な言い方をすれば「人民公社」は「大きな政府政策の極論」であり、完全な改革開放政策は「小さな政府政策の極論」です。従って、中国の現代史の中で、「人民公社」では何がうまくいき何がうまくいなかかったか、改革開放政策になって何がうまくいくようになり何が困るようになったか、について知ることは、各国の政策を考える上で非常に参考になると私は思うのです。

 ところが中国では、「人民公社」制度や「改革開放政策」の利害得失を冷静かつ客観的に議論する場がありませんし、これらのよしあしを論じた社会学的・経済学的な論文も出版されていません(中国共産党の政策を批判するような論文を出版することは許されていない)。諸外国の中国研究者による「人民公社」を分析した論文は多数あると思いますが、最も実際の状況を知っているはずの中国の研究者自身による客観的な分析研究がない(存在していたとしても中国共産党内部の検討資料になっていて公開されていないと推察される)のは非常に残念です。

 私は「人民公社はなぜ失敗したか」については、広く人類全体で共有すべき貴重な教訓だと思いますので、ぜひ中国においても、自由闊達な研究と議論ができるようになり、その研究成果が世界に向けて発信できるようになって欲しいと思っています。

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2016年6月 4日 (土)

27年目の「六四」に想う

 毎年6月4日になると、日本のテレビや新聞は1989年の「六四天安門事件」のことについて報じます。毎年、この時期、中国外交部報道官による定例記者会見において外国人記者が「六四天安門事件」についてコメントを求めると、報道官は「1989年の政治風波については、党と政府はとっくの昔に結論を出している」という「模範解答」を返します。中国外交部報道官の記者会見の内容は、中国外交部のホームページにアップされますが、六四天安門事件に関する外国記者とのやりとりの部分はいつも削除されています。また、毎年この時期「六四天安門事件」の際の映像をNHK国際放送テレビが流すと、中国国内では検閲により真っ黒に「ブラックアウト」されます。毎年同じことの繰り返しなので、「六四天安門事件」に関する中国国内での取り扱い方は、全く変わっていないし、変わる気配もないと感じます。

 ただ、昨年(2015年)11月21日のこのブログでの発言「胡耀邦氏生誕100周年記念座談会開催の意味」で書いたように、その死去が「六四天安門事件」の運動の切っ掛けとなった胡耀邦元総書記の取り扱いについては、明らかに変化が進みました。この発言の中でも書いたのですが、その「変化」は、習近平総書記の「私は江沢民氏の影響下からは完全に脱却したのだ」という政治的意図表明の流れの中で進んでいるのだと思います。

 しかし、「変化」はここまでであって、少なくとも習近平氏が中国共産党のトップにいる間は、「六四天安門事件」の再評価やこの事件の対処を巡って失脚した趙紫陽元総書記の名誉回復は無理だと思います。政界を引退したとは言え、江沢民元総書記(トウ小平氏によって六四天安門事件で失脚した趙紫陽氏に代わって上海市党書記から二階級特進で中国共産党総書記に抜擢された)や李鵬元総理(六四天安門事件の時、国務院総理として戒厳令を発表した)が健在の間は、そうした古老幹部との間であからさまな軋轢(あつれき)を引き起こすことは、習近平総書記としては望んでいないと思われるからです。

 一方で、私が気になっているのは、現在の中国共産党指導部が「六四天安門事件」について「全く触れない」方針を貫いているため、「六四」を連想させることになる1976年の「四五天安門事件」についてもほとんど語られていないことです。「四五天安門事件」について語られる機会がないため、若い世代は「四五天安門事件」について何も知らない(つまり、文化大革命とそれを批判することで成り立っている改革開放政策の基本理念を知らない)おそれがあります。

 「四五天安門事件」は、1976年1月に亡くなった周恩来元総理を偲んだ北京市民が清明節(亡くなった方を追悼する日:日本の「お彼岸」に相当する)の4月5日に天安門広場の中央にある人民英雄記念碑の下に数多くの花輪を供えたのに対し、当時「四人組」が中核にいた中国共産党がそれを自分たちの「文化大革命路線」に反対する運動だと見なして、花輪を撤去し、集まった人々を解散させた事件です。トウ小平氏による改革開放政策(=文化大革命の否定)への路線転換の中で、「四五天安門事件」は一般市民が「四人組」に反旗を翻した「革命的運動」であったと高く評価されるようになりました。

 「六四天安門事件」以降(江沢民総書記時代以降)は、「六四」をタブー視するために、「四五」も語られなくなり、その結果、一般市民の動きが「四人組」(=文化大革命路線)を覆す切っ掛けなったことも語られることがなくなってしまいました。その理念は現在の中国共産党指導部にとって「正しい」ものであったとしても、「一般市民が中国共産党中央に対して異議申し立て、当時の中国共産党中央を牛耳っていたグループが追放された」という事実自体が今の中国共産党中央にとっても大きな「脅威」だと映り、そのために「四五天安門事件」の方も語られなくなってしまったのかもしれません。

 私は、1986年10月~1988年9月までの最初の北京駐在の期間中、北京の本屋さんで「天安門事件~我らの十年」と題する本を見かけました。その時はパラパラと「立ち読み」しただけだったのですが、買っておけばよかったと今思っています。この本は、「四五天安門事件」の際の写真を豊富に掲載し、その後の改革開放路線への転換と急速に経済発展しつつあった当時の中国の直近の十年間(1976年~1986年)を誇らしげに回顧したものでした。当時は「六四」が起こる前でしたので、当然「天安門事件」と言えば1976年の「四五天安門事件」のことでした。「四五天安門事件」は当時「誇りとともに語られるべきできごと」だったわけですが、改革開放路線は当時と変わっていないのですから、現在の中国においても「四五天安門事件」は「誇りとともに語られるべきできごと」であり続けているはずです。そうなっていないのは、「一般市民の運動により中国共産党中央の中核グループが追放された」という事実が「語ってはならない事実」だと見なされているからでしょう。

 私は、「中国現代史概説」(左側の「目次」から各項目へのリンクを張ってあります)などこのブログ内の過去の発言の中では、多くの場合1976年の「四五天安門事件」を「第一次天安門事件」と、1989年の「六四天安門事件」を「第二次天安門事件」と表記しています。これは「天安門事件」と呼ばれる出来事は二回あって、それぞれが重要な意味を持っているということを読んだ人にわかって欲しいからです。

 過去に起こった事件をどう評価するか、は、現在の政治路線と密接に関係するので、時により非常に微妙な問題を含むことは事実です。しかし、過去にあった事件を事実としてきちんと若い世代に伝え、それを教訓とすることは、歴史を先に進めるために非常に重要なことです。「微妙な問題」であって意見の対立があるならば、事実を正確に把握した上で、議論を深めてこそ、次の段階に進むことができるのです。時として「歴史の針を先にひとつ進めること」には非常に長い時間が掛かることがあります。しかし、行きつ戻りつはするけれども、歴史は着実に一歩ずつ前に進むものです。

 今回、今日6月4日に改めて「六四天安門事件」のことを書こうと思ったのは、やはり5月27日にオバマ大統領が広島を訪問したことが印象的だったからかもしれません。1989年、6月に「六四天安門事件」が起きた後、11月にはドイツで「ベルリンの壁」が崩壊したのを切っ掛けにドミノ倒しのように「東欧革命」が起き、1991年12月には二大超大国の片方だったソ連が崩壊しました。当時、日々のニュースを見て、「世界の歴史は怒濤のような勢いで前に前進している」と感じていました。

 1989年6月1日にはNHK衛星放送が正式放送を開始したのですが、当時の衛星放送の宣伝のキャッチ・コピーは「確かに人類は進歩した」でした。ソ連・東欧諸国の人々が衛星放送で西側のテレビを見るようになったことが、ソ連・東欧諸国の人々の考え方を変えた、それが歴史を一歩前に進める力になった、という実感がその当時にはあったのです。

 その後、世界の歴史は一歩前進、一歩後退、という感じで、特に最近は「時計の針を逆に回すような」動きばかりが目につきます。その中で、オバマ大統領の広島訪問は、久し振りに「確かに歴史は一歩前に進んだ」という印象を与えました。今回、オバマ大統領は、来日する直前にはベトナムを訪問していましたが、現職アメリカ大統領のベトナム訪問は既に三回目だったのだそうです。ベトナム戦争が終わったのは41年前の1975年4月ですから、それを考えると現職のアメリカ大統領が初めて広島を訪問するのに71年も掛かった、というのは、ちょっと時間が掛かりすぎた感じもしますが、それだけアメリカ国内にもいろいろ意見があり、現職大統領の広島訪問は「微妙な問題」だったのでしょう。

 ですから、私は、中国においても、時間が掛かってもいいから、「六四天安門事件」の再評価と趙紫陽元総書記の名誉回復は、いつかは行われて欲しいと思うのです。逆に、そうしないと、中華人民共和国の歴史を一歩前に進めることができないような気がします。

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