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2010年4月24日 (土)

4-2-1(2/2):東欧・ソ連革命(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第1節:東欧・ソ連革命(2/2)

 1968年に「プラハの春」を経験していたチェコスロバキアでは、「ベルリンの壁」崩壊の後、市民の民主化運動が活発化し、1989年12月に自由選挙が行われて、1977年に人権擁護を求める「憲章77」を発表したハヴェル氏が大統領に選出され、共産党政権は流血の事態なく退陣した(これを「ビロード革命」という)。なお、チェコスロバキアは、この後、話し合いにより1993年1月1日をもってチェコとスロバキアに平和裡に分離した。

 ポーランドでは1989年6月に行われた選挙で自主管理労組「連帯」が勝利し、「連帯」の幹部も加わった政権運営がなされた。その後、1990年12月に行われた選挙では、「連帯」のリーダーだったワレサ氏が大統領に選出され、統一労働者党による一党支配時代は平和裡に終了した。

 既に複数政党制になっていたハンガリーでは、1990年に行われた自由選挙で非共産党系の「民主フォーラム」が勝利し、実質的にも共産党政権が終了した。

 東ヨーロッパにおける1989年の動きの中で唯一流血の事態になったのはルーマニアである。ルーマニア共産党書記長で大統領のチャウチェスク氏は、ベルリンの壁崩壊後も民主化を求める国民の動きを武力で弾圧した。1989年12月21日、チャウチェスク氏は自分を支持する官製集会を開いたが、そこに動員されて集まった民衆は口々にチャウチェスク氏に対する非難を叫び始め、官製集会は反チャウチェスク集会への転化した。チャウチェスク氏は、軍に国民の反対運動を鎮圧するよう指示したが、軍はこれに反発し、チャウチェスク氏を支持する秘密警察と反チャウチェスク派の軍隊とが衝突した。この衝突で多数の死傷者が出た。チャウチェスク氏は夫人とともに国外脱出を計画したが、実権を握った反チャウチェスク派の「救国戦線」が12月22日にチャウチェスク夫妻を逮捕した。「救国戦線」は、12月25日、チャウチェスク夫妻を裁判に掛け、即刻死刑の判決を下し、そのまま処刑した。処刑の場面は、テレビで全ルーマニアに放映された。

 このような動きの中、ソ連のゴルバチョフ書記長は、1989年12月2~3日、アメリカのブッシュ(父親)大統領と地中海のマルタ沖の船上で会談し、冷戦の終結を宣言した。

 上記のように東ヨーロッパ諸国は次々に非共産主義政権に移譲していったが、ゴルバチョフ氏は、ソ連国内では、ソ連共産党による政権の維持に自信を持っていた。ゴルバチョフ氏は、ソビエト連邦内部の引き締めを図るため、ソビエト連邦大統領の職を創設し、1990年3月、自らそれに就任した。ゴルバチョフ大統領は、東ヨーロッパは「外国」であるからソ連が各国それぞれの動きに介入することはしない、と宣言していたが、ソビエト連邦の内部に対してはそういう方針は採らず、ソビエト連邦の解体は断固として阻止するつもりだった。しかし、東ヨーロッパ諸国の動きは、ソ連内部の各共和国へも及んだ。最も鋭敏に反応したのはバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)だった。

 バルト三国はもともとロシア帝国に支配されていたが、ロシア革命の後、独立していた。しかし、独ソ不可侵条約基づき、1939年9月のナチス・ドイツがポーランドに侵攻し(第二次世界大戦の開始)、ナチス・ドイツがポーランドの西半分を支配下に置くとともにソ連がポーランドの東半分に進駐すると、その勢いを持って、ソ連はバルト三国をソビエト連邦の中に併合した。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの独ソ不可侵条約破棄によりナチス・ドイツとソ連は激しく戦ったが、その過程で、両国によるバルト三国の争奪戦が行われた。ナチス・ドイツが第二次世界大戦で敗れると、戦後はバルト三国はソ連内部の共和国としてソビエト連邦の中に留まることになった。しかし、バルト三国では、民族的にはロシア人は少数派であり、ソ連からの離脱を指向する動きがその後もくすぶり続けていたのである。

 東ヨーロッパでの改革とベルリンの壁の崩壊を受けて、まず、1990年3月、リトアニアがソ連から離脱して独立を宣言した。しかし、ソ連のゴルバチョフ氏はこれを認めなかった。

 一方、ソビエト連邦の中の最大の共和国であるロシア共和国でも問題が発生する。1990年5月、民主化を掲げるエリツィン氏がロシア共和国最高会議議長に就任したのである。エリツィン氏は、ゴルバチョフ氏が進めるペレストロイカによっても経済を立て直すことが全くできていなかったことから、共産党が政権を担当することはもはや無理だと考えていた。全く考え方の違う政治家であるエリツィン氏がソ連最大の共和国であるロシアのトップになったのは、ゴルバチョフ大統領にとって政治的に脅威となった。ソ連共産党によるソ連の維持を主張するゴルバチョフ氏に対し、エリツィン氏は1990年7月にはソ連共産党を離党すると宣言し、共産党に見切りを付けた。

 そうした中、1990年8月2日、フセイン大統領が率いるイラク軍がクウェートに侵攻し、クウェートを占領した。イラクはかつてソ連の同盟国だったが、この時、ソ連はアメリカなどの世界各国と協調して、国連安全保障理事会でイラクのクウェート侵攻を非難する決議に賛成した。クウェートは、1991年1月17日に始まった国連決議に基づくアメリカ軍を中心とする多国籍軍による攻撃(湾岸戦争)で、イラクの占領から逃れ、独立を回復した。ソ連は多国籍軍には参加しなかったが、国連決議には賛成しており、国際的にはソ連はもはやアメリカの敵ではなくなったことが明らかとなった。

 国際的には評価の高かったゴルバチョフ氏であるが、国内での政権運営は困難を極めた。ゴルバチョフ大統領は、独立を要求するバルト三国に対し、ソ連からの離脱を断念するよう働きかけたが、三国とも独立の意向は変えなかった。また、ソ連国内の経済は日に日に悪化し、国民のゴルバチョフ氏に対する不満は高まった。逆に「何かをやってくれるかもしれない」との期待がエリツィン氏の人気を高めた。ゴルバチョフ氏は、ソビエト連邦の維持と経済の立て直しを図るため一部の共産党保守派勢力との妥協を図った。それに抗議して、グルジア出身で改革派のシュワルナゼ外相は「独裁が近付いている」と警告して、1990年12月、突如辞任した。改革の盟友を失ったゴルバチョフ氏は、保守派を政治局に入れて、政権を維持するほかはなかった。

 共産党保守派勢力が強くなったソ連政権は、ソビエト連邦の崩壊を阻止するため、バルト三国に対して強硬路線に出る。1991年1月、圧力を強めたソ連軍の下で、リストニア共和国政府とソ連軍との間で軍事衝突が起き、14名の死者と数百人の負傷者が出る事態が発生した。軍事的圧力なしにソビエト連邦を維持することは困難な状況になりつつあった。

 1991年になってもソ連の経済は好転しなかった。国際的には人気の高かったゴルバチョフ大統領は、外国を訪問するたびに西側諸国に対しソ連経済への援助を要請していた。政権内で発言権を増していたソ連共産党保守派は、そういったゴルバチョフ大統領に対して危機感を持つようになる。ゴルバチョフ大統領は、国民の人気を背景にして政治的発言権を強めるエリツィン氏との妥協を図るため、1991年8月20日をもってソビエト連邦内にある共和国の独立性を認めた上で、ソ連大統領による外交、軍事政策の下で連合することを約するという新しい連邦条約に署名することに合意していた。

 1991年8月中旬、ゴルバチョフ大統領(ソ連共産党書記長)は、クリミア半島の避暑地で休暇を過ごしていた。政権内にいたソ連共産党保守派は、新連邦条約はバルト三国の独立を承認し、ソ連の解体を進めることになるとして、新連邦条約に反対していた。ソ連共産党の保守派幹部は、8月18日の夕方、クリミア半島に滞在中のゴルバチョフ大統領に会い退陣を要求したが、ゴルバチョフ氏はこれを拒否した。そのため保守派はゴルバチョフ大統領をこのクリミア半島の別荘の中に軟禁した。そして保守派は、8月19日早朝、「国家非常事態委員会」の発足を宣言し、「ゴルバチョフ大統領は病気となったためヤナーエフ副大統領が職務を引き継ぐこととなった」との声明を発表した。また、「国家非常事態委員会」はソ連軍に出動を命じ、放送局やロシア連邦共和国ビル(通称「ホワイト・ハウス」)を占領するよう指示した。明らかなソ連共産党保守派による反ゴルバチョフ・クーデターだった。

 戦車の出動に驚いたモスクワ市民は次々にホワイト・ハウスの周辺に集まって、戦車の進軍を阻止しようと試みた。エリツィン氏は「国家非常事態委員会」の動きは憲法に違反する不当なものだと主張して、大勢の市民とともにホワイト・ハウスへ向かった。ホワイト・ハウスへ向かっていたソ連軍の戦車に乗っていた兵士たちは、圧倒的な数の市民の動きを前にして「国家非常事態委員会」の命令に従わないことを決め、戦車を進めるのを止めた。このソ連軍兵士の決定にモスクワ市民は歓呼をもって応え、戦車の大砲の銃口に花束を差して、兵士たちの勇気ある判断を讃えた。この時、CNNのドキュメンタリー「Cold War」(映像・音声資料4)に登場した年老いたモスクワ市民の女性は、「市民の側に立った我がソ連軍の兵士を誇りに思う」と涙を流して語っていた。

 エリツィン氏は、「ホワイト・ハウス」の前に停止した戦車の上によじ登って、市民に向けて演説し、「国家非常事態委員会」の動きを非難し、ゴルバチョフ氏を救出することを宣言した。この映像は世界に配信されたが、この映像を見て、私は「現在の政治家は、こういった『テレビ向けのパフォーマンス』ができることが重要だ」と強く感じたのを今でも覚えている。一方「国家非常事態委員会」を形成する保守派のメンバーもテレビ・カメラの前で記者会見をしたが、発言の内容が強気なものであったにもかかわらず、彼らの態度は何となく落ち着かず、あるメンバーはクーデターが失敗に終わるかもしれないという恐怖のためか手が震えていた。テレビの画面を見ているだけで、クーデターの成否は明らかだった。

 8月20日、多くの市民によるデモ、ストライキが発生し「国家非常事態委員会」に対するソ連国民の非難は高まった。「国家非常事態委員会」の命令に従う一部の軍隊と市民との間で衝突も発生し、3名の死者が出たほか、多数の負傷者が出たと言われている。

 8月21日、軍の大半は「国家非常事態委員会」と距離を置く判断をした。保守派はクーデター続行は不可能と判断し、ゴルバチョフ氏との話し合いを申し出た。同日エリツィン氏は、クリミア半島にゴルバチョフ氏救出のための飛行機を飛ばし、8月22日未明、ゴルバチョフ氏はモスクワに帰還した。モスクワに戻ったゴルバチョフ氏が記者会見する様子をテレビの生放送で見たことを私はよく覚えている。

 ゴルバチョフ氏は、テレビ・カメラの前で、クーデターが発生してから救出されるまでの72時間をソ連国民と全世界に向けて率直に話した。ゴルバチョフ氏は、外界と完全に通信が断絶された状態で軟禁されている間、アンテナを張ってラジオでBBCやVOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)を聞いて情報を集めていた、と語っていた。軟禁中、誰も話し相手がいない中、ゴルバチョフ氏は死をも覚悟して、ホーム・ビデオ・カメラに向かって「遺言」を語り、録画した(この録画された「遺言」は、CNNのドキュメンタリー番組「Cold War」の中で使われている)。私は、ゴルバチョフ氏の記者会見の直後、FEN(日本でアメリカ軍により放送されているラジオ放送)でブッシュ大統領(父親)のコメントを放送しているのを聞いた。私は、まさにテレビと放送メディアにより、世界がリアルタイムで繋がっていることを改めて実感した。

 このクーデターでゴルバチョ氏は負けはしなかったが、ゴルバチョフ氏救出に尽力したエリツィン氏の政治的求心力は一気に高まった。また、ソ連共産党保守派によるクーデターの失敗は、ソ連国民のソ連共産党に対する信頼を完全に失墜させた。このクーデター失敗の直後、バルト三国のうち既に前年に独立を宣言していたリトアニアに続いて、ラトビアとエストニアも独立を宣言した。ゴルバチョフ氏自身も、8月24日にはソ連共産党書記長を辞任し、自らソ連共産党の解散を勧告した。ゴルバチョフ氏は、ソビエト連邦大統領の職には留まっていたが、9月に入り、ゴルバチョフ大統領もバルト三国の独立を承認した。

 ゴルバチョフ大統領は、なおも連邦の維持に努めようとしたが、最終的にウクライナが連邦維持を拒否して独立することを宣言し、12月8日にはロシア、ウクライナ、ベラルーシのソ連内部の三つの大きな共和国が独立国家共同体(CIS)を設立することで合意した。ロシア共和国のエリツィン大統領は、この三つの共和国の合意成立についてゴルバチョフ・ソビエト連邦大統領より先にアメリカのブッシュ大統領に連絡したという。ゴルバチョフ大統領は激怒したが、このことはもはやソビエト連邦が有名無実の存在となったことを示していた。三つの共和国に引き続き、ソ連内のほかの共和国も相次いでCISに加盟した。12月23日、ゴルバチョフ氏はエリツィン氏と会談し、ソ連大統領を辞任することに合意した。

 1991年12月25日、ゴルバチョフ大統領は、ソ連大統領職としての最後の仕事としてアメリカのブッシュ大統領に挨拶の電話をし、大統領を辞任した。その日、モスクワのクレムリンからソ連国旗が降ろされ、ソビエト社会主義共和国連邦は消滅した。ブッシュ大統領はこの日、国民に向けたクリスマスのテレビ演説の中で、長きにわたって続いてきた米ソ対立がこの日完全に終了したことを告げた。

以上

次回「4-2-2:『第二次天安門事件』の後遺症」
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へ続く。

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