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2010年4月 7日 (水)

4-1-3:中国指導部内部での路線闘争とイギリスとの香港返還交渉

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第3節:中国指導部内部での路線闘争とイギリスとの香港返還交渉

 もともと経済開発促進のために設けられた「経済特区」であるが、これには政治的にも大きな意味が含まれていた。香港と内陸部との境界に設けられた「深セン経済特区」とマカオと内陸部との境界に設けられた「珠海経済特区」は、香港とマカオの中国への返還を見込んだ「緩衝地帯」として設けられたのは明らかだった。深センや珠海の「経済特区」の運営がうまく行くのであれば、それと同じように、将来、香港やマカオを「経済特区」と位置付けることによって中国の一部にすることが可能だからである。福建省の廈門(アモイ)経済特区は、台湾当局が実効支配する金門島の対岸に位置している。香港やマカオを「経済特区」として中国の一部に取り込むことに成功すれば、将来的には、台湾も「経済特区」として「中国の一部」とすることが可能となるかもしれない。

 そういった政治的な思惑があったにせよ、「経済特区」の設置については、当初から「資本主義的要素を取り入れ過ぎだ」という批判があったことは「第3節第5部第7節:『歴史決議』~『文革は誤りだった』との正式な自己批判~」で述べた。経済政策では保守的な主張をしていた陳雲副主席は「経済特区」の設置についても慎重だった、と言われている。「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)で、当時国務院総理だった趙紫陽氏は、陳雲氏が結局一度も「経済特区」に足を踏み入れることはなかった、と語っている。

 1980年代前半、当時私も中国との通商貿易関係の仕事をしていながら気が付かなかったのであるが、中国指導部の中では、急速な改革を進めようとする改革派と、市場原理の導入は「補助的なもの」であり根幹は社会主義的計画経済に基づくべき、とする保守派との路線の争いがあったのである。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、改革派と保守派の中でも、人によって微妙なスタンスの違いがあった。

 改革派はトウ小平氏と胡耀邦氏が中心であった。トウ小平氏は、経済の面では急いで市場主義的要素を取り入れて、スピードを上げて経済建設を進めようとしていたが、思想面では「四つの基本原則」を厳然と堅持し、政治体制改革(政治的民主化)は今はやるべきではない、とのスタンスだった。政治面で慎重だったのは、トウ小平氏は、政治闘争に明け暮れて、経済建設が完全になおざりにされていた文化大革命時代を痛いほど味わっていたからである。胡耀邦氏は、経済政策においてはトウ小平氏と同じスタンスだったが、政治体制改革については、もう少し進歩的であった可能性が高い。趙紫陽氏は「趙紫陽極秘回想録」の中で、胡耀邦氏が1987年1月に失脚することなく、もう少し長く中国共産党総書記の職を務めていたら、政治体制改革は進んでいただろう、という感想を述べている。

 保守派には、陳雲氏、李先念氏、余秋里氏、姚依林氏らがいた。陳雲氏は、トウ小平氏も一目置く経済理論家で、ソ連型計画経済を理想とし、1950年代の第一次五カ年計画の路線を延長することが最もよいやり方だと思っていた。趙紫陽氏が「趙紫陽極秘回想録」で述べているところによれば、李先念氏と余秋里氏は、華国鋒政権時代に経済運営を担当しており、経済への市場原理の導入は彼らの過去の政策を否定することになるという理由で、経済における改革開放政策にブレーキを掛けようとしていた、とのことである。また、同じく趙紫陽氏によれば、姚依林氏は、1980年代前半には国家計画委員会主任を務め、外国要人との会談も頻繁に行っていたことから、外国人からは「改革派」だと思われていたが、実際は、市場原理の導入は補助的なものに留めるべき、という陳雲氏の考え方に近かったとのことである。

 1981年6月の「歴史決議」により、文化大革命や華国鋒政権に対する評価が固まったはずなのであるが、その後、改革派と保守派は、ことあるごとに、経済活動に市場原理を強力に入れるのか、市場経済は補助的なものに留め中心は計画経済に重点を置くべきなのか、という点で、路線闘争を行うことになる。「趙紫陽極秘回想録」の中で趙紫陽氏は、密輸、汚職等を撲滅しようという運動の中においてさえ、保守派は「新たな環境における階級闘争の重要なあらわれ」であるとか、「腐敗した資本主義思想を用いる階級敵による、体制に対する破壊・浸食効果」だとか称して、経済政策の中への市場原理の取り込みを妨害した、と指摘している。保守派は、「ブルジョア生活様式が拡大している」とも批判していたが、趙紫陽氏は、経済運営において、改革開放政策が目指すところの市場原理の有効な活用が妨害されないように、保守派からの攻撃を防がなければならなかったのである。

 保守派の中には、陳雲氏のように、ロシア革命後にソ連の経済力が成長したように、中国でも計画経済を中心とした経済運営をすべきだと純粋に理論的に考えていた人たちもいただろうが、一方で、資材の流通、様々な規制の運用等を通じて、党や政府の政治権力を用いて経済活動をコントロールして私腹を肥やしていた「既得権益保護派」と見なせる人たちもいたに違いない。そうした「既得権益保護派」は現在でも根強くはびこっていると考えられるが、彼らは「社会主義の理想」という「錦の御旗」を掲げて、経済への市場原理の導入を妨害したがる。経済が自由化され市場原理によって全てがコントロールされるルールになってしまえば、自分たちが政治権力をもって経済に介入して利益を得ることができなくなるからである。彼ら「既得権益保護派」は、報道の自由や政治的民主化も嫌う。自由な報道により自らの腐敗体質を報道されることは避けたいし、自由選挙によって自らの政治権力を失いたくないからである。

 1982年11月の全人代で決まった憲法改正により、人民公社が完全に解体されたこともあり、保守派の人々は、中国の社会全体が社会主義からの離脱の方向へ向かうことを警戒していた。そうした保守派の人々の考えを背景として、1983年秋頃から「精神汚染一掃キャンペーン」が始まった。このキャンペーンは、表向きは経済の自由化に伴って目立ってきた地方の政府や党幹部による汚職や腐敗を一掃することが目的だったが、一面では保守派の人々による「資本主義的思想に精神が汚染されるのを食い止める運動」という側面もあった。

 この1983年秋以降の「精神汚染一層キャンペーン」について、趙紫陽氏は「趙紫陽極秘回想録」の中で、この運動はトウ小平氏自らが主体的に進めていた運動だった、と語っている。つまりこの「精神汚染一掃キャンペーン」は、経済の自由化が進む中で、陳雲氏ら保守派がトウ小平氏らの改革派に反撃を加えるための運動を起こした、ということではなく、トウ小平氏自身が、この頃既に経済の自由化に伴って出つつあった思想面での自由化要求にブレーキを掛けようとしたものだった、というのである。

 趙紫陽氏は、胡耀邦氏が思想や政治の自由化を進めようとしていた、とは述べていないが、趙紫陽氏自身、経済政策の面では、改革開放をとにかくスピードを速く進めるべきと主張する胡耀邦氏との間に、この頃(1980年代前半)から既に「やり方の違い」を感じ始めていた、と述べている。一方、趙紫陽氏は、胡耀邦氏が「精神汚染一掃キャンペーン」に懐疑的であり、1984年2月の時点で「『精神汚染の一掃』という言葉は不適切だ」と述べており、そのことでトウ小平氏は胡耀邦氏のことを不快に思っていた、と「趙紫陽極秘回想録」で語っている。

 後に述べるが、胡耀邦氏は、1986年末に起こった政治的自由化を求める学生運動に対する対応が甘かったとして1987年1月に党総書記を辞任させられた。「趙紫陽極秘回想録」で、趙紫陽氏は、この胡耀邦氏の党総書記辞任(実質的には解任)の最終結論を出した1987年1月15日の党組織生活会(党員が経験を発表し、批判や自己批判を行う会)において、胡啓立氏(胡耀邦氏と同じ中国共産主義青年団系の幹部で当時政治局常務委員)が、自分(胡啓立氏)が1984年6月28日にトウ小平氏と会った際、トウ小平氏が「胡耀邦氏は『四つの基本原則』の堅持と反自由化の観点で総書記としてあまりに弱腰で、これは基本的な欠点だ」と述べた事実を明らかにした、と語っている。これが事実であれば、1983年秋から始まった「精神汚染一掃キャンペーン」を進めていた段階から既にトウ小平氏は胡耀邦氏の態度を問題視していた、ということになる。つまり、1987年1月の胡耀邦氏の党総書記辞任は、外からは「突然」に見えたが、実際はかなり前から伏線があった、ということになる。

 当時の私は、胡耀邦氏は思想や政治の自由化を求めていた、とは思っていなかった。ただ、胡耀邦氏の言動からは、やや大げさに中国の明るい未来を自由奔放に語り、若い人々を鼓舞していた、という印象を受けていた。この印象は、趙紫陽氏も「趙紫陽極秘回想録」で胡耀邦氏に対する同じような印象を語っている。胡耀邦氏は、思想や政治の自由化を明確に語ることはなかったが、多くの若い人たちは、豪放磊落な胡耀邦氏の話を聞いて、中国の自由な未来を思い描くようになったのではないだろうか、と想像される。そういったこともあり、胡耀邦氏自身がどういう思想信条を持っていたかは明らかではないものの、1989年4月15日に胡耀邦氏が亡くなったのを追悼することで始まった「第二次天安門事件」における学生たちの動きを見れば、当時の中国の若い人たちが胡耀邦氏を「思想と政治の自由化のシンボル」と見ていたことは間違いない。胡耀邦氏が若い人たちからそう見られることをトウ小平氏は許さなかったのだと思われる。

 こういった胡耀邦氏に対する認識は、現在の胡錦濤政権を考える上で非常に重要である。というのは、胡耀邦氏と当時の日本の中曽根康弘首相は日中青年三千人交流事業を始めたが、その一環として1985年3月に訪日した代表団の団長として、胡錦濤氏が来日しているからである。この時、胡錦濤氏は、胡耀邦総書記の後任の中国共産主義青年団第一書記だった。胡錦濤氏が、胡耀邦氏に近い「団派」(中国共産主義青年団に関係する一派、という意味)と呼ばれるグループの一員とみなされていることは、中国では誰もが知っている。

 1983年秋に「精神汚染一掃キャンペーン」が始まると、私の周囲の中国との通商貿易に関係している人々の中にも「また文化大革命のような時代へ戻るのであろうか」といった懸念を持つ人が出始めた。しかし、当時の日本のマスコミの論調は、中国の改革開放路線は、既に「ポイント・オブ・ノー・リターン」(引き返せない地点)を超えてしまっており、中国が文化大革命のような時代へ戻ることはあり得ない、というものだった。この当時の論調は、経済の面では当たっていたが、1989年の「第二次天安門事件」の後の体制を考えた場合、結果的に見れば、政治体制改革の面では「はずれ」だったと言わざるを得ない。政治体制改革の面では、中国は今でもまだ「ポイント・オブ・ノー・リターン」を踏み越していないからである。

 「精神汚染一掃キャンペーン」は、上に書いたようにトウ小平氏自身が主張していたことであるが、「趙紫陽極秘回想録」によれば、保守派は「精神汚染一層キャンペーン」の流れに乗って、経済改革においても市場原理の導入にブレーキを掛けようとし始めていた。トウ小平氏や趙紫陽氏にとっては、経済改革に対する保守派の抵抗の行き過ぎを止める必要があった。

 トウ小平氏にとっては、「経済特区」は中国の経済発展のモデル地区であると同時に、香港返還、遠い将来においては台湾を取り込むための政治的「布石」でもあった。香港については、下記に述べるように、1997年というひとつの目標タイミングが既に設定されていた。従って、「精神汚染一掃キャンペーン」に便乗した「保守派による巻き返し」の「行き過ぎ」は早急に阻止する必要があった。そこで、トウ小平氏は、1984年1月24日~29日に深セン経済特区と珠海経済特区を、2月9日には廈門経済特区を視察し、その結果を受けて、2月24日に「経済特区はうまくやり、もっと対外経済都市を増やさなければならない。」という講話を行った。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「トウ小平記念館」
「トウ小平文選第三巻」
「経済特区はうまくやり、対外開放としを増加させよ」(1984年2月24日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69696/4949924.html

 このトウ小平氏の講話は、当時「南巡講話」と呼ばれた(現在では「第二次天安門事件」の後に保守化しつつあった情勢にカツを入れるために1992年に行われた講話のことを「南巡講話」と呼ぶことが多く、この1984年の講話は今では普通「南巡講話」とは呼ばれない)。この講話を受けて、中国共産党中央書記処は、1984年3月26日~4月6日に沿海部都市座談会を開催し、大連、秦皇島、天津、烟台、青島、連雲港、南通、上海、寧波、温州、福州、広州、湛江、北海の14の沿海都市と海南島を開放することを提案した。

 私が参加した「対中投資環境調査団」が派遣されたのは、これらトウ小平氏の1984年の「南巡講話」と沿海部都市座談会での14都市と海南島の開放の提案の直後だったことは前節で述べた。「精神汚染一掃キャンペーン」の経済への悪影響を抑えて、「経済特区」政策の推進を強く後押しする政策を打ち出した背景には、当時、最終段階を迎えていたイギリスとの香港返還交渉があったことは想像に難くない。

 香港については、アヘン戦争の後の南京条約(1842年)によって香港島がイギリスに割譲され、アロー号戦争の後の北京条約(1860年)によって九龍半島の先端部がイギリスに割譲されていた。さらに、日清戦争に敗れた中国(清)に付け込んで列強各国が中国に強要して多くの租界を設定していった中、イギリスは1898年に既に割譲を受けていた九龍半島先端部に接する後背地(この地域を「新界」と呼ぶ)を99年間の期限付きで租借することを清に認めさせていた。「新界」を租借する時に付けた「99年間」という期限については、当時のイギリスは「永遠に」という意味で捉えていたと思われるが、トウ小平氏は「99年経ったら返す」というこの約束を実行するよう実際にその99年目(1997年)が迫りつつあった1980年代前半にイギリスに求めたのである。

 イギリスにとっても、21世紀が近付く中、香港を「植民地」のまま維持する必要性はもはやなかった。ただ、香港がアジアの自由港としての位置付けを変えることなく、香港に投資されたイギリス企業の利益が保全されればよい、とだけ考えていた。こうした中国とイギリスの思惑の中、1982年10月、イギリスのサッチャー首相がイギリスの首相として初めて中国を訪問した。そして中英両国は香港問題について話し合いを開始することになる。

 1898年の約束に基づけば、イギリスが中国に返還しなければならないのは「新界」のみである。香港島と九龍半島先端部は「租借」ではなく「割譲」を受けたのであるから、国際法上、イギリスは中国に返還する義務はない。しかし、香港島と九龍半島先端部は、水の供給などの点において「新界」に頼っていたし、「新界」だけが中国に返還されることになると、「新界」の住民が香港島や九龍半島先端部に殺到して混乱が生じることが予想された。そのため、イギリスは「新界」を返還するのと同じタイミングで、割譲を受けていた香港島と九龍半島先端部も中国に返還することを決めたのである。

 しかし、イギリスにとって、香港のアジアの自由港としての位置付けの維持と香港におけるイギリス企業の資産の保護は譲れない条件だった。このイギリス側の主張に対する対案として、トウ小平氏の用意した提案が「一国二制度」である。トウ小平氏は、香港が中国に返還された後も香港を「特別行政区」と位置付け、外交と防衛は北京政府が担当するものの、返還後50年間は香港における資本主義経済制度を継続させ、報道・集会の自由は認めることとする、と提案したのである。「経済特区」を設けることにより、ひとつの国の中に「自由な経済特別区」を設ける経験を積んでいた当時の中国にとって、この「一国二制度」による「香港特別行政区」の制度は、「経済特区」の延長線上と捉えることができたのである。

 トウ小平氏としては、イギリスに「一国二制度」によって自由港としての香港と香港におけるイギリス企業の権益が守られることを納得させるため、今後とも「経済特区」の政策は強力に進めていくことを示す必要があった。「精神汚染一掃キャンペーン」が展開される中で、1984年2月に「南巡講話」を出し、沿海14都市と海南島を開放する政策を打ち出したのは、香港返還交渉において「精神汚染一掃キャンペーン」によりイギリス側が警戒感を持つのを防ぐ意図もあったものと思われる。

 このトウ小平氏の「一国二制度」による提案をイギリス側は受諾した。こうして、1984年9月26日、中国とイギリスは中英共同声明によって、1997年7月1日をもって香港が中国に返還されること、返還後50年間は香港における資本主義経済体制と報道・集会等の自由を保障することに合意したのである。

 この香港返還についてのイギリスとの合意は、トウ小平氏の政治的大勝利だった。というのは、もし香港返還後の香港の運営がうまく行けば、将来は台湾も同じ方式で統一する可能性が生じるからである。1984年の中英共同声明では、香港の行政長官は選挙または話し合いによって選出される、とされ、行政長官や立法議会議員を住民の自由選挙により選出するかどうかについては、大きな課題として残った。1990年に全国人民代表大会で採択された香港特別行政区基本法においては、行政長官及び立法議会議員は、最終的には普通選挙によって選出する、との目標が掲げられたが、普通選挙実施の時期的目標は明示されなかった。今後、香港における選挙制度がどうなるか、が、トウ小平氏がもくろんだ「香港方式による台湾統一」が実現するかどうか、のカギになると言えるであろう。

 現在、香港の行政長官は代議員による間接選挙であり、立法議会議員は職能団体推薦枠議員と直接選挙枠議員が混在する状況である。2007年12月29日、第10期全国人民代表大会常務委員会第31回会議において「2017年に第5期の行政長官と全ての立法議会議員に対する直接選挙を実施することを認識した上で、2012年には行政長官と職能団体推薦枠議員に関する直接選挙は行わない」とする決定がなされた。この決定については、「2017年に香港の行政長官と全ての立法議会議員は住民による直接選挙により選出されることが決定された」との報道が一部なされたが、正式にはこの決定は2012年の選挙に関する決定であり、2017年の選挙に関しては結論を述べていない。2017年の選挙については、今後、改めて全国人民代表大会の決定が行われることになる。

 いずれにしても、1980年代の中国が抱える多くの困難な問題について、このように次々と具体的な解決を図っていったトウ小平氏の政治手腕は、客観的に言っても他に類を見ないと言えることは間違いない。

 1980年代、このような華々しい経済的、政治的成功が続く中で、中国国内にも、次第に様々な社会的問題が噴出してくるようになる。それは皮肉にも、中国のような改革がうまくできなかったソ連において、トウ小平氏による中国での改革を見習おうというゴルバチョフ氏が登場し、それが逆に中国に対して影響を与えることによってもたらされることになるのである。

以上

次回「4-1-4(1/2):対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(1/2)」
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へ続く。

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