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2010年5月 9日 (日)

4-2-7:「氷点週刊」停刊事件

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第7節:「氷点週刊」停刊事件

 2002年の第16回党大会で総書記となった胡錦濤氏は、政治局常務委員を自分に近い人物で固められなかったが、もうひとつ軍をどうやって掌握するかも大きな課題だった。1989年以降、党軍事委員会主席は一貫して江沢民氏であり、軍の幹部は江沢民政権時代に任命された人々が占めていたからである。中国共産主義青年団出身の胡錦濤氏には、軍を把握できる背景がなかった。江沢民氏は、それを見越して、自分が影響力を行使できる人物をできるだけ軍の内部に任命し続けたいと考えて、2002年の第16回党大会の時点では党軍事委員会主席は退任しなかったとの考え方も可能である。

 党軍事委員会主席のポストについては、その後いろいろな攻防戦があったことが想像されるが、結局、2004年9月、第16期中国共産党中央委員会第16回全体会議(第16期六中全会)において江沢民氏は党軍事委員会主任のポストも退き、胡錦濤氏に譲った。この時、江沢民氏は既に78歳に達し、自らが設定した「任期中に73歳に到達したら引退」というルールを一期分(5年間)オーバーしていたことから、さすがにこれ以上職に留まることは難しかったものと思われる。

 江沢民氏が党軍事委員会主任を退任した後も、胡錦濤氏は江沢民前総書記の影響力と戦い続けることになる。胡錦濤氏は、1992年の第14回党大会で、トウ小平氏から「次世代の後継者候補」として指名されていたという「お墨付き」があったし、その指導力については党内でも高く評価されていたことから、2002年の第16回党大会で大きな議論を呼ぶことなく総書記に就任することができたが、政治的バックボーンはそれほど強くはなかった。出身母体の中国共産主義青年団(共青団)の関係者には理想主義的な理論派が多いが、高度経済成長を続ける中国にあっては、高尚な政治理念よりも、政治力、即ちカネを動かす力が必要だった。共青団出身者にはそういった「泥臭さ」が欠けている。それに対して、江沢民氏には総書記は辞任したとは言え、それまでの高度経済成長路線で築いてきた多くの経済界有力者との強いパイプがあった。自らがトップにいた時代に任命した軍の幹部も江沢民氏の味方だった。

 2005年4月、中国に反日運動が吹き荒れた。現在の中国では、当局が不都合であると思われる大衆運動は抑圧されるので、この反日運動は、主体が学生らの若者だったとはいうものの、当局側が「黙認していた」という意味で、中国当局の意向が反映していた、と見る見方が一般的である。客観的に言えば、この反日運動には、小泉総理の靖国参拝問題と日本の国連常任理事国入り運動に対する牽制という外交上の意味があったと思われるが、そもそも「反日愛国主義教育」は市場経済下における共産党支配を正当化させるために江沢民政権が始めたとの見方に立てば、この反日運動においては、江沢民氏を背後に持つ宣伝担当の政治局常務委員である李長春氏が主導してコントロールしていたと見ることもできる。後の行動を見れば、胡錦濤総書記は、反日一本槍の江沢民氏の路線から決別して、1980年代のような日本との密接な関係を回復したいと考えていたと思われることから、2005年に反日運動が盛り上がった時点では、胡錦濤総書記は党内で十分にリーダーシップを発揮できていなかったのだ、という見方もできる。

 このように、2005年頃でも、江沢民氏の影響力はまだまだ大きいものがあったと思われる。しかし、年齢的な問題もあり、いずれは権力は江沢民氏からやがては胡錦濤氏に移るだろうと考える見方もこの時点で既に根強いものになっていたことは間違いない。そこで、次第に江沢民氏と胡錦濤氏とを天秤に掛けながら、胡錦濤氏とも接近していく者が多くなっていく。江沢民氏の腹心といわれた曾慶紅氏もそうした一人だったと思われる。

 2005年1月、1989年の「第二次天安門事件」で失脚した趙紫陽氏が死去した。「『中国問題』の内幕」(参考資料20)によると、曾慶紅氏は趙紫陽氏が死去に立ち会ったという。趙紫陽氏の葬儀には、胡錦濤総書記は出席しなかったが、党中央の主催で、革命烈士が眠る八宝山墓地で行われ、政治局常務委員ナンバー4の賈慶林氏が参加した。1989年の「第二次天安門事件」で趙紫陽が失脚し、その代わりに江沢民氏が総書記にになったことを考えると、趙紫陽氏の扱いは極めて神経質にならざるを得ないものだったはずである。この趙紫陽氏の葬儀に関して、曾慶紅氏が江沢民氏と胡錦濤氏の間に入って調整役を果たした可能性がある。

 また、2005年11月、胡錦濤総書記は自らの元上司であり共産主義青年団の先輩でもある胡耀邦氏の生誕90周年をきっかけにして胡耀邦氏の再評価を行うことを考えていた。「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、胡錦濤総書記は2004年2月の春節(旧正月)の際、胡耀邦元総書記の自宅を訪問し、李昭夫人らに対して、胡耀邦氏生誕90周年を盛大に祝い、名誉回復すると約束したという。既にこれまで述べてきたように、胡耀邦氏は1986年暮れの学生運動に同情的だったとして総書記を解任され、その死が1989年の「第二次天安門事件」のきっかけとなった人物である。胡耀邦氏の名誉回復は「第二次天安門事件」の再評価に繋がり、「第二次天安門事件」の再評価は、その武力弾圧をきっかけにして総書記に抜擢された江沢民氏の否定に繋がりかねない。「トウ小平秘録」によると、胡錦濤総書記による胡耀邦氏の名誉回復の動きを江沢民氏は厳しく批判したという。

 結局、2005年11月の胡耀邦氏生誕90周年には「記念大会」は開催されず、規模を縮小して「記念座談会」が開催された。この「胡耀邦氏生誕90周年記念座談会」には胡錦濤総書記は出席せず、座談会は曾慶紅氏が主宰した。「トウ小平秘録」によると、曾慶紅氏は、2004年9月の時点で江沢民氏の党軍事委員会主席の続投に賛成しなかったのだという。曾慶紅氏は2007年の第17回党大会直後の第17期一中全会で政治局常務委員に再任されなかった。表面上は年齢上の理由によるとされているが、もしかするとこういった曾慶紅氏の動きに対する江沢民氏側からの反発があったためかもしれない。

 翌2006年になると、指導部内部の対立が原因と見られる事件が発生する。日刊の中国青年報に週一回掲載される評論特集「氷点週刊」の停刊事件である。中国青年報は、中国共産主義青年団(共青団)の機関紙である。ことの発端は、2006年1月13日付けの「氷点週刊」に中山大学の袁偉時教授による「現代化と歴史教科書」という論文が掲載されたことであった。この論文では、従来、中国の歴史教科書で「反帝国主義の愛国運動」と評価されている1900年の義和団事件(「第2章第1部第2節:義和団事件」参照)について、多くの外国人らを殺害した事実等をあげて、この事件は反動的で反文明的なものであった、と指摘していた。そして、この論文では「反右派闘争、大躍進、文化大革命の三大災難を経て人々が沈痛に目覚めたのは『われわれが狼の乳を飲んで育った』ことにある点だ。」「中学歴史教科書を見て大いに驚いたのは青少年がいまだに狼の乳を飲み続けていることだ。」と指摘していた(「『中国問題』の内幕」)。

 中国共産党中央宣伝部は、この論文を問題視し、「氷点週刊」を停刊にした上、編集長の李大同氏を解任した。

 義和団事件が「反帝国主義の愛国運動」ではなく、反動的な側面もある、という指摘は、現在の中国の歴史学会の中にある見解のひとつであり、違和感のある見解ではない。義和団運動が「扶清滅洋」(清を助けて西洋を滅亡させる)というスローガンを掲げ、西太后が支配していた当時の清朝政府を擁護する立場に立っていたからである。

 特に、1999年に新興宗教集団「法輪功」のグループが中国共産党に反対するグループであるとして非合法化されて以降、義和団も当時の新興宗教が民衆を「惑わせた」という側面もある、との指摘もあり、義和団事件を「反帝国的の愛国運動」として一方的に持ち上げるのは正しくない、もっと客観的に評価すべきだ、というのは、現在の中国の歴史学会では、むしろ定説となっていた(「第2章第1部第2節:【コラム:新興宗教に基づく民衆運動に対する評価の変化】参照)。従って、「氷点週刊」に掲載された袁偉時教授の論文は、現在の中国の歴史学界の見解を逸脱しているものではなく、ましてや排撃されるような性質のものではない。また、袁偉時教授の論文の中に「反右派闘争、大躍進、文化大革命の三大災難を経て」との表現があるが、これらの3つが「災難」であったことは、既に改革開放政策を確定させた1981年6月の「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」で指摘されていることであり、論文のこの部分が党の方針に反するものである、というわけでもない。

 とすると、党宣伝部がこの論文を問題視したのは、この論文が歴史教科書を批判し「愛国主義歴史教育」を批判しているからだ、と思われる。これまで何回も述べたように、「愛国主義歴史教育」は、江沢民政権が経済政策が市場経済を大幅に容認していく中で「なぜ中国共産党のみが政権を担っていることが正当化できるのか」の根拠を「抗日戦争等の革命期を通じて、中国共産党による指導があってこそ、外国勢力を撃退し、中国を植民地的支配から救った」という歴史的事実に求め、それを人々に納得させるために始めたものである。つまり「愛国主義歴史教育」批判は、江沢民政権の政策を批判することにほかならないのである。

 この「氷点週刊」停刊事件は、袁偉時教授の論文がひとつのきっかけになったものの、伏線があったと言われている。袁偉時教授の論文が掲載される1か月前の2005年12月7日付けの「氷点週刊」が、胡耀邦元総書記の生誕90周年を記念して、胡耀邦氏の後継者として中国共産主義青年団の第一書記を務め1980年代に政治局常務委員になり1989年の天安門事件で失脚した胡啓立氏が書いた追悼文「わが心の中の胡耀邦」(原題:「我心中的耀邦」)を掲載したことを党宣伝部が快く思っていなかったことが伏線になっていた、というのである。胡耀邦氏-胡啓立氏-胡錦濤氏は、それぞれ歴代の中国共産主義青年団の第一書記であった(同じ「胡」姓ではあるが親戚関係ではない)。胡錦濤総書記は、胡耀邦氏、胡啓立氏を先輩として尊敬していた。胡啓立氏が書いた追悼文「わが心の中の胡耀邦」を党宣伝部が快く思わなかった、ということは、党の宣伝部が党総書記の考え方を快く思わなかった、ということを意味している。

 この「氷点週刊」事件は、停刊と編集長の解任だけで終わらなかった。それまでの中国では前代未聞のことであるが、「氷点週刊」の編集長を解任された李大同氏は、そのまま沈黙することをせず、内外にメールで実情を報告するとともに、外国メディアの取材にも応じ、ついには日中対訳本「『氷点』停刊の舞台裏」(三潴正道監訳、而立会訳;日本僑報社)を刊行して内幕を暴露した(「『中国問題』の内幕」による)。李大同氏は、1989年の「第二次天安門事件」の時は「中国青年報」の記者だったが、1989年5月9日に出されたジャーナリスト1000人による政府との対話要求に署名した一人だった(「第4章第1部第9節:「第二次天安門事件」参照)。李大同氏の一連の行動は、自らのジャーナリストとしての信念に基づくものであると思われるが、現在の中国においては、党宣伝部による処分を批判する本を(国外における出版とは言え)出版するというようなことは、党内の一定の勢力の支持がなけれができない行動である。この「『氷点』停刊の舞台裏」は、日本で出版されたとは言え、「日中対訳本」という形式を採っており、中国国内の人々に読んで欲しいと考えて出版されたことは明らかである。

 「氷点週刊」は編集長を交代させた後、停刊2か月後の3月に問題となった袁偉時教授の論文を批判する内容の論文を掲載して復刊した。「『氷点』停刊の舞台裏」によれば、復刊を指示したのは「最高指導者」であったという。「『氷点』停刊の舞台裏」では実名を掲載することをはばかっているが、「最高指導者」が胡錦濤氏を指すことは明らかである。「『氷点』停刊の舞台裏」では、停刊を指示したのは劉雲山中央宣伝部長と共青団を指導する王兆国政治局員であったと実名を掲げている。これを紹介した「『中国問題』の内幕」(参考資料20)の中で著者の清水美和氏は、ここまで実名を掲げるのは大胆だとしながらも、実はこの二人の実名を上げたのは、彼らの上に立つ政治局常務委員の名を挙げ、国家指導部内部での対立を表に曝すことを避けたからではないか、と推測している。中央宣伝部の上にいる宣伝担当の政治局常務委員とは、即ち李長春氏である。

 この問題は、胡耀邦氏の再評価、ひいては「第二次天安門事件」の再評価に係わる問題である。これら一連の動きを見れば、胡錦濤総書記が胡耀邦氏の名誉回復と最終的には「第二次天安門事件の再評価」(学生らの行動は正しかった、とまではいかなくても、武力に鎮圧は誤りだった、とする再評価)を考えていることは間違いない。しかし、「第二次天安門事件」の再評価は、江沢民前総書記が就任した根拠を否定することであり、江沢民氏が率いる「上海閥」(上海グループ)との全面戦争を意味する。

 胡耀邦氏の再評価問題は、2010年4月15日付けの人民日報に温家宝氏が現職総理としては異例の寄稿「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を掲載したことでわかるように、現在に直結している問題である(第4章第1部第9節:【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】参照)。

以上

次回「4-2-8:『上海閥』と第二期胡錦濤政権の課題」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-8f38.html
へ続く。

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