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2010年4月 2日 (金)

3-5-6(2/2):改革開放政策決定前後の中国の外交政策(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第6節:改革開放政策決定前後の中国の外交政策(2/2)

 これまで述べたように、1970年代半ば、米ソ両国による平和共存路線「デ・タント」が進む裏で世界各地の発展途上国において米ソ代理戦争が起きていた。そうした中、アメリカでは、1977年1月、民主党のジミー・カーター氏が大統領に就任した。カーター大統領は、外交政策として「人権外交」を打ち出した。カーター大統領の「人権外交」は、「資本主義か社会主義か」という基準ではなく、「民意を反映した政府かどうか」という判断基準によるものだったため、選挙により社会主義政権が樹立された場合には、アメリカ政府はそれを承認せざるを得なくなった。このため、世界各地で、社会主義的な国や反米的な政権が次々と誕生した。一方、カーター政権の「人権外交」の推進は、ノーベル文学賞作家のソルジェニーチン氏を国外追放にするなど国内に人権問題を抱えるソ連政府を刺激した。こうしたソ連によるカーター政権への反発と世界各地での密やかな米ソ代理戦争の拡大は、「デ・タント」を崩壊に導いていく。

 こうした国際情勢を巧みに利用しようとしたのがトウ小平氏である。日本との間で「反覇権条項」の入った日中平和友好条約の締結に成功したトウ小平氏は、一方で、米国と国交正常化も急いだ。発展途上国の様々な国で社会主義国家や反米的な政権が誕生する中、発展途上国のリーダーとしての中国と接近することは国際戦略上重要だというアメリカの考えをトウ小平氏は有効に利用したのである。結局、中国は米中国交正常化に際しての合意においても「反覇権条項」を盛り込むことに成功する。中国の日本とアメリカとの国交正常化は、中国を国際社会に引っ張り出したという側面もある一方、中国が日米を巻き込んでソ連包囲網を完成させた、という側面もあったのである。

 前に述べたように、「改革開放政策」を決めた第11期三中全会が開催される直前の1978年12月16日、米中両国は1979年1月1日をもって国交を正常化することを発表した。米中国交正常化により、アメリカは台湾の政権との間で結んでいた米華相互防衛条約を破棄した。

 しかし、アメリカ議会は、台湾との同盟関係を全くゼロにすることはアメリカの安全保障上問題であると考え、1979年4月10日、「台湾関係法」を成立させた。「台湾関係法」は、国際条約ではなく、あくまでもアメリカの国内法であるが、台湾への武器供与を認め、アメリカ政府に台湾住民の安全がおびやかされた場合には適切な行動を求めるなど、あたかも台湾との間で安全保障条約を結んでいるかのような内容である。この「台湾関係法」は現在でも有効であり、中国は常々アメリカに対して抗議をしているが、アメリカ側は「台湾関係法」はアメリカの国内法である、として中国の抗議に取り合っていない。こうした関係があることが、日中関係と米中関係との決定的な違いである。

 米中国交正常化直後の1979年1月16日、イランでは親米的なパーレビ国王が国民による反体制運動の高まりに耐えかねて国外へ逃亡し、2月1日にはイスラム教指導者のホメイニ師が帰国してイラン・イスラム革命が成立した。革命で成立したイラン政府は反米であったが、親ソ連でもなかった。イラン・イスラム革命は、既に米ソ両国ともに世界各地において、その影響力が徐々に低下しつつあったことを象徴するできごとだった。

 全世界的なアメリカの影響力の低下の中、1979年12月24日、ソ連は親ソ連政権を守るためアフガニスタンに軍隊を侵攻させた。アメリカがイランで犯した失敗をソ連はアフガニスタンで繰り返したくなかったのである。しかし、結果的にこのアフガニスタン侵攻は後々ソ連自らの首を絞めることになる。また、この時アメリカは、ソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議し、ソ連に対抗するアフガニスタンのイスラム原理主義者を支援したが、それが21世紀に入ってから、逆にアメリカ自身に跳ね返ってくることになる。

 このソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議して、アメリカは1980年のモスクワ・オリンピックをボイコットした。日本もアメリカに同調してボイコットした。中国は、それまでオリンピックには参加していなかったが、改革開放政策を打ち出し、モスクワ・オリンピックには参加する意向を示していた。しかし、ソ連によるアフガニスタン侵攻により、中国もアメリカや日本と同調してモスクワ・オリンピックをボイコットした。このことは、ある意味で、中国が日本やアメリカと「同じ側の国」になったことを示す象徴的なできごとだった(中国のオリンピック参加は、次の1984年のロサンゼルス大会からである)。

 いろいろな政策判断の局面において中国は日本やアメリカと「同じ側」に立つことが多くなったが、外交上の政策は独自に判断する姿勢は守り続けた。言葉を換えて言えば、中国は、国連に復帰し、日本やアメリカと外交関係を正常化することによって、むしろ国際社会の中で自由に自分の意志を主張する立場を得た、と言ってもよい。それを象徴するできごとが1979年2月に発生した中越戦争だった。

 1970年、当時ベトナム戦争を戦っていたアメリカが、カンボジア領内を通っていた北ベトナムから南ベトナム解放戦線への支援ルートを叩くため、カンボジアのシハヌーク殿下を追放して親米的なロンノル氏を政権に付け、カンボジア領内に侵攻したことは「第3章第3部第9節:ニクソンによる米中接近への動き」で述べた。かねてから中国と親しかったシハヌーク殿下は、ロンノル氏に政権を奪われてから、中国政府の庇護を受けていた。また、シハヌーク殿下は、反ロンノル派のクメール・ルージュ(カンボジア共産党)と行動を共にしていた。

 1975年3月、ベトナムにおける解放戦線の攻勢に合わせて、カンボジアでもポル・ポトが率いるクメール・ルージュが攻勢を掛け、4月17日、首都のプノンペンを陥落させ、親米派のロンノル政権は崩壊した。ポル・ポト政権は、原理主義的な共産主義政策を採り、都市の住民を農村部に強制移民させた。ポル・ポト政権は、貨幣経済を否定し、人々を農村共同体で作業させ、その政策に反対する者は徹底的に弾圧された。ポル・ポト政権下では、これらの弾圧や飢饉で百万人オーダーの人が死亡したとされているが、その実態は今でも必ずしも明らかではない。

 ポル・ポト政権による強圧的な原始共産主義政策は、それから逃れようとする大量の難民を生み出した。またポル・ポト派内部での闘争も相次ぎ、それらの闘争からも難民が大量に生まれた。これらの難民は隣国のベトナムへ流入した。ベトナム戦争が終わってようやくこれから経済建設を始めようとしていたベトナムにとって、カンボジアからの大量の難民の流入は脅威だった。ベトナムは、ポル・ポト派内部の闘争に敗れてベトナムに亡命して来ていたヘン・サムリンを先頭に立てて、1979年1月、カンボジアに侵攻した。ポル・ポト派はプノンペンから駆逐され、ヘン・サムリンがベトナムのバックアップのもとカンボジアの政権の座についた。

 この頃、既にシハヌークとポル・ポトは同一行動は取っていなかったが、中国にとってはポル・ポト政権は、インドシナ半島における重要な親中国政権だった。そのポル・ポト政権を追放し、インドシナ半島で影響力を拡大するベトナムに対して、中国は大きな警戒感を持った。

 1979年2月17日、中国は「ベトナムによるカンボジア侵攻を懲罰する」と称して、雲南省と広西チュワン族自治区から人民解放軍をベトナムに侵攻させた。そもそもベトナムは、ベトナム戦争末期に突如アメリカと急接近した中国に対して強い反感を持っていたから、この中国による侵攻に猛烈に反撃した。また、ベトナムは従来からソ連の支援を受けていたことから、この中越戦争は、中ソ対立がもたらした戦争、という側面もあった。

 当時の中国の人民解放軍はほとんど実戦経験がなかったのに対し、ベトナム軍は長年アメリカと厳しい戦いを続けてきており、実戦経験ではベトナム軍の方が圧倒的に勝っていた。また、ベトナムにはソ連から援助された武器・弾薬があったほか、かつて中国から供与されていた武器・弾薬も残っていたし、南ベトナム解放時に南ベトナム軍から接収した大量のアメリカ製の武器も保有していた。このため中国軍は相当の苦戦を強いられた。そうした中、軍事的には何ら得るものがないまま、中国は、3月6日、一方的に撤退を発表した。

 中国が一方的に戦闘を開始し一方的に戦争を終わらせたこの中越戦争の目的が何だったのかについては、現在でも疑問の点が多い。現在ネットワーク上で見られる中国の公式のホームページ上での歴史の記述で中越戦争について書かれているものは見掛けない。この中越戦争については、領有権が問題となっている南シナ海にある南海諸島の権益に関してベトナムを牽制するためだったという説、「すべて派」から実権を握ったトウ小平氏が軍の掌握を完全にするために国内の引き締めるのが目的だったとする説などいろいろあるが、いずれも説得力は弱い。

 当時、カンボジアのポル・ポト政権については、真相はよくはわからなかったものの、かなりひどいことをやっているらしい、という情報は世界に伝わっており、ベトナムがカンボジアに侵攻したことについては、国際社会からはそれほど大きな非難の声は上がらなかった。欧米各国は既にインドシナ半島情勢に対する興味を失っていたから、インドシナ半島内部での地域紛争にはあまり関心がなかったからである。それに対し、日本と平和友好条約を結び、アメリカと国交正常化を果たしたばかりの中国がベトナムに戦争を仕掛けた中越戦争に対しては、国際的には大きな批判の声が上がった。中国は国連の常任理事国であり、その大国が一方的にベトナムに仕掛けたこの中越戦争に、多くの国は「大義名分」を見い出すことはできなかったからである。中国側が発表した「ベトナムのカンボジア侵攻に対する懲罰」という理由は、国際社会には理解不可能だった。清の時代、ベトナムが中国を「宗主国」と仰いでいた頃を思わせるようなこの中国側の主張は、国際社会には時代錯誤であるかのような印象すら与えた。

 いずれにしても、この中越戦争では、中国側としても予想外に苦戦したと感じたのは事実のようである。この中越戦争の後、中国の軍関係者も人民解放軍の近代化の必要性を痛感するようになったと言われている。毛沢東が生きていた時代には、毛沢東は戦争は人民がやるものであって機械がやるものではない、という「人民戦争論」を主張し、人民解放軍の装備の機械化・近代化には否定的だった。しかし、近代的なアメリカ製の武器を使いこなすベトナム軍を目の当たりにして、中国の軍関係者も「人民戦争論」は既に過去のものであり、近代的な戦争においては、装備の近代化が重要であることを認識したのである。この後、トウ小平氏は、1980年代半ばに人民解放軍の要員数の大幅削減を決めている。トウ小平氏自身、軍備は兵士の数ではなく少数精鋭の近代兵器の設備が重要であることをこの中越戦争を通じて感じたためと言われている。

 この後、1980年代に入り、1981年6月に「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」(歴史決議)において「文化大革命は誤りだった」という認識を決めて路線闘争に終止符を打つと、中国は国内経済の建設に集中するようになり、対外的に緊張関係を高めるような言動は避けるようになった。ソ連に対しても「覇権主義」といった批判は、次第にトーンダウンするようになっていった。

 「歴史決議」が出されてから約1年後の1982年7月、私は中国との通商貿易に関係する職場に配属された。その時、私に与えられた業務のひとつに「これからの中ソ関係がどうなるかについて部内に説明するペーパーをまとめよ」というのがあった。この時点で書いた「今後の中ソ関係について」というレポートは現在は手元に残ってはいないが、記憶をたどると、このレポートの結論として、私は以下のようなことを書いたと記憶している。

○過去の中ソ対立には次の要素があった。
・ソ連共産党と中国共産党との党レベルのイデオロギー的対立(農業集団化の手法等の社会主義の手法の違い、共産主義運動の国際化に対する認識の違い、個人崇拝に対する考え方の違いに基づく対立)
・協力を約束しながらソ連が原爆の模型と図面を中国に提供しなかったことに起因する政府と政府との対立
・長大な国境線を挟んで対峙する国家と国家との対立

○今後の中ソ関係の可能性については以下のとおり。
・1950年代のような中ソ蜜月時代が再現することはあり得ない。
・中国による対ソ批判が再燃し1960年代のような中ソ対立が復活することもあり得ない。
・党と党との関係についてはお互いに干渉しない関係となる。
・強い同盟関係になることはないが、案件ごとに協力すべきところは協力し、協力しないところは独自路線を歩む、という案件ごとに是々非々の態度で臨む「通常の国と国との関係」になる。

 1982年頃に私が書いたこのレポートの結論は、今振り返ってもそれほど間違いではなかった、と今でも思っている。

以上

次回「3-5-7(1/2):『歴史決議』~『文革は誤りだった』との正式な自己批判~(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-3f23.html
へ続く。

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