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2010年12月26日 (日)

改めて「『氷点』停刊の舞台裏」を読む

 最近、「『氷点』停刊の舞台裏」(李大同著。三潴正道監訳、而立会訳;日本僑報社)を読みました。この本は、日中対訳本で、「氷点週刊」停刊事件が起きた2006年の6月に出版された本ですが、中国国内(大陸部)では「発禁本」なので、私は北京駐在をしていた期間中は、読みたいとは思っていましたが読むのは控えていました。中国国内でこういう本を持ち歩いているのが見つかったらあまりよろしくない、と思ったからです。

 「『氷点週刊』停刊事件」(2006年1月)については、このブログの中にある「中国現代史概説」に第4章第2部第7節として、ひとつの節を起こして書きましたのでご覧ください(このページの左側に「中国現代史概説の目次」があります)。

(参考URL)「中国現代史概説」第4章第2部第7節「『氷点週刊』停刊事件」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-0bd3.html

 この本では、中山大学の袁偉時教授による「現代化と歴史教科書」という論文を掲載されたことにより、中国青年報の中の週刊特集である「氷点週刊」が停刊となり、編集長を解任された李大同氏が、この停刊と自らの解任について、法律や中国共産党規約に違反し、中国公民の「言論の自由」を保障している中華人民共和国憲法に違反している、と指摘しています。李大同氏は、この本の中で、そうした自分の主張を掲げるとともに、この停刊事件によって李大同氏のもとに送られてきた多くの激励の手紙やメール(人民日報などにいた言論界の元幹部からのものも含む)を紹介しています。おそらく李大同氏は、自分の考えを主張したかったのと同時に、こうした数多くの人々の激励文を「歴史の証言」として記録して後世に伝える義務が自分にはある、と感じて、この本を出版したものと思われます。

 「『氷点』停刊の舞台裏」は、2006年1月に起きた停刊事件の前後の状況をまとめて、2006年6月に日本において急きょ出版されたものです。日本において出版されたとはいいながら、「日中対訳」になっており、当局からの指示文書や多くの人々からの激励文などは全て中国語の原文が掲載されており、李大同氏がこの主の本を大陸で出版できない状況の中で、貴重な「歴史の記録」として、中国の人々自身に読んで欲しいと思ってこの本を出版したことは明らかです。重要な点は、国外での出版とは言え、こういった本が現実に出版することが可能だった点です。

 そもそも「氷点週刊」停刊事件が起きた際、李大同氏は、メールで国内外の関係者に状況を報告し、外国の報道陣からの質問に対してもメールで返事を出しています。李大同氏が書いていたブログはすぐに当局によって閉鎖されてしまいましたが、これだけネットが発達している現代においては、自分の意見をネットによって外部に伝える方法はいくらでもあるため、当局もすれらを全て封鎖することはできなかったのです。

 また、李大同氏がこの本で「最高指導者」の指示により、袁偉時教授の論文に反論する論文を掲載することを条件に、「氷点週刊」が2006年3月1日を持って復刊することが決定したことを紹介しています。「最高指導者」とは、前後の文脈からすれば胡錦濤総書記・国家主席であることは明らかです(胡錦濤氏は、「氷点週刊」を掲載している「中国青年報」の発行母体である中国共産党青年団の出身)。李大同氏が、外国での出版、という形であったにせよ、このような形で「ことの顛末(てんまつ)」の詳細を本として出版できたのは、中国共産党指導部の中にも李大同氏を支持する勢力がかなりの強さで存在していることを意味していると思われます。

 このブログの前回の発言(2010年12月19日付け)で、劉暁波氏のノーベル平和賞受賞を圧殺しようとしている中国共産党指導部のやり方を批判すると思われるような「南方都市報」の「空椅子と鶴の写真」の話を書きました。従前だったら、こうした中国共産党の方針にあからさまに反発していることがミエミエの記事を掲載した場合、編集長の解任や当該新聞停刊の措置が執られるのですが、「南方都市報」に関しては、現在のところ「おとがめなし」のようです。おそらくは、中国指導部の中にも、人々の反発の高まりを考えると、新聞メディアを力で抑え付けるのは得策ではなく、一定の報道の自由は認めるべきだ、という考えを持った人々がおり、例えば「南方都市報」を停刊にしたり編集長を解任したりすれば、そうした「報道の自由擁護派」の人々の支持の下、「『氷点週刊』停刊の舞台裏」のように停刊や解任を強要する中国共産党宣伝部の動きの詳細について、世界に発表されてしまう、という懸念が中国共産党内部にもあるものと推測されます。

 最近、中国の動きを見ていると、「強硬な面」と「柔軟な面」の両方があり、その間を揺れ動いているように見えます。「強硬な面」は、尖閣諸島問題における日本に対する態度や劉暁波氏のノーベル平和賞受賞に対する国際社会への態度の中に見えます。12月18日に起きた韓国の排他的経済水域における中国漁船による韓国海洋警備船への衝突事件において、中国が韓国に損害賠償を請求した件などは、中国の「強硬な面」を端的に表した事件でした。一方、北朝鮮の韓国ヨンピョン島への砲撃事件(11月23日)に対する中国の外交努力は、国際社会の中で中国としても最大限の努力をしていることを見せたい、という「柔軟な面」を示していると思います。これらの動きは、中国国内における「強硬派」(国際的には自国の権益を主張し、国内においては報道の自由を強権を持って抑圧しようと考えている勢力)と「柔軟派」(国際社会の中での調和を重視し、国内においては人民の不満は鬱(うっ)積させないように新聞報道にある程度の自由度を与えるべきと考えている勢力)が拮抗している証拠であると思われます。

 こういった二つの勢力の拮抗は、個別具体的な政策の実施の中にも影響を与えます。

 報道によれば、12月23日、北京市当局は、増え続ける北京市内の自動車台数を制限するため、ナンバープレートの提供を抽選制によって3分の1に制限するという政策を発表しました。この政策は翌24日から実施され、23日中に購入した車には適用されない、とのことだったので、23日の夜、北京市内の自動車販売店には「駆け込み購入」を求める市民が殺到したとのことです。中国では、人々の権利や義務に密接に関連する政策も議会(全人代)ではなく行政府(国務院や地方政府)に委任されています。そのため、人々の生活を直接縛る政策が突然発表され、準備する間もなくすぐに実行されてしまう、ということがよくあります。

 普通の民主主義の国では、国民の権利や義務に関する規定は、議会が決める法律や条例によって決められる(行政府は勝手に決められない)ので、議会での議論がなされている期間中は、多くの人々はその政策に対する準備をすることができます。多くの人々がその議論されている政策に反対しているならば、報道機関がそれを論評して、政策を批判します。議会の議員は、次の選挙で落選しては困るので、人々が反対しているような政策には賛成しません。

 民主主義におけるこういった政策決定プロセスは、時として時間が掛かり、「まどろっこしい」のですが、こういった民主的な議論のプロセスは、その政策の影響を受ける人々が政策を受け入れるための「納得のプロセス」であり、議会で多数決で決まった政策については、人々は「議論して決まった結論ならば従わざるを得ない」と「納得する」のです。ところが、中国では、こういった「納得のプロセス」なしで政策決定が行われるので、迅速な政策決定ができる反面、大きな影響を受ける人々の側はその政策について全く納得しておらず、そういった政策を強行することに対する不満を鬱積させる結果となります。多くの人々が決まった政策に納得してないので、表面上は決まった政策に従ったフリをしているが実際はウラで抜け道を使って政策を守らない、という事態が発生してしまうのです。

 中国経済は、輸出依存から国内市場依存へと転換しつつあります。国内市場依存が強まると、国内市場の消費者、即ち、中国の一般人民の動向が中国経済の行方を左右することになります。そういった経済状況になれば、中国の経済施策は中国の一般人民の意向を無視して決めることはできなくなります。つまり、経済の国内市場依存度の高まりは、政治プロセスにおける民意の反映、即ち、政治の民主化が必然的に求められることになります。

 現在、中国指導部の中にある「強硬派」と「柔軟派」の勢力争いは、経済面における国内市場依存傾向の高まりの中で、次第に「柔軟派」が力を持たざるを得ないことになるでしょう。多くの人民の意向を無視した経済政策は、国内市場において経済政策として成功しないからです。「強硬派」のバックには軍がいますが、来年(2011年)は「強硬派」と「柔軟派」の勢力争いが、平和的な形で決着がつく方向へ向かうことを願いたいと思います。

以上

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