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2010年5月13日 (木)

4-2-10:少数民族政策破綻の危機

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第10節:少数民族政策破綻の危機

 少数民族政策は、中国にとって最重要課題のひとつである。民族間対立の問題は、中国に限らず、それを抱える国にとって非常に困難な問題であり続けている。大多数の民族単位を中心としてひとつの国を形成している日本、韓国・朝鮮、モンゴル、ベトナムとは異なり、中国には多民族国家としての悩みがある。旧ソ連は、ソ連共産党による「縛り」がなくなった後、民族単位で分裂した。民族が居住する地域ごとに国を分離独立させたからといって民族問題が解決するわけではないことは、旧ソ連諸国や旧ユーゴスラビア諸国の現状が端的に物語っている。

 中国は、古代から人口の大多数を占める漢族とその他の少数民族との間の抗争、対立、協調、融合、場合によっては支配と被支配との関係を繰り返してきた。逆にいうと、こういった複雑な民族間の関係があってこその「中国」なのであって、こういった各民族間の関係がなくなってしまったら、それは既に「中国」とは言えない社会になってしまう。漢族とその他の少数民族との関係は、中国にとって永遠のテーマであり、これら漢族を中心とした複数の民族との集合体が中国を中国たらしめている根本状態なのである。従って、中国共産党は中華人民共和国成立前から、漢民族と少数民族との融和を最重要課題のひとつとして取り上げてきた。その姿勢は、今も変わっていない。

 中国共産党は、「民族間の融和」を最重要課題に掲げてはきたが、「中華人民共和国建国期」「大躍進時代」「文化大革命時代」においては、共産主義の理想と古い習慣の打破をそれよりも重要な旗印として掲げてきた。従って、時として共産主義のシステムを導入するに当たって、各民族が伝統的に守ってきた宗教的なしきたりや社会システムを破壊することもあった。しかし、改革開放が始まると、文化大革命時代の教条主義的な政策に対する反省に基づき、アメリカや日本、西欧諸国などの資本主義諸国との協調関係を重要視するようになるにつれて、「異なった価値観を尊重した上で相手と協調する」ことが強調されるようになった。それに伴って、少数民族が持つ伝統的なシステムについても、強圧的に変更を迫るのではなく、それぞれの価値観を尊重しつつ、封建的で近代的な人権思想に反するようなものは徐々に変えていく、というふうにやり方を変えていった。

 しかし、1990年代以降、改革開放政策が進展し、経済発展が進むと、少数民族の漢族との対立は融和するのではなく、むしろ先鋭化する方向へ向かってしまった。改革開放経済政策下の経済発展は、「豊な者」と「豊かになり損ねた者」との経済格差を拡大したが、多くの場合、「豊かな者」とは漢族であり、「豊かになり損ねた者」は少数民族だったからである。 

 漢族には、もともとビジネスに才能を発揮するタイプの人が多く、東南アジア諸国など、多くの中華系民族が住む中国以外の国でも、漢族がその国の経済を牛耳っているケースが多い。民族や宗教によっては、ビジネスで活躍するよりも民族の伝統を守ったり宗教的精神生活に重きを置くことを重要視する人々がいる。そういった人々とビジネス好きの漢族とが自由競争をすれば、漢族が経済的に優位に立つことになるのは、容易に想像できるところである。それは経済発展のための「能力」の問題ではなく、「意志」や「価値観」の問題である。

 1990年代以降の改革開放政策は、政治については思考停止状態に陥ったこともあり、「経済成長第一主義」に変質した。「経済成長第一主義」は、ビジネスで成功することを求めない生き方や価値観を無視する政策でもあった。

 私は、1980年代の中国には、改革開放政策の中でも、ビジネスで成功すること以外の価値観も認められるべきだ、という考え方が残っていた、という印象を持っている。

 1986年11月、私は、仕事の関係で雲南省のビルマ国境に近い騰冲(日本語読みで「トウチュウ」)というところへ行ったことがある。当時、この周辺は、外国人の立ち入りが禁止されていた「非開放区」だった。中国側からは仕事上必要な写真以外は、周辺の風景や街の様子などを写真に撮らないように、と注意を受けていた。

 騰冲は、雲南省の省都・昆明からプロペラ機で約1時間の保山というところへ行き、そこから車(ランド・クルーザー)で6時間くらい掛けて3,000メートル超級の峠を三つ越えてやっと到着する奥地である。そのあたりには、漢族のほか、ミャオ族、タイ族、イ族などの少数民族が多数住んでいる地域だった。

 案内してくれた中国側の人たちは「あまりに貧しい地区なので外国人の人たちに見せるのは恥ずかしい」と言っていた。実際、靴を履いていない裸足のこどもたちもたくさんいたし、夜になると家には裸電球が1個だけ、という家がほとんだった。峠を越える道路にはトンネルがひとつもなく、全て山の上を越えるものだったが、舗装はされていなかった。延々と続く道路は、近くの村人が石を割って引き詰めた砂利道だったのである。

 近代化された沿岸部の中国に比べれば確かに「貧しい」と言えたが、農地では作物が青々と茂り、農作業をしている牛はまるまると太っていた。行ったのがちょうど11月だったので、農作業が一段落した時期であり、農民たちは近くの温泉に遊びに行っていた。「温泉」といっても、地中からわき出る温泉水をパイプでバスタブに入れるだけの施設だが、それでも農民たちは「1年に一度の楽しみ」という感じで、温泉を楽しんでいた。これだけの奥地に、こういった一定程度の「豊かさ」をもたらした、という点で、「中国共産党は偉大だ」ということは誤りではない、とその時私は本気で思った。

 街には「少数民族用品専用デパート」が建っており、各民族が身につける様々な民族衣装や小道具が売られていた。車の中から見た畑で働くタイ族の農民は、未婚の女性は華やかな色の腰巻きを、既婚の女性は黒い腰巻きをして作業をしていた。それは、タイ族の習慣なのだそうだ。タイ族の村のお寺に案内されたが、タイ国のお寺と同じように「高床式」のお寺で、靴を脱いで中に入るようになっていた(日本の高床式住居や靴を脱ぐ習慣は、稲作とともにタイ地方から伝来したと言われている)。案内してくれた中国側の人は、「文革時代にはこういったお寺も破壊されたのですが、改革開放後、政府の政策によって再建されました。村の人たちはお参りにきていますよ。」と説明していた。

 私が見た雲南省のこのあたりは外国人非開放区なので、外国人観光客に見せるためにこうしたことをやっているわけではなかった。その時の私は「中国政府は少数民族対策に相当に気を使っているなぁ」という印象を強く受けた。「非開放地区なので写真を撮るな」と言われたので、写真は撮らなかったが、これだけ少数民族を支援する政策を採っている、ということを中国政府は対外的にもっと宣伝してもいいのに、とその時私は思った。

 そういった中国政府の姿勢(基本的考え方)は、たぶん今でも変わっていないはずである。

 少数民族政策について、2007年4月からの二回目の北京駐在の最中に印象に残ったのは寧夏回族自治区へ行った時のことである。しかし、2008年に寧夏回族自治区へ行った時の印象は、1986年に雲南省の少数民族地域へ行った時との印象とはだいぶ異なるものだった。

 寧夏回族自治区は、乾燥した農耕に適さない黄土高原が続く地域であり、中国でも最も貧しい地域と言われている。ここは、草の根まで食べ尽くしてしまう羊の放牧によって、かつての草原が砂漠化し、山の上まで森林を伐採して耕地にしてしまったために、表土の流出が問題になっている地域である。住民の生活を守り、国土の荒廃を防ぐために、政府は羊の放牧を禁止し、遊牧民は定住させて畜舎で羊を飼うようにさせ、「退耕還林」と言って、山の上の方に開墾された耕地では耕作をやめて植林し、森林を再生させようというプロジェクトを展開していた。乾燥地帯で農業ができない山間地区の村については、黄河の水を人工的に汲み上げて乾燥した土地を灌漑し、人工的に灌漑された地区に村ごと移住させるという「生態移民」の政策も採られていた。一方で、農牧業では支えきれなくなった産業構造を転換させるため、石炭探鉱の開発や石炭を使った化学工業の開発も進められていた。

(参考URL)サイエンス・ポータル・チャイナ
「JST北京事務所快報」(File No.008-08)
「寧夏回族自治区の『退耕還林』プロジェクト」(2008年9月18日)
http://www.spc.jst.go.jp/experiences/kaihou/b080918.html

※この記事の筆者はこの「中国現代史概説」を書いている私である。

 こういったは寧夏回族自治区における政策は、「貧しい人々の生活を経済開発で救う」という意味では、決して間違った政策ではないと思われる。ただ、それまで遊牧によって生活していた人々に遊牧をやめさせて定住させ、住み慣れた村を離れて遠くの灌漑設備の整った地域へ村ごと移住させる、といったことは、その人たちが伝統的に守ってきた暮らしや民族としてのアイデンティティを破壊することになる。貧しい生活から人々を脱却させる、という意味で、目的や目指すべき方向は、たぶん間違ってはないのだろうと思われるが、そういった政策の対象となる人々に対する「納得のプロセス」は果たして行われたのだろうか、と私は疑問に思った。

 中華人民共和国建国時と1959年の「大躍進」の時期に起きたチベットでの騒乱は、「中国共産党の理想」を「押しつけた」ことが原因だ、と私は思っている。1959年の人民解放軍のチベットへの進出については、「チベット仏教僧らの支配層が人民を支配していたという封建的体制を改革したのだ」と中国政府は説明しているが、たぶんそれは間違ってはいないのであろう。ただ、実施された政策が仮に「正しい理想」に基づくものだったとしても、人々との間での「納得のプロセス」なく押しつけられた「正しい理想」は、人々の反発を招くだけである。

 少数民族地域で進められる大々的な経済開発プロジェクトは、辺境地域の経済発展のために行われているのであり、その地域に住む人々のためを思って行われている、というのはウソではない。しかし、「納得のプロセス」なしに進められるそういった経済開発は、下手をすると地元に人にとっては単なる「経済侵略」と受け取られかねない。しかも、多くの経済開発の主体は漢族が経営する企業等により行われるため、地元の少数民族の人々に「漢族に経済的に侵略された」という印象を与え、経済開発政策が民族間対立を先鋭化させるおそれがある。

 中国では「少数民族は一人っ子政策の対象とはしない」「大学入試統一試験に際しては少数民族の受験者に対しては一定の枠を与える(あるいは点数に「ゲタを履かせる」)」といった少数民族優遇政策が採られている。これらの政策に対しては、逆に漢族の人たちには「逆差別だ」として反発がある。多くの漢族の人たちは「少数民族地域に大規模な経済開発投資を行って、実際に辺境地域の経済レベルは急速にアップしている。その上、少数民族に対する各種優遇政策を採っているのに、暴動を起こすなんてけしからん」という気持ちが強いと思われる。しかし、その考え方の背景には「経済が発展すれば他の価値観は考慮する必要はない」という「カネ儲け至上主義」がある。「民族のアイデンティティや伝統的な生活を大事にしたい、という価値観も大事にすべきだ」という発想が欠けているのである。

 1980年代は「文化大革命に対する反省」が政策の根底にあった。「文化大革命に対する反省」には「異なる価値観の存在を認める」ということでもあった。しかし、1989年の「第二次天安門事件」は、「異なる価値観の存在を認める」という寛容性をも圧殺してしまったのである。その結果、金儲けをすることが誰もが求める目的であるという価値観以外の価値観を認めない、という風潮が広まってしまった。

 多数決で物事を決める民主主義は、少数民族問題の解決には、必ずしも有効ではない。多数決だけで政策を決めてしまったら、多数派民族の考え方だけが取り上げられ、少数民族の人々の意見は無視されがちだからである。本来ならば、中国共産党は、「中国は少数民族の権益を守ることによって成立している。多数決に基づく西欧型民主主義の導入は、漢族優遇政策を招き、少数民族の権益を損ねる。だから中国では西欧型民主主義を導入するのはなじまない。」といった主張もできるはずなのであるが、そういった主張はあまり見掛けない。そのことは中国共産党自身が、現在の少数民族政策について、「少数民族の権益を守っているとは言えない」と自覚しているからなのかもしれない。

 改革開放から30年が経過し、沿岸部では急速な経済発展が進み、中国経済が世界経済を引っ張ると言われる状況にすらなった。しかし、少数民族政策については、北京オリンピックを前にした2008年3月に起こった争乱に見られるようなチベットにおける争乱は、一向に治まる気配はない。それどころか、それまであまり表立った大規模な争乱はなかった新疆ウィグル地区でも、2009年7月5日、ウルムチで数百人規模の死者を出す大規模な暴動が起こった。改革開放政策は、中国全体の急速な経済成長については成功したが、少数民族政策については、むしろ失敗したと言わざるをえない。

 西欧型民主主義が多数決原理に基づくものでありながら、少数民族政策において時として有効に機能するのは、西欧型民主主義が「異なる価値観を認める」ことに立脚しており、政策決定の過程に一般大衆による「納得のプロセス」を内包しているからである。

 もし、少数民族政策に失敗するのであれば、それは、中国共産党による政治運営が西欧型民主主義より優れている、という根拠が完全に失われることを意味する。中国共産党自身、そのことはよく自覚している。そのことは2010年4月14日に発生した少数民族地域の青海省で大きな地震が発生した際、胡錦濤主席が外国訪問を切り上げて帰国して対応に当たるなど、最大限の努力で救援・復旧作業に当たったことでもわかる。

 今後の中国において、少数民族政策がうまく行くかどうかは、沿岸部を中心とする「経済発展で豊かになった部分」を少数民族などの「豊かになり損なった部分」へ均てんすることができるかどうかに掛かっている。そのことは、少数民族対策だけでなく、社会全体における経済格差の是正にも繋がる部分であり、それがうまくできるかどうかが、今後の中国の安定にとって大きな鍵になるものと思われる。

以上

次回「4-2-11:経済対策バブルと『抵抗勢力』の肥大化」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-3669.html
へ続く。

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