« 4-2-2:「第二次天安門事件」の後遺症 | トップページ | 4-2-4(1/2):国有企業改革と「世界の工場」の実現(1/2) »

2010年4月26日 (月)

4-2-3:トウ小平氏の最後のメッセージ~南巡講話~

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第3節:トウ小平氏の最後のメッセージ~南巡講話~

 精神的な「傷」だけではなく、「第二次天安門事件」は、ようやく離陸しつつあった中国の改革開放路線の経済に大きな挫折を与えることになった。暴力を使わないデモや座り込みを行っていた学生らに対して人民解放軍が発砲して武力でこれを鎮圧したことに対し、日本を含め、西側諸国は一斉に反発し、中国に対する経済協力の停止を決めた。従業員の安全を心配する多くの外国企業は中国からの人員の引き上げを行った。6月9日に行った首都戒厳令本部幹部への慰問における講話で、トウ小平氏は「改革開放路線はいささかも変わらない」と強調したが、突然、首都の中心部に戦車部隊が現れた事態に、多くの外国企業は中国の政治状況の不安定さを見て、当然のことながら中国への投資に慎重な態度を示すようになった。外国からの資本導入と外国企業との技術協力で成長しつつあった中国経済はここで大きな転換点を迎えたのである。

 軍による実力行使により、政治的には、共産主義の原理を主張し、公有経済の重要性を強調する保守派が主導権を握るようになった。6月23日の中国共産党第13期中央委員会第4回全体会議(第13期四中全会)で正式に趙紫陽氏の後任として総書記に就任した江沢民氏は、9月29日に行った建国40周年記念式典での講話の中で次のように述べている。

「今年、春から夏にかけて動乱と暴乱が起きた。これは、国際的な『大気候』と国内的な『小気候』が結合してもたらしたものである(注:国際的な「大気候」とはソ連・東ヨーロッパでの動きを指す)。国内外の敵対勢力がこの風波をもたらした。その目的は、中国共産党による指導をやめさせ、社会主義制度を転覆させ、中国をブルジョア階級の共和国に変え、西側資本主義大国の属国にしようとするものであった。この闘争は、四つの基本原則とブルジョア自由化との先鋭な対立であり、我々の党、国家、民族の生死存亡を賭けた闘争であり、ひとつの重大な階級闘争であった。我々はこの闘争に勝利し、百年以上にわたって無数の先人たちが戦ってきた中華民族の生存と解放のための闘争の成果と、半世紀にわたる新民主主義革命、社会主義革命の成果を守り、40年来の社会主義建設と10年来の改革開放の成果を守った。」

(参考URL1)「新華社」ホームページ「新華資料」
「中華人民共和国成立40周年記念大会での講話」(1989年9月29日:江沢民)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/23/content_2608708.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 改革開放政策の開始時、「文化大革命」は誤りだった、と認めるに際して否定した「階級闘争」という言葉が、ここへ来て復活したのである。

 江沢民氏は、この後、2002年には、資本家層も中国共産党に入ることを認めるという画期的な「三つの代表論」を展開することになる。1989年に「階級闘争に勝利した」と述べた江沢民氏と2002年に「三つの代表論」を掲げた江沢民氏が同一人物だとはとても思えない。この13年間の江沢民氏の変化については、「1989年の江沢民氏は、総書記になったばかりで党内での実権はなく、上記の講話はただ保守派が書いた原稿を読まされただけなのだ」と見るべきなのか、「江沢民氏は、時代の変化に応じて柔軟に方針を変化させたのだ」と見るべきなのか、「江沢民氏は、政治的定見がなく、その時の状況に応じて巧みに変化して対応していただけなのだ」と見るべきなのか、については、後世の歴史家が判断することになるであろう。江沢民氏は、少なくとも、迫害されようとも失脚しようとも、「打倒されても懲りない実権派」として常に「大胆に市場経済を導入すべきだ」という信念を一貫して守り通したトウ小平氏とは、全く異なるタイプの人物であることは確かである。

 11月6日、トウ小平氏は、中国共産党第13期中央委員会第5回全体会議(第13期五中全会)で、最後まで就任していた中央軍事委員会主任を退任し、全ての公職から引退した。11月13日の日中経済協会代表団との会見では「これが最後に会見する外国代表団だ」と述べて、全ての政治活動から引退することを宣言した。この時、トウ小平氏は85歳だった。胡耀邦氏は死去し、趙紫陽氏は失脚し、トウ小平氏が引退すると、党中央にはほとんど保守派しか残されていなかった。

 「第二次天安門事件」によって、西側は中国に対する経済協力を停止したが、この頃中国は、既に西側経済圏にとって重要なパートナーになっていた。また、中国は核兵器を保有する国連の常任理事国のひとつであり、中国の国際的孤立化は、国際社会を不安定化させるものだった。従って、表面上は、中国を制裁する姿勢を見せながら、世界各国は、中国の孤立化は避けるような行動に出る。アメリカのブッシュ(父親)大統領は、「第二次天安門事件」から3週間も経たない6月21日、極秘裏にトウ小平氏に対して「特使を派遣したい」旨の書簡を送り、7月1日にはスコウクロフト補佐官が極秘裏に派遣された(「トウ小平秘録」(参考資料17))。これらが極秘裏に行われたのは、対中制裁の声が高まる米国議会を刺激したくなかったからである。また、10月には「私人」という立場でニクソン元大統領が、11月にはキッシンジャー元国務長官が訪中し、中国が国際的に孤立化しないよう配慮を示した。

(注1)以前書いたように、共和党のブッシュ(父親)大統領は、同じ共和党のニクソン政権下で、米中国交正常化前に中国に置かれていた在中国アメリカ連絡事務所の二代目の所長として北京に駐在していた経験があった。

 しかし、アメリカ国内には人権問題に厳しい勢力も強かったし、反体制派の活動家の方励之夫妻が6月5日に北京のアメリカ大使館に保護を求めてきていたことから、表向きの外交上、アメリカは中国との関係改善を図ることは難しかった。そこで、中国は、日本に対して西側との関係改善の突破口となることを期待し、上に述べた日中経済協会代表団をはじめ、多くの日本の官民の代表団を招待した。そして、1989年12月6日、日本は凍結していた1989年度の対中無償助50億円を実施する交換公文に署名し、経済協力を再開した。

 私は日本の中では「親中派」に分類されるのであろうが、この日本による経済協力再開のニュースを聞いて私は「あまりに早すぎる」と憤慨したことを覚えている。まだ「第二次天安門事件」から半年しか経っていなかったからである。中国が既に日本経済にとって重要な役割を果たしていたのは事実であったが、経済のために許していいことと悪いことはあるはずだ、と私は思っていた。その当時私自身が中国関係の仕事に携わっていなかったせいもあるが、1989年以降、2007年4月に北京に再び赴任するまで、私と中国との関係は、気分的にも基本的に「切れて」いた。

 なお、この時期、米中関係が冷却化した状態の中、日本が率先して対中関係改善の意向を示したため、アメリカに行こうとして行けなかった留学生の多くが行き先を変更して日本に留学する、という現象が生じた。私は「本当はアメリカに行きたかったのだが行けなかったので日本に留学した」という1990年度日本留学組の研究者を複数知っている。

 国際的に「中国を孤立させてはならない」という動きがある中、中国は、あくまで1989年6月の武力行使は正当だったと内外に対して主張し続けた。しかし、日本による経済協力の再開があったとは言え、中国政界で保守派が主導権を握ったことと、外国企業が「チャイナ・リスク」を改めて認識した結果、中国の外国との経済関係はこの時期急速に冷え込んだ。改革開放政策がスタートした1978年以降、GDPの対前年比伸び率は高い水準を維持していた。1986年は対前年比8.8%増、1987年は11.6%増、1988年は11.3%増だった。しかし、1989年は4.1%増、1990年は3.8%増と伸び率が半分以下に落ち込んだ。トウ小平氏は改革開放政策当初「2000年のGDPを1980年の4倍にする」という目標を掲げていたが、20年間で4倍にするには平均年7.2%の成長率が必要である。1989年、1990年のレベルがその後も続けば、4倍増の目標達成は困難となる。1989年と1990年の経済指標を見て、トウ小平氏は「まずい」と思ったに違いない。

(注2)「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)の中で、趙紫陽氏は、1989年と1990年に経済成長にブレーキが掛かったのは、「第二次天安門事件」のせいではなく、1988年に起きた急激なインフレに対抗するために採られた経済的引き締め政策が効いたためだ、という経済政策の専門家らしい冷静な分析をしている。

 改革開放派のブレーンである経済学者の呉敬璉氏は、この頃(1989年~1991年)、保守派の中には「国内を壟断し始めている資産階級と党内の修正主義分子を打倒し」「第二次文化大革命を起こすべきだ」とまで主張していた人たちがいた、と指摘している(「経済観察報」2007年12月10日号)。当時の保守派と改革開放派の論争は「姓社姓資」論争(社会主義を名乗るのか、資本主義を名乗るのか、の論争、という意味)と呼ばれていた。

(参考URL2)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))の2007年12月8日付け記事
「『経済観察報』の論調」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/12/post_1622.html

 こうした中、1991年2月~4月、上海で発行された「解放日報」に「皇甫平」という署名入りの改革開放政策を進めるべきとする論文が連載された。「皇甫」は上海市内を流れる「黄甫江」のことであり、「平」はトウ小平氏の「平」を取ったものと推測され、この論文の後ろには既に「政界を引退した」と宣言したはずのトウ小平氏がいる、と多くの人々が推測した。呉敬璉氏は2008年9月2日付けの「経済観察報」に掲載されたインタビュー記事の中で、この「皇甫平論文」は、1991年の春節期間中にトウ小平氏が上海滞在中に上海市党書記の朱鎔基氏ら上海市幹部に語った談話を元にして周瑞金氏(「解放日報」副編集長)らが書いたものだ、と証言している。

(参考URL3)「経済観察報」2008年9月2日付け記事
「『呉市場』から『呉法治』へ(3)」
http://www.eeo.com.cn/observer/dajia/2008/09/02/112308_2.html

 このトウ小平氏の動きに対して、保守派の重鎮である陳雲氏も理論雑誌の中で保守派の論客・トウ力群氏らの論文を使って主張を展開していく。陳雲氏は、1980年代から「市場経済は公有制経済というカゴの枠の中でのみ自由に羽ばたかせなければならない」という「鳥カゴ経済論」を展開して、トウ小平氏の大胆な市場経済導入政策に反対していた。この時期(1991年)は、前回述べたようにソ連の中でエリツィン-ゴルバチョフ-ソ連共産党保守派の勢力争いが展開されていた時期であり、中国の「姓社姓資」論争も、そういったソ連での動きに大いに影響を受けていた可能性が高い。

 当時、保守派の編集長が牛耳っていた「人民日報」は、ソ連で保守派クーデターが失敗した直後の1991年9月1日号で、陳雲氏の言葉を引用した論文「徳才兼備は徳が主~幹部選抜の標準」を掲載した。幹部の選定基準としては、「徳(=思想)」と「才(=経済的能力)」の両方が大事だが、主としては「徳(=共産主義の思想)」の方が大事である、という保守派の主張を述べたものだった。一方、翌9月2日付けの人民日報では「改革・開放をさらに一歩進めよう」という社説を掲載したが、そこには党中央が批准した文章にはなかったある一文が加えられていた。加えられていたのは「改革・開放においては、『姓社姓資』を問い、社会主義の方向を堅持しなければならない。『姓社姓資』を問う目的は、公有制中心を堅持するためである。」という文章だった。保守派の「人民日報」編集長が書き加えたことは明らかだった。

 この社説は一度新華社が配信したが、党中央が批准した社説の文章が改ざんされたことを知った改革派で宣伝担当の政治局常務委員・李瑞環氏は激怒し、この部分を削除した上で、新華社に再配信させたという(「トウ小平秘録」(参考文献17))。

 1989年から1991年に掛けてのソ連・東欧における民主化の動き(風波)は、当時の中国では、北宋時代の詩人・蘇東坡になぞらえて「蘇東波」と言われていた(中国語ではソ連のことを「蘇聯」と書く)。保守派の陳雲氏は、ソ連・東欧における反社会主義的な動きを武力を使わないで社会主義を崩壊させるという意味で「和平演変」と呼んで批判していた。

 1991年9月25日の「人民日報」には、こういった保守派の主張を背景にした江沢民総書記の言葉「国際敵対勢力は1日たりともわれわれに対する和平演変をやめていない。ブルジョア自由化は彼らが進める和平演変に呼応したものだ。」を太線囲み記事として掲載した。この記事を見たトウ小平氏は、保守派の態度が西側諸国との経済的協力を困難にすることを懸念し、江沢民総書記らに対し「党の基本路線は経済建設が中心だ。反和平演変を語るのは少なくせよ。」と話したという。これを受けて江沢民総書記は直後に開かれた中央工作会議で、自分の言葉を引用した「人民日報」の記事を批判し、「私は反和平演変だけの総書記ではない」と述べたという。トウ小平氏は、こうした発言が揺れ動く江沢民氏に失望していたが、胡耀邦氏、趙紫陽氏に引き続き三代続けて総書記を辞めさせるわけにはいかないと考えていたという(「トウ小平秘録」(参考資料17))。

 年が明けた1992年の春節の時期、トウ小平氏は保守派に対する最後の反撃に出る。トウ小平氏は1月17日、列車で北京を出発し、武漢、深セン、珠海、上海などを回り経済開発の状況を視察し、各地の指導者と話をした。トウ小平氏の南方への視察は、1984年以来8年ぶりだった(1984年春のトウ小平氏の南方への視察については「第4章第1部第2節:改革開放政策下における日中協力の実態(私の経験)」参照)。沿海部の経済発展が進んだ地域を視察して、「やはり改革開放はよい」というのが講話の内容だったが、トウ小平氏は、今回の南方視察は休息が目的である、として講話を報道することを禁じた。トウ小平氏の講話の中には「改革開放に反対する人には眠ってもらうほかはない」といった保守派に対する露骨で厳しい攻撃の言葉もあった。

 トウ小平氏は深センでは工場視察をしたほか、民俗文化村を訪問するなど、幅広く活動した。「報道禁止」の指示は出していたが、香港の目と鼻の先にある深センにおいて、民俗文化村など一般客が多くいる場所への訪問を秘密裏に行うことは困難だった。1992年1月22日、香港の新聞「明報」が深センの民俗文化村を視察するトウ小平氏一行の写真を掲載した。その後、香港発のトウ小平氏の動向に関する報道が世界を駆け巡った。しかし、トウ小平氏は中国国内での報道は許さなかった。

 香港の隣にある深セン市の観光地を視察したら香港の新聞が嗅ぎつけることは始めから予想されていたことである。これは香港の新聞がスクープすることを見越したトウ小平氏の作戦だったのである。「自分は既に引退したのだから黙っている」という格好をしながら、北京にいる保守派に対して外国からの報道を通じて自分の動向と考え方に関する情報を流し、外堀を埋めようという作戦だったのである。1965年11月から1966年7月まで、劉少奇国家主席とトウ小平氏が牛耳る党中央に対し、毛沢東が北京を留守にして上海・杭州・武漢を回り、そこで述べた講話が北京に非公式に流れることによって党中央に圧力を掛けようとした時と同じ作戦、1971年夏に毛沢東が地方を回って講話を行って北京にいる林彪一派にじわじわと圧力を掛けた時と同じ作戦を、今度はトウ小平氏自身が用いたのである。

 経済発展の恩恵を受けていた深セン、珠海、上海等の沿海部の人々は改革開放を讃えるトウ小平氏の講話を歓迎していた。中国が改革開放路線を進めることによってビジネス・チャンスが増える西側各国もそれを歓迎した。2月21日、トウ小平氏は1か月以上にわたる南方視察を終え、北京に帰着した。トウ小平氏は、この時点では既に全ての公職を引退していたから、中国共産党内では形式上ただのヒラ党員でしかなかった。しかし、沿海部の人々の支持と外国からの期待を後ろ盾として、党中央は、2月28日、トウ小平氏の南方での講話を取り上げて、その要点を党の文書として各地の党組織に通達した。3月20日に始まった全国人民代表大会の冒頭、政府工作報告を行った李鵬総理は、トウ小平氏の「南巡講話」の言葉を用いて改革開放政策を推進することを宣言した。実質的にトウ小平氏が「最高実力者」に復帰したのと同じだった。

 中国共産党内にくすぶっていた保守派と改革派の争いはこれで最終的に決着した。これ以降、中国は、保守派の主張に揺れ戻ることはなく、改革開放路線一本槍で、急速な経済成長を遂げることになる。

 既に87歳になっていて、政界引退を宣言してから3年近く経っていたトウ小平氏がこの時点で(1992年春の時点で)強烈な「最後のメッセージ」を出したのには4つの理由があると思われる。

 一つ目は、1991年8月のソ連共産党保守派によるクーデターの失敗と12月のソビエト連邦の崩壊に見られるように、もはや世界は保守的なガチガチの共産主義の原理主義的主張を受け入れる時代ではなくなっており、中国人民もまるで文化大革命時代に戻るかのような保守派路線は欲していなかったことをトウ小平氏はよくわかっていたのである。トウ小平氏には、これ以上保守派の色彩を強めると、ソ連共産党と同じように中国共産党も中国人民からの支持を失うとの懸念があったと思われる。

 二つ目は、上に述べたように、保守派勢力が強くなった1989年と1990年は経済成長が鈍化したことである。中国はまだ貧しく、人民を豊かにするという目標をないがしろにすることはできないし、高い経済成長を持続させて人民を豊かにできないのであれば、共産党は人民から見放される、とトウ小平氏は考えたからと思われる。

 三つ目は、香港返還が5年後の1997年に迫っていたことである。「第二次天安門事件」以降、香港の多くの人々は北京政府の保守化に大きな懸念を持つようになり、中国への復帰を前に香港を脱出する人が増えたほか、残った住民の間でも中国への復帰に反対する運動が強まるおそれがあった。もし香港での「一国二制度」の実現に失敗すれば、「香港モデル」を使って将来台湾統一を図る、というトウ小平氏の構想は根底から崩れてしまう。だから、保守派の勢力を抑え、改革開放路線の継続を鮮明にすることによって、香港住民の中国復帰への支持を繋ぎ止めようとしたものと思われる。

 四つ目は、この年(1992年)の秋には第14回党大会の開催が予定されていたことである。トウ小平氏は、保守派と改革派の論争状態が続いたままで党大会を迎えれば、事態が混乱し、経済建設がさらに遅れるおそれがあると考えていたと思われる。また、秋の党大会で自分の意中の人物を次世代の後継者候補として指名しておくためには、「最高実力者」としての発言権を1992年春の時点で確保しておく必要がある、とも考えたのかもしれない。

 このトウ小平氏による「最後のメッセージ~南巡講話~」の作戦は成功した。「南巡講話」により「第二次天安門事件」で揺らいだ中国の改革開放政策の方針が、また確固たるものとして固まった。そして、この年の秋に開かれた第14回党大会で、保守派の李鵬総理に代わる後継者の国務院総理候補となる改革派の朱鎔基氏、江沢民氏の次の総書記候補となる胡錦濤氏が政治局常務委員入りすることになったのである。(この経緯を見れば、現在の党総書記・国家主席の胡錦濤氏は、トウ小平氏が見込んだ改革派の若手のホープだったことがわかる)。

以上

次回「4-2-4(1/2):国有企業改革と『世界の工場』の実現(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-4b6f.html
へ続く。

|

« 4-2-2:「第二次天安門事件」の後遺症 | トップページ | 4-2-4(1/2):国有企業改革と「世界の工場」の実現(1/2) »

「中国現代史概説」」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 4-2-2:「第二次天安門事件」の後遺症 | トップページ | 4-2-4(1/2):国有企業改革と「世界の工場」の実現(1/2) »