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2010年4月20日 (火)

4-1-9(5/5):「第二次天安門事件」(5/5)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」(5/5)

 5月20日午前0時、李鵬総理が同日午前10時から戒厳令を敷くことを予告する放送を行った。18日の長老会議では21日午前0時を持って戒厳令を敷くことを決めていたが、「事態が急変したので戒厳令実施を繰り上げた」と後に楊昆尚氏が明らかにしたという(「トウ小平秘録」(参考資料17))。李鵬総理は、放送の中で「党中央、国務院を代表して」と述べた。党の代表は本来は総書記の趙紫陽氏のはずであることから、この放送により中国の人々は趙紫陽氏が失脚したことを知った。

 「トウ小平秘録」によると、戒厳令が発表された直後から、多くの人々が人民解放軍の動きを阻止する行動に出始めたという。多くの人々の進軍阻止の動きに対し、多くの若い兵士が動揺を示したほか、5月18日に出された進軍命令に対し、第38軍の徐勤先司令官は命令を拒否したという。「トウ小平秘録」に掲載されている1989年12月に行われた全軍工作会議で明らかになった数字によれば、「第二次天安門事件」の作戦中、将校111人が「重大な軍紀違反」を犯した、という。また、5月21日、張愛萍元国防部長ら8人の上将(大将に相当)が「絶対に人民に発砲し、流血を起こしてはならない。事態のさらなる悪化を回避するため、軍隊は北京に進軍してはならない」という声明を発表したという。こうした動きの中、戒厳令は出されたものの、戒厳部隊は北京市内へは進軍できない、という状況が続いた。

 客観的に言って、丸腰の学生や市民らの動きに対して、戒厳令を発令し、人民解放軍を動かすことは過度な反応だ、ということもできる。これに関して、「天安門事件の真相」(参考資料26、27)では、人民解放軍の内部に学生や市民の運動に対して同情的な人々もおり、軍の一部が党中央の決定に対して反旗を翻す軍事クーデターの懸念も払拭できなかったことから、人民解放軍に出動命令を出したのだ、という見方もあることが指摘されている。

 学生や知識人たちが最後の可能性として期待したのは、この時、カナダ・アメリカを訪問中だった万里全国人民代表大会常務委員長だった。万里氏は、趙紫陽氏に近く、事態打開に動いてくれるのではないか、と思われたからである。特に、新華社が、5月17日、万里氏が訪問先のカナダで学生らの運動を「愛国的運動」だと評価する発言をしたと伝えていことから、多くの人々が期待を抱いていた。万里氏は、委員長として全人代常務委員会を招集する権限を持っている。中国共産党の決定が全てである中国においては、全人代が党の決定をひっくり返すことはあり得ないが、万里氏が全人代常務委員会を招集し、決定を覆すことはできなくても全人代常務委員会で戒厳令に反対する意見が多く出れば事態が好転するのではないか、と淡い期待を寄せる人もいた(中国の全人代は、政府提案議案を否決することはないが、議案によっては相当数の反対票・棄権票が出ることもあり、いつも満場一致で可決という完全な「スタンプ機関」ではないことは前に述べた)。

 万里氏は予定を繰り上げて、5月25日に帰国した。しかし、到着先は北京ではなく上海だった。新華社電はその理由について「病気療養のため」と伝えた。万里氏は、帰国した二日後、党中央決定を支持すると表明した。全ての可能性は失われた。万里氏にトウ小平氏の意向が伝えられていた結果だという。

 当時、北京に駐在していた私の後任者から聞いた話では、そもそも北京では天安門広場周辺は騒然としていたものの、そのほかの地域では通常の日常生活が続いており、ビジネスも通常通り行われていたという。天安門前広場に集まる人の数もゴルバチョフ書記長が訪中していた5月中旬頃がピークで、その後は運動は退潮していた、と見る人もあった。5月下旬になると、運動は下火になったという見方も出たという。

 運動をする側の人々にとっても、4月26日の社説も撤回されず、政府との対話も実現せず、時間だけが流れていた。5月29日、中央美術院の学生らが発砲スチロールと石膏で作った「張りぼて」の「自由の女神」を模した像が天安門前広場に持ち込まれた。人々はこれを「民主の女神」と呼んだが、事態は膠着状態となった。

 6月2日、趙紫陽氏以外の政治局常務委員と八長老が参加した「八老会」が再び開かれた。多くの参加者から「神聖な天安門前広場をこのまま放置しておくわけにはいかない」との意見が出され、トウ小平氏が「戒厳部隊は今夜排除計画を実行に移し二日以内に完了する」と提案して会議は終了した(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。

 戒厳部隊は、東西南北から北京への進軍を開始した。しかし、北京市民は道路にバリケードを築くなどして軍の侵入を阻止した。この時、各部隊には武器の使用は極力控えるよう指示が出されていた。軍の本体の市内侵入を容易にするため、前もって私服の兵士を市内に移動させようとしたところ、それも市民に阻止される事態も起きたという。その際、軍と市民らとの間で小競り合いも生じていたようである。

 予想外に激しい市民による抵抗を前にして、6月3日午後4時、中央軍事委員会が開かれて対処が協議された。李鵬総理は「昨日深夜以来、反革命暴乱が発生した。暴乱平定に果断な措置を取るべきだ」と、武力行使を主張したという(「トウ小平秘録」)。同日午後6時、テレビ、ラジオが「緊急通告」として「反革命暴乱への反撃」を予告し、市民に外出しないよう呼びかけた。「反革命暴乱」という言葉が使われた最初だった。

 「天安門事件の真相」(参考資料26、27)では、私服の兵士を市内に移動させたのは、当時の状況では、学生・市民からの抵抗は容易に想像できたことから、武器を持たない兵士に対する投石などの行為をやらせ、それを「反革命暴乱」と名付けるための一種の「謀略」だった、という見方もあることを指摘している。暴力行為がない状況では、人民解放軍を投入する理由が成立しないからである。

 「緊急通告」は市民に外出をしないよう呼び掛けるものだったが、逆に、この放送により、多くの市民が軍の市内への侵入を阻止するために市内に繰り出した。この時、共同通信記者として取材に当たっていた「トウ小平秘録」の著者の伊藤正氏は、6月4日午前0時、西長安街西単付近にいたカメラマンから「軍が発砲した。市民はバスに火を付けて抵抗している。軍は天安門方向に向かった。」という電話を受けたという。

 天安門に最初に到着した軍隊は、西から市内に入った第38軍を中心とする北京軍区の主力部隊で、6月3日夜9時過ぎに長安街の西端にある公主墳に入り、天安門前に付いたのは6月4日午前1時頃だったという。この間の約8キロを4時間掛けて進んでいることから、途中で市民による相当の抵抗があったものと思われる。「トウ小平秘録」によれば、最初の衝突は木犀地(公主墳の東約2キロの地点)で起き、市民はバスや車両に放火して抵抗したという。こうした市民の抵抗に対して、軍は発砲しながら前進した(上に書いた西単は天安門の約2キロ西にある)。

 「トウ小平秘録」によれば、南から入ろうとした部隊(済南軍区第54軍)は、空へ向けた威嚇発砲はしたが市民に対する発砲はしなかった、という。北部方面部隊(北京軍区第24部隊)と東部方面部隊(瀋陽軍区第39軍など)は市民の抵抗に対して発砲せず、北京市内への入城を断念したという。

 天安門前広場に到着した戒厳部隊は6月4日午前3時までに広場の周辺をほぼ制圧し、午前4時に強制排除を実施するとの最後通告を出した。この時、天安門広場の中心にある人民英雄記念碑の周辺には約3,000人の学生らがいた。ハンストを行っていた北京師範大学講師の劉暁波氏らは、もはやこれ以上の抵抗は無理と判断し、戒厳部隊指揮官と交渉して、無抵抗撤退をする場合の安全の確保を約束させる一方、学生らに退去するよう説得した。しかし、学生らは納得せず、撤収しなかった。戒厳部隊は午前4時半、天安門広場の照明を付け、実力行使を行う予告をスピーカーで行った。学生たちは、最後のこの場面で、発声による投票を行い、ついに撤収することを決めた。午前5時半、学生たちはインターナショナル(革命歌)を歌いながら天安門前広場から退去した。張りぼての「民主の女神」は装甲車によって押し倒された。

(注)劉暁波氏は、この後も民主化運動を続け、2008年12月にインターネット上に出された「08憲章」の主要発起人の一人となった。その後「08憲章」を発表したことで「国家転覆罪」で逮捕され、二審制の裁判の結果、2010年2月、懲役11年、政治的権利はく奪2年の刑が確定している。

 学生らが天安門前広場を撤収する場面は、外国のテレビ局により撮影されており、私は1991年頃、NHKの番組で見た記憶がある。この時撮影された映像を見る限り、学生たちが最終的に天安門前広場から撤収した場面においては発砲は起きなかった。中国側当局は、今でも「天安門前広場では死者は出ていない」と主張しているが、西側報道機関関係者の話などを総合すると、「広場の中」で死者が出なかったのは事実のようである。

 しかし、戒厳部隊が市内に入るのを阻止するために抵抗した市民に対する発砲や、広場周辺を戒厳部隊が制圧する過程において、多数の死傷者が出たことは間違いがない。具体的な死傷者の数は今でも明らかではないが、「トウ小平秘録」によれば、1989年9月に訪中した自民党の伊東正義氏に対して李鵬総理が「死者319人(10数人の兵士を含む)。うち学生は36人で、大半は市民、労働者だった」と語ったという。「そうだったのか!中国」(参考資料4)では、別の数字として、1996年になって香港の雑誌が、中国公安部の報告として民間人の死者523人、軍・警察の死者45人と伝えている、と記している。「参考資料5:中国現代史」では、中国紅十字会(赤十字会)の話として、6月4日の未明の銃撃だけで2,600人前後が死に、1万人が負傷した、という数字を紹介している。

 「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)によれば、5月19日に三日間の「休暇届け」を出し、その後は完全に「蚊帳の外」に置かれていた中国共産党総書記の趙紫陽花氏は、6月3日の晩、自宅に家族と一緒にいて、聞こえてきた銃声によって、事態が始まったことを知ったという。

 天安門広場は戒厳部隊によって完全に制圧された。多数の学生や市民が広場を占拠する戒厳部隊に抵抗を試みるが、銃による威嚇で解散させられた。これらの様子は海外のメディアで広く報道された。ある学生らしき若い男が長安街で戦車の隊列の前に立ちはだかり戦車を立往生させるシーンが、当時、北京飯店にいた複数の外国報道機関により撮影され、世界に配信された。6月7日には、建国門橋の上にいる戦車と近くの外交公寓にいる何者かとの間で銃撃戦が行われ、その様子も外国で報道された。しかし、このような写真や映像を今中国では全く見ることができない。世界中のネット上の多くの場所に「第二次天安門事件」に関する写真や映像は掲載されているが、これらのウェブ・ページは中国国内(香港等を除く大陸部)からはアクセス制限が掛かっており閲覧できないからである。従って、1989年6月初めに起こったこれらの出来事については、世界中の人々は知っているのに、中国の人々だけが知らない、という状態が今でも続いている。

(注)6月7日に起きた建国門橋上での銃撃戦については、6月4日の天安門前広場制圧の3日後のタイミングであることなどを踏まえ、誰と誰がどういう理由で銃撃戦を行ったのかは今でも明らかにされていない。

 6月9日、トウ小平氏は共産党本部のある中南海で戒厳令部隊幹部を慰問し、武力鎮圧を正当化するとともに、今後とも改革開放路線を継続することを宣言する講話を行った。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「党史記念館」-「トウ小平記念館」-
「著作選集」-「トウ小平文選第三集」
「首都戒厳令部隊幹部接見時の講話」(1989年6月9日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69696/4950037.html

 この講話で、トウ小平氏は「4月26日の『人民日報』の社説で、今回の問題について『動乱』という二文字を使った。一部にこの二文字を使ったことに反対し、修正すべきだという人がいたが、実際を見てみれば、この判断は正しかったことが証明された。」と述べている。やはり4月26日の社説の取り扱いが党内で大きな問題であったことを伺わせる講話である。

 当時、北京市内でも天安門周辺と戒厳部隊が突入した経路にあたる部分では激しい衝突が起こったが、それ以外の場所では、比較的平穏が保たれていた。北京の運動は中国各地に飛び火していたが、市民や学生の運動が行われている場所以外では平静は保たれており、経済活動は通常に行われていた。「第二次天安門事件」発生直後、多くの外国企業は職員の安全のため中国からの引き上げを行ったが、北京以外の場所にいた外国人にとっては国外へ待避する必要性を全く感じない人も多かったようである。北京での武力鎮圧の模様が中国国内では報道されなかったためと思われる。

 「第二次天安門事件」の直接の影響を受けた地域はごく限られた地域であり、トウ小平氏も改革開放路線は継続すると宣言したが、人民解放軍の投入による民衆の運動の鎮圧は、西側各国の反発を呼び、これから数年間、外国との経済関係は冷却化し、実質的に「開放路線」は一時的に頓挫することになる。諸外国が政治的に中国との交流をストップさせたからでもあるし、外国企業の中にも「やはり中国はとんでもないことをする国である」という「チャイナ・リスク」のイメージを持ったところが多かったからである。こういった経済的なダメージだけでなく、「第二次天安門事件」は中国や関係した人々に計り知れない傷跡を残すこととなった。

 6月23日、中国共産党第13期中央委員会第4回全体会議(第13期四中全会)が開催され、「動乱を支持し、党を分裂させた」として趙紫陽氏の総書記の職を解く決定がなされた。「趙紫陽極秘回想録」によれば、会議の当初、趙紫陽氏は総書記の職と政治局委員の職は解任されるものの、中央委員の職には留まる旨が提案されていたという。しかし、趙紫陽氏は「自己批判」せず、提示された解任する理由に反論する演説を行った。そのため、最終的には中央委員の職も解任された(党籍剥奪はされなかった)。趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」の中で、会議の中で自分の考えに従って解任理由に反論したことをもって当初提案されていたのよりも厳しい措置が採られるとは、甚だしく党の規約に違反している、と憤慨している。

 趙紫陽氏は、この後も「審査のため」として軟禁状態に置かれ、形式上の審査が終わった後も軟禁状態は継続された。趙紫陽氏は、総書記の解任は党の決定であるのでやむを得ないとしても、反論の場を与えられないことと、自分を自宅軟禁状態にすることの法的根拠はどこにもないと考えていた。そして、そういった不合理な扱いについて記録に残し、後世に伝える必要があると考えて、自分が国務院総理、党総書記を歴任し、その後解任されて軟禁状態に置かれている状況を口述してテープに録音するという形で「回想録」を残すことにした、と語っている。

 趙紫陽氏の後任の総書記として、上海市党委員会書記だった江沢民氏が総書記に選出された。政治局常務委員ではなくヒラの政治局委員だった江沢民氏が党のトップに選出されたのは、二階級特進の異例の措置だった。「世界経済導報」の発禁や編集長解任などの迅速な措置が評価されたためだ、と言われている。前にも書いたように1986年暮の学生運動の際、上海市長として早いタイミングで学生の前に現れて「君たちの行動は理解できる」と述べた対応の迅速さが評価されたことも背景にあるのではないか、と私は見ている。ただし、これから見ていくように、江沢民氏は、保守派でも改革派でもなく、その政治理念は必ずしも明確ではない。トウ小平氏からすると、ガチガチの保守派ではなく政治的には無色透明だった、ということも江沢民氏を抜擢した理由なのかもしれない。トウ小平氏としては、保守派の李鵬氏(国務院総理)を党総書記にすることは、改革開放路線継続の観点でよくないと判断したと思われるからである。

 「第二次天安門事件」以降の中国について述べる前に、次節では、この「第二次天安門事件」も大きな影響を与えた東ヨーロッパとソ連の動きについて述べることとしたい。

以上

次回「4-1-9:【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-9ab9.html
へ続く。

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