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2015年11月21日 (土)

胡耀邦氏生誕100周年記念座談会開催の意味

 胡耀邦氏は、いわば1980年代の中国を象徴する人物です。その胡耀邦氏の生誕100年を記念する「胡耀邦氏生誕100周年記念座談会」が昨日(2015年11月20日)、習近平主席ら中国共産党政治局常務委員7名全員が出席して開催されました。

 1982年、中国共産党はそれまで設けていた「中国共産党主席」の職位をやめ、党のトップを「中国共産党中央委員会総書記」に改めましたが、胡耀邦氏は、初代の党総書記でした。胡耀邦氏は、1980年代前半は、トウ小平氏の次の世代の改革開放の中国の「顔」でしたが、1986年末に上海等で起きた学生らのデモに対する対処がよくなかったとして、1987年1月16日、総書記の辞任を余儀なくされました。そして、1989年4月15日に胡耀邦氏は亡くなりましたが、亡くなった胡耀邦氏を追悼しようとして、学生・市民らが天安門前広場の中央にある人民英雄記念碑に花輪を捧げたことが、その後「六四天安門事件」に繋がる学生・市民の運動に繋がっていったのでした。

 つまり、1980年代の中国では、もちろんトウ小平氏が政治を牛耳っていたのですが、別の見方をすれば「胡耀邦氏を巡って時代が回っていた」とも言えるのです。

 胡耀邦氏は、トウ小平氏の指示の下、1987年初まで「改革開放の時代の中国」をリードした一方、「政治的民主化に理解があったが、それ故に失脚した」として、いわば「政治的民主化運動のシンボル」と見る人も多いと言われています。しかし、1987年1月16日、胡耀邦氏が総書記を辞任した時、私は北京に駐在していましたが、少なくとも私の印象では胡耀邦氏のことを「政治的民主化のシンボルだった」とは思っていませんでした。1986年末の学生デモにより「詰め腹を切らされた」格好で辞任したことで、胡耀邦氏は「政治的民主化のシンボル」に「祭り上げられて」しまったのかもしれません。

 実際に胡耀邦氏が政治的民主化に熱心だったかどうかとは関係なく、胡耀邦氏を「政治的民主化のシンボル」と考える人がいる以上、「六四天安門事件」の結果として政権の座についた江沢民氏の時代には、胡耀邦氏に触れることは、ほとんど「タブー」でした。

 歴史的事実関係として冷静に見れば、1976年の毛沢東主席の死去、その直後の「四人組追放」の後に政権を担当した華国鋒氏からトウ小平氏が権力の実権を獲得していく過程で、胡耀邦氏は、トウ小平氏の「懐刀」として、文化大革命の時期に失脚していた多数の元幹部の名誉回復と復権に尽力したのは間違いのない事実です。そのため、当時を経験して、現在まで生存している中国共産党の老幹部の多くには、胡耀邦氏に対して感謝する感覚を持っている人は多いと思います(習近平主席の父親の習仲勲氏も胡耀邦氏の働きにより復権した一人)。

 このため、胡耀邦氏に対する扱いは、現在でも「非常に微妙な問題」です。

 ちょうど10年前、胡耀邦氏の生誕90周年だった2005年11月には、既に中国共産主義青年団における胡耀邦氏の直接の後継者だった胡錦濤氏が国家主席になっていましたが、胡耀邦氏生誕90周年の行事をどのような形でやるか、は、非常にデリケートな問題でした。胡耀邦氏を称賛することは、「六四天安門事件」を再評価することに繋がる可能性があり、それは依然として政治的に大きな影響力を維持していた江沢民氏が国家主席になった過程について再議論することに繋がる可能性があったからです。

 結局、「胡耀邦氏生誕90周年」の行事は、「記念大会」ではなく「記念座談会」として開催されました。この座談会には、当時7人いた中国共産党政治局常務委員のうち曾慶紅氏ら3人が参加しましたが、胡錦濤主席(党総書記)は参加しませんでした。

 一方、この「胡耀邦氏生誕90周年記念座談会」を切っ掛けとして、「六四天安門事件」の当時党政治局常務委員だった胡啓立氏が2005年12月7日、中国青年報の週刊特集「氷点」に「我が心の中の胡耀邦」(中国語原題「我心中的耀邦」)という文章を寄稿しました。その後、2006年1月13日付けで掲載した中山大学の袁偉時教授による「現代化と歴史教科書」という論文を掲載したことが問題となり、「週刊氷点」は停刊となり、編集長の李大同氏が解任されました(「週刊氷点停刊事件」)。「週刊氷点停刊事件」の直接の切っ掛けは袁偉時教授の論文ですが、背景には胡啓立氏による胡耀邦氏を追悼する文章「我が心の中の胡耀邦」があったと考えられています。

(注)この「週刊氷点停刊事件」の時、「事件」を担当した中国共産党中央宣伝部長は劉雲山氏でしたが、今回の「胡耀邦氏生誕100周年記念座談会」では、政治局常務委員になった劉雲山氏が司会をしました。これは「今は10年前とは違う」ことを象徴的に表す政治的メッセージだと見るべきでしょう。

 その後も、胡耀邦氏の扱いが「極めて微妙な」時期は続きました。

 私が2度目の北京駐在をしている間に「改革開放30周年」がやってきましたが、それを記念して2008年12月に開かれた「中国対外開放30周年回顧展」の展示では、「六四天安門事件」で失脚した趙紫陽氏はもちろん、胡耀邦氏の写真もありませんでした。「改革開放」推進の中心人物はトウ小平氏ですが、それを実行に移す段階で中国共産党のリーダーとして活躍した胡耀邦氏を「中国対外開放30周年回顧展」で紹介しないことについて、この回顧展を見た私は非常に憤慨したことをよく覚えています。

 ところが、胡耀邦氏を再評価する動きは、水面下で続いていたようです。最も象徴的な出来事は、胡耀邦氏の21年目の命日である2010年4月15日付けの「人民日報」に温家宝総理の寄稿文「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」が掲載されたことでした。中国共産党機関紙の「人民日報」に現職の政治局常務委員・国務院総理の温家宝氏が胡耀邦氏を偲ぶ文章を載せたのですから、この時点で、実質的にほとんど「胡耀邦氏の名誉回復はなされた」と考えるべきだと思います。

(参考)上記の経緯は、このブログの下記の過去の記事に掲載されていますので、御興味のある方は、このブログの左側にある「バックナンバーの目次」または「中国現代史概説の目次」から選んで御覧ください。

2008年12月21日付け記事「改革開放30周年記念日が終了」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2008/12/30-eeb6.html

中国現代史概説:
第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国
-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発
--第9節:「第二次天安門事件」
【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-9ab9.html

中国現代史概説:
第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国
-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国
--第7節:「氷点週刊」停刊事件
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-0bd3.html

 従って、今回(2015年11月20日)「胡耀邦氏生誕100周年記念座談会」が開かれたのは、従来、党内で進んで来ていた胡耀邦氏の再評価への動きの延長線上にあるのであって、習近平体制になって何か新しい動きがあった、というわけではないと思います。

 それでも、今回の「胡耀邦氏生誕100周年記念座談会」は、「記念大会」といった党を上げての記念行事ではないものの、その扱いは非常に大きなものになっていることは注目に値します。

 まず、日程ですが、この「座談会」は胡耀邦氏の誕生日の11月20日に開催されたわけですが、この日は、前日に習近平主席がG20首脳会議(トルコで開催)とAPEC首脳会議(フィリピンで開催)から帰国し、李克強総理がASEAC+3会議(マレーシアで開催)に出席のため北京を離れる前の「外交日程上の空白の1日」でした。国際会議の日程は、参加各国の都合を聞いて決めるのですが、もしかすると、これら国際会議の日程は、中国側が「11月20日は大事な行事を北京でやる必要があるので、国際会議の日程はこれと重ならないようにして欲しい」と要望して決まった可能性があります。もし、そうであれば、習近平政権は11月20日の「胡耀邦氏生誕100周年記念座談会」をかなり以前から非常に重要な政治的イベントだと認識して日程を確保していた可能性があります。

 次に注目すべきなのは報道の仕方がかなり「重め」になっていることです。「胡耀邦氏生誕100周年記念座談会」開催当日(11月20日)の中国中央電視台の夜のニュース「新聞聯播」では、30分のうち約9分を使ってこの「座談会」を報じていました。今日(2015年11月21日)付けの「人民日報」では、1面でこの「座談会」の開催を報じているほか、2面に「座談会」で行った習近平主席の「重要講話」の全文を掲載し、6面で各出席者からの発言を詳しく報じています。

 さらに、この「胡耀邦氏生誕100周年記念座談会」を記念して「胡耀邦文選」が出版され、胡耀邦氏の生涯を描く映画も公開される予定、とのことです(私は「胡耀邦氏の生涯を描く映画」は「やり過ぎ」(関係者は調子に乗り過ぎ)だと思います。昨日まで「タブー」だった人物について、党中央が称賛する「座談会」を開くと決めたとたん、その動きに乗っかった「提灯持ち」の映画を作ることは中国では「よくある話」ではあるのですが、客観的に言って「あまりに節操がなさ過ぎる」と思います(中国の多くの人々もそう感じると思います)。こうした「軽い気持ちの(提灯持ちの)胡耀邦氏を称賛する動き」は、「趙紫陽氏を再評価しよう」というまじめな動きに繋がり、それは1989年の「六四天安門事件」の再評価、という現在の中国政治にとって最も「重い課題」を動かす切っ掛けになる可能性をはらんでいると私は思います)。

 一方、私は、今回の「胡耀邦氏生誕100周年記念座談会」の開催が、趙紫陽氏の名誉回復や「六四天安門事件」の再評価に繋がることはない、と思っています。この「座談会」の開催をもって、習近平主席が団派(中国共産主義青年団関係者の派閥:胡錦濤前主席、李克強総理ら)に妥協したと見るのは適切ではないし、ましてや党中央が政治的民主化を求める改革派に理解を示した、と見るのは「甘すぎる」と言えるでしょう。

 習近平主席が重々しく「胡耀邦氏生誕100周年記念座談会」を開いたのは、習近平主席が「今の政権は、腫れ物に触るようにしか『生誕90周年記念座談会』を開けなかった胡錦濤政権とは違う」ことを強調したかったからだと思います。もっと露骨に言えば、この「胡耀邦氏生誕100周年記念座談会」は、習近平主席による「私は江沢民氏の呪縛から完全に解き放たれて、党内の全てを掌握したのだ」と宣言するセレモニーのひとつだった、と言えると私は思います。既に、江沢民氏に任命された軍の幹部を「反腐敗闘争」の中で追放し、江沢民氏の働きかけで政治局常務委員に入ったとされる周永康氏をこれも「反腐敗闘争」の中で失脚させた習近平主席ですが、あえて「私は江沢民氏の呪縛から解き放たれたのだ」と内外に大声で宣言する必要がまだあるのだと私は思っています。

 江沢民氏は、2002年秋の党大会で総書記職を胡錦濤氏に譲った後も、2004年まで党軍事委員会主席の座に座り続けて、その影響力を維持し続けました。胡錦濤政権時代10年間の党政治局常務委員の顔ぶれを見ても、「江沢民氏の息が掛かった人たち」がたくさんいたことでその点は明らかです。私が一番印象的だったのは、2008年8月の北京オリンピック開会式の時、胡錦濤主席の隣に江沢民氏が座っていたことでした。また、2009年10月の国慶節の軍事パレードを伝える2009年10月2日の「人民日報」1面の記事では、胡錦濤主席と並んで江沢民氏の写真が掲載されていました。この時点で江沢民氏の政治的影響力はまだ相当に強かったと想像できます。

 習近平主席は、時折、「江沢民氏に近い」と評されることがありますが、それは胡錦濤-李克強の「団派」との比較の観点で、「『団派』と対立する勢力だから」と見られるからであって、習近平主席の本質は「反江沢民」なのかもしれません。習近平主席の「反腐敗闘争」は、実は「反江沢民派闘争」であることは、江沢民氏に近い軍の幹部や周永康氏の追放劇を見ている限り明らかだと思います。習近平主席が「団派」の李克強氏との関係が微妙であるように見えて、何とか李克強総理と「うまくやっている」のは、もしかすると「江沢民氏の息が掛かった勢力を排除する」という点で、習近平主席と李克強総理とは「同じ目標を持った同志」であるからなのかもしれません。

 その意味で、今回の「胡耀邦氏生誕100周年記念座談会」は、習近平主席による「反江沢民派闘争」の「勝利宣言大会」であったのかもしれません。ただ、中国共産党の内部にも、胡耀邦氏や趙紫陽氏に同情的な考えの人々は今でもかなり多くいると考えられ、今回の「胡耀邦氏生誕100周年記念座談会」は、習近平主席による党内求心力の強化に繋がるというよりも、「百家争鳴」的な党内議論(政治的な民主化の要求も含む)の活発化の切っ掛けになる可能性もある、と私は思っています。

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