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2010年4月23日 (金)

4-2-1(1/2):東欧・ソ連革命(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第1節:東欧・ソ連革命(1/2)

 ここで中国の動きを離れてこの頃の東ヨーロッパとソ連の動きを見てみよう。というのは、「第二次天安門事件」以後の東ヨーロッパとソ連の動きを見てみれば、トウ小平氏が何を恐れて武力による民衆の弾圧を敢えて実行したのかがある程度理解できるからである。トウ小平氏は、極めて先読みのできる政治家であり、もし民主化を求める大衆の動きをそのまま放置すれば、中国共産党による支配体制が崩壊するのはもちろん、中国という国家自体が分裂・崩壊しかねない、と恐れていたものと思われる。果たせるかなトウ小平氏が恐れていた事態が、「第二次天安門事件」の後、社会主義の祖・ソ連で起きることになる。

 ゴルバチョフ書記長と趙紫陽氏は、たぶん同じような考え方を持っており、共産党による支配体制内での改革を進めることで民衆の支持を繋ぎ止めることは可能であり、改革を進めることによってこそ、共産党による支配の長期継続を図ることができると考えていたに違いない。しかし、この後、ソ連が歩んだ道を見てみれば、ゴルバチョフ書記長の見通しが甘かったことがわかる。

 ゴルバチョフ書記長がソ連の中で改革を進めるとともに、東ヨーロッパ諸国に対しては、内政に干渉しない、という態度を表明したことから、東ヨーロッパ諸国では、それぞれの国ごとの事情に応じた改革が進められてきたことはこれまでも述べてきた。「第二次天安門事件」が起きた1989年6月の時点で、ハンガリーでは改革派が政府の主導権を握り、ハンガリー・オーストリア国境における違法越境者に対しても強硬な手段は取らないようになったこと、ポーランドにおいては、ポーランド統一労働者党のヤルゼルスキー第一書記が反体制派の自主管理労組「連帯」との対話路線へ転じていたことも、既に述べた。ヤルゼルスキー第一書記は「連帯」も含めた様々の勢力とポーランドの将来について議論する「円卓会議」を開催していた。「円卓会議」の議論により、ポーランドでは6月に自由選挙が行われることが決まっていた。

 違法越境者に対する強硬手段を停止したハンガリーは、1989年5月になって、オーストリアとの国境に張り巡らされていた鉄条網を撤去した。こうして、1946年にイギリスのチャーチル首相が「鉄のカーテン」と呼んだ東側諸国を囲っている囲いの一部が物理的になくなったのである。

 東ヨーロッパでこうした状況が起こっている中、北京での「第二次天安門事件」は起きた。この事件は、多くの西側報道陣によって、映像として世界に伝えられたことから、世界全体に大きな衝撃を与えた。特に東ヨーロッパの人々に対しては、「共産党による支配がとことんまで追い詰められると大変な流血の惨事が起きる」との印象を与えたに違いない。「第二次天安門事件」は、その頃底流に流れつつあったソ連と東ヨーロッパの人々の気持ちの中の「共産党離れ」を急速に加速させた可能性がある。

 「第二次天安門事件」が起きた1989年6月4日は日曜日で、ポーランドで戦後初の自由選挙が行われた日でもあった。時差の関係で、この日の未明、北京で起きた事態は、ポーランドでも選挙の投票が始まる前に報道されたと思われるが、「第二次天安門事件」がポーランドの選挙結果に直接的にどの程度影響を与えたのかはわからない。いずれにしても、このポーランドの選挙では、非共産党系の自主管理労組「連帯」が圧倒的な勝利を収めた。

 中国の「第二次天安門事件」の映像が東ヨーロッパ諸国の国民に具体的にどの程度の影響を与えたのかは定かではないが、少なくともこの頃の東ヨーロッパとソ連における政治の動きにおいては、テレビの影響が非常に大きかった、と言われている。この頃、ヨーロッパ大陸では衛星テレビ放送がかなり普及しつつあり、パラボラ・アンテナと衛星放送受信機があれば、他の国のテレビ放送でも簡単に受信できるようになっていたからである。国によって異なるが、多くの国ではゴルバチョフ書記長が進めるグラスノスチ(情報公開)政策により、衛星受信機の所持制限のような規制は緩和されつつあった。西側のテレビ放送を簡単に受信できるようになった東側の人々は、西側の豊かな経済と自由な文化に直接触れることができ、それに強く憧れるようになった。それが東ヨーロッパとソ連の歴史を大きく進めることになる。

 この衛星テレビが社会に与えた影響については、衛星放送開始当初から認識されていた。日本のNHKのBS放送は1987年6月に試験放送開始、「第二次天安門事件」直前の1989年6月1日に本放送を開始したが、BS本放送開始の頃の衛星放送普及のためのNHKのキャッチ・コピーに「衛星テレビは世界を変えた。人類は確かに進歩した。」というものがあった。東ヨーロッパ情勢を念頭に置いた時、私は、このコピーを聞いて実感を持って「そのとおりだ」と思ったことを覚えている。

 ハンガリー政府によるハンガリー・オーストリア国境の鉄条網の撤廃は、ハンガリー人のオーストリア経由での西側への渡航制限を大幅に緩和したことにより、国境での鉄条網の存在意義がなくなったから行われたのであった。この頃、東ドイツのホーネッカー国家評議会議長率いるドイツ社会主義統一党の政権は、以前のソ連のような秘密警察を使った国民に対する締め付け政策を続けていた。厳しい監視の目を逃れて西ドイツへ行きたいと考えた東ドイツ国民は、ハンガリー・オーストリア国境経由で西側へ逃れることを期待して大量にハンガリーに旅行するようになった。このため自国民のハンガリー経由での流出を懸念した東ドイツ政府は、ハンガリーへの渡航にも制限を掛けるようになった。そうなると、東ドイツ国民は、ハンガリーと東ドイツの中間にあるチャコスロバキアへ行き、プラハにある西ドイツ大使館に亡命申請を行うようになった。

 1989年の夏休みの旅行シーズン、休暇旅行の名目でチェコスロバキアを訪れた多数の東ドイツ国民が、プラハの西ドイツ大使館周辺に亡命申請手続きするために集まった。あまりに多数の東ドイツ国民が集まり手続きが間に合わなくなったことから、待ちきれない東ドイツ国民の中には庭の柵を乗り越えて西ドイツ大使館の中庭に侵入する者が相次いだ。やがてプラハの西ドイツ大使館の中に入り込んだ東ドイツ国民の数は7,000人に達し、プラハの西ドイツ大使館の中庭は、さながら難民キャンプのような様相を呈するようになった。

 夏の暑さの中、多数の人々が集まって健康上の問題が発生することも懸念されたことから、西ドイツ政府は人道的立場から善処するよう東ドイツ政府と交渉を行った。ゴルバチョフ書記長のソ連は、各国は各国のやり方で社会主義を進めるべき、という態度であり、もやはソ連は東ドイツのホーネッカー政権の後ろ盾としては動かなかった。人道的立場からの国際社会からの圧力もあり、東ドイツ政府は、東ドイツ国籍を取り消すことを条件に、プラハの西ドイツ大使館に集まっていた人々の西ドイツへの出国を認めた。人々は喜んで東ドイツ国籍を証明する身分証明書を東ドイツ当局に突き返して、西ドイツへ出国していった。

 ハンガリー、ポーランドの例やプラハの西ドイツ大使館に集まった東ドイツ国民に対する国際社会からの圧力の前にソ連が介入しなかったことを見て、東ヨーロッパ諸国内における民主化の動きにソ連が介入しないことが明確になった。このため、9月になると、東ドイツ国民の中には、西側へ逃れるのではなく、東ドイツに留まって政府に改革を要求しようと考える人が増え始めた。まず東ドイツ国民にとって最も切実な具体的要求は、西側への旅行証発給手続きの緩和だった。

 東ドイツのライプチヒの聖ニコライ教会では、毎週月曜日に教会の集会が持たれていたが、教会での集会に集まる人々は旅行証発給手続きの緩和を求め、教会は次第に政治的な運動を行う場に転化していった。人々は毎週月曜日の夜の集会が終わると、街を一周するデモ行進を行うようになった(「月曜デモ」)。ライプチヒ市当局は、デモに対する警官隊による警戒を強めたが、月曜デモは週を追うごとにその規模を拡大させていった。

 こうした中、1989年10月7日、ソ連のゴルバチョフ書記長が東ドイツ建国40周年記念式典に出席するため東ドイツを訪問した。東ドイツ当局は、建国40周年を祝うスローガンを叫ばせるため大衆を動員した。集まった大群衆の前に出てきたホーネッカー議長とゴルバチョフ書記長の二人に対して、東ドイツ国民が上げた声は東ドイツ建国40周年を祝う言葉ではなく、「ゴルビー!ゴルビー!」というシュプレヒコールだった。この「ゴルビー!ゴルビー!」という東ドイツ国民の叫び声は、ホーネッカー議長の退陣を要求していることは明らかだった。この東ドイツ訪問時、ゴルバチョフ書記長はホーネッカー議長と3時間に渡り会談し、改革を進めるよう説得したが、ホーネッカー議長は頑としてそれを拒んだという。

 2日後の10月9日は月曜日だった。この日もライプチヒの教会では月曜集会が開かれていた。ベルリンでの人々の「ゴルビー!」コールを受けて、ライプチヒのこの日の「月曜デモ」には多数の市民が参加することが予想された。ライプチヒ市当局は、治安部隊のデモ隊鎮圧の準備をさせて待機させた。

 この日、ソ連政府はベルリンのソ連大使館を通じてライプチヒ周辺にいるソ連軍に対して「全ての活動を停止して静穏を保ち、いかなる事態が発生しても介入しないように」という指示を与えていた。この日、街頭に繰り出したライプチヒ市民は7万人に達した。やがて大規模な「月曜デモ」が始まった。市内は一触即発の緊張感が高まった。ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者クルト・マズア氏ら市民に人望のある有力者たちは、市当局に対して声明を出し、流血の事態は避けるよう要請した。市当局は、これら市の有力者たちの要請を受け入れ、武力によるデモの鎮圧を中止した。デモ隊も過激な行動はせず、多数の市民が参加したこの日の「月曜デモ」は流血の事態に至らずに平和裡に終了した。これが東ドイツにおけるひとつのターニング・ポイントだった。

 この時、ライプチヒのデモに参加した市民の側、デモ隊を鎮圧しようとした当局側の双方は、「4か月前の北京の天安門前での悲劇をここで繰り返してはならない」という同じ思いを持っていたという。

 東ドイツ国民の運動の盛り上がりの前で、ドイツ社会主義統一党の内部では、ソ連の後ろ盾がなくなった今、国民の要求に背を向けた姿勢を続けることは党の支配体制自体を崩壊させかねない、との危機感が高まった。強硬路線を貫こうとするホーネッカー議長を続投させていたのでは、政権の維持が困難になると考えたドイツ社会主義統一党の多くの幹部は、10月18日の政治局会議で、突然、ホーネッカー議長の解任の動議を提出した。多くの政治局員が自分を解任したいと思っていると感じたホーネッカー議長は、とっさに状況を理解し、自らも自分自身の解任案に賛成した。この日の政治局会議は結局、全会一致でホーネッカー議長を解任する決定を行った。ホーネッカー氏の後任としてクレンツ氏が国家評議会議長に選出された。

 クレンツ氏は、国民の不満を緩和し、段階的な民主化を進めようとする方針を採った。最も国民の不満が高かった西側への旅行許可については、11月9日、大幅な手続き緩和を定めた旅行自由化令を公布し、即日施行した。この政令は、一定の手続きに基づく許可を得た上で西側への旅行を認めるというもので、翌11月10日から許可手続きが開始されることになっていた。しかし、記者会見でこの政令の制定について説明した党のスポークスマンは、政令制定の議論に参加していなかったため、政令の施行のタイミングを正確に把握していなかった。記者から「西側への旅行が許可されるのはいつからか」と質問されたのに対し、「この政令は即日施行だから、今からだ。」と発言した。この記者会見はテレビで生中継されていたため、このスポークスマンの発言を聞いた東ベルリン市民は、ベルリンの壁のところにある国境検問所に殺到した。

 検問所にいた国境警備隊員は、この政令について何の指示も受けていなかった。東ベルリン市民は、党のスポークスマンが今から西側への旅行が許可されることになった、と発言したのだ、と国境警備隊員に詰め寄った。国境警備隊員は本部に電話を入れて確認したが、本部からの指示は、ただ状況を監視せよ、というものだけだった。しかし、テレビを見た東ベルリン市民は次々に国境検問所に押し掛けた。国境警備隊員はいつものように武装していたが、少人数の国境警備隊員だけでは対処することは困難なのは明らかだった。国境検問所周辺は制御不能の状態となり、押し寄せる大量の市民は、ついに国境のゲートをこじ開けて、西ベルリン側にあふれ出た。国境警備隊員は、もうどうすることもできなかった。市民に向けて発砲する国境警備隊員は誰もいなかった。

 国境のゲートがこじ開けられたけれども何事も起きないことを知った東ベルリン市民は、さらに次々と国境ゲートに押し掛けた。国境ゲートは人々の圧力で次々に押し開かれ、多くの東ベルリン市民がどっと西ベルリンに流入した。西ベルリン市民は歓喜してこれを迎え入れた。東西ベルリン市民は、歓喜の渦の中で一緒になってベルリンの壁に殺到し、ある人々は壁にペンキで落書きを描き、ある人々は壁によじ登り、ある人々はハンマーやツルハシで壁を壊し始めた。東ドイツ当局は、この動きを見守るだけで何もしなかった。やがて大型の重機が持ち込まれて、本格的な壁の撤去作業が始まった。

 こうして、1961年に東西冷戦の中で築かれた「ベルリンの壁」は、この日、1989年11月9日、東西ベルリン市民の手によって崩壊した。アメリカの雑誌「タイム」誌は「今後、歴史の教科書では『冷戦:1945年~1989年』と書かれることになるだろう」と書いた。東西ドイツはこれから1年も経たない1990年10月3日、ひとつの国として統一されることになる。

以上

次回「4-2-1(2/2):東欧・ソ連革命(2/2)」
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へ続く。

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