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2010年4月 3日 (土)

3-5-7(1/2):「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第7節:「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(1/2)

 今節で述べる「歴史決議」とは、1981年6月21日に第11期中国共産党中央委員会第6回全体会議(第11期六中全会)で採択された「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」のことである。この決議は「文化大革命は誤りだった」と認め、毛沢東についても「その生涯の晩年において誤りを犯した」と評価し、中国共産党が自らの歴史の一部の誤りを認めるという画期的なものだった。この決議は、一連の改革開放路線決定の総まとめをしたものと位置付けられている。その意味では「歴史決議」は「歴史的決議」でもあるのである。

 私は、1982年7月に中国との通商貿易を担当する職場に着任したが、着任後、上司に真っ先に「読め」と指示された資料がこの「歴史決議」だった。この「歴史決議」を読まずして、その当時の中国を理解することは不可能だったからである。

 この「歴史決議」の採択に至るまでの流れをまず簡単に述べることとする。

 1978年12月18日~22日に開催された第11期中国共産党中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)で、企業や農業生産隊等の経営主体の自主性を重視するとともに外国との経済協力を進めるという「改革開放政策」が決められ、彭徳懐ら文化大革命に至るまでの一連の歴史の中で失脚した指導者の名誉回復が図られた。同時にこの会議では「毛主席が下したすべての決定を、我々は断固支持する。毛主席のすべての指示を、我々は終始一貫守る」という「二つのすべて」を主張し続けた華国鋒氏ら「すべて派」が批判された。「民主の壁」(北京の春)運動で示された一般大衆の声を背景とした党内からの圧力の下、最終的には華国鋒氏自身も自己批判した。トウ小平氏は、華国鋒氏を党中央主席、国務院総理の職に留めながら、華国鋒氏から実質的な権限を奪い、政治運営の実質的な決定権を握ることに成功した。しかし、この第11期三中全会では、文化大革命でトウ小平氏とともに攻撃のターゲットとなった劉少奇元国家主席の名誉回復はなされなかった。トウ小平氏が、この時点ではまだ周辺環境が整っていない、と判断していたためと思われる。

 この時期に復活した有力者の中に習仲勲氏(2007年10月の第17回党大会で党政治局常務委員に就任した習近平氏の父親)がいた。習仲勲氏は1978年4月に広東省党第二書記、翌年には第一書記となり、中央での改革開放政策決定を受けて、広東省での経済政策を進めた。広東省第一書記としての習仲勲氏の一番の悩みは隣接する香港との経済的ギャップの大きさだった。イギリスの植民地・香港は、イギリスから大きなインフラ投資を受けてアジアの重要な自由貿易港として大きく発展していた。隣接する経済発展の遅れた広東省との間では、香港へ逃れる密航者や香港との間の密貿易が後を絶たず、広東省政府にとって大きな悩みの種だった。

 1979年4月に開かれた党政治工作会議で、習仲勲氏は、当時「アジアの四小龍」と呼ばれて経済的発展の著しかった台湾、香港、シンガポール、韓国の現状を参考にして、外国からの投資を受け入れ、税制面での優遇を与え、加工貿易を行うための経済特別区の設置を提案した。既に改革開放路線は決定されていたとは言え、この提案は地域限定で「資本主義的なもの」を受け入れるものであり、会議では異論も出た。しかし、最終的にトウ小平氏が「なかなかいいアイデアではないか。」として、この提案を承認したという(参考資料17:トウ小平秘録)。

 習仲勲氏のアイデアは、翌1980年5月、広東省の深セン(センは「土」へんに「川」)、珠海、汕頭(スワトウ)、福建省の廈門(アモイ)の四つの「経済特区」を試験的に設けることとして正式に党中央の決定となった。この「経済特区」は、外資導入や税制面での優遇を行って加工貿易を主とする工場建設を進める経済特別区域のことを指すが、内陸の特区以外の地域との間の物資や人の流れをコントロールするために、「経済特区」と特区以外の地域の境界線には、あたかも国境線のようなラインが引かれ、そのラインを行き来する人には身分証明書(外国人の場合はパスポート)の提示が求められ、税関のような物資の検査も行われた。このため、「経済特区」と内陸地域との間のラインは、俗に「第二国境線」と呼ばれた(「経済特区」については次節で詳しく述べることとする)。

 農業分野では、1980年になると安徽省党書記の万里氏から、中央の決定を待たずに農民のアイデアで先走って進められていた各戸責任生産制が農業生産向上に有効であるとの報告がなされた(「第3章第5部第5節:改革開放と『四つの基本原則』で終わった『北京の春』」参照)。その他の地域からも同様な報告が相次ぎ、党中央においても、農家の意欲を引き出し、農業生産を高めるために農業における各戸生産責任制を採用すべきとの考え方に傾いていく。農業における各戸責任生産制は、農業は集団で行う、という毛沢東の理想を否定するものだった。

 「経済特区」の設定や農業における各戸責任生産制は、1960年代初期、劉少奇国家主席の下、トウ小平氏が主導して行った「経済調整政策」をさらに一歩踏み込んで進めるものである(「経済調整政策」については「第3章第2部第5節:『大躍進政策』の結果を受けた権力闘争」「第3章第2部第6節:『経済調整政策』に対する毛沢東の反撃」参照)。劉少奇が進めた政策を、今、党中央がさらに一歩進めようとしているのであるから、もはや劉少奇を批判の対象としていた根拠は完全に失われたと言ってよい。こうして1980年2月23~29日に開催された第11期中国共産党中央委員会第5回全体会議(第11期五中全会)において、ついに劉少奇元国家主席の名誉回復が決定された。

 この第11期五中全会においては、汪東興副主席をはじめかつて「すべて派」の有力者だった政治局委員が解任された。そして、この会議では、党中央書記処に総書記の役職が新設され、初代の総書記には胡耀邦氏が就任した。胡耀邦氏は総書記に就任するとともに党政治局常務委員となったが、同時に1975年10月から四川省党第一書記を務め1979年9月に政治局委員になっていた趙紫陽氏も党政治局常務委員に抜擢された。趙紫陽氏は、四川省第一書記時代、農業における生産自主権を下に降ろす「生産責任制」を大胆に進めて食糧増産に成功し、「メシが食いたければ趙紫陽のところへ行け」と言われていた。この業績をトウ小平氏が大いに評価し、趙紫陽氏の抜擢に繋がった、と言われている。

(参考URL)「新華社」ホームページ「新華資料」
「中国共産党第11期中央委員会第5回全体会議公報」(1980年2月29日)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/04/content_2548136.htm

 この会議でも華国鋒氏の党主席と国務院総理の地位は変わらなかったが、かつて「すべて派」と呼ばれていた華国鋒氏に近い人々はことごとく党中央から去り、華国鋒氏は完全に手足をもがれた格好となった。その華国鋒氏は1980年5月に中国の国務院総理としては初めての訪日を果たし、大平総理と会談を行った。この華国鋒氏の訪日に際して、日中科学技術協力協定が締結された。大平総理はその後行われた総選挙の選挙運動の最中に急死したが、華国鋒氏は1980年7月、大平総理の葬儀に参列するため再度訪日している。

(注)私は1980年4月に就職したが、その時の総理大臣が大平正芳氏だった。その大平総理の突然の死が、現職総理の死として、当時の日本の政界に大きな衝撃を与えたのを私はよく覚えている。

 既に孤立無援状態となっていた華国鋒氏は、1980年8月30日から開催された第5期全国人民代表大会第3回会議において、ついに国務院総理を辞任した。後任の国務院総理には趙紫陽氏が選出された。華国鋒氏は依然として党中央主席だったが、党の実務は実質的には中央書記処総書記の胡耀邦氏が掌握しており、華国鋒氏の「主席」の役職は名ばかりのものとなった。トウ小平氏は、こうして、文化大革命時代のような「解任」といった刺激的な策を採らず、真綿で首を絞めるように華国鋒氏から党と政府の実権を奪っていったのである。

 トウ小平氏は、これら劉少奇元国家主席の名誉回復、華国鋒氏ら「すべて派」からの完全な権力の奪取、実務的な改革開放政策の進展を通して、「文化大革命の否定」のための周辺環境を整えつつ、党の決定として文化大革命に対する評価(毛沢東に対する評価も含む)を明文化する「歴史決議」の策定作業を進めていくのである。

 1980年8月21日、イタリア人女性ジャーナリストのオリアナ・ファラチ氏がトウ小平氏に対するインタビューにおいて「中国人が四人組を語る時、五本の指を立てると聞いたが」と質問している。「五本目の指」とは、文化大革命を発動した毛沢東のことを指す。トウ小平氏は、笑いながら「毛主席の過ちと四人組の罪を区別しなければならない。毛主席は功績第一で、過ちは第二だ。」と答えたという(「参考資料17:トウ小平秘録」)。

 文化大革命に対する評価を定めるためには「四人組の罪」を確定する必要がある。そのため、林彪墜落死事件に関与した林彪の側近6人と「四人組」(江青、張春橋、姚文元、王洪文)に対する裁判が1980年11月20日から始まった(いわゆる「林彪・四人組裁判」)。この裁判では、1981年1月25日、江青と張春橋に死刑(2年の執行猶予付き、後に無期懲役に減刑)、姚文元に懲役20年、王洪文に無期懲役の判決が言い渡された。この裁判では江青らが喚(わめ)く場面がテレビで放映されたりした。政治的効果を狙った裁判だったと言えるが、江青が主張した「自分たちは毛主席の指示に従っただけだ」との主張は、ある意味では正しいものだった。

 この「四人組裁判」において毛沢東が裁かれなかったことについては、昭和天皇が裁かれなかった「東京裁判」と比較する人もいる。しかし「主体的な決定権限を持っていたか」という点においては、昭和天皇よりも毛沢東の方が大きな判断権限を持っていたことは客観的に言って明らかであろう。また、文化大革命の最後の半年、党を取りまとめ「第一次天安門事件」の処理に当たった華国鋒氏もこの裁判では裁かれなかった。「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、華国鋒氏については、この当時、「四人組裁判において華国鋒氏の責任や1976年4月の『第一次天安門事件』について触れない」ことと引き替えに、華国鋒氏が党主席を辞任するとの「政治的取引」が行われていた、という。

 いずれにせよ「四人組裁判」により、文化大革命の評価を定めるための「外堀を埋める作業」は全て終わった。

以上

次回「3-5-7(2/2):「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-380e.html
へ続く。

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