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2010年5月 8日 (土)

4-2-6:第一期胡錦濤政権の勢力分布

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第6節:第一期胡錦濤政権の勢力分布

 2002年11月の第16回中国共産党全国代表大会で、江沢民総書記が退任し、後任の総書記として胡錦濤氏が就任した。この党大会直後に行われた第16期中国共産党中央委員会第1回全体会議(第16期一中全会)で、政権の中枢を握る中国共産党中央政治局常務委員に任命されたのは、胡錦濤氏、呉邦国氏、温家宝氏、賈慶林氏、曾慶紅氏、黄菊氏、呉官正氏、李長春氏、羅幹氏の9名であった。

 胡錦濤氏(現在の総書記(党のトップ)・国家主席)は、清華大学水利工学部出身で、大学卒業後、内陸部のダム工事の現場における党組織で働いていた。その過程で中国共産主義青年団(共青団)に入り、1980年代胡耀邦総書記の下で共青団第一書記を勤めていた。その後、貴州省とチベット自治区という中国の中でも最も貧困で少数民族問題を抱える難しい地区の書記を務め、1992年にトウ小平氏に抜擢されて政治局常務委員となった。中央政治局委員を経ずに地方政府(チベット自治区)党書記からいきなり政治局常務委員に抜擢されたことで、当時から「次世代の総書記候補」と見られていた(同様に、2007年の第17回党大会で、上海市党書記から抜擢された習近平氏、遼寧省党書記から抜擢された李克強氏も、中央政治局委員を飛ばしていきなり政治局常務委員になっており、一般には、この二人が胡錦濤氏の次の世代の総書記候補である、と言われている)。

 呉邦国氏(現在の政治局常務委員ナンバー2;全国人民代表大会常務委員会委員長)は、清華大学無線電機電子学部を卒業した後、上海市の電子部品企業の中で企業の中国共産党組織の中で頭角を現した人物である。その関係で、1980年代前半、電子工業部長を勤めていた江沢民氏とも関係が深く、江沢民氏が上海市長と上海市党書記を務めていた1980年代後半から1990年代初頭に掛けて上海市党副書記を務め、1989年の「第二次天安門事件」で江沢民氏が中央の党総書記にいきなり抜擢された後に上海市党書記を勤めた朱鎔基氏の後任として上海市党書記となった。その後、1992年に中央政治局委員になっているが、経歴を見れば、江沢民氏の後押しがあったことは明らかである。

 温家宝氏(現在の政治局常務委員ナンバー3;国務院総理)は、北京地質学院大学院の卒業で、1980年代から国務院の地質鉱産部を皮切りにして、中央省庁で頭角を現してきた官僚出身の政治家である。1989年の「第二次天安門事件」の時には、党中央弁公庁主任(中国共産党事務局のトップ)として趙紫陽総書記や李鵬総理とともにハンストを行う学生らの前に現れたことは前に述べた(「第4章第1部第9節:『第二次天安門事件』」参照)。温家宝氏は、経歴上、江沢民氏との接点はない。一方、胡錦濤氏とも過去の経歴からすると接点はなかった。

 賈慶林氏(現在の政治局常務委員ナンバー4;中国政治協商会議主席)は、河北工学院を卒業後、機械関係の企業の中の党組織で頭角を現し、1990年に福建省長、その後福建省の党書記となった。「参考資料20:『中国問題』の内幕」によれば、江沢民氏は賈慶林氏夫妻の仲人を務めたとのことであり、個人的に江沢民氏と非常に近い関係にあるらしい。私は真相は知らないが、「『中国問題』の内幕」によれば、賈慶林氏は福建省時代にある密輸事件で政治責任を問われたが、江沢民氏の力により北京市長・党書記に抜擢された、とのことである。その後、北京市のトップとして江沢民氏肝入りの国家大劇院や中華世紀壇(北京市西部、軍事博物館の北側、メディアセンターの前にある奇抜な格好をした建築物)といった「記念碑的事業」を強力にバックアップした、とのことである。従って、江沢民氏との関係は深いと見るのが一般的である。

 曾慶紅氏(2007年の第17回党大会で政治局常務委員を退任)は、江沢民氏が上海市長と上海党書記をしていた時の直属の部下で、1989年の「第二次天安門事件」の際、江沢民氏が総書記として中央に呼ばれた時に江沢民氏と一緒に北京政界入りした江沢民氏の腹心である。「第二次天安門事件」の際、死去した胡耀邦氏を追悼する座談会を開催し胡耀邦氏の功績を評価する内容の記事を載せた「世界経済導報」を発行停止にさせたときに上海市党委員会宣伝担当副書記が曾慶紅氏であった(「第4章第1部第9節:『第二次天安門事件』」参照)。江沢民氏が総書記に抜擢された時、曾慶紅氏が一緒に中央政界に進出できたのも、この功績があったからだと考えられている。

 しかし、下記に述べるように、曾慶紅氏は江沢民氏が総書記を退任した後、次第に江沢民氏と一定の距離を保ち、胡錦濤氏とも接近して、この2人の間を取り持つ役割を果たしていたようである。そのため、第一期(2002年から2007年まで)の胡錦濤政権は、胡錦濤氏と温家宝氏に曾慶紅氏を加えた3人が中心となって運営されていた、という見方もあった。2002年の第16回党大会の直前に書かれた「参考資料22:中国 第三の革命」の中で、著者の朱建栄氏は、胡錦濤氏、温家宝氏とともにこの曾慶紅氏を次の世代を担う重要人物として掲げていた。

 しかし、曾慶紅氏は2007年の第17回党大会で政治局常務委員に再任されなかった。表向きの理由は、第17回党大会の時既に68歳であり、任期(5年間)を終えるときには73歳になる、という理由であった。

 「参考資料20:『中国問題』の内幕」によれば、「68歳定年制」は、1997年の党大会において1980年代後半から党政治局常務委員で江沢民氏のライバル的存在だった全人代常務委員会委員長の喬石氏(1924年12月生まれで、1998年3月までの全人代常務委員会委員長の任期中に73歳になる))を引退させるため江沢民氏が作った「任期中に73歳になる場合は引退」というルールである。このルールを適用されて2002年の第16回党大会で当時68歳(2007年の第17回党大会までに73歳になる)李瑞環常務委員も引退させられた。李瑞環氏は、共青団出身で胡錦濤氏に近かった、と言われる。

 曾慶紅氏も、形式的には「任期中に73歳に達するような場合は再任しない」というこのルールを適用されたことになっているが、もともと江沢民氏の腹心だった曾慶紅氏が2007年に再任されなかったのは、江沢民氏から一定の距離を置き始めて胡錦濤総書記に接近するようになったため、江沢民氏から疎まれた、との見方もある。「『中国問題』の内幕」では、胡錦濤総書記が賈慶林氏を政治局常務委員として残す見返りとして江沢民氏に腹心の曾慶紅氏の引退を認めさせた、との見方を示している。

 黄菊氏は、清華大学電機工程学部卒で、上海の企業に勤務し、企業の党組織で頭角を現した。江沢民氏が上海市長をしていた時の副市長で、江沢民氏の次の上海市長となった朱鎔基氏の後の上海市長、江沢民氏の3代後(朱鎔基氏、呉邦国氏の次)の上海市党書記となった。その意味では、江沢民氏直系の人物だった。2006年初めから公式の会議を欠席することが多くなり、病気であると伝えられ、2007年6月2日に死去した。なお、黄菊氏の後任の上海市党書記が、下記に述べるように2006年9月で汚職で摘発された陳良宇氏である。

 呉官正氏は、武漢市長、江西省長、山東党書記などを勤め、1997年に中央政治局委員となり、2002年に中央規律委員会担当の政治局常務委員となった。江沢民氏、胡錦濤氏とも特段の密接な係わりはなく、中立の立場の人物として党員の腐敗防止を担当する中央規律委員会担当を任されたと言われている。2007年の第17回党大会では、年齢が69歳に達していたことから引退した。

 李長春氏(現在の政治局常務委員ナンバー5)はハルビン工業大学電機学部卒で、瀋陽市長、遼寧副省長、河南省党書記、1998年からは広東省党書記を勤めた。上海市において江沢民氏とは関係していないが、「参考資料20:『中国問題』の内幕」では、李長春氏が広東省党書記になったのは、江沢民政権に対抗して独立志向にあった広東省において、江沢民政権に反対する勢力を排除するために江沢民氏が李長春氏を広東省に送り込んだもの、としている。その意味では江沢民氏に近いとされる。下記に述べるように「氷点週刊」停刊問題では、胡錦濤と対立関係にあったとされる。2002年以降、党の宣伝担当の政治局常務委員であることから、インターネットへのアクセス制限や2005年の反日運動においても、李長春氏の意向が働いたと言われている。2009年3月末に日本政府が李長春氏を日本に招へいし1週間も滞在させたのは、そういった日本に対する見方を和らげるため、と言われている。

 羅幹氏は、1988年に国務院秘書長となり李鵬氏を支えた。その意味では「李鵬派」であり、江沢民氏とも胡錦濤氏とも等距離にあると言える(ただ、李鵬氏が保守派として江沢民政権の下で国務院総理を務めていたことを考えると、胡錦濤氏よりは江沢民氏に近いと見るのが自然であろう)。2002年の第16回党大会で司法・公安を束ねる中央政法委員会書記を兼ねる政治局常務委員となったが、2007年の第17回党大会では、年齢の関係で引退した。

 以上を総合して、江沢民氏に近い人物を「江沢民派」、それ以外を「非江沢民派」と呼べば、仮に李長春氏を「江沢民派」に分類するとすれば、第一期胡錦濤政権下の党政治局常務委員9人の勢力分布は以下の通りとなる。

江沢民派:呉邦国氏、賈慶林氏、曾慶紅氏、黄菊氏、李長春氏の5人

非江沢民派:胡錦濤氏、温家宝氏、呉官正氏、羅幹氏の4人

 ただし、上に述べたように、呉官正氏は規律担当、羅幹氏は司法・公安担当でそれぞれ「中立派」と考えられる人々であり、特に胡錦濤氏に近いわけではない。特に羅幹氏は、李鵬元総理の影響が強く、胡錦濤氏よりも江沢民氏に近かった、と考えた方がよいので「非江沢民氏派」と分類するのは適切ではないかもしれない。従って、2002年に江沢民氏が総書記を胡錦濤氏に譲った後も、党内には江沢民氏の影響力が大きく残ったと言うことができる。こうした情勢の中、温家宝氏は、経歴としては、特段、胡錦濤氏と近いわけではなかったが、胡錦濤政権発足後、「非江沢民グループ」として胡錦濤氏に協力していくことになる。

 「江沢民派」に分類した5名のうち、李長春氏については、地方政府における実績と経験が豊富であるが、他の4人については、政治的な実績によって昇進したというよりは、基本的に江沢民氏に個人的関係が近かったことよって江沢民氏によって引き上げられたと見るのが一般的である。このように江沢民氏に近かったことによってその地位を上げていったグループは「上海グループ」「上海閥」などと呼ばれるようになった。

 江沢民氏に近い人物が政治的に地位を向上させていったのと同時に、江沢民氏が「三つの代表」論を提唱し、私営企業経営者、会計士、弁護士等の高収入で資産を持った「新社会階層」を中国共産党に入党する道を開いたことは、資産を持った「新社会階層」を江沢民氏の周辺のグループに引きつけることとなった。このように、特定の人物に個人的に親しい人々が強力な政治権力を持つようになり、その人たちの周辺に多額の資産を持った人々が集まる、という状況は、ある意味ではかなり「危うい状況」である。一歩間違うと中国共産党と中国の政権を「腐敗」という泥沼に落とし込むことになりかねないからである。このことは、下記に述べるように2006年9月、上海党書記だった「上海閥」のトップグループを形成していた陳良宇氏が汚職で摘発されたことで、一気に表に出ることになる。

 なお、江沢民氏政権下で1992年から2002年まで政治局常務委員(1993年から2003年まで国務院総理)を務めた朱鎔基氏は、上海市長と上海市党書記の職に関して、いずれも江沢民氏の後任であったので江沢民氏に近いと見られがちであるが、朱鎔基氏はもともとは中央官庁の経済官僚出身であり、彼が出世したのもその政策執行能力が高いことをトウ小平氏が評価したからだと言われている。当時の中央の方針では、中央政府の省庁幹部を務めた後、地方政府の幹部に転出し、その後中央に戻ってもっと上のポストに就く、というのがひとつの出世コースだった。朱鎔基氏もその出世コースに乗っただけであって、特段、江沢民氏によって引き立てられたわけではない。朱鎔基氏は江沢民氏とは年齢も近く、朱鎔基氏は江沢民氏に対して特段恩義を感じる立場ではなかったと思われる。

 朱鎔基氏は、強引な国有企業改革で多くのリストラを行うなど、一般人民からの人気はないが、清廉潔白な政治家だった、という評判は定着している。2003年の任期終了後、全ての公職から完全に引退したことにもそれは現れている。総理引退後、大学教授にすらならなかったのは、2002年に政界を引退せずに引き続き党軍事委員会主席に留まり、政治的影響力を残そうとしていた江沢民氏の態度に怒ったためだと「参考資料20:『中国問題の内幕」の著者の清水美和氏は見ていることについては既に前節で書いた。従って、朱鎔基氏を江沢民氏の影響下に集まった「上海グループ」に入れるのは正しくない。

以上

次回「4-2-7:『氷点週刊』停刊事件」
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へ続く。

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