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2010年4月14日 (水)

4-1-7:「第二次天安門事件」直前の世界情勢

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第7節:「第二次天安門事件」直前の世界情勢

 はじめにお断りしておくが、私は1988年9月30日に北京駐在を終えて帰国し、その後は、中国とは関係のないセクションで勤務していた。従って、これから述べるもののうち1988年10月以降の事項については、私が実際に体験したものではなく、一般の日本の人々と同じように、当時、報道を通して知ったり、後から本などを読んで知ったことをまとめたものである。

 ただ、1988年9月30日まで北京で生活していた実感からすれば、当時の中国において、人々が社会の体制をひっくり返そうと考えるほどの不満がうっ積していたとは考えられない。確かに市民が「物価が上がりすぎる」とか「官倒(官製ブローカー)や腐敗地方政府幹部はけしからん」といった怒りを覚え、大学生が「自分たちの就職先は自分で決められないのはおかしい(当時の大学卒業生の就職先は原則として国家が決めていた)」といった不満を持っていたのは事実である。しかし、改革開放政策により中国は高度経済成長を始め、人々の生活は農村部も含めて確実に向上しつつあった。むしろ、食べること、生きることに対する不安がなくなったことにより、社会にある様々な矛盾や不満な点について異議を申し立てる余裕が出てきた、と捉えた方がよい。

 ほとんど全ての人が改革開放政策による経済成長の恩恵を受けており、政治闘争によって再び文化大革命のような混乱が起こることは誰も望んでいなかった。問題は、社会に対していろいろ意見を言いたい(それは自分たちの社会を少しでもよくしたい、という素直な感情だった)という人々の気持ちを、中国共産党が受け留めることができなかった点にある。中国共産党は、1976年4月に「第一次天安門事件」として噴出した人々の「文化大革命」に対する不満を、結果的には率直に受け止め、それを肯定して、改革開放へと政策の舵を切った。それができたことを知っていた私としては、1989年の中国共産党にそれができなかったことが残念でならない。

 1989年の中国での動きを述べる前に、まずそれに影響を与えたと考えられる諸外国の状況について触れておきたい。

 「第4章第1部第4節:対外経済交流の深化と外国の情報の流入」で述べたように、ソ連においては、1980年代前半は「老人支配」により、若い世代への政権移譲がうまく実現せず、有効な政策判断ができない機能不全状態に陥っていた。それを改善すべく、1985年3月にソ連共産党書記長になったのがゴルバチョフ氏である。ゴルバチョフ氏にとっては、改革開放政策により、西側からの技術と資本を導入して共産党の指導的立場を維持しながら急速に経済成長を始めていた当時に中国の状況は、大いに参考になったことは間違いない。

 中国は、1979年2月の中越戦争以降、外交面では、どの国とも対立することを避け、米ソ間のパワーバランスを巧みに利用しながら、自らは自国の経済成長に専念してきた。現実主義的なトウ小平氏は、中越戦争でベトナム軍に苦しめられた経験も踏まえ、軍事面でも、「人民戦争論」に立つ毛沢東が理想とする人海戦術的戦法中心主義から脱却し、人数的には少数精鋭化しつつ、装備は近代化・機械化を進める方向で軍隊の変革を進めた。このため1985年には、人民解放軍の100万人の大幅な人員削減を行った。また、経済発展のために軍事技術を活用することにも躊躇(ちゅうちょ)せず、むしろ転用可能な軍事技術の民間での活用を進めた。巧みな外交戦術によって、諸外国の技術と資本を利用し、過度の軍事的負担を避けて、国の力の大部分を経済成長に集中できるようにしたのである。

 一方のソ連にとっては、アメリカとの対抗上必要な核兵器や軍隊の維持と東欧諸国やソ連の影響下にある国々での権益の維持が重荷になりつつあった。特に1979年12月に軍事介入を始めたアフガニスタンは、かつてのアメリカがベトナムで苦しんだのと同じように泥沼化しつつあった。

 このためゴルバチョフ氏は、国内においてはペレストロイカと呼ばれる改革とグラスノスチと呼ばれる情報公開を進めるとともに、対外的には、アメリカとの間で協調路線を進め、外交的な圧力を減少させて、周辺諸国に対するソ連による支援を徐々に減らし、ソ連国内の経済建設に集中できるように政策を進めた。

 具体的には、米ソは1982年から戦略兵器削減条約(START)の交渉を始めていたが、条約の妥結へ至る最初のステップとして、1987年12月、ゴルバチョフ書記長はアメリカを訪問し、レーガン大統領との間で中距離核兵器全廃条約(INF全廃条約)に署名した。このINF全廃条約の調印に関するニュースを、私は北京の中央電視台のテレビで見ていたが、レーガン大統領が「現在、行っている交渉は、核兵器について制限するもの(Limitation)ではなく、削減するもの(Reduction)であり、今日調印した条約は核兵器の一部である中距離核兵器を全廃するもの(Elimination)である」と感慨深げに演説して、ゴルバチョフ氏とやや大げさな感じで固く握手したのを印象深く覚えている。映画俳優出身のレーガン大統領はプロの「役者」であるが、私はこの時、ゴルバチョフ氏も相当な「役者」であると感じた。

 当時、中国中央電視台の第一チャンネル(総合チャンネル)では、夜21時半からの「夜のニュース」と天気予報に引き続いて22時10分頃から「英語の時間」を放送しており、こういった国際ニュースは英語で放送されていた。従って、レーガン大統領の演説は大統領の肉声がそのまま中国中央電視台のテレビで流されていたのである。こういったテレビでの英語ニュースの放送は、中国の人々を国際化しよう、という中国政府の方針によるものであろうが、この当時の中国の人々には、諸外国のリーダーの肉声に直接触れる機会があったのである。

 現在、中国中央電視台には、英語チャンネルが独立して存在しているので、第一チャンネル(総合チャンネル)には英語放送はない。今は、中央電視台には英語チャンネルのほかにスペイン語専門チャンネルもあるので、中国のテレビの国際化は進んだと言うべきなのだろうが、普通の中国の人々は英語チャンネルにチャンネルを合わせることはまずないので、テレビを見ている印象からすると、一般の人々が外国要人の英語での発言を直接聞くチャンスは、現在は1980年代より減ったのではないかと思う。

 同じ頃、北京にいて目に入ったニュースは、韓国の大統領選挙だった。1980年に軍事クーデターで大統領になっていたチョン・ドゥファン(全斗煥)氏は、1988年のソウル・オリンピックの誘致に際し、オリンピック前に退陣することを表明していた。そのため韓国では次の大統領は国民による直接選挙で選ぶべきだとの運動が盛り上がっていた。学生らによる民主化要求デモや、それを放水銃や催涙弾で鎮圧する当局側との激しい攻防のニュースは、中国のテレビで繰り返し放映された。結局、次期大統領候補として名乗りを挙げていた軍人出身のノ・テウ(盧泰愚)氏は、1987年6月、民主化宣言を発表し、複数候補者と国民の直接選挙による大統領選挙が行われることになった。

 これらの韓国の民主化運動のニュースについては、中国政府当局は「南朝鮮の軍事独裁政権の混乱ぶり」を中国の人々に見せようという意図もあったと思われるが、韓国における大統領選挙実施へ向けての動きは、中国の人々に、こういう意見の主張の仕方もあるのだ、こうやって民主化を実現させることも可能なのだ、という印象を与えたに違いない。

 韓国初の大統領選挙は1987年12月16日に実施された。結局、ノ・テウ(盧泰愚)氏が最高得票を得て、大統領に選出された。ノ・テウ氏は軍人出身だったが、国民の直接選挙で選出された初めての大統領となった。歴史的に中国の人々の認識の中には、中国はアジアの大国であり、ベトナム、モンゴル、朝鮮・韓国、日本などの周辺諸国は「少数民族」が独立して作った国、という印象を持っているが、そのひとつの韓国で国民の直接選挙による大統領選挙が行われ、次の年にはオリンピックが開催される、という事実を、中国の人々は複雑な感情を持って受け止めていたかもしれない。

 さらにこの頃、中国ではあまり報道されなかったが、東ヨーロッパでは、次の時代へ向けた大きな「うねり」が起きつつあった。

 上に述べたように、ソ連のゴルバチョフ書記長は、アメリカとの協調路線を進めることによって、外交的な圧力を緩和し、東ヨーロッパ諸国からできるだけ手を引いて、自国内の経済建設に力を集中させたい、という考え方を持っていた。このため東ヨーロッパ諸国に対しても、ぞれぞれの国々の政治は、それぞれの国の共産党政権に任せ、ソ連は介入しない、という方針を採った。

 東ヨーロッパの国々では、かつて、1956年のハンガリー動乱(「第3章第2部第2節:反右派闘争」参照)、1968年のチェコスロバキア事件(いわゆる「プラハの春」。「第3章第3部第8節:中ソ軍事衝突」参照)に見られるように、時折、ソ連による抑圧に対する人々の反対運動が起きたが、これらの動きはソ連軍の介入により鎮圧されていた。1980年にはポーランドにおいてワレサ氏をヘッドとする自主管理労働組合「連帯」の運動が起きたが、ヤルゼルスキー第一書記をヘッドとするポーランド統一労働者党は「連帯」を非合法化し、1983年には戒厳令を出して、人々の動きを抑圧した。

 しかし、ゴルバチョフ書記長による「ソ連は各国の内政に介入しない」という方針の表明は、これらの国々の人々に、自らの国の将来をソ連による介入なしに自らの手で決められるかもしれない、という希望を与えた。特に、1988年3月、ゴルバチョフ書記長がユーゴスラビアのベオグラードで「それぞれの国はそれぞれのやり方で社会主義を進めてよい」と明言したことが、一気に東ヨーロッパ各国の独自の動きを後押しすることになる。

 ゴルバチョフ書記長の登場の後、最も早く具体的な動きを始めたのは、1956年に市民がソ連に武力で対抗した経験を持つハンガリーだった。ハンガリーでは、ソ連でのゴルバチョフ書記長の登場後、ハンガリー社会主義労働者党による一党独裁体制の範囲の中での選挙が行われるようになった。選挙が行われるようになると、党内で次第に改革派の勢力が強くなっていった。1989年2月には複数政党の存在が認められ、ハンガリー社会主義労働者党自体、ハンガリー社会党と改名された。また、国名も「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」に改められた。

 ポーランド統一労働者党のヤルゼルスキー第一書記も、こういった周囲の状況を受けて、自らの政権維持のためにはむしろ話し合い路線に転換すべきだと判断し、1989年2月には自主管理労働組合「連帯」など反体制派との間で「円卓会議」を開くことに合意した。

 こうした中、中国ではトウ小平氏はゴルバチョフ書記長の訪中の実現へ向けて動き出した。これは戦略核兵器削減交渉を進め、INF全廃条約を締結して、アメリカと協調路線を歩みつつあったソ連に接近することにより、アメリカを牽制しよう、という戦略があったものと思われる。トウ小平氏による対ソ接近戦略は、1989年2月1日、ソ連のシュワルナゼ外務大臣の訪中として実を結んだ。ソ連の外務大臣が中国を訪問するのは、実に中ソ対立前の1959年以来のことだった。トウ小平氏とも会談したシュワルナゼ外務大臣と中国政府は、ゴルバチョフ書記長が5月に訪中することで合意した。

 この頃、ゴルバチョフ書記長は東ヨーロッパ諸国を訪問するたびに、訪問先の人々から「改革者」として熱烈な大歓迎を受けていた。ゴルバチョフ書記長が中国を訪問すると同じようなことが起こるかもしれない、とトウ小平氏が考えなかったのかどうかは不明である。中国では改革開放がうまく行っており、経済的に豊かになりつつあった中国人民が自分(トウ小平氏)を差し置いてゴルバチョフ氏を「改革者」と賞賛することはあり得ないだろう、という自信があったのかもしれない。あるいはトウ小平氏は東ヨーロッパで始まりつつあった動きを単なる「ソ連離れ」とだけ捉え、「社会主義離れ」とは捉えていなかったのかもしれない。

 なお、私は、1988年1月7日付けで北京から本社あてに報告した「中国一般情勢に関する1988年年頭所感」の附録として「1988年の予測(予言)」と題するメモを書いていた。その中で「1988年中には中ソ両国の両国首脳の相互訪問の話が進展する。李鵬総理、ゴルバチョフ書記長の相互訪問が決定する(実際の訪問は1989年)」と書いた。ゴルバチョフ書記長の訪中はこの「予言」の通りに実現した。1988年初頭の時点で、ゴルバチョフ書記長は、既にアフガニスタンからの撤退方針を表明していたし、東ヨーロッパ諸国における自主性の尊重(言葉を換えればソ連の影響力の削減)の方針を明確にしていた。

 「第3章第2部第4節:フルシチョフによる『平和共存路線』と中ソ対立」「第3章第3部第8節:中ソ軍事衝突」などで書いてきたように、中ソ対立のそもそもの原因のひとつは、ソ連が自分の周囲の国々に軍事的圧力を掛けて、周辺諸国をソ連の影響下に置こうとしていることに対して、ソ連と長い国境線を挟んで隣接している中国が反発したことにあった。つまり、ゴルバチョフ書記長がアフガニスタンや東ヨーロッパにおけるソ連の影響力を縮小させ、自国の経済建設に専念しようという政策に転換したことは、中ソ対立の原因が解消されたことを意味していた。中ソ関係の改善は時間の問題だったのである。だからこそ、私は1988年初頭の時点で、ゴルバチョフ書記長の訪中を「予言」することができたのである。

 しかし、天才的に「先読み」能力に優れたトウ小平氏も、1989年2月の時点で決めたゴルバチョフ書記長の訪中が、2か月後、自らが最も重要視していた中国共産党による支配体制に大きな影響を与える事態を引き起こす誘因のひとつになる、とは考えもしなかったと思われる。

以上

次回「4-1-8:『第二次天安門事件』の伏線」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-4b70.html
へ続く。

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