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2013年8月 4日 (日)

中国での政治混乱の可能性:1980年代との比較

 現在、中国経済の減速傾向が顕著になっている中、李克強総理が「影の銀行行為」対策などを通じて金融改革を行っていることについて、経済面での「中国リスク」が強く意識されるようになっています。ただ、現時点では、中国政府は、経済全体をコントロールできており、金融機関の連鎖的破綻が起こる可能性(システミック・リスク)や経済活動の低下が急激に起きる現象(ハードランディング)は起きる可能性は小さい、というのが、多くの人々の見方です。ただ、1989年の「第二次天安門事件」のような大きな政治的混乱が生じて、それによる経済的な急激な変動が起こるかもしれない、との可能性については、誰にとっても予測できないところです。

 私は、1986年10月~1988年9月に北京に駐在していました。駐在期間中の1986年年末に上海等での学生デモが発生し、その処置の対処が甘かった、ということで、1987年1月に当時の中国共産党総書記の胡耀邦氏が辞職しました(実質的な解任)。しかしながら、駐在当時、1989年に発生する「第二次天安門事件」のような致命的な政治的変動が起こることは全く予想していませんでした。

 実際、私は、1988年の1月に書いた「1988年の予測(予言)」と題するレポートの中で下記のように記しました。

「上海(或いは別の地方都市)で労働者・学生による物価値上げ反対デモが発生する。
【説明】公共料金の相次ぐ値上げと、一部食料品の不足により、市民を中心とした比較的静かなデモが発生。流血の騒ぎにはならないが、市長の直接選挙等の政治改革が一段と進む切っ掛けとなる。」

 「上海(或いは別の地方都市)で」という場所についてははずれましたが、「市民を中心とした静かなデモが発生する」という「予言」はあたりました。しかし一方で、「流血の騒ぎにはならない」という「予言」は不幸にもはずれてしまったわけです。

 1988年1月の時点で、デモが発生する場所について「上海(或いは別の地方都市)で」と書いたのは、政治都市である北京は管理が厳しいので、市民らがデモを行うのは難しいだろう、と考えたからです。事実、1986年12月初旬に発生した学生デモは、まず、安徽省合肥にある中国科学技術大学で発生し、それが12月後半までに南京、上海に飛び火しました。1987年1月1日には北京でも学生のデモが行われるとの「ウワサ」が流れたのですが、治安当局は事前に天安門広場を立ち入り禁止にし、北京でのデモは不発に終わりました。

 北京駐在中だった私は、1987年1月1日15時頃、天安門広場に行ってみましたが、広場の境界線には武装警察と思われる人々が一定間隔で並んで立っており、立ち入りが禁止されていました。周囲の道路には「やじうま」と思われる人々がいましたが、デモはありませんでした。後に外国からの報道で知ったところによれば、この日正午頃、天安門広場周辺で小規模な学生デモがあったけれども、すぐに治安当局によって解散させられてしまった、とのことでした。

 ですから、もし、北京において、学生や市民によるデモが起きそうだ、という兆候があれば、すぐに治安当局が天安門広場など主要な場所を立ち入り禁止にするなどして未然に防ぐので、北京ではデモは起きないだろうと思っていたのでした。ところが、実際は、1989年4月15日に胡耀邦氏が亡くなって、翌日以降、胡耀邦氏の死を悼む学生らが天安門広場に花輪を捧げたりしたのを治安当局はとがめなかったことから、その後、学生らによる活動は雪だるま的に拡大していったのでした。

 1988年1月の時点で「流血の騒ぎにはならない」と考えたのは、デモが起きても鎮圧に当たるのは警察であって、デモ隊による投石や火焔瓶があっても、警官隊は催涙弾、放水中で応戦するだろうから「流血の騒ぎ」にはならないと考えたのです。1976年4月の「第一次天安門事件」(四五天安門事件)では、人々の集会に対処したのは警察や民兵で、持っていた武器は革の鞭や鉄パイプであって、多数のケガ人は出たようでしたが、少なくとも死者が出た、というような話は聞いていませんでした。「四人組」が牛耳っていた1976年4月時点の中国共産党中央の対応が「その程度」だったのですから、開かれた国際的地位を高めた1980年代の「改革開放期の中国共産党中央」が市民・学生に対して暴力を振るうことはない、と思っていたのです。

 ですが、実際は、1989年6月4日、中国共産党中央から出動を命じられた人民解放軍は、戦車等を繰り出して、市民・学生に対して実弾射撃を行い、多数の死者を出したのでした。

 このような事態は、私が北京にいた1988年の時点では全く予想ができない事態でした。従って、現在(2013年8月)の時点で、多くの人が、中国で再び「第二次天安門事件」のようなことは起こるはずがない、と思っていたとしても、起こる可能性は否定はできないと思います。

 そこで、1980年代と現在(2013年)とを比較して、今後「第二次天安門事件」のような事態が再び起こる可能性があるかどうかについて考えてみたいと思います。

1.人々の間にある不満

1980年代:

 大学生の間では「大学卒業後の就職先は国が決めるのが原則であり、自分の就職先(人生設計)を自分で決められない」という不満があった(昨日のこのブログの記事「中国で大学生が急増した理由」参照)のは事実ですが、1980年代に入って都市部・農村部ともに経済は急速に発展しており、テレビの普及、外国製品の流入等により、人々の生活は1970年代に比べて明らかに向上しており、人々全体の間で現状に対する不満が大きく溜まっているという状況ではありませんでした。

 1988年、二重価格制度改定の試みがなされました。改革開放政策の進展により、計画経済に従って生産される製品に適用される公定価格と計画を越えて生産され市場原理に基づいて出荷される製品に適用される市場価格が存在し、地方政府幹部など多くの官僚が公定価格で購入した商品を市場価格で販売して利ざやを稼ぐという現象が多発しました。彼らは「官倒」(官製ブローカー)と呼ばれていました。多くの人々は、地方の中国共産党幹部が「官倒」行為をやって私腹を肥やしていたことに憤慨していたのは事実でした。1988年、趙紫陽総書記は、事態を改善させるため、二重価格の廃止(価格の一本化)を打ち出しました。価格を一本化すると、当然価格は高い方の市場価格に統一されることが予想されたので、将来の物価上昇が予測され、多くの人々の間に「インフレ心理」が働いて、消費が急増し、1988年のインフレ率は非常に高い値となりました。そのため、インフレに対する人々の不満が高かったのは事実です。

 ただ、共産党幹部の腐敗に対する不満やインフレに対する不満があったのは事実ですが、共産党幹部の腐敗は昔からあった「よくある話」ですし、インフレはあったけれども人々の生活の向上も実感できていたのも事実なので、1988年の時点では、都市部であっても農村部であっても「現在の体制をひっくり返すべし」と思うほどの不満が溜まっていたとは思えません。(むしろ中国の発展振りを横目で見ていた旧ソ連や東ヨーロッパの市民が自国の体制に不満を抱いており、それが1989年~91年のソ連・東欧革命につながった、と見るべきだと思います)。

 私は1988年に広西チュワン自治区へ行った時の経験をもとにひとつのエッセイを書きましたが、当時の私の感覚では、農村部でも現在の体制に対する不満が高いとは思えませんでした。

(参考URL)私のホームページの中の「北京よもやま話」
「夏の農村で」(1988年7月14日)
http://homepage3.nifty.com/itaru_watanabe/beijing/natunono.html

 むしろ文化大革命までの「人民公社」の中で生産意欲のわかなかった農民は1978年以降の改革開放政策によりその生産意欲を刺激されて実際に農村生産は向上していたので、私は感覚的には1988年の時点で自由選挙をやれば農村部では中国共産党が圧勝するだろうと思っていました。一方、都市部では、自由な経済活動にはいろいろ制限があった(例えば、起業が認められていたサービス業でも、従業員数が一定規模の「大企業」は認められていなかった、など)ので、都市部では中国共産党の政策に不満を持つ人々も少なくないだろうと思っていました。

2013年:

 中国共産党幹部の腐敗に対する人々の不満は、明らかに1980年代より強烈に強まっています。一部の共産党幹部が私腹を肥やしたり、子女を外国に留学させたりしているからです。家族や財産の全てを外国に移して自分だけ中国国内に残って「私腹肥やし」に精を出している中国共産党幹部を「裸官」と呼びます。1980年代は、腐敗した中国共産党幹部すらまだ貧しかったので、人々の不満は「羨望」に近かったと思いますが、今は、実際に中国共産党幹部が「大富豪」になってしまったので、今の人々の腐敗した共産党幹部に対して抱く不満は「憎しみ」に近いと思います。

 1990年代以降の経済発展に伴い、多くの農民が都市部に出稼ぎに出ました。これが「農民工」ですが、今、都市部で働いている若い「農民工」は1990年代以降の生まれのいわゆる「九○后」です。彼らは農村戸籍であるが故に「農民工」と呼ばれますが、出稼ぎに出ていた両親の間に都市で生まれた者も多く、農業をやったことのない人も多数います。彼らは同じ都市に住んでいるのに「農村戸籍」であるが故に「都市戸籍(非農村戸籍)」の都市住民と同じ教育・医療等の行政サービスを受けられず、就職先の選定にも実質的に差別があるので、現在の状況に多くの不満を持っています。

 農村に残っているのは、多くは高齢者ですが、都市部が急速な経済発展を続けているにも係わらず、農村部の暮らしの発展スピードが遅いことについて、現状に対して不満が多いと思います。特に経済発展に伴って、地方都市の共産党関連の庁舎が立派になり、工場のない地域の農村部にまで立派な高速道路ができたりするのを見ると、その恩恵にあずかれない農民の不満は大きいと思います。

 都市部では、定職に就いている人たちと職にあぶれて工事現場等を転々としている人々との間で格差が開いています。また、大学生の数が急速に増えすぎたため、北京大学や清華大学など有名大学の卒業生はすぐに就職できるのに対し、有名ではない大学については、北京には来たけれども就職できない大学卒業生(俗に「蟻族)と呼ばれる)が大量に存在します。彼らが現状に大きな不満を持っていることは想像に難くありません。

 ただ、2013年において多くの人々が持っている「不満」は、その矛先がひとつではなく、実現したいと思っている期待も様々です。従って、これらの人々が持っている不満のエネルギーがひとつにまとまる可能性はあまりありません。たまたま、例えば「反日」のように、不満を持っている人々が共通に持てるテーマが現れると、大きな運動が起きる可能性がありますが、「ひとつにまとめるテーマ」がない現状では、これらの人々が持っている不満が社会的に表面化する可能性はあまり大きくないと思います。

 また、1980年代において社会変動のリーダー的存在だった北京大学などの有名大学の大学生が今では「現状維持派」であることの意味は大きいと思います。有名大学の大学生が持つベクトルは「個々の問題点は解決すべきだが、大筋としては現在の体制は維持されるべきだ」というものだろうと想像されます。これは中国共産党中央と同じです。従って、有名大学の学生が今後の政治変動の先導役となることはないでしょう。この点が1980年代の政治変動とは大きく異なる現状です。

2.国際情勢

1980年代:

 1986年2月にマルコス政権を打倒したフィリンピン革命や1988年の韓国における初の選挙による大統領選出、1988年に台湾の総統に就任した李登輝による民主化への模索など、アジア各国では、独裁政治から民主化への動きが相次いでいました。ソ連共産党のゴルバチョフ書記長によるソ連共産党自身の改革や東欧諸国への締め付けの緩和など、改革の流れが当時の世界の潮流でした。ゴルバチョフ書記長の訪中が予定されていた(1989年5月)ことが「第二次天安門事件」の運動の切っ掛けのひとつであったことはよく知られているところです。

2013年:

 多くの国々では、人々の二分化が起きています。以前の、中間層の人数が多くて富裕層や貧困層が少ない、という釣り鐘型の構造から、現在は、比較的裕福な層と生活が苦しい層の二つの層への分化(ふたこぶラクダ化)が多くの国々で進んでいます。多数決で選ばれる民主主義では、やや人数の多い「生活が苦しい層」の支持を集めた政権ができる確率が高いのですが、そういった政権は富裕層への税負担を求める上、経済に対して政府による関与を強める社会主義的要素の強い政策を打ち出すので、自由な経済活動と「小さな政府」を求める「上部中間層」の人々の反発を買います。

 以前は、「少数の支配者層と多数の被支配者層」が対立して政治変動が起きる、というパターンだったのですが、現在は、「大衆」自体が「ふたこぶラクダ」的に分離してしまっているのです。二つの勢力ともに「多数」なので、多数決で決める民主主義では「決められない政治」になってしまいがちです。トルコ、エジプト、ブラジルにおいて、民主的な選挙で選ばれた政権であるにも係わらず、「大衆によるデモ」が起きて政治的混乱が生じてしまうのもこうした理由によるものと思われます。

3.今後の中国における政治変動の機軸

 中国においても、多数の「中国人民」が、ともに多数派である二つの勢力、即ち、既に定職を持っている一定の収入を得ている人々のグループ(多くは都市戸籍を持っている人々)と定職を持たない低所得層の人々(多くは農村戸籍を持つ人々)に別れています。今、中国は経済が減速している一方、李克強総理は改革を進めるために大規模な景気刺激策は打たない方針ですが、経済が減速し大量に失業が発生した場合に、真っ先に被害を受けるのは「定職を持たない低所得層の人々」のグループです。一方、「定職を持っているグループ」の人々は、バブルが崩壊して中国経済全体がハードランディングするのを恐れますから、李克強総理の改革路線には賛成するはずです。一方、共産党地方幹部や国有企業の幹部などは改革に対する「抵抗勢力」ですから、現在の中国においては、以下の三つのグループの対立が政治における機軸になると思います。

A:都市部において定職を持つ一定の収入のある人々のグループ

○李克強総理が進める改革路線に賛成(大型の景気刺激策はバブルをはじけさせる可能性があるので反対)=現在の中国共産党中央の路線に賛成。

○就職先の心配をあまりする必要のない有名大学(北京大学等)の学生はこのグループに含まれる。

○多くは都市部に住む都市戸籍を持つ者なので二重戸籍制度の廃止には反対(農村戸籍保持者が都市に流入すると都市部の行政サービスが低下するため)。

○理財商品の購入者の多くはこのグループ(従って、理財商品の換金不能化(デフォルト)が多発すると、このグループの人々が「反李克強派」に転ずる危険性を常にはらんでいる)。

B:都市部において定職を持たない低所得の人々及び農村部に住む人々のグループ

○李克強総理が進める改革路線に反対(大型の景気刺激策を打たないと経済が失速し、失業が発生するおそれがあるため)=下記のCに掲げる地方共産党幹部や国有企業幹部と結び付きやすい。

○就職先が決まらない可能性が高い有名ではない多くの大学の学生はこのグループに含まれる。

○多くは農村戸籍を持つ者なので二重戸籍制度の廃止には賛成。

○理財商品を買うだけの資金はないので理財商品のデフォルトが起きても全く気にしない。

C:地方の中国共産党幹部、国有企業の幹部など既得権益を享受しているグループ

○李克強総理が進める改革路線は自分たちの既得権益を疎外するので反対=Bに掲げる低所得者層のグループと結びつきやすい。

○地方の人々が都市部に行ってしまっては困るので基本的に二重戸籍制度の廃止には反対。

○理財商品を購入している人が多いので、理財商品の換金不能化(デフォルト)が起こると一気に「反李克強」の動きを始める可能性がある=この点において理財商品を持っているグループAの人々と結び付く可能性もある。

○「裸官」の人々(既に家族や財産を外国に置いている者)は、政治的に不利になった場合、外国に逃亡する可能性がある(「裸官」が外国に逃亡し始めると、グループBの人々との共同歩調は崩壊する)

 上記のうち、基本的には「Aグループ(中国共産党中央)」対「BグループとCグループの連合体(中国共産党地方組織)」という構図になります。1989年の「第二次天安門事件」でひとつの精神的柱となった「政治的民主化を求める知識人グループ」は、上記のA、B、Cのいずれのグループとも主張が異なるので、知識人グループが今後の政治変動の中心になり得る可能性は小さいと思います。

 つまり、「中国共産党の内部で分裂し」かつ「多数の人民の中で分裂が起き」かつ「知識人グループが『らち外』に置かれる」という構図です。従って、結論から言うと、現在は1980年代に比べて圧倒的に人々が持っている不満のエネルギーは高いのですが、向かうべき方向がグループごとにバラバラであるため、かえって1980年代に比べて大きな政治運動が起きる可能性は少ない、と言えると思います。

 もうひとつ考えるべきキーワードは、やはり「ネットワークの存在」でしょう。1980年代にはネットはありませんでしたから。上記のような複雑なグループの間で、もし仮にネットワーク上である種の「意志の統合」が起これば、リアルの世界でも政治的変動の原動力となる可能性はあります。

 いずれにせよ、1988年1月に私が考えた「デモは起きるけれども流血の事態にはいたらない」という予想は実際には1989年に完全に裏切られてしまったわけですから、私が今ここで何を予想しても、たぶん、それは当たらないのでしょう。やはり「中国では何が起こるかわからない」という前提で、リスク・マネジメントをするしかないのだと思います。

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