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2010年4月 1日 (木)

3-5-6(1/2):改革開放政策決定前後の中国の外交政策(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第6節:改革開放政策決定前後の中国の外交政策(1/2)

 ここで、中国が文化大革命の終了を宣言し、改革開放政策を決定した1978年~1980年頃の国際情勢について述べることにしよう。

 中国が1972年2月にアメリカのニクソン大統領の訪中を受け入れ、同年9月には日本との国交正常化を果たしたことは既に述べた(「第3章第4部第1節:ニクソン訪中」「第3章第4部第2節:日中国交正常化」)。

 文化大革命を否定し、毛沢東の指示がすべてであるとする「すべて派」の華国鋒氏から実権を奪ったトウ小平氏であったが、外交政策における「ソ連を非難する」という方針は、毛沢東が生きていた頃や華国鋒政権の方針をそのまま引き継いだ。中国は、1960年の決定的な中ソ対立の後、ソ連を「修正主義」としてイデオロギー面で批判し続けて来たが、1968年にチェコスロバキアへ軍事介入を行い、自分の勢力下の国々を武力で支配下に置こうとするソ連の態度が明確になると、中国は「社会帝国主義」「覇権主義」といった言葉を使ってさらにソ連を非難するようになっていた。

 トウ小平氏はこの「ソ連を非難する」という姿勢をそのまま引き継いだが、トウ小平氏のソ連批判の意図は、文化大革命時代とは若干異なっていた。文化大革命時代のソ連批判には次の3つの意味があった。

(1) スターリン批判に見られるような個人崇拝の否定への反発

(2) アメリカとの間で対立構造を作りつつ米ソ両国で世界を分割支配をしている現状に対する反発(それが明確になったのは1950年代末にソ連が中国に原爆の図面と模型の提供しなかったこと)

(3) ソ連が東欧諸国など自らの勢力圏の国々を武力による威嚇で支配下に置いていたことへの反発(特に1968年のチェコスロバキアへの軍事介入以降この反発は強まった)

 自分自身が個人崇拝に否定的なトウ小平氏にとって、(1)は既にソ連を非難する理由ではなかった。(2)と(3)はトウ小平氏の時代においても、なおソ連を批判する理由であり続けた。それに加えて、トウ小平氏には「ソ連との対立」を表面に出すことによって、ソ連と対抗する陣営、即ち、アメリカ、日本、西ヨーロッパ等からの経済的な支援を誘い出そうという意図もあった。これも「経済発展のためなら、何でも利用する」という現実主義的なトウ小平氏の考え方だった。

 日本との関係においては、中国は、1972年、ニクソン訪中の後、佐藤栄作総理の退陣を受けて、すぐさま新しい田中角栄政権との間で国交正常化を果たした。日中国交回復時の日中共同声明の第8項に「平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した」とあるので、日中関係の様々な関係の出発点として日中平和友好条約を締結する必要がある、と日中国交正常化の際には日中双方の関係者は考えていた。

(参考URL1)日本の「外務省」ホームページ
「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(1972年9月29日)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_seimei.html

 第二次世界大戦時に戦争関係にあった各国との関係を清算するための条約は、サンフランシスコ講和条約であるが、サンフランシスコ講和条約は、中国に関しては、蒋介石政権との条約であり、共産党政権(中華人民共和国政府)との間でサンフランシスコ講和条約に相当する条約は締結されていなかった。中華人民共和国政府との間でもサンフランシスコ講和条約に該当する条約を締結する必要がある、という考え方もあったようであるが、1972年9月29日の「日中共同声明」では、戦争終結後の領土問題や賠償金問題についても言及しており、「日中共同声明」が講和条約の代わりをなすものであって、新たな講和条約は必要ない、との考え方が支配的だった。日本の外務省は後者の立場に立っている。

(参考)昭和53年(1978年)10月17日:参議院外務委員会における渋谷邦彦議員の質問に対する外務省条約局大森誠一局長の答弁(「国会会議録検索システム」より)

「○政府委員(大森誠一君) 日中平和友好条約というものは、先ほどアジア局長が述べましたように、日中共同声明第八項というものから双方がこの締結を約束し合ったというかかわりがございます。しかしながら、日中間の戦後処理、とりもなおさず平和条約的なもの、そういうものは日中共同声明で日中問の戦後処理の問題は最終的に解決済みである、こういうことにつきましては日中双方に全く見解の相違はないところでございます。したがいまして今回の日中平和友好条約というものは、その意味におきまして、いわゆる講和条約ないしは講和条約的性格のものでは全くないということははっきり申せるところでございます。」

 実際、日中航空協定、日中漁業協定など、実務上必要な政府間協定は、日中平和友好条約の締結を待たずに既に日中間で締結が進められていた。

 従って、日中平和友好条約は、日中関係の発展を象徴的に示す条約であって、条約としての実質的な意味はそれほど大きくはない、と考えられていた。このため、日中平和友好条約は、締結に当たって障害となるような事項はなく、すぐにも締結は可能であると日本側は考えていた。しかし、文化大革命が続いている間は、中国側は日本から経済協力を得ようという考えはなく、中国側にとっては日中平和友好条約を締結するインセンティブが必ずしも強くなかったので、条約締結交渉は国交正常化後すぐにはスタートしなかった。

 具体的な日中平和友好条約交渉は国交正常化から2年以上たった1974年11月から始まった。交渉は当初はそれほど難しくないと思われていたが、中国側が「両国は覇権主義を認めない」とするいわゆる「反覇権条項」を盛り込むことを主張したため、予想に反して交渉はすぐに暗礁に乗り上げた。「覇権主義」とは、中国が常々ソ連を非難する時に使っている言葉であり、これを日中平和友好条約に盛り込むことは、日中両国が「反ソ連」の立場で合意したと受け取られかねないため、日本としてはこの表現は受け入れがたいものだった。北方領土問題を抱え、ソ連とも一定の友好関係を維持したいと考えていた日本側は「覇権条項」を盛り込むことに反対した。

(参考URL2)「東京大学東洋文化研究所」-「田中明彦研究室」
「データベース『世界と日本』」-「日中関係資料集」
「日中平和友好条約交渉(第1回会談)」(1978年7月21日)
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/index.html
※この資料は情報公開法に基づき公開された外務省資料によるものである

 結局、この「反覇権条項」については、別の条項で「この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」と規定し、日本側としては「反ソ連を意味するものではない」と主張できるようにすることで合意に達し、1978年8月12日に調印された。

(参考URL3)日本の「外務省」ホームページ
「日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_heiwa.html

 なお、日中平和条約の調印を伝える1978年8月13日付けの朝日新聞の紙面では、7月24日、中国政府から北京の日本大使館に対して留学生派遣の申し入れがあったことを伝えている。この記事によれば、中国政府は「四つの近代化」の一つとして力を入れている科学技術振興の基礎づくりとともに、日中間の人的交流促進の一環として、日本への大規模な留学生の派遣計画をつくって日本側に打診してきた、とのことである。この留学生派遣計画は、全額中国側が負担し、最初はとりあえず500人規模でスタートし、逐次増員したい意向だったという。日中平和友好条約の締結をきっかけとして、日本との交流を拡大したいと考えていた当時の中国政府の意図を示すエピソードのひとつである。

 日中平和友好条約は、国会における批准手続き等を経て、1978年10月23日、東京において批准書の交換が行われた。この批准書交換式に出席するためトウ小平氏が初めて来日した。トウ小平氏は、批准書交換式に出席したほか、企業を訪問したり、新幹線に乗ったりして、精力的に日本国内を視察した。この当時から、日中間には尖閣諸島の領有権問題が存在していたが、尖閣諸島問題に対してトウ小平氏は「我々の世代には知恵が足りないのです。次の世代に委ねましょう。」と述べて、問題を先送りした。協力できるところから協力しよう、というトウ小平氏らしい現実主義的な考え方だった。この当時、大学三年生で既に中国語を少し勉強し始めていた私は、テレビのニュースで放映されるトウ小平氏の四川なまりのわかりにくい中国語を必死で聞き取ろうとしていたことを思い出す。

 日本訪問を終えて帰国したトウ小平氏は、これまで述べたように11月に開かれた中国共産党中央工作会議と12月に開かれた第11期中国共産党中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)で「改革開放政策」を決定させた。これにより、経済発展のために必要な場合は諸外国と協力するとの中国政府の姿勢が内外に示された。

 これらの動きを受け、翌1979年の12月に訪中した日本の大平総理は、中国に対する円借款などの経済協力を開始することを表明した。中国では華国鋒政権時代、外貨準備が足りるかどうかなどについての十分に実務的な検討を行わないままに外国からの大型プラント導入を次々に契約していた(トウ小平氏が実権を握ってから、これが「洋躍進」として批判されたことは「第3章第5部第1節:華国鋒政権下でのトウ小平氏の再復活」で述べた)。当時の中国には外貨を稼ぐための輸出産業は育っておらず、華国鋒政権時代の外国からの大型プラント導入契約はすぐに外貨不足をもたらした。華国鋒政権時代に締結された契約のいくつかは外貨不足のため契約が破棄されたが、中国にとって、経済建設のために外国から必要な機器や設備を導入する必要があることには変わりはなかった。この外貨不足時代に外貨を提供したのが日本による円借款等の経済協力だったのである。

 下記に述べるように、アメリカは1979年1月1日に中国と国交正常化したとは言え、議会内部に親台湾勢力も強く、本格的な中国への経済協力はできない状態だった。そのような中、日本による対中経済協力は、外貨不足の中国が「改革開放政策」に基づく経済発展を始めようとする際の「第一段ロケット」の強力な推進力となったのである。

(参考URL4)「在中国日本大使館ホームページ」
「日本の対中経済協力(概観)」
http://www.cn.emb-japan.go.jp/oda_j/summary_j.htm

 アメリカはニクソン大統領の強力なリーダーシップの下、1972年2月に大統領の訪中を実現させ、米中共同声明(いわゆる「上海コミュニケ」)を発表したが、アメリカ議会内部には台湾に近い勢力も多く、米中国交正常化交渉はなかなか進展しなかった。

 「第3章第4部第1節:ニクソン訪中」で述べたように、ニクソン大統領が中国と接近したのは、当時の中ソの対立関係を利用して、ベトナム戦争を有利に終わらせるためだった。北ベトナムと南ベトナム民族解放戦線の後ろ盾となっていた中ソ両国を切り崩す方策を採ったのである。このニクソン大統領の考え方と、中ソ対立の中で、ソ連を牽制するためアメリカに接近するのが得策だと判断した毛沢東・周恩来の考え方が一致したために、ニクソン大統領の訪中が実現したのだった。

 ニクソン大統領は、ベトナム戦争を有利に終わらせるため、中国に接近するとともに、ソ連との間でも戦略核兵器制限条約(SALT)交渉を通じて、米ソ共存の道を探っていた。ニクソン大統領は、ソ連にとってアメリカとの間で核軍備拡張競争を続けることは経済的負担が大き過ぎ、ソ連も核軍拡競争をやめたいと思っていることを知っていたのである。ニクソン大統領は北京を訪問した3か月後の1972年5月、モスクワを訪問し、ブレジネフ書記長との間で、初めての戦略核兵器制限条約(SALT-I)に調印した。

 ニクソン大統領はキッシンジャー補佐官を片腕として、こうして中国、ソ連と一定の接近を図りつつ、ベトナム和平交渉を進め、時に大規模な北爆を行うなどの強硬策も織り交ぜながら、1973年1月についにベトナム和平協定の調印にまでこぎ着けた。これによりニクソン大統領は、ベトナムから名誉ある撤退を果たす、という大きな政治的目標を達成した。

 中国との関係については、アメリカも日本が行ったのと同じ方式で米中国交正常化を行うことも可能だったが、米中国交正常化は台湾の蒋介石政権との間で締結されている米華相互防衛条約(日本との間の日米安保条約に相当する)を破棄することを意味し、アメリカの議会がそれを認める見込みはなかった。台湾はアメリカにとって、日本とともに、アジア地域における自由主義陣営を守るための重要な拠点だったからである。このため、米中国交正常化交渉は進展せず、そうしているうちに1974年8月、ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任してしまった。米中関係の改善は1973年に北京とワシントンD.C.にそれぞれ連絡事務所を設置するなどしたが、それ以上は進まなかった。

(注)1975年、第2代在北京米国連絡事務所長としてジョージ・ブッシュ氏(第41代大統領(父親))が就任している。

 一方、ニクソン大統領は、ベトナム和平協定調印をひとつの契機として、世界各地に展開するアメリカ軍の段階的な削減と安全保障の現地化(いわゆる「ニクソン・ドクトリン」)を進めた。戦略核兵器制限条約(SALT)の交渉もさらに進め、アメリカとソ連はさらに「デ・タント」と呼ばれる平和共存の道を進んだ。この時期の「デ・タント」を象徴するのが、1975年7月に行われたアメリカのアポロ宇宙船とソ連のソユーズ宇宙船とのドッキング・プロジェクトだった。以下に述べるように、米ソ関係はこの後再び悪化するが、この1975年のアポロとソユーズのドッキング・プロジェクトが後にソ連崩壊後、国際宇宙ステーション計画にロシアが参加してくる伏線になっているのである。

 「デ・タント」の流れの中で、もはやアメリカが地域紛争に直接介入する可能性が少なくなった現状を捉えて、ベトナムでは、1975年3月、解放戦線側が大規模な攻勢を掛けた。1975年4月30日、南ベトナムの首都サイゴン(現在のホー・チ・ミン)が解放戦線軍の手によって陥落し、ベトナムにおける戦闘は最終的に終結した。

 アフリカでは、ポルトガルの植民地だったアフリカのアンゴラが、ポルトガルの撤退により1975年11月に独立した。この後、アンゴラでは3つの勢力による内戦が勃発したが、結局は共産主義政策を掲げるMPLAが首都ルアンダを確保した。また北部アフリカでは、エチオピアで1974年9月に皇帝ハイレ・セラシエ1世を退位させる革命が起き、社会主義政策を採る軍事政権が誕生した。新しく誕生したエチオピアの社会主義政権はソ連に支援を求めた。それに伴いエチオピアと対立するソマリアはアメリカに支援を求めるようになった。

 こうした例に見られるように、「デ・タント」の流れと世界各地からのアメリカ軍のプレゼンスの低下は、発展途上国における政治的な流動化を引き起こした。アメリカとソ連は、自国軍の本格的な派遣はしなかったが、各国の対立する勢力をそれぞれ裏から武器や資金の提供によって密かに支援することにより、1970年代半ば以降、アフリカや中南米において米ソの代理戦争が活発化していくことになる。

以上

次回「3-5-6(2/2):改革開放政策決定前後の中国の外交政策(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-ab90.html
へ続く。

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