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2010年4月16日 (金)

4-1-9(1/5):「第二次天安門事件」(1/5)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」(1/5)

 現在、中国では「天安門事件」と言えば、1976年4月5日の「第一次天安文事件」(「四五事件」「四五天安門事件」ともいう)のことを指す。これから述べる「第二次天安門事件」は、中国語では「六・四」「六四事件」「六四天安門事件」などと呼ばれるが、現在の中国では、触れることすらほとんど「タブー」であり、新聞紙上などにこの案件について登場することは滅多にない。話の文脈上、触れざるを得ない場合には「1989年の政治風波」と表現される。「第二次天安門事件」に関するネット上の情報、写真、映像等は削除されるかアクセス禁止措置が採られているし、外国のサーバー上にある「第二次天安門事件」に関する情報(特に言葉がわからなくても何があったのか理解できる写真や映像等)にはアクセス禁止措置が採られている。1989年当時の中国の新聞・テレビはこの事件については報じていない。従って、1989年当時現場にいて事の成り行きを直接見聞きしたか、直接見聞きした人から人づてに聞いたことがある人でない限り、今の中国にいる人々は「第二次天安門事件」について知らない。

 これまで「第二次天安門事件」について、当時の世界情勢や伏線に関する記述が長くなったが、ここから「第二次天安門事件」の経緯を時系列的に述べていくことにしよう。時点を、1989年4月15日、即ち、胡耀邦氏が死去した日から始めることにする。

 前節で述べたような私の知らない「伏線」があったためか、4月15日以降の動きは、私の予想を超えて激しいものになった。ただし、その事態の変化は急激に始まったわけではなかった。

 4月16日夕方、「トウ小平秘録」(参考資料17)の筆者の伊藤正氏(当時、共同通信記者。本稿執筆時の2010年4月時点では産経新聞中国総局長)は、北京大学の「三角地」と呼ばれる広場へ行ったとのことである。北京大学の中でよく壁新聞が張り出される場所である。この時点で、伊藤正氏は、北京大学の中にデモをやるような雰囲気はなかったと「トウ小平秘録」で書いている。

(注)北京大学の名物だった「三角地掲示板」は2007年10月末に撤去された。最近は広告ばかりが張り出されており、近くに翌年開催が予定されていた北京オリンピックの競技会場となる施設もあったことから、構内環境の浄化を行う、というのが理由だった。北京大学の多くの関係者は、この「三角地掲示板」の撤去に抗議の意志を示した。そういった抗議が起きたことは、今述べているような「三角地掲示板」の歴史を「誇り」に思っている北京大学関係者が今でも多いことを物語っている。

 前節で述べたように、胡耀邦氏の死去後ほどなく、4月22日に「追悼大会」を開催することが発表された。胡耀邦氏は「失脚」同様の形で1987年1月に辞任したのであるが、党としても哀悼の意を表することが「追悼大会の開催」という形で表明されたわけである。

 4月17日、中国政法大学の職員と学生600~700人によるデモが天安門前広場へ向けて行われた。スローガンは「胡耀邦追悼」と「民主と法制の要求」だった。デモ隊はインターナショナル(革命歌)を歌いながら行進した。インターナショナルを歌ったのは、共産党に反対しているわけではないことを示すためだった。このデモ隊は人民英雄記念碑に献花したが、このことが後に「反革命煽動」の発端とされることになる。花輪に追悼のためにマオタイ酒の小瓶をつるしたからである。小瓶は中国語で「シャオピン」と発音する。トウ小平氏の「小平」と同じ発音である。これがトウ小平氏を侮辱し、攻撃した、とされたのだ、と「トウ小平秘録」には記されている。

 この動きを受けて、北京大学、人民大学、清華大学の学生らも4月17日深夜から18日未明に掛けて、天安門広場へ向けてデモを行った。規模は数千人に達したが、大半はデモ終了後、ほどなく大学に戻ったという。ただ、数百人が天安門広場に残って、7項目の要求事項をまとめた。まとめられた7項目は「トウ小平秘録」によると次の7つである。

(1) 胡耀邦の政治功績の公正な評価

(2)「反精神汚染キャンペーン」「反ブルジョア自由化」運動の否定

(3) 国家指導者とその子女の資産公開

(4) 民間新聞の発行の許可、報道禁止の解除、新聞法の制定

(5) 教育予算増と知識分子の待遇改善

(6) デモ規制を定めた北京市条例の廃止

(7) 今回の活動の公開報道

 趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)の中で、運動を起こした学生らが、もし政府の方針に反対する目的で運動を起こしたのだとしたら、要求項目の中に、この当時、最も人々が不満に思っていたインフレ問題を含めたはずだ、それが入っていないのは、彼らが政府の方針に反対しようと思っていたわけではないことを示している、と指摘している。

 この北京の胡耀邦氏を追悼する動きは上海などの他の都市にも広がった。

 北京での学生らの動きは、約2,000人の学生が中国共産党本部がある中南海の正門「新華門」に集まる動きに発展した。1989年4月18日深夜、中国共産党本部がある中南海の正門「新華門」の前に学生たちが集まり、李鵬総理との面会を要求した。学生たちは「新華門」の中へ突入しようと試みたが警備当局に阻まれた。学生たちはいったんは解散するが、19日の午前になるとまた集まり突入を試みた。しかし、20日未明には、学生たちは警備当局によって実力で排除された。この事件は「新華門事件」と呼ばれる。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、趙紫陽氏は、この4月18日及び19日の「新華門事件」の様子を公安省が撮影したビデオを見たという。このビデオでは、先頭にいる学生が「秩序を守れ!」と仲間たちに繰り返し叫んでいたほか、後の方にいた群衆が前に出ようとして混乱が起き始めると、いくつかの学生のチームが警備員のように群衆を押し戻そうとしていたという。この公安省が撮影したビデオは、党内ではおそらくは「極秘」扱いのものであり、総書記である趙紫陽氏だからこそ見ることのできたビデオ映像なのだろうと思われる。趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」で、このビデオでわかるように、後に述べるように4月26日に学生たちを刺激するような社説が「人民日報」に掲載される前は、学生たちの動きはそれほど激しいものではなかった、と述べている。

 この当時、改革開放の流れの中で、北京には多くの外国人報道関係者がいた。外国人報道関係者により、北京の様子は海外で報道された。しかし中国国内では「街頭行動は報道しない。特に天安門広場の写真は報道してはらなない。」という指示が出されていたという(「トウ小平秘録」)。

 4月20日には、新華社が「社会の安定擁護が当面の大局」と題する評論を発表し、新華門での学生たちの動きを批判した。前に「第4章第1部第5節:1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任」で述べたように、1986年12月、安徽省合肥で始まった民主化を求める学生デモが上海に波及した時、当時の江沢民上海市長は学生たちの前に姿を現し「腐敗幹部を批判する君たちの主張は理解できる。政府も腐敗幹部追放に全力を尽くす。しかし、デモを行っても問題は解決しない。冷静に考えて大学に戻って欲しい。」と学生たちを説得した。しかし、1989年4月、「新華門事件」が起きた時点で、当時の幹部は、趙紫陽氏も含めて誰も学生や市民の前には姿を現さなかった。そういう状態で出された国営通信社「新華社」の学生たちの動きを批判する論文は、逆に、学生たちを挑発する役割を果たした。

 当時、党の幹部の多くは「学生たちの背後に黒幕がいる」「学生を利用する下心のある連中を暴くべきだ」と言っていたという。この種の発言は、中国において、学生や市民の運動が起こると必ずなされる発言である。1976年の「第一次天安門事件」においても、当時権力の座にいた「四人組」周辺の人々は同じようなことを言っていた。2008年3月のチベット争乱や6月に貴州省甕安(日本語読みでは「おうあん」)県での民衆暴動においても「大多数の人々は真相を知らない純粋な人々なのだが、一部の腹黒い連中が多くの人々を煽動している」といったフレーズが繰り返された。2009年7月の新疆ウィグル自治区ウルムチの暴動でも「外国勢力に煽動された一部の連中が引き起こした」と伝えられた。この種の見解は「騒ぎを起こしている一般大衆は無知だ」という認識から出発している。その認識が正しくないことは、繰り返される大衆による騒擾事件で証明されているのであるが、中国の支配層の人々の認識は昔も今もほとんど変わっていない。

 「多くの一般大衆は真相を知らない」「民衆が騒いでいるのは一部の悪意を持った連中が煽動しているからだ」という事実とは異なる認識は、結果として問題解決のための正しい選択を妨げ、事態を悪化させることになる。

 こうした騒がしい状況の中、1989年4月22日、人民大会堂で胡耀邦氏の追悼大会が挙行された。トウ小平氏をはじめ、党、政府、軍の幹部が出席し、趙紫陽総書記が追悼演説を行った。胡耀邦氏が1987年1月に中国共産党総書記を辞任した経緯には触れられなかった。従って、この追悼大会は、党が胡耀邦氏に対して一定の敬意を表したことを表すものだったが、胡耀邦氏の名誉回復を意味するものではなかった。天安門広場には、胡耀邦氏を追悼する3万人規模の人々が集まった。

 この追悼大会の翌日の4月23日、趙紫陽総書記はかねてから予定されていた北朝鮮訪問へ出発した。趙紫陽総書記が帰国したのは1週間後の4月30日である。この間に事態は急転回するのだが、なぜこの時期に党のトップである総書記の趙紫陽氏が北京を空けたのかは、謎に思える。この当時、北朝鮮と中国との間には差し迫って緊急に解決すべき案件はなかった。この当時、北京と北朝鮮との間の移動には列車を使うことが多かったが、それにしてもすぐ隣の隣国へ行くのに1週間も北京を空ける必要はなかったはずである。いくら前から決まっていた外交日程だったとしても、この時の北京の状況を考えれば、訪問日数を短縮したり、訪問を延期したりしてもおかしくはなかった。

 趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」で4月26日の「人民日報」の社説が事態を急変させた、と述べており、4月23日の時点では、以下に述べるような指示を出しておけば事態には対処できると考えていたようであり、自分の北朝鮮訪問を中止する必要はない、と考えていたようである。

 趙紫陽総書記は、北朝鮮への出発に際して、

(1)学生デモは阻止して学生を大学に戻らせる。

(2)破壊行為については法に基づいて厳しく処罰する。

(3)学生に対しては指導を主とし各レベルで対話を行う。

との対応方針をトウ小平氏に説明し、トウ小平氏もこれに同意した。趙紫陽総書記は、李鵬総理にこの3つの方針に沿って対応するよう依頼して、予定通りに北朝鮮へ出発することにした。

 趙紫陽総書記には、北朝鮮訪問の日程変更をすると、国際的に北京の状況は深刻だ、との印象を与えることになるため、それを避けたい、と考えたのかもしれない。しかし、結果的には、北京の状況は総書記の外国訪問の日程を変更しなければならないほど深刻になったのである。将来の歴史家は、北朝鮮訪問を中止しなかったこの時の趙紫陽総書記の判断について、情勢に対する判断が甘かった、と批判するかもしれない。

 「トウ小平秘録」によると、趙紫陽総書記は4月23日午後に北朝鮮へ向けて北京を出発したが、23日の午前中は、北京郊外のゴルフ場でゴルフをしたとのことである。趙紫陽氏のゴルフ好きは、私が北京に駐在していた1986年~1988年頃には既に有名になっていた。趙紫陽氏自身、「趙紫陽極秘回想録」の中で、失脚後軟禁状態に置かれていた頃のことについて「ゴルフにすら行かせてもらえない」と何回も述べていることを見ても、相当のゴルフ好きだったのは事実のようである。当時、北京郊外の日系企業が経営するゴルフ場の名誉会員として登録されていた。もし、4月23日の午前中、北朝鮮へ向けて出発する前に本当にゴルフをしたのだとすると、趙紫陽氏は、将来の歴史家から「状況判断が甘すぎた」と批判されるのは避けられないかもしれない。

 実は、この時点(4月22日の追悼大会が開かれた頃)では、東京で北京からの報道に接していた私も「そんなに大変なことにはならないだろう」と思っていた。というのは、1976年の「第一次天安門事件」の時も最後は警官隊の導入で群衆は解散させれているので、いよいよとなったら、そういう警備当局による実力行使があって、多少のけが人は出るかもしれないが、それ以上のことにはならない、と思っていたからである。天安門広場に集まっている人たちの要求事項は、「胡耀邦氏の追悼」以外の点では統一した確固たる要求があるわけではなかったし、共産党に反対しているわけでもなく、デモに参加している人々自身、デモを続けても何の事態の進展も図れないことはわかっているはずだ、と私は思っていたのである。

以上

次回「4-1-9(2/5):『第二次天安門事件』(2/5)」
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へ続く。

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