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2010年5月10日 (月)

4-2-8:「上海閥」と第二期胡錦濤政権の課題

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第8節:「上海閥」と第二期胡錦濤政権の課題

 胡錦濤総書記は、2005年9月3日の「抗日戦争・反ファシズム戦争勝利60周年記念大会」の講話において、抗日戦争期において国民党軍が果たした役割も評価する発言を行った。これは当時進められていた民進党政権下における台湾における国民党との融和方針の一貫だと思われる(この大会は、1945年9月2日に日本が降伏文書に署名してから60周年を記念して開かれた大会)。

(参考URL)「人民日報」ホームページ2005年9月3日17:32アップ記事
「胡錦濤総書記の抗日戦争勝利60周年記念大会での講話」
http://politics.people.com.cn/GB/1024/3665666.html

 「『中国問題』の内幕」(参考資料20)の中で著者の清水美和氏は、「これに対し公然と異を唱えたのは、最高指導部で思想・宣伝を担当する李長春政治局常務委員であった。」と指摘している。抗日戦争中の国民党の働きを再評価すること(国民党も日本を追い出すのに貢献したと評価すること)は、市場経済化する現在の中国において中国共産党が政権を担当していることの正当性を「抗日戦争期において外国勢力を排除したのは中国共産党である」ことに求めるという「愛国主義」と「中国共産党への支持」を同一視する発想に立った歴史教育を掲げる江沢民氏の政権の考え方に反するからである。

 「愛国主義」と「中国共産党への支持」を同一視する発想は、現在も続いている。「人民日報」2009年4月15日付け紙面では、1面下の方に論文「愛国主義を時代の光として輝かせよう」を掲載した。この論文では「愛国主義は、国を愛し、党を愛し、社会主義による統一を愛することであり、社会主義価値体系の核心と中国の特色のある社会主義を統一することであり、民族精神と時代の精神とを統一することである。」としており、「愛国主義=中国共産党を支持すること」であると主張している。この論文は、「第二次天安門事件」の運動がスタートして20周年目に当たるこの日に「愛国主義」と「中国共産党への支持」を強調することによって、「第二次天安門事件」20周年を記念する動きは許さないぞ、という党中央の意志を示した、ということができる(一方で、1年後の2010年4月15日付け「人民日報」が温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を掲載したことは、中国指導部内部において「第二次天安門事件」を回顧する動きを圧殺しようとする力に反抗する勢力もあることを示している、とも言える)。

 上に述べたように、「愛国主義=中国共産党への支持」という発想は、江沢民政権が強く打ち出した方針であり、江沢民氏をヘッドとする「上海グループ」(「上海閥」)の旗頭的思想のひとつである。しかし、インターネットが発達し、情報化された現在の中国において、こういった「愛国主義は中国共産党への支持である」といった主張に中国の人々が付いていくことは段々困難になりつつあることは明らかであり、総体的には時間が経過するにつれ、「上海閥」の根幹にあるこの考え方に対する支持は徐々に弱まりつつあると考えられている。

 「上海閥」にとって最も大きな打撃だったのは、2006年9月24日、「上海閥」のトップグループの一人と考えられていた上海市党書記の陳良宇氏が私営企業に対する不正融資の疑いで突然逮捕されたことだった。党中央政治局は、翌25日、陳良宇氏の党書記解任と党政治局委員、中央委員の職務を停止することを発表した。「『中国問題』の内幕」(参考資料20)では、これを「上海政変」と呼んでいる。

 「『中国問題』の内幕」によれば、陳良宇書記の逮捕に当たったのは、上海市の公安当局ではなく、隣の江蘇省の武装警察であったという。江蘇省の党書記は胡錦濤総書記と同じ共青団出身の李源潮氏(2010年5月現在党中央組織部長)が党書記をしていたからである。上海市公安局長は呉志明氏であったが、呉志明氏は、江沢民氏の妻の王治平氏の甥であり、上海市の公安当局を使ったのでは党書記を逮捕することはできないと考えられたからだと思われる。この事件は、現在においても、中国の地方政府においては、政府・党のトップから公安関係者までが全て一族など極めて近い人々に占められており、地方政府内部での自浄作用が全く働かないことを如実に物語っている。

 政治局常務委員ナンバー6の副総理で陳良宇氏の前任の上海市党書記の黄菊氏は、2006年初めから病気を患っており療養中だった。「『中国問題』の内幕」によれば、黄菊氏もこの事件への関連を疑われたが、2007年の党大会で引退することを約束し捜査に協力することを条件に政治局常務委員の職務に留め置くことを許された、という。なお、私としては真偽について判断する材料を全く持っていないが、「『中国問題』の内幕」では「上海疑獄についての最大のターゲットは、実は黄副首相や陳書記でさえなく、江沢民の長男、江綿恒だったようだ。」と記している。江綿恒氏は、現在、中国科学院副院長を務めている。

 さらに「上海閥」にとって痛手となったのは、2007年6月2日、江沢民氏、陳良宇氏とともに「鉄の三角形」の一角をなすとも言われていた病気療養中の黄菊政治局常務委員が死去したことである。この時、私は2回目の北京駐在を始めていたが、6月2日の朝の中央電視台のテレビのニュースでは、アナウンサーが黒いネクタイを付けて黄菊氏の死去を伝えていた。黄菊氏の葬儀は6月5日に行われた。この葬儀を伝える新聞記事では、胡錦濤総書記と江沢民氏の写真が同じ大きさで掲載されていた(中国科学院副院長の江綿恒氏は、6月3日から日本訪問を予定していた。黄菊氏の死去は、江綿恒氏の日本訪問の前日だったが、江綿恒氏は予定通り日本訪問を行い、黄菊氏の葬儀には参加しなかった)。

 黄菊氏の死去により、政治局常務委員は8名となり、「江沢民氏派」と「非江沢民派」の人数は4対4で拮抗することとなった。

 2007年10月に開かれた第17回党大会に引き続いて開かれた第17期中国共産党中央委員会第1回全体会議(第17期一中全会)で、新しい政治局常務委員が決まった。新しい政治局常務委員は、胡錦濤氏、呉邦国氏、温家宝氏、賈慶林氏、李長春氏、習近平氏、李克強氏、賀国強氏、周永康氏の9名である(李長春氏、習近平氏、賀国強氏、周永康氏の4氏は新任)。

 新任の4人のうち、習近平氏は、陳良宇氏が汚職事件で解任された後を受けて2006年9月から上海市党書記を務めていた。習近平氏は、改革開放初期、経済特区を最初に提唱した習仲勲氏の息子であることから、歴代幹部二世を意味する「太子党」と呼ばれることが多い(習仲勲氏については「第3章第5部第7節:『歴史決議』~『文革は誤りだった』との正式な自己批判」参照)。

 「太子党」は、親が築いた既得権益を引き継いでいることから、保守的な既得権益グループとみなされることも多いが、日本でも与野党双方に世襲議員がいることでもわかる通り、有力者のこどもだからという理由だけで「太子党」といった派閥グループに色分けすることは妥当ではない。そもそも習近平氏の父親の習仲勲氏は改革開放政策の功労者であり、習近平氏が父親と同じ考え方を持っているのだとすれば「保守派」に分類するのは妥当ではないし、心情的には改革開放を推進した胡耀邦氏に近い可能性もある。

 また、習近平氏が、直前に上海市党書記を務めていたころから「上海閥」に色分けする場合もあるが、江沢民氏との関係の強さは必ずしも明確ではなく、私としては習近平氏を「上海閥」に分類することには抵抗がある。

 李克強氏は、遼寧省党書記から政治局常務委員に抜擢されたが、共青団出身であり、明らかな胡錦濤派であると言われている。

 賀国強氏は、中央規律検査委員会書記を兼ね、呉官正氏の後任にあたる。ただし、呉官正氏が江沢民氏とも胡錦濤氏とも等距離にある中立の立場であるとみなされていたのに対し、賀国強氏は、賈慶林氏の後任として北京市書記になり、曾慶紅氏の後任として党中央組織部長を務めて来たことから、江沢民氏に近いと見られている。賀国強氏の後任の党中央組織部長(党内人事を取りまとめる役職)には、上記に書いたように2006年9月の上海市党書記陳良宇氏の逮捕に動いたとされる江蘇省書記だった李源潮氏(共青団派で、胡錦濤総書記に近いと言われる)が就任した。

 周永康氏は、中央政法委員会書記を兼ね、羅幹氏の後任にあたる。それまでは公安部長を務めていた。羅幹氏の配下にいたので「自然な昇進」とも言えるが、前に書いたようにそもそも羅幹氏自体が「中立」というよりは江沢民氏に近いとも言われており、一応、「公安担当の中立的な立場」にいるとは言え、内実は江沢民氏に近いのではないかと言われている。

 もし仮に習近平氏を「江沢民派」に分類するとすれば、第二期胡錦濤政権における政治局常務委員の勢力分布は以下のようになる。当初、政治局常務委員は7名になるのではないか、との観測もあったが、結局は前期と同じ9名となった。曾慶紅氏を引退させる代わりとして江沢民氏の勢力によって賀国強氏と周永康氏が押し込まれた、との見方もある。

 いろいろ見方が分かれるところであるが、習近平氏、賀国強氏、周永康氏の3人も「江沢民派」だとすれば、第17期の政治局常務委員の勢力分布は以下のようになる。

江沢民派:呉邦国氏、賈慶林氏、李長春氏、習近平氏、賀国強氏、周永康氏の6人

非江沢民派:胡錦濤氏、温家宝氏、李克強氏の3人

 注目された次世代総書記候補の習近平氏と李克強氏については、習近平氏の方が序列が上になり国家副主席にも就任したことから、2007年の第17回党大会では江沢民氏の「上海閥」が勝った、という見方をする人もいる。しかし、上に述べたように私は習近平氏を「江沢民氏派」「上海閥」に分類することは単純過ぎる、と考えている。

 江沢民氏は、多くの記念碑的大建造物を次々造り、それに自分の名前を揮毫することが多かったため、多くの人々から必ずしも快く思われておらず、2010年5月時点で83歳になっている江沢民氏の政治的影響力もさすがに弱りつつあるのではないかと見る人も多い。いずれにせよ、現在進行形の中国政界の内部を現時点で思い描くことは困難である。

 ただ、江沢民氏の影響力の低下を象徴するできごとが2008年5月に相次いで起きた。

 ひとつは胡錦濤総書記の日本訪問である。胡錦濤総書記は、日本との戦略的互恵関係を強調した。早稲田大学における講演では、胡錦濤氏は「日本軍国主義は中国に重大な災難をもたらしたが、日本人民も軍国主義により被害を強いられた」「歴史は忘れてはならないが、これを怨みに思ってはならず、歴史を教科書として未来へ向かって平和を愛し平和を維持しなければならない」と強調した。前半は江沢民氏が中央政界に登場する前の1980年代までの中国の指導者が繰り返し述べてきた日本観であり、後半は1998年の訪日時に歴史問題を強調した江沢民前主席の路線を転換したことを宣言しているのに等しかった。この胡錦濤総書記の日本訪問は、少なくとも対日政策に関しては、中国は江沢民路線を捨て去った、という宣言したものだったと言える。

 胡錦濤主席が日本へ出発した日(2008年5月6日)の人民日報の1面には「胡錦濤総書記、『人民中国』の日本の読者に謝辞を述べる」という記事と全く同じ大きさで「『江沢民文選』が出版されることになった」というニュースが載っていた。こういった「人民日報」の記事の掲載の仕方は、2008年になってもなお、「人民日報」が胡錦濤総書記と江沢民氏とのパワー・バランスに配慮していることを表していると言えるが、別の見方をすれば、胡錦濤主席の日本訪問が「江沢民路線との決別」を意味することの証拠であるとも言える。「『江沢民文選』が出版されることになった」というニュースは、江沢民氏は既に過去の人になった、と読むことも可能だからである。

 もうひとつは2008年5月12日に発生した四川大地震に対する対応である。四川大地震は2008年5月12日14:28に発生したが、地震発生1時間後には、現地の様子がまだよくわからなかったにも係わらず、胡錦濤主席は温家宝総理に現地へ飛ぶように指示を出している。この後、国家指導者は、4~5日づつ交代で四川省で救援・復旧作業の指揮に当たったが、四川省入りした指導者は、順番に、温家宝総理-胡錦濤主席-李克強副総理-温家宝総理(2回目の現地入り)であり、地震後の約1か月間、中国の人々はテレビを通じて悲惨な被災地において陣頭指揮を取るこの3人の映像を毎日見ることになった。職責として国務院総理の温家宝氏と李克強副総理が現地で指揮を取るのは当然であり、別に政治的な意味合いはなかった、と言えばそれまでだが、結果的に胡錦濤主席、温家宝総理、李克強副総理の3人が中国を動かしているとの印象を中国の人々は持ったに違いない。

 被災地の四川省に入った指導者の順番は以下の通りである。

温家宝総理
胡錦濤主席
李克強氏
温家宝総理(2回目)
呉邦邦氏(5月26日~)

 なお、このほか下記の人々が四川省に隣接する地域に入っている。

周永康氏が5月15日に甘粛省に
習近平氏が5月20日にセン西省に
賀国強氏が5月21日に重慶市に

 習近平氏は、地震発生後1週間以上経ってから四川省の隣にあるセン西省に入ったので、あまり目立たなかった。宣伝担当の李長春氏は、北京で震災報道にあたる報道機関を激励したりしているが、すぐには現地へは行かなかった。賈慶林氏に至っては、地震発生時にはたまたま東ヨーロッパ訪問中であったが、地震発生後も外国訪問を続け、地震から3日たった5月15日になってようやく「予定を切り上げて」帰国している。地震発生後1時間後の時点で四川省へ飛んだ温家宝総理との対応の違いは際立っている。

 これらの指導者たちの動きは「人民のために奉仕する胡錦濤-温家宝-李克強ライン」と「緊急時には何もできない他の国家指導者たち」を印象づけるための胡錦濤主席側の作戦、と見ることもできるが、四川大地震対応で、中国の人々の間に胡錦濤主席と温家宝総理への人々の信頼が高まったことは間違いない。ネット上では「什錦宝飯」(「五目御飯」の意味だが、「飯」は「ファン」と発音することから「胡錦濤主席と温家宝総理のファン」という意味)という言葉が流行ったりした。

 これらのことを総合すると、胡錦濤総書記が温家宝氏、李克強氏ととともに「江民沢前総書記の遺産」のグループと戦っている(少なくとも多くの人々にはそう見えている)という構図が見て取れる。「江民沢前総書記の遺産」たる「上海閥」は、「三つの代表」論と高度経済成長によって成長してきた経済界の有力者と政治権力が結びついたいわば「既得権益グループ」とかなり重なっているものと思われる。この「既得権益グループ」の基盤は、末端の地方政府において政府・党が警察・公安当局や司法当局と一体化し、地元企業と癒着している姿である。これら末端地方組織にとって、地方における報道の自由や自由選挙によって政府のトップが交代させられることが最も致命的ダメージを受けることから、これら末端地方組織が報道の自由や政治改革、司法改革の最も大きな抵抗勢力になっているものと思われる。

 一方、2008年8月に開催された北京オリンピックの開会式・閉会式では、江沢民氏は、役職的には無職であるにもかかわらず、胡錦濤主席と政治局常務委員ナンバー2で全人代常務委員会委員長の呉国邦氏との間の席次に座っていたし、2009年10月1日の中華人民共和国成立60周年を記念する国慶節の式典では、江沢民氏は胡錦濤氏と並んでカメラに写されていた。これらのできごとは、江沢民氏とそのグループが現在でも中国指導部内で大きな勢力を持っており、胡錦濤主席が権力の全てを統括できていないことを内外に示している。

 胡錦濤総書記は、政権を担当してから既に8年半以上が経過しているが、政治体制改革等については、まだ前進と言える具体的な成果を出していない。胡錦濤政権は、任期はあと2年あまりしかなく、任期中に具体的な政治体制改革の方向性が打ち出せるのはおそらく難しいだろう。現在の中国は、2008年秋に始まった世界的経済危機の中で、景気底支えのため、強力な財政出動を行って政界経済を引っ張っているのが現状であるが、政治権力による強力な財政出動は、政治権力と経済界との癒着を助長させる。政治権力と経済活動による癒着を防ぎ、人民の支持をつなぎ止めていくことができるか、が胡錦濤政権の課題である。

 そのためには、胡錦濤主席は、将来へ向けての政策ビジョンを示す必要がある。胡錦濤主席は「科学的発展観」というスローガンを掲げているが、それが何を目指し、具体的にどういった政策を採ろうとしているのかは必ずしも明確ではない。それを中国人民に明確にアピールできるかどうかが、今後の中国の動きを左右する大きな鍵になるだろうと思われる。

 2010年4月15日付けの人民日報に胡耀邦氏を偲ぶ温家宝総理の文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」が掲載された。また、2010年4月30日夜に行われた上海万博の開幕式に江沢民氏、呉邦国氏、賈慶林氏は出席しなかった(温家宝総理も出席しなかった)。これらのことが現在の中国指導部内部の勢力分布に変化があったことを表しているのかどうかは、現時点では、まだわからない。

以上

次回「4-2-9(1/2):インターネット規制と『08憲章』(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-1908.html
へ続く。

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