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2010年4月 5日 (月)

4-1-1:具体化する改革開放政策とまだ残る「文革のしっぽ」

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第1節:具体化する改革開放政策とまだ残る「文革のしっぽ」

 「歴史決議」を採択した1981年6月の第11期中国共産党中央委員会第6回全体会議(第11期六中全会)では、もう一つの重要な決定が行われた。華国鋒氏の党主席からの退任である。この決定で前年の全人代で国務院総理も辞任していた華国鋒氏は完全に中国政界の表舞台から姿を消した。華国鋒氏の党主席からの退任は「歴史決議」とともに、新しい時代が到来したことを告げる象徴的なできごとだった。この時、華国鋒氏は中国共産党中央軍事委員会主席も退任した。後任の中央軍事委員会主席にはトウ小平氏自身が就任することになる。

 ただし、華国鋒氏はヒラの中央政治局委員ではあり続けたので「失脚」ではなかった。華国鋒氏は北京オリンピック開催中の2008年8月20日に87歳で死去した。翌8月21日付けの人民日報では、1面の下の方に「中国共産党の優秀な党員で、共産主義に忠誠を尽くした経験ある戦士、プロレタリアート階級革命家であり、かつて党と国家の重要な指導的職務に就いていた華国鋒同志が死去した。」と報じられた。華国鋒氏は、周恩来に次ぐ国務院総理、毛沢東に次ぐ党の主席であったにも係わらず、党主席、国務院総理であったことはその時には報じられなかったのである。オリンピック開催期間中であったこともあり、あまり「過去の人」の死去を大きく報じる雰囲気ではなかったこともあるだろうが、華国鋒氏の微妙な位置付けを象徴するような人民日報の報道だった。

 華国鋒氏の葬儀は北京オリンピック終了後の8月31日に行われたが、この葬儀を伝える人民日報や新華社の報道では、華国鋒氏が「四人組」追放に功績があったこと、党主席や国務院総理を務めたことなどがきちんと報じられていた。葬儀の際の報道では華国鋒氏についてきちんとした報道がなされたのは、死去直後の報道があまりに簡素だったために党内でも「もっと華国鋒氏の功績をきちんと報道すべきだ」という議論があったためなのか、単に葬儀の時点ではオリンピックが終わっていて「過去の人」の葬儀についても報道する雰囲気になったからなのか、は定かではない。

 「歴史決議」と華国鋒氏の中国共産党主席退任により、完全にトウ小平氏を中心とする組織体制が確立した。翌1982年の党の決定及び全人代の決定において、党のトップは総書記である胡耀邦氏、国務院総理は趙紫陽氏、軍のトップである中国共産党軍事委員会主席にはトウ小平氏という体制になった。国家主席は1968年に劉少奇が失脚して以来空席だったが、外交儀礼上の国家元首としての役割は全国人民代表大会常務委員会委員長の葉剣英が担っていた(国家主席は1983年6月に復活する。復活後の初代の国家主席は李先念氏)。

 この体制は、党、国務院、軍のトップ、国家元首を全て別の人物が担う、という権力分散型の体制だった。これは、全ての権力が毛沢東に集中し、党と政府の役割分担が不分明だった文化大革命の時期に対する反省に立脚した体制で、この体制もひとつの「改革開放体制の原点」であった。しかし、この党と軍と国家元首の独立、という体制は、1989年の「第二次天安門事件」の経験を通じて、党内で論争が起きたときにそれを収拾できない体制だとして反省され、1990年代以降の江沢民体制においては、党のトップ、軍のトップ(中央軍事委員会主席)、国家元首(国家主席)の三職を一人の人物が独占する、という体制が復活した(現在の胡錦濤政権でも、権力が移譲される過渡期の時期を除き、これら三職の一人の人物による独占は続いている)。この体制はあたかも毛沢東時代が再現したように見える。このことも私が1989年以降は「改革開放体制の原点」が失われた、と考える理由である。党のトップと軍のトップと国家元首を一人の人物が独占する体制は、権力の相互牽制によるチェック・アンド・バランスが機能せず、「改革開放体制の精神」を体現していないからである。

 別の言葉で言えば、党・軍・国家のトップを分離していた1980年代の体制が「混乱が起きたときに収拾できない」という理由で反省され、一人の人間が独占する体制に戻ったということは、「中国共産党の指導」が大前提である現在の中国の体制においては、権力体制内部にチェック・アンド・バランス機能を求めること自体がそもそも無理であることを示しているとも言える。

 1982年9月1日~11日に開催された第12回中国共産党全国代表大会において、党規約が改正され、前年まで華国鋒氏が就いていた党主席が廃止され、中央委員会総書記という職が設けられ、党務を統括することになった。党全国代表大会に引き続いて行われた中央委員会第1回全体会議において、中央委員会の初代総書記には、それまで中央書記処総書記として実質的に党務を取りまとめてきた胡耀邦氏が就任した。また、この会議で、華国鋒氏の後任としてトウ小平氏が党中央軍事委員会主席に就任した。

 1982年11月26日~12月10には第5期全国人民代表大会第5回全体会議が開催され、憲法が改正された。この憲法改正により、人民公社が持つ経済主体としての性格と政治組織としての性格が分離されることとなり、1958年にスタートした人民公社制度は完全に解体された。これまでに述べてきたように、農村では農家各戸ごとに生産を請け負わせる「各戸生産請負制」が浸透してきており、人民公社は既に実質的に意味を失っていたからである。人民公社の解体、即ち「各戸生産請負制」の進展により、各農家の生産意欲は高まり、1980年代前半、中国の農業はそれまでになかった生産量の伸びを記録することになる。

 このようにして「文化大革命」時代の政策はひとつひとつ転換されていき、新しい「改革開放」の考え方に基づき、中国は新たなレールの上に完全に乗って、これから驚異的な経済成長が始まることになる。

 この当時、外国からの資金と進んだ技術を導入し経済成長の基礎を固めたいと考えていた中国と、膨大な人口を抱える市場としての中国に大きな魅力を感じていた日本の経済界の利害は完全に一致していた。このため、1980年代、日本と中国との関係は緊密の度を深めていく。

 そういう時代の1982年7月、私は中国との通商貿易を担当する職場に配属になった。私の最初の仕事は、同年9月、日中国交正常化10周年を記念して次々に中国を訪問する代表団のロジ(スケジュール管理等の事務的支援)だった。1982年9月だけで、政府関係では、安倍晋太郎通産大臣訪中、通産省事務次官訪中、鈴木善幸総理訪中があり、経済界では日中経済協会代表団の訪中があった(毎年9月の日中経済協会代表団の訪中は恒例行事)。総理訪中と同じ月に通産大臣と通産省事務次官が訪中するのは極めて異例のことだった。この月が日中国交正常化10周年という記念の月だったからであるが、今思えば、日本側・中国側ともに経済関係の日中交流に非常に熱い思いを持っていたことがこういう「集中豪雨的訪中」の背景にあったものと思われる。

 なお、私の業務は1982年9月は多忙を極め、この月の超過勤務時間(休日出勤も含む)は200時間を超えた。これは今でも私の超過勤務時間の月間記録であるが、当時24歳という若さだったからこそそれが可能だったのだろうと今でも思っている。

 ここで、当時の中国と日本との関係を理解する上で参考になると思うので、当時の私の仕事に関係する話を少し紹介することにしたい。

 中国では、改革開放政策が打ち出された翌年の1979年、「中外合資経営企業法」が制定され、外国企業が中国国内に投資を行って合弁企業を設立するための法的根拠ができていた。当時、多くの日本企業は、大きな未開拓の中国大陸市場に非常に魅力を感じていたが、中国における政治的環境が変化して、また「文化大革命」のような時代に揺れ戻ることを危惧しており、日本企業による中国への投資はすぐには進まなかった。そのため、日中両国政府は、外国企業からの投資をお互いに保護し合うことを内容とする「日中投資保護協定」の締結へ向けての交渉を行っていた。

 当時の日中間には、基盤となる二国間の国際約束としては、1972年の日中共同声明と1978年に締結された平和友好条約しかなく、経済関係の基盤となる条約がなかった。ある意味で、日本が幕末にアメリカと締結した「日米通商修交条約」に該当する条約すらなかった、と言ってもよい状態だった。そこで「日中投資保護協定」には、本来「通商修交条約」に盛り込まれるようなごく基本的なこと(最恵国待遇や相手国内での経済活動の自由の保障)も盛り込むことが想定されていた。もちろん、作られるべき条約は、幕末に日本が締結した「日米通商修交条約」のような不平等条約ではなく、日中双方が平等な立場で権利を主張できる双務的な条約とすべきものだった。

 「日中投資保護協定」は1988年8月27日に署名された。交渉は1980年代はじめから行われていたにもかかわらず、署名が1988年になったのは、交渉に時間が掛かったからであるが、交渉に時間が掛かった背景には、中国側の「資本主義的考え方」に対する警戒感があったからだと思われる。この時期の中国内部での改革推進派(トウ小平氏、胡耀邦氏ら)と保守派(陳雲氏、李先念氏、姚依林氏ら)との対立関係については、2010年1月に日本語版が出版された「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)に詳しい。「趙紫陽極秘回想録」によれば、趙紫陽氏自身は、改革は進めるべきだがトウ小平氏や胡耀邦氏が主張するほどのスピードで進めるのではなく、逐次段階を追ってゆっくりと進めるべきだと考えており、この時期自分(国務院総理だった趙紫陽氏)は改革推進派と保守派の間の「中間派」だと思われていた、と自ら語っている。

 1988年に署名された「日中投資保護協定」の全文は、下記のURLに掲げられている。

(参考URL1)経済産業省ホームページ「対外経済政策総合サイト」
「日中投資保護協定について」
http://www.meti.go.jp/policy/trade_policy/asia/china/html/investment_treaty.html

 この時期、中国側は、対外開放政策の方針の下、積極的に外資導入を計ろうとしていたが、私は中国関係の仕事をしていて、中国側関係者が話す言葉の端々に現れる中国側に残る「文革のしっぽ」を常々感じていた。例えば、いろいろな外資導入に関する文書の中で「資本利得」などという資本主義国では普通に使われる言葉を使おうとした場合、中国側が難色を示す場合があった。なまじ日本と中国は同じ漢字を使っているため「資本利得」といった言葉は中国語としても読めてしまうので、こういった「資本主義用語」をどこでどのように使うかについて、中国側は、中国側の国内で説明する際に非常に神経を使う必要があったためらしい。「外資を導入する」という大方針は既に決まっていたとは言え、やはり資本主義体制の日本と社会主義体制の中国とでは価値観も違うし、使う言葉も違っていたのである。

 この辺の事情について、中国の経済学者の呉敬璉氏(1990年代以降の中国経済の改革開放政策のブレーンの中心人物と言われる)は、2008年9月2日付けの経済専門週刊紙「経済観察報」とのインタビュー記事において、1980年代には経済活動を市場原理に基づいて調整することを「市場経済」と呼ぶことに対してすら一種の「はばかり」があり、当時は「市場経済」と呼ばずに「商品経済」と言い表していた、と述べている。

(参考URL2)「経済観察報」2008年9月2日アップ記事
「『呉市場』から『呉法治』へ(1)」
http://www.eeo.com.cn/observer/dajia/2008/09/02/112308.html

 この頃(1980年代前半)、中国国内では「改革開放はよいが、どこまで市場原理に任せるのか、社会主義的要素をどこまで残すのか」について、保守派と改革派の間で相当な論争があったのである。1982年7月~1984年9月、私は中国との通商貿易を担当する仕事をしていて「文革のしっぽ」のようなものがまだ中国にあることは感じていたのだが、「中国国内で改革派と保守派との間で論争が行われていた」とは全く知らなかった。中国国内の論争の実態は、外からは非常に見えにくいものだったのである。

 改革派の筆頭はトウ小平氏だった。トウ小平氏は、大胆に市場原理を導入することを主張していた。保守派の筆頭は、トウ小平氏とともに改革開放体制のスタートに寄与した陳雲副主席であった。陳雲氏は、改革開放政策のスタート時においてトウ小平氏を支持するとともに、古い革命幹部が高齢になってもなお党の決定に係わるのを防ぐことの重要性を指摘するなど、トウ小平氏の考え方に非常に近かった。1981年5月、陳雲氏が党中央に青年指導者の抜擢の必要性を提言する意見書を出した時、トウ小平氏は、「陳雲同志の意見について私は両手だけでなく両足も挙げて賛成だ」と述べたという(参考資料17:トウ小平秘録)。

 しかし、陳雲氏は、経済政策については、トウ小平氏とは異なり、保守的な考え方、即ち中華人民共和国成立直後の五カ年計画に基づく社会主義的計画経済が理想的な姿だとする考え方を持っていた。陳雲氏は、改革開放政策により市場原理による経済調整を導入するのはよいが、それはあくまで社会主義的計画経済の枠内における調整に留めるべきだと主張していた。市場原理による経済調整を鳥に例えて、鳥は計画経済というカゴの中においてのみ自由に羽ばたかせるべきだ、と主張したことから、陳雲氏のこの考え方は「鳥カゴ経済論」と呼ばれた。このトウ小平氏と陳雲氏の経済政策論争は、1980年代から「第二次天安門事件」を経て1992年にトウ小平氏が「南巡講話」により「やはり大胆に市場原理を導入すべき」と檄(げき)を飛ばすまで続いた。

 「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)によれば、この時期、国務院総理として改革開放政策の実施を陣頭指揮していた趙紫陽氏自身は、トウ小平氏、陳雲氏ともに尊敬する理論的指導者として、同等に敬意を持っていたと述べている。

 この当時、私が中国との関係する職場にいて常々感じていたもう一つの点は、中国側が「経済力が大きく異なる二つの国の関係において『平等』を求めることは、公正(フェア)ではない」という考え方に立脚している、という点だった。これはある意味で正当な考え方である。経済力が大きく異なる二者がハンデなしに対峙したら経済力の強い方に有利にことが運ぶことは明らかだからである。

 この点は、アメリカがよく主張する「各国は平等の立場で対応すべきだ。平等に扱うことこそが公正(フェア)なのだ。」という主張は実は正しくない、という点に通じる。アメリカは「平等こそ公正(フェア)だ」と主張することが多いが、アメリカ自身は、北アメリカ大陸のうち極寒の北部はカナダに譲り、南部の乾燥地帯はメキシコに譲り、中央部の温帯地域の最も農業に適していて石油等の地下資源の豊富な広大な地域を確保した上で「平等な扱いこそが公正(フェア)なのだ」と主張しているのである。こういったアメリカ式の主張は、実は「まやかしの公正(フェア)でしかない」というのが、中国の主張なのである。

 この主張は、現在でも中国の外交姿勢の基本的考え方のひとつである。二酸化炭素排出問題において、「現在の地球上の二酸化炭素増加の主な原因が先進国であるのに対し、これから発展しようとしている中国やインドに規制を掛けるのは公正(フェア)ではない」と中国が主張していることがそれを端的に表している。

 さらにこの当時私が感じた中国側の主張の中で重要な視点は、中国が外国によるコントロールに非常に強い警戒感を持っている、という点である。19世紀後半から新中国成立までの間、中国は列強各国により、鉄道、通信、基幹産業を支配され、自らの政策を自らの手で決定する能力を失っていた。中国は、そういった状態に戻ること極度に警戒している。経済の自由化は進めるが、それによって中国経済が外国政府や外国企業にコントロールされるような事態は絶対に避けたい、というのが中国側の基本的考え方である。この考え方は現在でも続いている。例えば、現在でも自動車などの主要産業における合弁企業において、外資側が50%を超えるマジョリティを採ることは認められていない。

 上に述べたように1988年に「日中投資保護協定」が署名された。「投資保護協定」は、お互いの国の企業や人が相手国で投資活動等の経済活動を支障なく行い、その経済活動のために投資した資金等が保護されることを約束する協定である。従って、外国企業や外国人であっても、経済活動をしている範囲においては、相手国内における自由な活動を認めるのが原則である。しかし、「日中投資保護協定」には以下の規定がある。

「日中投資保護協定」(議定書)第5項:
「いずれの一方の締約国も、投資を行うこと及び投資に関連する事業活動を行うことを目的として自国の領域に入国し及び滞在する希望を有する他方の締約国の国民の入国、滞在及び居住に係る申請に対し、自国の関係法令に従い、好意的な考慮を払う。」

 「好意的な考慮を払う」という文言は、おそらくは両国関係者の苦心の作であろう。「他方の締約国の国民の入国、滞在及び居住に対し、自国の関係法令に従い、自由を保障する。」と書けなかったところに中国との協定における「自由度」の規定の限界を感じることができる。

 私が初めて中国を訪問した1983年2月頃には、中国国内における外国人の行動範囲は「原則禁止、都市部など一部認められている範囲においてのみ自由」だった。外国人が自由に行動できる範囲は「開放区」と呼ばれていた。北京の市街地は「開放区」で、外国人でも自由に行動できたが、その範囲の西南の境は廬溝橋の西詰だった。1983年2月の北京訪問時、私は廬溝橋へ行った(当時は「抗日人民戦争博物館」はまだなかった)。廬溝橋を東から渡って橋の西側の端に行くと、そこには「外国人は許可なくこの先へ行くことを禁じる」という中国語・英語・ロシア語で書かれた標識があり、そばには外国人を監視するための人民解放軍の兵士が銃剣を持って立っていた。中国の一般住民は、その標識の下を自由に行き来していた。それを見て、私は当時の中国では外国人には行動する自由がないことを実感した。

(ただし、この後「開放区」は急速に拡大し、1984年頃には「広東省全体を開放区とする」「遼寧省全体を開放区とする」といった決定が相次ぎ、外国人の行動は次第に「原則自由、国境地帯や軍事施設周辺など特別な地域に立ち入る場合にのみ許可が必要」というふうに変わっていった)。

 また、この「日中投資保護協定」では、他の国との「通商修交条約」でよく規定される「最恵国待遇」に関する規定(第三国に与えられる待遇は協定締約相手国に与える(締約相手国を他の第三国より不利に扱わない)とする規定)もひとつの柱となっているが、議定書第3項に以下の規定があり、日中間の場合、この「最恵国待遇」には一定の「限界」があることを示している。

「日中投資保護協定」(議定書)第3項:
「協定第3条2の規定(注:最恵国待遇を定めた規定)の適用上、いずれか一方の締約国が、関係法令に従って、公の秩序、国の安全又は国民経済の健全な発展のため真に必要な場合において他方の締約国の国民及び会社に差別的な待遇を与えることは、『不利な待遇』とみなしてはならない。」

 この規定は「公の秩序、国の安全又は国民経済の健全な発展のため真に必要な場合」という名目が立てば、最恵国待遇を与えなくてもよい、と解釈できる。

(注)これらの規定については、中国側が都合がよい時に日本人あるいは日系企業に対して制限を掛けられる規定であると解釈することもできる。しかし、一方で、現在、入国ビザの発給については、中国側が日本人の入国については2週間以内の短期滞在ならばビザなし渡航を認めているのに対し、日本側は全ての中国人の入国に際してビザを求めている、といった片務的な対応を取っており、現状では、むしろ日本側の方がより制限的な措置を設けているケースがある点に留意する必要がある。

 上記の1980年代前半に私が中国との通商貿易関連の仕事をしていたことを通じて感じた中国側の基本的姿勢のうち後者の二つ(「状況が異なる二者の間では『平等=公正(フェア)』ではない」「外国(外国企業)によるコントロールは受け入れない」)は、現在でも中国の対外政策の基軸であり、中国と関係して行こうとする人は常に頭に入れておく必要がある点だと私は思っている。

以上

次回「4-1-2:改革開放政策下の1980年代の日中協力(私の経験)」
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へ続く。

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