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2010年4月15日 (木)

4-1-8:「第二次天安門事件」の伏線

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第8節:「第二次天安門事件」の伏線

 時として、歴史の中で、単なる偶然が大きな動きのきっかけになることがある。1987年1月に総書記を辞任した胡耀邦氏が1989年4月15日に死去したことも、そういった「偶然」のひとつである。

 4月15日という日付は、極めて微妙なタイミングだった。それは予定されていたソ連のゴルバチョフ書記長訪中のちょうど1か月前だった。しかも、死者を哀悼する習慣がある(日本の「お彼岸」に相当する)「清明節」の10日後だった。「清明節」は、1976年に「文化大革命」による抑圧に反発した一般市民が周恩来総理を哀悼して起こした「第一次天安門事件」が起きた日である。そして4月は、北京においては、長い冬が終わって人々が外へ出て活発に活動しようという気分になる季節でもある。胡耀邦氏が亡くなったのが4月15日だった、というこの単なる偶然が、歴史の歯車を動かし出す第一歩となった。

 亡くなった時点で、胡耀邦氏は、実権を持たないヒラの政治局委員であり、亡くなったこと自体の政治的な重要性は全くなかった。しかし、胡耀邦氏が亡くなったことに対して、一般大衆がどう反応するのか、を当時の幹部は神経質に心配していた。「トウ小平秘録」(参考資料17)によれば、当時「人民日報」副編集長だった陸張祺氏は「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したと2006年に香港で出版された「六四内部日記」に記しているという。

 胡耀邦氏はいわば「失脚」同然の形で辞任したが、「長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家、党の卓越した指導者」(死去した日に発表された訃告の表現)として4月22日に「追悼大会」を開催することが決まった。党の指導部も党として胡耀邦氏の追悼をないがしろにしたのでは、一般大衆の反発を買うことになる、と思っていたから、きちんとした「追悼大会」をやる決断をしたものと思われる。「失脚」同然の扱いを受けていた幹部の死に対して「追悼大会」を実施することは異例だった。

 胡耀邦氏が死去した翌日の4月16日には、一部市民により天安門広場にある人民英雄記念碑に追悼の花輪が捧げられた。そのニュースを東京で聞いた私は、即座に1976年の「天安門事件」を連想したことを記憶している。多くの人々もそう思ったに違いない。

 しかし、私は、この時点では1976年の「天安門事件」を連想はしたが、1976年のような大きな運動にはならない、と考えていた。これまで書いてきたように、「文化大革命」時代末期と異なり、人々の間に体制をひっくり返そうと思うほどの不満が溜まっているとは思っていなかったし、党が「追悼大会を開催する」ことを決定したことでわかるように、党も人々の気持ちを受け止めながらうまく対処するだろうと思っていたからである。しかし、実際には、事態が大きくなる要因として背景に当時の私が知らなかった「伏線」があったようである。

 その「伏線」のひとつは、前々節で述べた1988年5月から8月に掛けての二重価格問題に対する対処策の失敗に対する保守派からの趙紫陽総書記への批判である。この頃、二重価格問題の対処に失敗した趙紫陽総書記の政権内での発言力は低下し、市場における政府のコントロールを強めるべき、と考える保守派の発言力が大きくなっていた。

 もうひとつの「伏線」は一種の「歴史認識」に対する路線対立だった。事の起こりは、1988年6月に中国中央電視台で放送されたテレビ・ドキュメンタリー番組「河殤(かしょう)」(全6回シリーズ)だった。私はこの番組を見ていないので適格には評論できないが、この番組は、中華文明の封建制や暗黒面を描いたものであったという。ある意味で、封建的な時代を批判し、改革開放の必要性を訴える番組だった。放送当初は、中国メディアも賞賛したが、1988年7月以降批判が始まり、保守派の王忍之氏が部長を務める党宣伝部の指示で再放送申請が却下されるようになったという。趙紫陽総書記はこの作品を絶賛したが、保守派長老の王震国家副主席は「中華民族への侮辱だ」としてこの作品を攻撃したという(参考資料17:トウ小平秘録)。もしこれが事実だとしたら、この時点(1988年夏以降)で、趙紫陽氏は、党の宣伝部をコントロールできていなかったことを意味しており、党のトップたる総書記として、党内を統括する力を既に失っていたと言える。

 この「河殤」問題については、趙紫陽氏自身は、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)の中で、自分(趙紫陽氏)が、「河殤」の制作を指示したり、ビデオを全国に配ったり、「河殤」に対する批判を抑え込もうとしたりした、と随分新聞に書かれたが、それらはまっ赤な嘘だ、と語っている。

 この「河殤」問題において保守派が「中華民族への侮辱だ」と反発したことは、1990年代に「愛国主義」に政治的求心力を求めることになる保守派の原点をなしている、とも見ることができる。

(参考URL1)「日本財団」図書館(「日本財団」が著者と発行元の許可を得て掲載している電子図書館)
「1988年11月7日付け朝日新聞社説:気になる風が中国を吹く」
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00241/contents/021.htm

 さらにもうひとつの「伏線」と言える動きは、1986年12月の学生運動の動きに同情的だったとして1987年1月に党籍を剥奪された天体物理学者(学生運動発生当時の中国科学技術大学副学長)の方励之氏の動きである。方励之氏は、党籍を剥奪された後も民主化運動を続けていた。「トウ小平秘録」(参考資料17)の筆者の伊藤正氏は、1988年12月に方励之氏を訪ねたが、彼はその時も意気軒昂で、トウ小平氏を批判し、民主化は必ず実現する、と話していたという。

 その方励之氏は、1989年1月、服役中の魏京生氏の釈放を求めるトウ小平氏あての公開状を発表した。魏京生氏は、1978年12月、「民主の壁」に「第五の近代化~民主およびその他」と題する壁新聞を張り出して中国共産党による30年来の独裁の現状を述べ、自由も民主もない現状を見つめるよう呼び掛けて、翌1979年3月29日に「反革命罪」で逮捕された民主活動家である(「第3章第5部第5節:改革開放と『四つの基本原則』で終わった『北京の春』」参照)。方励之氏は、1989年2月に訪中したアメリカのブッシュ大統領(父親)主催の夕食会に招待されたが、当局は方励之夫妻の夕食会への出席を阻止した。

 魏京生氏は、1979年3月に逮捕された後、懲役15年の判決を受けて服役中だった。「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、胡耀邦氏はそのような厳罰は望んでいなかったが、トウ小平氏の意向に押し切られたのだという。おそらくはそういった話が当時の知識人たちの間には広がっており、4月の胡耀邦氏の死去によって、抑圧されていると感じていた知識人たちの気持ちが一気に吹き出したものと思われる。

 胡耀邦氏が実際に民主化運動にどのくらい理解を示していたかは不明な点も多いが、1986年末の学生運動の盛り上がりの後、その事態に対する対処に関して「詰め腹を切らされる」形で辞任させられた胡耀邦氏は、多くの民主化活動家の間では、一種の「殉教者」的な扱いを受けていたものと思われる。

 この時のブッシュ大統領の訪中期間中の1989年2月26日、トウ小平氏はブッシュ大統領との会談を行っている。その時にトウ小平氏が語った言葉が「トウ小平文選」第三巻に収録されている。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「党史人物記念館」
「トウ小平記念館」-「著作選」-「トウ小平文選第三巻」
「一切を圧倒するものは安定である」(1989年2月26日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69696/4950030.html

 このブッシュ大統領との会談の中でトウ小平氏は次のように述べている。

「中国の問題において、一切全てを圧倒して必要としているものは安定である。中国は必ず改革開放を堅持しなければならない。しかし、改革をやるためには政治環境の安定が絶対に必要である。総体的に言って、中国人民は改革政策を支持しており、絶対多数の学生は安定を支持している。彼らは国家の安定を離れては改革開放を語ることはできないことを知っているからである。

 我々は既に建国以来の歴史的事件の是非、特に『文化大革命』の誤りについて適切な評価を行ってきた。毛沢東同志の歴史と思想についても適切な評価を行ってきた。毛沢東同志の晩年の誤りに対する批判については過度に行ってはならず、常軌を逸してはならない。なぜならばこのような偉大な歴史上の人物を否定してしまっては、我が国国家の重要な歴史を否定しまうことを意味し、思想の混乱を招き、政治的不安定をもたらすからである。

 中国は特に今は経済発展に注意力を集中させなければならない。形式上の民主を追求したら、結果的に民主は実現できず、経済的発展もまた得られず、国家の混乱を招く。私は『文化大革命』のひどい結果をこの目で見てきた。中国では人が多いから、もし今日デモをやり、明日デモをやることにしたら、365日毎日デモをやることになり、経済建設などできなくなってしまう。もし我々が現在10億人で複数政党制の選挙をやったら、必ず『文化大革命』の『全面内戦』のような混乱した局面が出現するだろう。民主は我々の目標だが、国家の安定は絶対に保持しなければならない。」

 この談話には、この2か月後にトウ小平氏が下す判断の根拠となる考え方が凝縮されている。「文化大革命」を否定し、1981年6月の「歴史決議」で、それまで「タブー」と考えられていた毛沢東の歴史評価にさえ切り込んで「毛沢東も晩年には誤りを犯した」と断言したトウ小平氏を考えると、私から見れば、「あまり毛沢東を批判しすぎるのはよくない」とする上記のトウ小平氏の発言は一種の変節のように見える。全てをタブーしすることなく、毛沢東の言動も含めて、誤っている部分はきちんと誤っていると認識し、正すべきことは正す、というのが「改革開放の原点」だと私は考えているからである。おそらく「全てを虚心坦懐にタブーなく批判して正すべきは正す」という考え方を突き詰めると、「『中国共産党による指導』を堅持することを含む『四つの基本原則』に対して批判してもよい」という考え方に通じることを、トウ小平氏はこの時点で強く意識し始めていたものと思われる。

 私はこの談話がなされた時点では既に日本に帰っていて、この談話については知らなかった。私は、2007年に19年振りに北京に駐在するようになって1989年以降「改革開放の原点が失われた」という感覚を感じた。この談話を読んで感じることは、「改革開放の原点を失わせた」のは、ほかならぬ「改革開放の原点」を自ら切り開いたトウ小平氏自身だった、ということである。この時点で、おそらくは当初は自らの後継者と考えていた胡耀邦氏や趙紫陽氏の考え方から、トウ小平氏自身の考え方の方が変化してずれてしまっていたのだと思われる。少なくとも、この時点で私が持っていた「トウ小平氏が始めた改革開放」のイメージからトウ小平氏自身がずれてしまったことは確かである。

 トウ小平氏が「中国共産党による指導」に対する批判を許さなかったのは、それを許すと、国土が広く、人口の多い中国においては、政治的に混乱が起き、収拾がつかなくなると考えていたからであろう。そのあたりの考え方は、上記のブッシュ大統領との会談の際に話した言葉から十分に読みとることができる。

以上

次回「4-1-9(1/5):『第二次天安門事件』(1/5)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-617d.html
へ続く。

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