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2010年4月27日 (火)

4-2-4(1/2):国有企業改革と「世界の工場」の実現(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第4節:国有企業改革と「世界の工場」の実現(1/2)

 「南巡講話」で示された政策が党の方針となる過程で、既に政界を引退したはずのトウ小平氏の「最高実力者」としての発言力は完全に復活していた。そうした中、1992年10月、第14回中国共産党大会が開催された。この党大会直後に開かれた第14期中国共産党中央委員会第1回全体会議(第14期一中全会)で党の幹部の人事が決められ、江沢民氏を総書記とする新しい体制が確立した。この時の人事は、トウ小平氏の意向に沿って決められたものだと言われている。

 この第14期一中全会で、経済官僚出身で改革開放路線の強力な推進者である朱鎔基氏が政治局常務委員に入った。朱鎔基氏は、トウ小平氏が李鵬氏の後任の国務院総理として想定していた人物である。私が1983年2月中国の工場近代化に協力するための代表団の一員として中国を訪問した時、歓迎宴を主催してくれたのが朱鎔基氏(当時国家経済委員会副主任)であったことは前に述べた(「第4章第1部第2節:改革開放政策下における日中協力の実態(私の経験)」参照)。朱鎔基氏は1980年代、国家経済委員会で当時急速に進められていた経済面での改革開放政策の実務を担当し、その後、江沢民氏の後継者として上海市長、上海市党書記を歴任していた。経済政策の実務に明るいことと、上海での後任者として江沢民氏としても使いやすかったことが中央に抜擢された理由であると思われる。

 ただ、朱鎔基氏は、あくまで実務官僚タイプの人物であり、将来出世したとしても、思想面で党務を統括する必要のある総書記には向かないタイプの人物だった。自分の後継者として指名していた胡耀邦氏、趙紫陽氏を自らの手で事実上解任してしまったトウ小平氏にとっては、将来の党のトップとしてリーダシップを発揮できる人物を別に指名しておくことが必要だった。

(注)朱鎔基氏は江民氏の後任として上海市長と上海市党書記を歴任しているが、これは江沢民氏の意向によるものではなく、朱鎔基氏の経済政策実行能力をトウ小平氏が高く評価していたからだ、と考えられている。従って、朱鎔基氏は江沢民氏に恩義を感じるような立場にはなく、現在の中国指導部内の勢力図の中で、朱鎔基氏を江沢民氏をヘッドとする「上海グループ(上海閥)」の中に含めるのは適切ではない、と考えるのが一般的である。

 1989年にトウ小平氏が党の総書記に抜擢した江沢民氏は、「第二次天安門事件」の際に党中央の政治局常務委員という党務の中枢のポストを経験せずに総書記に抜擢されたため、党を総括する実力については未知数の部分があった。トウ小平氏は、江沢民氏を「第二次天安門事件」により混乱した時期を乗り切るための「ピンチヒッター」として登用したつもりだったのかもしれない。トウ小平氏としては、しばらくの間は江沢民氏が総書記を務めるとしても、その後のために、党と国家をしっかりと掌握するリーダーシップを持った次世代の指導者を指名し、活躍の場を与え、「試してみる」必要があった。そこで抜擢されたのが当時チベット自治区の党書記を務めていた49歳の胡錦濤氏だった。胡錦濤氏は、チベット自治区の前は、少数民族の割合が多く経済的にも大きく遅れた貴州省の党書記を務めていた。胡錦濤氏は、チベット自治区党書記時代の1989年3月に1959年のチベット争乱30周年に当たって争乱が起きたとき、自ら先頭に立って現場に出動して事態を収拾させたことが評価されて異例の抜擢をされた、とも言われている。

 翌年1993年3月の全国人民代表大会(全人代)では、李鵬氏が国務院総理として再任された。李鵬氏は一貫して保守的な立場をとってきたが、この後、中国政府はトウ小平氏の「南巡講話」を受けて中国政府は第14回党大会で決まった方針に基づき、大胆な経済改革を進めていく。第14回党大会の後に政治局常務委員となった朱鎔基氏は、インフレ傾向が顕著になった1993年7月から1995年8月まで、自らが中国人民銀行総裁を兼務してマクロ経済の舵取りを担った。この時期、国務院総理は李鵬氏であったが、後に1998年3月の全人代で朱鎔基氏が李鵬氏の後任の国務院総理になってから表に出てくる経済面での「朱鎔基改革」は、実際は1992年の第14回党大会以降、政治局常務委員になった朱鎔基氏により、李鵬総理の下で既に始まっていた、と考えてよい。

 中国の企業は、もともとは計画経済の下で国が経営する国営企業(「全人民所有制企業」ともいう)と公営企業(地方行政組織が経営する企業で「集体所有制企業」ともいう)から成り立っていた。1978年に始まった改革開放経済により、これに加えて外国の資金を導入した合弁企業(「中外合資経営企業」)、外国から技術等の提供を得て共同で経営する企業(「中外合作経営企業」)、外国資本100%で中国国内に設立された企業(「外商独資企業」)が認められるようになった(「中外合資経営企業」「中外合作経営企業」「外商独資企業」の三つを合わせて「三資企業」と呼ぶ)。

 さらに小規模な個人商店や個人経営手工業の工場から始まって、個人が資金を提供して経営する個人経営企業や数人の個人が集まって経営する私営企業も次第に設立が認められるようになっていった。個人経営企業や私営企業は、業種や経営規模などに関して当初は様々な制限が設けられていたが、これらの企業が中国経済を活性化するのに役立つことが認識されるようになり、制限は徐々に緩められていった。

 「三資企業」や「個人経営企業」「私営企業」の利益に対しては法人所得税が課せられた。経営がうまく行き、利益が上がれば、税金を納めた後の利益については、経営者が自分の判断で利益を配分したり、次の経営に対する投資に回したりできるので、常に積極的な経営判断が行われ、これらの企業は次第に中国経済の中で活力を発揮していった。それに対して、数の上では圧倒的多数を占めていた国営企業と公営企業では、企業経営者は公務員であり、改革開放政策が始まった当初の頃は企業の利益は「上納金」として国家や地方政府などに納めていたことから、企業経営者にとって積極的な企業経営を行うインセンティブはほとんどなかった。このため国営企業・公営企業は「大釜の飯を食う」(中国語で「鉄飯碗」。鉄のお椀は、落としても割れないことから、こういう言い方をする。日本語でいう「親方日の丸」に当たる。)と呼ばれていた。中国経済が活力を得るためには、国営企業や公営企業の活性化が最大の課題であった。

 農業分野においては、1980年代前半、「人民公社」が解体され、個々の農家に農業生産の責任を負わせ、一定量の請け負い量を超えた生産物は自由に売りさばいて自分の利益にしてもよい、という「生産請負制」が農民の意欲を引き出し、農業生産を大幅に向上させることに成功していた。それに習って、国営企業や公営企業についても、次第に経営自主権が各企業の現場のトップに移譲されるようになっていった。利益についても「上納金制度」を改め、「三資企業」や「私営企業」と同じように法人所得税制度を採用し、納税した後の収益については、各企業経営者の判断により、次の時代のための投資に回すことができるようになった。さらに、1980年代後半になると、企業の外からの資金を求め、それとともに経営の合理化や効率アップのインセンティブが働くよう、国営企業や公営企業についても、経営資金の一部を調達するための株式の発行も実験的に行う試みが検討され始めた。

 しかし、国営企業や公営企業の経営資金の一部として株式の発行を認め、その株式を売り出し、中国国内に「株主」を産むことは、中国国内に「資本家」を産むことと同じであり、社会主義の原則に反する、という反対論が根強かった。国営企業や公営企業の株式発行を認めるかどうかは前節でも触れた「姓社姓資論争」(社会主義を名乗るのか、資本主義を名乗るのか)と呼ばれる保守派と改革開放派との論戦の重要なテーマであった。

 「中外合資経営企業」と「中外合作経営企業」は、外国から資本や技術を導入して国営企業・公営企業の活性化を図ろうというものであったが、1980年代も後半になると、国営企業・公営企業が「合資企業」「合作企業」という形で外国側パートナーとの協力により大幅な経営効率の向上に成功する例が多数出始めていた。外部からの出資者を経営に参加させることがよい結果を生むのであれば、出資者を外国からだけでなく国内から募ってもよいではないか、と考えるのは自然な成り行きだった。一方、中国国内においても、農村における小さな企業の経営に成功した「万元戸」と呼ばれるような農家など、企業に出資できるようなまとまった資金を持つ人々も出始めていた。こうした状況を踏まえ、トウ小平氏の持論である「まずは実験的に始めてみればよい。問題があればやめればよいのだから。」という考え方に基づき、1990年11月にまず上海で、続いて12月には深センで、証券取引所が開設され、国営企業・公営企業の資金を株式発行という形で調達することが実験的に始められた。

 前節で述べたように、1991年までは「姓社姓資論争」が戦わされており、国営企業・公営企業の株式発行は実験的な程度に留まっていた。しかし、1992年春のトウ小平氏の「南巡講話」により、改革開放派が勝利する形で「姓社姓資論争」に決着が付くと、国営企業・公営企業の改革についても、大きな弾みがつくことになる。

 1992年10月12日~18日に開催された第14回中国共産党大会における報告において、江沢民総書記は「国営企業」「公営企業」という言葉を使わずに「国有企業」「集体企業」という言葉を用いた。これは、国営企業・公営企業については、もはや国や地方政府が経営するのではなく、その資本を国や地方政府が所有はするものの、経営には口を出さず、経営の主体はあくまでも各企業の経営者に判断に任せる、ということを意味していた。国有企業、集体企業の資金の一部を株を発行することによって調達するやり方は、上記のように1990年末から実験的に開始されていたが、この1992年の第14回党大会以降、段階的に拡大していった。

 トウ小平氏は、1992年10月の党大会以降は、既に88歳を超える高齢になっていたこともあり、実質的にも政界から引退するようになった。1992年春の「南巡講話」と10月の党大会での人事決定により、既に自らが示すべき路線は敷かれた、と考えたからであろう。

 1992年にトウ小平氏の「南巡講話」により国内の路線闘争に決着が付き、改革開放路線が確定したことは、1989年の「第二次天安門事件」の後、西側諸国の中にあった中国政治の不安定さに対する警戒感を大幅に和らげた。この当時の西側各国は、自国内における人件費の高騰を背景として、生産現場の海外への移転を模索していた。特に1993年以降の日本の製造業企業では、バブル崩壊後の経済的苦境と為替レートが急激に円高に振れていたことから、生産拠点を海外に移転することが不可避の課題だった。こういった海外の企業側と、外資導入により経済発展への弾みを付けたい中国との意図は一致し、「第二次天安門事件」により一時的に頓挫していた外国から中国への投資は、1992年以降、1980年代にも増して急激に拡大した。1993年の外国企業による中国への直接投資は1988年の20倍以上に達した。

 ただし、この1993年の外国からの直接投資額はあまりにも急激な拡大だったことから、国内にインフレを招き、それ以後、外国からの投資に対しては一定のコントロールが掛けられることになる。1990年代の中国は、経済の様々な分野で急激な拡大とそれに対する引き締めが繰り返されて、経済がなかなか安定しなかったが、一方でそういった経験を積み重ねる事により、中国は次第にマクロ経済コントロールの仕方を学ぶことができた。そういった経験が2000年代に入ってからの中国の経済政策に大いに活かされている。

 「第二次天安門事件」後の1990年に3.8%にまで落ち込んだ中国のGDP成長率は、1992年には14.2%、93年は14.0%、94年には13.1%と急速に回復した。ただこれらの経済成長は、外資導入による外資系企業の活性化が中心であり、国有企業の効率化はなかなか進まなかった。外資系企業の活動が活発なのは、企業経営が市場原理に基づいているからであることは明らかである。このため、上に述べたように、中国政府は、国有企業の企業経営に市場原理を導入することを意図して、それまで実験的にごく一部に限られていた国有企業の資産の株式化を急速に進めていったのだが、国有企業の株を全て売却してしまえば、もはや社会主義とは言えなくなる。そのため、業種や経営規模によって異なるが、経営が安定している優秀な企業については、例えば、全体の3分の1の株式を国が所有し、3分の1を国が指定する機関または他の国有企業が保有し、残りの3分の1が個人投資家向けの分として株式市場で売買される、といった形を導入した。一方で、経営が思わしくなく、非効率的な国有企業は、一定の手続きに従って破産措置が取られ、従業員は解雇された。

 これらの国有企業改革については、現在、様々な評価がなされている。一部の国有企業では、経営者が市場原理を導入し、マーケットの動きを的確に捉え、マーケットの需要に沿った商品を売り出すようになり、国有企業の活性化に繋がった、とする見方もある。一方で、一部の株式を公開にしたといっても、3分の2の株式は国または国が指定する機関が保有しており、企業の人事や重要な経営上の決定権も実質的には国または株を保有する機関に握られていて、個人株主の意見が経営に反映される形態にはなっていない、という指摘も強い。また、株の大半を国有または国が指定する機関が所有する、という形態になっているものの、国または持ち株機関による国有企業の人事や経営への関与の仕方が不透明であり、実際は国または持ち株機関の中にいる特定の個人が実質的に国有企業の人事や経営をコントロールしているのではないか、との疑惑は尽きない。

 また、計画経済時代と同じように、国有企業には企業ごとに中国共産党委員会があり、また工会(労働組合)もある。国有企業の党委員会や工会が企業経営者の人事や経営方針の決定にどの程度関与しているのか、必ずしも明らかではない。このため、個人株主の権益がフェアな形で守られるのかどうか不透明である、との指摘もある。さらに、経営が思わしくない国有企業が破産措置を受けたことによりリストラされた従業員の権利が十分に守れていないのではないか、との指摘もある。

 1997年2月、トウ小平氏は93歳で死去した。7月1日には1984年に出された日英共同声明に基づき、香港が中国に返還された。トウ小平氏の香港返還の日をこの目で見たい、という希望は叶わなかったが、中国はトウ小平氏の敷いた路線の上を確実に歩んでいた。

以上

次回「4-2-4(2/2):国有企業改革と『世界の工場』の実現(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-477e.html
へ続く。

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