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2010年5月

2010年5月18日 (火)

「中国現代史概説」の目次と参考資料等のリスト

 今年(2010年)1月4日からアップし始めた「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」は昨日(2010年5月17日)をもって完結しました。この文章は、基本的に2007年4月~2009年7月まで北京に駐在していた間に書き溜めていた文章ですが、最近得た情報に基づき、適宜、修正及び書き足しを行いました。特に今年(2010年)1月に「趙紫陽極秘回想録」の日本語版が出版されたことから、これを参考として1980年代以降の記述の一部を追加しました。

 2010年5月現在、残念ながらこのココログ・サイト全体が中国大陸部からアクセスできない状態になっており、この「中国現代史概説」は中国大陸部からは見ることはできませんが、世界にとって、中国の存在はますますその重要度を増すなか、中国を理解するために、この「中国現代史概説」は多くの人々に読んでいただければ、と思っています。

 以下に、今年(2010年)1月4日付けの記事に掲げたものと同じ「中国現代史概説」の目次と参考資料リストを掲げます。それぞれの目次の項目にリンクを張ってありますので、お読みになりたい部分をクリックしてお読みください。最初からお読みになれば、アヘン戦争以降、中華人民共和国が現在に至るまでの経緯をたどることができると思います。

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【中国現代史概説】~中国の新しい動きを理解するために~

まえがき:この文章を書こうを思った動機~意外に知られていない中国の現代史~

第1章:中国革命の背景
 1.中国における「社会主義革命」とは何だったのか
  (1)そもそも「社会主義」とは何を目指したものだったのか
  (2)「社会主義」と農民・土地との関係
 2.辛亥革命以前の中国社会の特長
  (1)19世紀の中国・ロシア・日本の状況
  (2)列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(1/2)
  (2)列強各国との関係における19世紀の中国と日本との違い(2/2)
     【コラム:最新技術の導入とそれに対する「抵抗勢力」】

第2章:辛亥革命から抗日戦争、中国共産党による革命へ
 1.日本の大陸への進出から辛亥革命の勃発へ
  (1)日清戦争から戊戌の変法まで
  (2)義和団事件
     【コラム:新興宗教に基づく民衆運動に対する評価の変化】
     【コラム:義和団事件の賠償と清華大学】
  (3)辛亥革命(清王朝の終焉)
     【コラム:中国の人々の日本に対する見方】
 2.孫文による革命運動の苦悩と中国共産党の誕生
  (1)袁世凱政権と日本による対華21か条の要求
     【コラム:「軍閥」とは何か】
  (2)五四運動と中国共産党の誕生(1/2)
     【コラム:儒教に対する考え方】
  (2)五四運動と中国共産党の誕生(2/2)
     【コラム:天安門前広場】
     【コラム:東交民巷】
     【コラム:中国国民党について】
     【コラム:「中国共産党第一回全国代表大会」の出席者について】
  (3)第一次国共合作
     【コラム:「蒋介石」という呼び方について】
  (4)中国革命の父・孫文の死
     【コラム:孫文に対する評価】
 3.日本による大陸進出と中国による抗日戦争
  (1)国共分裂・北伐の完成と張作霖爆殺事件
     【コラム:ロシア革命と中国共産主義革命との違い】
  (2)中華ソヴィエト共和国の樹立と満州事変
     【コラム:溥儀と映画「ラスト・エンペラー」】
  (3)中国共産党による「長征」と毛沢東による指導体制の確立
     【コラム:三大規律と八項注意】
  (4)西安事件と第二次国共合作
     【コラム:張学良氏について】
  (5)廬溝橋事件から日中戦争へ
     【コラム:「南京大虐殺論争」について】
  (6)日本の敗戦(1/2)
  (6)日本の敗戦(2/2)
     【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(1/4)
     【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(2/4)
     【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(3/4)
     【コラム:日本の終戦と原子核物理学者・仁科芳雄博士】(4/4)

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史
 1.中華人民共和国の建国期
  (1)国共内戦
  (2)中華人民共和国の成立
  (3)国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期の中華人民共和国
     【コラム:イギリスとフランスの中国に対する立場】
  (4)人民解放軍のチベットへの進出(チベット現代史)
  (5)「中華人民政治協商会議共同綱領」と「過渡期の総路線」
  (6)土地改革から本格的な社会主義化へ
 2.社会主義化の深化と路線闘争
  (1)急激な社会主義化の進展と「百花斉放・百家争鳴」
  (2)反右派闘争
  (3)大躍進政策と人民公社の成立(1/2)
  (3)大躍進政策と人民公社の成立(2/2)
     【コラム:中国における社会的セーフティ・ネット】
     【コラム:大躍進時期の悲惨な記録に関する記述について】
  (4)フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立(1/2)
  (4)フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立(2/2)
     【コラム:ソ連の中国への核兵器技術移転は本気だったのか】
     【コラム:フルシチョフとアイゼンハワーの「平和共存」の舞台裏】
  (5)「大躍進政策」の結果を受けた権力闘争
  (6)「経済調整政策」に対する毛沢東の反撃
3.文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)
  (1)中ソ論争と文化大革命前夜
  (2)四清運動と「海瑞免官」批判~文化大革命の開始~
     【コラム:「修正主義」という言葉】
  (3)紅衛兵の登場と狂乱
     【コラム:文化大革命と大学紛争】
  (4)文化大革命下の政治と社会の混乱
  (5)「七・二○武漢事件」をはじめとする「武闘」
  (6)「文革」に翻弄(ほんろう)される有力者たち
  (7)国家主席・劉少奇の失脚と死
  (8)中ソ軍事衝突
  (9)ニクソンによる米中接近への動き(1/2)
     【コラム:アメリカにとってのベトナム戦争】
  (9)ニクソンによる米中接近への動き(2/2)
     【コラム:その後のベトナム】
  (10)謎の林彪墜落死事件(1/3)
  (10)謎の林彪墜落死事件(2/3)
  (10)謎の林彪墜落死事件(3/3)
 4.文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)
  (1)ニクソン訪中
  (2)日中国交正常化
     【コラム:「日中国交正常化」「台湾当局」という表現について】
     【コラム:日中国交正常化時のエピソード】
  (3)トウ小平の復活と批林批孔運動(1/2)
  (3)トウ小平の復活と批林批孔運動(2/2)
     【コラム:「孔子批判」に対する日本のマスコミの反応】
     【コラム:「批林批孔運動」と兵馬俑坑】
  (4)文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(1/2)
  (4)文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(2/2)
  (5)「四つの近代化」の提唱と水滸伝批判
  (6)周恩来の死と「第一次天安門事件」(1/2)
  (6)周恩来の死と「第一次天安門事件」(2/2)
     【コラム:「第一次天安門事件」の記憶】
  (7)毛沢東の死、そして「四人組」の逮捕
 5.改革開放政策への大転換
  (1)華国鋒政権下でのトウ小平氏の再復活
     【コラム:コラム:中国現代史の現在における不透明性】
  (2)トウ小平氏と「すべて派」との対立
  (3)西単(シータン)の「民主の壁」
     【コラム:論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」の扱い】
  (4)トウ小平氏による改革開放方針の提示
  (5)改革開放と「四つの基本原則」で終わった「北京の春」
  (6)改革開放政策決定前後の中国の外交政策(1/2)
  (6)改革開放政策決定前後の中国の外交政策(2/2)
  (7)「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(1/2)
  (7)「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(2/2)

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国
 1.改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発
  (1)具体化する改革開放政策とまだ残る「文革のしっぽ」
  (2)改革開放政策下の1980年代の日中協力(私の経験)
  (3)中国指導部内部での路線闘争とイギリスとの香港返還交渉
  (4)対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(1/2)
  (4)対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(2/2)
  (5)1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(1/2)
  (5)1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(2/2)
  (6)中国の社会・経済で進む微妙な変化
  (7)「第二次天安門事件」直前の世界情勢
  (8)「第二次天安門事件」の伏線
  (9)「第二次天安門事件」(1/5)
  (9)「第二次天安門事件」(2/5)
  (9)「第二次天安門事件」(3/5)
  (9)「第二次天安門事件」(4/5)
  (9)「第二次天安門事件」(5/5)
     【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】
 2.「第二次天安門事件」以後の中国
   (1)東欧・ソ連革命(1/2)
   (1)東欧・ソ連革命(2/2)
  (2)「第二次天安門事件」の後遺症
  (3)トウ小平氏の最後のメッセージ~南巡講話~
  (4)国有企業改革と「世界の工場」の実現(1/2)
  (4)国有企業改革と「世界の工場」の実現(2/2)
  (5)江沢民総書記による「三つの代表論」の本質(1/2)
  (5)江沢民総書記による「三つの代表論」の本質(2/2)
  (6)第一期胡錦濤政権の勢力分布
  (7)「氷点週刊」停刊事件
  (8)「上海閥」と第二期胡錦濤政権の課題
  (9)インターネット規制と「08憲章」(1/2)
  (9)インターネット規制と「08憲章」(2/2)
  (10)少数民族政策破綻の危機
  (11)経済対策バブルと「抵抗勢力」の肥大化

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(1/3)
あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(2/3)
あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(3/3)

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【中国現代史概説:参考資料リスト】

(1)「中華人民共和国史」(天児慧著:岩波新書)1999年12月20日第1刷発行

(2)「韓国併合」(海野福寿著:岩波新書)

(3)「近代交通体系と清帝国の変貌」(電信・鉄道ネットワークの形成と中国国家統合の変容)(千葉正史著:日本経済評論社)2006年12月15日第1刷発行

(4)「そうだったのか!中国」(池上彰著:集英社)2007年6月30日第一冊発行

(5)「中国現代史」~壮大なる歴史のドラマ~(新版)(中嶋嶺雄編:有斐閣)1996年3月10日新版第1刷発行

(6)「中国の頭脳 清華大学と北京大学」(紺野大介:朝日新聞社)2006年7月25日第一刷発行

(7)増補版「中国近現代政治史年表」(家近亮子編:晃洋書房)2004年6月10日増補版第一刷発行

(8)中国の歴史(11)「巨龍の胎動」(天児慧著:講談社)2004年11月10日第一刷発行

(9)「毛沢東語録」(竹内実訳:角川文庫)1971年10月25日初版発行

(10)「南京事件~『虐殺の構造』~」(秦郁彦:中公新書)1988年2月10日第5版発行

(11)「中国現代史」(建国50年、検証と展望)(小島朋之:中公新書)1999年7月25日発行

(12)「北京三十五年」~中国革命の中の日本人技師~(上・下)(山本市朗:岩波新書)1980年7月21日・8月20日発行

(13)「当代中国的核工業」(中国社会科学出版社・1987年)
※日本語訳は出版されていない

(14)「文化大革命十年史」(上・中・下)(厳家祺、高皋著、辻康吾監訳:岩波現代文庫、現代文庫版は2002年1月16日第一刷発行。岩波書店から日本語版が発行されたのは1996年12月)

(15)「河北新報」1966年(昭和41年)8月25日付け夕刊1面
「紅衛兵旋風 上海・天津にも波及~反革命分子宅を襲う、ラマ教寺院も破壊される(北京)~」「輪タクは客が踏め、ビラに埋まる北京~預金利息停止せよ~」

(16)朝日新聞1972年9月26日、29日、30日付け紙面

(17)(4)「トウ小平秘録」(伊藤正著:扶桑社)2008年発行

(18)「朝日新聞」1976年9月10日付け記事

(19)「朝日新聞」1978年8月13日付け記事「日中新時代へ調印」

(20)「中国問題の内幕」(清水美和著:ちくま新書)2008年2月10日第一刷発行

(21)2005中国経済年鑑(中国経済年鑑社)2005年11月

(22)「中国 第三の革命」(朱建栄著:中央公論新社)2002年8月25日初版発行

(23)「世界史事典」(歴史教育研究所編:旺文社)1969年1月20日重版発行

(24)「(3訂増補)ポータブル日本史辞典」(小葉田淳、時野谷勝、村山修一、岸俊男編:数研出版)1967年2月1日3訂増補第1刷発行

(25)「趙紫陽極秘回想録」(趙紫陽 バオ・プー/ルネー・チアン/アディ・イグナシアス:光文社)2010年1月25日初版第一刷発行

(26)「天安門事件の真相」上巻(矢吹晋編著:蒼蒼社)1990年6月4日発行
http://www18.big.jp/~yabukis/chosaku/shinso1.pdf

(27)「天安門事件の真相」下巻(矢吹晋編著:蒼蒼社)1990年9月30日発行
http://www18.big.jp/~yabukis/chosaku/robin-munro.pdf


(主なネットワーク上の参考資料)

(1)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「資料センター」
「中国共産党簡史」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/index.html

(2)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「党史人物記念館」-「トウ小平記念館」-「著作選集」-「トウ小平文選」
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/index.html

(3)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「中国共産党歴代全国代表大会アーカイブス」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/index.html

(4)「新華社」ホームページ「資料」
「党史文献」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/23/content_2609668.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

(5)東京大学東洋文化研究所・田中明彦研究室がアップしたデータベース「世界と日本」
「日中関係資料集」
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/JPCH/index.html

(6)渡辺格個人ホームページ「北京よもやま話」
http://homepage3.nifty.com/itaru_watanabe/beijing/mokujib.html

(7)「中国統計年鑑」2008(中国国家統計局のホームページ上にある)
http://www.sei.gov.cn/hgjj/yearbook/2008/indexch.htm
※このページで数字を見るためにはブラウザとしてインターネット・エクスプローラーを使う必要があるようです。


(映像・音声資料)

(1)ドキュメンタリー映画「東京裁判」(東宝東映:小林正樹監督)1983年

(2)NHKスペシャル「映像の世紀 第6集 独立の旗の下に ~祖国統一に向けて、アジアは苦難の道を歩んだ~」NHK・アメリカ・ABC国際共同取材:1995年9月16日放送

(3)「映像でつづる昭和史」NHK:1989年1月8日放送

(4)CNN制作のドキュメンタリー・シリーズ
"Cold War" (1998, Turner Original Productiond; Warner Home Video)

(5)ドキュメンタリー番組「イスラエル秘められた核開発」
2002年イスラエル・トゥラ・コミュニケーション制作
(2008年7月16日、17日:NHK-BS1「BS世界のドキュメンタリー」で放送)

(6)北京放送(日本語版)1976年9月9日放送
毛沢東の死去を伝える「全党・全軍・全国各民族人民に告ぐる書」

(7)DVD「歴史をして未来を語らしめる(四)」「文革十年」(中国唱片総公司出版)(出版年は不明:ISBN 7-7999-1760-1)

(8)NHK・BSドキュメンタリー「証言でつづる現代史~世紀の外交・米中接近~」
(前編)2008年3月9日放送、(後編)2008年3月9日放送

(9)NHKラジオ1976年9月9日日本時間18:00からのニュース

(10)NHK・BSドキュメンタリー「証言でつづる現代史~こうしてベルリンの壁は崩壊した~」(前編:ライプチヒ市民たちの「反乱」、後編:首都が揺れた)

(11)「NHKスペシャル 張学良がいま語る 日中戦争への道」(NHK1990年12月9日放送)

(12)「張学良・磯村尚徳対談 私の中国・私の日本」(NHK1990年12月10日放送)

以上

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2010年5月17日 (月)

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(3/3)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(3/3)

 2008年8月、中国は悲願だった北京オリンピックを成功裏に終了させた。2008年9月以降のリーマン・ブラザーズ破綻に始まる世界的経済危機の中においては、中国は大きく発展した経済力を背景として、世界の中で大きな発言権を示した。こうした状況を踏まえると、この「あとがき」の冒頭に書いた中国革命が目指した3つの目標:

(1)封建的な束縛から脱して、近代的な国家を築くこと。

(2)中国が外国による支配から脱して、自らの将来を自ら決めることができるようになること。

(3)多くの人々が貧しさを脱して一定の生活レベルを送れるような経済水準に達すること。

は、北京オリンピックが終了した時点で全て達成した、と考えてよいのでないかと思われる。トウ小平氏が改革開放政策を始めたのは、中国革命を完成させて、上記の3つの目標を達成するためであった。「トウ小平氏が目指した改革開放政策の目標」が既に達成できたのであるのならば、「トウ小平氏が目指したもの」の次に来るものは一体何なのだろうか。

 トウ小平氏は、改革開放政策を進めるにあたって「先富論」を主張した。「先に豊かになれる人、先に豊かになれる地域があれば、そういう人や地域は先に豊かになってよい。」というものである。この主張に従って、「新社会階層」と呼ばれる一部の人々や上海、広州、北京といった沿岸部の都市は先に豊かになった。しかし、「先富論」には「後半部分」があるはずである。

 「先に豊かになれる人や地域は先に豊かになったよい。次に先に豊かになった人や地域が遅れている人や地域を引っ張り上げればよいのだから。」

 今まで「先富論」の後半は行われてこなかった。「今はまだ前半の『先に豊かになれる者から豊かになればよい』の時代だからだ」と思われていたからだった。しかし、中国が「世界の工場」と呼ばれるようになり、北京オリンピックが終わり、上海万博が開催され、国際社会の中で大きな発言力を持つに至った現在、「先富論」の前半の時代は既に終了した、と見るべきではないのか。そうであれば、次に来るのは「先に豊かになった人や地域が遅れている人や地域を引っ張り上げる」時代である。

 しかし、中国の政治システムはそういった「次の時代」にまだ対応していない。「三つの代表」論は、「先に豊かになった人」の意見を政治に反映させるシステムである。しかし、「豊かになり損ねた」大多数の人々の意見を具体的な政策として吸い上げるシステムは、残念ながら中国にはまだできていない。

 2008年9月以降発生した世界的経済危機に対して、中国政府は2008年11月に合計4兆元(約56兆円)に上る景気刺激策を発表した。この多くは内陸部など「豊かになり損ねた地域」に集中的に投資を行う、という政策である。その意味では「先富論」で取り残された地域を政策的に後ろから支えよう、という政策であり、この景気刺激策は「次の時代」に対応したものと考えられる。

 一方、この景気刺激策は、鉄道や高速道路の建設といった社会インフラの整備が中心となっており、地方の党や政府と地方の企業とが結びついた癒着の構造をさらに強化することになるのではないか、と懸念する人も多い。党中央は、この景気刺激策が腐敗の原因とならないよう厳重に監視するという姿勢を示しているが、腐敗防止のための具体的なシステムは、規律委員会による監視、といった従来の制度のままである。最も効果的な「地方政府幹部を地元住民が直接選挙により選ぶことによる監視」というシステム、即ち地方レベルにおける選挙の導入が実現する見込みは現在のところ全くない。

 現在の中国の政治状況は、これまで述べてきたように、胡錦濤総書記が「抵抗勢力」(既得権益グループ)とどれだけ決別できるか、という動きを基軸にして動いている。「抵抗勢力」(既得権益グループ)は、民主化に反対し、特定の政治グループと特定の経済界との結びつきを容認するグループであり、そのあり方は、「第二次天安門事件」の再評価に反対し、「三つの代表論」を打ち出した江沢民氏のグループとだぶって見える。政治的背景と軍の内部に基盤を持たない胡錦濤総書記が「抵抗勢力」(既得権益グループ)に対抗するのは相当に困難を伴うと思われる。2008年5月の胡錦濤主席の日本訪問や四川大地震対応においては、胡錦濤氏側が、かなり力を得たように見えた。しかし、2008年9月以降の大規模な景気刺激策の発動で、地方の「抵抗勢力」(既得権益グループ)は地方における行政権限による経済活動の推進という錦の御旗を得て、また大きく力を復活させてきているように見える。

 多くの組織に残っている共産党組織の存在が今後どうなるか、も今後の不確定要因のひとつである。今でも国有企業や大学、公的研究機関には、それぞれの組織のトップとは別に「党書記」という人が存在している。組織によって異なるが、人事や予算などは「党書記」が握っていると考えられている。しかし、市場経済に基づく組織トップの判断自主権と党書記の存在とは基本的に矛盾している。この矛盾が、各組織内の党組織不要論にまで広がった時、現在の中国の原則である「中国共産党による指導」が実態的にどうなるのか、不透明である。

 繰り返すが、「トウ小平氏が目指した改革開放政策の中国」は、2008年8月の北京オリンピックの開催で一応の目標達成を成し、今、中国は、「トウ小平氏が目指した改革開放政策の中国」に続く「次の時代」へ向けて模索をしている段階にいると言える。しかし、この文章を書いている2010年5月の時点では、まだ、当面の政治課題は世界的な経済危機からの脱出であり、民主化などの政治システムに関する議論は、今すぐに起こるとは思えない。ただ、次の党大会がある2012年には、おそらくは世界的経済危機は一段落している可能性があるし、2012年には香港で行政庁長官と議会の選挙があるので、それまでに政治システムについて何らかの議論が行われる可能性はある。

 2012年の香港の選挙では従来通りの選挙のやり方で住民による直接選挙は行わないことは既に決まっているが、香港住民による行政長官と立法議会議員の直接選挙への要請は強く、香港での次の選挙、即ち2017年の選挙が大きなポイントになるであろうと思われる(逆に言えば、このことは、2017年までは、大陸部において、民主化の動きが具体化するとは考えにくいことも意味する)。

 中国は、改革開放政策によって30年間でその経済を飛躍的に発展させた。しかし、一方で、経済成長を最優先させるために後回しになっていた政治システムの改革については、むしろ「文化大革命」に対する虚心坦懐な反省が色濃く残っていた1980年代よりむしろ後退しているように見える。旧ソ連においては、市場経済の導入による経済発展より先にソ連共産党による政権が崩壊してしまい、1990年代には経済的困難を経験した。西側の中には、先に民主化の苦しみを経験した旧ソ連諸国の方が今後の発展の可能性がある、と見る人がいる。一方で、分裂した旧ソ連諸国では、国によっては民族紛争の種が尽きず、旧ソ連の中の最大の国であるロシアですら国際的発言力の低下は免れておらず、1991年のソビエト連邦の崩壊は、旧ソ連諸国の人々にとってはむしろマイナスだった、と考える人もいる。

 中国における政治システムの民主化は、いかに時間が掛かろうとも、避けては通れない道程である。民主化されていない政治システムは、フィードバック機能が働かず、常に振り子のように許容限度を超えて大きく揺れ動く危険性をはらんでいるからである。また、経済的観点から見ても、国内の世論が政策決定に反映されるような政治システムができていないと、スムーズに内需適応型の経済政策が採れない、という欠点が露呈することになる。

 経済が急速に発展してしまった分、現在の中国における経済状況と政治システムのアンバランスは、既に限界点を越えてしまった、と見る人も多い。特に2009年春に展開された「愛国=中国共産党を愛すること」といった主張や「『中国共産党はすばらしい』と大合唱しよう」というスローガンは、1991年8月に失敗したソ連共産党保守派の反ゴルバチョフ・クーデターのような「時代錯誤」の感覚すら覚える。ただ、その後、「第4章第2部第9節:インターネット規制と『08憲章』」の最後に述べたように、2010年に入って、中国の新聞紙上ではやや自由な評論が復活してきているようにも見えることから、中国は旧ソ連に比べれば相当にしたたかな竹のような強靱さを持っているのではないか、と考えることはできると思う。

 トウ小平氏は、中国には国家を安定的にまとめるための「求心力」が必要であり、その求心力を「中国共産党による指導」に求めようとした。それが今でも続いているのであるが、ひとつのポイントは、中国共産党がなくなると中国はほんとうに「求心力」を失いバラバラに分解してしまうのか、ということである。2008年5月12日14:28、四川大地震が発生したとき、全中国の心はひとつになって、被災地への救援・復旧に当たった。それは私が全く知らなかった大きな「求心力」だった。地震発生から一週間後の2008年5月19日、中国政府は「全国哀悼の日」を設定した。その日の14:28、鳴り響くサイレンの中、全中国で黙祷が行われた。その日の夕方、天安門前広場には、手に手にロウソクを持った多くの市民が自然発生的に集まってきた。それは中国共産党の存在とは全く関係のないことだった。当局は、むしろそういった自然発生的な市民の集まりに警戒して、いつもより多くの警備人員をその日の夜、天安門前広場に集めた。

 四川大地震は、多くの地震災害の経験を持つ台湾の人々からも多くの支援を呼び寄せた。それは、中国共産党でも中国国民党でもない、まさに同じ「中国人」としての一体感の表れだった。私は、四川大地震に対する対応を見て、既に中国は中国共産党という「求心力」を必要としなくなっているのではないか、と思った。一方で、2009年7月の新疆ウィグル自治区の暴動は、少数民族問題において、中国共産党が「求心力」「仲介役」としての役割を果たしてないことを露呈してしまった。中国の人々自身がどう考えているのかはわからないが、今後とも中国共産党に「求心力」を求めていくのかどうかは、中国の人々が自ら決めることである。要は中国人民が自らの国の行く末を自ら決めるシステムをどうやって確立するかである。

 日本にとって、中国は隣国として大きな影響を受けざるを得ない位置にいる。日中関係は、既にお互いに経済的には相手抜きには考えられないほど密接な関係になっており、日本としては、中国の今後の動きに強い関心を持たざるを得ない。1980年代の改革開放政策が打ち出された直後の中国は、若葉のような若々しい心を持っていた。当時の中国は、社会主義体制の旧弊に苦しむソ連・東欧諸国に対して、改革開放政策の明るい未来へと続くひとつのモデルを提供していた。1980年代の中国は、まだ貧しかったが、世界の歴史の先頭を走っており、1989年~1991年のソ連・東欧革命の先導役を果たしたのである。しかし、中国自身は、1989年の「第二次天安門事件」によって、政治的・社会的改革の歩みを止めてしまい、逆に急速に進んだ経済的発展と社会・政治体制との間の乖離(かいり)を拡大させてしまった。

 1980年代の若々しい希望に満ちた中国を知っている私としては、経済と政治との矛盾した関係が既に臨界点を越えている言われる厳しい現状においても、中国が「文化大革命」や毛沢東主席の誤りすら認めた真剣かつ謙虚な1980年代にはあった「改革開放の原点」に立ち返って、次の新しい時代を切り開いて欲しいと願っている。

【「中国現代史概説」完】

以上

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2010年5月16日 (日)

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(2/3)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(2/3)

 1989年の「第二次天安門事件」と江沢民氏の総書記就任により、中国の政策は大きく変わった。「第二次天安門事件」の前後の大きな変化は以下の3点について見られる。

(i) 党と国家の権力が分散から集中へ

 改革開放当初は、「文化大革命」時代に全ての権力が毛沢東に集中していたことの反省として、党のトップの総書記、国家のトップの国家主席(1983年に復活)、軍のトップの党軍事委員会主席は別々の人物が就任していた(総書記:胡耀邦→趙紫陽→江沢民、国家主席:李先念→楊尚昆→江沢民、党軍事委員会主席:トウ小平→江沢民)。江沢民政権になって、この三つの職務は全て江沢民氏が就くことになった。権限がバラバラになっていたことにより、強い判断ができず、「第二次天安門事件」を招いた、という反省に基づくものと思われる。2002年に胡錦濤氏が党総書記になって以降も、この権力を一人の人物に集中させるという方針は変わっていない。

(ii) 毛沢東の復権(個人崇拝の復活)

 改革開放は、「文化大革命」の否定から始まった。それは、中国共産党の中では非常に苦しみながら導き出した「毛沢東も晩年には誤りを犯した」という判断から出発している。従って、改革開放政策は、もともとは「個人崇拝」の否定から始まっていた。このため1980年代のお札には毛沢東の肖像はなく、1980年代、各地にあった毛沢東像の多くは撤去された。しかし、政治と軍の世界で強いバックボーンを持っていなかった江沢民氏は、毛沢東の偉大なカリスマ性に頼らざるを得ず、全てのお札に毛沢東の肖像を復活させたほか、多くの場所で再び毛沢東像が造られた。1997年の第15回党大会では、「毛沢東思想」に引き続き「トウ小平理論」という言葉を作り、トウ小平氏自身が嫌っていたトウ小平氏への個人崇拝を前面に押し出した。さすがに江沢民氏自身はスターリンのように自分に対する個人崇拝までは求めなかったが、多くの大型建築物に残る江沢民氏の揮毫(きごう)は、江沢民氏の個人崇拝的指向の気持ちが込められているように思われる。

(iii) 反日感情の醸成

 1980年代までは、中国の指導者は「戦前の日本軍の中国での行為は、日本の軍国主義者が起こしたものだ。日本人民も日本軍国主義者の被害者だった。」という立場を取っていた。多くの中国人民もそういった指導者の考え方を受け入れていた。従って、日本人が戦前の中国での日本の行為を正当化しようとする場合には中国政府も中国の人々も怒ったが、1980年代の中国には、現在の日本政府や日本人に対する反発感情は全くなかった。

 ところが1990年代以降、多くの中国の人々、特に1990年代以降に教育を受けた若い人々の中に現在の日本政府や現在の日本人に対する反発感情が根付いてしまった。これは2007年4月に私が20年ぶりに北京に赴任してとまどったことである。

 もっとも、この反日感情の醸成は、単に江沢民政権の反日愛国主義教育によるものだけだと考えるのは単純過ぎるであろう。中国経済が成長し、経済面で日本と中国が国際社会においてライバル関係になりつつあることも背景にあるからである。また、日本の政治家が、たびたび中国や韓国から伝えられる懸念を無視する形でA級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝していることも、中国における反日感情の醸成に大きく寄与していることは間違いない。

 江沢民氏は、経済成長に伴って政治的発言力を増してきた私営企業経営者や会計士、弁護士等の裕福市民層、いわゆる「新社会階層」に対して、中国共産党に反対する勢力に回らないよう「三つの代表」論を打ち出し、「新社会階層」も中国共産党の中に取り込む方針を採った。よく言えば、これは「中国共産党を革命党から執政党に脱皮させた」と言うこともできるが、この方針は、「中国共産党を社会主義を目指す政策集団から、政権運営により特定の集団の利益を擁護する利権集団」に変質させる危険性もはらんでいた。

 中国共産党が利権集団化する危険性は、地方レベルではかなり以前から存在していた。中国の社会主義革命では、かつて政治と生産の場を一体化させていた「人民公社」が存在していたことから、政治権力と経済的生産主体の一体化はごく自然なことだったからである。中国の場合、農村地域の農地は「国有」ではなく、今は地方行政単位である「集団」の所有、という形式になっている。この「集団」は「集団所有制企業」という公有企業も所有している。改革開放政策で、「人民公社」が解体され、政治組織と生産組織は分離され、農業については各個別農家単位の責任で農業を行う「生産責任制」に移行したが、農地の「所有権」は「集団」に残ったままになった。地方組織が所有していた工場等の「集団所有制企業」は、「人民公社」からそれぞれの地方行政単位に経営主体が移転した。

 中国の地方行政単位では、そのトップは選挙で選ばれるわけではなく、共産党の地方組織が指名することになっているので、実質的には地方の有力者が地方の党と行政単位のトップになっているケースが多い。農地の所有権が地方行政単位にある以上、農地を収用して工業団地に開発する、などという場合の土地収用権の発動は、地方行政単位のトップが行うことになる。結局は、地方の党と行政単位の幹部個人が、地方行政を握ると同時に、農地の開発や工業などの生産活動を牛耳ることになる。地方の党と行政単位の幹部をコントロールしているのは中国共産党の地方組織である。中央から派遣された清廉潔白な党員が党の地方組織をきちんと引き締めている例も多いと思うが、革命が成功して既に60年以上経過している現在においては、現実には地方の中国共産党幹部が「赤い帽子を被った地方ボス」としてその地域に君臨しているケースも多いと思われる。こういった「地方ボス」のグループは、現在の体制が続くことにより今後とも引き続き権益を維持できることを強く望んでいる「既得権益グループ」と呼ぶこともできる。

 「第4章第2部第11節:経済対策バブルと『抵抗勢力』の肥大化」で述べたように、こういった行政と生産現場を牛耳っている地方の党と行政単位の幹部にとって、一番避けたいのは、その地域の住民の選挙によって自分たちの地位が脅かされることである。従って、こういった行政と生産が癒着した地方の末端の幹部は、「既得権益グループ」であるとともに、中国の政治システムの民主化に対する最も強力な「抵抗勢力」となっているのである。

 1990年代初め、中国でも最も末端の地方組織である村民委員会において住民による直接選挙制度が試験的に導入され始めた。しかし、「人民日報」(日本語版)2008年8月4日付け記事「2010年までに都市社区の50%で直接選挙を実施」によると、2008年の段階において、農村部での村民委員会の選挙実施率は平均80%前後、都市部の居民委員会の直接選挙実施率は22%とのことである。

 農村部の村民委員会や都市部の居民委員会は、居住住民の自治組織で、行政単位というよりは町内会的組織に近い。行政単位の日本の「村」にあたる「鎮」やその上のレベルの「県」といったその上のレベルの地方行政組織においては、住民による直接選挙は行われていない。ましてや国家レベルで法律を決定する全国人民代表(国会議員)は、何層にも及び人民代表の間接選挙で決まっており、国会議員を人民による直接選挙で選ぶ、といった制度は中国にはない。

 中国の政治システムにおいて、民主化が全く進んでいないのは、地方末端レベルにおける民主化に対する「抵抗勢力」の存在と、「第二次天安門事件」の武力鎮圧の過程で成立した江沢民政権が民主化を凍結し経済建設に集中してきたことの相乗効果によるものであった。江沢民氏が自らの政権の最後に提起した「三つの代表」論は、私営企業経営者などを含む幅広い階層を政治に参加させることになる、というプラスの側面もあるが、地方末端レベルにおける政治的権力構造と地方経済の有力者との癒着を党中央レベルでも公認する、という意味で、地方の「抵抗勢力」に理論的根拠を与える、という側面も併せ持っていた。

 胡錦濤政権の誕生とほぼ時を同じくして、21世紀に入ってからの中国ではインターネットが急速に普及し始めた。現在の党中央は、中国共産党による政権維持を批判する見解については、新聞報道をコントロールし、インターネットについても強力な規制を掛けているが、一方で、地方の党や行政組織の無軌道なやり方を新聞メディアやインターネットやが伝えてこれを監視する役目を果たすことを肯定している(「肯定せざるを得なくなっている」と表現する方が正しいのかもしれないが)。実際に、新聞メディアやインターネットで不正を指摘されて更迭された地方の党・政府の幹部は少なくない。

 地方において、共産党地方組織と地方行政組織が警察など公安当局や司法当局が地元の企業と一体になっていて、腐敗や環境汚染を防止できない、という状況を何とかしなければ、地方の人々の党に対する支持を失わせることになる、という危機感は、現在の党中央の多くの人々は持っていると思われる。その解決のためのひとつの方法は、地方政府幹部に対する選挙制度の導入であることから、おそらくは中国共産党の内部においても、地方末端レベルにおいて自由選挙制度を導入すべきではないか、という議論は行われているのではないかと推測される。

 2007年前半には、知識人の間で、中国共産党も、一定の選挙制度を導入して、スウェーデンの社会民主党のような社会民主主義の手法も取り入れてはどうか、という議論が行われていたようである。

 最も直接的に腐敗防止のためには選挙制度を導入する必要があるとの主張を述べたのが、経済専門週刊紙「経済観察報」2007年5月21日号の社説「根本は政治体制改革にある」である。

(参考URL1)「経済観察報」ホームページ2007年5月18日アップ社説
「根本は政治体制改革にある」
http://www.eeo.com.cn/observer/pop_commentary/2007/05/18/63695.html

 この社説のポイントは以下の通りである。

○我々は、党の規律委員会が行ってきた改革と革新には肯定する価値があると認識している。しかし、党規律委員会の努力には一定の限界があると考える。

○トウ小平同志が見抜いていたように、腐敗は、権力と制度的設計の中にこそ病原がある。

○腐敗の源は、権力が発生するシステムと権力が授与される過程の不当性にある。

○腐敗防止のための制度や機構の改革も重要であるが、明確に言えば、更に根本的なのは政治体制改革である。権力の源を更に民主的にし、透明性を高め、権力を持つ者はより広範な監督を受けるようにし、権力本体が有効なチェック・アンド・バランスを受けるようにしなければならない。

○「絶対的な権力には、絶対的な腐敗が付いてくる」という言葉を知っている人の中には、もう既に、民主、自由、人権、法治が資本主義の専属品である、などという近視眼的な見方をしている人はいない。

○もう政治家に「現在の社会制度がまだ十分に完全なものではなく、成熟しきっていない」などという言い逃れを言わせてはならない。

○「多くを言って、少ししかやらない」「少し言うが、全くやらない」という時代は既に終わっている。既に多くのことが言われてきた。多くのことがなされる時が、今、来ている。

 さらに「経済観察報」では、この直後の2007年6月18日号の「観察家」(オブザーバー)という欄に経済改革体制研究会副会長の楊啓先氏が書いた「一編の遅れてやってきた『検討の要約』」という論文を載せている。楊啓先氏は、スウェーデン社会民主党を紹介するとともに、スウェーデン社会民主党が歩んできた道とソ連共産党の歩んでみた道を比較して論じている。

(参考URL2)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2007年6月24日付け記事
「スウェーデン社会民主党を紹介した意味」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/06/post_c5b0.html

 ここではソ連共産党が政権を失ったことを指摘し、暗に中国共産党に対しても、社会民主党的歩むことを検討すべきことを提起している。

 しかし、現在(2010年5月)の時点でも、地方行政幹部を住民による直接選挙で選ぶ、とか、地方行政を地方の住民の選挙によって選ばれた地方議会に監視させる、といった直接的な議論は、新聞等で見ることはできない。このことは、中国共産党内にまだそれを許さない勢力が残っていることを示している。

以上

次回(最終回)「あとがき~『トウ小平氏による改革開放路線』後の中国とは?~(3/3)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-0d31.html
へ続く。

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2010年5月15日 (土)

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(1/3)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

あとがき~「トウ小平氏による改革開放路線」後の中国とは?~(1/3)

 そもそも中国において革命が起きた時、多くの人々が考えた最終目標とは次の事柄であったろう。

(1)封建的な束縛から脱して、近代的な国家を築くこと。

(2)中国が外国による支配から脱して、自らの将来を自ら決めることができるようになること。

(3)多くの人々が貧しさを脱して一定の生活レベルを送れるような経済水準に達すること。

 抗日戦争と国共内戦を経て、中華人民共和国が成立したことにより、(1)と(2)については一応の目的を達することができた。中華人民共和国成立後の大きな課題は、経済建設を進め、貧しさから脱することであった。また、(2)についても、単に「外国から干渉を受けない」ことに留まらず、国際社会において、その人口比率に見合った国際的発言力を持つことも中国の課題として残された。

 1950年代における社会主義の建設やその後の「文化大革命」の経験により、毛沢東が理想とした平等主義社会においては、巨大な人口を抱える中国の経済を発展させ、人々の生活を豊かにすることには限界があることが明らかとなった。世界経済の中では、一定の経済力を持たない限り、国際政治の中で大きな発言権を持つことも難しい。そのため、トウ小平氏は、「文化大革命」を否定し、自らの従来からの信念、即ち「白い猫でも黒い猫でもネズミを捕る猫をよい猫だ」という考え方に基づき、一定の自由な経済活動を認めることにより人々の意欲を引き出し、それによって強力な経済発展を図ろうとする改革開放政策を発動した。社会主義的であろうと、資本主義的であろうと、経済活動を活発にし、人々を豊かにする政策がよい政策なのだ、というトウ小平氏独特の現実的な考え方である。

 トウ小平氏は、経済発展を強力に推進するためには、中国国内における政治的安定が最も重要である、と考えていた。トウ小平氏は「文化大革命」期の政治的混乱が経済発展の足かせとなったことを痛いほど知っていたからである。従って、トウ小平氏は、経済の面では大胆な自由化を進める一方で、政治面では「四つの基本原則」を堅持することを強く求めた。「四つの基本原則」とは、「社会主義の道」「プロレタリア独裁」「中国共産党による指導」「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」の四つである。

 このうち「プロレタリア独裁」は1992年頃から「人民民主主義独裁」と呼ばれるようになった。「社会主義の道」と「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」は、基本的には同じものである。トウ小平氏は、株式市場の開設など、「社会主義の道」や「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」に合致しないような政策も大胆に導入した。要は「四つの基本原則」とは言っているが、「四つの基本原則」の中で重要だったのは「中国共産党による指導」を堅持すること、即ち、中国共産党による政権担当を堅持すること、だったのである。極端な言い方をすれば、採用する政策が社会主義的であろうがなかろうが、「中国共産党による政権維持」の原則だけは守らなければならない、とトウ小平氏は考えていたのである。

 中国の場合、「中国共産党による政権維持」は単に「自らの権力を維持したい」というどんな政権でも持つ自己保存意識に留まらない。中国の場合は「国の統一を維持する求心力を維持する」という別の意味も合わせ持つ。国土が広く、多数の民族を抱える中国にとって、社会の安定を維持するためには、「何らかの求心力」が必要であった。近代以前は、皇帝権力がその「求心力」であった。皇帝権力が消滅した新しい中国でも、中国を中国としてひとつにまとめる「求心力」が必要である。毛沢東が生きていた時代には、毛沢東のカリスマ性が一種の「求心力」となっていたが、毛沢東が死去した後の改革開放時代においても「求心力」は必要だと考えられていた。トウ小平氏は、歴史的経緯に基づけば、「中国共産党が政権を維持する力」を「求心力」にするほかはない、と考えたのである。

 この「国家における求心力」は、近代国家においてもその意義を失っていない。イギリスにおける王(女王)もそうであるし、日本の天皇もそうである。日本国憲法第一条にある「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」という規定は、「国家における何らかの求心力」が現在の国民主権に基づく民主主義国家においても、政治的に一定の意義を持っていることを端的に表現している。

 しかし、中国のようなひとつの党による強力な政権の維持は、政権を腐敗させやすい。また、社会主義は、政府が経済を計画しコントロールする、という点で、本質的に政府と企業経営者との癒着を産みやすい構造を持っている。中国共産党もそのことはよく認識していた。中国の歴代王朝が政権の腐敗で崩壊したことは皆が知っているし、最も身近な例として、中国国民党が多くの人民から支持を失った大きな理由のひとつに、政府の有力者と経済界の資本家とが癒着する腐敗が蔓延したことが挙げられることは、中国共産党自身が一番よく知っていた。従って、中華人民共和国成立後も、中国共産党は腐敗の防止には常に神経質になっていた。幾度となく行われた「整風運動」とか「整党運動」といった運動は、党幹部の腐敗を厳しく戒めるものだった。

 一方、政府のトップを有権者の選挙で選ぶ民主主義制度は、報道の自由が確保されていれば、政府の腐敗に対して一定の浄化能力を持っている。有権者は、腐敗した政府の幹部を選挙で落選させることができるからである。従って、「腐敗防止」という観点で、政府幹部の選任に有権者による選挙制度を導入するのは有力な政治的オプションのひとつである。社会主義は、公有経済を主体とするという一種の経済制度であり、民主主義は政府のトップと政策のあり方をどうやって決めるかという政治システムであって、社会主義と民主主義とは相反するものではなく、同時に成立させることも可能である。選挙制度を通じて社会主義を実現しようという社会民主主義は、まさに社会主義と民主主義を融合させたものである。

 ただし、民主主義制度を採用した場合、有権者が社会主義を選択しない、という可能性は常に存在する。「文化大革命」が終わった直後の1980年代においては、共産党幹部のみならず、多くの中国の人々は、選挙によって政権が交代するような制度を中国で採用すれば、再び「文化大革命」のような大混乱が起こるおそれがある、と考えていたものと思われる。

 しかしながら、改革開放政策により諸外国の情報がどんどん流入するようになると、「中国共産党が政権を担当する」という基本路線を維持して社会の安定を保ちながらも、政治システムの一部に民主主義制度を取り入れることも可能ではないか、と考える人々も多くなってきた。1986年暮れの学生運動の際、一部の学生が「我々の市長を我々が選ぶことがどうしてできないのか」と主張してたことにそれは現れている。胡耀邦氏や趙紫陽氏も、中国共産党が政権を担当するという前提の下で、一部(特に末端地方レベル)では有権者による直接選挙制度の導入を検討してもよいのではないか、と考えていた可能性がある。

 趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)において、次のように明確に述べている。

「じっさいのところ、西側の議会制民主主義体制ほど強力なものはない。民主主義の精神をはっきりとあらわし、現代社会の要請に応じることができる、たいへん成熟した制度である。」

「もちろん、将来、議会制民主主義よりも進んだ政治体制が登場する可能性もあるが、それは未来の話だ。現代において、他に優れた体制は存在しない。」

「これに基づいて言えるのは、国家の近代化を望むなら、市場経済を導入するだけでなく、政治体制として議会制民主主義を採用すべきだ、ということだ。」

 失脚後、長く続く軟禁状態の中で客観的に考えを巡らせることによってこういった考え方に到達したのだとしても、元中国共産党総書記だった趙紫陽氏がこのような考え方に到達していたことは注目に値する。

 トウ小平氏自身は、社会の不安定化を避けるため、中国共産党による政権維持は絶対に譲れない条件だと考えていた。トウ小平氏は、経済的発展が最優先課題であり、当面(少なくとも自分の寿命が尽きるまでの間は)中国における民主主義導入に関する議論は、経済的発展のためにマイナスであると考えていたようである。「趙紫陽極秘回想録」の中で趙紫陽氏が述べているところによれば、1987年の第13回党大会における政治報告を議論する過程において、トウ小平氏は、趙紫陽氏が経済分野において大幅な市場経済原理を取り入れる「社会主義初級段階論」を展開することに大いに賛意を示す一方で、政治体制改革については、「何があろうとも『三権分立』のような形にしてはならない」と主張し、「『ほんのちょっとでも』そのような性質が含まれてはならない」と言っていた、という。(趙紫陽氏が「極秘回想録」でこのような話を披露している、ということは、趙紫陽氏自身は、1987年の第13回党大会の時点で、既に「三権分立」や「議会制民主主義」の優位性について認識していたことを暗示している)。

 政治体制改革に対するこのようなかたくななトウ小平氏の考え方は、「第二次天安門事件」に対する対処方針を決める際に明確になる。1989年4月、「第二次天安門事件」の運動が始まった後、トウ小平氏は学生運動に対する李鵬氏らの強硬な対応方針を支持し、「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」という社説を書かせた。

 トウ小平氏の政治体制に対するこのようなかたくなな考え方は、結局は1989年6月4日、学生らの運動に対して人民解放軍を導入して武力鎮圧する道を選ばせた。「第二次天安門事件」の武力による鎮圧は、「中国における民主主義制度の導入」に関する議論を「タブー」にし、政治的議論を停止させ、確かに全ての勢力を経済発展に集中させる役割を果たした。しかし、一方で、国内に大きな亀裂も残した。性急な民主主義制度の導入に必ずしも賛成していなかった人々の中にも「武力による鎮圧はやり過ぎで、ほかの解決方法があったはずだ」と考える人々もいた。

 そもそも「第二次天安門事件」の鎮圧に当たって、人民解放軍は、東西南北の四方向から進軍して天安門広場を制圧することを命令されていた。しかし、市民による抵抗を武力で排除して天安門前広場にまで進軍したのは、西から入った部隊だけであり、北、東、南から入ろうとした部隊は市民の抵抗の前に進軍をあきらめている。このことは、この時点で、人民解放軍の中にすら「人民に対して発砲すべきでない」と考えていた人々がいた(むしろその方が多かった)ことを示している。武力による進軍をあきらめた部隊の司令官は、おそらく後で何らかの処分を受けたものと思われるが、武力による鎮圧が本当に正しかったのか、という思いは、後々まで、そして現在でも、中国共産党内はもちろん、人民解放軍の内部にも残っているのではないかと思われる。

 「トウ小平秘録」(参考資料17)によれば、「第二次天安門事件」の際の国家主席で、武力鎮圧を指示した側だった楊尚昆氏自身、1998年の時点で、この事件について「わが党が歴史上犯した最も重大な誤りだった。いまとなっては、私にはそれを正す力はないが、将来必ず正されると思う」と述べたという。

 現在、「人民日報」ホームページにある過去の重大事件の解説の中で「第二次天安門事件」は「1989年の政治風波」というタイトルで表示され、以下のように解説されている。

○5月19日の晩、中国共産党中央は首都と一部の地域に戒厳令を敷くことを決定した。しかし、少数の暴乱分子が一部の人々を煽動して戒厳令部隊に対抗した。

○同時に、上海、広州等においても連続して暴徒が党や政府の機関を攻撃し、交通施設を破壊する重大な事件が発生した。これに対し、党中央、国務院、中央軍事委員会は果断な処置を執り、暴乱を収束させた。

○動乱と反革命暴乱に勝利したことは、我が国の社会主義が獲得したものと10年の改革開放の成果を確固たるものとするとともに、党と人民に有益な経験と教訓を与えた。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「共産党新聞」-「重大事件」
「1989年の政治風波」
http://cpc.people.com.cn/GB/33837/2535031.html

 しかし、現在、中国の政治家は公の席で「第二次天安門事件」の武力鎮圧は正しかった、と明確に発言することはない。そう明言することが中国国内でも反発を呼ぶことをよく知っているからである。現在、中国の政治家が誰かから「第二次天安門事件」についてのコメントを求められた時には、「その問題については、既に党中央の結論は出ている」と述べるのが「公式答弁」となっている。そして仮に中国の政治家が外国のメディアからそのような質問を受け「公式答弁」をしたとしても、そういった問答があったこと自体、中国国内では報道されない。

(参考URL2)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2009年3月4日記事
「公式見解」すら報道されない微妙な案件
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2009/03/post-b929.html

 「第4章第2部第9節:インターネット規制と『08憲』」で詳しく述べたように、ネットワーク上で「第二次天安門事件」に関する情報は検索できないようになっている。現在の中国においては「第二次天安門事件」については、「あの運動は正しかった」「武力による鎮圧は誤っていた」という趣旨の情報はもちろん、事件に関する公式情報以外の情報にはアクセスできないようになっている。おそらくそれは、この問題に触れることが、即ち、中国国内の亀裂を再び浮き立たせてしまうことになり、当局がそれを恐れているからだと思われる。

 趙紫陽氏に代わって政権を担当した江沢民氏は、「第二次天安門事件」によって急きょ抜擢され、総書記となり、その後国家主席となったことから、「第二次天安門事件において武力による鎮圧をしたことは誤りだった」と主張することは、江沢民氏の総書記・国家主席としての存在意義を疑問視することに等しい。従って、江沢民政権の時代には、「第二次天安門事件」における学生らの運動を肯定したり、武力による鎮圧を疑問視したりすることは、即、政権批判に繋がると考えられていた。

 胡錦濤氏は、その経歴において「第二次天安門事件」そのものとは直接関係していないので、胡錦濤政権になってからは、もっと客観的に「第二次天安門事件」について評価できるはずである。むしろ、胡錦濤氏は、中国共産主義青年団出身の胡耀邦氏の直系の人物であることから、思想信条的には胡耀邦氏や趙紫陽氏に近いと考えられる。また党中央弁公庁の幹部として胡耀邦氏や趙紫陽氏の下で働いていた温家宝現国務院総理も、思想信条の上では胡錦濤総書記に近いと考えられている。胡耀邦氏については、2010年4月15日付けの「人民日報」で温家宝総理が胡耀邦氏を偲ぶ文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を発表するなど、その功績は公式に評価されるようになってきているが、趙紫陽氏についての名誉回復はまだなされていない。それはおそらくは、中国政界において、まだ江沢民氏の勢力がかなり強力に残っていることを証明しているものと思われる。

以上

次回「あとがき~『トウ小平氏による改革開放路線』後の中国とは?~(2/3)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-5e8b.html
へ続く。

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2010年5月14日 (金)

4-2-11:経済対策バブルと「抵抗勢力」の肥大化

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第11節:経済対策バブルと「抵抗勢力」の固定化

 2008年5月初旬、胡錦濤主席は日本を訪問し、江沢民政権時代の歴史認識問題で鋭く対立する関係から新しい戦略的互恵関係を築こうとする関係へと、対日関係方針の転換を図った。

 胡錦濤主席が日本から北京へ帰った直後の2008年5月12日、四川省アバ・チベット族チャン族自治州ブン川県(「ブン」は「さんずい」に「文」)を震源とするマグニチュード8.0の巨大地震が中国を襲った。7万人近い犠牲者が出た未曾有の自然災害だった。この巨大地震の救援・復旧活動を通じて、多くの中国の人々はボランティアで働き、多くのNGOが活動し、台湾も含めて世界の中華系の人々が救援の手を差し伸べ、世界各国も様々な形で支援し、中国はそれを受け入れた。中国内外のマス・メディアが現地に入り、リアルタイムの情報を世界に発信した。中国にとって、多くの痛ましい犠牲者と被災者を出した不幸な自然災害であったが、この自然の猛威に立ち向かうことを通じて、中国では新しい「何か」が始まったように思えた。

 そうした中、2008年8月8日~8月24日、中国の人々にとって念願だった北京オリンピックが開催された。オリンピック運営は滞りなく行われ、インターネット規制もオリンピックを契機として一部が緩和された。

 一方で、この頃までに中国経済は過熱し、株と不動産については「バブル」がはじけかけていた。株については、上海市場の総合指数が2007年10月には6,000ポイントを超えていたものが、2008年4月には3,000ポイントを下回るまでに下がっていた。不動産についても、沿岸部の主要都市については、2007年末頃から販売にブレーキが掛かり、2008年に入って販売価格が下がるところが出始め、一部の不動産業者の破産も伝えられた。

 中国の急速な経済成長の牽引車だった沿岸部の製造業にもかげりが見え始めていた。2008年7月上旬、中央の指導者が手分けして沿岸部の製造業地帯を視察した。輸出産品製造業の中に倒産や経営者蒸発といった事態が発生し始め、リストラされた労働者たちや賃金未払いの労働者たちに不満がうっ積する傾向があったため、中央の指導者が実情を把握するために手分けして視察を行ったのではないかと考えられている。

(参考URL1)サイエンス・ポータル・チャイナ
「JST北京事務所快報」(File No.08-007)
「2008年上半期の中国経済とイノベーション」(2008年7月23日)
http://www.spc.jst.go.jp/experiences/kaihou/b080723.html

※この記事の筆者はこの「中国現代史概説」を書いている私である。

 2007年までの株と不動産価格の上昇は明らかに過熱気味であり、中国政府は金融引き締めの方向にマクロ経済政策の舵を取り始めていた。一方で、中国の経済成長に伴う中国人労働者の賃金上昇により、安い賃金と豊富な労働力に頼った労働集約型産業においては、中国はバングラディシュ等の他の発展途上国との関係において、国際競争力を失いつつあった。こういった中国経済の「バブル経済の頂点を過ぎた印象」により、北京オリンピック終了後、2008年の秋に一気に中国経済の変調が表面化する兆候があった。2008年前半までの中国政府による金融引き締め政策は、株や不動産のバブルが大きくなりすぎることを警戒したものであったが、それによって輸出産業にブレーキが掛かったと感じた一部の人々は、「今はまだ引き締めをする時期ではない」と反発していたようである。

 ところが、北京オリンピック終了直後に、予想していなかった外的状況の変化が起こった。2008年9月15日にアメリカの名門投資銀行のリーマン・ブラザーズが連邦破産法の申請をしたことに端を発した世界的な金融危機の発生、いわゆるリーマン・ショックである。中国における北京オリンピック終了後のバブル崩壊が来る前に、中国の外の世界経済の方がはじけてしまったのである。中国の輸出産業は、欧米などの輸出先の経済危機の影響をまともに受けた。広東省や上海周辺など沿岸部の労働集約型輸出産業では、工場閉鎖等が相次いだ。

 世界各国がリーマン・ショック対策を議論する中、中国は金融引き締め策を急きょ転換し、素早く大きな経済対策を発表した。このスピーディーな対応は、一党独裁政権ならではのものだったと言える。2008年11月9日、中国政府は2010年末までに総額4兆元(約60兆円)に上る景気刺激策を実施する旨を発表したのである。この中国の巨大な景気刺激策の発表は、世界の株式市場に大きなプラスの影響を与えた。このことは、既に中国が世界経済の牽引車となっていることを内外に印象付けることになった。

 この総額4兆元の景気刺激策の発表においては、住宅などの民生、農村・農民対策などが掲げられていたが、金額的なパーセンテージで見ると、この景気刺激策は、鉄道、道路、空港等の建設や災害被災地の復興・復旧で全体の7割を占めるなど公共投資型のものであった。

(参考URL2)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2008年11月10日付け記事
「中国の景気刺激策は世界を救うのか」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2008/11/post-cce7.html

(参考URL3)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2008年11月28日付け記事
「『史上最大のバブル』の予感」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2008/11/post-793d.html

 2008年前半までバブルを警戒して金融引き締めの方向へ向かっていた中国のマクロ経済政策は、ここ一気に景気刺激型へと転換したのである。

 このリーマン・ショックに対する中国の景気刺激策は、中国の政治の動きを大きく変えた、と私は考えている。というのは、現在の中国の政治勢力は、「とにかく猛スピードで経済成長を成し遂げ、社会の最下辺の人々の生活をも向上させることにより、社会に不満を溜めないようにすべきである」と考える勢力と、「経済成長のスピードをやや抑え気味にしてでも経済格差を是正するとともに社会のセーフティ・ネットを充実させて社会の最下辺の人々の不満に対応すべきである」と考える勢力の二つの勢力がある、と考えられるからである。どちらかと言えば、前者が江沢民政権の考え方を引き継いだものであり、後者が「和諧」を強調する胡錦濤主席が主張している政策である。前者の考え方は大きなバブルを招く可能性がある、として、後者の立場に立つ人は、常にバブルがはじけないように経済をコントロールしようとする。2008年前半までの引き締め傾向にあったマクロ経済政策は、後者の立場に基づいたものであり、それを批判していたのは前者の立場に立つ人であった。

 2008年9月に始まったリーマン・ショックでは、こういった立場の違いによる議論を無意味にした。とにかく緊急の対応策が必要となったからである。そのため、後者の立場の人も、バブルを警戒した引き締め政策を当面は封印せざるを得なくなった。前者のいわば「高度経済成長至上主義派」の人たちは、中央政府が景気刺激策を打ち出したことにより、自分たちが「錦の御旗を得た」と考えて、急速な投資活動に走るようになった。それが結果的に、中国内陸部における消費の拡大に繋がり、2010年5月現在、中国経済全体の復活を引っ張り、結果的にそれが世界経済の回復を大きく押し上げているのである。

 しかし、上記「参考URL3」の「『史上最大のバブル』の予感」で書いたように、現在の中国の景気刺激策に基づく急速な消費の拡大は、公共投資型景気刺激策が効いているものであって、バブル的な不動産価格の高騰を伴っているものであり、バブルがはじける危険性を常にはらんでいる。

 そもそも、この20年間の中国の急速な経済成長には、様々な要因があったと考えられるが、それらを大まかに分類すると以下のとおりになると私は考えている。

(1)外国からの資本と技術の導入による製造業の成長と豊富で優秀な労働力の活用

(2)石炭などの天然資源の開発の推進

(3)環境汚染を気にしない設備による製造など他の国ではできないコスト・ダウンを行ったことによる国際競争力の獲得

(4)農地を工業用地に変えることによる価値創造

 (1)と(2)は中国経済の「実力」であり、中国の急速な経済成長を支えている背骨である。これらがある限り、中国経済のパワーは空虚なものとはならない。(3)は報道の自由や民主主義が定着していないことにより実現できていたものであり、中国の地域住民の権利保護を進めていけば、やがては失われていくことになる。

 (4)は、中国が建前上「社会主義」を標榜していることから生じる特殊な「価値創造」である。中国では、土地の私有は認められておらず、都市の土地は国有であり、農村の土地は集団所有(村などの所有)である。農地は村が所有している土地について農民に耕作する権利(土地使用権)を許諾して農業を営ませているものであるので、村が必要だと考えれば、合理的な補償金を農民に支払うことによって土地使用権を回収して、それを工業用地として転売することが可能となる。合理的な補償金の金額は、例えば、その農地で過去3年間に収穫された農作物の価格、などというふうに定められているが、中国の場合、農作物買い取り価格は政策的に低く設定されているので、補償金を支払って農民から土地使用権を回収し、工業用地として高く転売すれば、多くの場合「儲け」が出る。例えば、工業用地として売れば、農民に支払う補償金の十倍の値段で売れる、というケースが多くあるという。

 農地は、「村」という「集団」の所有物であって、特定の人が勝手に処分できるものではないが、「中国共産党が全てを支配する」ことが原則である中国においては、村の党委員会の幹部は地方政府の幹部と一体になっており、実質的に個人の意志で補償金を支払って農民から農地を取り上げて工業用地として転売することが可能である。もちろん、農地を工業用地に変えるには、その地方の土地利用計画に従う必要があり、上部機関の許可を必要とする。しかし、許可を取らずに(許可手続きは後でやる、という言い訳を付けて)農地を工業用地に変える例が後を絶たないと言われている。中国中央政府の国土資源部が2007年に記者会見で述べたところによれば、土地の違法な利用の80%は地方政府または政府関係機関が主体となって行った違法行為である、という。

(参考URL4)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2007年7月13日付け記事
「中国の地方政府による無秩序な土地開発」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/07/post_1c55.html

 最近の報道によれば、上海万博が行われている上海市の財政収入の4割は土地の使用目的を変更したことにより得た収入である、という。こういった農地の工業用地への転換は、一時的な経済価値を生み出すが、もしこの工業用地に工場が建たなければ、土地を開発した費用は回収されず、不良債権化することになる。また、数年間経って補償金を使い果たした「元農民」は失業者と化して、社会の底辺に溜まってしまうことになる。

 住民による地方政府幹部の選挙が行われず、報道の自由も認められていない中国においては、地方の政府や党の幹部が土地開発を巡って土地開発業者と結託すれば、土地売却代金と農民へ渡した補償金の差額を地方の党・政府の幹部と土地開発業者とで折半することも可能である。そういった腐敗・不正が数多く行われているのではないか、というのが、現在の中国の多くの人々の不満である。

 今、中国では「裸官」という言葉が流行っている。不正蓄財行為を働いている地方の党・政府の幹部の中には、自分の家族を海外に住まわせ、海外に財産を移転しながら、自分だけが中国に残って「官」として不正行為を続けている者が多くいると言われている。彼らが「裸官」と呼ばれる人々である。

 こういった腐敗し不正を行う地方の党・政府の幹部は、公共事業投資型の高度経済成長政策が続くことを望み、金融引き締め政策に反対する一方で、報道の自由と地方における自由選挙の導入に対する強力な「抵抗勢力」となっている。報道の自由は自分たちの不正行為をあばき、自由選挙の実施は住民たちの投票により自分たちがクビになることを意味するからである。中国経済は、現在、かなりの部分市場経済化しているが、中国が自国の制度を「社会主義」だと称している元になっている「公有経済」のかなりの部分が、こういった地方の党・政府の幹部によって私物化された「形式的公有経済」である可能性がある。つまり、現在の中国においては、「社会主義を守る」という思想は、「腐敗し不正を行う地方の党・政府の幹部を守る」ことに結びつきやすい。

 過度の高度経済成長を避け、社会の経済格差を是正しようとする試みは、こういった「抵抗勢力」の抵抗に会うことになる。2008年前半までは、バブルを警戒してマクロ経済を引き締め方向に持っていこうとしていた中央政府と地方の「抵抗勢力」との間で綱引きが行われていたと思われるが、リーマン・ショックを受けた巨大な景気刺激策の発動により、地方の「抵抗勢力」は「景気刺激のために投資は増大させてよい」という「錦の御旗」を一気に獲得した。従って、結果的にリーマン・ショックは、中国の地方における「抵抗勢力」を再活性化させることになったと言ってよい。現在、世界経済は中国内陸部の経済発展に引っ張られているといっても過言ではないが、その牽引力のかなりの部分を中国の地方の「抵抗勢力」が担っていることを世界の人は認識しておく必要がある。

 やみくもな高度経済成長路線は、やがて土地開発事業の不良債権化という形のバブル崩壊をもたらすことになる。今、「裸官」と呼ばれている人々は、バブルがはじける直前まで「儲け仕事」を続け、バブルがはじける直前に海外に「勝ち逃げ」しようとしているのである。

 2008年後半のリーマン・ショック以降の景気刺激策は、現在、中国に大きなバブルを膨らませているが、そのバブルが何をきっかけにして「はじける」のかを現時点で見極めるのは極めて難しい。ただし、農地を闇雲に工業用地に変えることによる農地の減少や農業生産の衰退がひとつのきっかけになる可能性はある。中国では2005年~2009年までは5年間連続して食糧生産の増産が続いており、ここのところ食糧問題は中国においては発生していなかった。しかし、2010年は前半が天候不順であったため、2010年の夏収穫作物(6月に収穫期を迎える冬小麦が中心)においては、減産となる可能性がある。中国の外貨保有量は世界一であるので、中国での食糧生産が減れば外国から輸入すればよいので、中国国内で食糧危機が起こることは考えられないが、もし中国が大量の食糧を輸入することになれば、別の意味で世界経済に大きなインパクトを与えることになる。2010年後半においては、中国における食糧生産高が次の世界的経済変動のひとつのきっかけになる可能性がある。

 いずれにせよ、2008年9月のリーマン・ショックは、「北京オリンピックが終わったら中国でも新しい時代が始まる」という「淡い夢」をもろくも打ち砕いた。中国における「抵抗勢力」は、北京オリンピック終了後に衰退するどころか、さらに肥大化してしまったのである。任期があと2年ちょっとしかない胡錦濤主席・温家宝総理のコンビによる政権は、任期中にこの「抵抗勢力」を押さえ付ける有効な政策が打てるのであろうか。それとも、その課題は次の政権に引き継がれるのであろうか。もし、胡錦濤主席・温家宝総理が任期中に適切な措置が講じられない場合、「抵抗勢力」グループが次期政権の指導者選定の過程に介入し影響を及ぼすことも考えられる。もしそうなれば、中国における「改革」はさらに遅れ、バブルはさらに大きくなる危険性がある。

 胡錦濤氏の中国共産党総書記としての任期は2012年秋に行われるであろう第18回党大会まで、温家宝氏の国務院総理としての任期は2013年3月に行われるであろう第12期全人代第一回全体会議までである(任期は二期10年間まで、という現在のルールに従えば、であるが)。これから胡錦濤主席・温家宝総理体制の任期が切れるまでの2~3年間が、中国の今後を占う重大な転換期になる可能性が大きい。日本としても、その動きを刮目して注視していく必要がある。

以上

次回「あとがき~『トウ小平氏による改革開放路線』後の中国とは?~(1/3)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-5fdd.html
へ続く。

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2010年5月13日 (木)

4-2-10:少数民族政策破綻の危機

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第10節:少数民族政策破綻の危機

 少数民族政策は、中国にとって最重要課題のひとつである。民族間対立の問題は、中国に限らず、それを抱える国にとって非常に困難な問題であり続けている。大多数の民族単位を中心としてひとつの国を形成している日本、韓国・朝鮮、モンゴル、ベトナムとは異なり、中国には多民族国家としての悩みがある。旧ソ連は、ソ連共産党による「縛り」がなくなった後、民族単位で分裂した。民族が居住する地域ごとに国を分離独立させたからといって民族問題が解決するわけではないことは、旧ソ連諸国や旧ユーゴスラビア諸国の現状が端的に物語っている。

 中国は、古代から人口の大多数を占める漢族とその他の少数民族との間の抗争、対立、協調、融合、場合によっては支配と被支配との関係を繰り返してきた。逆にいうと、こういった複雑な民族間の関係があってこその「中国」なのであって、こういった各民族間の関係がなくなってしまったら、それは既に「中国」とは言えない社会になってしまう。漢族とその他の少数民族との関係は、中国にとって永遠のテーマであり、これら漢族を中心とした複数の民族との集合体が中国を中国たらしめている根本状態なのである。従って、中国共産党は中華人民共和国成立前から、漢民族と少数民族との融和を最重要課題のひとつとして取り上げてきた。その姿勢は、今も変わっていない。

 中国共産党は、「民族間の融和」を最重要課題に掲げてはきたが、「中華人民共和国建国期」「大躍進時代」「文化大革命時代」においては、共産主義の理想と古い習慣の打破をそれよりも重要な旗印として掲げてきた。従って、時として共産主義のシステムを導入するに当たって、各民族が伝統的に守ってきた宗教的なしきたりや社会システムを破壊することもあった。しかし、改革開放が始まると、文化大革命時代の教条主義的な政策に対する反省に基づき、アメリカや日本、西欧諸国などの資本主義諸国との協調関係を重要視するようになるにつれて、「異なった価値観を尊重した上で相手と協調する」ことが強調されるようになった。それに伴って、少数民族が持つ伝統的なシステムについても、強圧的に変更を迫るのではなく、それぞれの価値観を尊重しつつ、封建的で近代的な人権思想に反するようなものは徐々に変えていく、というふうにやり方を変えていった。

 しかし、1990年代以降、改革開放政策が進展し、経済発展が進むと、少数民族の漢族との対立は融和するのではなく、むしろ先鋭化する方向へ向かってしまった。改革開放経済政策下の経済発展は、「豊な者」と「豊かになり損ねた者」との経済格差を拡大したが、多くの場合、「豊かな者」とは漢族であり、「豊かになり損ねた者」は少数民族だったからである。 

 漢族には、もともとビジネスに才能を発揮するタイプの人が多く、東南アジア諸国など、多くの中華系民族が住む中国以外の国でも、漢族がその国の経済を牛耳っているケースが多い。民族や宗教によっては、ビジネスで活躍するよりも民族の伝統を守ったり宗教的精神生活に重きを置くことを重要視する人々がいる。そういった人々とビジネス好きの漢族とが自由競争をすれば、漢族が経済的に優位に立つことになるのは、容易に想像できるところである。それは経済発展のための「能力」の問題ではなく、「意志」や「価値観」の問題である。

 1990年代以降の改革開放政策は、政治については思考停止状態に陥ったこともあり、「経済成長第一主義」に変質した。「経済成長第一主義」は、ビジネスで成功することを求めない生き方や価値観を無視する政策でもあった。

 私は、1980年代の中国には、改革開放政策の中でも、ビジネスで成功すること以外の価値観も認められるべきだ、という考え方が残っていた、という印象を持っている。

 1986年11月、私は、仕事の関係で雲南省のビルマ国境に近い騰冲(日本語読みで「トウチュウ」)というところへ行ったことがある。当時、この周辺は、外国人の立ち入りが禁止されていた「非開放区」だった。中国側からは仕事上必要な写真以外は、周辺の風景や街の様子などを写真に撮らないように、と注意を受けていた。

 騰冲は、雲南省の省都・昆明からプロペラ機で約1時間の保山というところへ行き、そこから車(ランド・クルーザー)で6時間くらい掛けて3,000メートル超級の峠を三つ越えてやっと到着する奥地である。そのあたりには、漢族のほか、ミャオ族、タイ族、イ族などの少数民族が多数住んでいる地域だった。

 案内してくれた中国側の人たちは「あまりに貧しい地区なので外国人の人たちに見せるのは恥ずかしい」と言っていた。実際、靴を履いていない裸足のこどもたちもたくさんいたし、夜になると家には裸電球が1個だけ、という家がほとんだった。峠を越える道路にはトンネルがひとつもなく、全て山の上を越えるものだったが、舗装はされていなかった。延々と続く道路は、近くの村人が石を割って引き詰めた砂利道だったのである。

 近代化された沿岸部の中国に比べれば確かに「貧しい」と言えたが、農地では作物が青々と茂り、農作業をしている牛はまるまると太っていた。行ったのがちょうど11月だったので、農作業が一段落した時期であり、農民たちは近くの温泉に遊びに行っていた。「温泉」といっても、地中からわき出る温泉水をパイプでバスタブに入れるだけの施設だが、それでも農民たちは「1年に一度の楽しみ」という感じで、温泉を楽しんでいた。これだけの奥地に、こういった一定程度の「豊かさ」をもたらした、という点で、「中国共産党は偉大だ」ということは誤りではない、とその時私は本気で思った。

 街には「少数民族用品専用デパート」が建っており、各民族が身につける様々な民族衣装や小道具が売られていた。車の中から見た畑で働くタイ族の農民は、未婚の女性は華やかな色の腰巻きを、既婚の女性は黒い腰巻きをして作業をしていた。それは、タイ族の習慣なのだそうだ。タイ族の村のお寺に案内されたが、タイ国のお寺と同じように「高床式」のお寺で、靴を脱いで中に入るようになっていた(日本の高床式住居や靴を脱ぐ習慣は、稲作とともにタイ地方から伝来したと言われている)。案内してくれた中国側の人は、「文革時代にはこういったお寺も破壊されたのですが、改革開放後、政府の政策によって再建されました。村の人たちはお参りにきていますよ。」と説明していた。

 私が見た雲南省のこのあたりは外国人非開放区なので、外国人観光客に見せるためにこうしたことをやっているわけではなかった。その時の私は「中国政府は少数民族対策に相当に気を使っているなぁ」という印象を強く受けた。「非開放地区なので写真を撮るな」と言われたので、写真は撮らなかったが、これだけ少数民族を支援する政策を採っている、ということを中国政府は対外的にもっと宣伝してもいいのに、とその時私は思った。

 そういった中国政府の姿勢(基本的考え方)は、たぶん今でも変わっていないはずである。

 少数民族政策について、2007年4月からの二回目の北京駐在の最中に印象に残ったのは寧夏回族自治区へ行った時のことである。しかし、2008年に寧夏回族自治区へ行った時の印象は、1986年に雲南省の少数民族地域へ行った時との印象とはだいぶ異なるものだった。

 寧夏回族自治区は、乾燥した農耕に適さない黄土高原が続く地域であり、中国でも最も貧しい地域と言われている。ここは、草の根まで食べ尽くしてしまう羊の放牧によって、かつての草原が砂漠化し、山の上まで森林を伐採して耕地にしてしまったために、表土の流出が問題になっている地域である。住民の生活を守り、国土の荒廃を防ぐために、政府は羊の放牧を禁止し、遊牧民は定住させて畜舎で羊を飼うようにさせ、「退耕還林」と言って、山の上の方に開墾された耕地では耕作をやめて植林し、森林を再生させようというプロジェクトを展開していた。乾燥地帯で農業ができない山間地区の村については、黄河の水を人工的に汲み上げて乾燥した土地を灌漑し、人工的に灌漑された地区に村ごと移住させるという「生態移民」の政策も採られていた。一方で、農牧業では支えきれなくなった産業構造を転換させるため、石炭探鉱の開発や石炭を使った化学工業の開発も進められていた。

(参考URL)サイエンス・ポータル・チャイナ
「JST北京事務所快報」(File No.008-08)
「寧夏回族自治区の『退耕還林』プロジェクト」(2008年9月18日)
http://www.spc.jst.go.jp/experiences/kaihou/b080918.html

※この記事の筆者はこの「中国現代史概説」を書いている私である。

 こういったは寧夏回族自治区における政策は、「貧しい人々の生活を経済開発で救う」という意味では、決して間違った政策ではないと思われる。ただ、それまで遊牧によって生活していた人々に遊牧をやめさせて定住させ、住み慣れた村を離れて遠くの灌漑設備の整った地域へ村ごと移住させる、といったことは、その人たちが伝統的に守ってきた暮らしや民族としてのアイデンティティを破壊することになる。貧しい生活から人々を脱却させる、という意味で、目的や目指すべき方向は、たぶん間違ってはないのだろうと思われるが、そういった政策の対象となる人々に対する「納得のプロセス」は果たして行われたのだろうか、と私は疑問に思った。

 中華人民共和国建国時と1959年の「大躍進」の時期に起きたチベットでの騒乱は、「中国共産党の理想」を「押しつけた」ことが原因だ、と私は思っている。1959年の人民解放軍のチベットへの進出については、「チベット仏教僧らの支配層が人民を支配していたという封建的体制を改革したのだ」と中国政府は説明しているが、たぶんそれは間違ってはいないのであろう。ただ、実施された政策が仮に「正しい理想」に基づくものだったとしても、人々との間での「納得のプロセス」なく押しつけられた「正しい理想」は、人々の反発を招くだけである。

 少数民族地域で進められる大々的な経済開発プロジェクトは、辺境地域の経済発展のために行われているのであり、その地域に住む人々のためを思って行われている、というのはウソではない。しかし、「納得のプロセス」なしに進められるそういった経済開発は、下手をすると地元に人にとっては単なる「経済侵略」と受け取られかねない。しかも、多くの経済開発の主体は漢族が経営する企業等により行われるため、地元の少数民族の人々に「漢族に経済的に侵略された」という印象を与え、経済開発政策が民族間対立を先鋭化させるおそれがある。

 中国では「少数民族は一人っ子政策の対象とはしない」「大学入試統一試験に際しては少数民族の受験者に対しては一定の枠を与える(あるいは点数に「ゲタを履かせる」)」といった少数民族優遇政策が採られている。これらの政策に対しては、逆に漢族の人たちには「逆差別だ」として反発がある。多くの漢族の人たちは「少数民族地域に大規模な経済開発投資を行って、実際に辺境地域の経済レベルは急速にアップしている。その上、少数民族に対する各種優遇政策を採っているのに、暴動を起こすなんてけしからん」という気持ちが強いと思われる。しかし、その考え方の背景には「経済が発展すれば他の価値観は考慮する必要はない」という「カネ儲け至上主義」がある。「民族のアイデンティティや伝統的な生活を大事にしたい、という価値観も大事にすべきだ」という発想が欠けているのである。

 1980年代は「文化大革命に対する反省」が政策の根底にあった。「文化大革命に対する反省」には「異なる価値観の存在を認める」ということでもあった。しかし、1989年の「第二次天安門事件」は、「異なる価値観の存在を認める」という寛容性をも圧殺してしまったのである。その結果、金儲けをすることが誰もが求める目的であるという価値観以外の価値観を認めない、という風潮が広まってしまった。

 多数決で物事を決める民主主義は、少数民族問題の解決には、必ずしも有効ではない。多数決だけで政策を決めてしまったら、多数派民族の考え方だけが取り上げられ、少数民族の人々の意見は無視されがちだからである。本来ならば、中国共産党は、「中国は少数民族の権益を守ることによって成立している。多数決に基づく西欧型民主主義の導入は、漢族優遇政策を招き、少数民族の権益を損ねる。だから中国では西欧型民主主義を導入するのはなじまない。」といった主張もできるはずなのであるが、そういった主張はあまり見掛けない。そのことは中国共産党自身が、現在の少数民族政策について、「少数民族の権益を守っているとは言えない」と自覚しているからなのかもしれない。

 改革開放から30年が経過し、沿岸部では急速な経済発展が進み、中国経済が世界経済を引っ張ると言われる状況にすらなった。しかし、少数民族政策については、北京オリンピックを前にした2008年3月に起こった争乱に見られるようなチベットにおける争乱は、一向に治まる気配はない。それどころか、それまであまり表立った大規模な争乱はなかった新疆ウィグル地区でも、2009年7月5日、ウルムチで数百人規模の死者を出す大規模な暴動が起こった。改革開放政策は、中国全体の急速な経済成長については成功したが、少数民族政策については、むしろ失敗したと言わざるをえない。

 西欧型民主主義が多数決原理に基づくものでありながら、少数民族政策において時として有効に機能するのは、西欧型民主主義が「異なる価値観を認める」ことに立脚しており、政策決定の過程に一般大衆による「納得のプロセス」を内包しているからである。

 もし、少数民族政策に失敗するのであれば、それは、中国共産党による政治運営が西欧型民主主義より優れている、という根拠が完全に失われることを意味する。中国共産党自身、そのことはよく自覚している。そのことは2010年4月14日に発生した少数民族地域の青海省で大きな地震が発生した際、胡錦濤主席が外国訪問を切り上げて帰国して対応に当たるなど、最大限の努力で救援・復旧作業に当たったことでもわかる。

 今後の中国において、少数民族政策がうまく行くかどうかは、沿岸部を中心とする「経済発展で豊かになった部分」を少数民族などの「豊かになり損なった部分」へ均てんすることができるかどうかに掛かっている。そのことは、少数民族対策だけでなく、社会全体における経済格差の是正にも繋がる部分であり、それがうまくできるかどうかが、今後の中国の安定にとって大きな鍵になるものと思われる。

以上

次回「4-2-11:経済対策バブルと『抵抗勢力』の肥大化」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-3669.html
へ続く。

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2010年5月12日 (水)

4-2-9(2/2):インターネット規制と「08憲章」(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第9節:インターネット規制と「08憲章」(2/2)

 外国からの衛星テレビに対する検閲やインターネット規制などが行われている中、2008年12月9日、中国のインターネット上に「08憲章」(漢字で書けば「零八憲章」)という文章が発表された。これは国連人権憲章60周年、「北京の春」(民主の壁)運動30周年を記念して、中国の将来あり得べき姿をまとめた一種の「政治綱領」で、民主的選挙の実施、特定政党を特別扱いすることの廃止、三権分立、教育の政治からの中立性の確保、国軍の成立(注:人民解放軍は中国共産党の軍隊であって中華人民共和国の軍隊ではない)などを述べたものである。日本の新聞では「中国共産党の一党独裁の廃止を唱えるもの」などと報じられたが、「08憲章」自体では慎重な表現が使われており、「中国共産党」という言葉は一切出てこない。しかし「1949年に成立した『新中国』は、名前の上では『人民共和国』であるが、実質上は『党天下』である。執政党が全ての政治、経済、社会、資源を壟断(ろうだん)している。」としており、「執政党」という言葉を使って現在の体制を批判している。

(注)「民主の壁」(北京の春)運動については、「第3章第5部第3節:西単(シータン)の『民主の壁』」「第3章第5部第5節:改革開放と『四つの基本原則』で終わった『北京の春』」参照。

(参考URL1)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2010年10月16日付け記事
「『08憲章(零八憲章)』全文の日本語訳」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/10/post-c6ae.html

 この「08憲章」は、報道等によれば、もともとは12月10日の国連人権憲章60周年の記念日に発表される予定だったのだが、主要執筆者を当局が拘束する可能性があったため、1日前倒しして12月9日にインターネット上にアップされた、とのことである。この「08憲章」は、見付かり次第、当局によって削除の措置がなされたが、あっと言う間に多数のネット上のサイトや個人ブログ等に転載が繰り返されたため、当局による削除が間に合わず、数日間は検索エンジンを使えばどこかのサイトで本文を見ることができた。しかし、そのうちに検索エンジン(バイドゥ、ヤフー、グーグル)自体が自主規制をして、「関連法令の規定に基づき検索結果の一部は表示されません」などといった注意書きとともに、検索することが難しくなった。しかし、例えば「08県長」(中国語で「県長」は「憲章」と同じ発音)といった「隠語」で検索すると本文を閲覧できるような状態は数か月に渡って続いた。

 「08憲章」の中身は、民主的選挙や三権分立を唱えたもので、多くの国の憲法に書かれているような政治の基本原則であるが、中国当局は、この文書の主要起草者である劉暁波氏を拘束した。「08憲章」の起草時の署名者は303名であり、その後、転送が繰り返されるたびに署名者が増え、最終的には署名者は数千名に達したと言われている。その中で劉暁波氏のみが拘束された理由は不明であるが(他の署名者の中にも拘束された者がいる可能性もあるが明らかにされていない)、劉暁波氏は、「第二次天安門事件」の際、6月4日未明の最後の時点まで天安門広場におり、運動の指導者的立場だったことから、当局が「08憲章」の動きにおいても「首謀者」と見て拘束したと考えられている(「第二次天安門事件」の際の劉暁波氏の動きについては「第4章第1部第9節:『第二次天安門事件』」参照)。劉暁波氏については、二審制による中国の裁判を経て、2010年2月11日に「国家政権転覆煽動罪」により懲役11年、政治的権利はく奪2年の判決が確定している。

 「08憲章」は、将来の中国の政治体制のあるべき姿のひとつのひな形・理念を提示したものであるが、そのためにどういった行動が採られるべきか、といったことは何も書かれていない。従って、「08憲章」がネット上に掲載されたことによって、多くの人々が行動を起こす可能性はほとんどないものであった。にも係わらず、中国当局がこの文書をネット上から削除し(外国のネット上にあるものについてはアクセス制限を掛け)、首謀者とされる劉暁波氏を逮捕・起訴したことは、中国当局は、中国の将来のあるべき姿や理念について、議論することすら許さない、ということを示した、ということができる。

 一方で注目されるのは、「08憲章」がネット上で公表される前日の2008年12月8日の「人民日報」において、「なぜ今も中国共産党なのか」について論じた評論が掲載されていたことである。

(参考URL2)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2008年12月8日付け記事
「『なぜ今も中国共産党なのか』に対する答」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2008/12/post-f9f3.html

 上記の記事の中で紹介している人民日報2008年12月8日付けの評論「改革開放以来の我が国の多数党協力理論と政策における革新と発展」(改革開放30周年を記念して)(杜青林)では、下記の「6つのなぜ」が提起されている。

(注)杜青林氏は、全国政治協商会議副主席・中国共産党中央統一戦線部部長

・なぜマルクス主義に思想上の指導的地位を与えるのか。思想の多元化を図ってはならないのか。

・なぜ社会主義だけが中国を救うことができ、中国の特色のある社会主義だけが中国を発展させることができるのか。民主社会主義や資本主義ではダメなのか。

・なぜ人民代表大会制度を堅持しなければならないのか。「三権分立」をやってはダメなのか。

・なぜ中国共産党の指導の下での多党協力と政治協商制度を堅持しなければならないのか。西側のような多党制ではダメなのか。

・なぜ公有制経済を主体とした多種類の経済を協同させることにより発展させる方法を基本的な経済制度にしなければならないのか。経済の私有化を図ってはダメなのか。また逆に純粋な公有経済制度にしてはダメなのか。

・なぜ改革開放制度を揺るぎなく堅持することが必要なのか。昔たどった道へ戻ることはなぜダメなのか。

 「人民日報」では、翌2009年4月に掛けて、上記の「6つのなぜ」に対する回答とも言える評論を次々に掲載した。これは「08憲章」が述べている中国共産党による一党支配を廃し三権分立の確立を図る主張に反論を「人民日報」紙上で展開したということができる。これは、「08憲章」の頒布は禁止する一方で、「08憲章」の存在を党としても相当に気にしていることを表しているのではないか、と私は思っている。

(参考URL3)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2009年4月10日付け記事
「6つの『なぜ』」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2009/04/post-a1d0.html

 一方で、2009年春の「人民日報」の論調は、まるで文化大革命の時代に戻ったかのような古い論調の評論が目立った。極めつけは、2009年4月27日付けの「人民日報」1面トップ記事「新中国60周年慶祝を巡って深く群衆の中に入って愛国主義教育活動を行おうとすることに関する意見」である。この意見では次のように呼び掛けられている。

○「共産党はすばらしい」「社会主義はすばらしい」「改革開放はすばらしい」「偉大な祖国はすばらしい」「各民族人民はすばらしい」という現代の主要なメロディーを大声で合唱しよう。

○「中国共産党を熱愛すること」「社会主義による新中国成立の重大な歴史的意義」「新中国成立60年、特に改革開放30年の輝かしい成果」「中国の特色のある社会主義」「民族精神と時代精神」「基本的国情と現在の状況に対する政策」の6つについて宣伝教育を行う。

○顔と顔を合わせた対面方式の教育活動を幅広く展開し、特長のある大衆活動や先進的モデル活動を力を入れて展開し、豊富で多彩な文芸活動を積極的に展開する。

○事実を用い、モデルを用い、データを用い、吸引力、影響力、納得性のある教育活動を展開し、形式主義に陥ることを避け、無駄な浪費が拡大することは戒める。

 これは2009年10月1日に行われる中華人民共和国成立60周年を記念する国慶節の式典へ向けて、国内を盛り上げていこう、という趣旨の呼び掛けであるが、一方で、「第二次天安門事件」20周年にあたる2009年の春から夏へ掛けて「08憲章」に見られる民主化の動きを警戒するためのものであると思われる。「『共産党はすばらしい』というメロディーを大声で合唱しよう」などという呼び掛けを21世紀の中国人民が素直に受け入れるとは考えられないから、こういった評論が「人民日報」の1面に登場したことは、むしろ党内で民主化を進めるべきとする意見とそれに対抗する意見が戦わされていることを表していると見た方がよいのかもしれない。

 2009年10月1日の中華人民共和国成立60周年記念式典が無事に終了した後もインターネット規制は相変わらず続いているが、中国国内の新聞報道には若干の自由度が増した雰囲気が感じられる。日本での報道によれば、2010月3月2日付けの中国の13の新聞は、全人代全体会議の開催を前にして、戸籍制度を改革し、都市と農村の区別なく、人々に医療・教育・自由な転居など憲法が保障している自由・民主・平等の権利を与えるよう主張する共同社説を掲載したという。その後、この「共同社説」を掲載したことによって、各新聞の編集長が更迭された、というような報道はないことから、新聞に対する「締め付け」は2009年の春頃に比べれば少しは緩和しているように思われる。

 私はたまたた2010年4月末に北京に行ったが、北京で買った2010年4月29日号の「南方周末」(日本語表記だと「南方週末」)の評論面のコラム「方舟評論」の欄には、常連評論員の笑蜀氏による「異なる意見に寛容になることこそ、揺れ動く状況を安定させることになる」と題する評論が掲載されていた。2月に「08憲章」の主要起草者である劉暁波氏の懲役11年の有罪確定といったニュースはあったにしても、4月15日付けの「人民日報」に温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」が掲載されたことなども踏まえれば、2010年春は、一年前の2009年春頃の雰囲気とはだいぶ変わってきてるように思える。そのことが2010年4月30日夜に行われた上海万博の開幕式に「上海閥」と言われる江沢民氏、呉邦国氏、賈慶林氏は出席しなかった(温家宝総理も出席しなかったが)ことと連動しているのかどうかは、現時点ではわからない。

以上

次回「4-2-10:少数民族政策破綻の危機」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-a40e.html
へ続く。

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2010年5月11日 (火)

4-2-9(1/2):インターネット規制と「08憲章」(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第9節:インターネット規制と「08憲章」(1/2)

 改革開放政策の進展に伴って1980年代半ば、中国は外国のラジオ放送に対して掛けていた妨害電波の発信を停止した。1988年には台湾から発信される英語の短波放送すら北京で受信できるようになっていた。1980年代後半においては、中国の改革開放政策はうまく行っており、少々外国から情報が入ってきても、体制には全く影響しない、という自信が中国当局にもあったからと思われる。

 しかし、1989年6月の「第二次天安門事件」以降、状況は一変した。まず、外国から「第二次天安門事件」に対する中国当局の対応を批判するような情報をシャットアウトする必要があったからである。中国当局が最も神経を使ったのは、発達するインターネットにどのように対処するかだった。現在の経済活動においてインターネットの利用は不可欠であり、光ファイバー網の設置など、インターネット環境の整備は中国政府にとっても重要な課題だったが、一方で外国から中国当局を批判する情報がインターネット経由で入ってくるのをどう防ぐのかが重要な課題だった。

 2000年代の前半までの状況については、私も詳細には把握していないが、少なくとも2003年1月に北京に出張で行った際、私はホテルからダイヤルアップでインターネットに接続したが、特段、障壁のようなものは感じなかった。しかし、2007年2月に出張で北京へ行き、ホテルからLANケーブル経由でパソコンにつなげた時、厳然と存在するインターネット規制に私は愕然とした。まず、ニフティ社が経営するブログサイト「ココログ」(この文章を掲載しているサイト)に北京から接続できなかった。また、日本語ウィキペディアへもアクセスができなかった。

 中国当局が構築しているインターネット規制機構は、「金盾プロジェクト」と呼ばれたり、「グレート・ファイアー・ウォール・オブ・チャイナ」(中国語で「防火長城」)と呼ばれたりする。後者は、万里の長城を英語で「グレート・ウォール・オブ・チャイナ」と呼ぶことにちなむ一種の「シャレことば」である。私は2007年4月~2009年7月の二度目の北京駐在期間中、西は新疆ウィグル自治区ウルムチや青海省南寧から南は広東省深センまで、中国各地でインターネットにアクセスしたが、どの地域においても全く同じようなインターネット規制が行われていた。しかし、広東省深センのわずか数キロ南にある香港に出ると、このインターネット規制は行われていなかった。

 中国のインターネット規制は、2008年の北京オリンピックや2010年初めにグーグル社が中国大陸部における検索事業から撤退するに際して世界的に有名になったが、2010年5月現在、厳然と存在している。一番わかりやすい例が、最近話題になった中国大陸部からグーグル香港へアクセスした場合の反応である。今、中国大陸部からグーグル中国に接続すると、グーグル社の方針に従ってグーグル香港に自動的に転送されるようになっている。中国大陸部からでも、グーグル香港からあたりさわりのない単語を入力して検索しようとすると、通常通りに検索できるが、「六四天安門事件」「零八憲章」などの「敏感な語」を検索しようとすると、検索ボタンをクリックした瞬間に(検索結果のリストが出る前に)グーグル香港へのアクセスが遮断されて、検索結果のリスト自体を見ることができない(「零八憲章」(「08憲章」)については後述する)。グーグル香港以外の別のサイトは見ることができるので、インターネット接続そのものが切断されるわけではない。その後、数分間はグーグル香港自体へのアクセスができなくなる。数分経過してから再びグーグル香港へアクセスすると、アクセス可能になり、あたりさわりのない単語ならば検索できるようになる。しかし、「敏感な語」を入れて検索しようとすると再びグーグル香港へのアクセスが遮断される。

 中国のインターネット規制は、状況に応じて様々に変化する。ニフティ社のブログサイト「ココログ」へは2007年5月初め頃からアクセスが可能になり、2009年終わりか2010年初め頃に再びアクセスができなくなった(従って、今書いているこの「中国現代史概説」は中国大陸部からは見ることはできない)。日本語版ウィキペディアについては、2007年6月中旬~9月中旬頃まで一時的にアクセスできるようになり、その後アクセス制限が掛かっていたが、2008年4月初以降アクセスできるようになっている(中国語版ウィキペディアについては、一貫してアクセスできない状態が続いている)。2008年4月以降アクセスできるようになった日本語版ウィキペディアについても、「四五天安門事件」(第一次天安事件)は検索できるが、「六四天安門事件」(第二次天安門事件)にアクセスしようとするとアクセスが遮断される状態が続いていた。しかし、2008年12月1日、日本語ウィキペディアの「六四天安門事件」の項目も北京から閲覧が可能になった。こういうふうに時期によってアクセスできる範囲が変化するのはなぜなのかは、よくわからない。

 BBCの中国語サイトについては、従来アクセス禁止であったが、北京オリンピック開幕直前の2008年7月末にアクセスできるようになった。その後、BBC中国語サイト内にある掲示板については、「敏感な話題」が掲載されるとその掲示板だけアクセスできないような事態が続いていたが、2008年12月頃以降は、再びBBC中国語サイト全体にアクセスできないような状態になっている(これは、下記に述べる「08憲章」がネット上に発表されたことと関係している可能性が大きい)。

 中国のインターネット規制は、おそらくは「六四天安門事件」のような「敏感な語」をキーワード検索で引っかけて自動で規制する方法と、人海戦術による個別チェックでアクセス禁止サイトを設定する方法とを組み合わせていると思われる。例えば、ダライ・ラマ14世がアメリカ大統領に会ったりすると、その時期だけホワイトハウスやアメリカ国務省のサイトにアクセスできなくなったりする。これは、中国のインターネット規制が全て自動的な規制によるものではなく、人が個別にその時期の状況を踏まえて、アクセス制限の仕方をコントロールしていることを表している。

 インターネットだけではなく、外国の衛星テレビ放送に対する検閲規制も存在する。中国では、衛星テレビ受信装置の設置は許可制で、許可された衛星テレビ受信装置には、外国の放送は受信できないようなソフトが組み込まれているらしい。外国人が泊まるホテルやアパートメントでは、NHK国際放送やCNN、BBCなどの衛星テレビが入っているが、これらの放送は、パラボラアンテナで衛星からの電波を受信した後、ケーブルテレビで映像を配信している。北京などの沿岸部に近い都市の日本人が多く住むアパートメントでは、日本のBS放送の直接受信をやっているところもあるのでわかるのだが、ケーブルテレビ経由で配信される外国のテレビ番組は「生中継」であっても、30秒ほど時間が遅れている。チベット問題、ウィグル問題、第二次天安門事件に関すること、など中国にとって「敏感な」映像が流れる時には、NHK国際放送やCNN、BBCなどの放送は検閲により真っ黒な画面になる。北京オリンピックの前に聖火リレーが諸外国で妨害を受けていた頃には、この「検閲によるブラックアウト」が頻発した。

 NHKやCNN、BBCだけでなく、フランス語の放送、ドイツ語の放送でも「検閲ブラックアウト」が行われていたから、おそらくは英語、日本語、フランス語、ドイツ語のわかる「検閲官」が常時監視していて、問題と思われる映像が流れた場合には映像の配信をカットしているものと思われる。外国語のテレビ放送を見ている中国人は、ほとんどは外国の様子をよく知っている知識人階層だと思われ、「大多数の一般庶民」がこういった外国語のテレビ放送を見るとは思えないし、各国の言語を理解できるような人材がこのようなところで使っているのはそもそも人材の浪費だとも思われるが、中国当局としては、今でも外国衛星テレビ放送の検閲は重要だと思っているらしい。

(注)ただし、外国衛星テレビ放送に「検閲ブラックアウト」を掛けている背景には若い人(外国語を習っている学生など)に見せたくない、という配慮があるのかもしれない。ちなみに、北京の有名大学の学生寮で使える無料のインターネットでは外国のサイトへはアクセスできないようになっているとのことである(大学内には有料のインターネット・サービスもあるし、街にはインターネット・カフェもあるが、使えるお金が少ない学生が有料のインターネット・サービスを気軽に利用することはないと思われる)。

 2009年7月に新疆ウィグル自治区ウルムチで暴動が起きた時は、外国にいるウィグル人組織のリーダーであるラディア・カーディル女史が映った場面が検閲によりブラックアウトされていた。2009年7月8日の夜7時からのNHKニュースでは、同日正午のNHKニュースの一部が中国国内で検閲ブラックアウトになったことを伝えていたが、中国国内で配信されたNHK国際放送では、その「中国国内ではNHKにも検閲ブラックアウトが掛かった」というニュース自体に検閲ブラックアウトが掛かっていた(私は、ケーブル経由のNHK国際放送とNHK-BSを直接受信していたものを同時に見ていたので、どこが検閲ブラックアウトされていたのかがわかった)。

 さらに、多くの在留邦人がいる諸外国では、衛星版の日本の新聞を発行しているが、中国当局は大陸部での日本の新聞の衛星版の印刷を許可していない。従って、中国国内にいる邦人が見る日本の新聞は日本から直接持ち込んだものか、香港で印刷した衛星版を大陸部に持ち込んだものかのいずれかである。持ち込みに際しては、中国当局にとって不都合な部分は検閲切り抜きが行われている(一般に、中国人が見てもすぐわかるような写真や風刺マンガの類が検閲で引っ掛かるケースが多いようである)。

 本稿の参考資料である「トウ小平秘録」は、産経新聞社が発行している本であるが、産経新聞中国総局が取材に協力してくれた人に贈呈しようと50冊を日本から北京あてに送付したところ、中国の税関で没収されてしまった、とのことである。このため、産経新聞社では、「トウ小平秘録」の前文をインターネットに掲載して中国国内からも読めるようにしたが、現在のところ、この「トウ小平秘録」を掲載したインターネットのサイトにはアクセス制限が掛かっていないようである。そうした意味で、中国当局の情報規制は不徹底で、「抜け穴」が数多く存在している。ただ、後述するように、こうした「抜け穴だらけ」の情報規制でも、「関心があまり高くない一般人民」が受け取る情報をコントロールしている、という意味では、それ相応の効果を上げているようである。

 当局による規制にも係わらず、様々な情報はネット上を駆けめぐっている。例えば、2008年6月28日に貴州省黔南プイ族ミャオ族自治州甕安(日本語読みでは「おうあん」)県で起きた群衆による暴動事件では、暴動の状況を撮影した大量の写真がネット上にアップされた。中国では、携帯電話の契約件数が6億件を突破しており、一般大衆がカメラ付き携帯電話を持っている時代である。当局の対応に怒った群衆は、自分の目の前で起こっているできごとを携帯電話で撮影して、すぐさまネットにアップするのである。私はこの事件が起こった後、毎日のようにこの事件に関する写真がネットで見付かるかどうか調べてみた。ネットを見るたびに、先ほど見られた写真がなくなっているなど、当局が必死になってアップされた写真を削除していたことがわかった。しかし、アップされる写真の量の方が圧倒的に多かったため、事件が起きてから数日間の間は、ネット上で事件現場の写真を見ることができた(しかし、数日経つとほとんど全ての写真は削除されて見られなくなった)。

(参考URL1)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2008年7月3日付け記事
「貴州省甕安県の暴動事件の真相」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2008/07/post_ef2a.html

 また、携帯電話を使ったメールは、数が圧倒的に多いために、実態的に当局が全てを検閲することは不可能である。私が持っていた携帯電話にも「成人番組が見られます」といった明らかに違法だと思われる衛星テレビ受信装置の設置を勧める広告ジャンク・メールがしょっちゅう入っていた。従って、携帯電話メールを使ったチェーン・メールのような手法を使えば、デモの呼び掛けなどを当局側の規制が掛かる前に広げることは可能である。また、中国のネットワーカーも検閲の存在は常に意識しており、検閲で問題にされないような様々な工夫をしている。そのため、中国のネット上では、キーワード規制を避けるための工夫、例えば「中0国0共0産0党」といった表記や同音異義語を使った言い換えなどを頻繁に見掛ける。

 中国では、ネットやメールでデモへの参加を呼びかけること自体違法である。例えば、ある大学院生は、物価値上げが続くことに怒ってネット上でデモを呼びかけたところ、当局に拘束されたとのことである。

(参考URL2)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2007年8月24日付け記事
「ネットで集会を呼びかけた大学院生が拘束」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/08/post_2a32.html

 例え、ネットで匿名で呼び掛けを行ったとしても、インターネット・プロバイダーは中国では公安当局から要請があれば必要な個人情報は提供するので、当局が集会の呼び掛けをした人を特定して拘束することは可能である(上記、ブログの記事の場合、呼び掛けを行った大学院生は、そういった規則があることは知らず、反省していたとして、14日間の「行政拘留」処分だけで済んだとのことである)。

(注)中国には、公安当局の判断により裁判抜きで身柄を拘束できる「行政拘留」という制度がある。

 こういった中国当局によるインターネットをはじめとする各種情報ソースの規制は、情報の全てを規制するのは難しいにしても、総体的に見れば、それなりの効果は上げている。例えば、2008年2月に日本で発生した冷凍ギョウザに殺虫剤のメタミドホスが混入しているのが見付かった事件に対する中国国内における報道を見てもそれはわかる。この事件について、中国のメディアは本体の事件のそもそもの扱い方が小さかった。一方で、日本各地で冷凍ギョウザに対するチェックが行われている中、徳島県のある店で冷凍ギョウザに見付かった殺虫剤成分はその店内で行った殺虫剤の散布が原因であることがわかったという案件があったが、中国国内では、この徳島県の案件をことさらに取り上げて大々的に報道した。そのために、多くの中国の人々は「冷凍ギョウザの殺虫剤は中国国内ではなく日本国内で混入された」と思い込むようになった。この件について、中国のメディアの報道は「ウソ」を報道したわけではないけれども、報道する情報を選択することにより、中国の多くの人々の中に一定のイメージを形成することに成功したのである。おそらくは、その他の案件についても、中国当局の情報規制は、功を奏していると言ってよいと思われる。

以上

次回「4-2-9(2/2):インターネット規制と『08憲章』(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-f712.html
へ続く。

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2010年5月10日 (月)

4-2-8:「上海閥」と第二期胡錦濤政権の課題

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第8節:「上海閥」と第二期胡錦濤政権の課題

 胡錦濤総書記は、2005年9月3日の「抗日戦争・反ファシズム戦争勝利60周年記念大会」の講話において、抗日戦争期において国民党軍が果たした役割も評価する発言を行った。これは当時進められていた民進党政権下における台湾における国民党との融和方針の一貫だと思われる(この大会は、1945年9月2日に日本が降伏文書に署名してから60周年を記念して開かれた大会)。

(参考URL)「人民日報」ホームページ2005年9月3日17:32アップ記事
「胡錦濤総書記の抗日戦争勝利60周年記念大会での講話」
http://politics.people.com.cn/GB/1024/3665666.html

 「『中国問題』の内幕」(参考資料20)の中で著者の清水美和氏は、「これに対し公然と異を唱えたのは、最高指導部で思想・宣伝を担当する李長春政治局常務委員であった。」と指摘している。抗日戦争中の国民党の働きを再評価すること(国民党も日本を追い出すのに貢献したと評価すること)は、市場経済化する現在の中国において中国共産党が政権を担当していることの正当性を「抗日戦争期において外国勢力を排除したのは中国共産党である」ことに求めるという「愛国主義」と「中国共産党への支持」を同一視する発想に立った歴史教育を掲げる江沢民氏の政権の考え方に反するからである。

 「愛国主義」と「中国共産党への支持」を同一視する発想は、現在も続いている。「人民日報」2009年4月15日付け紙面では、1面下の方に論文「愛国主義を時代の光として輝かせよう」を掲載した。この論文では「愛国主義は、国を愛し、党を愛し、社会主義による統一を愛することであり、社会主義価値体系の核心と中国の特色のある社会主義を統一することであり、民族精神と時代の精神とを統一することである。」としており、「愛国主義=中国共産党を支持すること」であると主張している。この論文は、「第二次天安門事件」の運動がスタートして20周年目に当たるこの日に「愛国主義」と「中国共産党への支持」を強調することによって、「第二次天安門事件」20周年を記念する動きは許さないぞ、という党中央の意志を示した、ということができる(一方で、1年後の2010年4月15日付け「人民日報」が温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を掲載したことは、中国指導部内部において「第二次天安門事件」を回顧する動きを圧殺しようとする力に反抗する勢力もあることを示している、とも言える)。

 上に述べたように、「愛国主義=中国共産党への支持」という発想は、江沢民政権が強く打ち出した方針であり、江沢民氏をヘッドとする「上海グループ」(「上海閥」)の旗頭的思想のひとつである。しかし、インターネットが発達し、情報化された現在の中国において、こういった「愛国主義は中国共産党への支持である」といった主張に中国の人々が付いていくことは段々困難になりつつあることは明らかであり、総体的には時間が経過するにつれ、「上海閥」の根幹にあるこの考え方に対する支持は徐々に弱まりつつあると考えられている。

 「上海閥」にとって最も大きな打撃だったのは、2006年9月24日、「上海閥」のトップグループの一人と考えられていた上海市党書記の陳良宇氏が私営企業に対する不正融資の疑いで突然逮捕されたことだった。党中央政治局は、翌25日、陳良宇氏の党書記解任と党政治局委員、中央委員の職務を停止することを発表した。「『中国問題』の内幕」(参考資料20)では、これを「上海政変」と呼んでいる。

 「『中国問題』の内幕」によれば、陳良宇書記の逮捕に当たったのは、上海市の公安当局ではなく、隣の江蘇省の武装警察であったという。江蘇省の党書記は胡錦濤総書記と同じ共青団出身の李源潮氏(2010年5月現在党中央組織部長)が党書記をしていたからである。上海市公安局長は呉志明氏であったが、呉志明氏は、江沢民氏の妻の王治平氏の甥であり、上海市の公安当局を使ったのでは党書記を逮捕することはできないと考えられたからだと思われる。この事件は、現在においても、中国の地方政府においては、政府・党のトップから公安関係者までが全て一族など極めて近い人々に占められており、地方政府内部での自浄作用が全く働かないことを如実に物語っている。

 政治局常務委員ナンバー6の副総理で陳良宇氏の前任の上海市党書記の黄菊氏は、2006年初めから病気を患っており療養中だった。「『中国問題』の内幕」によれば、黄菊氏もこの事件への関連を疑われたが、2007年の党大会で引退することを約束し捜査に協力することを条件に政治局常務委員の職務に留め置くことを許された、という。なお、私としては真偽について判断する材料を全く持っていないが、「『中国問題』の内幕」では「上海疑獄についての最大のターゲットは、実は黄副首相や陳書記でさえなく、江沢民の長男、江綿恒だったようだ。」と記している。江綿恒氏は、現在、中国科学院副院長を務めている。

 さらに「上海閥」にとって痛手となったのは、2007年6月2日、江沢民氏、陳良宇氏とともに「鉄の三角形」の一角をなすとも言われていた病気療養中の黄菊政治局常務委員が死去したことである。この時、私は2回目の北京駐在を始めていたが、6月2日の朝の中央電視台のテレビのニュースでは、アナウンサーが黒いネクタイを付けて黄菊氏の死去を伝えていた。黄菊氏の葬儀は6月5日に行われた。この葬儀を伝える新聞記事では、胡錦濤総書記と江沢民氏の写真が同じ大きさで掲載されていた(中国科学院副院長の江綿恒氏は、6月3日から日本訪問を予定していた。黄菊氏の死去は、江綿恒氏の日本訪問の前日だったが、江綿恒氏は予定通り日本訪問を行い、黄菊氏の葬儀には参加しなかった)。

 黄菊氏の死去により、政治局常務委員は8名となり、「江沢民氏派」と「非江沢民派」の人数は4対4で拮抗することとなった。

 2007年10月に開かれた第17回党大会に引き続いて開かれた第17期中国共産党中央委員会第1回全体会議(第17期一中全会)で、新しい政治局常務委員が決まった。新しい政治局常務委員は、胡錦濤氏、呉邦国氏、温家宝氏、賈慶林氏、李長春氏、習近平氏、李克強氏、賀国強氏、周永康氏の9名である(李長春氏、習近平氏、賀国強氏、周永康氏の4氏は新任)。

 新任の4人のうち、習近平氏は、陳良宇氏が汚職事件で解任された後を受けて2006年9月から上海市党書記を務めていた。習近平氏は、改革開放初期、経済特区を最初に提唱した習仲勲氏の息子であることから、歴代幹部二世を意味する「太子党」と呼ばれることが多い(習仲勲氏については「第3章第5部第7節:『歴史決議』~『文革は誤りだった』との正式な自己批判」参照)。

 「太子党」は、親が築いた既得権益を引き継いでいることから、保守的な既得権益グループとみなされることも多いが、日本でも与野党双方に世襲議員がいることでもわかる通り、有力者のこどもだからという理由だけで「太子党」といった派閥グループに色分けすることは妥当ではない。そもそも習近平氏の父親の習仲勲氏は改革開放政策の功労者であり、習近平氏が父親と同じ考え方を持っているのだとすれば「保守派」に分類するのは妥当ではないし、心情的には改革開放を推進した胡耀邦氏に近い可能性もある。

 また、習近平氏が、直前に上海市党書記を務めていたころから「上海閥」に色分けする場合もあるが、江沢民氏との関係の強さは必ずしも明確ではなく、私としては習近平氏を「上海閥」に分類することには抵抗がある。

 李克強氏は、遼寧省党書記から政治局常務委員に抜擢されたが、共青団出身であり、明らかな胡錦濤派であると言われている。

 賀国強氏は、中央規律検査委員会書記を兼ね、呉官正氏の後任にあたる。ただし、呉官正氏が江沢民氏とも胡錦濤氏とも等距離にある中立の立場であるとみなされていたのに対し、賀国強氏は、賈慶林氏の後任として北京市書記になり、曾慶紅氏の後任として党中央組織部長を務めて来たことから、江沢民氏に近いと見られている。賀国強氏の後任の党中央組織部長(党内人事を取りまとめる役職)には、上記に書いたように2006年9月の上海市党書記陳良宇氏の逮捕に動いたとされる江蘇省書記だった李源潮氏(共青団派で、胡錦濤総書記に近いと言われる)が就任した。

 周永康氏は、中央政法委員会書記を兼ね、羅幹氏の後任にあたる。それまでは公安部長を務めていた。羅幹氏の配下にいたので「自然な昇進」とも言えるが、前に書いたようにそもそも羅幹氏自体が「中立」というよりは江沢民氏に近いとも言われており、一応、「公安担当の中立的な立場」にいるとは言え、内実は江沢民氏に近いのではないかと言われている。

 もし仮に習近平氏を「江沢民派」に分類するとすれば、第二期胡錦濤政権における政治局常務委員の勢力分布は以下のようになる。当初、政治局常務委員は7名になるのではないか、との観測もあったが、結局は前期と同じ9名となった。曾慶紅氏を引退させる代わりとして江沢民氏の勢力によって賀国強氏と周永康氏が押し込まれた、との見方もある。

 いろいろ見方が分かれるところであるが、習近平氏、賀国強氏、周永康氏の3人も「江沢民派」だとすれば、第17期の政治局常務委員の勢力分布は以下のようになる。

江沢民派:呉邦国氏、賈慶林氏、李長春氏、習近平氏、賀国強氏、周永康氏の6人

非江沢民派:胡錦濤氏、温家宝氏、李克強氏の3人

 注目された次世代総書記候補の習近平氏と李克強氏については、習近平氏の方が序列が上になり国家副主席にも就任したことから、2007年の第17回党大会では江沢民氏の「上海閥」が勝った、という見方をする人もいる。しかし、上に述べたように私は習近平氏を「江沢民氏派」「上海閥」に分類することは単純過ぎる、と考えている。

 江沢民氏は、多くの記念碑的大建造物を次々造り、それに自分の名前を揮毫することが多かったため、多くの人々から必ずしも快く思われておらず、2010年5月時点で83歳になっている江沢民氏の政治的影響力もさすがに弱りつつあるのではないかと見る人も多い。いずれにせよ、現在進行形の中国政界の内部を現時点で思い描くことは困難である。

 ただ、江沢民氏の影響力の低下を象徴するできごとが2008年5月に相次いで起きた。

 ひとつは胡錦濤総書記の日本訪問である。胡錦濤総書記は、日本との戦略的互恵関係を強調した。早稲田大学における講演では、胡錦濤氏は「日本軍国主義は中国に重大な災難をもたらしたが、日本人民も軍国主義により被害を強いられた」「歴史は忘れてはならないが、これを怨みに思ってはならず、歴史を教科書として未来へ向かって平和を愛し平和を維持しなければならない」と強調した。前半は江沢民氏が中央政界に登場する前の1980年代までの中国の指導者が繰り返し述べてきた日本観であり、後半は1998年の訪日時に歴史問題を強調した江沢民前主席の路線を転換したことを宣言しているのに等しかった。この胡錦濤総書記の日本訪問は、少なくとも対日政策に関しては、中国は江沢民路線を捨て去った、という宣言したものだったと言える。

 胡錦濤主席が日本へ出発した日(2008年5月6日)の人民日報の1面には「胡錦濤総書記、『人民中国』の日本の読者に謝辞を述べる」という記事と全く同じ大きさで「『江沢民文選』が出版されることになった」というニュースが載っていた。こういった「人民日報」の記事の掲載の仕方は、2008年になってもなお、「人民日報」が胡錦濤総書記と江沢民氏とのパワー・バランスに配慮していることを表していると言えるが、別の見方をすれば、胡錦濤主席の日本訪問が「江沢民路線との決別」を意味することの証拠であるとも言える。「『江沢民文選』が出版されることになった」というニュースは、江沢民氏は既に過去の人になった、と読むことも可能だからである。

 もうひとつは2008年5月12日に発生した四川大地震に対する対応である。四川大地震は2008年5月12日14:28に発生したが、地震発生1時間後には、現地の様子がまだよくわからなかったにも係わらず、胡錦濤主席は温家宝総理に現地へ飛ぶように指示を出している。この後、国家指導者は、4~5日づつ交代で四川省で救援・復旧作業の指揮に当たったが、四川省入りした指導者は、順番に、温家宝総理-胡錦濤主席-李克強副総理-温家宝総理(2回目の現地入り)であり、地震後の約1か月間、中国の人々はテレビを通じて悲惨な被災地において陣頭指揮を取るこの3人の映像を毎日見ることになった。職責として国務院総理の温家宝氏と李克強副総理が現地で指揮を取るのは当然であり、別に政治的な意味合いはなかった、と言えばそれまでだが、結果的に胡錦濤主席、温家宝総理、李克強副総理の3人が中国を動かしているとの印象を中国の人々は持ったに違いない。

 被災地の四川省に入った指導者の順番は以下の通りである。

温家宝総理
胡錦濤主席
李克強氏
温家宝総理(2回目)
呉邦邦氏(5月26日~)

 なお、このほか下記の人々が四川省に隣接する地域に入っている。

周永康氏が5月15日に甘粛省に
習近平氏が5月20日にセン西省に
賀国強氏が5月21日に重慶市に

 習近平氏は、地震発生後1週間以上経ってから四川省の隣にあるセン西省に入ったので、あまり目立たなかった。宣伝担当の李長春氏は、北京で震災報道にあたる報道機関を激励したりしているが、すぐには現地へは行かなかった。賈慶林氏に至っては、地震発生時にはたまたま東ヨーロッパ訪問中であったが、地震発生後も外国訪問を続け、地震から3日たった5月15日になってようやく「予定を切り上げて」帰国している。地震発生後1時間後の時点で四川省へ飛んだ温家宝総理との対応の違いは際立っている。

 これらの指導者たちの動きは「人民のために奉仕する胡錦濤-温家宝-李克強ライン」と「緊急時には何もできない他の国家指導者たち」を印象づけるための胡錦濤主席側の作戦、と見ることもできるが、四川大地震対応で、中国の人々の間に胡錦濤主席と温家宝総理への人々の信頼が高まったことは間違いない。ネット上では「什錦宝飯」(「五目御飯」の意味だが、「飯」は「ファン」と発音することから「胡錦濤主席と温家宝総理のファン」という意味)という言葉が流行ったりした。

 これらのことを総合すると、胡錦濤総書記が温家宝氏、李克強氏ととともに「江民沢前総書記の遺産」のグループと戦っている(少なくとも多くの人々にはそう見えている)という構図が見て取れる。「江民沢前総書記の遺産」たる「上海閥」は、「三つの代表」論と高度経済成長によって成長してきた経済界の有力者と政治権力が結びついたいわば「既得権益グループ」とかなり重なっているものと思われる。この「既得権益グループ」の基盤は、末端の地方政府において政府・党が警察・公安当局や司法当局と一体化し、地元企業と癒着している姿である。これら末端地方組織にとって、地方における報道の自由や自由選挙によって政府のトップが交代させられることが最も致命的ダメージを受けることから、これら末端地方組織が報道の自由や政治改革、司法改革の最も大きな抵抗勢力になっているものと思われる。

 一方、2008年8月に開催された北京オリンピックの開会式・閉会式では、江沢民氏は、役職的には無職であるにもかかわらず、胡錦濤主席と政治局常務委員ナンバー2で全人代常務委員会委員長の呉国邦氏との間の席次に座っていたし、2009年10月1日の中華人民共和国成立60周年を記念する国慶節の式典では、江沢民氏は胡錦濤氏と並んでカメラに写されていた。これらのできごとは、江沢民氏とそのグループが現在でも中国指導部内で大きな勢力を持っており、胡錦濤主席が権力の全てを統括できていないことを内外に示している。

 胡錦濤総書記は、政権を担当してから既に8年半以上が経過しているが、政治体制改革等については、まだ前進と言える具体的な成果を出していない。胡錦濤政権は、任期はあと2年あまりしかなく、任期中に具体的な政治体制改革の方向性が打ち出せるのはおそらく難しいだろう。現在の中国は、2008年秋に始まった世界的経済危機の中で、景気底支えのため、強力な財政出動を行って政界経済を引っ張っているのが現状であるが、政治権力による強力な財政出動は、政治権力と経済界との癒着を助長させる。政治権力と経済活動による癒着を防ぎ、人民の支持をつなぎ止めていくことができるか、が胡錦濤政権の課題である。

 そのためには、胡錦濤主席は、将来へ向けての政策ビジョンを示す必要がある。胡錦濤主席は「科学的発展観」というスローガンを掲げているが、それが何を目指し、具体的にどういった政策を採ろうとしているのかは必ずしも明確ではない。それを中国人民に明確にアピールできるかどうかが、今後の中国の動きを左右する大きな鍵になるだろうと思われる。

 2010年4月15日付けの人民日報に胡耀邦氏を偲ぶ温家宝総理の文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」が掲載された。また、2010年4月30日夜に行われた上海万博の開幕式に江沢民氏、呉邦国氏、賈慶林氏は出席しなかった(温家宝総理も出席しなかった)。これらのことが現在の中国指導部内部の勢力分布に変化があったことを表しているのかどうかは、現時点では、まだわからない。

以上

次回「4-2-9(1/2):インターネット規制と『08憲章』(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-1908.html
へ続く。

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2010年5月 9日 (日)

4-2-7:「氷点週刊」停刊事件

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第7節:「氷点週刊」停刊事件

 2002年の第16回党大会で総書記となった胡錦濤氏は、政治局常務委員を自分に近い人物で固められなかったが、もうひとつ軍をどうやって掌握するかも大きな課題だった。1989年以降、党軍事委員会主席は一貫して江沢民氏であり、軍の幹部は江沢民政権時代に任命された人々が占めていたからである。中国共産主義青年団出身の胡錦濤氏には、軍を把握できる背景がなかった。江沢民氏は、それを見越して、自分が影響力を行使できる人物をできるだけ軍の内部に任命し続けたいと考えて、2002年の第16回党大会の時点では党軍事委員会主席は退任しなかったとの考え方も可能である。

 党軍事委員会主席のポストについては、その後いろいろな攻防戦があったことが想像されるが、結局、2004年9月、第16期中国共産党中央委員会第16回全体会議(第16期六中全会)において江沢民氏は党軍事委員会主任のポストも退き、胡錦濤氏に譲った。この時、江沢民氏は既に78歳に達し、自らが設定した「任期中に73歳に到達したら引退」というルールを一期分(5年間)オーバーしていたことから、さすがにこれ以上職に留まることは難しかったものと思われる。

 江沢民氏が党軍事委員会主任を退任した後も、胡錦濤氏は江沢民前総書記の影響力と戦い続けることになる。胡錦濤氏は、1992年の第14回党大会で、トウ小平氏から「次世代の後継者候補」として指名されていたという「お墨付き」があったし、その指導力については党内でも高く評価されていたことから、2002年の第16回党大会で大きな議論を呼ぶことなく総書記に就任することができたが、政治的バックボーンはそれほど強くはなかった。出身母体の中国共産主義青年団(共青団)の関係者には理想主義的な理論派が多いが、高度経済成長を続ける中国にあっては、高尚な政治理念よりも、政治力、即ちカネを動かす力が必要だった。共青団出身者にはそういった「泥臭さ」が欠けている。それに対して、江沢民氏には総書記は辞任したとは言え、それまでの高度経済成長路線で築いてきた多くの経済界有力者との強いパイプがあった。自らがトップにいた時代に任命した軍の幹部も江沢民氏の味方だった。

 2005年4月、中国に反日運動が吹き荒れた。現在の中国では、当局が不都合であると思われる大衆運動は抑圧されるので、この反日運動は、主体が学生らの若者だったとはいうものの、当局側が「黙認していた」という意味で、中国当局の意向が反映していた、と見る見方が一般的である。客観的に言えば、この反日運動には、小泉総理の靖国参拝問題と日本の国連常任理事国入り運動に対する牽制という外交上の意味があったと思われるが、そもそも「反日愛国主義教育」は市場経済下における共産党支配を正当化させるために江沢民政権が始めたとの見方に立てば、この反日運動においては、江沢民氏を背後に持つ宣伝担当の政治局常務委員である李長春氏が主導してコントロールしていたと見ることもできる。後の行動を見れば、胡錦濤総書記は、反日一本槍の江沢民氏の路線から決別して、1980年代のような日本との密接な関係を回復したいと考えていたと思われることから、2005年に反日運動が盛り上がった時点では、胡錦濤総書記は党内で十分にリーダーシップを発揮できていなかったのだ、という見方もできる。

 このように、2005年頃でも、江沢民氏の影響力はまだまだ大きいものがあったと思われる。しかし、年齢的な問題もあり、いずれは権力は江沢民氏からやがては胡錦濤氏に移るだろうと考える見方もこの時点で既に根強いものになっていたことは間違いない。そこで、次第に江沢民氏と胡錦濤氏とを天秤に掛けながら、胡錦濤氏とも接近していく者が多くなっていく。江沢民氏の腹心といわれた曾慶紅氏もそうした一人だったと思われる。

 2005年1月、1989年の「第二次天安門事件」で失脚した趙紫陽氏が死去した。「『中国問題』の内幕」(参考資料20)によると、曾慶紅氏は趙紫陽氏が死去に立ち会ったという。趙紫陽氏の葬儀には、胡錦濤総書記は出席しなかったが、党中央の主催で、革命烈士が眠る八宝山墓地で行われ、政治局常務委員ナンバー4の賈慶林氏が参加した。1989年の「第二次天安門事件」で趙紫陽が失脚し、その代わりに江沢民氏が総書記にになったことを考えると、趙紫陽氏の扱いは極めて神経質にならざるを得ないものだったはずである。この趙紫陽氏の葬儀に関して、曾慶紅氏が江沢民氏と胡錦濤氏の間に入って調整役を果たした可能性がある。

 また、2005年11月、胡錦濤総書記は自らの元上司であり共産主義青年団の先輩でもある胡耀邦氏の生誕90周年をきっかけにして胡耀邦氏の再評価を行うことを考えていた。「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、胡錦濤総書記は2004年2月の春節(旧正月)の際、胡耀邦元総書記の自宅を訪問し、李昭夫人らに対して、胡耀邦氏生誕90周年を盛大に祝い、名誉回復すると約束したという。既にこれまで述べてきたように、胡耀邦氏は1986年暮れの学生運動に同情的だったとして総書記を解任され、その死が1989年の「第二次天安門事件」のきっかけとなった人物である。胡耀邦氏の名誉回復は「第二次天安門事件」の再評価に繋がり、「第二次天安門事件」の再評価は、その武力弾圧をきっかけにして総書記に抜擢された江沢民氏の否定に繋がりかねない。「トウ小平秘録」によると、胡錦濤総書記による胡耀邦氏の名誉回復の動きを江沢民氏は厳しく批判したという。

 結局、2005年11月の胡耀邦氏生誕90周年には「記念大会」は開催されず、規模を縮小して「記念座談会」が開催された。この「胡耀邦氏生誕90周年記念座談会」には胡錦濤総書記は出席せず、座談会は曾慶紅氏が主宰した。「トウ小平秘録」によると、曾慶紅氏は、2004年9月の時点で江沢民氏の党軍事委員会主席の続投に賛成しなかったのだという。曾慶紅氏は2007年の第17回党大会直後の第17期一中全会で政治局常務委員に再任されなかった。表面上は年齢上の理由によるとされているが、もしかするとこういった曾慶紅氏の動きに対する江沢民氏側からの反発があったためかもしれない。

 翌2006年になると、指導部内部の対立が原因と見られる事件が発生する。日刊の中国青年報に週一回掲載される評論特集「氷点週刊」の停刊事件である。中国青年報は、中国共産主義青年団(共青団)の機関紙である。ことの発端は、2006年1月13日付けの「氷点週刊」に中山大学の袁偉時教授による「現代化と歴史教科書」という論文が掲載されたことであった。この論文では、従来、中国の歴史教科書で「反帝国主義の愛国運動」と評価されている1900年の義和団事件(「第2章第1部第2節:義和団事件」参照)について、多くの外国人らを殺害した事実等をあげて、この事件は反動的で反文明的なものであった、と指摘していた。そして、この論文では「反右派闘争、大躍進、文化大革命の三大災難を経て人々が沈痛に目覚めたのは『われわれが狼の乳を飲んで育った』ことにある点だ。」「中学歴史教科書を見て大いに驚いたのは青少年がいまだに狼の乳を飲み続けていることだ。」と指摘していた(「『中国問題』の内幕」)。

 中国共産党中央宣伝部は、この論文を問題視し、「氷点週刊」を停刊にした上、編集長の李大同氏を解任した。

 義和団事件が「反帝国主義の愛国運動」ではなく、反動的な側面もある、という指摘は、現在の中国の歴史学会の中にある見解のひとつであり、違和感のある見解ではない。義和団運動が「扶清滅洋」(清を助けて西洋を滅亡させる)というスローガンを掲げ、西太后が支配していた当時の清朝政府を擁護する立場に立っていたからである。

 特に、1999年に新興宗教集団「法輪功」のグループが中国共産党に反対するグループであるとして非合法化されて以降、義和団も当時の新興宗教が民衆を「惑わせた」という側面もある、との指摘もあり、義和団事件を「反帝国的の愛国運動」として一方的に持ち上げるのは正しくない、もっと客観的に評価すべきだ、というのは、現在の中国の歴史学会では、むしろ定説となっていた(「第2章第1部第2節:【コラム:新興宗教に基づく民衆運動に対する評価の変化】参照)。従って、「氷点週刊」に掲載された袁偉時教授の論文は、現在の中国の歴史学界の見解を逸脱しているものではなく、ましてや排撃されるような性質のものではない。また、袁偉時教授の論文の中に「反右派闘争、大躍進、文化大革命の三大災難を経て」との表現があるが、これらの3つが「災難」であったことは、既に改革開放政策を確定させた1981年6月の「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」で指摘されていることであり、論文のこの部分が党の方針に反するものである、というわけでもない。

 とすると、党宣伝部がこの論文を問題視したのは、この論文が歴史教科書を批判し「愛国主義歴史教育」を批判しているからだ、と思われる。これまで何回も述べたように、「愛国主義歴史教育」は、江沢民政権が経済政策が市場経済を大幅に容認していく中で「なぜ中国共産党のみが政権を担っていることが正当化できるのか」の根拠を「抗日戦争等の革命期を通じて、中国共産党による指導があってこそ、外国勢力を撃退し、中国を植民地的支配から救った」という歴史的事実に求め、それを人々に納得させるために始めたものである。つまり「愛国主義歴史教育」批判は、江沢民政権の政策を批判することにほかならないのである。

 この「氷点週刊」停刊事件は、袁偉時教授の論文がひとつのきっかけになったものの、伏線があったと言われている。袁偉時教授の論文が掲載される1か月前の2005年12月7日付けの「氷点週刊」が、胡耀邦元総書記の生誕90周年を記念して、胡耀邦氏の後継者として中国共産主義青年団の第一書記を務め1980年代に政治局常務委員になり1989年の天安門事件で失脚した胡啓立氏が書いた追悼文「わが心の中の胡耀邦」(原題:「我心中的耀邦」)を掲載したことを党宣伝部が快く思っていなかったことが伏線になっていた、というのである。胡耀邦氏-胡啓立氏-胡錦濤氏は、それぞれ歴代の中国共産主義青年団の第一書記であった(同じ「胡」姓ではあるが親戚関係ではない)。胡錦濤総書記は、胡耀邦氏、胡啓立氏を先輩として尊敬していた。胡啓立氏が書いた追悼文「わが心の中の胡耀邦」を党宣伝部が快く思わなかった、ということは、党の宣伝部が党総書記の考え方を快く思わなかった、ということを意味している。

 この「氷点週刊」事件は、停刊と編集長の解任だけで終わらなかった。それまでの中国では前代未聞のことであるが、「氷点週刊」の編集長を解任された李大同氏は、そのまま沈黙することをせず、内外にメールで実情を報告するとともに、外国メディアの取材にも応じ、ついには日中対訳本「『氷点』停刊の舞台裏」(三潴正道監訳、而立会訳;日本僑報社)を刊行して内幕を暴露した(「『中国問題』の内幕」による)。李大同氏は、1989年の「第二次天安門事件」の時は「中国青年報」の記者だったが、1989年5月9日に出されたジャーナリスト1000人による政府との対話要求に署名した一人だった(「第4章第1部第9節:「第二次天安門事件」参照)。李大同氏の一連の行動は、自らのジャーナリストとしての信念に基づくものであると思われるが、現在の中国においては、党宣伝部による処分を批判する本を(国外における出版とは言え)出版するというようなことは、党内の一定の勢力の支持がなけれができない行動である。この「『氷点』停刊の舞台裏」は、日本で出版されたとは言え、「日中対訳本」という形式を採っており、中国国内の人々に読んで欲しいと考えて出版されたことは明らかである。

 「氷点週刊」は編集長を交代させた後、停刊2か月後の3月に問題となった袁偉時教授の論文を批判する内容の論文を掲載して復刊した。「『氷点』停刊の舞台裏」によれば、復刊を指示したのは「最高指導者」であったという。「『氷点』停刊の舞台裏」では実名を掲載することをはばかっているが、「最高指導者」が胡錦濤氏を指すことは明らかである。「『氷点』停刊の舞台裏」では、停刊を指示したのは劉雲山中央宣伝部長と共青団を指導する王兆国政治局員であったと実名を掲げている。これを紹介した「『中国問題』の内幕」(参考資料20)の中で著者の清水美和氏は、ここまで実名を掲げるのは大胆だとしながらも、実はこの二人の実名を上げたのは、彼らの上に立つ政治局常務委員の名を挙げ、国家指導部内部での対立を表に曝すことを避けたからではないか、と推測している。中央宣伝部の上にいる宣伝担当の政治局常務委員とは、即ち李長春氏である。

 この問題は、胡耀邦氏の再評価、ひいては「第二次天安門事件」の再評価に係わる問題である。これら一連の動きを見れば、胡錦濤総書記が胡耀邦氏の名誉回復と最終的には「第二次天安門事件の再評価」(学生らの行動は正しかった、とまではいかなくても、武力に鎮圧は誤りだった、とする再評価)を考えていることは間違いない。しかし、「第二次天安門事件」の再評価は、江沢民前総書記が就任した根拠を否定することであり、江沢民氏が率いる「上海閥」(上海グループ)との全面戦争を意味する。

 胡耀邦氏の再評価問題は、2010年4月15日付けの人民日報に温家宝氏が現職総理としては異例の寄稿「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を掲載したことでわかるように、現在に直結している問題である(第4章第1部第9節:【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】参照)。

以上

次回「4-2-8:『上海閥』と第二期胡錦濤政権の課題」
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へ続く。

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2010年5月 8日 (土)

4-2-6:第一期胡錦濤政権の勢力分布

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第6節:第一期胡錦濤政権の勢力分布

 2002年11月の第16回中国共産党全国代表大会で、江沢民総書記が退任し、後任の総書記として胡錦濤氏が就任した。この党大会直後に行われた第16期中国共産党中央委員会第1回全体会議(第16期一中全会)で、政権の中枢を握る中国共産党中央政治局常務委員に任命されたのは、胡錦濤氏、呉邦国氏、温家宝氏、賈慶林氏、曾慶紅氏、黄菊氏、呉官正氏、李長春氏、羅幹氏の9名であった。

 胡錦濤氏(現在の総書記(党のトップ)・国家主席)は、清華大学水利工学部出身で、大学卒業後、内陸部のダム工事の現場における党組織で働いていた。その過程で中国共産主義青年団(共青団)に入り、1980年代胡耀邦総書記の下で共青団第一書記を勤めていた。その後、貴州省とチベット自治区という中国の中でも最も貧困で少数民族問題を抱える難しい地区の書記を務め、1992年にトウ小平氏に抜擢されて政治局常務委員となった。中央政治局委員を経ずに地方政府(チベット自治区)党書記からいきなり政治局常務委員に抜擢されたことで、当時から「次世代の総書記候補」と見られていた(同様に、2007年の第17回党大会で、上海市党書記から抜擢された習近平氏、遼寧省党書記から抜擢された李克強氏も、中央政治局委員を飛ばしていきなり政治局常務委員になっており、一般には、この二人が胡錦濤氏の次の世代の総書記候補である、と言われている)。

 呉邦国氏(現在の政治局常務委員ナンバー2;全国人民代表大会常務委員会委員長)は、清華大学無線電機電子学部を卒業した後、上海市の電子部品企業の中で企業の中国共産党組織の中で頭角を現した人物である。その関係で、1980年代前半、電子工業部長を勤めていた江沢民氏とも関係が深く、江沢民氏が上海市長と上海市党書記を務めていた1980年代後半から1990年代初頭に掛けて上海市党副書記を務め、1989年の「第二次天安門事件」で江沢民氏が中央の党総書記にいきなり抜擢された後に上海市党書記を勤めた朱鎔基氏の後任として上海市党書記となった。その後、1992年に中央政治局委員になっているが、経歴を見れば、江沢民氏の後押しがあったことは明らかである。

 温家宝氏(現在の政治局常務委員ナンバー3;国務院総理)は、北京地質学院大学院の卒業で、1980年代から国務院の地質鉱産部を皮切りにして、中央省庁で頭角を現してきた官僚出身の政治家である。1989年の「第二次天安門事件」の時には、党中央弁公庁主任(中国共産党事務局のトップ)として趙紫陽総書記や李鵬総理とともにハンストを行う学生らの前に現れたことは前に述べた(「第4章第1部第9節:『第二次天安門事件』」参照)。温家宝氏は、経歴上、江沢民氏との接点はない。一方、胡錦濤氏とも過去の経歴からすると接点はなかった。

 賈慶林氏(現在の政治局常務委員ナンバー4;中国政治協商会議主席)は、河北工学院を卒業後、機械関係の企業の中の党組織で頭角を現し、1990年に福建省長、その後福建省の党書記となった。「参考資料20:『中国問題』の内幕」によれば、江沢民氏は賈慶林氏夫妻の仲人を務めたとのことであり、個人的に江沢民氏と非常に近い関係にあるらしい。私は真相は知らないが、「『中国問題』の内幕」によれば、賈慶林氏は福建省時代にある密輸事件で政治責任を問われたが、江沢民氏の力により北京市長・党書記に抜擢された、とのことである。その後、北京市のトップとして江沢民氏肝入りの国家大劇院や中華世紀壇(北京市西部、軍事博物館の北側、メディアセンターの前にある奇抜な格好をした建築物)といった「記念碑的事業」を強力にバックアップした、とのことである。従って、江沢民氏との関係は深いと見るのが一般的である。

 曾慶紅氏(2007年の第17回党大会で政治局常務委員を退任)は、江沢民氏が上海市長と上海党書記をしていた時の直属の部下で、1989年の「第二次天安門事件」の際、江沢民氏が総書記として中央に呼ばれた時に江沢民氏と一緒に北京政界入りした江沢民氏の腹心である。「第二次天安門事件」の際、死去した胡耀邦氏を追悼する座談会を開催し胡耀邦氏の功績を評価する内容の記事を載せた「世界経済導報」を発行停止にさせたときに上海市党委員会宣伝担当副書記が曾慶紅氏であった(「第4章第1部第9節:『第二次天安門事件』」参照)。江沢民氏が総書記に抜擢された時、曾慶紅氏が一緒に中央政界に進出できたのも、この功績があったからだと考えられている。

 しかし、下記に述べるように、曾慶紅氏は江沢民氏が総書記を退任した後、次第に江沢民氏と一定の距離を保ち、胡錦濤氏とも接近して、この2人の間を取り持つ役割を果たしていたようである。そのため、第一期(2002年から2007年まで)の胡錦濤政権は、胡錦濤氏と温家宝氏に曾慶紅氏を加えた3人が中心となって運営されていた、という見方もあった。2002年の第16回党大会の直前に書かれた「参考資料22:中国 第三の革命」の中で、著者の朱建栄氏は、胡錦濤氏、温家宝氏とともにこの曾慶紅氏を次の世代を担う重要人物として掲げていた。

 しかし、曾慶紅氏は2007年の第17回党大会で政治局常務委員に再任されなかった。表向きの理由は、第17回党大会の時既に68歳であり、任期(5年間)を終えるときには73歳になる、という理由であった。

 「参考資料20:『中国問題』の内幕」によれば、「68歳定年制」は、1997年の党大会において1980年代後半から党政治局常務委員で江沢民氏のライバル的存在だった全人代常務委員会委員長の喬石氏(1924年12月生まれで、1998年3月までの全人代常務委員会委員長の任期中に73歳になる))を引退させるため江沢民氏が作った「任期中に73歳になる場合は引退」というルールである。このルールを適用されて2002年の第16回党大会で当時68歳(2007年の第17回党大会までに73歳になる)李瑞環常務委員も引退させられた。李瑞環氏は、共青団出身で胡錦濤氏に近かった、と言われる。

 曾慶紅氏も、形式的には「任期中に73歳に達するような場合は再任しない」というこのルールを適用されたことになっているが、もともと江沢民氏の腹心だった曾慶紅氏が2007年に再任されなかったのは、江沢民氏から一定の距離を置き始めて胡錦濤総書記に接近するようになったため、江沢民氏から疎まれた、との見方もある。「『中国問題』の内幕」では、胡錦濤総書記が賈慶林氏を政治局常務委員として残す見返りとして江沢民氏に腹心の曾慶紅氏の引退を認めさせた、との見方を示している。

 黄菊氏は、清華大学電機工程学部卒で、上海の企業に勤務し、企業の党組織で頭角を現した。江沢民氏が上海市長をしていた時の副市長で、江沢民氏の次の上海市長となった朱鎔基氏の後の上海市長、江沢民氏の3代後(朱鎔基氏、呉邦国氏の次)の上海市党書記となった。その意味では、江沢民氏直系の人物だった。2006年初めから公式の会議を欠席することが多くなり、病気であると伝えられ、2007年6月2日に死去した。なお、黄菊氏の後任の上海市党書記が、下記に述べるように2006年9月で汚職で摘発された陳良宇氏である。

 呉官正氏は、武漢市長、江西省長、山東党書記などを勤め、1997年に中央政治局委員となり、2002年に中央規律委員会担当の政治局常務委員となった。江沢民氏、胡錦濤氏とも特段の密接な係わりはなく、中立の立場の人物として党員の腐敗防止を担当する中央規律委員会担当を任されたと言われている。2007年の第17回党大会では、年齢が69歳に達していたことから引退した。

 李長春氏(現在の政治局常務委員ナンバー5)はハルビン工業大学電機学部卒で、瀋陽市長、遼寧副省長、河南省党書記、1998年からは広東省党書記を勤めた。上海市において江沢民氏とは関係していないが、「参考資料20:『中国問題』の内幕」では、李長春氏が広東省党書記になったのは、江沢民政権に対抗して独立志向にあった広東省において、江沢民政権に反対する勢力を排除するために江沢民氏が李長春氏を広東省に送り込んだもの、としている。その意味では江沢民氏に近いとされる。下記に述べるように「氷点週刊」停刊問題では、胡錦濤と対立関係にあったとされる。2002年以降、党の宣伝担当の政治局常務委員であることから、インターネットへのアクセス制限や2005年の反日運動においても、李長春氏の意向が働いたと言われている。2009年3月末に日本政府が李長春氏を日本に招へいし1週間も滞在させたのは、そういった日本に対する見方を和らげるため、と言われている。

 羅幹氏は、1988年に国務院秘書長となり李鵬氏を支えた。その意味では「李鵬派」であり、江沢民氏とも胡錦濤氏とも等距離にあると言える(ただ、李鵬氏が保守派として江沢民政権の下で国務院総理を務めていたことを考えると、胡錦濤氏よりは江沢民氏に近いと見るのが自然であろう)。2002年の第16回党大会で司法・公安を束ねる中央政法委員会書記を兼ねる政治局常務委員となったが、2007年の第17回党大会では、年齢の関係で引退した。

 以上を総合して、江沢民氏に近い人物を「江沢民派」、それ以外を「非江沢民派」と呼べば、仮に李長春氏を「江沢民派」に分類するとすれば、第一期胡錦濤政権下の党政治局常務委員9人の勢力分布は以下の通りとなる。

江沢民派:呉邦国氏、賈慶林氏、曾慶紅氏、黄菊氏、李長春氏の5人

非江沢民派:胡錦濤氏、温家宝氏、呉官正氏、羅幹氏の4人

 ただし、上に述べたように、呉官正氏は規律担当、羅幹氏は司法・公安担当でそれぞれ「中立派」と考えられる人々であり、特に胡錦濤氏に近いわけではない。特に羅幹氏は、李鵬元総理の影響が強く、胡錦濤氏よりも江沢民氏に近かった、と考えた方がよいので「非江沢民氏派」と分類するのは適切ではないかもしれない。従って、2002年に江沢民氏が総書記を胡錦濤氏に譲った後も、党内には江沢民氏の影響力が大きく残ったと言うことができる。こうした情勢の中、温家宝氏は、経歴としては、特段、胡錦濤氏と近いわけではなかったが、胡錦濤政権発足後、「非江沢民グループ」として胡錦濤氏に協力していくことになる。

 「江沢民派」に分類した5名のうち、李長春氏については、地方政府における実績と経験が豊富であるが、他の4人については、政治的な実績によって昇進したというよりは、基本的に江沢民氏に個人的関係が近かったことよって江沢民氏によって引き上げられたと見るのが一般的である。このように江沢民氏に近かったことによってその地位を上げていったグループは「上海グループ」「上海閥」などと呼ばれるようになった。

 江沢民氏に近い人物が政治的に地位を向上させていったのと同時に、江沢民氏が「三つの代表」論を提唱し、私営企業経営者、会計士、弁護士等の高収入で資産を持った「新社会階層」を中国共産党に入党する道を開いたことは、資産を持った「新社会階層」を江沢民氏の周辺のグループに引きつけることとなった。このように、特定の人物に個人的に親しい人々が強力な政治権力を持つようになり、その人たちの周辺に多額の資産を持った人々が集まる、という状況は、ある意味ではかなり「危うい状況」である。一歩間違うと中国共産党と中国の政権を「腐敗」という泥沼に落とし込むことになりかねないからである。このことは、下記に述べるように2006年9月、上海党書記だった「上海閥」のトップグループを形成していた陳良宇氏が汚職で摘発されたことで、一気に表に出ることになる。

 なお、江沢民氏政権下で1992年から2002年まで政治局常務委員(1993年から2003年まで国務院総理)を務めた朱鎔基氏は、上海市長と上海市党書記の職に関して、いずれも江沢民氏の後任であったので江沢民氏に近いと見られがちであるが、朱鎔基氏はもともとは中央官庁の経済官僚出身であり、彼が出世したのもその政策執行能力が高いことをトウ小平氏が評価したからだと言われている。当時の中央の方針では、中央政府の省庁幹部を務めた後、地方政府の幹部に転出し、その後中央に戻ってもっと上のポストに就く、というのがひとつの出世コースだった。朱鎔基氏もその出世コースに乗っただけであって、特段、江沢民氏によって引き立てられたわけではない。朱鎔基氏は江沢民氏とは年齢も近く、朱鎔基氏は江沢民氏に対して特段恩義を感じる立場ではなかったと思われる。

 朱鎔基氏は、強引な国有企業改革で多くのリストラを行うなど、一般人民からの人気はないが、清廉潔白な政治家だった、という評判は定着している。2003年の任期終了後、全ての公職から完全に引退したことにもそれは現れている。総理引退後、大学教授にすらならなかったのは、2002年に政界を引退せずに引き続き党軍事委員会主席に留まり、政治的影響力を残そうとしていた江沢民氏の態度に怒ったためだと「参考資料20:『中国問題の内幕」の著者の清水美和氏は見ていることについては既に前節で書いた。従って、朱鎔基氏を江沢民氏の影響下に集まった「上海グループ」に入れるのは正しくない。

以上

次回「4-2-7:『氷点週刊』停刊事件」
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へ続く。

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2010年5月 7日 (金)

4-2-5(2/2):江沢民総書記による「三つの代表論」の本質(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第5節:江沢民総書記による「三つの代表論」の本質(2/2)

 今まで私営企業経営者、会計士、弁護士などについて「新社会階層」という言葉を用いてきた。「新社会階層」は、別の言葉で言えば「ニューリッチ」と表現することもできる。「中国~第三の革命~」(参考資料22)の中で著者の朱建栄氏は、「ニューリッチ」層とは具体的には次のような人々を指す、と指摘している。

○一部の私営企業経営者
○外資系企業や国際機関に勤める高級職員
○不動産関係者
○一部の個人経営者
○一部の国営企業の請負人と技術を持って経営に参加している人
○有名な俳優や歌手などのスター、モデル、作家、スポーツ選手
○一部の弁護士、ブローカー、会計士
○有名な経済学者
○政府の局長クラス
○一部の違法経営者(密輸、売春)
○少数の腐敗役人

 「ニューリッチ層」、即ち「新社会階層」としてこのような人々がいると指摘することは彼らに対する具体的なイメージを描きやすい。本来は中国共産党の党員の中には上記に列記する人々のうちの下の方に掲げてある「正しくない人々」はいないはずなのであるが、かなりの数の党員が毎年摘発・処分されている現状を見れば、現実的には「正しくない人々」の範疇に入ってしまう党員も実際には相当の数いるのであろう。

 これらの人々は、基本的に中国共産党が指導する改革開放政策の受益者であり、社会の大きな変革は望んでいない。一方で、時として中国共産党の指導による様々な規制が自分たちの活動範囲の拡大希望と衝突する場合があり、そういった時には彼らは規制の修正を希望する。従って、「中国共産党はプロレタリアートの党だ」という旧来の考え方に縛られて、これらの「新社会階層」の人々の入党を拒み続ければ、「新社会階層」の人々は自らグループを形成し、中国共産党に対抗する政治勢力に成長する可能性を持っている。だから、逆に彼らを中国共産党の内部に取り込み、必要に応じて彼らの要求を踏まえた制度の修正を加えていけば、今後とも中国共産党による安定的な政権運営が可能となる。そういう考え方が、「三つの代表」論により「新社会階層」を中国共産党に入党させるようにさせた背景にある。

 一方、中国共産党の側が「門戸を開いた」とは言え、中国経済の発展により急速にその数を増す「新社会階層」の中には、共産党に入党しようとしない人々も増えてきた。これら党外の「新社会階層」を放っておくと、これも中国共産党に対する反対勢力に成り得る。そのため、共産党員ではない党外の「新社会階層」の人々の様々な政策に対する要求を吸収するシステムも必要になってくる。「新社会階層」の中国共産党への入党に門戸を開いた2002年の第16回党大会から5年が経過した2007年の頃には、党に入らない有力な「新社会階層」の人々を「人民代表」(国会議員)という形で政策決定に参画させてはどうか、という考え方が登場し始めた。それを端的に示すのが2007年6月11日付けの「人民日報」の記事である。

(参考URL)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))2007年6月22日付け記事
「新しい社会階層の台頭」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/06/post_6737.html

※この記事の中でポイントを紹介している「人民日報」2007年6月11日付け記事「新社会階層~その影が日に日に明らかに見えてきている~」の記事そのものは、「人民日報」が最近、過去の記事については有料化を図ったため、現在は無料では閲覧できないようになっている。

 この記事では、中国共産党統一戦線部の陳喜慶副部長は、「新社会階層」の人々を適切に評価する体制を確立し、これらの階層の人々の中から党外(共産党以外の)人民代表(=国会議員)になれるような人々を養成しようとしている、と説明している。2007年10月に開催された中国共産党第17回全国代表大会の後、第11期の全国人民代表が選出されたが、新しい全国人民代表の中には、こういった方針に基づいて、中国共産党から推薦を受けて人民代表となった共産党員ではない「新社会階層」の人々が一定の数含まれているものと思われる。

 こういった「新社会階層」の人々を中国共産党の内部に取り込んだり、党員ではない「新社会階層」の人々を「人民代表」として政策決定に参画させたりすることは、「新社会階層」の人々を政策決定システムの中に取り込むことにより、中国共産党の指導による政権運営を安定化させる役割も果たすことになるが、実質的に政策を決定する人々の意見を多様化させ、従来の中国共産党の中心部にいた人々だけの意志では自由に政権運営の舵取りができなくなっていくことも意味している。

 従来から、全人代全体会議では政府が提出する最高人民法員工作報告と最高人民検察院工作報告に対しては一定の割合の反対票・棄権票が出ていたが、2009年3月に開かれた第11期全人代第2回全体会議では、最高人民法院工作報告と最高人民検察院工作報告についての反対票・棄権票は、全体の4分の1近くに達した。これは、全国人民代表の中にも、相当数、現在の政権運営のあり方に批判的な人々がいることを示している。

 2009年の全人代全体会議は、前年の14日間より5日間も短い9日間で終了した。会期が短かった理由は不明であるが、様々な意見が出て、議事が混乱することを避けるために期間を短縮したのではないか、とも考えられる。2009年4月に開催された第11期全国人民代表大会常務委員会第8回会議では、議事規則が22年ぶりに改訂され、全体会議での発言時間は10分間を超えないこと、分科会では同じ議題についての発言は最初は15分間、二回目は10分間を超えないこと、といったルールが追加で規定された。このことも第11期(任期は2008年からの5年間)に至って、全国人民代表大会常務委員会の中ですら、様々な意見が出され、議論が紛糾する事態が多くなったことを想像させる。

(注1)2009年4月24日第11期全国人民代表大会常務委員会第8回会議による修正に基づく「中華人民共和国全国人民代表大会常務委員会議事規則」については「人民日報」2009年4月25日付け紙面に掲載されている。

 第11期の全国人民代表は全部で約3,000名いるが、全国人民代表が一同に会する全体会議は毎年3月頃に1度開かれるだけなので、全体会議で選出される常務委員による会議(常務委員会)が2か月に1度程度の頻度で開催されて、法律案について議論する。実質的に法律を議論し、採択するのはこの全人代常務委員会である(注2)。全人代常務委員会委員は、せいぜい百数十名であり、以前はそのほとんどを中国共産党の「有力者」が占めていたので、たいていの法律案はそれほどもめることもなく決められていた。

(注2)正式には、中国の法律は全人代全体会議(年に1回開催される)で採択されてはじめて法律となるが、法律の中には全人代常務委員会で採択された後、全人代全体会議で議論する前に施行されるものがある。つまり、実質的には、中国においては全人代全体会議ではなく、約160名の委員からなる全人代常務委員会が立法権限を持っていると言って差し支えない。(いずれにせよ、中国の政策は、全て中国共産党が決めているのであるから、手続き上、全人代のどの会議に最終決定権限があるか、といったことはあまり意味のある話ではない)。

 現在の第11期の全人代常務委員の数は160名であるが、160名の「選びに選ばれたエリート議員たち」による議論でも、議事規則で発言時間を制限する必要に迫られるほど議論が紛糾するようになった、ということは、全国人民代表常務委員が単なる名誉職ではなく、常務委員自身が自分の意志で法律決定に参与したいと考えるようになり、その考え方も多様化してきていることを表しているものと思われる。これも「三つの代表」論に始まる「新社会階層」の意見の取り込みのひとつの結果であると考えられるが、こういった状況の変化は、もしかすると、全国人民代表大会という大枠の制度は変えないままで、実質的に全人代が実際の多くの中国人民の声を率直に反映する西側のような議会に近い性質を持つように変質していくのではないか、との期待も抱かせる。

 江沢民総書記は、2002年11月の第16回党大会で「三つの代表」論を党規約に盛り込み、「新社会階層」を中国共産党に取り込む、という従来にない改革を実行して、総書記の座を後任の胡錦濤氏に譲った。この政権交代については、中国共産党のトップが、トップ自身の死去や失脚などによらず、初めて平和的に交代したことを評価する見方が主流である。一方、江沢民氏が政権を譲る党大会で党規約に持論である「三つの代表」論を毛沢東思想、トウ小平理論に並ぶ形で盛り込んだことは、江沢民氏が総書記の座を胡錦濤氏に譲った後も党内での自らの影響力を保持しようとしたものだ、とする見方もある。

 実際、2002年11月の党大会で江沢民氏は中国共産党総書記の職は胡錦濤氏に譲ったが、軍のトップである党軍事委員会主席の職は譲らなかった。江沢民氏が党軍事委員会主席の職を胡錦濤氏に譲ったのは2年後の2004年9月の第16期中国共産党中央委員会第6回全体会議(第16期六中全会)であった。総書記と党軍事委員会主席の職の委譲が2年ずれた理由は必ずしも明らかではないが、自らの勢力を極力残そうとする江沢民氏と、できるだけ早く自分の体制を築きたいと考えていた胡錦濤氏との間での主導権争いがあった、と見るのが一般的である。「『中国問題』の内幕」(参考資料20)の中で著者の清水美和氏は、江沢民氏は2002年の党大会の時には既に76歳になっていたが、この党大会を前にして総書記留任を画策していた、とさえ書いている。

 江沢民氏の下で国務院総理を務めていた朱鎔基氏は、2003年3月の全人代で後任の温家宝氏に総理の職を譲った後、一切の公職に就かず、完全に引退した。「『中国問題』の内幕」によれば、朱鎔基氏は2001年頃までは「総理を辞めた後は母校の清華大学で教鞭を取りたい」などと言っていたが、実際は大学へも戻らず、完全に公の場から姿を消した、とのことである。著者の清水美和氏は、これは、江沢民氏が引退後も自分と自分の息の掛かった「上海グループ」(上海閥)の勢力を保持しようとしていることに対して、朱鎔基氏が不信感を持った、というより怒りを覚えたからだ、と指摘している(朱鎔基氏は、国務院総理として国有企業改革を断行し、多くの国有企業労働者のリストラを行ったため、国民的人気はないが、彼の清廉潔白な態度については、多くの人々が認めている)。

 江沢民氏は、総書記と党軍事委員会主席の職を辞して、公職を離れた後も、しばしば公の場に姿を見せている。2008年8月に行われた華国鋒元主席・元総理の葬儀など有力者の葬儀には、胡錦濤総書記に次ぐナンバー2の序列として参列している。また、2008年8月の北京オリンピックの開会式・閉会式における席次も胡錦濤主席に次いでナンバー2だった。オリンピックの開会式において、中国のテレビは胡錦濤主席に続いて、江沢民氏の映像を放映したが、海外へ向けて送られた国際映像では、江沢民氏が映っている時は入場行進する選手など別の映像が差し替えられて送られていた。2009年10月の中華人民共和国60周年を記念する式典を報じる「人民日報」の1面には、役職についていない江沢民氏の写真と国家主席で党総書記の胡錦濤氏の写真が同じ大きさで掲載されていた。中国のメディアに対する江沢民氏の影響力がまだ小さくないことを物語っている。

 2010年4月の青海省での地震に対する哀悼式への参列者の名前のリストにおいても、胡錦濤氏に続いて江沢民氏の名前が掲げられており、江沢民氏が無役の現在でもトップの「国家指導者」としての地位にあることを内外に知らしめている。

(注3)後に述べることになるが、それが故に2010年4月30日に開催された上海万博開幕式に「上海閥」のトップである江沢民氏が出席しなかったことは、中国指導部内部における権力構造の変化を表している、とする見方がある。

 江沢民氏が打ち出した「三つの代表」論について、「中国~第三の革命~」の著者である朱建栄氏は、中国共産党がプロレタリアートによる革命党から「新社会階層」をも含んだ社会の幅広い階層からなる執政党へ脱皮した、と高く評価し、これは中国における第三の革命(毛沢東による中華人民共和国の建国とトウ小平氏による改革開放に続く3つめの革命)と呼んで、今後の中国の脱皮に期待を寄せていた。「中国~第三の革命~」は2002年8月(第16回党大会の直前)に書かれた本であり、実際、その当時、そういったポジティブな捉え方をする人も多かったようである。この本の中で朱建栄氏は、中国共産党は、革命党から執政党に性質を変えたのだから、党の名称を例えば「中国社会党」というふうに変えるべきだ、といった議論すらなされていたことを紹介している。「三つの代表」論が、歴史の中において、そういったポジティブな面を持つことについては、私も否定するつもりはない。

 「三つの代表」論が提示された2001年は、中国がWTO(世界貿易機関)に加盟した年でもあり、2008年の北京オリンピックの開催が決まった年でもある。従って、この「三つの代表」論が出され、「新社会階層」が中国共産党に参加して政策決定に関与できるようになったことは、中国の新しい明るい時代の到来を期待させるのに十分なものだった。

 しかし、本稿執筆時点で振り返ってみれば、2001年以降の10年間は、「北京オリンピック」や「上海万博」の開催が実現したとは言え、必ずしも中国が新しい時代へ向けて大きく転換した期間だったとは言えなかった。

 私は、「三つの代表」論の本質は、以下のように多面的なものであると考えている。

○中国経済の発展に伴って生まれた「新社会階層」(「ニューリッチ層」とも言える階層)を中国共産党に取り込むことによって、中国共産党が真に幅広い中国人民の代表となる執政党に生まれ変わる切っ掛けとなった(朱建栄氏が言う「第三の革命」という見方)。

○勢力を増す「新社会階層」を党外に置いておいて中国共産党に対する反対勢力に成長することとを恐れた中国共産党が、彼らを党内に取り込むことによって中国共産党による政権支配の継続を目論んだものである。中国共産党は「新社会階層」に門戸を開いたものの、「新社会階層」の中には中国共産党に加わろうとしない勢力も存在した。そのため、中国共産党は、彼らを「党外の全国人民代表」として政策決定プロセスに取り込もうとしたが、その結果、全人代が中国共産党の意のままにならなくなる危険性をはらむようになった。中国共産党による政権の維持を目論んで「新社会階層」を取り込んだことが逆に従来の中国共産党中央にいた人々だけでは政権運営をコントロールできない状態にする可能性を生じさせたのである。このことは、政治的リスクを招く可能性もあるが、逆に、大きな混乱なく、中国共産党を変質させ、あるいは中国の政権制度を変質させる可能性も生じさせた。

○「三つの代表」論は、江沢民氏が、自ら提案した政策を毛沢東思想、トウ小平理論とともに政策運営指針の中枢に残すことにより、江沢民氏が総書記辞任後も自分及び自分が形成した「上海グループ」(上海閥)の影響力を維持しようと目論んだものである。江沢民氏は、自らの影響力を保持するために実態経済において力を持つ「新社会階層」の人々に擦り寄ったのである。これは権力を持つ中国共産党と経済を牛耳る資産家階層との癒着を招く危険性をはらんでいる。

 朱建栄氏は「中国~第三の革命~」の中で、2002年時点でのその後の5年間に期待されるものとして、戸籍制度改革、市長・県長(中国の「県」は「市」より小さい地方行政単位)レベルでの直接選挙の実施などを掲げているが、実際にはそのいずれも実現しなかった。2010年の時点では、戸籍制度については一部の地域で試験的に改革の試みはなされているが実際に実現するかどうかは不透明であるし、市長・県長レベルの直接選挙に至っては試みどころか検討すらなされている様子はない。

 2000年春に画期的な、革命的とも言える「三つの代表」論が提示されながら、2000年代の10年間は、中国は経済的には驚異的な急成長を続けたものの、社会制度、政治制度の面では期待されていたほどの進歩は見せなかった。そこには総書記は引退したもののまだ大きな影響力を維持している江沢民氏ら「上海グループ」(上海閥)と胡錦濤主席らのグループ(共青団派:中国共産主義青年団関係者による派閥)との力関係が拮抗しており、胡錦濤主席が具体的で明確な政策を実行できない状況が背景にあるものと思われる。

以上

次回「4-2-6:第一期胡錦濤政権の勢力分布」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-0bef.html
へ続く。

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2010年5月 6日 (木)

4-2-5(1/2):江沢民総書記による「三つの代表論」の本質(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第5節:江沢民総書記による「三つの代表論」の本質(1/2)

 国有企業の経営資金を株式化し、その一部を株式市場で売買することを認めたことは、中国国内に個人株主を生み出した。個人株主は、自らは労働せず、資本を動かすことによってその資本を拡大することができる「資本家」である。

 また、中国では土地の私有は認められていないものの、土地の「使用権」を売買することは認められるようになったため、人口増加に伴う住宅数の絶対的な不足を背景として、多くの企業が住宅建設を行うようになった。

 中国の高度経済成長に伴う住宅政策においては、日本の住宅公団のような公的機関が比較的安価な住宅を大量に建設する、という政策は採られなかった。住宅建設は、もっぱら市場原理に基づいた企業によって進められた。これは、大きな需要が見込める住宅建設を民間企業に行わせることにより経済の活性化を狙った朱鎔基氏の高度経済成長政策の一貫である。このため、特に住宅需要が大きい都市部においては、様々な企業や機関がマンション建設に投資し、中国の各都市には雨後の竹の子のようにマンションが林立するようになった。

 しかし、これらのマンションは、自分で住むというよりは、投機目的で売買行われるケースも多かったため、実際の住宅に対する需要と比較すると、利潤の小さい一般庶民が買えるような低価格の住宅よりも、利潤率の高い高級マンションや別荘が数多く建設される傾向が強かった。事業に成功したり、株で少しお金を儲けた人たちは、今度は投機目的でマンションや別荘を買うようになり、マンションや別荘の価格は急騰した。そうしたマンションや別荘を転売することにより、また巨額の富を手にする「資産家」の数が増えてきた。

 一方、市場経済の浸透に伴って、企業経営のコンサルティングを行う会計士や、法律トラブルを解決するために必要な弁護士に対する社会的需要が大きく高まったことを背景として、高度な教育を受け、高い能力を持った会計士や弁護士が多数輩出するようになった。彼らの一部も顧客の企業から多額の報酬を受け取りようになった。

 これら株や不動産で資産を増やした人、私営企業の経営者や会計士・弁護士などからなる階層は、ぞれまでの労働者・農民とは全く異なる次元のレベルで高い収入を得て、高いレベルの消費生活を送る人々であった。彼らはその数を増やすに連れて「新社会階層」と呼ばれるようになり、中国社会の中で無視できない存在になっていった。

 中国共産党は、もともとは資産を持たない労働者・農民、即ちプロレタリアート(中国語で「無産階級」)による党であるから、こういった多くの資産を持っていたり高い収入を得たりしている人々が入党することは認められなかった。しかし、現実の経済においては、こういった「新社会階層」の政治的発言力が極めて大きくなってきたことは、中国共産党にとっては大きな脅威となった。

 そこで、江沢民総書記をはじめとする中国共産党幹部は、これら「新社会階層」を中国共産党の外に放置することによって反共産党勢力に転化することを防ぐため、彼らを中国共産党の中に取り込む方法を模索するようになった。

 2000年2月、江沢民総書記は広東省を視察した際、結党以来70年以上にわたって中国共産党が人民の支持を集めてきた理由として、次の3つを指摘した。即ち、中国共産党は、(1)中国の先進的な社会生産力の発展の要求を代表し、(2)中国の先進文化の前進の方向を代表し、(3)中国の最も幅広い人民の根本的な利益を代表する存在だったからである、と指摘したのである。この考え方は、中国共産党は、過去から現在に至るまで、三つの点で中国を代表してきた、という意味で「三つの代表」論と呼ばれるようになった(江沢民総書記が広東省視察の際にこういった新しい考え方を打ち出したのは、1992年にトウ小平氏が行った「南巡講話」を形式的に真似たものだったと思われる)。

 江沢民総書記は、さらに翌年2001年7月1日の中国共産党創立80周年記念演説の中で「三つの代表」論こそが中国共産党の基礎であり、21世紀の党建設や中国の特色のある社会主義の発展における基本的な役割であると指摘した。

(参考URL1)「新華社」ホームページ「指導者活動報道特集」
「中国共産党成立80周年慶祝大会における講話」(江沢民:2001年7月1日)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2001-12/03/content_499021.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 ただし、この時点では、江沢民総書記は「労働者・農民の連盟を基礎とする人民民主主義独裁を堅持する」とも述べており、トウ小平氏が提唱した四つの基本原則の中にある「プロレタリア独裁」の旗印は降ろしていない姿勢を示していた。

 さらに、江沢民総書記は、2002年5月31日、中央党校での幹部の研修終了式典で、「三つの代表」の考え方が、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、トウ小平理論を継承して、新しい情勢に対して党や国が対応していくための強力な理論武装である、と指摘した。この後「三つの代表」論は、「三つの代表重要思想」と呼ばれ、毛沢東思想、トウ小平理論と並んで、今後の政策の基軸となる重要な考え方であるとの位置付けを与えられるようになった。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ(人民網)日本語版
「用語:三つの代表」(2002年11月6日13:53アップ)
http://j.peopledaily.com.cn/2002/11/06/jp20021106_22956.html
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 当初は「三つの代表」論は、具体的にどういう意味を持つのか必ずしも明確ではなかったが、次第に3つの視点のうちの三番目の点、即ち「中国共産党は幅広い人民の根本的な利益を代表する」という部分が「中国共産党はプロレタリアートではない人々の利益も代表する」という形で表面化してくることになる。つまり「新社会階層」の人々を中国共産党の中に取り込むための理論がこの「三つの代表」論だったのである。

 具体的には、2002年11月8日~14日に開催された中国共産党第16回全国代表大会において党規約の改正が行われ、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、トウ小平理論と並んでこの「三つの代表重要思想」が中国共産党の行動指針であることが明記された。また、それまで党員要件としてとして規定されていた「満18歳以上の中国の労働者、農民、軍人、知識分子その他の革命分子」という規定の部分が「満18歳以上の中国の労働者、農民、軍人、知識分子及びその他の社会階層の先進分子」という表現に改正された。これにより、私営企業経営者、会計士、弁護士等からなるいわゆる「新社会階層」も中国共産党の党員となれることが明記されることになった。

(参考URL3)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「中国共産党歴代全国代表大会データ・アーカイブス」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64568/index.html

※この中から第15回党大会(1997年)で決まった党規約と第16回党大会(2002年)で決まった党規約を比較すると違いがわかる。

 「新社会階層」の人々は明らかに「プロレタリアート」(中国語では「無産階級」)ではない。トウ小平氏が1979年3月述べて以来、中国共産党による政策の最も重要な柱は「四つの基本原則」であるが、そのうちのひとつは「プロレタリア独裁」であった。「プロレタリア独裁」が原則であるのに、プレレタリアート以外の人々を共産党に入れてもよいのか。「四つの基本原則」はどうなったのか。この点について少し解説したい。

 1979年3月30日、トウ小平氏はこの時行われていた「理論会議」で、「社会主義の道」「プロレタリア独裁」「共産党による指導」「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」の4つを堅持することを主張した。これがその後の中国共産党の路線の最も重要な柱となった「四つの基本原則」である。

(注)「プロレタリア独裁」の「独裁」は、中国語では「専政」である。日本語の「独裁」という言葉は「ヒットラーによる独裁」という言葉で代表されるように特定の個人による強権的な政権運営も意味するが、共産主義用語でいう「独裁」とは、「ある特定の階級が政権運営を担当する」という意味であり、「ヒットラーにる独裁」の「独裁」とは意味が異なる。このため、日本の共産主義運動に関係する人々の中には日本語の「プロレタリア独裁」という訳語は適切ではなく「プロレタリア執政」と表現すべきだ、という人もいる。しかし、一般には、日本では「プロレタリア独裁」という言葉が定着しているので、本稿でも従来通り「独裁」という言葉を使うこととする。

(参考URL4)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「党史人物記念館」-「トウ小平記念館」-「著作選集」-「トウ小平文選第二巻」
「四つの基本原則を堅持する」(1979年3月30日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69695/4949681.html

 「第二次天安門事件」で学生らの運動が武力で鎮圧された際にも、学生らの動きの中に「四つの基本原則」を覆そうとする動きがあったことが理由とされたことでわかるように、「四つの基本原則」は、最も重要で揺るがすことのできない基本路線なのである。トウ小平氏の「四つの基本原則」の提示を受けて、第5期全国人民代表大会第5回全体会議で1982年11月4日に採択された憲法には前書きの部分に「労働者階級が指導し、労働者・農民の連盟による人民民主主義独裁、即ち実質的にはプロレタリア階級独裁を確固たるものにし発展させる。」との規定が盛り込まれた。

(参考URL5)「新華社」ホームページ「新華資料」
「中華人民共和国憲法」(第5期全国人民代表大会第5回全体会議1982年11月4日採択)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2003-01/24/content_705980.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 中華人民共和国憲法のここの部分は現在でも修正されていない。ところが「中国共産党規約」の方では、1992年10月18日に第14回党大会で採択された党規約以降「プロレタリア独裁」の文字は消えている。

(参考URL6)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「中国共産党歴代全国代表大会データ・アーカイブス」
「中国共産党規約」(中国共産党第14回全国代表大会で一部修正、1992年10月18日採択)
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64567/65446/6415682.html

 この頃(1992年春のトウ小平氏による「南巡講話」の頃)から、四つの基本原則の「プロレタリア独裁」の部分は「人民民主主義独裁」と言われるようになった。かつては、文化大革命までの革命運動によってブルジョア階級は消滅し、全ての中国人民はプロレタリアートになったのだから、「プロレタリア独裁」と「人民民主主義独裁」は実質的には同じ意味であった。しかし、1990年に上海と深センで「実験的に」とは言いながら株式市場が開設され、中国国内に「株主」即ち「資本家」が存在するようになった以上、中国人民の中にも「プロレタリアートではない人々」が発生したことは明らかであり、改革開放政策の進展に伴って「プロレタリア独裁」と「人民民主主義独裁」とはイコールではなくなったのである。

 そうした時代の変化に伴って、中国共産党は、四つの基本原則のうちのひとつ「プロレタリア独裁」をいつのまにか「人民民主主義独裁」という言葉にすり替え、その中身を実質的に変えていったのである。それにも係わらず、中国共産党は「四つの基本原則を堅持することは動揺させない」と言い続けてきた。確かに「四つの基本原則を堅持すること」は動揺していないが、基本原則のうちのひとつが大きく変わったのだから、基本政策は実は大きく変わったのである。「それでは言葉で人民を騙していることになるのではないか」との見方もあるはずだが、中国における政治スローガンはそもそもそういったもの、という認識が人民の側にもあるので、誰も気にはしていないようである。

 憲法の方は現在でも「即ち実質的にはプロレタリア独裁を確固たるものにし発展させる」という文言が残っているのに、中国共産党の規約から「プロレタリア独裁」の言葉が消えて「新社会階層」の入党も認めているということは、現在の政治の指導原理である中国共産党の方針と憲法の規定とが一致していないことを意味している。「法律の規定ではこう書いてあるのだが、実際の運用ではなんとでもなる」という中国社会の現状、即ち中国社会は「法治」ではなく「人治」であるという現状は、こういった中国共産党の方針と憲法との規定のずれ、という最も社会の根源のところから出発しているのである。おそらくはこういった根本的な「ずれ」を直さない限り、中国社会が「人治」を脱却し「法治」の社会になることは不可能であると思われる。

以上

次回「4-2-5(2/2):江沢民総書記による『三つの代表論』の本質(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-bb64.html
へ続く。

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