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2010年4月 4日 (日)

3-5-7(2/2):「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第7節:「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(2/2)

 これまで述べてきたような外的環境の中、ついに1981年6月、第11期六中全会において「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」(「歴史決議」)が採択された。

(参考URL)「新華社」ホームページ「資料」のページ
「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」
(1981年6月27日中国共産党第11期中央委員会第6回全体会議で採択)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2002-03/04/content_2543544.htm

 この「歴史決議」は、次のような構成で成り立っている(項目の頭の番号と( )内の年号は、わかりやすいように私が付けたもの)

I. 建国以前の28年間の歴史の回顧(1921年~1949年)

II. 建国以来32年間(1949年~1981年)の歴史の基本的評価

 (1) 社会主義改造を基本的に完成させた最初の7年(1949年~1956年)

 (2) 全面的な社会主義建設を開始した10年(1956年~1966年)

 (3) 「文化大革命」の10年(1966年5月~1976年10月)

 (4) 歴史的な偉大な転換(1976年10月~)

III. 毛沢東同志の歴史的地位と毛沢東思想

IV. 団結して社会主義近代化強国の建設へ向けて奮闘しよう(まとめ)

 この決議の最初に「建国以前の28年間の歴史の回顧」が入ったのは、建国前の時期における毛沢東の評価を加えることにより、全体として毛沢東を肯定的に評価できるようにしようという陳雲副主席の提案によるもので、その提案にトウ小平氏が即座に同意したためという(参考資料17:トウ小平秘録)。

 まず「建国以前の28年間の歴史の回顧」では、毛沢東の指導により、中国共産党が日本軍との戦いに勝ち、国民党との間の国共内戦に勝利して、中華人民共和国が成立されたことを述べて、毛沢東の功績を讃えている。

 「社会主義改造を基本的に完成させた最初の7年」では、共産党と共産党の指導に基づく他の民主政党との協力(いわゆる「新民主主義」)によって、建国が進められたことが述べられている。

 「全面的な社会主義建設を開始した10年」では、毛沢東と中央・地方の少なくない指導者が「大躍進」と人民公社化運動の中で「左」の誤りを犯した、と指摘している。また、毛沢東は、1959年7月の廬山会議後、誤って彭徳懐を批判し、全党を挙げて誤って「反右傾化闘争」を展開した、と指摘している。そしてこの「大躍進」と「反右傾化闘争」の誤りにより、1959年~1961年に掛けて「生産の重大な困難を招き、国家と人民に重大な損害を与えた」としている(この時期、農業生産の減退等により数千万人単位の餓死者が出たことについては「第3章第2部第3節:大躍進政策と人民公社の成立」参照)。この時期について、この「歴史決議」では、「毛沢東同志に主要な責任があるが、しかしこの誤りを毛沢東同志個人の誤りとしてとがめることはできない」として党中央指導部全体にも責任があったことを明確に指摘している。

 「文化大革命」については「『文化大革命』の10年」の部分で明確に評価している。この「歴史決議」における「文化大革命の評価」をまとめると以下のとおりである。

○「文化大革命」は、党、国家及び人民に対して建国以来最も重大な挫折と損失を与えた。

○この「文化大革命」は、毛沢東同志が発動し、指導したものである。

○「文化大革命」の経緯が証明しているところを見れば、毛沢東同志が発動した「文化大革命」の主要な論点は、マルクス・レーニン主義に合致していないし、中国の現実とも符号していない。「文化大革命」における当時の我が国の階級の状況及び党と国家の政治状況に対する評価は、完全に誤りだった。

○「文化大革命」の全局面における長期間にわたる「左」の重大な誤りに対しては、毛沢東同志が責任を負わなければならない。ただ、毛沢東同志の誤りは偉大なプロレタリア階級革命家としての誤りであったと言うべきで、毛沢東同志は常に党と国家の欠陥を注意深く克服してきたが、その晩年における多くの問題について「文化大革命」の混沌の中で是非と敵味方の正確な分析ができなかったのである。

○毛沢東同志は、林彪反革命集団を粉砕する闘争で指導的役割を果たしたし、「四人組」が最高指導権力を奪取しようと野心を抱いた時もそれを阻止した。それは、後年、我々が「四人組」を粉砕するために重要な役割を果たした。

 続いてこの「歴史決議」では「歴史的な偉大な転換」の部分で、華国鋒氏についても次のように指摘している。

「華国鋒同志は、江青反革命集団を粉砕する闘争の中で功績があったが、その後『二つのすべて』という誤った方針をなかなか直さず、天安門事件を含む歴史上の誤った評価をした事件に関与した幹部の名誉回復を遅らせた。また、華国鋒同志は古い個人崇拝を維持すると同時に、自分に対する個人崇拝を作ろうとした。1977年8月の第11回党大会においては、『四人組』批判を掲げ、社会主義近代化を図ろうとしたのに、この華国鋒同志の誤りにより『文化大革命』の時の誤った理論や政策・スローガンを重ねて肯定してしまった。」

 この「歴史決議」の「毛沢東同志の歴史的地位と毛沢東思想」の部分では、「『文化大革命』の中で重大な誤りを犯したとは言え、一生を通じて見れば、毛沢東同志の中国革命における功績はその過失を大きく超えている。毛沢東同志は、功績が第一であり、誤りは第二である。」として全体としては毛沢東をプラスに評価すべきである、と指摘している。

 この「歴史決議」については、トウ小平氏が主体的に係わったとされる1957年の「反右派闘争」に対する批判が弱い、といった批判はあるものの、総体的に見れば、極めて客観的で、タブーを作ることなく、冷静に中国共産党の歴史を振り返り、現在の目で見ても自己批判すべきところは率直に自己批判していることは評価できると私は考えている(1957年の「反右派闘争」については「第3章第2部第2節:反右派闘争」参照)。この「歴史決議」の採択により、「文化大革命」に対して完全に「けじめ」が付き、改革開放路線の基本的考え方が党の決定として正式に確定した、と言える。

 この「歴史決議」を貫く精神は、毛沢東が繰り返し述べ、トウ小平氏が何回もそれを引用していた「実事求是」(事実に基づいて真理を追究する)だった。私が1982年7月~1984年9月、中国との通商貿易に係わる仕事をし、その後、1986年10月~1988年9月、北京に駐在していた1980年代の中国では、一貫してこの「歴史決議」の精神が底流を流れていたと私は思っている。個人崇拝を否定し、タブーなく議論し、誤りは率直に誤りだと認め、直すべき点は率直に是正する、それが「歴史決議」の基本理念、即ち「改革開放政策の原点」であり、1980年代の中国の底流にあった考え方だった(もっとも1980年代においても「『四つの基本原則(特に中国共産党による指導)』を否定すること」はタブーだったが)。

 2007年4月、私が再び北京で駐在を開始した時、この1980年代にはあった「改革開放路線の原点」が失われていることを強く感じた。端的に奇異に感じたのは、今の人民元のお札に印刷されている肖像が全て毛沢東であることである。「歴史決議」で確定した改革開放路線は、個人崇拝を否定し、毛沢東の誤りを認めたことから出発している。そのため、1980年代、当時まだ各地に残っていた毛沢東像は次々に撤去されていった。建国の功労者として毛沢東の肖像は天安門に掲げ続けられてきているが、それ以外の個人崇拝を助長するような毛沢東像は改革開放路線にそぐわなかったからである。

 従って、1980年代のお札では毛沢東像が使われることはなかった。1980年代に使われていたお札に印刷されていた肖像は、各民族人民や農民・労働者・知識分子といった一般人の肖像だった。誰でも知っている有名人の肖像でないと、「偽造をすぐに見破れないようにする」というお札に使うべき人物肖像に求められる機能から来る問題から誰もが知っている毛沢東の肖像を使った、ということなのだろうが、「改革開放路線=毛沢東がすべてだという『すべて派』の否定」という認識のある私にとって、現在のように「すべて」のお札に毛沢東の肖像が印刷されている状況は、改革開放路線の原点を否定しているかのように感じたのだった。

 さらに2009年10月の中華人民共和国成立60周年の式典の様子を伝えるテレビのニュースを見て、私は目を疑った(この時点では、私は既に2回目の北京駐在を終えて日本に帰国していた)。天安門前を行進するパレードにおいて、毛沢東主席、トウ小平氏、江沢民前国家主席、胡錦濤現国家主席の大きな肖像を掲げて行進が行われていたからである。それはまるでソ連時代のモスクワや北朝鮮のピョンヤンを思わせるような光景だった。あの近代化された1980年代から30年が経過した21世紀の中国の光景だとは思えなかった。トウ小平氏は、「歴史決議」で明確に指摘しているように、個人崇拝を否定していた。従って、トウ小平氏が生きていれば、こういった過去及び現在の指導者の大きな肖像を掲げてパレードを行うことなど許さなかったはずである。

 後に述べることになるが、個人崇拝は、江沢民政権になってから、中国共産党に対する求心力の「よりどころ」として徐々に復活させたものである。第二次天安門事件以降、毛沢東主席、トウ小平氏といった指導者のカリスマ性を用いなければ、中国共産党に対する「権威付け」をすることが難しくなったからである。現在の胡錦濤主席が個人崇拝についてどう考えているのかは明確ではない。

 また、2007年4月に私が2度目の北京駐在を開始した際にもうひとつ奇異に感じた点は、インターネットのアクセスにおいて「タブー」が存在していることである。北京オリンピックの開催を通じて、一時的にインターネットにおけるアクセス制限などはだいぶ緩和されたが、それでも今でもネット上では多くの「タブー」が存在している。最も象徴的なのは「第二次天安門事件」が、今、まだ完全な「タブー」となっていることである。この点は2010年3月にグーグル社が中国大陸部における検索事業から撤退したことで、改めて世界の注目を集めた。インターネットにおける「タブー」の存在は、「タブーなく議論し、誤っていたところは率直に正す」という「改革開放路線の原点」に反するものだと私は考えている。そういった状況を考えれば、中国が1980年代には確かに存在していた「歴史決議」の掲げた「改革開放路線の原点」から逸脱したのは、やはり1989年6月の「第二次天安門事件」がきっかけであることは明らかである。

 上に述べたように「改革開放路線の原点」、即ち1981年6月の「歴史決議」の根本精神は、「実事求是」(事実に基づいて真理を追究する)である。実は、それは現在の胡錦濤主席が掲げる「科学的発展観」と基本的には同じ考え方である。だから、私は現在の胡錦濤主席はこの「歴史決議」で示された「改革開放路線の原点」に回帰しようと努力している、と感じている。しかし、「『改革開放路線の原点』への回帰」は、「改革開放路線の原点からずれていた時代」、即ち江沢民氏が政権を担っていた時代に対する批判をも意味するから、江沢民氏の影響力がまだ相当に残っている現在の中国の政治状況においては、それはそう簡単なものではないと思われる。

以上

次回「4-1-1:具体化する改革開放政策とまだ残る『文革のしっぽ』」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-d9eb.html
へ続く。

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