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2010年4月10日 (土)

4-1-4(2/2):対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第4節:対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(2/2)

 日本1980年代の中頃は、改革開放政策が始まり、「高度経済成長の離陸」が始まり、文化的には極めて開放的な雰囲気が広がったとは言え、中国の経済レベルはまだまだ低いものであり、多くの人々は貧しかった。1986年夏頃、私は北京赴任準備のため東京にいたが、この頃、東京から北京に国際電話を掛けようとすると、朝、KDD(当時の唯一の国際電話会社)の交換手に通話を申し込んでも、実際につながるのは昼過ぎ頃になることが多かった。国際電話回線の数が圧倒的に不足していたからである。北京に赴任した1986年10月頃には、海底ケーブルの回線が増えて、申し込んで5分程度待てば日本との国際電話ができるようになったが、ダイヤル直通通話はできなかった。私が駐在していた北京の事務所では、1986年秋にダイヤル国際通話設置を中国の国際電話局に申し込んでいたが、実際に北京の事務所に国際ダイヤル通話回線が開通したのは1年後の1987年の秋だった。

 北京や上海はまだ電話事情はよい方だった。この当時、北京からだと、国際電話より、中国国内の地方都市へ電話をする方が大変だった。1987年頃になっても、北京から中国国内へ長距離電話をするためには、申し込んでから半日も待たされることはしばしばだった。このため、中国国内の通信には電報がよく使われた。現場のフィールドへ出ることが多い仕事の場合、朝、地方にある現場事務所から北京に電報を打っておいて、フィールドでひと仕事をして現場事務所に戻ると北京から返事の電報が来ている、といった形でコミュニケーションを取ることが多かった。電話で連絡しようとすると、申し込んでからつながるまで現場事務所でずっと待っていなければならず、フィールドへ出ることができないからである。1980年代の中国は、通信事情に関しては、ちょうど19世紀半ばの西部開拓時代のアメリカで、ワイアット・アープ保安官が電報で他の街の保安官と連絡を取っていたのと同じ程度の状況だったのである。

 ちなみに1986年の中国の電話普及率は100人当たり0.67台で、当時のアフリカ全体の平均よりも少ないと言われていた(当時の日本の電話普及率は100人当たり39.2台)。携帯電話などの移動電話契約数が6億件を超え、携帯電話の普及によって固定電話の数が減少傾向にある現在の中国からすると考えられない話である。

 しかしながら、私が2年間北京に駐在していた1986年~1988年頃には、既にフォルクスワーゲン・サンタナをはじめとする外資との合弁によるメイド・イン・チャイナの自動車が市内を走るようになっていた。当時、ソ連や東ヨーロッパ系の大使館や会社では、ボルガというソ連製の自動車を使っている人も多かったが、メイド・イン・チャイナのフォルクスワーゲン・サンタナとソ連製のボルガを見れば、そのデザインと性能の差は明らかだった。当時、既に外国からの技術導入も進み、中国の国営企業でもそこそこのテレビや冷蔵庫を製造するようになっていた。1980年代後半になると、ソ連の人が中国に来ると中国製のテレビや冷蔵庫を買って帰る、と言われるようになった。当時、中国では外国から輸入されたテレビや冷蔵庫もたくさん売られていたが、ソ連の人には西側から輸入したテレビや冷蔵庫は高くて買えないが、中国製のテレビや冷蔵庫ならば、入手可能な値段でそこそこの性能の製品が買えたからである。

 1980年代、中国の経済改革は徐々に具体化していった。農業においては、人民公社が解体され、「各戸責任生産制」、即ち農家各戸に生産の主体が移るようになっていった。一般産業においても、「経営の個体化」は進んだ。大型機械の導入が必要な製造業では個人経営は認められなかったが、飲食店や自転車修理などのサービス業を個人で営業することは認められるようになった。製造業も、例えば当初は「従業員は5人以内」といった制限を付けた上で、家内手工業的なものから徐々に認められるようになっていった。こうした個人経営の事業は、公有企業経済の「すきま」を埋めるものであったし、社会のニーズも高く、人民生活の向上にプラスになったので、これらの個人経営企業は人々の「やる気」を大いに発揮させる舞台となり、経済全体を活性化させた。中国政府も個人経営企業の有用性を認識するようになり、業種や従業員数などに掛けられていた制限は、徐々に緩和されるようになっていった。

 特に大都市近郊の農村では、都会で売れる野菜や卵などを集中的に生産したり、余剰労働力を用いて日用品等を生産する小規模工場を村単位で建設したりすること(こういった工場は「郷鎮企業」と呼ばれた)が盛んに行われるようになった。労働者の賃金が月額60~100元と言われる当時、1年間で1万元以上稼ぐ農家も現れるようになった。このような高額収入を得るようになった農家は「万元戸」と呼ばれるようになった。改革開放の開始とともに、経済格差が生まれ始めたのである(当時のレートは1980年代前半では1元=110円程度、1980年代後半では1元=35円程度。中国の経済成長に伴って、元の対外通貨との交換レートは急激に上昇した。2010年現在では1元=13円程度)。

 当時でも、石油・石炭・電力のようなエネルギー資源は国家管理下にあったし、多くの重要な素材や機材は「計画経済」に組み込まれた国営企業で生産されていた。このため、個人経営企業や郷鎮企業は、常に「計画経済」の壁にぶつかった。政府関係機関に頼んで「計画経済」下で流通しているエネルギー資源や素材、機材をいかに回してもらえるかが、個人経営企業や郷鎮企業にとっては死活問題だった。

 「実事求是」(事実に基づいて真理を追求する)がスローガンとなっている改革開放体制下の中国では、「計画経済の原則」に抵触するケースでも、法律や規則に違反したやり方をやってみて、もしそれがうまく行った場合には、実態に合うように法律や規則の方を後から改正する、ということが今でも日常的に行われている。そのため、企業経営者にとっては、法律や規則を取り締まる地方政府の当局者に現行の法律や規則では認められない行為や制度上認められていない融資を「大目に見てもらえる」かどうかが事業発展のための重要なポイントだった。中国では、企業経営者が地方政府当局と「うまくわたりを付ける」ことが重要な企業経営戦略の一環なのである。

 中国の企業をざっくりと分類すれば、国営企業、集団所有制企業、個人経営企業、外資系企業(合弁企業など)となる。集団所有制企業とは、村などの地方政府が所有する企業であり、公有経済を担う企業のひとつである。人民公社が崩壊した後の改革開放体制の中国においては、「集団」とは「村」などの地方政府を意味するが、中国共産党の地方組織が地方政府をコントロールしている中国においては、「地方政府」の概念は極めて曖昧な概念であり、実態上、地方政府の幹部=中国共産党地方組織の幹部であった。地方政府が集団所有制企業を立ち上げる、ということは、地方政府の有力者(=地方の党幹部)が地方政府に与えられた権限を利用して、企業を立ち上げてそれを私物化して経営しているのが実態であった。郷鎮企業を奨励する、という政策は、一面ではこういった地方の党・政府の有力者が私物化した企業を振興する政策だった、と言うこともできる。

 必然的に計画経済の名の下での市場経済を導入するという経済の改革開放は、計画経済をコントロールしている党・政府の幹部と企業経営者との癒着を生む構造を持っていた。実態上地方の党・政府の幹部が経営しているような郷鎮企業はそれを象徴する存在である。企業の形態に関わらず、地方の党・政府の有力者と「うまくわたりを付けた」企業がどんどん伸び、地方の党・政府の有力者とコネのない企業は「計画経済」の名の下で圧迫を受けることになる。こうして、中国社会の中には、不公平感と地方の党・政府幹部の腐敗に対する不満がマグマのように溜まる一方、法律や規則を守らない連中が利益を得るというモラルハザード(法遵守倫理の崩壊)が深刻化していくことになる。

 1980年代、改革開放が始まったばかりの中国では、経済の最先端部分から末端部分まで、全体が上向きに成長し始めていたので、こういった地方の党・政府幹部の腐敗に対する不満は、社会的に爆発するころまでは至っていなかった。そうした中、最も敏感に反応したのは、モラルハザードに反発する正義感を持ち、外国からの情報や文化の流入に刺激を受けた敏感な学生たちだった。

 当時、大学生の数は極めて少なく、大学教育を受けているというだけで、大学生は社会の中ではエリートとみなされていた。大学の定員は少なかったので、大学生になるためには厳しい選抜試験に合格する必要があったが、入学試験に合格すれば、学費は全て国が面倒を見てくれたし、学生寮や学生食堂もあるので、大学生は生活に不自由することはなかった。一方で当時の大学生は少数精鋭のエリートだっただけに、彼らには、次の時代は自分たちが担う、という自負もあった。しかし、そういった1980年代の誇り高き大学生にとって、卒業後の就職先を自分で自由に選択できないことが最も大きな不満だった。

 この当時、大学卒業生の就職先は国家が計画的に決めていた。多くの大学卒業生は、地方にある国営企業の幹部などに配分されていた。もちろん国家による職業配分を辞退する権利は学生にあったが、当時はまだ外資系合弁企業等の数は少なく、国による職業配分を断った学生が選択できる就職先は極めて少なかった。また、外貨が不足していた当時においては、外国留学のチャンスを与えられる者はごく少数だった。

 私は1986年~1988年の北京駐在中に、ある英語がうまい大学卒の観光ガイドに会ったことがある。彼は、国から地方の国営企業への就職するよう斡旋されたが、恋人が北京にいて別れて住むことは嫌だったので、国から斡旋された就職先を断り、北京に残って、大学で学んだ語学を活用して、外国人観光客相手に観光ガイドになったのだそうである。観光ガイドも立派な職業ではあるが、少数精鋭で専門教育を受けた大学卒業生が外国人観光客の相手をしているのは、中国という国家全体にとってもったいない、と私は当時思ったことを思い出す。

 ソ連では、1985年3月、「老人支配」が続いて体制の硬直化が進み、後発の中国の後塵を拝するようになってしまった事態を改善しようと、若手の改革派、ゴルバチョフ氏が書記長に選ばれた。ゴルバチョフ氏は「ペレストロイカ」と呼ばれる改革政策を進めるとともに、特に1986年4月26日に起きたチェルノブィル原子力発電所の事故処理に当たって秘密主義が被害を大きくしたことを反省して、「グラスノスチ」と呼ばれる情報公開方針を推し進めていった。

 韓国では、1980年に軍事クーデターで大統領に就任したチョン・ドゥファン(全斗煥)氏が、オリンピック開催を前に自分が退陣し、民主的な選挙で大統領を選ぶこととする、と宣言することによって1988年のソウル・オリンピックの誘致に成功した。その韓国(当時、中国とは国交がなかったので、中国では「南朝鮮」と呼ばれていた)で、チョン・ドゥファン軍事独裁政権に対抗して学生らが激しいデモを行い、機動隊の放水銃や催涙弾で鎮圧されるニュースが中国でもしょっちゅう報道されていた。中国当局は「南朝鮮では軍事独裁政権により苦しむ学生らが抵抗運動を繰り広げている」という韓国政府を批判する目的で韓国の学生運動のニュース映像を流していたのだろうと思われるが、多くの中国の学生たちは、「あの軍事独裁政権下の南朝鮮ですら学生がああいう運動ができるのに、なぜ改革開放政策下の我が中国ではできないのだろうか」と思ったに違いない。

 そういっためまぐるしく動く世界の情報がどんどん入ってくる時代の中で、腐敗が蔓延する社会制度と、「自由に就職を選択できない」という極めて切実な問題との両方に対する不満を背景として、中国の大学生たちも、自らの主張を行動によって訴え始めるようになる。

 具体的な動きは、1986年12月5日、安徽省合肥にある中国科学技術大学から始まった。普通の大学が教育部の傘下にあるのに対して、中国科学技術大学は中国科学院直属の大学で、昔から多くの科学者を輩出している(合肥は、ITER(国際核融合炉計画)の中国側拠点であるトカマク核融合装置(EAST)があるなど、現在でも中国科学院の重要な研究拠点のひとつである)。中国科学技術大学の学生らは、開放政策によって外国からもたらされる様々な情報を得て、民主化を求める運動を起こした。当時の中国科学技術大学の副学長は、天体物理学者の方励之氏だった。世界の自然科学の状況をよく知っていた方励之氏は、自然科学にとって自由な発想と自由な議論は不可欠であると考え、学生たちの動きを容認した。

(注)日本では講談社のブルーバックスから方励之・李淑嫺(方励之夫人)著「方励之が語る宇宙のはじまり 最初に何が起こったか?」(佐藤文隆、青木薫訳:1990年)が出版されている。ただし、この本も今は絶版になっているようで古本屋さんでしか手に入らないようである。方励之氏夫妻(及び長男)は、「第二次天安門事件」による武力鎮圧の翌日の 1989年6月5日、北京のアメリカ大使館に保護を求めた。その後、方励之氏一家の出国問題は、米中間の外交問題に発展したが、結局、翌年の1990年、病気治療を理由に中国は方励之氏夫妻が英国へ出国することを認めた。方励之氏夫妻はその後アメリカに移住している。

 いつの時代でも、純粋に真実を求める科学者は、科学の分野だけではなく、社会全体の歴史の最先端を切り開くのである。

以上

次回「4-1-5(1/2):1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/1986-5de4.html
へ続く。

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