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2010年4月19日 (月)

4-1-9(4/5):「第二次天安門事件」(4/5)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」(4/5)

 5月16日、ゴルバチョフ書記長は昼前にトウ小平氏と会談し、夕方に趙紫陽総書記と会談した。「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、趙紫陽総書記はゴルバチョフ書記長に対し「午前中の書記長とトウ小平氏との会談で中ソ関係は正常化した」と話した後、そう考える理由を次のように説明したと公表した。

「1987年10月の第13回党大会で、トウ小平同志は中央委員会から退いたが、(大会後の)中央委員会総会(一中全会)で『最重要問題についてはトウ小平同志の舵取りが必要だ』と決定した。以来、われわれは重要問題の処理に当たってはトウ同志に報告し教えを求めている。この重要決定はあなたに初めて話した。」

 この発言は、中国の最終意志決定権者は党総書記たる自分ではなくトウ小平氏である、ということを対外的に宣言したのに等しかった。これは、それまでの混乱の原因となった決定の責任は自分にはなく、トウ小平氏にあるのだ、という宣言でもあった。趙紫陽氏自身がどう考えていたかはともかく、周囲の人々はそうこの発言をそう捉えた。当時秘密とされていた「重要事項はトウ小平氏に相談する」という決議を党の総書記自身が外国の首脳に暴露したことは、極めて異常なことだった。

 1987年10月の第13回党大会の直後に開かれた第13期中国共産党中央委員会第1回全体会議(第13期一中全会)は、決定した人事の中で、トウ小平氏、李先念氏、陳雲氏ら古豪幹部が中央委員会から退き、指導部幹部の若返りを図ったことが、決定事項の目玉のひとつだった。当時の「人民日報」は、老幹部が退任して、指導部の若返りが図られたことは画期的なことで、この決定は重大な一歩である、と賞賛する社説を掲げている。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「中国共産党歴代全国代表大会アーカイブ」
「第13期中国共産党中央委員会第1回全体会議」
「社説:重大な一歩の意義」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64566/65383/4441833.html

 この第13期一中全会の決定における指導部の若返りは、1980年代前半のソ連に見られた「老人支配」の轍を中国は踏むことはない、という宣言だった。しかし、その第13期一中全会において「重要事項はトウ小平氏に相談する」という秘密決議が行われていたことは、実態的には「老人支配」が終わっていなかったことを意味する。そのことをソ連において「老人支配」を脱するために書記長となったゴルバチョフ氏に対して告げたことは、趙紫陽氏にとって、老人支配の最高権力者、即ちトウ小平氏に対する捨て身の「最後の抵抗」だった、と周囲の人々からは見られた。

 この時のゴルバチョフ書記長との会談において、第13期一中全会において「最重要問題についてはトウ小平同志の舵取りが必要だ」ということを決議したことを伝え、それを公にしたことについて、趙紫陽氏自身は、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)の中で、次のように弁明している。

○この時期に様々な決定は最終的にはトウ小平氏の判断によってなされたわけだが、それは第13期一中全会の決定に基づくものであり、トウ小平氏の地位は完全に合法的なものであることを内外に示したかった。それは、今回の事態に対する一連の党の決定が、非合法な手続きに基づくものではなく、第13期一中全会の決議に基づく、きちんとした根拠のあるものであることを示したかったからである。今までも外国の要人との会談においては、同様のことを話したことがあった。

※趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」の中で、「第二次天安門事件」後に自分が軟禁状態に置かれたことについて、法的根拠がないと抗議している。そして、文化大革命の反省に基づいて、改革開放後は、中国共産党と言えども、法律と党の規則に則って運営されるべきはずである、と再三に渡って主張している。自分に対する軟禁処置が非合法なものであることを主張するにあたって、趙紫陽氏は、「第二次天安門事件」の処理の過程における様々な党の決定が合法的に行われたものであったことを主張したかったのだろうと想像される。

○自分は、一貫してトウ小平氏の対する尊敬の念を抱いているからこそ、トウ小平氏の言動の法的根拠を世の中に明示しておきたかったのである。

○しかし、自分の意志に反して、このゴルバチョフ書記長に対する自分の発言が、多くの人に、特にトウ小平氏自身に、自分(趙紫陽氏)が党総書記としての責任を回避して、全ての問題への対処の決定の責任をトウ小平氏に押し付けている、という印象を与えてしまったことは非常に残念であり、そうなった結果を踏まえれば、ゴルバチョフ書記長にああいった発言をしたことを後悔している。

 「趙紫陽極秘回想録」で語られた趙紫陽氏の「真意」は、にわかには信じがたいが、軟禁中の趙紫陽氏が極秘裏に「回想録」を録音していたのは、この問題を含めて、世間に流布している自分に関する「誤解」を解きたい、という一念があったからこそだ、と考えれば、この趙紫陽氏の「弁明」は、素直に受け取るべきなのかもしれない。

 趙紫陽氏の「真意」がどこにあったのだとしても、事実としては、この趙紫陽氏のゴルバチョフ氏に対する発言が報道されると、学生・知識人・市民たちは、全ての決定がトウ小平氏によって行われたことを知り、怒りの矛先はトウ小平氏に向かうようになった。そして、この後、トウ小平氏に対する批判のスローガンが公然と出るようになる。悲劇的なことだが、このことが結果的に、この頃やや迷いの見えていたように思えるトウ小平氏に対し最も強硬な選択肢を選ぶことを決断させる原因となったと言える。

 一方で、ゴルバチョフ書記長訪中前に天安門広場から人々を立ち退かせることに失敗し、しかも全ての責任をトウ小平氏に被せるかのような発言をした趙紫陽氏に対しては、急速に党内で失望の念が広がっていく。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、趙紫陽花氏は、ゴルバチョフ書記長との会談が行われた5月16日夜に政治局常務委員会を招集した。この会議で、趙紫陽氏は、学生たちのハンストを中止させるため、「学生諸君の熱烈なる愛国精神は賞賛に値し、党中央委員会と中国国務院は彼らの行動を評価する」という表現を含んだ声明を出すことが議論された。李鵬氏は、「賞賛に値する」という表現だけで十分であり、「評価する」という表現は削除すべきだ、と主張した。しかし、保守派の楊尚昆氏(国家主席)も「評価する」という表現を入れることに同意し、結局は声明は原案通り承認された。趙紫陽氏は、この会議で、4月26日の社説の判断に対して修正を加えるよう提案したが、李鵬氏が強硬に反対し、4月26日の社説に関する件については、この会議では決められなかった。トウ小平氏の意見を聞くため、趙紫陽氏はトウ小平氏に電話を掛け、翌日の5月17日午後、トウ小平氏の自宅で会議を行うことになった。

(注)この時の政治局常務委員は、趙紫陽氏、李鵬氏、姚依林氏、胡啓立氏、喬石氏の五人である。楊尚昆氏は国家主席ではあるが政治局常務委員ではない。「トウ小平秘録」によれば、この当時、1987年の党中央委員会の決議に基づき、長老の楊尚昆氏と薄一波氏は政治局常務委員会にオブザーバーとして参加できることとされていた、とのことである。

 一方、ゴルバチョフ氏がトウ小平氏や趙紫陽総書記と会談した翌日の5月17日、趙紫陽氏の発言によって、人々のトウ小平氏に対する反発はますます強まっていた。この日、厳家其氏(中国社会科学院前政治研究所長。この文章の参考文献である「文化大革命十年史」の筆者)ら知識人グループは「5・17宣言」を発表した。この宣言では「中国には皇帝の肩書きのない皇帝、老いて凡庸になった独裁者がいる」「老人政治は終わらさせなければならない。独裁者は引退せよ。」と述べられていた(「トウ小平秘録」)。知識人たちの攻撃目標がトウ小平氏自身に向けられるようになったことは、もはや明白になった。

 5月17日午後、トウ小平氏の自宅で会議が開かれた。この日の会議について「トウ小平秘録」では「党政治局拡大会議」と称しているが、「趙紫陽極秘回想録」ではそうした会議の名称は記されていない。そもそも党の正式会合ならば総書記の趙紫陽氏が招集すべきものであるから、当の趙紫陽氏がそう認識していないのだったら、この日の会議を「党政治局拡大会議」と称するのは正しくない。また、党の正式な会議がトウ小平氏の自宅で行われた、というのもおかしい。おそらく、戒厳令の発令、という極めて重要な決定がこの会議でなされたことから、現在の党内の記録上は、この5月17日午後にトウ小平氏の自宅で行われた会議を「党政治局拡大会議」と称して、党の正式な決定ができる会議であった、と位置付けているものと思われる。

 この5月17日のトウ小平氏の自宅における会議では、趙紫陽氏は、4月26日の社説に対する判断の変更を求めた。「趙紫陽極秘回想録」の中で、趙紫陽氏は、自分が意見を述べている間、トウ小平氏は「とてもいらいらして不愉快そうだった。」と述べている。趙紫陽氏が社説を変更すべきとの意見を述べたのに対し、李鵬氏と姚依林氏がそれを非難した。胡啓立氏は社説は修正すべきだと述べた。喬石氏は言葉を濁した。楊尚昆氏(国家主席)は社説の修正に反対した。

 最終的にトウ小平氏が発言した。トウ小平氏は、趙紫陽総書記の5月3日の「五四運動70周年記念大会での演説」と5月4日のアジア開発銀行理事会参加者への発言で柔軟路線を示したことが、かえって学生らの動きをひどくしたことを指摘し、これ以上は妥協はできない、と述べ、戒厳令を発令すべきだ、と主張した。「トウ小平秘録」によれば、趙紫陽総書記は戒厳令発令に反対したが、他の参加者は賛成し、趙紫陽氏は多数による決定に従うと答え、戒厳令発令が事実上決まった、とされている。「趙紫陽極秘回想録」において、趙紫陽氏は、「総書記として、この決定内容を推進し、効果的に実行することは私には難しい。」と述べたという。「趙紫陽極秘回想録」で、趙紫陽氏は、「会議はこれで一旦休会となり、私(趙紫陽氏)はすぐにその場を立ち去ったので、トウ小平氏が誰かに残るよう指示したとか、残った者たちで他の問題が話し合われたとかは私は知らない。」と述べ、趙紫陽氏自身、何人かの人がトウ小平氏の自宅に残って、趙紫陽氏の去就について議論が行われた可能性を示唆している。

 この日(5月17日)の夜、再び会議が開かれた。「トウ小平秘録」では、この夜の会議を「政治局常務委員会」と称しているが、「趙紫陽極秘回想録」では趙紫陽氏はこの会議を「常務委員会の状況報告会」と称している。総書記たる自分が招集した政治局常務委員会ではないのだから、党の正式会議としての「政治局常務委員会」ではないのだ、というのが趙紫陽氏の主張であろう。

 戒厳令の発令には、正式には政治局常務委員会での決定が必要である(トウ小平氏や楊尚昆氏は政治局常務委員会のメンバーではない)。5月17日の夜の会議(「トウ小平秘録」では「政治局常務委員会」と称されているが「趙紫陽極秘回想録」では「常務委員会の状況報告会」と称されている会議)には、趙紫陽氏、李鵬氏、姚依林氏、胡啓立氏、喬石氏の5人の政治局常務委員と、表決権のないオブザーバーの薄一波氏と楊尚昆氏(国家主席)が参加していた。「トウ小平秘録」によると、この会議の経緯はおおよそ以下の通りである。

「趙紫陽総書記は戒厳令発令に反対した。トウ小平氏宅では賛成していた胡啓立氏は翻意して反対を表明した。喬石氏は『支持、不支持も表明できない』として態度を保留した。李鵬氏と姚依林氏は賛成だった。賛否同数ならばトウ小平氏に裁断を仰ぐことになるので、結論は明らかだった。ここに至り、趙紫陽氏は総書記辞任を申し出た。薄一波氏と楊尚昆氏は慰留したが趙紫陽氏の辞意は固かった。」

 しかし、趙紫陽氏は「趙紫陽極秘回想録」でこれと違うことを書いている。

○政治局常務委員会で3対2で決まった、という風説があるが、これは違う。

○4月26日の社説の修正について(戒厳令の発令について、ではない)、常務委員のうち自分(趙紫陽氏)と胡啓立氏は賛成し、姚依林氏と李鵬氏は反対し、喬石氏は明確な見解を述べず、中立の立場を示した。

○昼間のトウ小平氏の会議では、政治局常務委員ではないトウ小平氏と楊尚昆氏を混ぜれば、強硬な意見を言う人の方の数が多かったのは確かだが、戒厳令の発令について「投票の結果3対2で決まった」というのは事実ではなく、正式な政治局常務委員会による正式な投票は一切なかった。

 現在の党の記録上は、5月17日夜に開かれた会議を「政治局常務委員会」と称し、戒厳令の発令がその「政治局常務委員会」での票決で決まった、ということになっているのかもしれないが、「趙紫陽極秘回想録」で趙紫陽氏が語ったことが事実であったとすれば、戒厳令の発令は、実際は昼間の会議でトウ小平氏の「ツルの一声」で決まったことになる。しかし、このような重大な決定が党の正式機関の決定ではない、というのはまずいので、5月17日夜に開かれた会議を正式な「政治局常務委員会」と位置付け、その場で票決で戒厳令発令が決まった、という形に記録上はしてある、ということだと思われる。しかし、政治局常務委員会を招集する責任者である党総書記の趙紫陽氏が「戒厳令発令について政治局常務委員会の票決による投票は一切なかった」と言っているのだから、おそらくそれが事実としては正しいのであろう。

 5月17日夜の上記の会議の後、趙紫陽氏は、党中央弁公庁(党の事務局)のアレンジで、ハンスト中に倒れて入院している学生を病院に見舞った(この時の党中央弁公庁の主任が現在の国務院総理の温家宝氏である)。

 趙紫陽氏は、5月17日の昼間のトウ小平氏の自宅での会議で「総書記として、この決定内容を推進し、効果的に実行することは私には難しい。」と述べ、辞表を用意した。夜の会議でも総書記辞任の意向を示したが、楊尚昆氏から強く慰留されたため、5月18日、趙紫陽氏は辞表の常務委員会への提出にストップを掛けた。「趙紫陽極秘回想録」によれば、5月18日、趙紫陽氏は、トウ小平氏に対して、4月26日の社説を修正し、強硬手段を採るのを回避するよう手紙を書いたが、返事はなかった、とのことである。

 「趙紫陽極秘回想録」では、趙紫陽氏は、5月17日のトウ小平氏宅での会議において戒厳令発令が決まった時に辞意を固めた、ということになっているが、もしかすると、趙紫陽氏はゴルバチョフ書記長と会談した時点で、既に、自分は辞任するほかはない、と覚悟していた可能性がある。ゴルバチョフ書記長との会見時に既に辞任を覚悟していたとすれば、ゴルバチョフ書記長との会談で「全ての重要事項の決定はトウ小平氏に相談して決めている」と発言しそれを公表した理由もわかりやすいからである。

 戒厳令発令決定と趙紫陽総書記の辞意を受けて、トウ小平氏は5月18日、党の古参幹部を招いて長老会議を開催した。長老会議には「八長老」と呼ばれたトウ小平氏、陳雲氏、李先念氏、彭真氏、トウ穎超氏(周恩来夫人)、楊尚昆氏、薄一波氏、王震氏と趙紫陽氏を除く政治局常務委員(李鵬氏、姚依林氏、胡啓立氏、喬石氏)が参加した。長老会議では、戒厳令発令を支持し、5月21日午前0時をもって戒厳令を施行することが決定された。これを受け、人民解放軍に出動命令が出され、5月19日には実際に一部の部隊が北京へ向けて移動を開始した。長老会議は党の正式な会議ではないから、「長老会議で戒厳令施行が決定された」という言い方は正式には正しくないが、実態的にはこの会議で正式に全てが決まったと言ってよい。これも中国共産党の決定がルールに則って行われているわけではないことを示す一例である。

 この「長老会議」の決定について、党総書記である趙紫陽氏には何も知らされなかった。

 「長老会議」で戒厳令発令が決められた翌朝の5月19日未明、午前5時前、ハンストを続けている学生たちの前に、趙紫陽氏、李鵬氏が突然現れた。「趙紫陽極秘回想録」によると、李鵬氏は趙紫陽氏が天安門前広場へ行くことに反対したが、趙紫陽氏は「私は絶対に行く。私一人でも行く。」と強硬に主張した、という。しかたなく李鵬氏は趙紫陽氏とともに天安門前広場へ行ったが、広場へ到着するとすぐに李鵬氏は姿を消してしまった。

 趙紫陽氏は、いつも着ている背広ではなく、中山服(日本のマスコミ用語でいう「人民服」)を着ていた。当時、党中央弁公庁主任(中国共産党事務局の事務局長に相当する)だった温家宝氏(現国務院総理)も同行していた。趙紫陽氏はハンドマイクを使って学生たちに呼びかけた。

「我々はここへ来るのが遅すぎた。我々は既に年老いていて先がない。しかし君たちはまだ若い。未来がある。国のためによかれと思ってやっていることでも、各方面に大きな影響を与える。冷静に考えて、ぜひハンストを中止して欲しい。」

 軍隊が動き始めようとしていたこの時期、総書記自らが「既に戒厳令発令が決定された」と言うことはできないので、趙紫陽氏は、人民服を着ることによって事態が緊迫していることを学生たちに伝え、戒厳令発令の可能性をも暗に伝えようとしたのであろうか。しかし、趙紫陽氏自身が言っているように、この時点では既にあまりにも「来るのが遅すぎた」。既に天安門広場が多くの人々で埋め尽くされ、トウ小平氏批判のスローガンも飛び交うようになったこの時点で、学生たちがハンストを止めることはなかった。

 この時点における温家宝氏の立場は必ずしも明確ではない。党の事務局のトップ(党弁公庁主任)として党総書記の趙紫陽氏に随行しただけだ、と考えるのが冷静な見方なのだろうが、ハンドマイクを持ち学生たちに訴える趙紫陽氏のすぐ右隣りに立っている温家宝氏の写真は、西側のジャーナリストによって世界に配信された。しかし、「第二次天安門事件」に関する写真や映像は中国では見られない(インターネット上でも多くの関連サイトにはアクセス禁止措置が掛けられている)ので、中国の人々の中にはこの写真を見たことのある人は意外に多くないかもしれない。温家宝氏もこの日のことを今まで黙して語ったことはない。温家宝氏が、この日、どういう気持ちで趙紫陽氏の隣に立っていたのか、本当のところを素直に語れる日が来ることを望みたい。

(注)「温家宝氏もこの日のことを今まで黙して語ったことはない。」のは事実である。しかし、一方で、つい最近、2010年4月15日付けの「人民日報」に温家宝総理が胡耀邦氏を偲ぶ文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」が掲載された。もしかするとこの文章の発表は、温家宝総理が、任期2年あまりを残す2010年に至って、ようやく1989年の事態に対する「思い」を語り始める気持ちになったことの表れかもしれない。この点については、この後【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】で書くことにする。

 趙紫陽氏が学生らに訴えかける様子は、中国のテレビでも5月19日朝のニュースの時間に放映された。この頃のテレビに対する報道規制がどうなっていて、中国のテレビ局がどういうつもりでこの場面を放映したのかは不明であるが、「トウ小平秘録」によると、トウ小平氏自身は、この映像を見て激怒したという。この頃、中国中央電視台や人民日報社の中にも学生らに同情的な意見の人が多く、報道規制は必ずしも統一された考え方の下でコントロールされていたわけではなかったようである。

 趙紫陽氏が公の場に姿を見せたのは、この天安門前での学生らへの説得が最後となった。趙紫陽氏自身、5月19日、政治局に三日間の休暇を申請した。そして李鵬氏に政治局常務委員会の議長を務めるよう提案した。辞表の提出にはストップを掛けていたものの、趙紫陽氏自身、この休暇願いの提出により、事実上、この時点で全ての動きから身を引いたことになる。

 一部の知識人たちの中には、この趙紫陽氏の5月19日朝の学生らへの訴えかけの行動を「戒厳令の発令の口実をなくすための必死の訴え掛けだ」と察知した人もいた。彼らは必死になって学生らに対してハンスト中止を説得し始める。「トウ小平秘録」によると、5月19日午後9時、学生運動リーダーの柴玲氏が学生の説得に成功し、ハンスト中止を宣言した。しかし、その30分後、北京市西郊外の国防大学で開かれた党・政府・軍幹部会議で戒厳令実施が発表され、事態は動き始めてしまった。

以上

次回「4-1-9(5/5):『第二次天安門事件』(5/5)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-6902.html
へ続く。

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