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2010年4月18日 (日)

4-1-9(3/5):「第二次天安門事件」(3/5)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」(3/5)

 5月7日、杭州で静養していた保守派の重鎮の陳雲氏が北京に戻った。この後の一週間、4月26日の社説の修正を含め学生らとの対話路線によって事態を収拾しようとする趙紫陽総書記らの柔軟路線と李鵬総理ら保守派の強硬路線が対立し続け、ソ連のゴルバチョフ書記長の訪中という歴史的イベントを迎えることになる。

 ちょうどこの時期、即ち1989年のゴールデン・ウィークの頃、私はオーストリアのウィーンに出張していた。出張に行く前は、私は、天安門前でデモ隊が座り込みを続ける状態でゴルバチョフ書記長を北京に向かえることは、メンツを大事にする中国政府の幹部にとって容認できない事態なので、日本のゴールデン・ウィークが終わり、私がウィーン出張から戻る頃には、警官隊による実力を行使してでも、天安門前広場から学生らは排除されているだろう、と思っていた。しかし、そういった実力行使は行われなかった。

 5月3日及び4日の趙紫陽総書記の演説により、学生らの怒りはかなり治まったが、日本のゴールデン・ウィークが終わっても、一部の少数の学生らは天安門前広場で座り込みを続けていた。それを見て、私は、中国当局の対応が「いつになく中途半端だ」という印象を受けた。逆に言うと、なぜ実力行使をしないのだろうか、と思った。

 この頃、私が思い描いていた「当局による実力行使」とは、日本や韓国で学生デモに対して警備当局が行うような実力行使、即ち、盾と警棒を持った警官隊が放水銃を備え付けた車両に援護されながら、時には催涙弾を使いつつ、座り込みを続ける学生たちを排除する、という光景だった。しかし、後になって思い知ったのは、中国の警備当局には、放水銃や催涙弾といった「デモ鎮圧用の機器」が装備されていない、あるいは装備されていてもその規模は非常に小さい、ということである。後に、例えばチベットにおける争乱に対する当局の対処を見ても、放水銃や催涙弾が使われている様子はない。従って、現在でも、中国の警備当局では、こういった「デモ鎮圧用機器」はあまり数多くは装備されていないものと思われる。そもそもデモを行うこと自体が許されていない中国においては、「デモ鎮圧用の機器」が必要となる事態は想定されず、そのための装備は準備されていない、ということなのかもしれない。

 「第二次天安門事件」において何が行われたのかを1年後の時点で検証した矢吹晋氏の「天安門事件の真相」(参考資料26及び27)では、6月3日夜から6月4日未明に掛けての武力弾圧に際して、当局側は最初は催涙弾を使用していたが、多数の群衆の前に催涙弾はすぐに使い尽くしてしまったことが記されている。従って、中国の警備当局が催涙弾を装備しているのは間違いない。また、2008年6月の雲南省での民衆暴動において、当局側から「ゴム弾を使用した」との発表があった。従って、中国の警備当局でも、デモ鎮圧用の非殺傷性の「武器」を装備しているものと思われるが、1989年の「第二次天安門事件」では、繰り出した学生・市民は圧倒的な数に上り、通常の「デモ」鎮圧用の装備だけではとても足りない状態だった、ということは言える。

(注)催涙弾やゴム弾は「非殺傷性」と言われるが、至近距離からまともに被弾すると死に至る怪我をする場合がある。デモ隊が抵抗の道具としてよく使う投石や火炎瓶についても、それが警備要員にまともに当たると警備要員が死亡するケースがあることは、過去のデモ隊と鎮圧当局との衝突の経験から広く知られているところである。

  私は、この時(1989年5月初)のウィーン出張の期間中、ウィーンに駐在する日本人からこの頃の東ヨーロッパ情勢を聞いた。ハンガリーでは改革派が政府の主流派を占めるようになり、国境警備隊が無断で越境する者に対して銃撃等の強硬手段を採らなくなったため、ハンガリー・オーストリア国境地帯において、ハンガリー側から違法に中立国であるオーストリアに入国する者が後を絶たなくなった、とのことだった。ハンガリーからオーストリアへの違法越境に際しての生命の危険がなくなったことから、ハンガリー人だけではなく、東ヨーロッパ各国からハンガリーとオーストリアを経由して西側へ脱出する人が相次いでいる、とのことだった。私は、この後も、仕事の関係で、1989年~1991年、毎年1回程度ウィーンに出張する機会があり、この後もウィーンに行くたびに激変するソ連・東欧情勢を肌で感じることになる。

 趙紫陽総書記は、学生たちの要求に具体的に応えるため、5月8日及び5月10日に党政治局常務委員会を開催して、全国人民代表大会常務委員会を早期に開催して改革案を検討することを決定した。これを受け、改革派の全人代常務委員会の万里委員長は、6月20日前後に全人代常務委員会を開催することを決め、議題として、集会・デモ法草案や新聞法草案の起草状況の聴取も含めることとした。この決定の後の5月12日、万里氏は、かねてから予定されていたカナダ・アメリカ訪問へ出発した。

 保守派の重鎮・陳雲氏が北京に戻り、改革派の有力者・万里氏が外遊のため北京を離れる、といったわずかなパワーバランスの変化が、この後の動きに微妙な影響を与えることになる。

 この時点(5月4日の趙紫陽氏のアジア開発銀行代表団を前にしての演説以降)で、多くの学生は大学に戻っていた。しかし、1989年春のこの時の動きは1986年末の学生運動とは違っていた。学生だけでなく、知識人や多くの新聞人たちが動き始めていたのである。ソ連・東欧や韓国の状況の変化を知り、改革開放によって活躍の場が増えた知識人たちや新聞人たちは、社会の中における自分たちの役割を自覚し始めていた。学生たちが大学に戻った後も、4月26日の社説に反対し、「世界経済導報」の発禁と編集長解任に抗議する知識人・新聞人たちが動き続けるのである。

 趙紫陽総書記は、「四つの基本原則」を堅持する(=社会主義制度と中国共産党による指導を変えることはしない)が、政治改革を進める姿勢を示すことで、学生たちの運動は治まる、と考えていた。方向性としては、趙紫陽総書記の考えは間違ってはいなかったと思われるが、問題はそう単純ではなかった。そもそも運動を行っている人たちは、一枚岩ではなく、いろいろな立場の人々が、いろいろな思いを胸に運動していたため、趙紫陽総書記の柔軟姿勢に納得して運動をやめた人もいれば、もう少し運動を進めればもっと具体的な成果が得られるかもしれない、と考える人もいたからである。

 最もネックだったのは、趙紫陽総書記が、4月26日の「人民日報」の社説において学生たちの運動が「動乱」だと決めつけられたことを否定せず、胡耀邦氏を再評価する発言を掲載しようとして発禁となり編集長が解任された上海の「世界経済導報」の事件についても、上海市当局の対応を否定しなかったことである。一部の学生は4月26日付け社説の撤回を要求し続け、一部の知識人・新聞人は「世界経済導報」に対する処分の撤回を要求した。

 この頃デモに加わるようになっていた知識人や新聞人の中には「人民日報」社の記者すら含まれていた。多くの「人民日報」の記者たちも、この頃既にジャーナリストとしての自覚と自負を持ち始めていたのである(このことは「第6節:中国の社会・経済で進む微妙な変化」で述べた)。中国共産主義青年団(共青団)の機関紙「中国青年報」の記者だった李大同氏もそうしたジャーナリストの一人だった。李大同氏らジャーナリスト1,000人余は、5月9日、政府に対話を要求する書簡を発表した。

(注)李大同氏は、その後「中国青年報」の編集長となった。李大同氏が「中国青年報」が編集長をしていた2006年1月、「中国青年報」の中の週刊の評論特集ページ「氷点週刊」が掲載した義和団運動を論評する記事について、中国共産党宣伝部がクレームを付け「氷点週刊」は停刊となり、李大同氏は「中国青年報」の編集長を解任された(「氷点週刊事件」)。この問題は、直接の原因は義和団運動に対する評論を掲載したことであるが、背景として、その直前に胡啓立氏による胡耀邦氏の業績を評価する文章「我が心中の胡耀邦」を掲載したことが原因ではないかと言われている。これについては「第4章第2部第4節:胡錦濤主席は新しい道を切り開けるか」で述べることとする)。

 この時期、胡耀邦氏の功績を評価する座談会の状況を掲載したとして、当時の江沢民氏をトップとする上海市党委員会の指示により、「世界経済導報」が発禁処分になり編集長が解任されことがジャーナリストたちが街頭へ繰り出した大きな理由の一つだったことと、江沢民氏のそういった措置を評価して、トウ小平氏が、趙紫陽氏が失脚した後、江沢民氏を二階級特進で中央の党総書記に抜擢したことを考えると、2010年4月15日(胡耀邦氏死去21年目の命日)の「人民日報」に温家宝総理が現職の総理として異例の胡耀邦氏を偲ぶ文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を発表したことは、政治的に極めて大きな意味を持つと思われる。これについては、この節の終わりに【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】で改めて述べることにする。

 「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、1989年5月6日、趙紫陽氏が党政治局常務委員の胡啓立氏に対し、「報道を少し緩和してよい」と指示し、これを受けて、5月8日には、人民日報社内で銭立仁社長が「胡啓立氏から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求を提出してもよいと電話があった」と話していた、とのことである。こういった話は、強硬な社説を掲載した人民日報社内でも、趙紫陽総書記の対話路線を受け入れようという雰囲気があったことの表れである。

 こうした様々な動きの中で、多くの学生は大学に戻ったものの、まだかなりの数の学生たちや知識人・新聞人たちは天安門前広場に残っていた。5月15日にはソ連のゴルバチョフ書記長が北京に到着する予定であり、ゴルバチョフ書記長の歓迎式典は、他の国の国賓と同じように、人民大会堂東側にある天安門前広場の西側で行われる予定だった。従って、5月15日には、座り込みを続ける人々を天安門前広場から排除する必要があった。しかし、5月10日を過ぎても、趙紫陽総書記は天安門前広場から人々を排除するよう命令を出さなかったし、トウ小平氏もこの時点では強制排除を指示しなかった。それはなぜか。これも「第二次天安門事件」の謎のひとつである。

 趙紫陽総書記は、政治改革を行う、という対話路線により、天安門前広場の人々はゴルバチョフ書記長が到着する前に説得に応じて自主的に退去すると考えたのであろうか。トウ小平氏は、この時点で実力による強制排除を強行すべきかどうか迷っていたのであろうか。もしトウ小平氏が迷っていたのだとすると、いつも状況を的確に把握し果敢に決断するトウ小平氏としては極めて珍しいことである。

 いずれにせよ、趙紫陽総書記の「対話路線」の演説により、天安門前広場にいる人々がゴルバチョフ書記長の北京訪問の前に自主的に退去するだろう、という見方は完全に甘かった。事態はむしろ逆だった。ソ連共産党書記長の中国訪問は、中ソ対立前の1959年以来初めてであり、それ自体が歴史的出来事だったので、世界のマスコミの関心を呼ばずには置かなかった。天安門前広場にいる学生たちは、世界から集まるマスコミに対して、自分たちの主張を知ってもらおうと思ったのである。また、この当時の多くの東ヨーロッパの人々がそうだったように、ゴルバチョフ書記長に自分たちの行動を見せ、ゴルバチョフ氏に自分たちに対する支持を表明してもらいたいと願っていたのである。従って、ゴルバチョフ書記長の訪中が迫るにつれ、自分たちの主張を世界の人々とゴルバチョフ書記長に見てもらうために、むしろより多くの人々が天安門前広場に集まるようになった。

 この頃、学生運動の中心となって動いていたのは、北京大学の王丹氏、北京師範大学のウアルカイシ氏(ウィグル族)や柴玲氏らだった。しかし、多くの学生らの考え方は様々であり、彼らは多くの学生の支持を集めて運動をリードしていたのは確かだが、彼ら自身、運動を行っている人々の全てを一定方向に動かすことは困難だった。

 趙紫陽総書記の演説により多くの学生が大学に戻りつつあった状況の中で、学生らの中にいた「もっと強く4月26日付け社説の撤回と政府との対話を要求すべきだ」と考えるグループは、ゴルバチョフ書記長訪中のために世界の関心が北京に集まる中、ハンガー・ストライキを決行することを決めた。5月13日、約1,000人の学生が天安門前広場に座り込んでハンストを開始した。学生・知識人の中には絶食戦術には賛成しないグループも多く、この時期、多くの人々がハンストの中止を説得した。しかし、強硬な学生グループはハンストを中止しなかった。そして、そのままゴルバチョフ書記長が北京へ到着する5月15日を迎えることになる。結局「対話により天安門前広場から人々を退去させる」という趙紫陽総書記の希望は実現しなかった。

 ゴルバチョフ書記長が到着した5月15日までの間、結局、警備当局による天安門前広場からの人々の強制排除は行われなかった。強制排除が行われなかった、という事実は、警備当局はまだ人々の活動を許している、という感覚を生み、さらに多くの人々を天安門前広場に駆り出すことになる。人々は、世界のマスコミに向け、ゴルバチョフ書記長を歓迎するプラカードを掲げた。この日、天安門前広場には50万人もの人々が集まったという。当然、ゴルバチョフ書記長の歓迎式典の場として天安門前広場を使うわけにはいかなくなり、歓迎式典は北京空港で行われた。メンツを大事にする中国において、国賓の歓迎行事を政府が予定していた場所で行えなかったことは大きな失態だ、と党と政府の幹部は感じたに違いない。

以上

次回「4-1-9(4/5):『第二次天安門事件』(4/5)」
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へ続く。

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