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2010年4月25日 (日)

4-2-2:「第二次天安門事件」の後遺症

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第2節:「第二次天安門事件」の後遺症

 中華人民共和国成立の前、国民党との内戦末期の1949年1月31日、人民解放軍は西から北京(当時は首都ではなかったので「北平」と呼ばれていた)に入城した。「北京三十五年」(参考資料12)の著者の日本人技師・山本市朗氏は、この時、長安街の天安門から約2km西にある西単の交差点から北へ伸びる西四大街の人ごみの中にいた。山本市朗氏は、「北京三十五年」の中で、この時の様子を次のように描写している。

「『何がはじまるんだ』と、道端のお爺さんにきくと、『今、中共軍が、西直門から入城してくるそうだから、それを見物しようと思っているのだ』といった。これは面白い、と思って、さっそく輪タクを人込ごみの中につっこんで止めて、私も道端の人々にまじって見物することにした。

 するとそのうちに、道の両側の見物の人々の間から、若い女学生たちが三々五々勝手に大通りの真ん中へとび出していって、北京の解放を祝う歌をうたいながら踊りはじめた。はじめは、それぞれの仲間同士の、ちいさなグループだけで輪を作って踊っていたが、それがだんだんと合流して、踊りの輪が大きくなり、見物人の中から、労働者らしい中年の男女たちも加わって、とうとう大通りの幅いっぱいに、厚い大きな輪を作って踊りまわった。

 彼女たちは、ほんとうに内心から溢れ出る解放の喜びを、それぞれ各人思い思いの歌と踊りにたくして力いっぱい表現した。(中略)それは、彼女たちの解放に対する喜びが、じーんと私の胸に直接伝わってくる踊りであった。そして、私は、若い人たちの国民党に対する嫌悪と、共産党に対する期待を、この踊りの中に見た。

 遠くから、ラッパの音が聞こえて、解放軍(中国共産党軍)が入城してきた(中略)。

 軍楽隊のラッパは、どれもこれもみな、ぴかぴかに磨き立てられて光っており、アメリカ製の戦車は、すっかり草色に塗り直されて、横腹には、星形の枠の中に「八・一」と赤く塗りだした解放軍の軍章が、大きく書き出されていた。」(「北京三十五年」より)

 それから40年後の1989年6月3日深夜、人民解放軍はその日もやはり西から北京市内に入ってきた。人民解放軍は、市民が作ったバリケードを次々に突破しながら天安門前広場へ向かって東へ進軍していた。西単の交差点でも多くの市民がバリケードを築いて人民解放軍の戦車の進軍を阻止しようとしていた。6月4日0時頃、共同通信記者だった伊藤正氏は西単付近にいたカメラマンから「軍が発砲した。市民はバスに火を付けて抵抗している。軍は天安門方向に向かった。」という電話を受けた(「トウ小平秘録」(参考資料17))。

 6月4日の日曜日、「第二次天安門事件」のニュースを聞いた私は耳を疑った。「人民解放軍が中国人民に対して発砲するなんてあり得ない」と思ったからである。しかし、それは事実だった。私は戒厳令の発令と人民解放軍の待機は天安門前広場に陣取る学生たちに対する「おどし」「威嚇」であり、もし仮に当局が学生たちを実力で排除することがあるのだとしても、それは警察力による排除だと思っていた。1976年の「第一次天安門事件」の時も天安門前広場に集まった大勢の市民たちを排除したのは棍棒・鉄パイプや皮ベルトを持った警察隊や民兵であり、人民解放軍は登場しなかったからである。おそらくはこの時天安門前広場に集まっていた学生や市民たちも私と同じように考えていたのではないだろうか。

 しかし、テレビのニュースでは、戦車や装甲車に先導された人民解放軍の兵士が機関銃を持って進軍し、兵士たちが「空へ向けた威嚇射撃」ではなく明らかにデモ隊を狙った水平射撃で実弾を発射している場面を映し出していた。前々節で書いたように「天安門広場の中では死者は出ていない」のは事実のようであるが、人民解放軍の戦車が出動し、人民に対して直接銃口を向け、解放軍の兵士が実弾で水平射撃を行ったこともまた事実であった。「人民解放軍が中国人民に対して発砲した」という事実は、癒すことのできない深い傷として、現在に至るまで中国を苦しめている。

 私は1989年のこの日、テレビ・ニュースを見て「時代が20年逆転した」と思った。そして、20年後の2007年4月北京に再び赴任した時、逆転した時間が実は20年以上だったことを知り愕然とした。もし1989年に逆転した時間が20年だったのだとしたら、20年経過して再び駐在員として北京に降り立った私は、1980年代と同じ雰囲気を味わったはずだからである。しかし、2007年の北京は、確かに経済発展により高層ビルは建ち並んではいたが、1980年代には次々に撤去されつつあった党と軍を支持するよう呼びかけるスローガンが街にあふれ、テレビのニュースの時間には1980年代にはあり得なかった「紅い記憶」というタイトルの中国共産党の歴史を讃えるコーナーが放送されていた。2007年は、1980年代より「古い時代」だったのである。

 逆転した時間は20年ではなかった。逆転したのは40年だったのかもしれない。いや、過去に人民解放軍が人民に対して発砲した、ということは紅軍創設以来なかったことであるから、長い時間を掛けても取り返しの付かない「逆転」が1989年6月4日に起きてしまったのかもしれない、と2007年の北京で私は思った。

 2007年4月に二度目の北京駐在を始めるに際して、「北京は20年ぶりですか。中国の発展振りにさぞ驚かれたことでしょう。」と私は何回も言われた。私はそのたびに「変わったところと変わらないところ、両方ありますね。」と寂しく微笑むしかなかった。貧しいけれども明るい未来へ向けて頑張っていこう、という若葉のような1980年代の中国は、2007年にはもはやなかったからである。

 私は、前節で述べたような1989年以降にソ連がたどった道を考えれば、トウ小平氏が1989年の学生たちの動きを放置できなかった、という理由は理解できる、と考えている。当時の中国においては、国内経済の発展と国際的な発言力の強化が最大の課題であり、当時は国内で政治論争をやっている場合ではなかった、という考え方にも一定の説得力があるからである。

 ソ連の場合、ロシア民族が数多く住む地域が「ロシア共和国」として独立・分離することは可能だったかもしれないが、中国の場合は、そういったことは不可能である。中国は、大多数を占める漢民族と他の少数民族とが、時には対立し、時には協力し融合し合いながら連綿と歴史を綴ってきた国である。そういった各民族の係わり合いがあってこそ「中国」という世界が成り立つのであり、各民族がバラバラになったのでは、もはやそれは「中国」ではなくなってしまう。漢族は確かに人口の大部分を占めているが、「ロシア共和国」のように漢族を主体とする地域だけを選んだ「共和国」というのは存立しえない。各民族が対立しながらも共存している状態こそが中国を中国たらしめているゆえんだからである。従って、政治的混乱が続き、ある特定の民族が独立を主張しはじめたら、「中国」という社会自体が消滅してしまうおそれがある。それがソ連と中国の大きな違いである。

 それは共産党が支配するかしないかの問題ではない。共産党による支配があろうがなからろうが、求心力を失い、バラバラになって混沌の政治的混乱に陥った中国は、もはや中国という社会を保つことすらできなくなってしまう。1989年の時点では、経済的にまだまだひ弱な中国においては、中国共産党が求心力となるしかない、とトウ小平氏は考えたのである。共産党政権が続くかどうか、という以前の問題として、1989年の時点では、政治的混乱をどこかで収束させなければ、中国という社会自体の維持が危ぶまれる、とトウ小平氏は考えたのだと思われる。だから、学生らの民主化要求デモは、どこかの時点で収拾させる必要があったとトウ小平氏は考えたのだと思われる。

 しかし、そのために人民解放軍の戦車部隊を投入する必要が本当にあったのか。事態を収拾しようとすればできたかもしれないタイミングと解決の手法はほかにもいくつかあったのではないのか。そういう疑問を、私は、というより当時を知るほとんどの人々は持っていると思う。

 まず、4月18日の「新華門事件」の時にうまく対応はできなかったのか。学生たちが中国共産党本部に突入しようとした「新華門事件」は、治安上、極めて大きな問題であり、この時点で警察力を投入して突入しようとした学生たちを解散させ、天安門前広場での集会を禁止することができたのではないのか(1987年1月1日に私自身が見たように、警備当局による天安門広場の占拠も可能だったのではないのか)。

 次に、4月22日に胡耀邦氏追悼大会が終わった時点で対処できなかったのか。追悼大会が終わった時点で「追悼行事はこれで終了した」ことを宣言し、天安門前広場で花輪を捧げるなどの追悼行動を禁止する、などの措置を取ることはできたのではないか。

 さらに問題だったのは、4月26日の「人民日報」に社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」を掲載したことである。なぜこの時点で「動乱」ということさら学生らを刺激するような言葉を使ったのか。また、もし仮に「動乱」という言葉を使う強硬路線を取るのであれば、この社説を掲載したのと同時に警察力で天安門広場の学生らを排除する動きを取るべきだったと思われるが、この時、当局は、社説を掲載したのみで、学生らを強制排除する動きは見せなかった。それはなぜなのか。北朝鮮を訪問中の趙紫陽総書記がこの時点で北京に戻らなかった理由とともに、疑問が残る。

 次のタイミングは5月3日の「五四運動70周年記念大会」での講話と5月4日のアジア開発銀行理事会出席者に対する演説において趙紫陽氏が学生らの動きに対して理解を示す姿勢を示した時である。この時、多くの学生は趙紫陽氏の演説を評価して、大学へ戻っている。天安門前広場に居残った強硬派の学生もいたが、この時点で警察力を使って残った学生らを広場から強制排除することはできたのではないかと思われる。当局側には、5月15日にゴルバチョフ書記長が訪中し、公式行事のために天安門前広場を使う必要がある、という格好の「大義名分」があった。「君たちの気持ちは理解できるが、外交上、国賓の歓迎行事も国家としては重要だ。天安門前広場を明け渡して欲しい。」と説得すれば、学生らも強硬には反対できなかったはずである。

 しかし、これらのタイミングは、ことごとく何事もなされずに無為に過ぎてしまった。それはなぜなのか、については、後世の歴史家の分析に待つしかない。李鵬氏ら保守派・強硬派と、趙紫陽氏ら改革派・対話路線派の勢力争いが拮抗していて、党として的確な判断ができない状態だった、というのもひとつの理由かもしれない。しかし、いつもは的確な読みで鋭い判断をしてきたトウ小平氏が、なぜゴルバチョフ書記長訪中の前に警察力の導入による学生たちの広場からの強制排除という指示をしなかったのか、私としては理解に苦しむところである。

 ひとつの理由として、中国の警察当局には、放水銃や催涙弾のような「デモ鎮圧用」の装備を持った部隊が十分に備わっておらず、多人数のデモ隊の鎮圧や広場で座り込みを続ける学生たちを排除する能力がなかった、という見方もできる。しかし、1976年4月の「第一次天安門事件」の際には、相当の数の市民が天安門前広場に集まったにもかかわらず、当時の当局(この時は「四人組」の勢力が党中央を支配していた)は、警棒、革ひも、鉄パイプで武装した警察部隊や民兵を動員して、市民の強制排除を行っている。「四人組」の政権にできたことが、もっと権力基盤が磐石であるはずのトウ小平氏の政権にできなかったはずはない、というのが私の率直な感想である。私の知らない何か別の事情があったのだろうか。

 保守派と改革派の抗争の中で、実はトウ小平氏も絶対的な決定権を発揮することができなかったのではないか、との見方もある。例えば、6月4日に天安門前広場から学生らが排除された後、新華社は、6月7日に建国門橋上にいる人民解放軍の戦車と建国門外にある外交公寓(外交官用アパート)との間で銃撃戦があり、四人の兵士が死傷したという事件を伝えたが、これは何らかの権力闘争があったことを物語るとの見方もあるからである(この建国門橋における銃撃戦の背景に何があったのかは、今でも明らかにされていない)。この銃撃戦で、日本大使館員の住居3戸も被弾したため、日本大使館は北京の在留邦人の国外退去を行っている(「トウ小平秘録」(参考資料17))。

 いずれにせよ、私は(そしておそらくは天安門前広場に集まっていた学生たちも)まずは警察力による強制排除が試みられ、それでも事態が収拾されない場合には人民解放軍が出動するかもしれない(ただしその可能性はほぼゼロである)と思っていたところ、警察が出てくる前に、いきなり人民解放軍の戦車部隊が天安門前広場に突入し実弾を発射したことは、全くの予想外のできごとだったのである。

 1981年の「歴史決議」で「文化大革命」の誤りを認め、タブーとも思われていた毛沢東についても「晩年に誤りを犯した」と率直に認めた中国共産党は、何か誤った政策を採ったとしても、自分で修正する能力を持っている、と信じていた私の気持ちは、この「第二次天安門事件」で完全に崩壊した。多くの中国の人々も同じではないかと思う。困難な道だろうが紆余曲折をたどりながら中国は少しづつ前進していくだろう、という私の期待と、そういった中国に対して抱いていた30歳代の私の希望は、1989年6月4日、完全に押しつぶされた。同じような思いを抱いたであろう中国の若者たちを思うと、今でも心が痛む。

 学生運動のリーダーたちはもちろん、方励之氏、厳家祺氏らの多くの知識人がこの事件をきっかけにして国外へ逃れた。国内に残った知識人たちもこの事件をきっかけにして「自由な議論」はできなくなった。芽生え掛けていた中国の「思想の自由」も、この日、死んだのだった。

以上

次回「4-2-3:トウ小平氏の最後のメッセージ~南巡講話~」
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へ続く。

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