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2015年8月15日 (土)

人民元切り下げに見る中国経済政策の変調

 今週の中国人民銀行による突然の人民元の実質上の切り下げは世界の市場を震撼させました。そもそも私の生活感覚からしたら、人民元のレートは元安過ぎます。今回の「切り下げ」はその「生活実感」に逆行するもので、今までの中国の政策の方向転換を意識させます。

 私は1986年~1988年北京に、1998年~2000年ワシントンに、2007年~2009年再び北京に駐在していました。経済規模が今と全く異なる1980年代の中国を除けば、私の「生活感覚」からしたら、1米ドル=1人民元=100円です。なので、ドルが1ドル=80円から1ドル=125円に変わっても、「まぁ、そんなもん。」と納得できます。しかし、現在のレート1人民元=20円では、人民元については「人民安(円高・ドル高)過ぎる」という感覚を持ちます。

 2007~2009年の北京駐在時の経験で言えば「タクシー初乗り(2km)料金10元」「北京地下鉄が3元から2元に値下げになった」「北京大学の学生食堂のビーフカレーが3.5元から4元に値上げになった」のを記憶しています。雨の少ない北京で、急に雨が降り出すと地下鉄の駅の出口で折りたたみ傘を売り出すおじさんが商売を始めるのですが、その値段が1本=10元なので、私は「高い!急な雨につけ込んで傘を高く売るのはケシカラン」という感覚を持ったことを覚えています。当時のレートは1元=15円だったので、日本と同じ感覚なら「ケシカラン」とは感じなかったはずです。

 私の感覚から言ったら、1元=70円くらいが妥当なところだと思います。観光旅行で中国に行った人はそうは感じないかもしれませんが、中国のホテルの宿泊料金や観光地のレストランの値段は、東京とそれほど違いませんが、これはこれらの価格がその他の中国の物価水準からしたら高すぎると私は思っています。ワシントン駐在時は、生活に必要なものの値段は日本とはそれほど違うとは感じなかったので、やはり中国の物価体系はひずんでいると思います。

 この感覚は、おそらくはアメリカの国会議員も同様に持っていて、アメリカでは「人民元は低く評価されすぎている。安い人民元レートにより、中国製品は不当に安くアメリカに輸出され、結果としてアメリカ人の就業機会を奪っている。」という対中国批判がよく聞かれます。

 そもそも中国は膨大な貿易黒字国です。仮に為替を市場にゆだねれば、人民元高・外貨安の方向に動くはずです。それなのに人民元高が進まないのは、中国人民銀行が為替を「基準値からの一日の変動幅は2%以内」というふうに管理しているからです。「経済は基本的に市場メカニズムに任せるべき」との考え方に立てば、中国人民銀行の為替管理政策は「意図的に元安を維持しようとしているもの」として批判されることになります。

 中国政策当局もそうした批判はよく承知しています。ただ、過去には「中国の経済はまだまだ弱いので、人民の経済生活を守るためには、人民元レートが安くてもやむを得ない。」と考えていました。実際、私が1980年代後半に北京に駐在していた時のメモを見ると、例えば「1988年6月15日にタクシー初乗り(1km)料金が0.8元から1.2元に値上げになった」とあります(当時のレートは1元=35円)。当時はタクシーは中国の一般庶民には「高値の花」でした。その当時のメモには「鄭州3号(スイカの品種名)が1斤(500g)2角5分(0.25元=当時のレートで約9円)」というのも残っています。ちなみにこの当時の北京地下鉄は環状線(今の2号線)内で0.2元、東西線(今の1号線)に乗り換えると0.3元でした。

 1980年代にはこうした「人民元安」は世界的には問題にされませんでした。中国は当時はまだまだ発展途上だったからです。例えば、日本も1971年のニクソン・ショックまでは1ドル=360円という今では考えられない円安・ドル高状態だったわけですから。その後、中国は急激に経済発展し、2000年代後半にはGDPで日本を抜きました。私が実際に生活して経験した1980年代後半と2000年代後半で比較すると、上記のように、タクシー料金や地下鉄料金で中国の物価は約10倍上がっています。一方、為替レートは1元=35円→15~20円と約2倍になっています。物価の上昇率が経済力の上昇率と比例していると仮定すると、人民元為替レートの上昇の度合いは経済力の上昇についていっていないことになります。「中国は経済発展しているのに人民元レートが低いままだ」というアメリカの国会議員の批判は、私の個人的感覚と合致します。

 中国政府も、「急激な人民元レートの引き上げは中国の輸出を抑え、輸入品価格の上昇を通じて中国人民生活を苦しめることになる」ことから、急激な人民元レートの引き上げは抑制してきましたが、WTO(世界貿易機関)への加盟など中国経済の国際化を進める上では、ゆっくりしたペースではあっても、人民元レートを国際的標準に近い値に上昇させる方向(=アメリカの国会議員や私の個人的感覚に合致する方向)に変化させていくという「方向性」は持っていました。だからこそアメリカ政府はアメリカの国会議員から批判が強くても中国を「為替操作国」とは認定してこなかったのです。

 ところが今回(2015年8月11日)中国人民銀行は「人民元レートの基準値を各銀行からの報告を元にする方式から前日の終値を基準とする方式にする」という実質的に人民元安を容認する方向で基準値設定方式の変更を発表しました。「元高を目指す」から「元安を容認する」への「方向性」の大転換だったのでマーケットは驚愕し、日本、ヨーロッパ、アメリカの株式市場は大幅に下げました。従来の為替政策を変更して輸出を増やす方針を採らざるを得ないほど中国の実体経済は悪いのか、という憶測を呼んだからでした。

 それに加えて、マーケットが荒れたのは、この中国人民銀行の政策変更が世界の市場関係者に「政策意図としては意味不明」「景気刺激策としては逆効果になる可能性があるのに」として「中国当局は冷静な政策決定ができない状態に陥っているのではないか」との疑念を抱かせたからでした。先週末(8月8日)に発表された中国の貿易統計で、中国の輸出額が対前年同月比マイナス8.3%、輸入がマイナス8.1%と大幅に減少したことから、景気刺激策が出てくるとは思っていた関係者も「人民元レートの切り下げ」という方策を採るとは思っていなかったからです。というのは、「人民元レートの切り下げ」は下記のように問題点を含むものだからです。

【人民元切り下げがもたらすマイナス面】

○中国からの外資流出の加速とそれによる金融引き締め効果

 そもそも、中国の貿易収支(大幅な黒字)を勘案すれば、中国経済が国際化すれば人民元レートは現在より元高方向に動くはずです。そうした見通しに立って、多くの外資が中国に流入しました。中国国内での投資効率が悪くても、外貨を元に替えて中国国内に投資しておけば、後で元が上昇すれば為替差益が得られるからです。

 しかし、リーマン・ショック後の経済対策が一巡した2014年頃から中国国内での投資効率が悪くなり、対中投資は中国への流入超から流出超へと変わりました。資金流出超となれば、人民元を外貨(ドルなど)に替える動きが強まり、人民元安・外貨高に為替は動きます。将来的に人民元安・外貨高が予測されれば、従来と逆に、中国国内で元を持っていると損をするので、ますます元安・外貨高が進みます。こうした外資の中国からの流出が加速しては困るので、中国人民銀行は意図的に元安が加速することは阻止するように為替管理をしてきたものと思われます。

 ここで中国人民銀行が人民元安を容認する姿勢を示せば、今後の人民元安の懸念から外国資本の流出を加速させることになります。外国資本が流出する(即ち元をドルに替える)動きが強まれば、市場に存在する人民元が吸収され、結果として金融引き締め効果をもたらします。これは昨年11月以来累次行っている中国人民銀行による金融緩和策と逆行する効果をもたらします。

 確かに人民元安となれば、中国の輸出産業は国際競争力を増すことになるので、輸出産業振興策にはなります。しかし、8月11日からの三日間に起こった対米ドルの人民元安は約5%であり、その輸出振興効果は限定的です。実際、日本円はこの1年間で1ドル=102円から1ドル=124円と2割以上円安・ドル高になっており、日中貿易だけで見る限り、5%程度の対米ドルでの人民元安の効果は極めて小さいと言わざるを得ません(対ユーロ圏についてもほぼ同様)。

 輸出に対するプラス効果が小さく、外資流出によるマイナスが大きいことを考えれば、この「人民切り下げ」を「短期的な景気刺激策」として見るとその効果ははなはだ疑問です。

○外交上のマイナス

 習近平主席は9月に訪米を予定しています。タダでさえ「人民元安ケシカラン」と考えている国会議員が多いアメリカに行く直前のタイミングで人民切り下げを行うことは、南シナ海問題など懸案事項が多くある現状において、アメリカに格好の中国攻撃材料を与えることになります。そもそもこのタイミングで習近平主席が訪米する外交上の目的が今ひとつ不明確なのですが、今回の人民切り下げは「国家主席の訪米直前」のタイミングで行われた、という観点で、「中国政府部内で統一した政策決定がなされていないのではないか」との疑問を惹起します。

○改革開放政策の方向性に対する疑問の惹起

 そもそも1980年代からのトウ小平氏の「改革開放政策」は、中国共産党による一党独裁体制を維持しつつ、経済においては各企業の自主性を尊重して国際競争下で市場原理による中国企業の効率化・高度化を図る、というものでした。例えば、1980年代、トウ小平政権はそれまで中国の民間航空業を一手に行っていた中国民航を解体し、航空業界の「分割民営化」を実施しました。中国の原子力産業を担う核工業部も実業部門は1988年6月に「核工業総公司」となりました。発想としては、国家的事業であっても、実業部門は民間の発想を取り入れて効率化すべき、というものでした。当時進んでいた日本の国鉄や電電公社の分割民営化を参考にしたのかもしれません。

 ところが、習近平体制になってから(正確に言うと李克強総理による「リコノミクス」が進まなくなった2014年以降)、この方向性に逆行する政策が出されるようになりました。「国有企業の分割民営化」の一環として2000年代に成立した鉄道車両製造メーカーの中国北車と中国南車の合併(2014年12月に合併発表。2015年6月合併完了)がその典型例です。製鉄大手の武漢鋼鉄と宝山鋼鉄が合併するのではないか、といった観測も取りざたされています。これらは「国有企業についても市場競争原理を導入して、経営の効率化やイノベーションを進めて、中国企業の国際競争力を高める」ことを目的とした1980年代のトウ小平氏の考え方に逆行するものです。

 先頃の上海株式市場での株価暴落に対して行った政府の過剰な介入も、「市場競争原理に任せる」という1980年代の「改革開放経済の理念」に反するものでした。こうした流れの中で出てきた中国人民銀行による「人民元の実質切り下げ」だったので、「中国政府は経済の本格的な低迷を前にして『市場競争原理に基づく経済の活性化』という基本理念を捨ててしまったのではないか」との疑念を強める結果となりました。

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 なお、8月13日に行われた中国人民銀行による「記者ブリーフィング」において、今回の基準値決定方式の変更は、人民元切り下げによる輸出振興のためではなく、為替レートがより市場原理に基づいて決まるようにする改革の一環である、と説明しました。ただ、この説明のとおりだとしても、以下の疑問点が残ります。

○変更のタイミングがなぜ「今」だったのか。「為替レートをより市場動向に合わせるため」だったら、もっと前の段階で変更できたはず。貿易統計により輸出不振が明確になった直後の変更は「輸出振興のために人民元を切り下げた」というメッセージを市場に与えることはわかっていたはずなので、真に「為替レートをより市場原理に沿うようにする」ためだけの理由なら、今のタイミングでの基準値決定方法の変更は見送ったはず。

○そもそも「為替レート基準値」は「各銀行からの報告に基づくもの」としかされておらず、基準値の決め方は「ブラック・ボックス」だったので、中国人民銀行が人民元安にしたいと思うのならば、1日2%という変動幅の中で黙って基準値を少しずつ下げていけばよいだけの話で、改めて「基準値の決め方の方式を変えた」と発表して、市場に対して「中国人民銀行は人民元安を目指す」というメッセージを与える必要はなかったはず。

 おりしも、報道によれば、中国共産党幹部(引退したOBも含む)が集まって重要事項が話し合われる「北戴河会議」が現在開かれるとされています。こうした中で行われた中国人民銀行の方針変更だっただけに、「もしかすると中国共産党内部でいろいろな議論がなされており、ハッキリとした方向性を持った統一的な政策決定ができない状況に陥っているのではないか」との疑念さえ惹起させてしまったことが、今回の中国人民銀行の決定が世界のマーケットに衝撃を与えた原因だと思います。

 中国電視台の夜7時のニュース「新聞聯播」によると、8月5日(火)の時点で中国共産党政治局常務委員の劉雲山氏が北戴河で開かれた休暇中の専門家との会合に出た、とのことですので、この時点で劉雲山氏が北戴河にいたことは確実です。もし、今もって「北戴河会議」が開催されているのだとしたら、開催期間が長すぎます。「議論が揉めているのではないか」との憶測も呼んでしまいます。

 運の悪いことに、8月12日夜、天津の浜海新区にある危険物倉庫で大爆発があり、多数の死傷者が出る事故が起きました。これだけの大事故が起きたのに習近平主席や李克強総理をはじめとする中国共産党政治局常務委員が誰もテレビのニュースに出てこないのが気になります。現場に入ったのは政治局常務委員ではない劉延東副総理であり、過去の同種の事故対応とは異なっています。天津港の港湾機能への影響の程度はまだよくわかっていません。港湾機能が長期間停止するようだと、中国の貿易にも悪影響が出る可能性があります。こちらの影響も気になるところです。

 中国経済については、以前から「政府発表の数字は信用できないので実態がよくわからない」という不安がありました。今回の中国人民銀行の突然の「人民元の実質的切り下げ」は、それに加えて「中国当局の政策がどちらを向いているのかわからなくなってしまった」という不安をプラスしました。これは世界経済全体にとってマイナスですので、中国政府が今後世界の信頼を取り戻すような合理的な政策判断を示すことが重要だと思います。

 なお、今回の「人民元の実質引き下げ」について、IMFは歓迎するコメントを出しているほか、アメリカ政府からの露骨な抗議は出ていないので、中国人民銀行は事前にIMFや主要国金融当局に通知していた可能性があります。もしそうであれば、中国人民銀行の今回の判断は「冷静な判断に基づく計画されたもの」だと考えられるので、その意味では心配しなくてよい(=中国人民銀行が中国共産党内部の政治権力闘争に巻き込まれて理不尽な判断を強いられたわけではないと判断してよい)のかもしれません。

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