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2010年4月 9日 (金)

4-1-4(1/2):対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第4節:対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(1/2)

 中国の改革開放政策は、西側各国企業の中国進出を促した。1985年には、西ドイツ(当時)のフォルクスワーゲン社と中国側との合弁企業・上海フォルクスワーゲン有限公司が設立され、大衆車サンタナの生産が開始された。

(参考URL)上海大衆汽車有限公司ホームページ
「上海大衆の歴史」
http://www.csvw.com/csvw/csvw/gsjs/shdzls/index.shtml

※「大衆汽車」は、ドイツ語「フォルクス・ワーゲン」の中国語訳である。

 中国は、大胆に外国との経済関係構築を進めたが、外国側に支配権を握られたり、外資導入により国内企業が打撃を受けることは慎重に避ける政策を採った。また、乏しい外貨事情の中において、中国政府は、合弁企業に、外国の資本と技術によって中国国内で生産された製品を輸出することによって、外貨を稼ぐ役割を負わせた。このため、外国との合弁企業の設立においては、製品の輸出比率の確保や一定割合の部品の国内調達を外資側に求めた。1980年代中頃、日本の自動車メーカーも中国側との合弁交渉を行っていたが、中国に設立された最初の合弁自動車生産会社が日系の会社ではなく上海フォルクスワーゲンだったのは、日本企業が中国側の要求する部品の国内調達比率の高さ等の条件に難色を示していたのに対し、フォルクスワーゲン社が中国側の要求を飲んだからだ、と言われている。

 当時の中国の外貨不足は深刻で、少ない外貨は産業基盤を支えるためにどうしても輸入しなければならない資機材の輸入に振り当てられた。当時は、外貨管理のため、中国国内で流通している人民元のほかに、外貨を兌換することによってしか手に入れることができない特別な紙幣(「外貨兌換券」と呼ばれていた)が発行され、人民元を外貨に兌換することは禁止されていた。また、輸入品は人民元紙幣では購入できず、外貨兌換券でなければ購入できなかった。

 外資との合弁企業でも同じ規制を受けたから、合弁企業が部品や資機材を輸入するための外貨兌換券を用意するためには、製品を輸出して外貨を稼ぐしかなかった。製品の販売先が国内だけだと、外貨兌換券が入手できず、外国から部品を輸入することができなかったのである。つまり、当時の外資系合弁企業は、部品の一部を輸入して製品を作り、その製品を中国国内に販売して利益を上げることは制度的にできないような仕組みになっていたのである。

 中国の経済発展が進んで中国の外貨準備が増加し、こうした外貨管理の手法は必要なくなったのは1990年代に入ってからだった。1993年3月1日に人民元から外貨への兌換が解禁され、1995年1月1日をもって外貨兌換券は廃止された。それまでは、各企業は、自分が必要な外貨は製品を輸出することによって自分で稼ぐ必要があった。これが中国の製造業が過度に輸出向け製品中心となり、今に至るまで内需向け製品の製造業の弱い中国経済の体質の原因となっている。

 こうした外貨管理や部品や材料の国内調達比率といった様々な条件をはめられながらも、中国の安い賃金で働く向上心の強い豊富で優秀な労働力は多くの西側企業を中国に引きつけた。一方、「社会主義国の先輩」であるソ連では、中国のような改革がうまく行われず、旧態依然とした体制が続いていた。

 これまで中国を取り巻く国際情勢として書いてきたように、1970年代半ば、米ソは「デ・タント」と呼ばれる共存の時代に入った。しかし、1975年4月30日に南ベトナム政府が崩壊するなど、アメリカ軍の存在感は世界各地で小さくなっていった。1977年1月に大統領に就任した民主党のカーター氏は「人権外交」を掲げ、発展途上国国内に起きる政治闘争にアメリカが直接軍事的に介入することはしなくなった。体制改革が進まず、アメリカとの核軍拡競争のために経済的に疲弊しつつあったソ連にも、発展途上国に軍隊を派遣して世界の国々を直接コントロールする力はなくなっていた。このため、 1970年代後半以降、発展途上国内部で起こる様々な政治闘争に対しては、アメリカとソ連は、直接軍事介入せず、それぞれに近い勢力に資金や武器を提供することによる間接的な介入が主流となった。

 こういった流れは、1979年初めに起きたイラン・イスラム革命のように米ソ両大国が石油の主要産出国のような戦略上重要な地域をコントロールできない事態を引き起こした。イランにおいて親アメリカ政権がイスラム革命により瓦解するのをアメリカは許してしまったが、それと同じような失敗を避けようとして、ソ連は1979年12月、アフガニスタンに直接ソ連軍を介入して、親ソ政権を支援した。こうした動きは、アメリカ国民からは、地球上でアメリカ勢力が退潮しソ連勢力が拡大した、と受け止められた。このため、カーター大統領(民主党)は1980年の再選へ向けての選挙戦で苦しい戦いを強いられた。結局、1980年の大統領選挙では、対外的に強硬な姿勢を採ることを訴えた共和党のレーガン氏が勝利し、現職のカーター大統領は破れた。

 レーガン氏は、1981年1月に大統領に就任すると、アフガニスタンでの動きやアフリカ、中南米への社会主義勢力支援の動きは「東側の戦略的なプランに基づく世界支配だ」として警戒感を強めた。レーガン大統領は、そういった戦略的プランの親玉であるソ連を「悪の帝国」とさえ呼んだ。しかし、当時のソ連は、既にレーガン大統領が考えているような統一的で戦略的な意志決定が行えるような国家ではなくなっていたのである。1970年代後半、ソ連のブレジネフ書記長は、高齢により健康を害することが多くなったが、ソ連には、指導者交代のシステムができておらず、ブレジネフ書記長が高齢になっても、若手の指導者に権力をスムーズに譲渡することができなかったからである。

 1970年代後半から1980年代初頭の頃の東側の動きをレーガン政権が「東側が統一的かつ戦略的なプランに基づいて世界支配をしようとしている」と非難していたことに対して、キューバのカストロ首相は、1998年に制作されたCNNのドキュメンタリー「Cold War」の中でインタビューに答えて自嘲気味に次のように語っている。

 「『統一的かつ戦略的なプランに基づいて』だって? そんなものは全くなかったさ。各国のいろいろな勢力が全くバラバラにその場その場の判断で勝手に動いていただけだ。もし本当にソ連を中心とした『統一的かつ戦略的なプラン』なるものがあったのなら、我々東側は冷戦に負けることはなかった。だが、残念ながら、実際には、そんなものは全く存在しなかったのだ。」

 こうした中、1982年11月、ブレジネフ氏は書記長職を若手に譲ることなく死去した。その後任の書記長にはアンドロポフ氏が就任したが、アンドロポフ氏も後任を決められないまま1984年2月に死去した。その後任の書記長にはチェルネンコ氏が就任したが、チェルネンコ氏も後任を決められないまま1985年3月に死去した。チェルネンコ氏の後任にはチェルネンコ氏より20歳若いミハイル・ゴルバチョフ氏が就任した。ブレジネフ氏の晩年とアンドロポフ氏、チェルネンコ氏の時代は、老人支配の時代であった。レーガン大統領は当時のソ連を「悪の帝国」と呼んでいたが、実際は、ソ連は有力な指導者が不在で、有効な政策決定すら打ち出せない旧態依然とした機能不全状態に陥っていたのである。

 それを象徴するのが、1983年9月1日に起きた大韓航空機撃墜事件(誤ってサハリン近くに侵入したアメリカ発ソウル行きの大韓航空の旅客機をソ連空軍が撃墜した事件)や1986年4月26日に起きたチェルノブィル原子力発電所の事故である。これらの重大な事件・事故は、中央の「タガ」がゆるむと、組織の末端で考えられないようなミスが起きることを象徴するものである。

 ソ連の「老人支配」がソ連の体制を硬直化させていたことをトウ小平氏はよく見抜いていた。中国では、1980年代初頭、文化大革命によって失脚させられていた多くの幹部の名誉回復がなされ、多くの旧幹部が発言権を復活させるようになっていた。中国では、毛沢東や周恩来のように抗日戦争期の革命戦争を戦い抜いた世代を「第一世代」、国共内戦から新中国建国の中心を担ってきた世代を「第二世代」(トウ小平氏自身もこの中に入る)と呼んでいたが、1984年に80歳になるトウ小平氏は、既に実際の政治は胡耀邦総書記、趙紫陽総理ら「第三世代」に任せるべきだ、と考えていた。しかし、「第二世代」のトウ小平氏が改革開放の指揮を振るっている現状にあっては、トウ小平氏と同世代の旧幹部の多くもまだまだ現実の政治に影響力を持ちたいと考えていた。

 これら「第二世代」の旧幹部の不満を解消するため、トウ小平氏は1982年9月に中央顧問委員会を設置し、古参幹部を中央顧問委員に任命し、トウ小平氏自らがその委員長に就任した。率先垂範してトウ小平氏自身も含めて「第二世代」は引退し、政治の実態は胡耀邦総書記や趙紫陽総理ら「第三世代」に任せようと考えたからである。しかし、この後の経緯が示すように、胡耀邦総書記や趙紫陽総理は、「第二世代」の有力な古参幹部の意見をコントロールすることができなかった。結局は最終的な事態の収拾はトウ小平氏自身に頼らざるを得ず、ソ連を悩ませた「老人支配」の構図は、中国においても克服することはできなかったのである。

 しかし、胡耀邦総書記や趙紫陽総理にできるだけ自由に力を発揮させようとしていたトウ小平氏の意図は1980年代半ばまでは功を奏して、斜陽化するソ連を尻目に、中国はどんどん外国の資本と技術を導入し、文化的にも対外開放を進め、ほとんど「西側世界の一員」であるかのように西側世界との一体となって経済成長のスタート・ダッシュを始めていた。1984年、アメリカで開催されたロサンゼルス・オリンピックに中国が初めて参加し、多くのメダルを獲得したのは、そういった当時の中国を象徴するできごとだった。

 1984年4月に私が中国を訪問した際、夜になると中国大陸でも聞こえる日本の国内向けラジオの中波放送には、まだ妨害電波が掛かっていた。しかし、1986年10月に北京に駐在するようになった時点では、日本のラジオ放送に対する妨害電波は既に停止されていた。1986年には、イギリスのBBCやアメリカのVOA(ボイス・オブ・アメリカ)を北京で聞くことも可能だった。1988年になると台湾発の英語放送に対しても妨害電波は停止され、台湾発の英語のラジオ放送を北京で聞くことが可能になっていた。

 1980年代半ば、技術革新により、世界のオーディオ機器はレコードからCD(コンパクト・ディスク)へと急激な変化を遂げたが、1987年には既に北京でもCDが販売されるようになっていた。マイケル・ジャクソンやマドンナなどのCDやミュージック・テープは北京で普通に手に入るようになった。1988年4月からは、FMラジオで「美国音楽一個小時(アメリカン・ミュージック・アワー)」という番組が始まった。ジョン・デンバー、マイケル・ジャクソン、マドンナなどのアメリカの音楽を1時間ぶっ通しで流す、という番組だった。この当時、中国の指導部は、改革開放政策により経済は順調に成長しており、少々外国から情報が入ってきたとしても体制はびくともしない、という自信があったのだろうと思われる。日本のテレビドラマ「おしん」や「赤い疑惑」等のシリーズ(山口百恵主演)などが中国で放送され人気を集めたのも1980年代である。

  1984年には陳凱歌監督の映画「黄色い大地」(撮影は北京オリンピック開会式・閉会式の監督を務めた張芸謀氏)が発表された。革命戦争時代を背景にして、黄土高原に住む貧しい少女と若き中国共産党文芸隊員が登場する映画だが、善良な中国共産党員でも救えない中国の貧しい農村の現状を広大な黄土高原の映像をバックに美しく表現した作品だった。この映画は、外国の映画評論家からは、美しい映像や音楽とともに、厳しい自然と貧しさの現実の前に中国共産党も力が及ばなかったことを表現した点で(「中国共産党が全てを解決する」というパターンから脱却しているという点で)、画期的だと評せられた(しかし、登場する中国共産党員は、極めて善良で良心的に描かれている)。

 1987年には謝晋監督の映画「芙蓉鎮」が発表された。文化大革命の荒波に揉まれながら生きていく庶民の力強さを描いた作品である。この作品には、激しく揺れ動く時代の流れの中で、その時々の支配勢力にすり寄りながら日和見的に時代をうまく泳ぎ抜く中国共産党員の姿が冷やかな目で描かれている。

 「芙蓉鎮」は海外の映画祭でいくつも賞を受けた中国でも有名な映画だが、2007年4月に再び北京に赴任して以降、私は機会があるたびに北京のDVD屋さんを覗いたが、結局この映画のDVDを見つけることができなかった。私は現在の中国ではこの「芙蓉鎮」は作れないと考えている。現在の中国共産党宣伝部は、中国共産党員を冷笑するような映画作品の製作は許さないだろうと思われるからである。私が、文化・思想を巡る状況については、現在は1987年に比べて時代が逆転していると感じているゆえんである。

 1987年10月に開かれた第13回中国共産党全国代表大会は、初めてテレビで全国に生中継された。会議終了後には、中国共産党幹部による内外記者会見がこれもテレビ生中継で行われた。この記者会見は、中国語と英語の通訳付きで、外国人記者も自由に質問することができた。これ以降、共産党大会や全国人民代表大会などの重要な会議では、テレビによる生中継や内外記者による記者会見は当たり前のことになった。この原則は現在でも続いており、現在ではこれにインターネットによる生中継と文字実録のアップが加わっている。

 私は、この第13回党大会が開かれていた当時、北京に駐在していて、党大会の様子をテレビの生中継で見ていた。「趙紫陽極秘回想録」(資料25)において、この回想録を取りまとめた編者の一人であるアディ・イグナシアス氏は、この本の「はじめに」の冒頭において次のように記している。

「それは中国と世界にとって、胸躍る瞬間だった。1987年10月~11月に開かれた党大会は活気に満ち、中国をさらなる進歩へと進歩へと駆り立てるかのようだった。」

この印象は、私が北京で受けたのと全く同じものだった。

 経済面での中国の成長も本格化し始めた。改革開放政策開始当時、トウ小平氏は「『四つの近代化』により、2000年までに中国のGDPを1980年の値の四倍にする」と宣言していた。私は1982年7月~1984年9月に中国との通商貿易を担当する職場にいたが、当時、経済政策の専門家は「トウ小平氏が、ああ言って国内にハッパを掛けている気持ちは理解できるが、20年間でGDPを4倍にするというのは、日本の高度経済成長期の『所得倍増計画』を2回やることであり、実態的にはできるはずはない」と言っていたのをよく覚えている。しかし、21世紀になった現在、トウ小平氏が宣言した「2000年のGDPを1980年の4倍にする」という目標がいとも簡単に実現してしまったことを確認することができる。

 私は1984年10月に人事異動により中国担当からははずれた。しかし、1985年10月からは、その後に予定されていた北京赴任のための準備のため、週に2回、勤務終了後に中国語学校に通うようになっていた。そして、1986年5月には中国関係の部署に異動になって北京駐在の準備を始め、1986年10月~1988年9月、実際に北京に赴任した。従って、この時期は、私は、ほぼ一貫して、中国を見る立場にあった、と言ってよい。

以上

次回「4-1-4(2/2):対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-5956.html
へ続く。

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