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2010年5月15日 (土)

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(1/3)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(1/3)

 そもそも中国において革命が起きた時、多くの人々が考えた最終目標とは次の事柄であったろう。

(1)封建的な束縛から脱して、近代的な国家を築くこと。

(2)中国が外国による支配から脱して、自らの将来を自ら決めることができるようになること。

(3)多くの人々が貧しさを脱して一定の生活レベルを送れるような経済水準に達すること。

 抗日戦争と国共内戦を経て、中華人民共和国が成立したことにより、(1)と(2)については一応の目的を達することができた。中華人民共和国成立後の大きな課題は、経済建設を進め、貧しさから脱することであった。また、(2)についても、単に「外国から干渉を受けない」ことに留まらず、国際社会において、その人口比率に見合った国際的発言力を持つことも中国の課題として残された。

 1950年代における社会主義の建設やその後の「文化大革命」の経験により、毛沢東が理想とした平等主義社会においては、巨大な人口を抱える中国の経済を発展させ、人々の生活を豊かにすることには限界があることが明らかとなった。世界経済の中では、一定の経済力を持たない限り、国際政治の中で大きな発言権を持つことも難しい。そのため、トウ小平氏は、「文化大革命」を否定し、自らの従来からの信念、即ち「白い猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫をよい猫だ」という考え方に基づき、一定の自由な経済活動を認めることにより人々の意欲を引き出し、それによって強力な経済発展を図ろうとする改革開放政策を発動した。社会主義的であろうと、資本主義的であろうと、経済活動を活発にし、人々を豊かにする政策がよい政策なのだ、というトウ小平氏独特の現実的な考え方である。

 トウ小平氏は、経済発展を強力に推進するためには、中国国内における政治的安定が最も重要である、と考えていた。トウ小平氏は「文化大革命」期の政治的混乱が経済発展の足かせとなったことを痛いほど知っていたからである。従って、トウ小平氏は、経済の面では大胆な自由化を進める一方で、政治面では「四つの基本原則」を堅持することを強く求めた。「四つの基本原則」とは、「社会主義の道」「プロレタリア独裁」「中国共産党による指導」「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」の四つである。

 このうち「プロレタリア独裁」は1992年頃から「人民民主主義独裁」と呼ばれるようになった。「社会主義の道」と「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」は、基本的には同じものである。トウ小平氏は、株式市場の開設など、「社会主義の道」や「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」に合致しないような政策も大胆に導入した。要は「四つの基本原則」とは言っているが、「四つの基本原則」の中で重要だったのは「中国共産党による指導」を堅持すること、即ち、中国共産党による政権担当を堅持すること、だったのである。極端な言い方をすれば、採用する政策が社会主義的であろうがなかろうが、「中国共産党による政権維持」の原則だけは守らなければならない、とトウ小平氏は考えていたのである。

 中国の場合、「中国共産党による政権維持」は単に「自らの権力を維持したい」というどんな政権でも持つ自己保存意識に留まらない。中国の場合は「国の統一を維持する求心力を維持する」という別の意味も合わせ持つ。国土が広く、多数の民族を抱える中国にとって、社会の安定を維持するためには、「何らかの求心力」が必要であった。近代以前は、皇帝権力がその「求心力」であった。皇帝権力が消滅した新しい中国でも、中国を中国としてひとつにまとめる「求心力」が必要である。毛沢東が生きていた時代には、毛沢東のカリスマ性が一種の「求心力」となっていたが、毛沢東が死去した後の改革開放時代においても「求心力」は必要だと考えられていた。トウ小平氏は、歴史的経緯に基づけば、「中国共産党が政権を維持する力」を「求心力」にするほかはない、と考えたのである。

 この「国家における求心力」は、近代国家においてもその意義を失っていない。イギリスにおける王(女王)もそうであるし、日本の天皇もそうである。日本国憲法第一条にある「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という規定は、「国家における何らかの求心力」が現在の国民主権に基づく民主主義国家においても、政治的に一定の意義を持っていることを端的に表現している。

 しかし、中国のようなひとつの党による強力な政権の維持は、政権を腐敗させやすい。また、社会主義は、政府が経済を計画しコントロールする、という点で、本質的に政府と企業経営者との癒着を産みやすい構造を持っている。中国共産党もそのことはよく認識していた。中国の歴代王朝が政権の腐敗で崩壊したことは皆が知っているし、最も身近な例として、中国国民党が多くの人民から支持を失った大きな理由のひとつに、政府の有力者と経済界の資本家とが癒着する腐敗が蔓延したことが挙げられることは、中国共産党自身が一番よく知っていた。従って、中華人民共和国成立後も、中国共産党は腐敗の防止には常に神経質になっていた。幾度となく行われた「整風運動」とか「整党運動」といった運動は、党幹部の腐敗を厳しく戒めるものだった。

 一方、政府のトップを有権者の選挙で選ぶ民主主義制度は、報道の自由が確保されていれば、政府の腐敗に対して一定の浄化能力を持っている。有権者は、腐敗した政府の幹部を選挙で落選させることができるからである。従って、「腐敗防止」という観点で、政府幹部の選任に有権者による選挙制度を導入するのは有力な政治的オプションのひとつである。社会主義は、公有経済を主体とするという一種の経済制度であり、民主主義は政府のトップと政策のあり方をどうやって決めるかという政治システムであって、社会主義と民主主義とは相反するものではなく、同時に成立させることも可能である。選挙制度を通じて社会主義を実現しようという社会民主主義は、まさに社会主義と民主主義を融合させたものである。

 ただし、民主主義制度を採用した場合、有権者が社会主義を選択しない、という可能性は常に存在する。「文化大革命」が終わった直後の1980年代においては、共産党幹部のみならず、多くの中国の人々は、選挙によって政権が交代するような制度を中国で採用すれば、再び「文化大革命」のような大混乱が起こるおそれがある、と考えていたものと思われる。

 しかしながら、改革開放政策により諸外国の情報がどんどん流入するようになると、「中国共産党が政権を担当する」という基本路線を維持して社会の安定を保ちながらも、政治システムの一部に民主主義制度を取り入れることも可能ではないか、と考える人々も多くなってきた。1986年暮れの学生運動の際、一部の学生が「我々の市長を我々が選ぶことがどうしてできないのか」と主張してたことにそれは現れている。胡耀邦氏や趙紫陽氏も、中国共産党が政権を担当するという前提の下で、一部(特に末端地方レベル)では有権者による直接選挙制度の導入を検討してもよいのではないか、と考えていた可能性がある。

 趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)において、次のように明確に述べている。

「じっさいのところ、西側の議会制民主主義体制ほど強力なものはない。民主主義の精神をはっきりとあらわし、現代社会の要請に応じることができる、たいへん成熟した制度である。」

「もちろん、将来、議会制民主主義よりも進んだ政治体制が登場する可能性もあるが、それは未来の話だ。現代において、他に優れた体制は存在しない。」

「これに基づいて言えるのは、国家の近代化を望むなら、市場経済を導入するだけでなく、政治体制として議会制民主主義を採用すべきだ、ということだ。」

 失脚後、長く続く軟禁状態の中で客観的に考えを巡らせることによってこういった考え方に到達したのだとしても、元中国共産党総書記だった趙紫陽氏がこのような考え方に到達していたことは注目に値する。

 トウ小平氏自身は、社会の不安定化を避けるため、中国共産党による政権維持は絶対に譲れない条件だと考えていた。トウ小平氏は、経済的発展が最優先課題であり、当面(少なくとも自分の寿命が尽きるまでの間は)中国における民主主義導入に関する議論は、経済的発展のためにマイナスであると考えていたようである。「趙紫陽極秘回想録」の中で趙紫陽氏が述べているところによれば、1987年の第13回党大会における政治報告を議論する過程において、トウ小平氏は、趙紫陽氏が経済分野において大幅な市場経済原理を取り入れる「社会主義初級段階論」を展開することに大いに賛意を示す一方で、政治体制改革については、「何があろうとも『三権分立』のような形にしてはならない」と主張し、「『ほんのちょっとでも』そのような性質が含まれてはならない」と言っていた、という。(趙紫陽氏が「極秘回想録」でこのような話を披露している、ということは、趙紫陽氏自身は、1987年の第13回党大会の時点で、既に「三権分立」や「議会制民主主義」の優位性について認識していたことを暗示している)。

 政治体制改革に対するこのようなかたくななトウ小平氏の考え方は、「第二次天安門事件」に対する対処方針を決める際に明確になる。1989年4月、「第二次天安門事件」の運動が始まった後、トウ小平氏は学生運動に対する李鵬氏らの強硬な対応方針を支持し、「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」という社説を書かせた。

 トウ小平氏の政治体制に対するこのようなかたくなな考え方は、結局は1989年6月4日、学生らの運動に対して人民解放軍を導入して武力鎮圧する道を選ばせた。「第二次天安門事件」の武力による鎮圧は、「中国における民主主義制度の導入」に関する議論を「タブー」にし、政治的議論を停止させ、確かに全ての勢力を経済発展に集中させる役割を果たした。しかし、一方で、国内に大きな亀裂も残した。性急な民主主義制度の導入に必ずしも賛成していなかった人々の中にも「武力による鎮圧はやり過ぎで、ほかの解決方法があったはずだ」と考える人々もいた。

 そもそも「第二次天安門事件」の鎮圧に当たって、人民解放軍は、東西南北の四方向から進軍して天安門広場を制圧することを命令されていた。しかし、市民による抵抗を武力で排除して天安門前広場にまで進軍したのは、西から入った部隊だけであり、北、東、南から入ろうとした部隊は市民の抵抗の前に進軍をあきらめている。このことは、この時点で、人民解放軍の中にすら「人民に対して発砲すべきでない」と考えていた人々がいた(むしろその方が多かった)ことを示している。武力による進軍をあきらめた部隊の司令官は、おそらく後で何らかの処分を受けたものと思われるが、武力による鎮圧が本当に正しかったのか、という思いは、後々まで、そして現在でも、中国共産党内はもちろん、人民解放軍の内部にも残っているのではないかと思われる。

 「トウ小平秘録」(参考資料17)によれば、「第二次天安門事件」の際の国家主席で、武力鎮圧を指示した側だった楊尚昆氏自身、1998年の時点で、この事件について「わが党が歴史上犯した最も重大な誤りだった。いまとなっては、私にはそれを正す力はないが、将来必ず正されると思う」と述べたという。

 現在、「人民日報」ホームページにある過去の重大事件の解説の中で「第二次天安門事件」は「1989年の政治風波」というタイトルで表示され、以下のように解説されている。

○5月19日の晩、中国共産党中央は首都と一部の地域に戒厳令を敷くことを決定した。しかし、少数の暴乱分子が一部の人々を煽動して戒厳令部隊に対抗した。

○同時に、上海、広州等においても連続して暴徒が党や政府の機関を攻撃し、交通施設を破壊する重大な事件が発生した。これに対し、党中央、国務院、中央軍事委員会は果断な処置を執り、暴乱を収束させた。

○動乱と反革命暴乱に勝利したことは、我が国の社会主義が獲得したものと10年の改革開放の成果を確固たるものとするとともに、党と人民に有益な経験と教訓を与えた。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「共産党新聞」-「重大事件」
「1989年の政治風波」
http://cpc.people.com.cn/GB/33837/2535031.html

 しかし、現在、中国の政治家は公の席で「第二次天安門事件」の武力鎮圧は正しかった、と明確に発言することはない。そう明言することが中国国内でも反発を呼ぶことをよく知っているからである。現在、中国の政治家が誰かから「第二次天安門事件」についてのコメントを求められた時には、「その問題については、既に党中央の結論は出ている」と述べるのが「公式答弁」となっている。そして仮に中国の政治家が外国のメディアからそのような質問を受け「公式答弁」をしたとしても、そういった問答があったこと自体、中国国内では報道されない。

(参考URL2)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2009年3月4日記事
「公式見解」すら報道されない微妙な案件
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2009/03/post-b929.html

 「第4章第2部第9節:インターネット規制と『08憲』」で詳しく述べたように、ネットワーク上で「第二次天安門事件」に関する情報は検索できないようになっている。現在の中国においては「第二次天安門事件」については、「あの運動は正しかった」「武力による鎮圧は誤っていた」という趣旨の情報はもちろん、事件に関する公式情報以外の情報にはアクセスできないようになっている。おそらくそれは、この問題に触れることが、即ち、中国国内の亀裂を再び浮き立たせてしまうことになり、当局がそれを恐れているからだと思われる。

 趙紫陽氏に代わって政権を担当した江沢民氏は、「第二次天安門事件」によって急きょ抜擢され、総書記となり、その後国家主席となったことから、「第二次天安門事件において武力による鎮圧をしたことは誤りだった」と主張することは、江沢民氏の総書記・国家主席としての存在意義を疑問視することに等しい。従って、江沢民政権の時代には、「第二次天安門事件」における学生らの運動を肯定したり、武力による鎮圧を疑問視したりすることは、即、政権批判に繋がると考えられていた。

 胡錦濤氏は、その経歴において「第二次天安門事件」そのものとは直接関係していないので、胡錦濤政権になってからは、もっと客観的に「第二次天安門事件」について評価できるはずである。むしろ、胡錦濤氏は、中国共産主義青年団出身の胡耀邦氏の直系の人物であることから、思想信条的には胡耀邦氏や趙紫陽氏に近いと考えられる。また党中央弁公庁の幹部として胡耀邦氏や趙紫陽氏の下で働いていた温家宝現国務院総理も、思想信条の上では胡錦濤総書記に近いと考えられている。胡耀邦氏については、2010年4月15日付けの「人民日報」で温家宝総理が胡耀邦氏を偲ぶ文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を発表するなど、その功績は公式に評価されるようになってきているが、趙紫陽氏についての名誉回復はまだなされていない。それはおそらくは、中国政界において、まだ江沢民氏の勢力がかなり強力に残っていることを証明しているものと思われる。

以上

次回「あとがき~『トウ小平氏による改革開放路線』後の中国とは?~(2/3)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-5e8b.html
へ続く。

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