« 2010年3月 | トップページ | 2010年5月 »

2010年4月

2010年4月28日 (水)

4-2-4(2/2):国有企業改革と「世界の工場」の実現(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第4節:国有企業改革と「世界の工場」の実現(2/2)

 1997年2月にトウ小平氏が死去し、1997年7月にアジアの自由経済の拠点である香港が中国に返還された。積極的に進められる国有企業の大改革方針は、1997年9月12日~18日に開催された第15回中国共産党全国代表大会においても再確認された。香港の経済活力を最大限に活用する意味でも、大胆な市場原理の導入は、中国にとっては、もはや逆戻りできない方針であった。既に中国大陸部の経済は市場経済を導入して怒濤の如く走り始めており、トウ小平氏という改革派の統帥が死去したとしても、昔のような保守派と改革派の論争などは現実的には不可能となっており、既に経済の現実が保守派の存在を許さない状況になっていたのである。

 問題は、市場原理の大胆な導入という実際に進めている政策と、中国共産党が掲げ続ける原則「マルクス主義を指導原理とし社会主義を進めること」というタテマエとの間のギャップをどう埋めるか、であった。

 中国の株式市場では、個人投資家向けの分も中国人だけが買える株(A株)、外国人に開放されている株(B株)等があるなど、様々な規制が設けられており、その意味では、中国の株式市場は、西側の株式市場のような自由度はない。しかし、それでも企業レベルはもちろん、個人レベルでも株式の保有と売買ができるようになったことは、中国自身が国内に「資本家」が存在することを認めたことにほかならない。

 自らは労働せずに資本のやりとりだけで儲けることのできる資本家の存在を認めたことは、「労働者を搾取するもの」として資本家を排除することを目指した「社会主義の根本原理」から外れるし、マルクス主義から外れることも明らかである(「第1章第1部第1節:そもそも『社会主義』とは何を目指したものだったのか」参照)。中国は、現在でも、自国のシステムを「中国の特色のある社会主義」であると主張し、「マルクス主義を指導原理としている」と主張しているが、客観的に言えば、現在の中国の経済システムが社会主義ではなくマルクス主義に沿ったものでもないことは明らかである。多くの中国人民が中国共産党による政策運営に期待を寄せていた中華人民共和国の建国期を知らない若い世代にとっては、なぜこれだけ市場原理を導入した経済システムを運営していながら、マルクス主義を標榜して社会主義を目指す中国共産党が政権を担っており、中国共産党を批判することが許されないのか、を理解するのは困難になりつつあった。

 そこで、江沢民総書記が持ち出したのは「愛国主義教育」であった。これはもともと「第二次天安門事件」において、多くの若者たちが運動に参加したことから、当時の党の幹部が「若い世代に対する教育の仕方が間違っていた」と考えていたことから出た考え方であった。1992年10月の第14回党大会における報告において、江沢民総書記は「全国各民族人民、特に青少年の中において、党の基本路線に対する教育、愛国主義、集体主義及び社会主義思想教育、近代史、現代史の教育と国情教育をさらに一歩強化し、民族の自尊心を高め、資本主義や封建主義が思想を腐食させることを防ぎ、正確な理想と信念、価値観を樹立しなければならない。」と述べている。革命によって封建主義を否定し、抗日戦争によって民族の自立を達成したのが中国共産党であるのだからこそ、中国共産党が全てを指導することが正しいことなのだ、という主張である。

(参考URL1)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
中国共産党歴代全国代表大会の記録
「中国共産党第14回全国代表大会における江沢民総書記の報告(3)」
(1992年10月12日)
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64567/65446/4526312.html

 「愛国主義」「国情教育」といった言葉は、かつて胡耀邦氏や趙紫陽氏が総書記だった時には使われたことはなかった。さらに「民族の自尊心」と言った言葉も開放政策を進めていた1980年代にはなじみのない言葉だった。むしろ改革開放政策は「自力更生」を主張してた「文化大革命」を否定することから始まっていたことを考えると、「愛国主義」を強調し「民族の自尊心」を高く掲げることは、改革開放以前に時代を逆転させるような雰囲気さえ感じる。

 さらに江沢民総書記は、1997年9月の第15回党大会では、大胆な改革開放を打ち出したトウ小平氏の考え方を「トウ小平理論」と名付け、毛沢東思想とともにこの「トウ小平理論」を重要な思想的指導指針とすることを提唱した。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
中国共産党歴代全国代表大会の記録
「中国共産党第15回全国代表大会における江沢民総書記の報告(2)」
(1997年9月12日)
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64568/65445/4526287.html

 これは、この年の2月にトウ小平氏が死去し、抗日戦争、国共内戦から中華人民共和国の建国に実際に参画した世代がほとんどこの世を去った中で、現在進めている改革開放政策に対する求心力を保持するため、「毛沢東思想」と並ぶもう一つの柱が「トウ小平理論」であると強調したかったためと考えられる。江沢民総書記が「トウ小平理論」を打ち出したことに対して、トウ小平氏の次女で2010年現在中国科学技術協会常務副主席・党書記を務めているトウ楠氏は、「私の父は個人崇拝を否定していた。従って、父の考え方に対して父の固有名詞を付けることはやめて欲しい。我が党の指導原理は毛沢東思想だけで十分なはずだ。」という趣旨の発言をしたという。この発言は、暗に江沢民氏が「トウ小平理論」を打ち出したことに対する批判である、と多くの人に受け取られたという(「トウ小平秘録」(参考資料17))。

 「愛国主義」や「トウ小平理論」を打ち出したことは、文革時代後期からトウ小平氏の「懐刀」として改革開放思想の定着に尽力した胡耀邦氏や、四川省党書記時代「飯が食いたければ趙紫陽のところへ行け」と言われたほど改革政策の実践経験を経てきた趙紫陽氏と異なり、これといった党務や行政面での実績がないままに「第二次天安門事件」という「突発事件」によって急きょ総書記に抜擢された江沢民氏が、自分自身や自分の政策に対する求心力がないことを自覚していたことの裏返しなのではないか、と私は考えている。

 タテマエと実際とのギャップは、思想やスローガンだけの問題ではなく、多くの人々にとって、現実の生活上の問題でもあった。

 本来、社会主義社会では、農村においては農地は公有であり、農民は国から提供された農地を耕作して生活するのが原則であった。しかし、1990年代の中国の農村では、一人っ子政策を採る前の「文化大革命」の時期に生まれた膨大な人口が就労年齢に達してきており、農地が必要とする以上の多くの余剰労働力を抱えていた。一方、沿岸部には外資系製造業企業が立地して多くの労働力を必要とし、工場建設や都市化建設のため建設業界でも労働力が不足していた。このため農村部の多くの農民は「出稼ぎ」という形で沿岸にある都市部へ流れ、製造業企業や建設業で働いた。この農民による出稼ぎは「農民は農村に住む」という社会主義的な原則を無視した「やみくもな」動きだったことから、この農村部から沿岸都市部への農民労働力の移動は、当初「盲流」と呼ばれていた。中国語では労働者のことを「工人」と呼ぶことから、これら農民の出稼ぎ労働者はやがて「農民工」と呼ばれるようになった。

 「農民工」の農村から都市部への移動は、社会主義の原則の枠をはみ出るものだったが、経済成長には必要なものであったことから、中国政府はその動きを黙認した。しかし、住宅、教育等の社会制度は「タテマエ」のままであったことから、都会に働きに出た「農民工」は都市部では政府から住宅を提供されることもないし、「農民工」のこどもは都会では公立学校に入ることもできなかった。「中国共産党の理念やスローガンと実際に採用されている政策とのギャップ」は巧みな言葉を駆使して辻褄を合わせれば済むのであろうが、「農地と農民はパッケージ」という社会主義の原則と「農民工が都会で働かなければ経済が回転しない」という市場経済の現実とのギャップは、農民工の現実問題としての日々の暮らしの上に重くのしかかったのである。

 この状況は1990年代に始まり、2000年代の最初の10年が終わった現在においても、何ら解決されないまま続いている。

 こういった思想面でのギャップ、現実上の生活でのギャップがあったとしても、経済が高度成長を続け、自分の生活レベルが向上している限りは、多くの人民は政策運営に不満を言わない。逆に言えば、こうしたギャップが存在する以上、経済成長が鈍化することは、即、政権に対する批判を惹起しかねない危機をはらんでいる。従って、民主主義という政治のフィードバック・システムを持たない中国共産党の政権にとっては、大胆な市場経済の導入という選択肢を選んだ上で自らの政権を維持しようとするためには、高度経済成長路線を継続することによって人民に不満を抱かせないようにすることが至上命題となった。

 経済の弱い部分を切り捨て、市場原理、別の言葉で言えば弱肉強食の原理で経済成長を続けていくと、必然的に最先端部分と最も遅れた部分との間での格差が広がる。最も遅れた部分にいる人々からも不満が出ないようにするには、全体の経済成長を高いレベルに維持し、最も低いレベルにいる人々の生活レベルも常に向上させるようにしなければならない。最も低いレベルにいる人々の生活レベルをも向上させるような経済成長率とは中国ではGDP成長率にして8%以上と考えられているようであり、中国政府は、常に「8%以上の経済成長」を至上命題として掲げざるを得ない状況となっている。

 現実の経済成長率は、1992年~1994年まで13%以上が続いた後、1995年は10.9%、96年は10.0%、97年は9.3%だったが、98年は7.8%、99年は7.6%と8%を下回った。このため、江沢民国家主席と朱鎔基国務院総理の政権は、さらに強力に高度経済成長政策を採ることになる。1993年に一度失敗した北京オリンピックの誘致を2001年に成功させたこともそのひとつと言われているし、メーデーと国慶節の連休を7日連続の大型連休とし、地方の観光地の活性化を図ったことも高度経済成長路線のひとつと言われている。さらに、2000年代に入ってから大学の入学定員を大幅に増やしたことも、人々の大学進学熱を刺激して、家庭に眠っている資金を大学授業料として徴収し、それによって大学関連施設を建設することによる景気刺激を狙ったものだ、と指摘する人もいる。

 江沢民氏個人は、揮毫(きごう)することが好きだったようで、江沢民氏が政権を担当していた時代に建設が決まった数多くの大型建築物に江沢民氏自身が書いた文字が飾られている。そういったことも、多くの中国人民に対して、江沢民氏の政権の政策が大型建築物の建造等に見られるような「ハコモノ建設」中心の高度経済成長路線だったことを印象付ける結果となっている。毛沢東と江沢民氏を除けば、歴代の中国の国家のトップは、建物に自分の名前を揮毫して残すことはほとんどしていない。現在の胡錦濤主席の揮毫も私は見たことはない。これはトウ小平氏が個人崇拝に批判的だったことことによるものと思われる。従って、多くの建築物に江沢民氏の揮毫が残されていることは、私に江沢民氏政権の時代に1980年代の改革開放路線が失われてしまったという印象を与えている。江沢民氏の政権の時代(1989~2002年)は、経済政策としてはトウ小平氏の改革開放路線を継承しながら、「愛国主義」の推進により文化大革命期の「自力更正」の精神を引き継いでいるように見える上に、あたかも毛沢東時代のような個人崇拝が復活しているように見えるからである。。

 経済の実績を見れば、江沢民政権時代、即ち朱鎔基氏が政治局常務委員及び国務院総理として経済政策を担当した時代は、外資導入の奨励と国有企業改革をはじめとする高度経済成長政策の時代だった。その結果、経済成長率は2000年には8.6%、2001年は8.1%に回復した。その後も、江沢民政権の時代を基礎として、2002年は9.5%、2003年~2007年にはいずれも10%を越える高度経済成長が続くこととなった。

 この中国の高度経済成長は、主に安い労働賃金による労働集約・輸出型製造業によってもたらされたものである。中国の輸出額は1990年の620.9億ドルが1995年には1,487.8億ドル、2000年には2,492億ドル、2005年には7,629.5億ドルに達した。15年間で12.3倍に膨れあがったのである。また、2009年12月末現在の中国の外貨準備高は2兆3.991億ドルに達するまでになっている。2000年の頃には、中国は「世界の工場」と呼ばれるようになっていた。

(参考URL3)「中国人民銀行ホームページ」
「調査統計」-「統計データ」
http://www.pbc.gov.cn/diaochatongji/tongjishuju/

 これらの経済改革路線は、中国国内の経済構造をも変えた。従来は中国経済は国有企業・公有企業が中心であったが、現在は、国有企業・公有企業の比率は減少しつつある。具体的な数字を示すと以下の通りである。

1978年:都市部労働者数9,514万人(うち国有企業7,451万人(78.3%)、集体企業2,048万人(21.5%)、個人経営企業15万人(0.2%))、農村部労働者数3億638万人(都市対農村:23.7対76.3)

1995年:都市部労働者数1億9,040万人(うち国有企業1億1,261万人(59.1%)、集体企業3,147万人(16.5%)、株式会社・私営企業等2,415万人(12.7%)、外資系企業513万人(2.7%)、農村部労働者数4億9,025万人(都市対農村=28.0対72.0)

2007年:都市部労働者数2億9,350万人(うち国有企業6,424万人(21.9%)、集体企業718万人(2.4%)、株式会社・私営企業等1億967万人(37.4%)、外資系企業1,583万人(5.4%)、農村部労働者数4億7,640万人(都市対農村=38.1対61.9)

※1995年は国有企業の労働者数がピークだった年。この後、効率の悪い国有企業は破産させられ、国有企業で働く労働者の数は減少していく。なお、このデータのうち都市部労働者数とは都市で登録された労働者の数であり、農村に戸籍を持ち、都市部に出稼ぎに出てきている「農民工」は含まれていない。「農民工」は株式会社・私営企業等や外資系企業で多く働いていると考えられることから、国有企業・公有企業(集体企業)の比重は上記の数字より小さいものと考えられる。

 現在の胡錦濤政権は、プラスの面とマイナスの面を含めて、江沢民氏が政権を担当していた時代の遺産を引き継いで、それに対応する政策を打ち出すことを迫られている。

以上

次回「4-2-5(1/2):江沢民総書記による『三つの代表論』の本質(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/05/post-e2eb.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月27日 (火)

4-2-4(1/2):国有企業改革と「世界の工場」の実現(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第4節:国有企業改革と「世界の工場」の実現(1/2)

 「南巡講話」で示された政策が党の方針となる過程で、既に政界を引退したはずのトウ小平氏の「最高実力者」としての発言力は完全に復活していた。そうした中、1992年10月、第14回中国共産党大会が開催された。この党大会直後に開かれた第14期中国共産党中央委員会第1回全体会議(第14期一中全会)で党の幹部の人事が決められ、江沢民氏を総書記とする新しい体制が確立した。この時の人事は、トウ小平氏の意向に沿って決められたものだと言われている。

 この第14期一中全会で、経済官僚出身で改革開放路線の強力な推進者である朱鎔基氏が政治局常務委員に入った。朱鎔基氏は、トウ小平氏が李鵬氏の後任の国務院総理として想定していた人物である。私が1983年2月中国の工場近代化に協力するための代表団の一員として中国を訪問した時、歓迎宴を主催してくれたのが朱鎔基氏(当時国家経済委員会副主任)であったことは前に述べた(「第4章第1部第2節:改革開放政策下における日中協力の実態(私の経験)」参照)。朱鎔基氏は1980年代、国家経済委員会で当時急速に進められていた経済面での改革開放政策の実務を担当し、その後、江沢民氏の後継者として上海市長、上海市党書記を歴任していた。経済政策の実務に明るいことと、上海での後任者として江沢民氏としても使いやすかったことが中央に抜擢された理由であると思われる。

 ただ、朱鎔基氏は、あくまで実務官僚タイプの人物であり、将来出世したとしても、思想面で党務を統括する必要のある総書記には向かないタイプの人物だった。自分の後継者として指名していた胡耀邦氏、趙紫陽氏を自らの手で事実上解任してしまったトウ小平氏にとっては、将来の党のトップとしてリーダシップを発揮できる人物を別に指名しておくことが必要だった。

(注)朱鎔基氏は江民氏の後任として上海市長と上海市党書記を歴任しているが、これは江沢民氏の意向によるものではなく、朱鎔基氏の経済政策実行能力をトウ小平氏が高く評価していたからだ、と考えられている。従って、朱鎔基氏は江沢民氏に恩義を感じるような立場にはなく、現在の中国指導部内の勢力図の中で、朱鎔基氏を江沢民氏をヘッドとする「上海グループ(上海閥)」の中に含めるのは適切ではない、と考えるのが一般的である。

 1989年にトウ小平氏が党の総書記に抜擢した江沢民氏は、「第二次天安門事件」の際に党中央の政治局常務委員という党務の中枢のポストを経験せずに総書記に抜擢されたため、党を総括する実力については未知数の部分があった。トウ小平氏は、江沢民氏を「第二次天安門事件」により混乱した時期を乗り切るための「ピンチヒッター」として登用したつもりだったのかもしれない。トウ小平氏としては、しばらくの間は江沢民氏が総書記を務めるとしても、その後のために、党と国家をしっかりと掌握するリーダーシップを持った次世代の指導者を指名し、活躍の場を与え、「試してみる」必要があった。そこで抜擢されたのが当時チベット自治区の党書記を務めていた49歳の胡錦濤氏だった。胡錦濤氏は、チベット自治区の前は、少数民族の割合が多く経済的にも大きく遅れた貴州省の党書記を務めていた。胡錦濤氏は、チベット自治区党書記時代の1989年3月に1959年のチベット争乱30周年に当たって争乱が起きたとき、自ら先頭に立って現場に出動して事態を収拾させたことが評価されて異例の抜擢をされた、とも言われている。

 翌年1993年3月の全国人民代表大会(全人代)では、李鵬氏が国務院総理として再任された。李鵬氏は一貫して保守的な立場をとってきたが、この後、中国政府はトウ小平氏の「南巡講話」を受けて中国政府は第14回党大会で決まった方針に基づき、大胆な経済改革を進めていく。第14回党大会の後に政治局常務委員となった朱鎔基氏は、インフレ傾向が顕著になった1993年7月から1995年8月まで、自らが中国人民銀行総裁を兼務してマクロ経済の舵取りを担った。この時期、国務院総理は李鵬氏であったが、後に1998年3月の全人代で朱鎔基氏が李鵬氏の後任の国務院総理になってから表に出てくる経済面での「朱鎔基改革」は、実際は1992年の第14回党大会以降、政治局常務委員になった朱鎔基氏により、李鵬総理の下で既に始まっていた、と考えてよい。

 中国の企業は、もともとは計画経済の下で国が経営する国営企業(「全人民所有制企業」ともいう)と公営企業(地方行政組織が経営する企業で「集体所有制企業」ともいう)から成り立っていた。1978年に始まった改革開放経済により、これに加えて外国の資金を導入した合弁企業(「中外合資経営企業」)、外国から技術等の提供を得て共同で経営する企業(「中外合作経営企業」)、外国資本100%で中国国内に設立された企業(「外商独資企業」)が認められるようになった(「中外合資経営企業」「中外合作経営企業」「外商独資企業」の三つを合わせて「三資企業」と呼ぶ)。

 さらに小規模な個人商店や個人経営手工業の工場から始まって、個人が資金を提供して経営する個人経営企業や数人の個人が集まって経営する私営企業も次第に設立が認められるようになっていった。個人経営企業や私営企業は、業種や経営規模などに関して当初は様々な制限が設けられていたが、これらの企業が中国経済を活性化するのに役立つことが認識されるようになり、制限は徐々に緩められていった。

 「三資企業」や「個人経営企業」「私営企業」の利益に対しては法人所得税が課せられた。経営がうまく行き、利益が上がれば、税金を納めた後の利益については、経営者が自分の判断で利益を配分したり、次の経営に対する投資に回したりできるので、常に積極的な経営判断が行われ、これらの企業は次第に中国経済の中で活力を発揮していった。それに対して、数の上では圧倒的多数を占めていた国営企業と公営企業では、企業経営者は公務員であり、改革開放政策が始まった当初の頃は企業の利益は「上納金」として国家や地方政府などに納めていたことから、企業経営者にとって積極的な企業経営を行うインセンティブはほとんどなかった。このため国営企業・公営企業は「大釜の飯を食う」(中国語で「鉄飯碗」。鉄のお椀は、落としても割れないことから、こういう言い方をする。日本語でいう「親方日の丸」に当たる。)と呼ばれていた。中国経済が活力を得るためには、国営企業や公営企業の活性化が最大の課題であった。

 農業分野においては、1980年代前半、「人民公社」が解体され、個々の農家に農業生産の責任を負わせ、一定量の請け負い量を超えた生産物は自由に売りさばいて自分の利益にしてもよい、という「生産請負制」が農民の意欲を引き出し、農業生産を大幅に向上させることに成功していた。それに習って、国営企業や公営企業についても、次第に経営自主権が各企業の現場のトップに移譲されるようになっていった。利益についても「上納金制度」を改め、「三資企業」や「私営企業」と同じように法人所得税制度を採用し、納税した後の収益については、各企業経営者の判断により、次の時代のための投資に回すことができるようになった。さらに、1980年代後半になると、企業の外からの資金を求め、それとともに経営の合理化や効率アップのインセンティブが働くよう、国営企業や公営企業についても、経営資金の一部を調達するための株式の発行も実験的に行う試みが検討され始めた。

 しかし、国営企業や公営企業の経営資金の一部として株式の発行を認め、その株式を売り出し、中国国内に「株主」を産むことは、中国国内に「資本家」を産むことと同じであり、社会主義の原則に反する、という反対論が根強かった。国営企業や公営企業の株式発行を認めるかどうかは前節でも触れた「姓社姓資論争」(社会主義を名乗るのか、資本主義を名乗るのか)と呼ばれる保守派と改革開放派との論戦の重要なテーマであった。

 「中外合資経営企業」と「中外合作経営企業」は、外国から資本や技術を導入して国営企業・公営企業の活性化を図ろうというものであったが、1980年代も後半になると、国営企業・公営企業が「合資企業」「合作企業」という形で外国側パートナーとの協力により大幅な経営効率の向上に成功する例が多数出始めていた。外部からの出資者を経営に参加させることがよい結果を生むのであれば、出資者を外国からだけでなく国内から募ってもよいではないか、と考えるのは自然な成り行きだった。一方、中国国内においても、農村における小さな企業の経営に成功した「万元戸」と呼ばれるような農家など、企業に出資できるようなまとまった資金を持つ人々も出始めていた。こうした状況を踏まえ、トウ小平氏の持論である「まずは実験的に始めてみればよい。問題があればやめればよいのだから。」という考え方に基づき、1990年11月にまず上海で、続いて12月には深センで、証券取引所が開設され、国営企業・公営企業の資金を株式発行という形で調達することが実験的に始められた。

 前節で述べたように、1991年までは「姓社姓資論争」が戦わされており、国営企業・公営企業の株式発行は実験的な程度に留まっていた。しかし、1992年春のトウ小平氏の「南巡講話」により、改革開放派が勝利する形で「姓社姓資論争」に決着が付くと、国営企業・公営企業の改革についても、大きな弾みがつくことになる。

 1992年10月12日~18日に開催された第14回中国共産党大会における報告において、江沢民総書記は「国営企業」「公営企業」という言葉を使わずに「国有企業」「集体企業」という言葉を用いた。これは、国営企業・公営企業については、もはや国や地方政府が経営するのではなく、その資本を国や地方政府が所有はするものの、経営には口を出さず、経営の主体はあくまでも各企業の経営者に判断に任せる、ということを意味していた。国有企業、集体企業の資金の一部を株を発行することによって調達するやり方は、上記のように1990年末から実験的に開始されていたが、この1992年の第14回党大会以降、段階的に拡大していった。

 トウ小平氏は、1992年10月の党大会以降は、既に88歳を超える高齢になっていたこともあり、実質的にも政界から引退するようになった。1992年春の「南巡講話」と10月の党大会での人事決定により、既に自らが示すべき路線は敷かれた、と考えたからであろう。

 1992年にトウ小平氏の「南巡講話」により国内の路線闘争に決着が付き、改革開放路線が確定したことは、1989年の「第二次天安門事件」の後、西側諸国の中にあった中国政治の不安定さに対する警戒感を大幅に和らげた。この当時の西側各国は、自国内における人件費の高騰を背景として、生産現場の海外への移転を模索していた。特に1993年以降の日本の製造業企業では、バブル崩壊後の経済的苦境と為替レートが急激に円高に振れていたことから、生産拠点を海外に移転することが不可避の課題だった。こういった海外の企業側と、外資導入により経済発展への弾みを付けたい中国との意図は一致し、「第二次天安門事件」により一時的に頓挫していた外国から中国への投資は、1992年以降、1980年代にも増して急激に拡大した。1993年の外国企業による中国への直接投資は1988年の20倍以上に達した。

 ただし、この1993年の外国からの直接投資額はあまりにも急激な拡大だったことから、国内にインフレを招き、それ以後、外国からの投資に対しては一定のコントロールが掛けられることになる。1990年代の中国は、経済の様々な分野で急激な拡大とそれに対する引き締めが繰り返されて、経済がなかなか安定しなかったが、一方でそういった経験を積み重ねる事により、中国は次第にマクロ経済コントロールの仕方を学ぶことができた。そういった経験が2000年代に入ってからの中国の経済政策に大いに活かされている。

 「第二次天安門事件」後の1990年に3.8%にまで落ち込んだ中国のGDP成長率は、1992年には14.2%、93年は14.0%、94年には13.1%と急速に回復した。ただこれらの経済成長は、外資導入による外資系企業の活性化が中心であり、国有企業の効率化はなかなか進まなかった。外資系企業の活動が活発なのは、企業経営が市場原理に基づいているからであることは明らかである。このため、上に述べたように、中国政府は、国有企業の企業経営に市場原理を導入することを意図して、それまで実験的にごく一部に限られていた国有企業の資産の株式化を急速に進めていったのだが、国有企業の株を全て売却してしまえば、もはや社会主義とは言えなくなる。そのため、業種や経営規模によって異なるが、経営が安定している優秀な企業については、例えば、全体の3分の1の株式を国が所有し、3分の1を国が指定する機関または他の国有企業が保有し、残りの3分の1が個人投資家向けの分として株式市場で売買される、といった形を導入した。一方で、経営が思わしくなく、非効率的な国有企業は、一定の手続きに従って破産措置が取られ、従業員は解雇された。

 これらの国有企業改革については、現在、様々な評価がなされている。一部の国有企業では、経営者が市場原理を導入し、マーケットの動きを的確に捉え、マーケットの需要に沿った商品を売り出すようになり、国有企業の活性化に繋がった、とする見方もある。一方で、一部の株式を公開にしたといっても、3分の2の株式は国または国が指定する機関が保有しており、企業の人事や重要な経営上の決定権も実質的には国または株を保有する機関に握られていて、個人株主の意見が経営に反映される形態にはなっていない、という指摘も強い。また、株の大半を国有または国が指定する機関が所有する、という形態になっているものの、国または持ち株機関による国有企業の人事や経営への関与の仕方が不透明であり、実際は国または持ち株機関の中にいる特定の個人が実質的に国有企業の人事や経営をコントロールしているのではないか、との疑惑は尽きない。

 また、計画経済時代と同じように、国有企業には企業ごとに中国共産党委員会があり、また工会(労働組合)もある。国有企業の党委員会や工会が企業経営者の人事や経営方針の決定にどの程度関与しているのか、必ずしも明らかではない。このため、個人株主の権益がフェアな形で守られるのかどうか不透明である、との指摘もある。さらに、経営が思わしくない国有企業が破産措置を受けたことによりリストラされた従業員の権利が十分に守れていないのではないか、との指摘もある。

 1997年2月、トウ小平氏は93歳で死去した。7月1日には1984年に出された日英共同声明に基づき、香港が中国に返還された。トウ小平氏の香港返還の日をこの目で見たい、という希望は叶わなかったが、中国はトウ小平氏の敷いた路線の上を確実に歩んでいた。

以上

次回「4-2-4(2/2):国有企業改革と『世界の工場』の実現(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-477e.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月26日 (月)

4-2-3:トウ小平氏の最後のメッセージ~南巡講話~

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第3節:トウ小平氏の最後のメッセージ~南巡講話~

 精神的な「傷」だけではなく、「第二次天安門事件」は、ようやく離陸しつつあった中国の改革開放路線の経済に大きな挫折を与えることになった。暴力を使わないデモや座り込みを行っていた学生らに対して人民解放軍が発砲して武力でこれを鎮圧したことに対し、日本を含め、西側諸国は一斉に反発し、中国に対する経済協力の停止を決めた。従業員の安全を心配する多くの外国企業は中国からの人員の引き上げを行った。6月9日に行った首都戒厳令本部幹部への慰問における講話で、トウ小平氏は「改革開放路線はいささかも変わらない」と強調したが、突然、首都の中心部に戦車部隊が現れた事態に、多くの外国企業は中国の政治状況の不安定さを見て、当然のことながら中国への投資に慎重な態度を示すようになった。外国からの資本導入と外国企業との技術協力で成長しつつあった中国経済はここで大きな転換点を迎えたのである。

 軍による実力行使により、政治的には、共産主義の原理を主張し、公有経済の重要性を強調する保守派が主導権を握るようになった。6月23日の中国共産党第13期中央委員会第4回全体会議(第13期四中全会)で正式に趙紫陽氏の後任として総書記に就任した江沢民氏は、9月29日に行った建国40周年記念式典での講話の中で次のように述べている。

「今年、春から夏にかけて動乱と暴乱が起きた。これは、国際的な『大気候』と国内的な『小気候』が結合してもたらしたものである(注:国際的な「大気候」とはソ連・東ヨーロッパでの動きを指す)。国内外の敵対勢力がこの風波をもたらした。その目的は、中国共産党による指導をやめさせ、社会主義制度を転覆させ、中国をブルジョア階級の共和国に変え、西側資本主義大国の属国にしようとするものであった。この闘争は、四つの基本原則とブルジョア自由化との先鋭な対立であり、我々の党、国家、民族の生死存亡を賭けた闘争であり、ひとつの重大な階級闘争であった。我々はこの闘争に勝利し、百年以上にわたって無数の先人たちが戦ってきた中華民族の生存と解放のための闘争の成果と、半世紀にわたる新民主主義革命、社会主義革命の成果を守り、40年来の社会主義建設と10年来の改革開放の成果を守った。」

(参考URL1)「新華社」ホームページ「新華資料」
「中華人民共和国成立40周年記念大会での講話」(1989年9月29日:江沢民)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/23/content_2608708.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 改革開放政策の開始時、「文化大革命」は誤りだった、と認めるに際して否定した「階級闘争」という言葉が、ここへ来て復活したのである。

 江沢民氏は、この後、2002年には、資本家層も中国共産党に入ることを認めるという画期的な「三つの代表論」を展開することになる。1989年に「階級闘争に勝利した」と述べた江沢民氏と2002年に「三つの代表論」を掲げた江沢民氏が同一人物だとはとても思えない。この13年間の江沢民氏の変化については、「1989年の江沢民氏は、総書記になったばかりで党内での実権はなく、上記の講話はただ保守派が書いた原稿を読まされただけなのだ」と見るべきなのか、「江沢民氏は、時代の変化に応じて柔軟に方針を変化させたのだ」と見るべきなのか、「江沢民氏は、政治的定見がなく、その時の状況に応じて巧みに変化して対応していただけなのだ」と見るべきなのか、については、後世の歴史家が判断することになるであろう。江沢民氏は、少なくとも、迫害されようとも失脚しようとも、「打倒されても懲りない実権派」として常に「大胆に市場経済を導入すべきだ」という信念を一貫して守り通したトウ小平氏とは、全く異なるタイプの人物であることは確かである。

 11月6日、トウ小平氏は、中国共産党第13期中央委員会第5回全体会議(第13期五中全会)で、最後まで就任していた中央軍事委員会主任を退任し、全ての公職から引退した。11月13日の日中経済協会代表団との会見では「これが最後に会見する外国代表団だ」と述べて、全ての政治活動から引退することを宣言した。この時、トウ小平氏は85歳だった。胡耀邦氏は死去し、趙紫陽氏は失脚し、トウ小平氏が引退すると、党中央にはほとんど保守派しか残されていなかった。

 「第二次天安門事件」によって、西側は中国に対する経済協力を停止したが、この頃中国は、既に西側経済圏にとって重要なパートナーになっていた。また、中国は核兵器を保有する国連の常任理事国のひとつであり、中国の国際的孤立化は、国際社会を不安定化させるものだった。従って、表面上は、中国を制裁する姿勢を見せながら、世界各国は、中国の孤立化は避けるような行動に出る。アメリカのブッシュ(父親)大統領は、「第二次天安門事件」から3週間も経たない6月21日、極秘裏にトウ小平氏に対して「特使を派遣したい」旨の書簡を送り、7月1日にはスコウクロフト補佐官が極秘裏に派遣された(「トウ小平秘録」(参考資料17))。これらが極秘裏に行われたのは、対中制裁の声が高まる米国議会を刺激したくなかったからである。また、10月には「私人」という立場でニクソン元大統領が、11月にはキッシンジャー元国務長官が訪中し、中国が国際的に孤立化しないよう配慮を示した。

(注1)以前書いたように、共和党のブッシュ(父親)大統領は、同じ共和党のニクソン政権下で、米中国交正常化前に中国に置かれていた在中国アメリカ連絡事務所の二代目の所長として北京に駐在していた経験があった。

 しかし、アメリカ国内には人権問題に厳しい勢力も強かったし、反体制派の活動家の方励之夫妻が6月5日に北京のアメリカ大使館に保護を求めてきていたことから、表向きの外交上、アメリカは中国との関係改善を図ることは難しかった。そこで、中国は、日本に対して西側との関係改善の突破口となることを期待し、上に述べた日中経済協会代表団をはじめ、多くの日本の官民の代表団を招待した。そして、1989年12月6日、日本は凍結していた1989年度の対中無償助50億円を実施する交換公文に署名し、経済協力を再開した。

 私は日本の中では「親中派」に分類されるのであろうが、この日本による経済協力再開のニュースを聞いて私は「あまりに早すぎる」と憤慨したことを覚えている。まだ「第二次天安門事件」から半年しか経っていなかったからである。中国が既に日本経済にとって重要な役割を果たしていたのは事実であったが、経済のために許していいことと悪いことはあるはずだ、と私は思っていた。その当時私自身が中国関係の仕事に携わっていなかったせいもあるが、1989年以降、2007年4月に北京に再び赴任するまで、私と中国との関係は、気分的にも基本的に「切れて」いた。

 なお、この時期、米中関係が冷却化した状態の中、日本が率先して対中関係改善の意向を示したため、アメリカに行こうとして行けなかった留学生の多くが行き先を変更して日本に留学する、という現象が生じた。私は「本当はアメリカに行きたかったのだが行けなかったので日本に留学した」という1990年度日本留学組の研究者を複数知っている。

 国際的に「中国を孤立させてはならない」という動きがある中、中国は、あくまで1989年6月の武力行使は正当だったと内外に対して主張し続けた。しかし、日本による経済協力の再開があったとは言え、中国政界で保守派が主導権を握ったことと、外国企業が「チャイナ・リスク」を改めて認識した結果、中国の外国との経済関係はこの時期急速に冷え込んだ。改革開放政策がスタートした1978年以降、GDPの対前年比伸び率は高い水準を維持していた。1986年は対前年比8.8%増、1987年は11.6%増、1988年は11.3%増だった。しかし、1989年は4.1%増、1990年は3.8%増と伸び率が半分以下に落ち込んだ。トウ小平氏は改革開放政策当初「2000年のGDPを1980年の4倍にする」という目標を掲げていたが、20年間で4倍にするには平均年7.2%の成長率が必要である。1989年、1990年のレベルがその後も続けば、4倍増の目標達成は困難となる。1989年と1990年の経済指標を見て、トウ小平氏は「まずい」と思ったに違いない。

(注2)「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)の中で、趙紫陽氏は、1989年と1990年に経済成長にブレーキが掛かったのは、「第二次天安門事件」のせいではなく、1988年に起きた急激なインフレに対抗するために採られた経済的引き締め政策が効いたためだ、という経済政策の専門家らしい冷静な分析をしている。

 改革開放派のブレーンである経済学者の呉敬璉氏は、この頃(1989年~1991年)、保守派の中には「国内を壟断し始めている資産階級と党内の修正主義分子を打倒し」「第二次文化大革命を起こすべきだ」とまで主張していた人たちがいた、と指摘している(「経済観察報」2007年12月10日号)。当時の保守派と改革開放派の論争は「姓社姓資」論争(社会主義を名乗るのか、資本主義を名乗るのか、の論争、という意味)と呼ばれていた。

(参考URL2)私のブログ(イヴァン・ウィルのブログ(ココログ))の2007年12月8日付け記事
「『経済観察報』の論調」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2007/12/post_1622.html

 こうした中、1991年2月~4月、上海で発行された「解放日報」に「皇甫平」という署名入りの改革開放政策を進めるべきとする論文が連載された。「皇甫」は上海市内を流れる「黄甫江」のことであり、「平」はトウ小平氏の「平」を取ったものと推測され、この論文の後ろには既に「政界を引退した」と宣言したはずのトウ小平氏がいる、と多くの人々が推測した。呉敬璉氏は2008年9月2日付けの「経済観察報」に掲載されたインタビュー記事の中で、この「皇甫平論文」は、1991年の春節期間中にトウ小平氏が上海滞在中に上海市党書記の朱鎔基氏ら上海市幹部に語った談話を元にして周瑞金氏(「解放日報」副編集長)らが書いたものだ、と証言している。

(参考URL3)「経済観察報」2008年9月2日付け記事
「『呉市場』から『呉法治』へ(3)」
http://www.eeo.com.cn/observer/dajia/2008/09/02/112308_2.html

 このトウ小平氏の動きに対して、保守派の重鎮である陳雲氏も理論雑誌の中で保守派の論客・トウ力群氏らの論文を使って主張を展開していく。陳雲氏は、1980年代から「市場経済は公有制経済というカゴの枠の中でのみ自由に羽ばたかせなければならない」という「鳥カゴ経済論」を展開して、トウ小平氏の大胆な市場経済導入政策に反対していた。この時期(1991年)は、前回述べたようにソ連の中でエリツィン-ゴルバチョフ-ソ連共産党保守派の勢力争いが展開されていた時期であり、中国の「姓社姓資」論争も、そういったソ連での動きに大いに影響を受けていた可能性が高い。

 当時、保守派の編集長が牛耳っていた「人民日報」は、ソ連で保守派クーデターが失敗した直後の1991年9月1日号で、陳雲氏の言葉を引用した論文「徳才兼備は徳が主~幹部選抜の標準」を掲載した。幹部の選定基準としては、「徳(=思想)」と「才(=経済的能力)」の両方が大事だが、主としては「徳(=共産主義の思想)」の方が大事である、という保守派の主張を述べたものだった。一方、翌9月2日付けの人民日報では「改革・開放をさらに一歩進めよう」という社説を掲載したが、そこには党中央が批准した文章にはなかったある一文が加えられていた。加えられていたのは「改革・開放においては、『姓社姓資』を問い、社会主義の方向を堅持しなければならない。『姓社姓資』を問う目的は、公有制中心を堅持するためである。」という文章だった。保守派の「人民日報」編集長が書き加えたことは明らかだった。

 この社説は一度新華社が配信したが、党中央が批准した社説の文章が改ざんされたことを知った改革派で宣伝担当の政治局常務委員・李瑞環氏は激怒し、この部分を削除した上で、新華社に再配信させたという(「トウ小平秘録」(参考文献17))。

 1989年から1991年に掛けてのソ連・東欧における民主化の動き(風波)は、当時の中国では、北宋時代の詩人・蘇東坡になぞらえて「蘇東波」と言われていた(中国語ではソ連のことを「蘇聯」と書く)。保守派の陳雲氏は、ソ連・東欧における反社会主義的な動きを武力を使わないで社会主義を崩壊させるという意味で「和平演変」と呼んで批判していた。

 1991年9月25日の「人民日報」には、こういった保守派の主張を背景にした江沢民総書記の言葉「国際敵対勢力は1日たりともわれわれに対する和平演変をやめていない。ブルジョア自由化は彼らが進める和平演変に呼応したものだ。」を太線囲み記事として掲載した。この記事を見たトウ小平氏は、保守派の態度が西側諸国との経済的協力を困難にすることを懸念し、江沢民総書記らに対し「党の基本路線は経済建設が中心だ。反和平演変を語るのは少なくせよ。」と話したという。これを受けて江沢民総書記は直後に開かれた中央工作会議で、自分の言葉を引用した「人民日報」の記事を批判し、「私は反和平演変だけの総書記ではない」と述べたという。トウ小平氏は、こうした発言が揺れ動く江沢民氏に失望していたが、胡耀邦氏、趙紫陽氏に引き続き三代続けて総書記を辞めさせるわけにはいかないと考えていたという(「トウ小平秘録」(参考資料17))。

 年が明けた1992年の春節の時期、トウ小平氏は保守派に対する最後の反撃に出る。トウ小平氏は1月17日、列車で北京を出発し、武漢、深セン、珠海、上海などを回り経済開発の状況を視察し、各地の指導者と話をした。トウ小平氏の南方への視察は、1984年以来8年ぶりだった(1984年春のトウ小平氏の南方への視察については「第4章第1部第2節:改革開放政策下における日中協力の実態(私の経験)」参照)。沿海部の経済発展が進んだ地域を視察して、「やはり改革開放はよい」というのが講話の内容だったが、トウ小平氏は、今回の南方視察は休息が目的である、として講話を報道することを禁じた。トウ小平氏の講話の中には「改革開放に反対する人には眠ってもらうほかはない」といった保守派に対する露骨で厳しい攻撃の言葉もあった。

 トウ小平氏は深センでは工場視察をしたほか、民俗文化村を訪問するなど、幅広く活動した。「報道禁止」の指示は出していたが、香港の目と鼻の先にある深センにおいて、民俗文化村など一般客が多くいる場所への訪問を秘密裏に行うことは困難だった。1992年1月22日、香港の新聞「明報」が深センの民俗文化村を視察するトウ小平氏一行の写真を掲載した。その後、香港発のトウ小平氏の動向に関する報道が世界を駆け巡った。しかし、トウ小平氏は中国国内での報道は許さなかった。

 香港の隣にある深セン市の観光地を視察したら香港の新聞が嗅ぎつけることは始めから予想されていたことである。これは香港の新聞がスクープすることを見越したトウ小平氏の作戦だったのである。「自分は既に引退したのだから黙っている」という格好をしながら、北京にいる保守派に対して外国からの報道を通じて自分の動向と考え方に関する情報を流し、外堀を埋めようという作戦だったのである。1965年11月から1966年7月まで、劉少奇国家主席とトウ小平氏が牛耳る党中央に対し、毛沢東が北京を留守にして上海・杭州・武漢を回り、そこで述べた講話が北京に非公式に流れることによって党中央に圧力を掛けようとした時と同じ作戦、1971年夏に毛沢東が地方を回って講話を行って北京にいる林彪一派にじわじわと圧力を掛けた時と同じ作戦を、今度はトウ小平氏自身が用いたのである。

 経済発展の恩恵を受けていた深セン、珠海、上海等の沿海部の人々は改革開放を讃えるトウ小平氏の講話を歓迎していた。中国が改革開放路線を進めることによってビジネス・チャンスが増える西側各国もそれを歓迎した。2月21日、トウ小平氏は1か月以上にわたる南方視察を終え、北京に帰着した。トウ小平氏は、この時点では既に全ての公職を引退していたから、中国共産党内では形式上ただのヒラ党員でしかなかった。しかし、沿海部の人々の支持と外国からの期待を後ろ盾として、党中央は、2月28日、トウ小平氏の南方での講話を取り上げて、その要点を党の文書として各地の党組織に通達した。3月20日に始まった全国人民代表大会の冒頭、政府工作報告を行った李鵬総理は、トウ小平氏の「南巡講話」の言葉を用いて改革開放政策を推進することを宣言した。実質的にトウ小平氏が「最高実力者」に復帰したのと同じだった。

 中国共産党内にくすぶっていた保守派と改革派の争いはこれで最終的に決着した。これ以降、中国は、保守派の主張に揺れ戻ることはなく、改革開放路線一本槍で、急速な経済成長を遂げることになる。

 既に87歳になっていて、政界引退を宣言してから3年近く経っていたトウ小平氏がこの時点で(1992年春の時点で)強烈な「最後のメッセージ」を出したのには4つの理由があると思われる。

 一つ目は、1991年8月のソ連共産党保守派によるクーデターの失敗と12月のソビエト連邦の崩壊に見られるように、もはや世界は保守的なガチガチの共産主義の原理主義的主張を受け入れる時代ではなくなっており、中国人民もまるで文化大革命時代に戻るかのような保守派路線は欲していなかったことをトウ小平氏はよくわかっていたのである。トウ小平氏には、これ以上保守派の色彩を強めると、ソ連共産党と同じように中国共産党も中国人民からの支持を失うとの懸念があったと思われる。

 二つ目は、上に述べたように、保守派勢力が強くなった1989年と1990年は経済成長が鈍化したことである。中国はまだ貧しく、人民を豊かにするという目標をないがしろにすることはできないし、高い経済成長を持続させて人民を豊かにできないのであれば、共産党は人民から見放される、とトウ小平氏は考えたからと思われる。

 三つ目は、香港返還が5年後の1997年に迫っていたことである。「第二次天安門事件」以降、香港の多くの人々は北京政府の保守化に大きな懸念を持つようになり、中国への復帰を前に香港を脱出する人が増えたほか、残った住民の間でも中国への復帰に反対する運動が強まるおそれがあった。もし香港での「一国二制度」の実現に失敗すれば、「香港モデル」を使って将来台湾統一を図る、というトウ小平氏の構想は根底から崩れてしまう。だから、保守派の勢力を抑え、改革開放路線の継続を鮮明にすることによって、香港住民の中国復帰への支持を繋ぎ止めようとしたものと思われる。

 四つ目は、この年(1992年)の秋には第14回党大会の開催が予定されていたことである。トウ小平氏は、保守派と改革派の論争状態が続いたままで党大会を迎えれば、事態が混乱し、経済建設がさらに遅れるおそれがあると考えていたと思われる。また、秋の党大会で自分の意中の人物を次世代の後継者候補として指名しておくためには、「最高実力者」としての発言権を1992年春の時点で確保しておく必要がある、とも考えたのかもしれない。

 このトウ小平氏による「最後のメッセージ~南巡講話~」の作戦は成功した。「南巡講話」により「第二次天安門事件」で揺らいだ中国の改革開放政策の方針が、また確固たるものとして固まった。そして、この年の秋に開かれた第14回党大会で、保守派の李鵬総理に代わる後継者の国務院総理候補となる改革派の朱鎔基氏、江沢民氏の次の総書記候補となる胡錦濤氏が政治局常務委員入りすることになったのである。(この経緯を見れば、現在の党総書記・国家主席の胡錦濤氏は、トウ小平氏が見込んだ改革派の若手のホープだったことがわかる)。

以上

次回「4-2-4(1/2):国有企業改革と『世界の工場』の実現(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-4b6f.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月25日 (日)

4-2-2:「第二次天安門事件」の後遺症

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第2節:「第二次天安門事件」の後遺症

 中華人民共和国成立の前、国民党との内戦末期の1949年1月31日、人民解放軍は西から北京(当時は首都ではなかったので「北平」と呼ばれていた)に入城した。「北京三十五年」(参考資料12)の著者の日本人技師・山本市朗氏は、この時、長安街の天安門から約2km西にある西単の交差点から北へ伸びる西四大街の人ごみの中にいた。山本市朗氏は、「北京三十五年」の中で、この時の様子を次のように描写している。

「『何がはじまるんだ』と、道端のお爺さんにきくと、『今、中共軍が、西直門から入城してくるそうだから、それを見物しようと思っているのだ』といった。これは面白い、と思って、さっそく輪タクを人込ごみの中につっこんで止めて、私も道端の人々にまじって見物することにした。

 するとそのうちに、道の両側の見物の人々の間から、若い女学生たちが三々五々勝手に大通りの真ん中へとび出していって、北京の解放を祝う歌をうたいながら踊りはじめた。はじめは、それぞれの仲間同士の、ちいさなグループだけで輪を作って踊っていたが、それがだんだんと合流して、踊りの輪が大きくなり、見物人の中から、労働者らしい中年の男女たちも加わって、とうとう大通りの幅いっぱいに、厚い大きな輪を作って踊りまわった。

 彼女たちは、ほんとうに内心から溢れ出る解放の喜びを、それぞれ各人思い思いの歌と踊りにたくして力いっぱい表現した。(中略)それは、彼女たちの解放に対する喜びが、じーんと私の胸に直接伝わってくる踊りであった。そして、私は、若い人たちの国民党に対する嫌悪と、共産党に対する期待を、この踊りの中に見た。

 遠くから、ラッパの音が聞こえて、解放軍(中国共産党軍)が入城してきた(中略)。

 軍楽隊のラッパは、どれもこれもみな、ぴかぴかに磨き立てられて光っており、アメリカ製の戦車は、すっかり草色に塗り直されて、横腹には、星形の枠の中に「八・一」と赤く塗りだした解放軍の軍章が、大きく書き出されていた。」(「北京三十五年」より)

 それから40年後の1989年6月3日深夜、人民解放軍はその日もやはり西から北京市内に入ってきた。人民解放軍は、市民が作ったバリケードを次々に突破しながら天安門前広場へ向かって東へ進軍していた。西単の交差点でも多くの市民がバリケードを築いて人民解放軍の戦車の進軍を阻止しようとしていた。6月4日0時頃、共同通信記者だった伊藤正氏は西単付近にいたカメラマンから「軍が発砲した。市民はバスに火を付けて抵抗している。軍は天安門方向に向かった。」という電話を受けた(「トウ小平秘録」(参考資料17))。

 6月4日の日曜日、「第二次天安門事件」のニュースを聞いた私は耳を疑った。「人民解放軍が中国人民に対して発砲するなんてあり得ない」と思ったからである。しかし、それは事実だった。私は戒厳令の発令と人民解放軍の待機は天安門前広場に陣取る学生たちに対する「おどし」「威嚇」であり、もし仮に当局が学生たちを実力で排除することがあるのだとしても、それは警察力による排除だと思っていた。1976年の「第一次天安門事件」の時も天安門前広場に集まった大勢の市民たちを排除したのは棍棒・鉄パイプや皮ベルトを持った警察隊や民兵であり、人民解放軍は登場しなかったからである。おそらくはこの時天安門前広場に集まっていた学生や市民たちも私と同じように考えていたのではないだろうか。

 しかし、テレビのニュースでは、戦車や装甲車に先導された人民解放軍の兵士が機関銃を持って進軍し、兵士たちが「空へ向けた威嚇射撃」ではなく明らかにデモ隊を狙った水平射撃で実弾を発射している場面を映し出していた。前々節で書いたように「天安門広場の中では死者は出ていない」のは事実のようであるが、人民解放軍の戦車が出動し、人民に対して直接銃口を向け、解放軍の兵士が実弾で水平射撃を行ったこともまた事実であった。「人民解放軍が中国人民に対して発砲した」という事実は、癒すことのできない深い傷として、現在に至るまで中国を苦しめている。

 私は1989年のこの日、テレビ・ニュースを見て「時代が20年逆転した」と思った。そして、20年後の2007年4月北京に再び赴任した時、逆転した時間が実は20年以上だったことを知り愕然とした。もし1989年に逆転した時間が20年だったのだとしたら、20年経過して再び駐在員として北京に降り立った私は、1980年代と同じ雰囲気を味わったはずだからである。しかし、2007年の北京は、確かに経済発展により高層ビルは建ち並んではいたが、1980年代には次々に撤去されつつあった党と軍を支持するよう呼びかけるスローガンが街にあふれ、テレビのニュースの時間には1980年代にはあり得なかった「紅い記憶」というタイトルの中国共産党の歴史を讃えるコーナーが放送されていた。2007年は、1980年代より「古い時代」だったのである。

 逆転した時間は20年ではなかった。逆転したのは40年だったのかもしれない。いや、過去に人民解放軍が人民に対して発砲した、ということは紅軍創設以来なかったことであるから、長い時間を掛けても取り返しの付かない「逆転」が1989年6月4日に起きてしまったのかもしれない、と2007年の北京で私は思った。

 2007年4月に二度目の北京駐在を始めるに際して、「北京は20年ぶりですか。中国の発展振りにさぞ驚かれたことでしょう。」と私は何回も言われた。私はそのたびに「変わったところと変わらないところ、両方ありますね。」と寂しく微笑むしかなかった。貧しいけれども明るい未来へ向けて頑張っていこう、という若葉のような1980年代の中国は、2007年にはもはやなかったからである。

 私は、前節で述べたような1989年以降にソ連がたどった道を考えれば、トウ小平氏が1989年の学生たちの動きを放置できなかった、という理由は理解できる、と考えている。当時の中国においては、国内経済の発展と国際的な発言力の強化が最大の課題であり、当時は国内で政治論争をやっている場合ではなかった、という考え方にも一定の説得力があるからである。

 ソ連の場合、ロシア民族が数多く住む地域が「ロシア共和国」として独立・分離することは可能だったかもしれないが、中国の場合は、そういったことは不可能である。中国は、大多数を占める漢民族と他の少数民族とが、時には対立し、時には協力し融合し合いながら連綿と歴史を綴ってきた国である。そういった各民族の係わり合いがあってこそ「中国」という世界が成り立つのであり、各民族がバラバラになったのでは、もはやそれは「中国」ではなくなってしまう。漢族は確かに人口の大部分を占めているが、「ロシア共和国」のように漢族を主体とする地域だけを選んだ「共和国」というのは存立しえない。各民族が対立しながらも共存している状態こそが中国を中国たらしめているゆえんだからである。従って、政治的混乱が続き、ある特定の民族が独立を主張しはじめたら、「中国」という社会自体が消滅してしまうおそれがある。それがソ連と中国の大きな違いである。

 それは共産党が支配するかしないかの問題ではない。共産党による支配があろうがなからろうが、求心力を失い、バラバラになって混沌の政治的混乱に陥った中国は、もはや中国という社会を保つことすらできなくなってしまう。1989年の時点では、経済的にまだまだひ弱な中国においては、中国共産党が求心力となるしかない、とトウ小平氏は考えたのである。共産党政権が続くかどうか、という以前の問題として、1989年の時点では、政治的混乱をどこかで収束させなければ、中国という社会自体の維持が危ぶまれる、とトウ小平氏は考えたのだと思われる。だから、学生らの民主化要求デモは、どこかの時点で収拾させる必要があったとトウ小平氏は考えたのだと思われる。

 しかし、そのために人民解放軍の戦車部隊を投入する必要が本当にあったのか。事態を収拾しようとすればできたかもしれないタイミングと解決の手法はほかにもいくつかあったのではないのか。そういう疑問を、私は、というより当時を知るほとんどの人々は持っていると思う。

 まず、4月18日の「新華門事件」の時にうまく対応はできなかったのか。学生たちが中国共産党本部に突入しようとした「新華門事件」は、治安上、極めて大きな問題であり、この時点で警察力を投入して突入しようとした学生たちを解散させ、天安門前広場での集会を禁止することができたのではないのか(1987年1月1日に私自身が見たように、警備当局による天安門広場の占拠も可能だったのではないのか)。

 次に、4月22日に胡耀邦氏追悼大会が終わった時点で対処できなかったのか。追悼大会が終わった時点で「追悼行事はこれで終了した」ことを宣言し、天安門前広場で花輪を捧げるなどの追悼行動を禁止する、などの措置を取ることはできたのではないか。

 さらに問題だったのは、4月26日の「人民日報」に社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」を掲載したことである。なぜこの時点で「動乱」ということさら学生らを刺激するような言葉を使ったのか。また、もし仮に「動乱」という言葉を使う強硬路線を取るのであれば、この社説を掲載したのと同時に警察力で天安門広場の学生らを排除する動きを取るべきだったと思われるが、この時、当局は、社説を掲載したのみで、学生らを強制排除する動きは見せなかった。それはなぜなのか。北朝鮮を訪問中の趙紫陽総書記がこの時点で北京に戻らなかった理由とともに、疑問が残る。

 次のタイミングは5月3日の「五四運動70周年記念大会」での講話と5月4日のアジア開発銀行理事会出席者に対する演説において趙紫陽氏が学生らの動きに対して理解を示す姿勢を示した時である。この時、多くの学生は趙紫陽氏の演説を評価して、大学へ戻っている。天安門前広場に居残った強硬派の学生もいたが、この時点で警察力を使って残った学生らを広場から強制排除することはできたのではないかと思われる。当局側には、5月15日にゴルバチョフ書記長が訪中し、公式行事のために天安門前広場を使う必要がある、という格好の「大義名分」があった。「君たちの気持ちは理解できるが、外交上、国賓の歓迎行事も国家としては重要だ。天安門前広場を明け渡して欲しい。」と説得すれば、学生らも強硬には反対できなかったはずである。

 しかし、これらのタイミングは、ことごとく何事もなされずに無為に過ぎてしまった。それはなぜなのか、については、後世の歴史家の分析に待つしかない。李鵬氏ら保守派・強硬派と、趙紫陽氏ら改革派・対話路線派の勢力争いが拮抗していて、党として的確な判断ができない状態だった、というのもひとつの理由かもしれない。しかし、いつもは的確な読みで鋭い判断をしてきたトウ小平氏が、なぜゴルバチョフ書記長訪中の前に警察力の導入による学生たちの広場からの強制排除という指示をしなかったのか、私としては理解に苦しむところである。

 ひとつの理由として、中国の警察当局には、放水銃や催涙弾のような「デモ鎮圧用」の装備を持った部隊が十分に備わっておらず、多人数のデモ隊の鎮圧や広場で座り込みを続ける学生たちを排除する能力がなかった、という見方もできる。しかし、1976年4月の「第一次天安門事件」の際には、相当の数の市民が天安門前広場に集まったにもかかわらず、当時の当局(この時は「四人組」の勢力が党中央を支配していた)は、警棒、革ひも、鉄パイプで武装した警察部隊や民兵を動員して、市民の強制排除を行っている。「四人組」の政権にできたことが、もっと権力基盤が磐石であるはずのトウ小平氏の政権にできなかったはずはない、というのが私の率直な感想である。私の知らない何か別の事情があったのだろうか。

 保守派と改革派の抗争の中で、実はトウ小平氏も絶対的な決定権を発揮することができなかったのではないか、との見方もある。例えば、6月4日に天安門前広場から学生らが排除された後、新華社は、6月7日に建国門橋上にいる人民解放軍の戦車と建国門外にある外交公寓(外交官用アパート)との間で銃撃戦があり、四人の兵士が死傷したという事件を伝えたが、これは何らかの権力闘争があったことを物語るとの見方もあるからである(この建国門橋における銃撃戦の背景に何があったのかは、今でも明らかにされていない)。この銃撃戦で、日本大使館員の住居3戸も被弾したため、日本大使館は北京の在留邦人の国外退去を行っている(「トウ小平秘録」(参考資料17))。

 いずれにせよ、私は(そしておそらくは天安門前広場に集まっていた学生たちも)まずは警察力による強制排除が試みられ、それでも事態が収拾されない場合には人民解放軍が出動するかもしれない(ただしその可能性はほぼゼロである)と思っていたところ、警察が出てくる前に、いきなり人民解放軍の戦車部隊が天安門前広場に突入し実弾を発射したことは、全くの予想外のできごとだったのである。

 1981年の「歴史決議」で「文化大革命」の誤りを認め、タブーとも思われていた毛沢東についても「晩年に誤りを犯した」と率直に認めた中国共産党は、何か誤った政策を採ったとしても、自分で修正する能力を持っている、と信じていた私の気持ちは、この「第二次天安門事件」で完全に崩壊した。多くの中国の人々も同じではないかと思う。困難な道だろうが紆余曲折をたどりながら中国は少しづつ前進していくだろう、という私の期待と、そういった中国に対して抱いていた30歳代の私の希望は、1989年6月4日、完全に押しつぶされた。同じような思いを抱いたであろう中国の若者たちを思うと、今でも心が痛む。

 学生運動のリーダーたちはもちろん、方励之氏、厳家祺氏らの多くの知識人がこの事件をきっかけにして国外へ逃れた。国内に残った知識人たちもこの事件をきっかけにして「自由な議論」はできなくなった。芽生え掛けていた中国の「思想の自由」も、この日、死んだのだった。

以上

次回「4-2-3:トウ小平氏の最後のメッセージ~南巡講話~」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-492d.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月24日 (土)

4-2-1(2/2):東欧・ソ連革命(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第1節:東欧・ソ連革命(2/2)

 1968年に「プラハの春」を経験していたチェコスロバキアでは、「ベルリンの壁」崩壊の後、市民の民主化運動が活発化し、1989年12月に自由選挙が行われて、1977年に人権擁護を求める「憲章77」を発表したハヴェル氏が大統領に選出され、共産党政権は流血の事態なく退陣した(これを「ビロード革命」という)。なお、チェコスロバキアは、この後、話し合いにより1993年1月1日をもってチェコとスロバキアに平和裡に分離した。

 ポーランドでは1989年6月に行われた選挙で自主管理労組「連帯」が勝利し、「連帯」の幹部も加わった政権運営がなされた。その後、1990年12月に行われた選挙では、「連帯」のリーダーだったワレサ氏が大統領に選出され、統一労働者党による一党支配時代は平和裡に終了した。

 既に複数政党制になっていたハンガリーでは、1990年に行われた自由選挙で非共産党系の「民主フォーラム」が勝利し、実質的にも共産党政権が終了した。

 東ヨーロッパにおける1989年の動きの中で唯一流血の事態になったのはルーマニアである。ルーマニア共産党書記長で大統領のチャウチェスク氏は、ベルリンの壁崩壊後も民主化を求める国民の動きを武力で弾圧した。1989年12月21日、チャウチェスク氏は自分を支持する官製集会を開いたが、そこに動員されて集まった民衆は口々にチャウチェスク氏に対する非難を叫び始め、官製集会は反チャウチェスク集会への転化した。チャウチェスク氏は、軍に国民の反対運動を鎮圧するよう指示したが、軍はこれに反発し、チャウチェスク氏を支持する秘密警察と反チャウチェスク派の軍隊とが衝突した。この衝突で多数の死傷者が出た。チャウチェスク氏は夫人とともに国外脱出を計画したが、実権を握った反チャウチェスク派の「救国戦線」が12月22日にチャウチェスク夫妻を逮捕した。「救国戦線」は、12月25日、チャウチェスク夫妻を裁判に掛け、即刻死刑の判決を下し、そのまま処刑した。処刑の場面は、テレビで全ルーマニアに放映された。

 このような動きの中、ソ連のゴルバチョフ書記長は、1989年12月2~3日、アメリカのブッシュ(父親)大統領と地中海のマルタ沖の船上で会談し、冷戦の終結を宣言した。

 上記のように東ヨーロッパ諸国は次々に非共産主義政権に移譲していったが、ゴルバチョフ氏は、ソ連国内では、ソ連共産党による政権の維持に自信を持っていた。ゴルバチョフ氏は、ソビエト連邦内部の引き締めを図るため、ソビエト連邦大統領の職を創設し、1990年3月、自らそれに就任した。ゴルバチョフ大統領は、東ヨーロッパは「外国」であるからソ連が各国それぞれの動きに介入することはしない、と宣言していたが、ソビエト連邦の内部に対してはそういう方針は採らず、ソビエト連邦の解体は断固として阻止するつもりだった。しかし、東ヨーロッパ諸国の動きは、ソ連内部の各共和国へも及んだ。最も鋭敏に反応したのはバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)だった。

 バルト三国はもともとロシア帝国に支配されていたが、ロシア革命の後、独立していた。しかし、独ソ不可侵条約基づき、1939年9月のナチス・ドイツがポーランドに侵攻し(第二次世界大戦の開始)、ナチス・ドイツがポーランドの西半分を支配下に置くとともにソ連がポーランドの東半分に進駐すると、その勢いを持って、ソ連はバルト三国をソビエト連邦の中に併合した。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの独ソ不可侵条約破棄によりナチス・ドイツとソ連は激しく戦ったが、その過程で、両国によるバルト三国の争奪戦が行われた。ナチス・ドイツが第二次世界大戦で敗れると、戦後はバルト三国はソ連内部の共和国としてソビエト連邦の中に留まることになった。しかし、バルト三国では、民族的にはロシア人は少数派であり、ソ連からの離脱を指向する動きがその後もくすぶり続けていたのである。

 東ヨーロッパでの改革とベルリンの壁の崩壊を受けて、まず、1990年3月、リトアニアがソ連から離脱して独立を宣言した。しかし、ソ連のゴルバチョフ氏はこれを認めなかった。

 一方、ソビエト連邦の中の最大の共和国であるロシア共和国でも問題が発生する。1990年5月、民主化を掲げるエリツィン氏がロシア共和国最高会議議長に就任したのである。エリツィン氏は、ゴルバチョフ氏が進めるペレストロイカによっても経済を立て直すことが全くできていなかったことから、共産党が政権を担当することはもはや無理だと考えていた。全く考え方の違う政治家であるエリツィン氏がソ連最大の共和国であるロシアのトップになったのは、ゴルバチョフ大統領にとって政治的に脅威となった。ソ連共産党によるソ連の維持を主張するゴルバチョフ氏に対し、エリツィン氏は1990年7月にはソ連共産党を離党すると宣言し、共産党に見切りを付けた。

 そうした中、1990年8月2日、フセイン大統領が率いるイラク軍がクウェートに侵攻し、クウェートを占領した。イラクはかつてソ連の同盟国だったが、この時、ソ連はアメリカなどの世界各国と協調して、国連安全保障理事会でイラクのクウェート侵攻を非難する決議に賛成した。クウェートは、1991年1月17日に始まった国連決議に基づくアメリカ軍を中心とする多国籍軍による攻撃(湾岸戦争)で、イラクの占領から逃れ、独立を回復した。ソ連は多国籍軍には参加しなかったが、国連決議には賛成しており、国際的にはソ連はもはやアメリカの敵ではなくなったことが明らかとなった。

 国際的には評価の高かったゴルバチョフ氏であるが、国内での政権運営は困難を極めた。ゴルバチョフ大統領は、独立を要求するバルト三国に対し、ソ連からの離脱を断念するよう働きかけたが、三国とも独立の意向は変えなかった。また、ソ連国内の経済は日に日に悪化し、国民のゴルバチョフ氏に対する不満は高まった。逆に「何かをやってくれるかもしれない」との期待がエリツィン氏の人気を高めた。ゴルバチョフ氏は、ソビエト連邦の維持と経済の立て直しを図るため一部の共産党保守派勢力との妥協を図った。それに抗議して、グルジア出身で改革派のシュワルナゼ外相は「独裁が近付いている」と警告して、1990年12月、突如辞任した。改革の盟友を失ったゴルバチョフ氏は、保守派を政治局に入れて、政権を維持するほかはなかった。

 共産党保守派勢力が強くなったソ連政権は、ソビエト連邦の崩壊を阻止するため、バルト三国に対して強硬路線に出る。1991年1月、圧力を強めたソ連軍の下で、リストニア共和国政府とソ連軍との間で軍事衝突が起き、14名の死者と数百人の負傷者が出る事態が発生した。軍事的圧力なしにソビエト連邦を維持することは困難な状況になりつつあった。

 1991年になってもソ連の経済は好転しなかった。国際的には人気の高かったゴルバチョフ大統領は、外国を訪問するたびに西側諸国に対しソ連経済への援助を要請していた。政権内で発言権を増していたソ連共産党保守派は、そういったゴルバチョフ大統領に対して危機感を持つようになる。ゴルバチョフ大統領は、国民の人気を背景にして政治的発言権を強めるエリツィン氏との妥協を図るため、1991年8月20日をもってソビエト連邦内にある共和国の独立性を認めた上で、ソ連大統領による外交、軍事政策の下で連合することを約するという新しい連邦条約に署名することに合意していた。

 1991年8月中旬、ゴルバチョフ大統領(ソ連共産党書記長)は、クリミア半島の避暑地で休暇を過ごしていた。政権内にいたソ連共産党保守派は、新連邦条約はバルト三国の独立を承認し、ソ連の解体を進めることになるとして、新連邦条約に反対していた。ソ連共産党の保守派幹部は、8月18日の夕方、クリミア半島に滞在中のゴルバチョフ大統領に会い退陣を要求したが、ゴルバチョフ氏はこれを拒否した。そのため保守派はゴルバチョフ大統領をこのクリミア半島の別荘の中に軟禁した。そして保守派は、8月19日早朝、「国家非常事態委員会」の発足を宣言し、「ゴルバチョフ大統領は病気となったためヤナーエフ副大統領が職務を引き継ぐこととなった」との声明を発表した。また、「国家非常事態委員会」はソ連軍に出動を命じ、放送局やロシア連邦共和国ビル(通称「ホワイト・ハウス」)を占領するよう指示した。明らかなソ連共産党保守派による反ゴルバチョフ・クーデターだった。

 戦車の出動に驚いたモスクワ市民は次々にホワイト・ハウスの周辺に集まって、戦車の進軍を阻止しようと試みた。エリツィン氏は「国家非常事態委員会」の動きは憲法に違反する不当なものだと主張して、大勢の市民とともにホワイト・ハウスへ向かった。ホワイト・ハウスへ向かっていたソ連軍の戦車に乗っていた兵士たちは、圧倒的な数の市民の動きを前にして「国家非常事態委員会」の命令に従わないことを決め、戦車を進めるのを止めた。このソ連軍兵士の決定にモスクワ市民は歓呼をもって応え、戦車の大砲の銃口に花束を差して、兵士たちの勇気ある判断を讃えた。この時、CNNのドキュメンタリー「Cold War」(映像・音声資料4)に登場した年老いたモスクワ市民の女性は、「市民の側に立った我がソ連軍の兵士を誇りに思う」と涙を流して語っていた。

 エリツィン氏は、「ホワイト・ハウス」の前に停止した戦車の上によじ登って、市民に向けて演説し、「国家非常事態委員会」の動きを非難し、ゴルバチョフ氏を救出することを宣言した。この映像は世界に配信されたが、この映像を見て、私は「現在の政治家は、こういった『テレビ向けのパフォーマンス』ができることが重要だ」と強く感じたのを今でも覚えている。一方「国家非常事態委員会」を形成する保守派のメンバーもテレビ・カメラの前で記者会見をしたが、発言の内容が強気なものであったにもかかわらず、彼らの態度は何となく落ち着かず、あるメンバーはクーデターが失敗に終わるかもしれないという恐怖のためか手が震えていた。テレビの画面を見ているだけで、クーデターの成否は明らかだった。

 8月20日、多くの市民によるデモ、ストライキが発生し「国家非常事態委員会」に対するソ連国民の非難は高まった。「国家非常事態委員会」の命令に従う一部の軍隊と市民との間で衝突も発生し、3名の死者が出たほか、多数の負傷者が出たと言われている。

 8月21日、軍の大半は「国家非常事態委員会」と距離を置く判断をした。保守派はクーデター続行は不可能と判断し、ゴルバチョフ氏との話し合いを申し出た。同日エリツィン氏は、クリミア半島にゴルバチョフ氏救出のための飛行機を飛ばし、8月22日未明、ゴルバチョフ氏はモスクワに帰還した。モスクワに戻ったゴルバチョフ氏が記者会見する様子をテレビの生放送で見たことを私はよく覚えている。

 ゴルバチョフ氏は、テレビ・カメラの前で、クーデターが発生してから救出されるまでの72時間をソ連国民と全世界に向けて率直に話した。ゴルバチョフ氏は、外界と完全に通信が断絶された状態で軟禁されている間、アンテナを張ってラジオでBBCやVOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)を聞いて情報を集めていた、と語っていた。軟禁中、誰も話し相手がいない中、ゴルバチョフ氏は死をも覚悟して、ホーム・ビデオ・カメラに向かって「遺言」を語り、録画した(この録画された「遺言」は、CNNのドキュメンタリー番組「Cold War」の中で使われている)。私は、ゴルバチョフ氏の記者会見の直後、FEN(日本でアメリカ軍により放送されているラジオ放送)でブッシュ大統領(父親)のコメントを放送しているのを聞いた。私は、まさにテレビと放送メディアにより、世界がリアルタイムで繋がっていることを改めて実感した。

 このクーデターでゴルバチョ氏は負けはしなかったが、ゴルバチョフ氏救出に尽力したエリツィン氏の政治的求心力は一気に高まった。また、ソ連共産党保守派によるクーデターの失敗は、ソ連国民のソ連共産党に対する信頼を完全に失墜させた。このクーデター失敗の直後、バルト三国のうち既に前年に独立を宣言していたリトアニアに続いて、ラトビアとエストニアも独立を宣言した。ゴルバチョフ氏自身も、8月24日にはソ連共産党書記長を辞任し、自らソ連共産党の解散を勧告した。ゴルバチョフ氏は、ソビエト連邦大統領の職には留まっていたが、9月に入り、ゴルバチョフ大統領もバルト三国の独立を承認した。

 ゴルバチョフ大統領は、なおも連邦の維持に努めようとしたが、最終的にウクライナが連邦維持を拒否して独立することを宣言し、12月8日にはロシア、ウクライナ、ベラルーシのソ連内部の三つの大きな共和国が独立国家共同体(CIS)を設立することで合意した。ロシア共和国のエリツィン大統領は、この三つの共和国の合意成立についてゴルバチョフ・ソビエト連邦大統領より先にアメリカのブッシュ大統領に連絡したという。ゴルバチョフ大統領は激怒したが、このことはもはやソビエト連邦が有名無実の存在となったことを示していた。三つの共和国に引き続き、ソ連内のほかの共和国も相次いでCISに加盟した。12月23日、ゴルバチョフ氏はエリツィン氏と会談し、ソ連大統領を辞任することに合意した。

 1991年12月25日、ゴルバチョフ大統領は、ソ連大統領職としての最後の仕事としてアメリカのブッシュ大統領に挨拶の電話をし、大統領を辞任した。その日、モスクワのクレムリンからソ連国旗が降ろされ、ソビエト社会主義共和国連邦は消滅した。ブッシュ大統領はこの日、国民に向けたクリスマスのテレビ演説の中で、長きにわたって続いてきた米ソ対立がこの日完全に終了したことを告げた。

以上

次回「4-2-2:『第二次天安門事件』の後遺症」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-e7ea.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月23日 (金)

4-2-1(1/2):東欧・ソ連革命(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第2部:「第二次天安門事件」以後の中国

--第1節:東欧・ソ連革命(1/2)

 ここで中国の動きを離れてこの頃の東ヨーロッパとソ連の動きを見てみよう。というのは、「第二次天安門事件」以後の東ヨーロッパとソ連の動きを見てみれば、トウ小平氏が何を恐れて武力による民衆の弾圧を敢えて実行したのかがある程度理解できるからである。トウ小平氏は、極めて先読みのできる政治家であり、もし民主化を求める大衆の動きをそのまま放置すれば、中国共産党による支配体制が崩壊するのはもちろん、中国という国家自体が分裂・崩壊しかねない、と恐れていたものと思われる。果たせるかなトウ小平氏が恐れていた事態が、「第二次天安門事件」の後、社会主義の祖・ソ連で起きることになる。

 ゴルバチョフ書記長と趙紫陽氏は、たぶん同じような考え方を持っており、共産党による支配体制内での改革を進めることで民衆の支持を繋ぎ止めることは可能であり、改革を進めることによってこそ、共産党による支配の長期継続を図ることができると考えていたに違いない。しかし、この後、ソ連が歩んだ道を見てみれば、ゴルバチョフ書記長の見通しが甘かったことがわかる。

 ゴルバチョフ書記長がソ連の中で改革を進めるとともに、東ヨーロッパ諸国に対しては、内政に干渉しない、という態度を表明したことから、東ヨーロッパ諸国では、それぞれの国ごとの事情に応じた改革が進められてきたことはこれまでも述べてきた。「第二次天安門事件」が起きた1989年6月の時点で、ハンガリーでは改革派が政府の主導権を握り、ハンガリー・オーストリア国境における違法越境者に対しても強硬な手段は取らないようになったこと、ポーランドにおいては、ポーランド統一労働者党のヤルゼルスキー第一書記が反体制派の自主管理労組「連帯」との対話路線へ転じていたことも、既に述べた。ヤルゼルスキー第一書記は「連帯」も含めた様々の勢力とポーランドの将来について議論する「円卓会議」を開催していた。「円卓会議」の議論により、ポーランドでは6月に自由選挙が行われることが決まっていた。

 違法越境者に対する強硬手段を停止したハンガリーは、1989年5月になって、オーストリアとの国境に張り巡らされていた鉄条網を撤去した。こうして、1946年にイギリスのチャーチル首相が「鉄のカーテン」と呼んだ東側諸国を囲っている囲いの一部が物理的になくなったのである。

 東ヨーロッパでこうした状況が起こっている中、北京での「第二次天安門事件」は起きた。この事件は、多くの西側報道陣によって、映像として世界に伝えられたことから、世界全体に大きな衝撃を与えた。特に東ヨーロッパの人々に対しては、「共産党による支配がとことんまで追い詰められると大変な流血の惨事が起きる」との印象を与えたに違いない。「第二次天安門事件」は、その頃底流に流れつつあったソ連と東ヨーロッパの人々の気持ちの中の「共産党離れ」を急速に加速させた可能性がある。

 「第二次天安門事件」が起きた1989年6月4日は日曜日で、ポーランドで戦後初の自由選挙が行われた日でもあった。時差の関係で、この日の未明、北京で起きた事態は、ポーランドでも選挙の投票が始まる前に報道されたと思われるが、「第二次天安門事件」がポーランドの選挙結果に直接的にどの程度影響を与えたのかはわからない。いずれにしても、このポーランドの選挙では、非共産党系の自主管理労組「連帯」が圧倒的な勝利を収めた。

 中国の「第二次天安門事件」の映像が東ヨーロッパ諸国の国民に具体的にどの程度の影響を与えたのかは定かではないが、少なくともこの頃の東ヨーロッパとソ連における政治の動きにおいては、テレビの影響が非常に大きかった、と言われている。この頃、ヨーロッパ大陸では衛星テレビ放送がかなり普及しつつあり、パラボラ・アンテナと衛星放送受信機があれば、他の国のテレビ放送でも簡単に受信できるようになっていたからである。国によって異なるが、多くの国ではゴルバチョフ書記長が進めるグラスノスチ(情報公開)政策により、衛星受信機の所持制限のような規制は緩和されつつあった。西側のテレビ放送を簡単に受信できるようになった東側の人々は、西側の豊かな経済と自由な文化に直接触れることができ、それに強く憧れるようになった。それが東ヨーロッパとソ連の歴史を大きく進めることになる。

 この衛星テレビが社会に与えた影響については、衛星放送開始当初から認識されていた。日本のNHKのBS放送は1987年6月に試験放送開始、「第二次天安門事件」直前の1989年6月1日に本放送を開始したが、BS本放送開始の頃の衛星放送普及のためのNHKのキャッチ・コピーに「衛星テレビは世界を変えた。人類は確かに進歩した。」というものがあった。東ヨーロッパ情勢を念頭に置いた時、私は、このコピーを聞いて実感を持って「そのとおりだ」と思ったことを覚えている。

 ハンガリー政府によるハンガリー・オーストリア国境の鉄条網の撤廃は、ハンガリー人のオーストリア経由での西側への渡航制限を大幅に緩和したことにより、国境での鉄条網の存在意義がなくなったから行われたのであった。この頃、東ドイツのホーネッカー国家評議会議長率いるドイツ社会主義統一党の政権は、以前のソ連のような秘密警察を使った国民に対する締め付け政策を続けていた。厳しい監視の目を逃れて西ドイツへ行きたいと考えた東ドイツ国民は、ハンガリー・オーストリア国境経由で西側へ逃れることを期待して大量にハンガリーに旅行するようになった。このため自国民のハンガリー経由での流出を懸念した東ドイツ政府は、ハンガリーへの渡航にも制限を掛けるようになった。そうなると、東ドイツ国民は、ハンガリーと東ドイツの中間にあるチャコスロバキアへ行き、プラハにある西ドイツ大使館に亡命申請を行うようになった。

 1989年の夏休みの旅行シーズン、休暇旅行の名目でチェコスロバキアを訪れた多数の東ドイツ国民が、プラハの西ドイツ大使館周辺に亡命申請手続きするために集まった。あまりに多数の東ドイツ国民が集まり手続きが間に合わなくなったことから、待ちきれない東ドイツ国民の中には庭の柵を乗り越えて西ドイツ大使館の中庭に侵入する者が相次いだ。やがてプラハの西ドイツ大使館の中に入り込んだ東ドイツ国民の数は7,000人に達し、プラハの西ドイツ大使館の中庭は、さながら難民キャンプのような様相を呈するようになった。

 夏の暑さの中、多数の人々が集まって健康上の問題が発生することも懸念されたことから、西ドイツ政府は人道的立場から善処するよう東ドイツ政府と交渉を行った。ゴルバチョフ書記長のソ連は、各国は各国のやり方で社会主義を進めるべき、という態度であり、もやはソ連は東ドイツのホーネッカー政権の後ろ盾としては動かなかった。人道的立場からの国際社会からの圧力もあり、東ドイツ政府は、東ドイツ国籍を取り消すことを条件に、プラハの西ドイツ大使館に集まっていた人々の西ドイツへの出国を認めた。人々は喜んで東ドイツ国籍を証明する身分証明書を東ドイツ当局に突き返して、西ドイツへ出国していった。

 ハンガリー、ポーランドの例やプラハの西ドイツ大使館に集まった東ドイツ国民に対する国際社会からの圧力の前にソ連が介入しなかったことを見て、東ヨーロッパ諸国内における民主化の動きにソ連が介入しないことが明確になった。このため、9月になると、東ドイツ国民の中には、西側へ逃れるのではなく、東ドイツに留まって政府に改革を要求しようと考える人が増え始めた。まず東ドイツ国民にとって最も切実な具体的要求は、西側への旅行証発給手続きの緩和だった。

 東ドイツのライプチヒの聖ニコライ教会では、毎週月曜日に教会の集会が持たれていたが、教会での集会に集まる人々は旅行証発給手続きの緩和を求め、教会は次第に政治的な運動を行う場に転化していった。人々は毎週月曜日の夜の集会が終わると、街を一周するデモ行進を行うようになった(「月曜デモ」)。ライプチヒ市当局は、デモに対する警官隊による警戒を強めたが、月曜デモは週を追うごとにその規模を拡大させていった。

 こうした中、1989年10月7日、ソ連のゴルバチョフ書記長が東ドイツ建国40周年記念式典に出席するため東ドイツを訪問した。東ドイツ当局は、建国40周年を祝うスローガンを叫ばせるため大衆を動員した。集まった大群衆の前に出てきたホーネッカー議長とゴルバチョフ書記長の二人に対して、東ドイツ国民が上げた声は東ドイツ建国40周年を祝う言葉ではなく、「ゴルビー!ゴルビー!」というシュプレヒコールだった。この「ゴルビー!ゴルビー!」という東ドイツ国民の叫び声は、ホーネッカー議長の退陣を要求していることは明らかだった。この東ドイツ訪問時、ゴルバチョフ書記長はホーネッカー議長と3時間に渡り会談し、改革を進めるよう説得したが、ホーネッカー議長は頑としてそれを拒んだという。

 2日後の10月9日は月曜日だった。この日もライプチヒの教会では月曜集会が開かれていた。ベルリンでの人々の「ゴルビー!」コールを受けて、ライプチヒのこの日の「月曜デモ」には多数の市民が参加することが予想された。ライプチヒ市当局は、治安部隊のデモ隊鎮圧の準備をさせて待機させた。

 この日、ソ連政府はベルリンのソ連大使館を通じてライプチヒ周辺にいるソ連軍に対して「全ての活動を停止して静穏を保ち、いかなる事態が発生しても介入しないように」という指示を与えていた。この日、街頭に繰り出したライプチヒ市民は7万人に達した。やがて大規模な「月曜デモ」が始まった。市内は一触即発の緊張感が高まった。ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者クルト・マズア氏ら市民に人望のある有力者たちは、市当局に対して声明を出し、流血の事態は避けるよう要請した。市当局は、これら市の有力者たちの要請を受け入れ、武力によるデモの鎮圧を中止した。デモ隊も過激な行動はせず、多数の市民が参加したこの日の「月曜デモ」は流血の事態に至らずに平和裡に終了した。これが東ドイツにおけるひとつのターニング・ポイントだった。

 この時、ライプチヒのデモに参加した市民の側、デモ隊を鎮圧しようとした当局側の双方は、「4か月前の北京の天安門前での悲劇をここで繰り返してはならない」という同じ思いを持っていたという。

 東ドイツ国民の運動の盛り上がりの前で、ドイツ社会主義統一党の内部では、ソ連の後ろ盾がなくなった今、国民の要求に背を向けた姿勢を続けることは党の支配体制自体を崩壊させかねない、との危機感が高まった。強硬路線を貫こうとするホーネッカー議長を続投させていたのでは、政権の維持が困難になると考えたドイツ社会主義統一党の多くの幹部は、10月18日の政治局会議で、突然、ホーネッカー議長の解任の動議を提出した。多くの政治局員が自分を解任したいと思っていると感じたホーネッカー議長は、とっさに状況を理解し、自らも自分自身の解任案に賛成した。この日の政治局会議は結局、全会一致でホーネッカー議長を解任する決定を行った。ホーネッカー氏の後任としてクレンツ氏が国家評議会議長に選出された。

 クレンツ氏は、国民の不満を緩和し、段階的な民主化を進めようとする方針を採った。最も国民の不満が高かった西側への旅行許可については、11月9日、大幅な手続き緩和を定めた旅行自由化令を公布し、即日施行した。この政令は、一定の手続きに基づく許可を得た上で西側への旅行を認めるというもので、翌11月10日から許可手続きが開始されることになっていた。しかし、記者会見でこの政令の制定について説明した党のスポークスマンは、政令制定の議論に参加していなかったため、政令の施行のタイミングを正確に把握していなかった。記者から「西側への旅行が許可されるのはいつからか」と質問されたのに対し、「この政令は即日施行だから、今からだ。」と発言した。この記者会見はテレビで生中継されていたため、このスポークスマンの発言を聞いた東ベルリン市民は、ベルリンの壁のところにある国境検問所に殺到した。

 検問所にいた国境警備隊員は、この政令について何の指示も受けていなかった。東ベルリン市民は、党のスポークスマンが今から西側への旅行が許可されることになった、と発言したのだ、と国境警備隊員に詰め寄った。国境警備隊員は本部に電話を入れて確認したが、本部からの指示は、ただ状況を監視せよ、というものだけだった。しかし、テレビを見た東ベルリン市民は次々に国境検問所に押し掛けた。国境警備隊員はいつものように武装していたが、少人数の国境警備隊員だけでは対処することは困難なのは明らかだった。国境検問所周辺は制御不能の状態となり、押し寄せる大量の市民は、ついに国境のゲートをこじ開けて、西ベルリン側にあふれ出た。国境警備隊員は、もうどうすることもできなかった。市民に向けて発砲する国境警備隊員は誰もいなかった。

 国境のゲートがこじ開けられたけれども何事も起きないことを知った東ベルリン市民は、さらに次々と国境ゲートに押し掛けた。国境ゲートは人々の圧力で次々に押し開かれ、多くの東ベルリン市民がどっと西ベルリンに流入した。西ベルリン市民は歓喜してこれを迎え入れた。東西ベルリン市民は、歓喜の渦の中で一緒になってベルリンの壁に殺到し、ある人々は壁にペンキで落書きを描き、ある人々は壁によじ登り、ある人々はハンマーやツルハシで壁を壊し始めた。東ドイツ当局は、この動きを見守るだけで何もしなかった。やがて大型の重機が持ち込まれて、本格的な壁の撤去作業が始まった。

 こうして、1961年に東西冷戦の中で築かれた「ベルリンの壁」は、この日、1989年11月9日、東西ベルリン市民の手によって崩壊した。アメリカの雑誌「タイム」誌は「今後、歴史の教科書では『冷戦:1945年~1989年』と書かれることになるだろう」と書いた。東西ドイツはこれから1年も経たない1990年10月3日、ひとつの国として統一されることになる。

以上

次回「4-2-1(2/2):東欧・ソ連革命(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-2db4.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月21日 (水)

4-1-9:【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」

【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】

 「第二次天安門事件」のきっかけとなった胡耀邦氏の死去から21年目の2010年4月15日、「人民日報」は2面に温家宝総理の文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を掲載した。

(参考URL1)「人民日報」2010年4月15日付け2面
http://paper.people.com.cn/rmrb/html/2010-04/15/nbs.D110000renmrb_02.htm

※最近、人民日報のバックナンバーは有料化されており、時間が経過すると上記のページも有料の会員登録をしないと見られなくなるようになる可能性がある。なお、このページはインターネット・エクスプローラー以外のブラウザには対応していないようなので、閲覧する際にはブラウザの選択に注意する必要がある。

 この温家宝総理の文章は、1986年2月に胡耀邦総書記が貴州省の興義などの貧困地区を視察した際、胡耀邦氏は体調を崩して熱を出していたにもかかわらず、真剣に地区の人々の実情を知ろうとしていた、として、胡耀邦氏を懐かしみ、その業績を讃えるものとなっている。

 胡耀邦氏が1987年1月、前年末に起こった学生運動に対して同情的であり対応が緩かったとして党総書記を辞任(実質的な解任)したこと、その死が1989年の「第二次天安門事件」のきっかけになったことはこれまで述べてきたとおりである。また、「第二次天安門事件」に関する対応の過程で、当時、江沢民氏が党書記をしていた上海市党委員会の指示により、胡耀邦氏の業績を讃える座談会を実施してその記事を掲載しようとした「世界経済導報」が発禁となり、その編集長が解任されたことが、多くのジャーナリストの反発を招き、それが「第二次天安門事件」の拡大のひとつの要素であったことも述べた。また、趙紫陽氏が失脚した後、この「世界経済導報」に対する措置を評価されて江沢民氏がトウ小平氏により二階級特進して党総書記に抜擢されたことも述べてきた。

 胡耀邦氏をどう評価するか、については、現在の中国においては、極めて政治的に微妙な問題である。後に「第4章第2部第4節:胡錦濤主席は新しい道を切り開けるか」で書くことになるが、「第二次天安門事件」の時の政治局常務委員で趙紫陽氏と同じ立場に立っていた胡啓立氏が2005年12月に書いた胡耀邦氏の業績を讃える論文「我が心の中の胡耀邦」が2006年1月に中国青年報の週刊特集ページ「氷点週刊」の停刊を招いたと言われている(「氷点週刊」停刊事件)。

 胡耀邦氏の業績を讃えることが現在の中国において「政治的に微妙」なのは、趙紫陽氏の後任の党総書記となり、国家主席にもなった江沢民氏がトウ小平氏に抜擢された直接の理由が、「第二次天安門事件」において、胡耀邦氏を讃えた「世界経済導報」を発禁処分にするという「厳正な措置」を採ったことだからである。胡耀邦氏を讃えることは、江沢民氏が党総書記・国家主席に抜擢された根拠を否定することと直結することになる。

 「氷点週刊」停刊事件のきっかけとなった2005年12月の胡啓立氏の「我が心の中の胡耀邦」と今回(2010年4月15日)の温家宝総理の「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」は、内容的にはともに同じように胡耀邦氏を偲び、その業績を讃える、というものである。温家宝総理は、胡耀邦氏、趙紫陽氏、江沢民氏の三代に渡る党総書記の時代に党弁公庁(党の事務局)の幹部として働いていたのだから、温家宝氏が胡耀邦氏を懐かしむ文章を書いても不自然ではないが、この時期に(「趙紫陽極秘回想録」が出版された後の現時点において)書かれた温家宝総理の文章は、胡啓立氏の文章に比べて、以下の点において、より「刺激的」である。

○胡啓立氏は「元政治局常務委員」とは言え、文章を執筆した時点では既に引退しており、身分的には「一般の人」である。それに対して温家宝氏は現役バリバリの政治局常務委員であり、国務院総理である。

○文章が掲載されたのが、胡啓立氏の場合は中国共産主義青年団の機関紙「中国青年報」の週刊特集ページ「氷点週刊」であったのに対し、温家宝総理の文章は中国共産党の機関紙「人民日報」に掲載された。「人民日報」は中国共産党の公式な機関紙であり、「中国青年報」より権威があるのは当然のことである。

○論文の内容が胡啓立氏の「我が心の中の胡耀邦」では、胡耀邦氏の業績を称え、懐かしむのにとどまっているのに対し、温家宝総理の「再び興義へ戻って胡耀邦を思う」の方では、温家宝氏は、胡耀邦氏が1989年4月8日に政治局の会議の途中で心臓発作で倒れた時にはすぐに病院まで送り届け、4月15日に亡くなった時には真っ先に病院に駆け付け、(「第二次天安門事件」の後の)1990年12月に江西省の共産党青年団の葬儀には自分が胡耀邦氏の遺骨壺を持っていき、その後も毎年春節(旧正月)には追悼のために胡耀邦氏宅を訪れたりしていることが述べられている。これは温家宝氏が「第二次天安門事件」の前後において、胡耀邦氏に対する尊敬の念を一貫して変えていなかったことを表しており、温家宝氏が「第二次天安門事件」に関して、何ら「自己批判」をしていないことを表明したのに等しい。

○「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)は中国国内では発禁本であるが、温家宝氏は、中国の政治運営を担う責任者の一人であるから、今後の中国情勢に影響を与える可能性がある本として「趙紫陽極秘回想録」を読んでいることは間違いない。「趙紫陽極秘回想録」の中で、趙紫陽氏は、胡耀邦氏が1983年秋に始まった「精神汚染キャンペーン」に反対し、1984年6月時点でトウ小平氏から「反自由化に対してあまりに弱腰だ」と批判されながら態度を改めず、1986年夏には既にトウ小平氏は胡耀邦氏の党総書記職を解く腹を決めていた、と語っている。趙紫陽氏は、トウ小平氏は、1987年秋の第13回党大会では胡耀邦氏を解任するつもりであり、1986年末の学生運動の結果、1987年1月に胡耀邦氏が党総書記が辞任したのは、辞任のタイミングが数ヶ月早まっただけに過ぎない、と語っているのである。温家宝総理が、そういった経緯を承知の上で、1986年2月の胡耀邦氏の地方視察の際の事例を引き合いに出して胡耀邦氏の業績を賞賛した、ということは、江沢民前総書記・国家主席の就任根拠を否定するのみならず、トウ小平氏が先導した1983年の「精神汚染キャンペーン」や1987年の「ブルジョア自由化反対運動」をも批判することに繋がり、1989年の「第二次天安門事件」における運動を引き起こした学生・市民・ジャナーナリスとの考え方を支持するものと捉えられても不思議ではない。

※1989年5月19日早朝に趙紫陽総書記が天安門前広場へ行ってハンストを行っている学生らの前でハンドマイクを持って「我々は来るのが遅すぎた」と述べた時の趙紫陽氏の右隣に当時党弁公庁主任の温家宝氏が映っている写真はあまりにも有名である。この写真は「趙紫陽極秘回想録」(日本語版)の表紙を飾っている。この写真は、温家宝氏が単に党弁公庁主任という職務上やむなく趙紫陽氏に同行した、というよりは、温家宝氏が心情的には趙紫陽氏と同じ考えを持っていた、という印象を与えている。今回の「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」という文章は、その「印象」が単なる「印象」ではなく「事実」であると確信させるのに十分である。

○現職の国家指導者は、いろいろなところで演説や講話をするチャンスがあるので、自分の考えを述べたいのだったら「演説」「講話」の形で発表すればよいのだが、温家宝総理は、わざわざ追悼文を「人民日報」に「寄稿」している。この点は極めて奇異に映る(現職の温家宝総理が新聞に文章を「寄稿」することは、オバマ大統領や鳩山総理が新聞に「寄稿」するののと同じことであり、極めて「異例」である)。このことから、この文章の発表は、温家宝氏の一定の「決意」を表しているとも考えられる。

 本節において、「第二次天安門事件」を述べる冒頭で「時として、歴史の中で、単なる偶然の一致が大きな動きのきっかけになることがある。」と書いた。胡耀邦氏の死去のタイミングが「第二次天安門事件」のような大きな動きのきっかけとなったのが、ゴルバチョフ書記長訪中のちょうど1か月前という絶妙なタイミングだったからである。今回の「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」が掲載される前日の2010年4月14日、チベット族が多く住む青海省玉樹において大地震が発生し、大きな被害が出たのも、あるいはそういったひとつの「偶然」なのかもしれない。この文章が「人民日報」に掲載された4月15日には温家宝総理自らが現地へ飛び、救援活動の指揮に当たった。その後、外国訪問中の胡錦濤主席や李長春政治局常務委員も急きょ帰国した。

(注)李長春氏は、宣伝担当で、「人民日報」をはじめとする出版物を管理・監督する立場の政治局常務委員である。2006年の「氷点週刊」停刊事件は、胡耀邦氏の業績を讃えたいと考えている胡錦濤総書記と江沢民前総書記に近い李長春氏の二人の現職政治局常務委員の争いが背景にある、との見方がある。今回、「人民日報」に温家宝氏による胡耀邦氏を追悼する文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」が掲載された時、胡錦濤総書記も李長春氏も、外国訪問中で北京を留守にしていた。これが単なる偶然なのかどうかは、わからない。

 2008年5月の四川省大地震の時もそうであったが、困難な事態において陣頭指揮する温家宝総理を多くの中国人民は尊敬し、支持している。もし仮に、ある政治勢力が「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を書いたことによって温家宝総理を批判するようなことがあったら、中国人民はそういった政治勢力を許さないであろう。

 1年前の2009年4月15日の人民日報には、「愛国主義を持って時代の光を放とう」という論評が掲げられ、この後「愛国主義」の運動が展開された。

(参考URL2)2009年4月15日付け「人民日報」1面
「愛国主義を持って時代の光を放とう」
http://paper.people.com.cn/rmrb/html/2009-04/15/nbs.D110000renmrb_01.htm

※最近、人民日報のバックナンバーは有料化されており、時間が経過すると上記のページも有料の会員登録をしないと見られなくなるようになる可能性がある。なお、このページはインターネット・エクスプローラー以外のブラウザには対応していないようなので、閲覧する際にはブラウザの選択に注意する必要がある。

 これは2009年は「第二次天安門事件」20周年の年であり、20周年を記念して「第二次天安門事件」を起こした市民・学生・ジャーナリストの主張を支持する勢力が力を吹き返すことを警戒した当局が、「愛国主義」という形でそれを抑え込もうとしたことの表れであったと思われる。その1年後、現職総理の温家宝氏が2009年とは全く別のベクトルの文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を発表したことは注目に値する。もしかすると、これは、趙紫陽氏の再評価、ひいては「第二次天安門事件」の再評価に繋がることになるのかもしれない。

以上

次回「4-2-1(1/2):東欧・ソ連革命(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-099b.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月20日 (火)

4-1-9(5/5):「第二次天安門事件」(5/5)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」(5/5)

 5月20日午前0時、李鵬総理が同日午前10時から戒厳令を敷くことを予告する放送を行った。18日の長老会議では21日午前0時を持って戒厳令を敷くことを決めていたが、「事態が急変したので戒厳令実施を繰り上げた」と後に楊昆尚氏が明らかにしたという(「トウ小平秘録」(参考資料17))。李鵬総理は、放送の中で「党中央、国務院を代表して」と述べた。党の代表は本来は総書記の趙紫陽氏のはずであることから、この放送により中国の人々は趙紫陽氏が失脚したことを知った。

 「トウ小平秘録」によると、戒厳令が発表された直後から、多くの人々が人民解放軍の動きを阻止する行動に出始めたという。多くの人々の進軍阻止の動きに対し、多くの若い兵士が動揺を示したほか、5月18日に出された進軍命令に対し、第38軍の徐勤先司令官は命令を拒否したという。「トウ小平秘録」に掲載されている1989年12月に行われた全軍工作会議で明らかになった数字によれば、「第二次天安門事件」の作戦中、将校111人が「重大な軍紀違反」を犯した、という。また、5月21日、張愛萍元国防部長ら8人の上将(大将に相当)が「絶対に人民に発砲し、流血を起こしてはならない。事態のさらなる悪化を回避するため、軍隊は北京に進軍してはならない」という声明を発表したという。こうした動きの中、戒厳令は出されたものの、戒厳部隊は北京市内へは進軍できない、という状況が続いた。

 客観的に言って、丸腰の学生や市民らの動きに対して、戒厳令を発令し、人民解放軍を動かすことは過度な反応だ、ということもできる。これに関して、「天安門事件の真相」(参考資料26、27)では、人民解放軍の内部に学生や市民の運動に対して同情的な人々もおり、軍の一部が党中央の決定に対して反旗を翻す軍事クーデターの懸念も払拭できなかったことから、人民解放軍に出動命令を出したのだ、という見方もあることが指摘されている。

 学生や知識人たちが最後の可能性として期待したのは、この時、カナダ・アメリカを訪問中だった万里全国人民代表大会常務委員長だった。万里氏は、趙紫陽氏に近く、事態打開に動いてくれるのではないか、と思われたからである。特に、新華社が、5月17日、万里氏が訪問先のカナダで学生らの運動を「愛国的運動」だと評価する発言をしたと伝えていことから、多くの人々が期待を抱いていた。万里氏は、委員長として全人代常務委員会を招集する権限を持っている。中国共産党の決定が全てである中国においては、全人代が党の決定をひっくり返すことはあり得ないが、万里氏が全人代常務委員会を招集し、決定を覆すことはできなくても全人代常務委員会で戒厳令に反対する意見が多く出れば事態が好転するのではないか、と淡い期待を寄せる人もいた(中国の全人代は、政府提案議案を否決することはないが、議案によっては相当数の反対票・棄権票が出ることもあり、いつも満場一致で可決という完全な「スタンプ機関」ではないことは前に述べた)。

 万里氏は予定を繰り上げて、5月25日に帰国した。しかし、到着先は北京ではなく上海だった。新華社電はその理由について「病気療養のため」と伝えた。万里氏は、帰国した二日後、党中央決定を支持すると表明した。全ての可能性は失われた。万里氏にトウ小平氏の意向が伝えられていた結果だという。

 当時、北京に駐在していた私の後任者から聞いた話では、そもそも北京では天安門広場周辺は騒然としていたものの、そのほかの地域では通常の日常生活が続いており、ビジネスも通常通り行われていたという。天安門前広場に集まる人の数もゴルバチョフ書記長が訪中していた5月中旬頃がピークで、その後は運動は退潮していた、と見る人もあった。5月下旬になると、運動は下火になったという見方も出たという。

 運動をする側の人々にとっても、4月26日の社説も撤回されず、政府との対話も実現せず、時間だけが流れていた。5月29日、中央美術院の学生らが発砲スチロールと石膏で作った「張りぼて」の「自由の女神」を模した像が天安門前広場に持ち込まれた。人々はこれを「民主の女神」と呼んだが、事態は膠着状態となった。

 6月2日、趙紫陽氏以外の政治局常務委員と八長老が参加した「八老会」が再び開かれた。多くの参加者から「神聖な天安門前広場をこのまま放置しておくわけにはいかない」との意見が出され、トウ小平氏が「戒厳部隊は今夜排除計画を実行に移し二日以内に完了する」と提案して会議は終了した(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。

 戒厳部隊は、東西南北から北京への進軍を開始した。しかし、北京市民は道路にバリケードを築くなどして軍の侵入を阻止した。この時、各部隊には武器の使用は極力控えるよう指示が出されていた。軍の本体の市内侵入を容易にするため、前もって私服の兵士を市内に移動させようとしたところ、それも市民に阻止される事態も起きたという。その際、軍と市民らとの間で小競り合いも生じていたようである。

 予想外に激しい市民による抵抗を前にして、6月3日午後4時、中央軍事委員会が開かれて対処が協議された。李鵬総理は「昨日深夜以来、反革命暴乱が発生した。暴乱平定に果断な措置を取るべきだ」と、武力行使を主張したという(「トウ小平秘録」)。同日午後6時、テレビ、ラジオが「緊急通告」として「反革命暴乱への反撃」を予告し、市民に外出しないよう呼びかけた。「反革命暴乱」という言葉が使われた最初だった。

 「天安門事件の真相」(参考資料26、27)では、私服の兵士を市内に移動させたのは、当時の状況では、学生・市民からの抵抗は容易に想像できたことから、武器を持たない兵士に対する投石などの行為をやらせ、それを「反革命暴乱」と名付けるための一種の「謀略」だった、という見方もあることを指摘している。暴力行為がない状況では、人民解放軍を投入する理由が成立しないからである。

 「緊急通告」は市民に外出をしないよう呼び掛けるものだったが、逆に、この放送により、多くの市民が軍の市内への侵入を阻止するために市内に繰り出した。この時、共同通信記者として取材に当たっていた「トウ小平秘録」の著者の伊藤正氏は、6月4日午前0時、西長安街西単付近にいたカメラマンから「軍が発砲した。市民はバスに火を付けて抵抗している。軍は天安門方向に向かった。」という電話を受けたという。

 天安門に最初に到着した軍隊は、西から市内に入った第38軍を中心とする北京軍区の主力部隊で、6月3日夜9時過ぎに長安街の西端にある公主墳に入り、天安門前に付いたのは6月4日午前1時頃だったという。この間の約8キロを4時間掛けて進んでいることから、途中で市民による相当の抵抗があったものと思われる。「トウ小平秘録」によれば、最初の衝突は木犀地(公主墳の東約2キロの地点)で起き、市民はバスや車両に放火して抵抗したという。こうした市民の抵抗に対して、軍は発砲しながら前進した(上に書いた西単は天安門の約2キロ西にある)。

 「トウ小平秘録」によれば、南から入ろうとした部隊(済南軍区第54軍)は、空へ向けた威嚇発砲はしたが市民に対する発砲はしなかった、という。北部方面部隊(北京軍区第24部隊)と東部方面部隊(瀋陽軍区第39軍など)は市民の抵抗に対して発砲せず、北京市内への入城を断念したという。

 天安門前広場に到着した戒厳部隊は6月4日午前3時までに広場の周辺をほぼ制圧し、午前4時に強制排除を実施するとの最後通告を出した。この時、天安門広場の中心にある人民英雄記念碑の周辺には約3,000人の学生らがいた。ハンストを行っていた北京師範大学講師の劉暁波氏らは、もはやこれ以上の抵抗は無理と判断し、戒厳部隊指揮官と交渉して、無抵抗撤退をする場合の安全の確保を約束させる一方、学生らに退去するよう説得した。しかし、学生らは納得せず、撤収しなかった。戒厳部隊は午前4時半、天安門広場の照明を付け、実力行使を行う予告をスピーカーで行った。学生たちは、最後のこの場面で、発声による投票を行い、ついに撤収することを決めた。午前5時半、学生たちはインターナショナル(革命歌)を歌いながら天安門前広場から退去した。張りぼての「民主の女神」は装甲車によって押し倒された。

(注)劉暁波氏は、この後も民主化運動を続け、2008年12月にインターネット上に出された「08憲章」の主要発起人の一人となった。その後「08憲章」を発表したことで「国家転覆罪」で逮捕され、二審制の裁判の結果、2010年2月、懲役11年、政治的権利はく奪2年の刑が確定している。

 学生らが天安門前広場を撤収する場面は、外国のテレビ局により撮影されており、私は1991年頃、NHKの番組で見た記憶がある。この時撮影された映像を見る限り、学生たちが最終的に天安門前広場から撤収した場面においては発砲は起きなかった。中国側当局は、今でも「天安門前広場では死者は出ていない」と主張しているが、西側報道機関関係者の話などを総合すると、「広場の中」で死者が出なかったのは事実のようである。

 しかし、戒厳部隊が市内に入るのを阻止するために抵抗した市民に対する発砲や、広場周辺を戒厳部隊が制圧する過程において、多数の死傷者が出たことは間違いがない。具体的な死傷者の数は今でも明らかではないが、「トウ小平秘録」によれば、1989年9月に訪中した自民党の伊東正義氏に対して李鵬総理が「死者319人(10数人の兵士を含む)。うち学生は36人で、大半は市民、労働者だった」と語ったという。「そうだったのか!中国」(参考資料4)では、別の数字として、1996年になって香港の雑誌が、中国公安部の報告として民間人の死者523人、軍・警察の死者45人と伝えている、と記している。「参考資料5:中国現代史」では、中国紅十字会(赤十字会)の話として、6月4日の未明の銃撃だけで2,600人前後が死に、1万人が負傷した、という数字を紹介している。

 「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)によれば、5月19日に三日間の「休暇届け」を出し、その後は完全に「蚊帳の外」に置かれていた中国共産党総書記の趙紫陽花氏は、6月3日の晩、自宅に家族と一緒にいて、聞こえてきた銃声によって、事態が始まったことを知ったという。

 天安門広場は戒厳部隊によって完全に制圧された。多数の学生や市民が広場を占拠する戒厳部隊に抵抗を試みるが、銃による威嚇で解散させられた。これらの様子は海外のメディアで広く報道された。ある学生らしき若い男が長安街で戦車の隊列の前に立ちはだかり戦車を立往生させるシーンが、当時、北京飯店にいた複数の外国報道機関により撮影され、世界に配信された。6月7日には、建国門橋の上にいる戦車と近くの外交公寓にいる何者かとの間で銃撃戦が行われ、その様子も外国で報道された。しかし、このような写真や映像を今中国では全く見ることができない。世界中のネット上の多くの場所に「第二次天安門事件」に関する写真や映像は掲載されているが、これらのウェブ・ページは中国国内(香港等を除く大陸部)からはアクセス制限が掛かっており閲覧できないからである。従って、1989年6月初めに起こったこれらの出来事については、世界中の人々は知っているのに、中国の人々だけが知らない、という状態が今でも続いている。

(注)6月7日に起きた建国門橋上での銃撃戦については、6月4日の天安門前広場制圧の3日後のタイミングであることなどを踏まえ、誰と誰がどういう理由で銃撃戦を行ったのかは今でも明らかにされていない。

 6月9日、トウ小平氏は共産党本部のある中南海で戒厳令部隊幹部を慰問し、武力鎮圧を正当化するとともに、今後とも改革開放路線を継続することを宣言する講話を行った。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「党史記念館」-「トウ小平記念館」-
「著作選集」-「トウ小平文選第三集」
「首都戒厳令部隊幹部接見時の講話」(1989年6月9日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69696/4950037.html

 この講話で、トウ小平氏は「4月26日の『人民日報』の社説で、今回の問題について『動乱』という二文字を使った。一部にこの二文字を使ったことに反対し、修正すべきだという人がいたが、実際を見てみれば、この判断は正しかったことが証明された。」と述べている。やはり4月26日の社説の取り扱いが党内で大きな問題であったことを伺わせる講話である。

 当時、北京市内でも天安門周辺と戒厳部隊が突入した経路にあたる部分では激しい衝突が起こったが、それ以外の場所では、比較的平穏が保たれていた。北京の運動は中国各地に飛び火していたが、市民や学生の運動が行われている場所以外では平静は保たれており、経済活動は通常に行われていた。「第二次天安門事件」発生直後、多くの外国企業は職員の安全のため中国からの引き上げを行ったが、北京以外の場所にいた外国人にとっては国外へ待避する必要性を全く感じない人も多かったようである。北京での武力鎮圧の模様が中国国内では報道されなかったためと思われる。

 「第二次天安門事件」の直接の影響を受けた地域はごく限られた地域であり、トウ小平氏も改革開放路線は継続すると宣言したが、人民解放軍の投入による民衆の運動の鎮圧は、西側各国の反発を呼び、これから数年間、外国との経済関係は冷却化し、実質的に「開放路線」は一時的に頓挫することになる。諸外国が政治的に中国との交流をストップさせたからでもあるし、外国企業の中にも「やはり中国はとんでもないことをする国である」という「チャイナ・リスク」のイメージを持ったところが多かったからである。こういった経済的なダメージだけでなく、「第二次天安門事件」は中国や関係した人々に計り知れない傷跡を残すこととなった。

 6月23日、中国共産党第13期中央委員会第4回全体会議(第13期四中全会)が開催され、「動乱を支持し、党を分裂させた」として趙紫陽氏の総書記の職を解く決定がなされた。「趙紫陽極秘回想録」によれば、会議の当初、趙紫陽氏は総書記の職と政治局委員の職は解任されるものの、中央委員の職には留まる旨が提案されていたという。しかし、趙紫陽氏は「自己批判」せず、提示された解任する理由に反論する演説を行った。そのため、最終的には中央委員の職も解任された(党籍剥奪はされなかった)。趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」の中で、会議の中で自分の考えに従って解任理由に反論したことをもって当初提案されていたのよりも厳しい措置が採られるとは、甚だしく党の規約に違反している、と憤慨している。

 趙紫陽氏は、この後も「審査のため」として軟禁状態に置かれ、形式上の審査が終わった後も軟禁状態は継続された。趙紫陽氏は、総書記の解任は党の決定であるのでやむを得ないとしても、反論の場を与えられないことと、自分を自宅軟禁状態にすることの法的根拠はどこにもないと考えていた。そして、そういった不合理な扱いについて記録に残し、後世に伝える必要があると考えて、自分が国務院総理、党総書記を歴任し、その後解任されて軟禁状態に置かれている状況を口述してテープに録音するという形で「回想録」を残すことにした、と語っている。

 趙紫陽氏の後任の総書記として、上海市党委員会書記だった江沢民氏が総書記に選出された。政治局常務委員ではなくヒラの政治局委員だった江沢民氏が党のトップに選出されたのは、二階級特進の異例の措置だった。「世界経済導報」の発禁や編集長解任などの迅速な措置が評価されたためだ、と言われている。前にも書いたように1986年暮の学生運動の際、上海市長として早いタイミングで学生の前に現れて「君たちの行動は理解できる」と述べた対応の迅速さが評価されたことも背景にあるのではないか、と私は見ている。ただし、これから見ていくように、江沢民氏は、保守派でも改革派でもなく、その政治理念は必ずしも明確ではない。トウ小平氏からすると、ガチガチの保守派ではなく政治的には無色透明だった、ということも江沢民氏を抜擢した理由なのかもしれない。トウ小平氏としては、保守派の李鵬氏(国務院総理)を党総書記にすることは、改革開放路線継続の観点でよくないと判断したと思われるからである。

 「第二次天安門事件」以降の中国について述べる前に、次節では、この「第二次天安門事件」も大きな影響を与えた東ヨーロッパとソ連の動きについて述べることとしたい。

以上

次回「4-1-9:【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-9ab9.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月19日 (月)

4-1-9(4/5):「第二次天安門事件」(4/5)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」(4/5)

 5月16日、ゴルバチョフ書記長は昼前にトウ小平氏と会談し、夕方に趙紫陽総書記と会談した。「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、趙紫陽総書記はゴルバチョフ書記長に対し「午前中の書記長とトウ小平氏との会談で中ソ関係は正常化した」と話した後、そう考える理由を次のように説明したと公表した。

「1987年10月の第13回党大会で、トウ小平同志は中央委員会から退いたが、(大会後の)中央委員会総会(一中全会)で『最重要問題についてはトウ小平同志の舵取りが必要だ』と決定した。以来、われわれは重要問題の処理に当たってはトウ同志に報告し教えを求めている。この重要決定はあなたに初めて話した。」

 この発言は、中国の最終意志決定権者は党総書記たる自分ではなくトウ小平氏である、ということを対外的に宣言したのに等しかった。これは、それまでの混乱の原因となった決定の責任は自分にはなく、トウ小平氏にあるのだ、という宣言でもあった。趙紫陽氏自身がどう考えていたかはともかく、周囲の人々はそうこの発言をそう捉えた。当時秘密とされていた「重要事項はトウ小平氏に相談する」という決議を党の総書記自身が外国の首脳に暴露したことは、極めて異常なことだった。

 1987年10月の第13回党大会の直後に開かれた第13期中国共産党中央委員会第1回全体会議(第13期一中全会)は、決定した人事の中で、トウ小平氏、李先念氏、陳雲氏ら古豪幹部が中央委員会から退き、指導部幹部の若返りを図ったことが、決定事項の目玉のひとつだった。当時の「人民日報」は、老幹部が退任して、指導部の若返りが図られたことは画期的なことで、この決定は重大な一歩である、と賞賛する社説を掲げている。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「中国共産党歴代全国代表大会アーカイブ」
「第13期中国共産党中央委員会第1回全体会議」
「社説:重大な一歩の意義」
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64566/65383/4441833.html

 この第13期一中全会の決定における指導部の若返りは、1980年代前半のソ連に見られた「老人支配」の轍を中国は踏むことはない、という宣言だった。しかし、その第13期一中全会において「重要事項はトウ小平氏に相談する」という秘密決議が行われていたことは、実態的には「老人支配」が終わっていなかったことを意味する。そのことをソ連において「老人支配」を脱するために書記長となったゴルバチョフ氏に対して告げたことは、趙紫陽氏にとって、老人支配の最高権力者、即ちトウ小平氏に対する捨て身の「最後の抵抗」だった、と周囲の人々からは見られた。

 この時のゴルバチョフ書記長との会談において、第13期一中全会において「最重要問題についてはトウ小平同志の舵取りが必要だ」ということを決議したことを伝え、それを公にしたことについて、趙紫陽氏自身は、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)の中で、次のように弁明している。

○この時期に様々な決定は最終的にはトウ小平氏の判断によってなされたわけだが、それは第13期一中全会の決定に基づくものであり、トウ小平氏の地位は完全に合法的なものであることを内外に示したかった。それは、今回の事態に対する一連の党の決定が、非合法な手続きに基づくものではなく、第13期一中全会の決議に基づく、きちんとした根拠のあるものであることを示したかったからである。今までも外国の要人との会談においては、同様のことを話したことがあった。

※趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」の中で、「第二次天安門事件」後に自分が軟禁状態に置かれたことについて、法的根拠がないと抗議している。そして、文化大革命の反省に基づいて、改革開放後は、中国共産党と言えども、法律と党の規則に則って運営されるべきはずである、と再三に渡って主張している。自分に対する軟禁処置が非合法なものであることを主張するにあたって、趙紫陽氏は、「第二次天安門事件」の処理の過程における様々な党の決定が合法的に行われたものであったことを主張したかったのだろうと想像される。

○自分は、一貫してトウ小平氏の対する尊敬の念を抱いているからこそ、トウ小平氏の言動の法的根拠を世の中に明示しておきたかったのである。

○しかし、自分の意志に反して、このゴルバチョフ書記長に対する自分の発言が、多くの人に、特にトウ小平氏自身に、自分(趙紫陽氏)が党総書記としての責任を回避して、全ての問題への対処の決定の責任をトウ小平氏に押し付けている、という印象を与えてしまったことは非常に残念であり、そうなった結果を踏まえれば、ゴルバチョフ書記長にああいった発言をしたことを後悔している。

 「趙紫陽極秘回想録」で語られた趙紫陽氏の「真意」は、にわかには信じがたいが、軟禁中の趙紫陽氏が極秘裏に「回想録」を録音していたのは、この問題を含めて、世間に流布している自分に関する「誤解」を解きたい、という一念があったからこそだ、と考えれば、この趙紫陽氏の「弁明」は、素直に受け取るべきなのかもしれない。

 趙紫陽氏の「真意」がどこにあったのだとしても、事実としては、この趙紫陽氏のゴルバチョフ氏に対する発言が報道されると、学生・知識人・市民たちは、全ての決定がトウ小平氏によって行われたことを知り、怒りの矛先はトウ小平氏に向かうようになった。そして、この後、トウ小平氏に対する批判のスローガンが公然と出るようになる。悲劇的なことだが、このことが結果的に、この頃やや迷いの見えていたように思えるトウ小平氏に対し最も強硬な選択肢を選ぶことを決断させる原因となったと言える。

 一方で、ゴルバチョフ書記長訪中前に天安門広場から人々を立ち退かせることに失敗し、しかも全ての責任をトウ小平氏に被せるかのような発言をした趙紫陽氏に対しては、急速に党内で失望の念が広がっていく。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、趙紫陽花氏は、ゴルバチョフ書記長との会談が行われた5月16日夜に政治局常務委員会を招集した。この会議で、趙紫陽氏は、学生たちのハンストを中止させるため、「学生諸君の熱烈なる愛国精神は賞賛に値し、党中央委員会と中国国務院は彼らの行動を評価する」という表現を含んだ声明を出すことが議論された。李鵬氏は、「賞賛に値する」という表現だけで十分であり、「評価する」という表現は削除すべきだ、と主張した。しかし、保守派の楊尚昆氏(国家主席)も「評価する」という表現を入れることに同意し、結局は声明は原案通り承認された。趙紫陽氏は、この会議で、4月26日の社説の判断に対して修正を加えるよう提案したが、李鵬氏が強硬に反対し、4月26日の社説に関する件については、この会議では決められなかった。トウ小平氏の意見を聞くため、趙紫陽氏はトウ小平氏に電話を掛け、翌日の5月17日午後、トウ小平氏の自宅で会議を行うことになった。

(注)この時の政治局常務委員は、趙紫陽氏、李鵬氏、姚依林氏、胡啓立氏、喬石氏の五人である。楊尚昆氏は国家主席ではあるが政治局常務委員ではない。「トウ小平秘録」によれば、この当時、1987年の党中央委員会の決議に基づき、長老の楊尚昆氏と薄一波氏は政治局常務委員会にオブザーバーとして参加できることとされていた、とのことである。

 一方、ゴルバチョフ氏がトウ小平氏や趙紫陽総書記と会談した翌日の5月17日、趙紫陽氏の発言によって、人々のトウ小平氏に対する反発はますます強まっていた。この日、厳家其氏(中国社会科学院前政治研究所長。この文章の参考文献である「文化大革命十年史」の筆者)ら知識人グループは「5・17宣言」を発表した。この宣言では「中国には皇帝の肩書きのない皇帝、老いて凡庸になった独裁者がいる」「老人政治は終わらさせなければならない。独裁者は引退せよ。」と述べられていた(「トウ小平秘録」)。知識人たちの攻撃目標がトウ小平氏自身に向けられるようになったことは、もはや明白になった。

 5月17日午後、トウ小平氏の自宅で会議が開かれた。この日の会議について「トウ小平秘録」では「党政治局拡大会議」と称しているが、「趙紫陽極秘回想録」ではそうした会議の名称は記されていない。そもそも党の正式会合ならば総書記の趙紫陽氏が招集すべきものであるから、当の趙紫陽氏がそう認識していないのだったら、この日の会議を「党政治局拡大会議」と称するのは正しくない。また、党の正式な会議がトウ小平氏の自宅で行われた、というのもおかしい。おそらく、戒厳令の発令、という極めて重要な決定がこの会議でなされたことから、現在の党内の記録上は、この5月17日午後にトウ小平氏の自宅で行われた会議を「党政治局拡大会議」と称して、党の正式な決定ができる会議であった、と位置付けているものと思われる。

 この5月17日のトウ小平氏の自宅における会議では、趙紫陽氏は、4月26日の社説に対する判断の変更を求めた。「趙紫陽極秘回想録」の中で、趙紫陽氏は、自分が意見を述べている間、トウ小平氏は「とてもいらいらして不愉快そうだった。」と述べている。趙紫陽氏が社説を変更すべきとの意見を述べたのに対し、李鵬氏と姚依林氏がそれを非難した。胡啓立氏は社説は修正すべきだと述べた。喬石氏は言葉を濁した。楊尚昆氏(国家主席)は社説の修正に反対した。

 最終的にトウ小平氏が発言した。トウ小平氏は、趙紫陽総書記の5月3日の「五四運動70周年記念大会での演説」と5月4日のアジア開発銀行理事会参加者への発言で柔軟路線を示したことが、かえって学生らの動きをひどくしたことを指摘し、これ以上は妥協はできない、と述べ、戒厳令を発令すべきだ、と主張した。「トウ小平秘録」によれば、趙紫陽総書記は戒厳令発令に反対したが、他の参加者は賛成し、趙紫陽氏は多数による決定に従うと答え、戒厳令発令が事実上決まった、とされている。「趙紫陽極秘回想録」において、趙紫陽氏は、「総書記として、この決定内容を推進し、効果的に実行することは私には難しい。」と述べたという。「趙紫陽極秘回想録」で、趙紫陽氏は、「会議はこれで一旦休会となり、私(趙紫陽氏)はすぐにその場を立ち去ったので、トウ小平氏が誰かに残るよう指示したとか、残った者たちで他の問題が話し合われたとかは私は知らない。」と述べ、趙紫陽氏自身、何人かの人がトウ小平氏の自宅に残って、趙紫陽氏の去就について議論が行われた可能性を示唆している。

 この日(5月17日)の夜、再び会議が開かれた。「トウ小平秘録」では、この夜の会議を「政治局常務委員会」と称しているが、「趙紫陽極秘回想録」では趙紫陽氏はこの会議を「常務委員会の状況報告会」と称している。総書記たる自分が招集した政治局常務委員会ではないのだから、党の正式会議としての「政治局常務委員会」ではないのだ、というのが趙紫陽氏の主張であろう。

 戒厳令の発令には、正式には政治局常務委員会での決定が必要である(トウ小平氏や楊尚昆氏は政治局常務委員会のメンバーではない)。5月17日の夜の会議(「トウ小平秘録」では「政治局常務委員会」と称されているが「趙紫陽極秘回想録」では「常務委員会の状況報告会」と称されている会議)には、趙紫陽氏、李鵬氏、姚依林氏、胡啓立氏、喬石氏の5人の政治局常務委員と、表決権のないオブザーバーの薄一波氏と楊尚昆氏(国家主席)が参加していた。「トウ小平秘録」によると、この会議の経緯はおおよそ以下の通りである。

「趙紫陽総書記は戒厳令発令に反対した。トウ小平氏宅では賛成していた胡啓立氏は翻意して反対を表明した。喬石氏は『支持、不支持も表明できない』として態度を保留した。李鵬氏と姚依林氏は賛成だった。賛否同数ならばトウ小平氏に裁断を仰ぐことになるので、結論は明らかだった。ここに至り、趙紫陽氏は総書記辞任を申し出た。薄一波氏と楊尚昆氏は慰留したが趙紫陽氏の辞意は固かった。」

 しかし、趙紫陽氏は「趙紫陽極秘回想録」でこれと違うことを書いている。

○政治局常務委員会で3対2で決まった、という風説があるが、これは違う。

○4月26日の社説の修正について(戒厳令の発令について、ではない)、常務委員のうち自分(趙紫陽氏)と胡啓立氏は賛成し、姚依林氏と李鵬氏は反対し、喬石氏は明確な見解を述べず、中立の立場を示した。

○昼間のトウ小平氏の会議では、政治局常務委員ではないトウ小平氏と楊尚昆氏を混ぜれば、強硬な意見を言う人の方の数が多かったのは確かだが、戒厳令の発令について「投票の結果3対2で決まった」というのは事実ではなく、正式な政治局常務委員会による正式な投票は一切なかった。

 現在の党の記録上は、5月17日夜に開かれた会議を「政治局常務委員会」と称し、戒厳令の発令がその「政治局常務委員会」での票決で決まった、ということになっているのかもしれないが、「趙紫陽極秘回想録」で趙紫陽氏が語ったことが事実であったとすれば、戒厳令の発令は、実際は昼間の会議でトウ小平氏の「ツルの一声」で決まったことになる。しかし、このような重大な決定が党の正式機関の決定ではない、というのはまずいので、5月17日夜に開かれた会議を正式な「政治局常務委員会」と位置付け、その場で票決で戒厳令発令が決まった、という形に記録上はしてある、ということだと思われる。しかし、政治局常務委員会を招集する責任者である党総書記の趙紫陽氏が「戒厳令発令について政治局常務委員会の票決による投票は一切なかった」と言っているのだから、おそらくそれが事実としては正しいのであろう。

 5月17日夜の上記の会議の後、趙紫陽氏は、党中央弁公庁(党の事務局)のアレンジで、ハンスト中に倒れて入院している学生を病院に見舞った(この時の党中央弁公庁の主任が現在の国務院総理の温家宝氏である)。

 趙紫陽氏は、5月17日の昼間のトウ小平氏の自宅での会議で「総書記として、この決定内容を推進し、効果的に実行することは私には難しい。」と述べ、辞表を用意した。夜の会議でも総書記辞任の意向を示したが、楊尚昆氏から強く慰留されたため、5月18日、趙紫陽氏は辞表の常務委員会への提出にストップを掛けた。「趙紫陽極秘回想録」によれば、5月18日、趙紫陽氏は、トウ小平氏に対して、4月26日の社説を修正し、強硬手段を採るのを回避するよう手紙を書いたが、返事はなかった、とのことである。

 「趙紫陽極秘回想録」では、趙紫陽氏は、5月17日のトウ小平氏宅での会議において戒厳令発令が決まった時に辞意を固めた、ということになっているが、もしかすると、趙紫陽氏はゴルバチョフ書記長と会談した時点で、既に、自分は辞任するほかはない、と覚悟していた可能性がある。ゴルバチョフ書記長との会見時に既に辞任を覚悟していたとすれば、ゴルバチョフ書記長との会談で「全ての重要事項の決定はトウ小平氏に相談して決めている」と発言しそれを公表した理由もわかりやすいからである。

 戒厳令発令決定と趙紫陽総書記の辞意を受けて、トウ小平氏は5月18日、党の古参幹部を招いて長老会議を開催した。長老会議には「八長老」と呼ばれたトウ小平氏、陳雲氏、李先念氏、彭真氏、トウ穎超氏(周恩来夫人)、楊尚昆氏、薄一波氏、王震氏と趙紫陽氏を除く政治局常務委員(李鵬氏、姚依林氏、胡啓立氏、喬石氏)が参加した。長老会議では、戒厳令発令を支持し、5月21日午前0時をもって戒厳令を施行することが決定された。これを受け、人民解放軍に出動命令が出され、5月19日には実際に一部の部隊が北京へ向けて移動を開始した。長老会議は党の正式な会議ではないから、「長老会議で戒厳令施行が決定された」という言い方は正式には正しくないが、実態的にはこの会議で正式に全てが決まったと言ってよい。これも中国共産党の決定がルールに則って行われているわけではないことを示す一例である。

 この「長老会議」の決定について、党総書記である趙紫陽氏には何も知らされなかった。

 「長老会議」で戒厳令発令が決められた翌朝の5月19日未明、午前5時前、ハンストを続けている学生たちの前に、趙紫陽氏、李鵬氏が突然現れた。「趙紫陽極秘回想録」によると、李鵬氏は趙紫陽氏が天安門前広場へ行くことに反対したが、趙紫陽氏は「私は絶対に行く。私一人でも行く。」と強硬に主張した、という。しかたなく李鵬氏は趙紫陽氏とともに天安門前広場へ行ったが、広場へ到着するとすぐに李鵬氏は姿を消してしまった。

 趙紫陽氏は、いつも着ている背広ではなく、中山服(日本のマスコミ用語でいう「人民服」)を着ていた。当時、党中央弁公庁主任(中国共産党事務局の事務局長に相当する)だった温家宝氏(現国務院総理)も同行していた。趙紫陽氏はハンドマイクを使って学生たちに呼びかけた。

「我々はここへ来るのが遅すぎた。我々は既に年老いていて先がない。しかし君たちはまだ若い。未来がある。国のためによかれと思ってやっていることでも、各方面に大きな影響を与える。冷静に考えて、ぜひハンストを中止して欲しい。」

 軍隊が動き始めようとしていたこの時期、総書記自らが「既に戒厳令発令が決定された」と言うことはできないので、趙紫陽氏は、人民服を着ることによって事態が緊迫していることを学生たちに伝え、戒厳令発令の可能性をも暗に伝えようとしたのであろうか。しかし、趙紫陽氏自身が言っているように、この時点では既にあまりにも「来るのが遅すぎた」。既に天安門広場が多くの人々で埋め尽くされ、トウ小平氏批判のスローガンも飛び交うようになったこの時点で、学生たちがハンストを止めることはなかった。

 この時点における温家宝氏の立場は必ずしも明確ではない。党の事務局のトップ(党弁公庁主任)として党総書記の趙紫陽氏に随行しただけだ、と考えるのが冷静な見方なのだろうが、ハンドマイクを持ち学生たちに訴える趙紫陽氏のすぐ右隣りに立っている温家宝氏の写真は、西側のジャーナリストによって世界に配信された。しかし、「第二次天安門事件」に関する写真や映像は中国では見られない(インターネット上でも多くの関連サイトにはアクセス禁止措置が掛けられている)ので、中国の人々の中にはこの写真を見たことのある人は意外に多くないかもしれない。温家宝氏もこの日のことを今まで黙して語ったことはない。温家宝氏が、この日、どういう気持ちで趙紫陽氏の隣に立っていたのか、本当のところを素直に語れる日が来ることを望みたい。

(注)「温家宝氏もこの日のことを今まで黙して語ったことはない。」のは事実である。しかし、一方で、つい最近、2010年4月15日付けの「人民日報」に温家宝総理が胡耀邦氏を偲ぶ文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」が掲載された。もしかするとこの文章の発表は、温家宝総理が、任期2年あまりを残す2010年に至って、ようやく1989年の事態に対する「思い」を語り始める気持ちになったことの表れかもしれない。この点については、この後【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】で書くことにする。

 趙紫陽氏が学生らに訴えかける様子は、中国のテレビでも5月19日朝のニュースの時間に放映された。この頃のテレビに対する報道規制がどうなっていて、中国のテレビ局がどういうつもりでこの場面を放映したのかは不明であるが、「トウ小平秘録」によると、トウ小平氏自身は、この映像を見て激怒したという。この頃、中国中央電視台や人民日報社の中にも学生らに同情的な意見の人が多く、報道規制は必ずしも統一された考え方の下でコントロールされていたわけではなかったようである。

 趙紫陽氏が公の場に姿を見せたのは、この天安門前での学生らへの説得が最後となった。趙紫陽氏自身、5月19日、政治局に三日間の休暇を申請した。そして李鵬氏に政治局常務委員会の議長を務めるよう提案した。辞表の提出にはストップを掛けていたものの、趙紫陽氏自身、この休暇願いの提出により、事実上、この時点で全ての動きから身を引いたことになる。

 一部の知識人たちの中には、この趙紫陽氏の5月19日朝の学生らへの訴えかけの行動を「戒厳令の発令の口実をなくすための必死の訴え掛けだ」と察知した人もいた。彼らは必死になって学生らに対してハンスト中止を説得し始める。「トウ小平秘録」によると、5月19日午後9時、学生運動リーダーの柴玲氏が学生の説得に成功し、ハンスト中止を宣言した。しかし、その30分後、北京市西郊外の国防大学で開かれた党・政府・軍幹部会議で戒厳令実施が発表され、事態は動き始めてしまった。

以上

次回「4-1-9(5/5):『第二次天安門事件』(5/5)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-6902.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月18日 (日)

4-1-9(3/5):「第二次天安門事件」(3/5)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」(3/5)

 5月7日、杭州で静養していた保守派の重鎮の陳雲氏が北京に戻った。この後の一週間、4月26日の社説の修正を含め学生らとの対話路線によって事態を収拾しようとする趙紫陽総書記らの柔軟路線と李鵬総理ら保守派の強硬路線が対立し続け、ソ連のゴルバチョフ書記長の訪中という歴史的イベントを迎えることになる。

 ちょうどこの時期、即ち1989年のゴールデン・ウィークの頃、私はオーストリアのウィーンに出張していた。出張に行く前は、私は、天安門前でデモ隊が座り込みを続ける状態でゴルバチョフ書記長を北京に向かえることは、メンツを大事にする中国政府の幹部にとって容認できない事態なので、日本のゴールデン・ウィークが終わり、私がウィーン出張から戻る頃には、警官隊による実力を行使してでも、天安門前広場から学生らは排除されているだろう、と思っていた。しかし、そういった実力行使は行われなかった。

 5月3日及び4日の趙紫陽総書記の演説により、学生らの怒りはかなり治まったが、日本のゴールデン・ウィークが終わっても、一部の少数の学生らは天安門前広場で座り込みを続けていた。それを見て、私は、中国当局の対応が「いつになく中途半端だ」という印象を受けた。逆に言うと、なぜ実力行使をしないのだろうか、と思った。

 この頃、私が思い描いていた「当局による実力行使」とは、日本や韓国で学生デモに対して警備当局が行うような実力行使、即ち、盾と警棒を持った警官隊が放水銃を備え付けた車両に援護されながら、時には催涙弾を使いつつ、座り込みを続ける学生たちを排除する、という光景だった。しかし、後になって思い知ったのは、中国の警備当局には、放水銃や催涙弾といった「デモ鎮圧用の機器」が装備されていない、あるいは装備されていてもその規模は非常に小さい、ということである。後に、例えばチベットにおける争乱に対する当局の対処を見ても、放水銃や催涙弾が使われている様子はない。従って、現在でも、中国の警備当局では、こういった「デモ鎮圧用機器」はあまり数多くは装備されていないものと思われる。そもそもデモを行うこと自体が許されていない中国においては、「デモ鎮圧用の機器」が必要となる事態は想定されず、そのための装備は準備されていない、ということなのかもしれない。

 「第二次天安門事件」において何が行われたのかを1年後の時点で検証した矢吹晋氏の「天安門事件の真相」(参考資料26及び27)では、6月3日夜から6月4日未明に掛けての武力弾圧に際して、当局側は最初は催涙弾を使用していたが、多数の群衆の前に催涙弾はすぐに使い尽くしてしまったことが記されている。従って、中国の警備当局が催涙弾を装備しているのは間違いない。また、2008年6月の雲南省での民衆暴動において、当局側から「ゴム弾を使用した」との発表があった。従って、中国の警備当局でも、デモ鎮圧用の非殺傷性の「武器」を装備しているものと思われるが、1989年の「第二次天安門事件」では、繰り出した学生・市民は圧倒的な数に上り、通常の「デモ」鎮圧用の装備だけではとても足りない状態だった、ということは言える。

(注)催涙弾やゴム弾は「非殺傷性」と言われるが、至近距離からまともに被弾すると死に至る怪我をする場合がある。デモ隊が抵抗の道具としてよく使う投石や火炎瓶についても、それが警備要員にまともに当たると警備要員が死亡するケースがあることは、過去のデモ隊と鎮圧当局との衝突の経験から広く知られているところである。

  私は、この時(1989年5月初)のウィーン出張の期間中、ウィーンに駐在する日本人からこの頃の東ヨーロッパ情勢を聞いた。ハンガリーでは改革派が政府の主流派を占めるようになり、国境警備隊が無断で越境する者に対して銃撃等の強硬手段を採らなくなったため、ハンガリー・オーストリア国境地帯において、ハンガリー側から違法に中立国であるオーストリアに入国する者が後を絶たなくなった、とのことだった。ハンガリーからオーストリアへの違法越境に際しての生命の危険がなくなったことから、ハンガリー人だけではなく、東ヨーロッパ各国からハンガリーとオーストリアを経由して西側へ脱出する人が相次いでいる、とのことだった。私は、この後も、仕事の関係で、1989年~1991年、毎年1回程度ウィーンに出張する機会があり、この後もウィーンに行くたびに激変するソ連・東欧情勢を肌で感じることになる。

 趙紫陽総書記は、学生たちの要求に具体的に応えるため、5月8日及び5月10日に党政治局常務委員会を開催して、全国人民代表大会常務委員会を早期に開催して改革案を検討することを決定した。これを受け、改革派の全人代常務委員会の万里委員長は、6月20日前後に全人代常務委員会を開催することを決め、議題として、集会・デモ法草案や新聞法草案の起草状況の聴取も含めることとした。この決定の後の5月12日、万里氏は、かねてから予定されていたカナダ・アメリカ訪問へ出発した。

 保守派の重鎮・陳雲氏が北京に戻り、改革派の有力者・万里氏が外遊のため北京を離れる、といったわずかなパワーバランスの変化が、この後の動きに微妙な影響を与えることになる。

 この時点(5月4日の趙紫陽氏のアジア開発銀行代表団を前にしての演説以降)で、多くの学生は大学に戻っていた。しかし、1989年春のこの時の動きは1986年末の学生運動とは違っていた。学生だけでなく、知識人や多くの新聞人たちが動き始めていたのである。ソ連・東欧や韓国の状況の変化を知り、改革開放によって活躍の場が増えた知識人たちや新聞人たちは、社会の中における自分たちの役割を自覚し始めていた。学生たちが大学に戻った後も、4月26日の社説に反対し、「世界経済導報」の発禁と編集長解任に抗議する知識人・新聞人たちが動き続けるのである。

 趙紫陽総書記は、「四つの基本原則」を堅持する(=社会主義制度と中国共産党による指導を変えることはしない)が、政治改革を進める姿勢を示すことで、学生たちの運動は治まる、と考えていた。方向性としては、趙紫陽総書記の考えは間違ってはいなかったと思われるが、問題はそう単純ではなかった。そもそも運動を行っている人たちは、一枚岩ではなく、いろいろな立場の人々が、いろいろな思いを胸に運動していたため、趙紫陽総書記の柔軟姿勢に納得して運動をやめた人もいれば、もう少し運動を進めればもっと具体的な成果が得られるかもしれない、と考える人もいたからである。

 最もネックだったのは、趙紫陽総書記が、4月26日の「人民日報」の社説において学生たちの運動が「動乱」だと決めつけられたことを否定せず、胡耀邦氏を再評価する発言を掲載しようとして発禁となり編集長が解任された上海の「世界経済導報」の事件についても、上海市当局の対応を否定しなかったことである。一部の学生は4月26日付け社説の撤回を要求し続け、一部の知識人・新聞人は「世界経済導報」に対する処分の撤回を要求した。

 この頃デモに加わるようになっていた知識人や新聞人の中には「人民日報」社の記者すら含まれていた。多くの「人民日報」の記者たちも、この頃既にジャーナリストとしての自覚と自負を持ち始めていたのである(このことは「第6節:中国の社会・経済で進む微妙な変化」で述べた)。中国共産主義青年団(共青団)の機関紙「中国青年報」の記者だった李大同氏もそうしたジャーナリストの一人だった。李大同氏らジャーナリスト1,000人余は、5月9日、政府に対話を要求する書簡を発表した。

(注)李大同氏は、その後「中国青年報」の編集長となった。李大同氏が「中国青年報」が編集長をしていた2006年1月、「中国青年報」の中の週刊の評論特集ページ「氷点週刊」が掲載した義和団運動を論評する記事について、中国共産党宣伝部がクレームを付け「氷点週刊」は停刊となり、李大同氏は「中国青年報」の編集長を解任された(「氷点週刊事件」)。この問題は、直接の原因は義和団運動に対する評論を掲載したことであるが、背景として、その直前に胡啓立氏による胡耀邦氏の業績を評価する文章「我が心中の胡耀邦」を掲載したことが原因ではないかと言われている。これについては「第4章第2部第4節:胡錦濤主席は新しい道を切り開けるか」で述べることとする)。

 この時期、胡耀邦氏の功績を評価する座談会の状況を掲載したとして、当時の江沢民氏をトップとする上海市党委員会の指示により、「世界経済導報」が発禁処分になり編集長が解任されことがジャーナリストたちが街頭へ繰り出した大きな理由の一つだったことと、江沢民氏のそういった措置を評価して、トウ小平氏が、趙紫陽氏が失脚した後、江沢民氏を二階級特進で中央の党総書記に抜擢したことを考えると、2010年4月15日(胡耀邦氏死去21年目の命日)の「人民日報」に温家宝総理が現職の総理として異例の胡耀邦氏を偲ぶ文章「興義へ再び戻って胡耀邦氏を思う」を発表したことは、政治的に極めて大きな意味を持つと思われる。これについては、この節の終わりに【コラム:温家宝総理による胡耀邦氏を偲ぶ文章】で改めて述べることにする。

 「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、1989年5月6日、趙紫陽氏が党政治局常務委員の胡啓立氏に対し、「報道を少し緩和してよい」と指示し、これを受けて、5月8日には、人民日報社内で銭立仁社長が「胡啓立氏から、趙紫陽講話の精神を実行し、どんな要求を提出してもよいと電話があった」と話していた、とのことである。こういった話は、強硬な社説を掲載した人民日報社内でも、趙紫陽総書記の対話路線を受け入れようという雰囲気があったことの表れである。

 こうした様々な動きの中で、多くの学生は大学に戻ったものの、まだかなりの数の学生たちや知識人・新聞人たちは天安門前広場に残っていた。5月15日にはソ連のゴルバチョフ書記長が北京に到着する予定であり、ゴルバチョフ書記長の歓迎式典は、他の国の国賓と同じように、人民大会堂東側にある天安門前広場の西側で行われる予定だった。従って、5月15日には、座り込みを続ける人々を天安門前広場から排除する必要があった。しかし、5月10日を過ぎても、趙紫陽総書記は天安門前広場から人々を排除するよう命令を出さなかったし、トウ小平氏もこの時点では強制排除を指示しなかった。それはなぜか。これも「第二次天安門事件」の謎のひとつである。

 趙紫陽総書記は、政治改革を行う、という対話路線により、天安門前広場の人々はゴルバチョフ書記長が到着する前に説得に応じて自主的に退去すると考えたのであろうか。トウ小平氏は、この時点で実力による強制排除を強行すべきかどうか迷っていたのであろうか。もしトウ小平氏が迷っていたのだとすると、いつも状況を的確に把握し果敢に決断するトウ小平氏としては極めて珍しいことである。

 いずれにせよ、趙紫陽総書記の「対話路線」の演説により、天安門前広場にいる人々がゴルバチョフ書記長の北京訪問の前に自主的に退去するだろう、という見方は完全に甘かった。事態はむしろ逆だった。ソ連共産党書記長の中国訪問は、中ソ対立前の1959年以来初めてであり、それ自体が歴史的出来事だったので、世界のマスコミの関心を呼ばずには置かなかった。天安門前広場にいる学生たちは、世界から集まるマスコミに対して、自分たちの主張を知ってもらおうと思ったのである。また、この当時の多くの東ヨーロッパの人々がそうだったように、ゴルバチョフ書記長に自分たちの行動を見せ、ゴルバチョフ氏に自分たちに対する支持を表明してもらいたいと願っていたのである。従って、ゴルバチョフ書記長の訪中が迫るにつれ、自分たちの主張を世界の人々とゴルバチョフ書記長に見てもらうために、むしろより多くの人々が天安門前広場に集まるようになった。

 この頃、学生運動の中心となって動いていたのは、北京大学の王丹氏、北京師範大学のウアルカイシ氏(ウィグル族)や柴玲氏らだった。しかし、多くの学生らの考え方は様々であり、彼らは多くの学生の支持を集めて運動をリードしていたのは確かだが、彼ら自身、運動を行っている人々の全てを一定方向に動かすことは困難だった。

 趙紫陽総書記の演説により多くの学生が大学に戻りつつあった状況の中で、学生らの中にいた「もっと強く4月26日付け社説の撤回と政府との対話を要求すべきだ」と考えるグループは、ゴルバチョフ書記長訪中のために世界の関心が北京に集まる中、ハンガー・ストライキを決行することを決めた。5月13日、約1,000人の学生が天安門前広場に座り込んでハンストを開始した。学生・知識人の中には絶食戦術には賛成しないグループも多く、この時期、多くの人々がハンストの中止を説得した。しかし、強硬な学生グループはハンストを中止しなかった。そして、そのままゴルバチョフ書記長が北京へ到着する5月15日を迎えることになる。結局「対話により天安門前広場から人々を退去させる」という趙紫陽総書記の希望は実現しなかった。

 ゴルバチョフ書記長が到着した5月15日までの間、結局、警備当局による天安門前広場からの人々の強制排除は行われなかった。強制排除が行われなかった、という事実は、警備当局はまだ人々の活動を許している、という感覚を生み、さらに多くの人々を天安門前広場に駆り出すことになる。人々は、世界のマスコミに向け、ゴルバチョフ書記長を歓迎するプラカードを掲げた。この日、天安門前広場には50万人もの人々が集まったという。当然、ゴルバチョフ書記長の歓迎式典の場として天安門前広場を使うわけにはいかなくなり、歓迎式典は北京空港で行われた。メンツを大事にする中国において、国賓の歓迎行事を政府が予定していた場所で行えなかったことは大きな失態だ、と党と政府の幹部は感じたに違いない。

以上

次回「4-1-9(4/5):『第二次天安門事件』(4/5)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-8c80.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月17日 (土)

4-1-9(2/5):「第二次天安門事件」(2/5)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」(2/5)

 「新華門事件」が起きたのと同じ4月19日、上海で発行されていた週刊の雑誌「世界経済導報」は胡耀邦氏の追悼座談会を開催した。この座談会の参加者であった厳家其氏(中国社会科学院前政治研究所長。この文章の参考文献である「文化大革命十年史」(参考資料14)の筆者)らは、この座談会で胡耀邦氏の行動を再評価する発言をしていた。

 趙紫陽総書記が北朝鮮へ向けて出発した4月23日、上海市党委員会(この時の上海市党書記は江沢民氏)は、胡耀邦氏の業績を評価する内容を含んでいる追悼座談会の発言を掲載した「世界経済導報」に当該部分の削除を命じた。この措置を採った上海市党委員会の宣伝部長は陳至立氏、宣伝担当副書記は曾慶紅氏である。陳至立氏は、1990年代に教育部長などを歴任し、この文章の執筆時点(2010年)では教育担当国務委員である。曾慶紅氏は2007年の第17回党大会で退任するまで政治局常務委員を務めていた。この「第二次天安門事件」の際における迅速な対応が評価され、それが彼らを20年以上にわたり中央で高い地位を占める原因となったのである。そもそも江沢民氏がいまだに大きな政治力を持っていることでもわかるように、1989年の「第二次天安門事件」は、現在に至るまで、中国の勢力分布の基礎となっていると言える(だからこそ、現在の中国において、「第二次天安門事件」を再評価することは、政治的にはタブーなのである)。

 「世界経済導報」編集長の欽本立氏は、座談会記事の一部の削除命令を拒否して、輪転機を回し続けた。このため上海市当局は、4月24日、「世界経済導報」の発刊停止を命令した。

 4月24日、北京では、多くの大学の代表が集まり、授業ボイコットを決めた。北京だけで39もの大学で学生のストが起きたという。複数の大学に横断的に運動が広がったことに対し、党内部には「ごく少数の者が裏で画策し操縦している」との認識を高めた。実際に誰かが裏で画策していたのかどうかは不明であるが、仮に誰かが裏で動いていたにせよ、多くの大学生の間に深い不満が溜まっていなければ、ちょっとしたきっかけでこれだけの運動にはならない。「誰かが画策している」との認識だけが先走り、学生たちにとって何が不満であり、何を求めているのかを知ろうとしなかったことが、当時の中国共産党幹部の失敗だった。

 この学生たちの動きを受けて、趙紫陽総書記から留守中の案件処理を託されていた李鵬総理は、同日(4月24日)、政治局常務委員会の非公式会議を招集した。この会議では、「ごく少数の者の操縦と画策の下で、計画もあり組織もある反党・反社会主義との政治闘争に直面している」との認識で一致し、今回の動きを「動乱」と呼び、党中央に「動乱制止小組」を設置することを決めたという(参考資料17:「トウ小平秘録」)。問題は、この重要な決定が党のトップである趙紫陽総書記が不在の場で決められたことである。この決定に際して、北朝鮮訪問中の趙紫陽氏に対しては、帰国要請はなされなかった。この4月24日の政治局常務委員会非公式会議には、趙紫陽氏に近い改革開放派の万里氏や田紀雲氏も出席していたが、趙紫陽氏がいない場においては、李鵬氏や楊尚昆国家主席ら保守派の意見に押し切られたものと考えられている。

 このことを考えると、この学生たちの動きに対する対処方針の決定を巡る党内の動きは、改革推進派の趙紫陽総書記が不在の間に李鵬総理ら保守派が党内の動きを牛耳ろうとしていたという派閥闘争的色彩が強かった、との見方も可能である。

 トウ小平氏は、この政治局常務委員会非公式会議には出席していなかったが、会議の翌日の4月25日、李鵬総理と楊尚昆国家主席がトウ小平氏の自宅を訪問し、会議の結果を報告した。トウ小平氏は、会議の結果を全面的に支持し、「旗幟を鮮明にして、強い措置をとって動乱を制止せよ。」と指示した。そしてその線に沿って「人民日報」に社説を出すよう指示したという。この時点で、この重大な決定に了承を与えるに際して、トウ小平氏も、党総書記の趙紫陽氏を帰国させるような指示はしなかった。

 トウ小平氏は、この時点で、既に趙紫陽氏を、党の運営を任せる責任者としてみなしていなかった可能性がある。前年(1988年)の二重価格廃止問題の対処に失敗した責任を取る形で、趙紫陽総書記の求心力はこの頃既にかなり低下しており、そういった趙紫陽氏の党内での位置付けをトウ小平氏もよく認識していたのかもしれない。しかし、「趙紫陽極秘回想録」で趙紫陽氏が述べているところによれば、趙紫陽氏が北朝鮮を訪問する直前にトウ小平氏を訪問した際、トウ小平氏は趙紫陽氏を支持し、二期連続で総書記を続けてもらいたい、との意向を示していた、とのことである。であれば、トウ小平氏は、なぜ4月25日の時点で最終責任者として緊急事態の対処に当たるべき趙紫陽総書記を北朝鮮から呼び戻さなかったのか疑問が残る。

 トウ小平氏は、自らのイニシアティブで趙紫陽氏を党のトップである総書記に任命しながら、この重大な党の危機の処理に当たっていた李鵬氏に対して趙紫陽総書記に相談するよう指示しなかった。李鵬氏は、行政府たる国務院のトップの総理であり、趙紫陽氏から留守中の案件処理を任されていたのは事実であれるが、重大な方針を決める最終決定権限者ではない。このことは、総書記とか国務院総理とかいう役職が事実上は名ばかりのものであり、重要事項がその時その時の時点で党内で誰が実力を保持しているかによって決まることを意味しており、中国共産党は、ルールに基づき組織の意志を決定する組織としての意志命令系統が機能していなかったことを示している。「ルールに基づいて決定が行われず、人によって決定が行われる」(法治ではなく人治である)という状況は、現在に至るまで中国の組織に深く根ざしている特徴である。この特徴は、組織の意志決定を柔軟にするが、「人」が誤った判断をした場合の修復が困難になる欠点を持っている。

 政治局常務委員会非公式会議で決定され、トウ小平氏の了承を得た対応方針は、事後的ではあるがその日(4月25日)のうちにピョンヤンにいる趙紫陽氏に伝えられた。趙紫陽氏は、翌4月26日朝、「完全に同意する」と返答したという。「趙紫陽極秘回想録」で趙紫陽氏が語っているところによれば、北朝鮮にいて十分な情報が得られていない状況で、トウ小平氏が同意した決定に反対することはできないことから、趙紫陽氏はこの時「完全に同意する」と答えたとのことである。しかし、「強い措置を持って動乱を制止する」とのトウ小平氏の指示は、趙紫陽氏が北朝鮮へ出発する前に指示した「学生に対しては各レベルで対話を行う」という方針とは全く異なることから、趙紫陽氏が異論を唱えてもおかしくなかった。従って、趙紫陽氏としては、北京での決定事項の知らせに対し、「完全に同意する」と答えないで、さらに状況報告を求めるなり、北朝鮮訪問を中止して急きょ帰国する判断もあり得たであろう。「完全に同意する」と返答したのは、趙紫陽氏が、トウ小平氏の指示したことならば誰も逆らえない、と考えたからであろうか。あるいはトウ小平氏と異なる意見を総書記たる自分が表明することによって党内が分裂するようなことになってはならない、と考えたからであろうか。

 1989年4月26日付けの「人民日報」は、トウ小平氏の指示に基づき、「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」と題する社説を掲載した。趙紫陽総書記がピョンヤンから「完全に同意する」と返事を出した4月26日朝には、既にこの社説を載せた「人民日報」は発行されていたのだった。それを考えると、あたかもピョンヤンにいる趙紫陽総書記に決定を知らせたのは、最終決定権限者たる党総書記に同意を求めたのではなく、総書記抜きで決定を行ったわけではない、という形式を整えるための「単なる形作り」だけの意味しかなかったようにも見える。

 以前「第3章第5部第3節:西単(シータン)の『民主の壁』」で書いたように、1978年5月、「二つのすべて」を主張していた華国鋒氏を追い落とすため、華国鋒氏(当時、党主席であり、国務院総理だった)が北朝鮮訪問中に「二つのすべて」を批判する論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」が「人民日報」に掲載された。この論文掲載がトウ小平氏や胡耀邦氏ら当時の「反すべて派」の「策略」であったのかどうかは定かではないが、1989年4月、李鵬氏らがトウ小平氏の同意を取り付けた上で、趙紫陽総書記の北朝鮮訪問中を狙ったかのようなタイミングで、学生らの運動を「動乱」と決めつける社説を「人民日報」に掲載したことは、1978年5月に華国鋒氏を追い落とすために「反華国鋒派」が用いた手法を思い起こさせる。

 趙紫陽氏は「趙紫陽極秘回想録」の中で、李鵬氏ら保守派は、学生らの運動の中にあった散発的な過激な部分をことさら選んでトウ小平氏に報告して過度に激しい反応を示させた、として李鵬氏らを非難している。

 上記に「トウ小平氏は、4月24日の政治局常務委員会非公式会合の結果の方向を受け、それを全面的に支持し、『旗幟を鮮明にして、強い措置をとって動乱を制止せよ。』と指示した。そしてその線に沿って『人民日報』に社説を出すよう指示した。」と書いた。しかし、「趙紫陽極秘回想録」の中で趙紫陽氏は、異なることを述べている。トウ小平氏は、李鵬氏と楊尚昆氏から4月24日の政治局常務委員会非公式会合の結果を聞き、それに同意し、「旗幟を鮮明にして、強い措置をとって動乱を制止せよ。」と発言したが、これらの李鵬氏らとトウ小平氏との発言のやりとりは本来表に出ないものだったのであり、トウ小平氏の発言をそのまま社説にしたのは李鵬氏らの判断であり、トウ小平氏自身は自分の言葉がそのまま「人民日報」の社説になったことについて快く思っていなかった、と趙紫陽氏は述べている。トウ小平氏の言葉がそのまま社説になったことにより、トウ小平氏自身が学生たちからの反発の矢面に立たされることになったからである。

 ここの部分は趙紫陽氏が語っていることが事実であるのか、あるいは趙紫陽氏が自分を引き立ててくれたトウ小平氏をかばい、全ての責任は李鵬氏ら保守派にある、ということを言いたいために「趙紫陽極秘回想録」でそう語っているのかは、定かではない。

 いずれにしても、この時点に至っても趙紫陽氏は北朝鮮での日程を切り上げて北京に戻ろうとしなかった。この判断についても、後世の歴史家からは、趙紫陽氏に対する批判が出るものと思われる。

 この1989年4月26日付けの「人民日報」の社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」に対し、学生たちは大いに驚き、反発した。大きな暴力的な騒動にまで発展していたわけではないこの時点で、学生たちの動きに対し「動乱」という言葉が使われたことが唐突で意外だったからである。「動乱」という言葉は、文化大革命時代に「四人組」が自分たちに反対する勢力の動きを表現するのによく使われた。それを当時の人々はよく覚えていたため、この社説は、平和的な手段で主張をしているだけだ、と自分たちでは思っていた学生たちを大きく刺激した。「第4章第1部第5節:1986年の学生運動と胡耀邦総書記の解任」で述べた1987年1月6日付け社説「旗幟を鮮明にしてブルジョア自由化に反対しよう」と同じように「旗幟を鮮明にして」という用語があることは中国共産党の強い意志を表すことは学生たちもわかったが、それが「動乱」という言葉と連なっているのを見た時、学生たちは、中国共産党が自分たちに対して宣戦布告を発した、と感じたに違いない。1987年1月6日付けの社説では「旗幟を鮮明にして」という言葉は使われていたが、「動乱」という言葉は使われていなかった。

 おそらくはトウ小平氏は、1987年1月6日付け社説「旗幟を鮮明にしてブルジョア自由化に反対しよう」が党の断固たる意志を学生たちに伝え、それによって学生たちもことの重大性を認識してデモをやめたように、今回も強い社説を掲げることによって、学生たちが「ここが限界だ。これ以上運動を拡大したらまずい。」と気付くだろう、と期待していたのかもしれない。しかし、この二つの社説の間にある2年4か月という時間の流れは、トウ小平氏が想像していた以上に大きかった。この2年4か月の間に世界は大きく変わっていたのである。学生たちは「あと20日すると北京に来るソ連のゴルバチョフ書記長は、自分たちの行動を支持してくれるだろう」「韓国の学生たちは運動を繰り返すことによって大統領選挙の実施を勝ち取ったが、同じようなことは自分たちにもできるはずだ」と思っていたに違いない。この2年4か月の間に世界が変わり、テレビや改革開放によってもたらされた外国メディアによる情報によって、学生たちが外の世界の変化をしっかり知っていたことに、トウ小平氏は気が付いていなかったのかもしれない。

 この4月26日付け「人民日報」の社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」は、学生の動きを沈静化させるどころか、むしろ反対に、それまで具体的な要求の点で必ずしも一本化されていなかった学生たちに「4月26日付け社説を撤回せよ!」という統一目標を与えることになってしまったのである。

 この1989年4月26日付けの「人民日報」社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対しよう」は、現在でも、新華社のページで見ることができる。

(参考URL)「新華社」ホームページ「新華資料」
「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対しよう」(1989年4月26日付け「人民日報」社説)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/23/content_2609426.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この社説の冒頭に「一部の不法分子が、打ち壊し、焼き討ちするひどい事件が発生している」という表現が出てくる。これは2008年3月14日に発生したチベット自治区ラサでの争乱事件を報じる新華社の報道と全く同じ表現である。20年間、中国の公式報道の表現が全く進歩していないことを示していると言える。なお、1989年の「第二次天安門事件」においては、少なくとも西側報道で見る限り、4月26日以前の段階で打ち壊しや焼き討ち事件と言えるほどの事件は起きていなかったはずであり、その意味では上記の1989年4月26日付けの社説は、客観的に見ても表現が過激すぎるように思える。

 なお、西側報道機関が報道していない場所、例えば、どこかの大学のキャンパス内で打ち壊しや焼き討ち事件があった可能性は否定できず、上記の「人民日報」の社説が「事実に基づかない誇張である」と断言することは今の私にはできない。しかし、当時はあちこちに西側ジャーナリストが北京にもいたので、4月26日以前の時点で実際に焼き討ちや暴力事件が起きていたのだとすると、誰かがそれを見聞きして報道していたはずであり、4月26日以前の段階においては、「人民日報」社説が指摘しているような焼き討ち・暴力行為は起きていなかった、と判断するのは妥当なことだろうと思われる。

 同じ4月26日、上海市党委員会の江沢民書記は、胡耀邦氏追悼座談会記事の一部削除命令を拒否した「世界経済導報」の欽本立編集長を解任した。この北京の動きと呼応した迅速な動きが江沢民氏が異例の抜擢をされる理由となるが、欽本立編集長の解任は、多くの知識人や新聞人を憤らせた。「第4章第1部第6節:中国の社会・経済で進む微妙な変化」で書いたように、胡耀邦氏が総書記を解任された1987年頃から、多くの新聞人は従来の「党の舌と喉」の役割をはみ出して、社会の様々な問題について自ら取材し記事を書くことに使命感を持ち始めていた。そうした中、学生らの声を全く聞こうとせず、学生らの動きを「動乱」と決めつけた「人民日報」と、胡耀邦氏の業績を評価する記事を載せようとした新聞を発禁処分にしその新聞の編集長を解任した上海市党委員会の決定は、多くの知識人や新聞人たちの気持ちを党から離反させた。

 このような知識人や新聞人たちの動きもトウ小平氏ら党幹部の想定を超えたものだった可能性がある。中国が始めた中国の改革開放政策は、ソ連・東欧諸国の人々に従来からの体制の頑迷さを思い知らせた。そして、ソ連に改革派のゴルバチョフ書記長を誕生させ、東欧諸国でも改革が急激に進められた。そういった諸外国の情報は、改革開放政策の進展により、中国にどんどん逆流してくるようになっていた。ソ連・東欧諸国での動きは、改革開放政策の発信源である中国の知識人たちに自信と自負を与えていたに違いない。そういった中国の知識人たちの意識の変化に、トウ小平氏や中国共産党の幹部は気付いていなかったのかもしれない。

 社説「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対せよ」が掲載された翌日の4月27日、北京の学生3万人が社説の撤回を求めてデモ行進した。多くの市民がデモを支持する姿勢を示した。この動きを見て、党幹部も強硬な姿勢を採り続けることは得策ではない、と考えるようになり、4月28日、党幹部は学生たちとの対話を行う決定をした。

 4月29日に党幹部(袁木国務院報道官)と学生たちの代表との会談が行われた。しかし、袁木氏が会見した学生代表45名のうち、43名は官製の学生会の代表だったことから、運動の主体となった学生たちの不満は、この会見によって返って増した、という(「トウ小平秘録」)。李鵬総理ら保守派は追い詰められつつあった。

 こうした困難な状況の中、4月30日、趙紫陽総書記がようやく北朝鮮訪問を終えて帰国した。趙紫陽総書記は、党の分裂だけは避けたいと考えていた。趙紫陽総書記は、北京に着くとすぐ、翌5月1日に党政治局常務委員会を開くよう指示した。4月26日の社説を出させた李鵬総理ら保守派は、趙紫陽総書記が自分たちのやり方に反対し、学生たちの側に付くことを恐れていた。ここ数日の北京市内の状況を踏まえれば、党の総書記が運動をしている学生・市民の側に立てば、李鵬総理ら保守派は一気に追放されかねない状況だと思われたからである。

 5月1日に開かれた党政治局常務委員会の内容は必ずしも明らかではないが、「トウ小平秘録」によると、この日の会議の内容はおおよそ次のようなものだった。

・趙紫陽総書記は、4月24日の党中央に「動乱制止小組」を設置することを決めた党常務委員会非公式会議の決定と、4月25日の「旗幟を鮮明にして、強い措置をとって動乱を制止せよ。」というトウ小平氏の講話を支持する旨を表明した。これは4月26日に北朝鮮で「同意する」と表明したことの再確認を意味した。

・趙紫陽総書記は、4月26日の「人民日報」の社説については言及しなかった。

・胡啓立政治局常務委員が、上海での「世界経済導報」の発行禁止と編集長解任について知識人たちが怒っている、と報告した際、趙紫陽総書記は「上海の動きは軽率で性急すぎた。」と批判した。しかし、上海の動きは既に党中央の了承を得ていたことから「上海の決定は維持されなければならない」とも述べた。

・楊尚昆国家主席が「5月4日に北京で開かれるアジア開発銀行(ADB)の理事会と5月中旬に予定されているソ連のゴルバチョフ書記長の訪中を混乱の中で迎えるわけにはいかない」と発言した。

・楊国家主席の発言を受け、趙紫陽総書記は、5月3日に行う予定の「五四運動70周年記念大会」における演説で「(1)改革開放と四つの基本原則をしっかりやる、(2)社会主義の民主と法制建設に取り組む。西側の多党制はやらないが、民主化は世界の潮流であり、主体的に取り組むべきだ。」と主張し、政治改革を進める方針を打ち出すという案を出した。

 最後の趙紫陽総書記の案に出てくる「四つの基本原則」とは、「第3章第5部(2)『北京の春』と改革開放路線の決定」で述べたように、「民主の壁」(北京の春)の運動が盛り上がって華国鋒氏ら「すべて派」が実権を失い改革開放路線への転換がなった後の1979年3月30日にトウ小平氏が打ち出した方針である。この方針は「社会主義の道」「プロレタリア独裁」「共産党による指導」「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」の4つを堅持するというものである。要するに民主について議論したとしても、この4つを逸脱してはならない、というトウ小平氏の宣言だった。

 つまり、趙紫陽総書記の提案は、従来の党の方針を再確認する、というものであった。ただ、学生たちの理解を得るために、「四つの基本原則」を堅持する、という枠の中ではあるが、政治改革を進める、という方針を示そう、というものだった。これに対し、李鵬総理ら保守派は、デモをやっている学生たちの中には社会主義制度自体に反対している者もおり、学生たちに妥協して「政治改革を進める」との方針を示すのは危険だ、と主張した。しかし、趙紫陽総書記は、学生たちの動きに理解を示し、政治改革を進めるとの方針を示せば、学生たちも理解してくれるはずだ、と考えていたようである。

 この5月1日の政治局常務委員会の様子について、「趙紫陽極秘回想録」の中で、趙紫陽氏は、自分のとった態度について次のように語っている。

・(方針をいきなり180度転換するわけにはいかなかったので)やや漠然とした形で李鵬の仕事にある程度賛意を表した。

・民衆の多数派の支持を得ることが大切だ、と主張した。

・4月26日の社説で表明された意見が、民衆の大多数、学生、知識人、民主諸党派の考えから著しくかけ離れたものであるという事実を、われわれは冷静に受け止めなければならない。

・4月26日の社説で用いられた表現を活かして、ごく一部の反共産党的、反社会主義的な者たちが混乱を助長しようとしていると示唆すれば、社説の影響が和らぐことが期待される。

・学生たちには教室に戻るよう勧めるべきだ。

 トウ小平氏がどう考えているかが重要だったが、「趙紫陽極秘回想録」によれば、5月2日と5月3日、趙紫陽氏は、秘書を通じて、あるいは楊尚昆国家主席を通じて、トウ小平氏と会いたいと頼んだが、トウ小平氏は会わなかった。楊尚昆氏は、仮にトウ小平氏と会ったとしても、トウ小平氏は自分の態度を改めて主張するだけであり、事態を好転させることはさらに難しくなる、と述べた、という。

 こうした一連の動きを見ていると、趙紫陽氏は、この時点でも自分が最終決定権限者であり、トウ小平氏と相談した上で、自分が全てを決めるべきだ、と思っていたようであるが、もしかするとトウ小平氏は、この時点(4月26日ないし5月1日の時点)で、既に趙紫陽氏を「見限って」いたのかもしれない。「趙紫陽極秘回想録」では、趙紫陽氏は、この時期、トウ小平氏は体調がよくなかった、と記しているが、それにしも、この重大な国家的危機に際して、党総書記の趙紫陽氏が最高実力者のトウ小平氏と会って相談することができない、という状況は、どう考えても異常である。

 5月3日、趙紫陽総書記は「五四運動70周年記念大会」で上記の方針に従った演説を行った。趙総書記は、社会の安定が必要だと訴えたが、その一方で、学生たちの運動を「動乱」とは呼ばなかった。この演説では、反対に「安定こそが大事である」と主張し、過去の帝国主義の時代や文化大革命のような動乱の日々を指摘した上で、「もし再び動乱が起きれば、幅広い人民や青年学生が希望する建設、改革、民主、科学が全てできなくなる」と述べで、今起こっている現象は「動乱」ではないことを示唆していた。さらに、この演説では、「学生たちを含めた一般大衆の民主政治への要求については、中国共産党の主張と同じであり、党の心は、人民の心、青年の心と一緒である。」と述べていた。

 さらに5月4日、人民大会堂では、アジア開発銀行理事会が開催された。各国代表と会見した趙紫陽総書記は学生デモについて「政策の運営上の欠陥を批判しているのであり、社会主義に反対しているものではない」と述べた。

 多くの学生たちはこれらの演説を歓迎した。5月4日、学生たちは天安門前広場に集まって、政府との対話を要求した後、授業ボイコットの中止を宣言した。

 李鵬総理も対外的な発言では趙紫陽総書記と同じような発言をしていたが、4月26日付けの「人民日報」の社説に対しては、李鵬氏と趙紫陽氏は鋭く意見を対立させていた。趙紫陽氏は、4月26日付け社説を修正しようと考えていた。社説掲載時に北京にいて全体の指揮を採っていた李鵬氏はこれに強く反対した。4月26日の社説の修正を認めることは、社説掲載の誤りを認め、自らの失脚を意味するからである。学生デモが収まり掛けつつある現状を見て、多くの党内幹部が趙紫陽総書記の演説の路線を支持したが、4月26日付け社説をどうするか、については、党内での意見が分かれていた。

以上

次回「4-1-9(3/5):『第二次天安門事件』(3/5)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-7c82.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月16日 (金)

4-1-9(1/5):「第二次天安門事件」(1/5)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第9節:「第二次天安門事件」(1/5)

 現在、中国では「天安門事件」と言えば、1976年4月5日の「第一次天安文事件」(「四五事件」「四五天安門事件」ともいう)のことを指す。これから述べる「第二次天安門事件」は、中国語では「六・四」「六四事件」「六四天安門事件」などと呼ばれるが、現在の中国では、触れることすらほとんど「タブー」であり、新聞紙上などにこの案件について登場することは滅多にない。話の文脈上、触れざるを得ない場合には「1989年の政治風波」と表現される。「第二次天安門事件」に関するネット上の情報、写真、映像等は削除されるかアクセス禁止措置が採られているし、外国のサーバー上にある「第二次天安門事件」に関する情報(特に言葉がわからなくても何があったのか理解できる写真や映像等)にはアクセス禁止措置が採られている。1989年当時の中国の新聞・テレビはこの事件については報じていない。従って、1989年当時現場にいて事の成り行きを直接見聞きしたか、直接見聞きした人から人づてに聞いたことがある人でない限り、今の中国にいる人々は「第二次天安門事件」について知らない。

 これまで「第二次天安門事件」について、当時の世界情勢や伏線に関する記述が長くなったが、ここから「第二次天安門事件」の経緯を時系列的に述べていくことにしよう。時点を、1989年4月15日、即ち、胡耀邦氏が死去した日から始めることにする。

 前節で述べたような私の知らない「伏線」があったためか、4月15日以降の動きは、私の予想を超えて激しいものになった。ただし、その事態の変化は急激に始まったわけではなかった。

 4月16日夕方、「トウ小平秘録」(参考資料17)の筆者の伊藤正氏(当時、共同通信記者。本稿執筆時の2010年4月時点では産経新聞中国総局長)は、北京大学の「三角地」と呼ばれる広場へ行ったとのことである。北京大学の中でよく壁新聞が張り出される場所である。この時点で、伊藤正氏は、北京大学の中にデモをやるような雰囲気はなかったと「トウ小平秘録」で書いている。

(注)北京大学の名物だった「三角地掲示板」は2007年10月末に撤去された。最近は広告ばかりが張り出されており、近くに翌年開催が予定されていた北京オリンピックの競技会場となる施設もあったことから、構内環境の浄化を行う、というのが理由だった。北京大学の多くの関係者は、この「三角地掲示板」の撤去に抗議の意志を示した。そういった抗議が起きたことは、今述べているような「三角地掲示板」の歴史を「誇り」に思っている北京大学関係者が今でも多いことを物語っている。

 前節で述べたように、胡耀邦氏の死去後ほどなく、4月22日に「追悼大会」を開催することが発表された。胡耀邦氏は「失脚」同様の形で1987年1月に辞任したのであるが、党としても哀悼の意を表することが「追悼大会の開催」という形で表明されたわけである。

 4月17日、中国政法大学の職員と学生600~700人によるデモが天安門前広場へ向けて行われた。スローガンは「胡耀邦追悼」と「民主と法制の要求」だった。デモ隊はインターナショナル(革命歌)を歌いながら行進した。インターナショナルを歌ったのは、共産党に反対しているわけではないことを示すためだった。このデモ隊は人民英雄記念碑に献花したが、このことが後に「反革命煽動」の発端とされることになる。花輪に追悼のためにマオタイ酒の小瓶をつるしたからである。小瓶は中国語で「シャオピン」と発音する。トウ小平氏の「小平」と同じ発音である。これがトウ小平氏を侮辱し、攻撃した、とされたのだ、と「トウ小平秘録」には記されている。

 この動きを受けて、北京大学、人民大学、清華大学の学生らも4月17日深夜から18日未明に掛けて、天安門広場へ向けてデモを行った。規模は数千人に達したが、大半はデモ終了後、ほどなく大学に戻ったという。ただ、数百人が天安門広場に残って、7項目の要求事項をまとめた。まとめられた7項目は「トウ小平秘録」によると次の7つである。

(1) 胡耀邦の政治功績の公正な評価

(2)「反精神汚染キャンペーン」「反ブルジョア自由化」運動の否定

(3) 国家指導者とその子女の資産公開

(4) 民間新聞の発行の許可、報道禁止の解除、新聞法の制定

(5) 教育予算増と知識分子の待遇改善

(6) デモ規制を定めた北京市条例の廃止

(7) 今回の活動の公開報道

 趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)の中で、運動を起こした学生らが、もし政府の方針に反対する目的で運動を起こしたのだとしたら、要求項目の中に、この当時、最も人々が不満に思っていたインフレ問題を含めたはずだ、それが入っていないのは、彼らが政府の方針に反対しようと思っていたわけではないことを示している、と指摘している。

 この北京の胡耀邦氏を追悼する動きは上海などの他の都市にも広がった。

 北京での学生らの動きは、約2,000人の学生が中国共産党本部がある中南海の正門「新華門」に集まる動きに発展した。1989年4月18日深夜、中国共産党本部がある中南海の正門「新華門」の前に学生たちが集まり、李鵬総理との面会を要求した。学生たちは「新華門」の中へ突入しようと試みたが警備当局に阻まれた。学生たちはいったんは解散するが、19日の午前になるとまた集まり突入を試みた。しかし、20日未明には、学生たちは警備当局によって実力で排除された。この事件は「新華門事件」と呼ばれる。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、趙紫陽氏は、この4月18日及び19日の「新華門事件」の様子を公安省が撮影したビデオを見たという。このビデオでは、先頭にいる学生が「秩序を守れ!」と仲間たちに繰り返し叫んでいたほか、後の方にいた群衆が前に出ようとして混乱が起き始めると、いくつかの学生のチームが警備員のように群衆を押し戻そうとしていたという。この公安省が撮影したビデオは、党内ではおそらくは「極秘」扱いのものであり、総書記である趙紫陽氏だからこそ見ることのできたビデオ映像なのだろうと思われる。趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」で、このビデオでわかるように、後に述べるように4月26日に学生たちを刺激するような社説が「人民日報」に掲載される前は、学生たちの動きはそれほど激しいものではなかった、と述べている。

 この当時、改革開放の流れの中で、北京には多くの外国人報道関係者がいた。外国人報道関係者により、北京の様子は海外で報道された。しかし中国国内では「街頭行動は報道しない。特に天安門広場の写真は報道してはらなない。」という指示が出されていたという(「トウ小平秘録」)。

 4月20日には、新華社が「社会の安定擁護が当面の大局」と題する評論を発表し、新華門での学生たちの動きを批判した。前に「第4章第1部第5節:1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任」で述べたように、1986年12月、安徽省合肥で始まった民主化を求める学生デモが上海に波及した時、当時の江沢民上海市長は学生たちの前に姿を現し「腐敗幹部を批判する君たちの主張は理解できる。政府も腐敗幹部追放に全力を尽くす。しかし、デモを行っても問題は解決しない。冷静に考えて大学に戻って欲しい。」と学生たちを説得した。しかし、1989年4月、「新華門事件」が起きた時点で、当時の幹部は、趙紫陽氏も含めて誰も学生や市民の前には姿を現さなかった。そういう状態で出された国営通信社「新華社」の学生たちの動きを批判する論文は、逆に、学生たちを挑発する役割を果たした。

 当時、党の幹部の多くは「学生たちの背後に黒幕がいる」「学生を利用する下心のある連中を暴くべきだ」と言っていたという。この種の発言は、中国において、学生や市民の運動が起こると必ずなされる発言である。1976年の「第一次天安門事件」においても、当時権力の座にいた「四人組」周辺の人々は同じようなことを言っていた。2008年3月のチベット争乱や6月に貴州省甕安(日本語読みでは「おうあん」)県での民衆暴動においても「大多数の人々は真相を知らない純粋な人々なのだが、一部の腹黒い連中が多くの人々を煽動している」といったフレーズが繰り返された。2009年7月の新疆ウィグル自治区ウルムチの暴動でも「外国勢力に煽動された一部の連中が引き起こした」と伝えられた。この種の見解は「騒ぎを起こしている一般大衆は無知だ」という認識から出発している。その認識が正しくないことは、繰り返される大衆による騒擾事件で証明されているのであるが、中国の支配層の人々の認識は昔も今もほとんど変わっていない。

 「多くの一般大衆は真相を知らない」「民衆が騒いでいるのは一部の悪意を持った連中が煽動しているからだ」という事実とは異なる認識は、結果として問題解決のための正しい選択を妨げ、事態を悪化させることになる。

 こうした騒がしい状況の中、1989年4月22日、人民大会堂で胡耀邦氏の追悼大会が挙行された。トウ小平氏をはじめ、党、政府、軍の幹部が出席し、趙紫陽総書記が追悼演説を行った。胡耀邦氏が1987年1月に中国共産党総書記を辞任した経緯には触れられなかった。従って、この追悼大会は、党が胡耀邦氏に対して一定の敬意を表したことを表すものだったが、胡耀邦氏の名誉回復を意味するものではなかった。天安門広場には、胡耀邦氏を追悼する3万人規模の人々が集まった。

 この追悼大会の翌日の4月23日、趙紫陽総書記はかねてから予定されていた北朝鮮訪問へ出発した。趙紫陽総書記が帰国したのは1週間後の4月30日である。この間に事態は急転回するのだが、なぜこの時期に党のトップである総書記の趙紫陽氏が北京を空けたのかは、謎に思える。この当時、北朝鮮と中国との間には差し迫って緊急に解決すべき案件はなかった。この当時、北京と北朝鮮との間の移動には列車を使うことが多かったが、それにしてもすぐ隣の隣国へ行くのに1週間も北京を空ける必要はなかったはずである。いくら前から決まっていた外交日程だったとしても、この時の北京の状況を考えれば、訪問日数を短縮したり、訪問を延期したりしてもおかしくはなかった。

 趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」で4月26日の「人民日報」の社説が事態を急変させた、と述べており、4月23日の時点では、以下に述べるような指示を出しておけば事態には対処できると考えていたようであり、自分の北朝鮮訪問を中止する必要はない、と考えていたようである。

 趙紫陽総書記は、北朝鮮への出発に際して、

(1)学生デモは阻止して学生を大学に戻らせる。

(2)破壊行為については法に基づいて厳しく処罰する。

(3)学生に対しては指導を主とし各レベルで対話を行う。

との対応方針をトウ小平氏に説明し、トウ小平氏もこれに同意した。趙紫陽総書記は、李鵬総理にこの3つの方針に沿って対応するよう依頼して、予定通りに北朝鮮へ出発することにした。

 趙紫陽総書記には、北朝鮮訪問の日程変更をすると、国際的に北京の状況は深刻だ、との印象を与えることになるため、それを避けたい、と考えたのかもしれない。しかし、結果的には、北京の状況は総書記の外国訪問の日程を変更しなければならないほど深刻になったのである。将来の歴史家は、北朝鮮訪問を中止しなかったこの時の趙紫陽総書記の判断について、情勢に対する判断が甘かった、と批判するかもしれない。

 「トウ小平秘録」によると、趙紫陽総書記は4月23日午後に北朝鮮へ向けて北京を出発したが、23日の午前中は、北京郊外のゴルフ場でゴルフをしたとのことである。趙紫陽氏のゴルフ好きは、私が北京に駐在していた1986年~1988年頃には既に有名になっていた。趙紫陽氏自身、「趙紫陽極秘回想録」の中で、失脚後軟禁状態に置かれていた頃のことについて「ゴルフにすら行かせてもらえない」と何回も述べていることを見ても、相当のゴルフ好きだったのは事実のようである。当時、北京郊外の日系企業が経営するゴルフ場の名誉会員として登録されていた。もし、4月23日の午前中、北朝鮮へ向けて出発する前に本当にゴルフをしたのだとすると、趙紫陽氏は、将来の歴史家から「状況判断が甘すぎた」と批判されるのは避けられないかもしれない。

 実は、この時点(4月22日の追悼大会が開かれた頃)では、東京で北京からの報道に接していた私も「そんなに大変なことにはならないだろう」と思っていた。というのは、1976年の「第一次天安門事件」の時も最後は警官隊の導入で群衆は解散させれているので、いよいよとなったら、そういう警備当局による実力行使があって、多少のけが人は出るかもしれないが、それ以上のことにはならない、と思っていたからである。天安門広場に集まっている人たちの要求事項は、「胡耀邦氏の追悼」以外の点では統一した確固たる要求があるわけではなかったし、共産党に反対しているわけでもなく、デモに参加している人々自身、デモを続けても何の事態の進展も図れないことはわかっているはずだ、と私は思っていたのである。

以上

次回「4-1-9(2/5):『第二次天安門事件』(2/5)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-a1ac.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月15日 (木)

4-1-8:「第二次天安門事件」の伏線

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第8節:「第二次天安門事件」の伏線

 時として、歴史の中で、単なる偶然が大きな動きのきっかけになることがある。1987年1月に総書記を辞任した胡耀邦氏が1989年4月15日に死去したことも、そういった「偶然」のひとつである。

 4月15日という日付は、極めて微妙なタイミングだった。それは予定されていたソ連のゴルバチョフ書記長訪中のちょうど1か月前だった。しかも、死者を哀悼する習慣がある(日本の「お彼岸」に相当する)「清明節」の10日後だった。「清明節」は、1976年に「文化大革命」による抑圧に反発した一般市民が周恩来総理を哀悼して起こした「第一次天安門事件」が起きた日である。そして4月は、北京においては、長い冬が終わって人々が外へ出て活発に活動しようという気分になる季節でもある。胡耀邦氏が亡くなったのが4月15日だった、というこの単なる偶然が、歴史の歯車を動かし出す第一歩となった。

 亡くなった時点で、胡耀邦氏は、実権を持たないヒラの政治局委員であり、亡くなったこと自体の政治的な重要性は全くなかった。しかし、胡耀邦氏が亡くなったことに対して、一般大衆がどう反応するのか、を当時の幹部は神経質に心配していた。「トウ小平秘録」(参考資料17)によれば、当時「人民日報」副編集長だった陸張祺氏は「大衆は極めて強く反応するだろう」と予感したと2006年に香港で出版された「六四内部日記」に記しているという。

 胡耀邦氏はいわば「失脚」同然の形で辞任したが、「長い試練を経た忠誠な共産主義戦士、偉大なプロレタリア革命家、党の卓越した指導者」(死去した日に発表された訃告の表現)として4月22日に「追悼大会」を開催することが決まった。党の指導部も党として胡耀邦氏の追悼をないがしろにしたのでは、一般大衆の反発を買うことになる、と思っていたから、きちんとした「追悼大会」をやる決断をしたものと思われる。「失脚」同然の扱いを受けていた幹部の死に対して「追悼大会」を実施することは異例だった。

 胡耀邦氏が死去した翌日の4月16日には、一部市民により天安門広場にある人民英雄記念碑に追悼の花輪が捧げられた。そのニュースを東京で聞いた私は、即座に1976年の「天安門事件」を連想したことを記憶している。多くの人々もそう思ったに違いない。

 しかし、私は、この時点では1976年の「天安門事件」を連想はしたが、1976年のような大きな運動にはならない、と考えていた。これまで書いてきたように、「文化大革命」時代末期と異なり、人々の間に体制をひっくり返そうと思うほどの不満が溜まっているとは思っていなかったし、党が「追悼大会を開催する」ことを決定したことでわかるように、党も人々の気持ちを受け止めながらうまく対処するだろうと思っていたからである。しかし、実際には、事態が大きくなる要因として背景に当時の私が知らなかった「伏線」があったようである。

 その「伏線」のひとつは、前々節で述べた1988年5月から8月に掛けての二重価格問題に対する対処策の失敗に対する保守派からの趙紫陽総書記への批判である。この頃、二重価格問題の対処に失敗した趙紫陽総書記の政権内での発言力は低下し、市場における政府のコントロールを強めるべき、と考える保守派の発言力が大きくなっていた。

 もうひとつの「伏線」は一種の「歴史認識」に対する路線対立だった。事の起こりは、1988年6月に中国中央電視台で放送されたテレビ・ドキュメンタリー番組「河殤(かしょう)」(全6回シリーズ)だった。私はこの番組を見ていないので適格には評論できないが、この番組は、中華文明の封建制や暗黒面を描いたものであったという。ある意味で、封建的な時代を批判し、改革開放の必要性を訴える番組だった。放送当初は、中国メディアも賞賛したが、1988年7月以降批判が始まり、保守派の王忍之氏が部長を務める党宣伝部の指示で再放送申請が却下されるようになったという。趙紫陽総書記はこの作品を絶賛したが、保守派長老の王震国家副主席は「中華民族への侮辱だ」としてこの作品を攻撃したという(参考資料17:トウ小平秘録)。もしこれが事実だとしたら、この時点(1988年夏以降)で、趙紫陽氏は、党の宣伝部をコントロールできていなかったことを意味しており、党のトップたる総書記として、党内を統括する力を既に失っていたと言える。

 この「河殤」問題については、趙紫陽氏自身は、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)の中で、自分(趙紫陽氏)が、「河殤」の制作を指示したり、ビデオを全国に配ったり、「河殤」に対する批判を抑え込もうとしたりした、と随分新聞に書かれたが、それらはまっ赤な嘘だ、と語っている。

 この「河殤」問題において保守派が「中華民族への侮辱だ」と反発したことは、1990年代に「愛国主義」に政治的求心力を求めることになる保守派の原点をなしている、とも見ることができる。

(参考URL1)「日本財団」図書館(「日本財団」が著者と発行元の許可を得て掲載している電子図書館)
「1988年11月7日付け朝日新聞社説:気になる風が中国を吹く」
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00241/contents/021.htm

 さらにもうひとつの「伏線」と言える動きは、1986年12月の学生運動の動きに同情的だったとして1987年1月に党籍を剥奪された天体物理学者(学生運動発生当時の中国科学技術大学副学長)の方励之氏の動きである。方励之氏は、党籍を剥奪された後も民主化運動を続けていた。「トウ小平秘録」(参考資料17)の筆者の伊藤正氏は、1988年12月に方励之氏を訪ねたが、彼はその時も意気軒昂で、トウ小平氏を批判し、民主化は必ず実現する、と話していたという。

 その方励之氏は、1989年1月、服役中の魏京生氏の釈放を求めるトウ小平氏あての公開状を発表した。魏京生氏は、1978年12月、「民主の壁」に「第五の近代化~民主およびその他」と題する壁新聞を張り出して中国共産党による30年来の独裁の現状を述べ、自由も民主もない現状を見つめるよう呼び掛けて、翌1979年3月29日に「反革命罪」で逮捕された民主活動家である(「第3章第5部第5節:改革開放と『四つの基本原則』で終わった『北京の春』」参照)。方励之氏は、1989年2月に訪中したアメリカのブッシュ大統領(父親)主催の夕食会に招待されたが、当局は方励之夫妻の夕食会への出席を阻止した。

 魏京生氏は、1979年3月に逮捕された後、懲役15年の判決を受けて服役中だった。「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、胡耀邦氏はそのような厳罰は望んでいなかったが、トウ小平氏の意向に押し切られたのだという。おそらくはそういった話が当時の知識人たちの間には広がっており、4月の胡耀邦氏の死去によって、抑圧されていると感じていた知識人たちの気持ちが一気に吹き出したものと思われる。

 胡耀邦氏が実際に民主化運動にどのくらい理解を示していたかは不明な点も多いが、1986年末の学生運動の盛り上がりの後、その事態に対する対処に関して「詰め腹を切らされる」形で辞任させられた胡耀邦氏は、多くの民主化活動家の間では、一種の「殉教者」的な扱いを受けていたものと思われる。

 この時のブッシュ大統領の訪中期間中の1989年2月26日、トウ小平氏はブッシュ大統領との会談を行っている。その時にトウ小平氏が語った言葉が「トウ小平文選」第三巻に収録されている。

(参考URL2)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「党史人物記念館」
「トウ小平記念館」-「著作選」-「トウ小平文選第三巻」
「一切を圧倒するものは安定である」(1989年2月26日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69696/4950030.html

 このブッシュ大統領との会談の中でトウ小平氏は次のように述べている。

「中国の問題において、一切全てを圧倒して必要としているものは安定である。中国は必ず改革開放を堅持しなければならない。しかし、改革をやるためには政治環境の安定が絶対に必要である。総体的に言って、中国人民は改革政策を支持しており、絶対多数の学生は安定を支持している。彼らは国家の安定を離れては改革開放を語ることはできないことを知っているからである。

 我々は既に建国以来の歴史的事件の是非、特に『文化大革命』の誤りについて適切な評価を行ってきた。毛沢東同志の歴史と思想についても適切な評価を行ってきた。毛沢東同志の晩年の誤りに対する批判については過度に行ってはならず、常軌を逸してはならない。なぜならばこのような偉大な歴史上の人物を否定してしまっては、我が国国家の重要な歴史を否定しまうことを意味し、思想の混乱を招き、政治的不安定をもたらすからである。

 中国は特に今は経済発展に注意力を集中させなければならない。形式上の民主を追求したら、結果的に民主は実現できず、経済的発展もまた得られず、国家の混乱を招く。私は『文化大革命』のひどい結果をこの目で見てきた。中国では人が多いから、もし今日デモをやり、明日デモをやることにしたら、365日毎日デモをやることになり、経済建設などできなくなってしまう。もし我々が現在10億人で複数政党制の選挙をやったら、必ず『文化大革命』の『全面内戦』のような混乱した局面が出現するだろう。民主は我々の目標だが、国家の安定は絶対に保持しなければならない。」

 この談話には、この2か月後にトウ小平氏が下す判断の根拠となる考え方が凝縮されている。「文化大革命」を否定し、1981年6月の「歴史決議」で、それまで「タブー」と考えられていた毛沢東の歴史評価にさえ切り込んで「毛沢東も晩年には誤りを犯した」と断言したトウ小平氏を考えると、私から見れば、「あまり毛沢東を批判しすぎるのはよくない」とする上記のトウ小平氏の発言は一種の変節のように見える。全てをタブーしすることなく、毛沢東の言動も含めて、誤っている部分はきちんと誤っていると認識し、正すべきことは正す、というのが「改革開放の原点」だと私は考えているからである。おそらく「全てを虚心坦懐にタブーなく批判して正すべきは正す」という考え方を突き詰めると、「『中国共産党による指導』を堅持することを含む『四つの基本原則』に対して批判してもよい」という考え方に通じることを、トウ小平氏はこの時点で強く意識し始めていたものと思われる。

 私はこの談話がなされた時点では既に日本に帰っていて、この談話については知らなかった。私は、2007年に19年振りに北京に駐在するようになって1989年以降「改革開放の原点が失われた」という感覚を感じた。この談話を読んで感じることは、「改革開放の原点を失わせた」のは、ほかならぬ「改革開放の原点」を自ら切り開いたトウ小平氏自身だった、ということである。この時点で、おそらくは当初は自らの後継者と考えていた胡耀邦氏や趙紫陽氏の考え方から、トウ小平氏自身の考え方の方が変化してずれてしまっていたのだと思われる。少なくとも、この時点で私が持っていた「トウ小平氏が始めた改革開放」のイメージからトウ小平氏自身がずれてしまったことは確かである。

 トウ小平氏が「中国共産党による指導」に対する批判を許さなかったのは、それを許すと、国土が広く、人口の多い中国においては、政治的に混乱が起き、収拾がつかなくなると考えていたからであろう。そのあたりの考え方は、上記のブッシュ大統領との会談の際に話した言葉から十分に読みとることができる。

以上

次回「4-1-9(1/5):『第二次天安門事件』(1/5)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-617d.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月14日 (水)

4-1-7:「第二次天安門事件」直前の世界情勢

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第7節:「第二次天安門事件」直前の世界情勢

 はじめにお断りしておくが、私は1988年9月30日に北京駐在を終えて帰国し、その後は、中国とは関係のないセクションで勤務していた。従って、これから述べるもののうち1988年10月以降の事項については、私が実際に体験したものではなく、一般の日本の人々と同じように、当時、報道を通して知ったり、後から本などを読んで知ったことをまとめたものである。

 ただ、1988年9月30日まで北京で生活していた実感からすれば、当時の中国において、人々が社会の体制をひっくり返そうと考えるほどの不満がうっ積していたとは考えられない。確かに市民が「物価が上がりすぎる」とか「官倒(官製ブローカー)や腐敗地方政府幹部はけしからん」といった怒りを覚え、大学生が「自分たちの就職先は自分で決められないのはおかしい(当時の大学卒業生の就職先は原則として国家が決めていた)」といった不満を持っていたのは事実である。しかし、改革開放政策により中国は高度経済成長を始め、人々の生活は農村部も含めて確実に向上しつつあった。むしろ、食べること、生きることに対する不安がなくなったことにより、社会にある様々な矛盾や不満な点について異議を申し立てる余裕が出てきた、と捉えた方がよい。

 ほとんど全ての人が改革開放政策による経済成長の恩恵を受けており、政治闘争によって再び文化大革命のような混乱が起こることは誰も望んでいなかった。問題は、社会に対していろいろ意見を言いたい(それは自分たちの社会を少しでもよくしたい、という素直な感情だった)という人々の気持ちを、中国共産党が受け留めることができなかった点にある。中国共産党は、1976年4月に「第一次天安門事件」として噴出した人々の「文化大革命」に対する不満を、結果的には率直に受け止め、それを肯定して、改革開放へと政策の舵を切った。それができたことを知っていた私としては、1989年の中国共産党にそれができなかったことが残念でならない。

 1989年の中国での動きを述べる前に、まずそれに影響を与えたと考えられる諸外国の状況について触れておきたい。

 「第4章第1部第4節:対外経済交流の深化と外国の情報の流入」で述べたように、ソ連においては、1980年代前半は「老人支配」により、若い世代への政権移譲がうまく実現せず、有効な政策判断ができない機能不全状態に陥っていた。それを改善すべく、1985年3月にソ連共産党書記長になったのがゴルバチョフ氏である。ゴルバチョフ氏にとっては、改革開放政策により、西側からの技術と資本を導入して共産党の指導的立場を維持しながら急速に経済成長を始めていた当時に中国の状況は、大いに参考になったことは間違いない。

 中国は、1979年2月の中越戦争以降、外交面では、どの国とも対立することを避け、米ソ間のパワーバランスを巧みに利用しながら、自らは自国の経済成長に専念してきた。現実主義的なトウ小平氏は、中越戦争でベトナム軍に苦しめられた経験も踏まえ、軍事面でも、「人民戦争論」に立つ毛沢東が理想とする人海戦術的戦法中心主義から脱却し、人数的には少数精鋭化しつつ、装備は近代化・機械化を進める方向で軍隊の変革を進めた。このため1985年には、人民解放軍の100万人の大幅な人員削減を行った。また、経済発展のために軍事技術を活用することにも躊躇(ちゅうちょ)せず、むしろ転用可能な軍事技術の民間での活用を進めた。巧みな外交戦術によって、諸外国の技術と資本を利用し、過度の軍事的負担を避けて、国の力の大部分を経済成長に集中できるようにしたのである。

 一方のソ連にとっては、アメリカとの対抗上必要な核兵器や軍隊の維持と東欧諸国やソ連の影響下にある国々での権益の維持が重荷になりつつあった。特に1979年12月に軍事介入を始めたアフガニスタンは、かつてのアメリカがベトナムで苦しんだのと同じように泥沼化しつつあった。

 このためゴルバチョフ氏は、国内においてはペレストロイカと呼ばれる改革とグラスノスチと呼ばれる情報公開を進めるとともに、対外的には、アメリカとの間で協調路線を進め、外交的な圧力を減少させて、周辺諸国に対するソ連による支援を徐々に減らし、ソ連国内の経済建設に集中できるように政策を進めた。

 具体的には、米ソは1982年から戦略兵器削減条約(START)の交渉を始めていたが、条約の妥結へ至る最初のステップとして、1987年12月、ゴルバチョフ書記長はアメリカを訪問し、レーガン大統領との間で中距離核兵器全廃条約(INF全廃条約)に署名した。このINF全廃条約の調印に関するニュースを、私は北京の中央電視台のテレビで見ていたが、レーガン大統領が「現在、行っている交渉は、核兵器について制限するもの(Limitation)ではなく、削減するもの(Reduction)であり、今日調印した条約は核兵器の一部である中距離核兵器を全廃するもの(Elimination)である」と感慨深げに演説して、ゴルバチョフ氏とやや大げさな感じで固く握手したのを印象深く覚えている。映画俳優出身のレーガン大統領はプロの「役者」であるが、私はこの時、ゴルバチョフ氏も相当な「役者」であると感じた。

 当時、中国中央電視台の第一チャンネル(総合チャンネル)では、夜21時半からの「夜のニュース」と天気予報に引き続いて22時10分頃から「英語の時間」を放送しており、こういった国際ニュースは英語で放送されていた。従って、レーガン大統領の演説は大統領の肉声がそのまま中国中央電視台のテレビで流されていたのである。こういったテレビでの英語ニュースの放送は、中国の人々を国際化しよう、という中国政府の方針によるものであろうが、この当時の中国の人々には、諸外国のリーダーの肉声に直接触れる機会があったのである。

 現在、中国中央電視台には、英語チャンネルが独立して存在しているので、第一チャンネル(総合チャンネル)には英語放送はない。今は、中央電視台には英語チャンネルのほかにスペイン語専門チャンネルもあるので、中国のテレビの国際化は進んだと言うべきなのだろうが、普通の中国の人々は英語チャンネルにチャンネルを合わせることはまずないので、テレビを見ている印象からすると、一般の人々が外国要人の英語での発言を直接聞くチャンスは、現在は1980年代より減ったのではないかと思う。

 同じ頃、北京にいて目に入ったニュースは、韓国の大統領選挙だった。1980年に軍事クーデターで大統領になっていたチョン・ドゥファン(全斗煥)氏は、1988年のソウル・オリンピックの誘致に際し、オリンピック前に退陣することを表明していた。そのため韓国では次の大統領は国民による直接選挙で選ぶべきだとの運動が盛り上がっていた。学生らによる民主化要求デモや、それを放水銃や催涙弾で鎮圧する当局側との激しい攻防のニュースは、中国のテレビで繰り返し放映された。結局、次期大統領候補として名乗りを挙げていた軍人出身のノ・テウ(盧泰愚)氏は、1987年6月、民主化宣言を発表し、複数候補者と国民の直接選挙による大統領選挙が行われることになった。

 これらの韓国の民主化運動のニュースについては、中国政府当局は「南朝鮮の軍事独裁政権の混乱ぶり」を中国の人々に見せようという意図もあったと思われるが、韓国における大統領選挙実施へ向けての動きは、中国の人々に、こういう意見の主張の仕方もあるのだ、こうやって民主化を実現させることも可能なのだ、という印象を与えたに違いない。

 韓国初の大統領選挙は1987年12月16日に実施された。結局、ノ・テウ(盧泰愚)氏が最高得票を得て、大統領に選出された。ノ・テウ氏は軍人出身だったが、国民の直接選挙で選出された初めての大統領となった。歴史的に中国の人々の認識の中には、中国はアジアの大国であり、ベトナム、モンゴル、朝鮮・韓国、日本などの周辺諸国は「少数民族」が独立して作った国、という印象を持っているが、そのひとつの韓国で国民の直接選挙による大統領選挙が行われ、次の年にはオリンピックが開催される、という事実を、中国の人々は複雑な感情を持って受け止めていたかもしれない。

 さらにこの頃、中国ではあまり報道されなかったが、東ヨーロッパでは、次の時代へ向けた大きな「うねり」が起きつつあった。

 上に述べたように、ソ連のゴルバチョフ書記長は、アメリカとの協調路線を進めることによって、外交的な圧力を緩和し、東ヨーロッパ諸国からできるだけ手を引いて、自国内の経済建設に力を集中させたい、という考え方を持っていた。このため東ヨーロッパ諸国に対しても、ぞれぞれの国々の政治は、それぞれの国の共産党政権に任せ、ソ連は介入しない、という方針を採った。

 東ヨーロッパの国々では、かつて、1956年のハンガリー動乱(「第3章第2部第2節:反右派闘争」参照)、1968年のチェコスロバキア事件(いわゆる「プラハの春」。「第3章第3部第8節:中ソ軍事衝突」参照)に見られるように、時折、ソ連による抑圧に対する人々の反対運動が起きたが、これらの動きはソ連軍の介入により鎮圧されていた。1980年にはポーランドにおいてワレサ氏をヘッドとする自主管理労働組合「連帯」の運動が起きたが、ヤルゼルスキー第一書記をヘッドとするポーランド統一労働者党は「連帯」を非合法化し、1983年には戒厳令を出して、人々の動きを抑圧した。

 しかし、ゴルバチョフ書記長による「ソ連は各国の内政に介入しない」という方針の表明は、これらの国々の人々に、自らの国の将来をソ連による介入なしに自らの手で決められるかもしれない、という希望を与えた。特に、1988年3月、ゴルバチョフ書記長がユーゴスラビアのベオグラードで「それぞれの国はそれぞれのやり方で社会主義を進めてよい」と明言したことが、一気に東ヨーロッパ各国の独自の動きを後押しすることになる。

 ゴルバチョフ書記長の登場の後、最も早く具体的な動きを始めたのは、1956年に市民がソ連に武力で対抗した経験を持つハンガリーだった。ハンガリーでは、ソ連でのゴルバチョフ書記長の登場後、ハンガリー社会主義労働者党による一党独裁体制の範囲の中での選挙が行われるようになった。選挙が行われるようになると、党内で次第に改革派の勢力が強くなっていった。1989年2月には複数政党の存在が認められ、ハンガリー社会主義労働者党自体、ハンガリー社会党と改名された。また、国名も「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」に改められた。

 ポーランド統一労働者党のヤルゼルスキー第一書記も、こういった周囲の状況を受けて、自らの政権維持のためにはむしろ話し合い路線に転換すべきだと判断し、1989年2月には自主管理労働組合「連帯」など反体制派との間で「円卓会議」を開くことに合意した。

 こうした中、中国ではトウ小平氏はゴルバチョフ書記長の訪中の実現へ向けて動き出した。これは戦略核兵器削減交渉を進め、INF全廃条約を締結して、アメリカと協調路線を歩みつつあったソ連に接近することにより、アメリカを牽制しよう、という戦略があったものと思われる。トウ小平氏による対ソ接近戦略は、1989年2月1日、ソ連のシュワルナゼ外務大臣の訪中として実を結んだ。ソ連の外務大臣が中国を訪問するのは、実に中ソ対立前の1959年以来のことだった。トウ小平氏とも会談したシュワルナゼ外務大臣と中国政府は、ゴルバチョフ書記長が5月に訪中することで合意した。

 この頃、ゴルバチョフ書記長は東ヨーロッパ諸国を訪問するたびに、訪問先の人々から「改革者」として熱烈な大歓迎を受けていた。ゴルバチョフ書記長が中国を訪問すると同じようなことが起こるかもしれない、とトウ小平氏が考えなかったのかどうかは不明である。中国では改革開放がうまく行っており、経済的に豊かになりつつあった中国人民が自分(トウ小平氏)を差し置いてゴルバチョフ氏を「改革者」と賞賛することはあり得ないだろう、という自信があったのかもしれない。あるいはトウ小平氏は東ヨーロッパで始まりつつあった動きを単なる「ソ連離れ」とだけ捉え、「社会主義離れ」とは捉えていなかったのかもしれない。

 なお、私は、1988年1月7日付けで北京から本社あてに報告した「中国一般情勢に関する1988年年頭所感」の附録として「1988年の予測(予言)」と題するメモを書いていた。その中で「1988年中には中ソ両国の両国首脳の相互訪問の話が進展する。李鵬総理、ゴルバチョフ書記長の相互訪問が決定する(実際の訪問は1989年)」と書いた。ゴルバチョフ書記長の訪中はこの「予言」の通りに実現した。1988年初頭の時点で、ゴルバチョフ書記長は、既にアフガニスタンからの撤退方針を表明していたし、東ヨーロッパ諸国における自主性の尊重(言葉を換えればソ連の影響力の削減)の方針を明確にしていた。

 「第3章第2部第4節:フルシチョフによる『平和共存路線』と中ソ対立」「第3章第3部第8節:中ソ軍事衝突」などで書いてきたように、中ソ対立のそもそもの原因のひとつは、ソ連が自分の周囲の国々に軍事的圧力を掛けて、周辺諸国をソ連の影響下に置こうとしていることに対して、ソ連と長い国境線を挟んで隣接している中国が反発したことにあった。つまり、ゴルバチョフ書記長がアフガニスタンや東ヨーロッパにおけるソ連の影響力を縮小させ、自国の経済建設に専念しようという政策に転換したことは、中ソ対立の原因が解消されたことを意味していた。中ソ関係の改善は時間の問題だったのである。だからこそ、私は1988年初頭の時点で、ゴルバチョフ書記長の訪中を「予言」することができたのである。

 しかし、天才的に「先読み」能力に優れたトウ小平氏も、1989年2月の時点で決めたゴルバチョフ書記長の訪中が、2か月後、自らが最も重要視していた中国共産党による支配体制に大きな影響を与える事態を引き起こす誘因のひとつになる、とは考えもしなかったと思われる。

以上

次回「4-1-8:『第二次天安門事件』の伏線」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-4b70.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月13日 (火)

4-1-6:中国の社会・経済で進む微妙な変化

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第6節:中国の社会・経済で進む微妙な変化

 こうした中、中国の社会の中に、微妙な変化が生じつつあった。

 1987年5月、黒竜江省の大興安嶺地区で大規模な森林火災が発生した。約1か月にわたって燃え続け、延焼面積は約101万ヘクタール(岐阜県全体の面積に近い)、死者は193名に上った。この火災は、空気が乾燥していたことが背景にあるが、木材の伐採機の油漏れや伐採労働者のタバコの火の不始末が原因と言われるなど、地方の現場の管理の「ゆるみ」が原因とされた。現場の担当者は、当初、中央に対して「大したことはない。既に消し止めた。」と報告したが、実際は火災は燃え広がり、衛星写真などを通じて、外国からも報じられるようになった。中央から救援部隊が派遣されたが、地方の現場管理者は「許可証のない者が立ち入ることは認められない」と主張し、救援隊が現場へ入れない事態が発生し、火災の拡大に拍車を掛けた。党中央は、こういった地方政府の「官僚主義」を問題視し、林業部長(大臣)は責任を問われて解任された。

 党中央は火災現場の地方政府の閉鎖的な対応を批判し「官僚主義反対キャンペーン」を始めた。党中央が「官僚主義反対キャンペーン」を始めると、中国の新聞は一斉に火災現場に記者を派遣して、独自報道を始めた。それまでの中国の新聞にはなかったことである。「人民日報」「経済日報」など、それまで党中央が発表する事項をそのまま載せるだけだった新聞が、自社記者を派遣して「スクープ」とも言える現場取材レポートを掲載したのである。これは、現在に繋がる「メディアによる地方政府の監督」の「はしり」となる出来事だった。この頃、中国の新聞において、従来の「党の舌と喉」という党の宣伝のための道具という枠からはみ出して、記者の目で見て社会の問題を探り出して自分の手で記事にして報道する、という姿勢が芽生え始めたのである。

 また、胡耀邦氏の辞任(実質上の解任)にも係わらず、経済面においてはさらなる改革開放政策が推し進められた。先に述べたように、胡耀邦氏の総書記辞任をきっかけにして、「ブルジョア自由化反対運動」に乗っかって保守派が経済面での自由化にブレーキを掛けようとする動きに出たのに対し、趙紫陽氏はそれを断固として阻止したからである。「趙紫陽極秘回想録」によれば、趙紫陽氏は党総書記代行として、「ブルジョア自由化反対運動」を進めるに当たって、次のように述べた、という。

「改革開放政策を決めた1978年12月の第11期三中全会の決定は、『四つの基本原則(社会主義の道、中国共産党の指導など)の堅持』と『改革開放政策の推進』の二つである。どちらが欠けても『中国独自の社会主義』は失敗に終わる。かつてわれわれは『四つの基本原則』をおろそかにした。だからいま、こうしてふたたび力を入れているのだ。しかし、改革開放を放棄すれば、われわれはまたしても間違った方向へ進むことになるだろう。」

 保守派は、「反ブルジョア自由化」運動の下、多くの自由化を求める人々の更迭を求めるなどしたため、趙紫陽氏は「反ブルジョア自由化」運動が改革開放政策を頓挫させることを危惧した。このため、「趙紫陽極秘回想録」によれば、1987年4月28日、趙紫陽氏はトウ小平氏と会談し、一部の人々が「反ブルジョア自由化運動」を利用して改革開放に抵抗しているが、それでは秋に開催される予定の第13回党大会を改革開放推進のための大会にすることはできない、と主張し、トウ小平氏もこの趙紫陽氏の考え方に同意したという。5月13日に行われた宣伝、理論、メディア、中央党校の幹部が集まる会合で、趙紫陽総書記代行は、反ブルジョア自由化運動が改革開放を妨げになってはならないと演説した。その頃、トウ小平氏は、外国要人との会見において「社会主義が貧困をもたらすものではない。問題は過度の左傾化だ。」と発言したことから、党内の体制は、改革開放政策のさらなる推進という方向でまとまった。

 当時北京に駐在していた私自身は認識していなかったが、「趙紫陽極秘回想録」で趙紫陽氏自身が語っているこの頃の経緯を振り返ってみると、上記に述べた「官僚主義反対キャンペーン」も、こうした「ブルジョア自由化反対運動」に区切りをつける、という趙紫陽総書記の意向を反映したものであった、と言えるかもしれない。

 趙紫陽総書記代行は「改革開放のさらなる推進」という方向で党内をまとめ上げ、1987年10月25日~11月1日に開催された第13回中国共産党全国大会を迎えた(この党大会において選出された中央委員により、党大会直後、趙紫陽氏は正式に中国共産党総書記に就任した)。この党大会で、趙紫陽氏は「社会主義初級段階論」を打ち出した。「社会主義初級段階論」とは、現在の中国の状況は、社会主義の初級段階にあり、この「社会主義初級段階」は建国(1949年)以降100年間は続く、という認識である。趙紫陽氏は、公有制経済を主としなければならない、としつつも、商品経済(注:この時点では、まだ「市場経済」という言葉は使われていないが、「商品経済」と「市場経済」は実質的に同じ意味である)を大いに発展させなければならない、と主張した。

(参考URL1)「新華社」ホームページ「新華資料」-「歴代党大会」
「中国の特色のある社会主義の道に沿って前進しよう~中国共産党第13回全国代表大会における報告」(趙紫陽)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2003-01/20/content_697061.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この「中国はまだ社会主義の初級段階にある」という表現は、言葉を換えれば、「中国はまだ本当の社会主義になっていない」という意味である。「趙紫陽極秘回想録」の中で、趙紫陽氏自身、下記のように語っている。

「第13回党大会で私が報告を行うまでには、中国経済のメカニズムは『国家が市場を調整し、市場が企業を誘導する』形をとるべきだということは明確になっていた。言い換えれば、われわれはすでに、自由市場の原則に依存する経済を実現していたのである。『自由市場』という用語が使われていないのは、ただイデオロギー上、問題があったからにすぎない。」

 ここで趙紫陽氏が言っている「国家が市場を調整し、市場が企業を誘導する」とは、原則は自由主義経済を基礎としつつ、金融財政政策等により、必要に応じて政府が市場を調整して企業活動を誘導する、という現在の西側諸国が採用している経済政策と何ら異なるところはない。この第13党大会における趙紫陽氏の政治報告は、中国が「中国共産党が指導する自由主義経済の国」になることを宣言したことにほかならない。

 前にも書いたように、「趙紫陽極秘回想録」を取りまとめた編者の一人であるアディ・イグナシアス氏が、この本の「はじめに」の冒頭において、「それは中国と世界にとって、胸躍る瞬間だった。1987年10月~11月に開かれた党大会は活気に満ち、中国をさらなる進歩へと進歩へと駆り立てるかのようだった。」と述べている理由はここにある。

 この第13回党大会ではテレビによる生中継が実施された。また、党大会期間中、毎日、会議終了後に党幹部による内外記者会見も行われ、その様子もテレビで生中継された。この記者会見において、外国人記者が趙紫陽総書記に対して「既に中国は社会主義国の先輩であるソ連よりも先を行っていると思うがどうか。」との質問を発した。趙紫陽氏は、「国それぞれに事情があり、他国と比較することには意味がない。」と型通りの受け答えをしたが、この記者会見は、経済改革とこういった共産党大会のオープン性という点では、客観的に見て、中国はソ連よりこの時点でかなり先を行っていることを内外に印象付けた。

 翌年1988年3月25~4月13日に、第7期全国人民代表大会(全人代)第1回全体会議が開かれる頃には、社会のオープン化の傾向はハッキリ見られるようになった。

 独自の視点で社会の問題点を探り出して報道するようになったという中国の新聞の変化は、この1988年の全人代の報道で、さらにはっきりした。

 例えば、この1988年の全人代に関してはは、「大会に出席するために人民代表が乗ってきた車の列を記者が見たところ、ほとんどが日本からの輸入車だった。なぜ全国人民代表は国産の車に乗らないのだろうか。」と問題提起した記事が「人民日報」に掲載された。また、前年に公開されたイタリア・中国・イギリス合作映画「ラスト・エンペラー」について、国宝である故宮を映画製作会社に使用させたのは問題ではないか、と人民代表が政府(文化部)を追求したことも新聞で報道された。この件について、文化部副部長(この副部長は映画「ラスト・エンペラー」の端役として画面に登場しているのだという)が「映画の撮影は文物保護条例の制定前であって法令上は問題はない」「イタリア共産党から紹介状があった」「中国の国宝を世界の人々に見せることは意義があると判断した」と弁明した、という全人大内部の議論の様子がそのまま新聞で伝えられた。

 また、この1988年の全人代においては、いくつかの案件についての票決結果も新聞で報道された。提案された議案は全て可決されたが、案件によっては一定の数の反対票・棄権票があったことも報じられた。

 この時点では、既に多くの新聞報道に携わる記者たちは、報道が社会に与える影響を自覚し、自らの社会に対する責任感を感じていたものと考えられる。このことが、1989年4月以降の動きの中で、学生・一般市民らに混じって、人民日報の記者までもが天安門前広場でデモや座り込みに参加することになる伏線となる。

 こうした社会のオープンな雰囲気は、この時期、様々なところで見られた。例えば、全人代が行われていた1988年の4月頃、北京市の長安街と東四大街(王府井の一つ東側の大通り)との交差点のところにあった「偉大なマルクス・レーニン主義、毛沢東思想万歳!」という赤地に白抜きの大きな字で書かれたスローガンの大看板が取り外された。その代わりに、青や白を使ったカラフルな働く若者の絵を描いて、右上の端の方に「自力更生、刻苦創業、社会主義経済建設をやり遂げよう」と小さくスローガンを書いた大きな看板が掲げられた。前にも書いたが、同じく1988年4月から、ラジオFM放送で「美国音楽一個小時」(アメリカン・ミュージック・アワー)の放送が始まり、ジョン・デンバーやマイケル・ジャクソンの曲が定期的に普通に聞けるようになった。

 この文章でも多く引用してきた「北京三十五年」(参考資料12)の著者で、この当時、北京で健在だった山本市朗氏は、雑誌「人民中国」1988年7月号で「なにはともあれ、皆が、本音を吐く世の中に変わってきた。これは好い事ですね。」と語っていた。疑問があれば提示し、オープンに議論して改善していこう、という雰囲気がこの頃の中国の社会に芽生え始めていたのである。この流れが翌年、「第二次天安門事件」へ繋がる学生や市民の運動の下地となっていたのである。

 この1988年3月~4月の第7期全国人民代表大会第1回全体会議では、憲法改正が行われた。この時の憲法改正では、憲法の中に、社会主義経済を補完するものとして私営経済を認めること、土地使用権の譲渡・賃貸しを認めることが盛り込まれた。趙紫陽氏の思惑通り、1987年1月の胡耀邦総書記の辞任とは関係なく、経済面での市場経済的要素の導入は着実に進んでいったのである(依然として土地の私有は認められず、土地の所有権は依然として国または集団(地方政府)に属していたが、「土地使用権」の譲渡・賃貸しが認められたこの時の決定は、企業が「土地使用権による出資」をすることを可能にして外国との合弁企業の設立に大きな役割を果たしたほか、バブルとまで言われている現在の中国のマンション・不動産市場の出発点となっている)。

(参考URL2)「新華社」ホームページ「新華資料」
「中華人民共和国憲法修正案」(1988年4月12日第7期全国人民代表大会第1回会議で採択)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2004-10/19/content_2109780.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 ただ、この時点における計画経済と市場経済(この頃はまだ「商品経済」と呼ばれていたが)との併存関係は、現実的には様々な矛盾をもたらした。最も重大な問題は二重価格問題である。基本的な産品は、計画経済に従って生産されるが、計画量を超えて生産した場合には、各経営主体は、自主的な判断で、市場原理に従って、その余剰製品を売りさばくことができた。このシステムにより、各経営主体の生産意欲は高まり、生産活動は活発化した。しかし、計画経済の枠内で生産される製品の価格は政府が決める比較的低いものだったのに対し、市場原理に従って売り買いされる余剰部分については、需給バランスによって価格は上下した。つまり、同じ製品について、計画経済に基づく価格と、市場取引されることによって決定される価格との2つの価格が存在することになったのである。

 実際、この頃北京にいた私は身近な問題としてよく知っていることなのだが、国営商店で売っているリンゴは価格が安いのに対し、近くの自由市場に行くとかなり高いリンゴが売られていた。ただし、自由市場のリンゴはどれもつやつやとおいしそうなのに対し、国営商店で売られているリンゴは100%全てが虫食いだった。計画経済下では、品質がよかろうが悪かろうが価格は政府によって決められているので、どうしても品質の悪い製品が計画経済下の流通ルートに入ってきてしまい、品質のよい製品は市場経済ルートに流出して高い価格が設定される傾向が生じてしまうのである。

 この二重価格制度を利用して、地方の党や政府の幹部の中には、計画経済に基づく低い価格で物資を購入し、それを市場に横流しして高い市場価格で売りさばき、その利ざやを稼ぐ者が続出した。彼らは「官到」(あるいは「官到爺」=官製ブローカー)と呼ばれた。「官倒」の暗躍は、一般庶民の反感を買った。こういった官製ブローカーの介在によって、多くの人々は高い価格でないと品質のよい製品が買えなくなり、多くの地方の党・政府の幹部が私腹を肥やすことになってしまったからである。

 二重価格の存在が経済に好ましくない影響を与え、地方の党・政府幹部の腐敗を助長し、一般市民から反発を買っていることを踏まえ、中国政府は二重価格制度を段階的に廃止する方針を発表した。具体的には、1988年5月、肉などの主要副食品の二重価格制を廃止した。計画経済によって生産された副食品も市場で決まる価格で販売することにしたのである。しかし、これは一般市民にとっては、安い価格で買えた計画経済ルートの商品がなくなり、高い価格で取引される市場経済ルートの商品に一本化されたことを意味し、実質的には物価が上がることを意味した(私の当時のメモによると、北京市では1988年5月15日から豚肉、鶏肉、一般野菜及び砂糖が値上げになった)。この二重価格制の廃止方針の発表は、人々にインフレ心理を与えた。人々は貯金の目減りを防ぐため、銀行から貯金を引き出して商品買い溜めに走った。このことにより、一部の商品ではますます価格が高騰した。

 当時の私のメモには、1988年5月10日から国際郵便料金が55%値上げ、6月1日から国際電話料金は交換手を通したステーション・コールの場合1分間6.6元(当時の為替レートで約230円)から8.8元(約310円)へ値上げ、6月15日から北京市内のタクシー料金が1kmあたり0.8元(約28円)から1.2元(約42円)に値上がりした、と記されている。そして当時の私のメモには「中国が低賃金・低価格政策を改め出したことが実感としてわかるようになりました」と書かれている。

 急激な物価上昇は、党中央の予測を上回るものだった。1988年8月15日、避暑地の河北省北載河で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議第10回会議で「価格・賃金改革に関する初歩方案」が原則可決された。これは急激な二重価格制の廃止は混乱を招いた、として、主要な産品については政府決定による価格を復活させて二重価格制を存続させようというものだった。

 この「価格・賃金改革に関する初歩方案」は、1988年9月26日~30日に開かれた第13期中国共産党中央委員会第3回全体会議(第13期三中全会)で正式に決定された。

(参考URL3)「人民日報」ホームページ「共産党新聞」-「資料センター」
「歴代党大会データ集」
「中国共産党第13期中央委員会第3回全体会議における報告」(1988年9月30日)
http://cpc.people.com.cn/GB/64162/64168/64566/65385/4441840.html

 上記の報告において、価格と賃金に関する経済政策については、姚依林副総理が政治局を代表して政策を説明している。「参考資料17:トウ小平秘録」は、この第13期三中全会において、二重価格制廃止政策の失敗の責任を取る形で、経済政策に関する実権が趙紫陽総書記から李鵬総理と姚依林副総理に移り、趙紫陽総書記は政権運営の実権を失った、と述べている。保守派の李鵬総理が政権の実権を握り、改革開放派の趙紫陽総書記の力が衰えたことが、翌1989年4月以降、「第二次天安門事件」として政治的な混乱を招く原因のひとつになったと考えられる。

 この二重価格制度の廃止の政策は、

・二重価格を廃止する(これは、安い計画経済ルートの商品がなくなり、高い市場経済ルートの商品のみになるため、実質的な商品価格の値上げを意味する)。

・消費者物価の値上げに相当する分の給与補助を行う。

というものだった。しかし、この制度には「預金金利を引き上げる」という方針が含まれていなかった。そのため預金価値の目減りを心配した一般市民が預金を引き出して物を買うというパニック買い現象が起き、そのことが政府が予想した以上のインフレを引き起こしてしまったのである。預金金利の引き上げをパッケージで行わなかったのは、金利が上昇して企業の資金繰りが苦しくなることを懸念したからだが、二重価格制度廃止の発表に際して預金金利の上乗せについて言及しなかったことについては、趙紫陽氏自身「趙紫陽極秘回想録」の中で、「失敗だった」と反省している。

 なお、私は、1988年9月30日に約2年間の北京駐在を終えて帰国した。帰国直前は仕事に忙殺されており、この二重価格制度失敗による趙紫陽総書記の実権の喪失等に関する情勢については、当時、私は全く気付いていなかった。

以上

次回「4-1-7:『第二次天安門事件』直前の世界情勢」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-95f9.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月12日 (月)

4-1-5(2/2):1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第5節:1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(2/2)

 トウ小平氏は、なぜ「第三世代」の筆頭であり次世代を任せる人物として自ら登用してきた胡耀邦氏を切ったのであろうか。

 「第3章第4部第5節:『四つの近代化』の提唱と水滸伝批判」で述べたように、胡耀邦氏は、文化大革命の末期、トウ小平氏の支持に基づき、1975年には中国科学院の状況を調査して、自由な発想に基づく科学研究の重要性を指摘している。また、胡耀邦氏は、トウ小平氏が文革路線から改革開放路線への大転換を図ろうとするに当たって、1978年の改革開放政策決定時には党の組織部長として「民主の壁」(北京の春)の運動により華国鋒氏ら「すべて派」の勢力を削ぐことに力を注いでいた。党総書記になってからの豪放磊落な胡耀邦氏の言動を見る限り、胡耀邦氏は、いわゆる「百花斉放」「百家争鳴」という言葉で表現される自由闊達な議論が進歩を生む、と考えていたようである。

 トウ小平氏も、経済に関しては、集団によるコントロールを最小限にし、各個人の意志を尊重することによってインセンティブを引き出すことが発展につながる、という点では、胡耀邦氏とは考え方は違っていなかった。トウ小平氏が目指した目標は、中国の人民を貧困から脱却させ、中国を外国の言いなりにならない、自らの意志で自らの政策を決定できる自立した国にすることだった。トウ小平氏は極めて現実的な感覚の持ち主だったから、国際政治の中で中国が十分な発言権を持つためには、まずは国として一定の経済力を持つべきだ、と考えていたと思われる。アメリカが国際社会で大きな発言権を持っている背景には、巨大な軍事力とともに、アメリカが経済的にも世界をリードしている現実があったことをトウ小平氏はよく理解していた。

 だから、トウ小平氏は、中国の人民を貧困から救うことと中国を世界の中で自立した国にすることの両方の目的を達成するためには、とにかくまずは中国全体の経済力を高めることが最優先課題であると考えていた。トウ小平氏の頭の中には、将来的な課題として政治的自由化の必要性も認識していたと思われるが、文化大革命時代の政治闘争の苦しい経験を持つトウ小平氏は、経済が未発達な段階で政治論争を行うことは、国内を混乱させるだけであり、中国経済の発展を妨げるものである、と考えていたと思われる。中国の経済が一定のレベルになれば、次のステップとして政治体制改革も検討課題になるだろうが、それはおそらく自分が死んだ後のかなり遠い将来の話だ、とトウ小平氏は考えていたに違いない。

 しかし、トウ小平氏より一世代若い胡耀邦氏は、経済が一定程度成長した後に来るであろう政治体制改革の時代は、自分が生きているうちに到来すると考えていた可能性がある。特に自分の出身母体である中国共産主義青年団のメンバーである青年たちが社会の中心になる頃には、政治体制改革も重要なテーマになると考えていたと思われる。従って、政治体制改革については、今すぐ何か実現できるわけではないにしても、将来に起こるであろう次のステップのための準備として、青年たちが議論すること自体は否定すべきではない、と胡耀邦氏は考えていたと思われる。

 こういった胡耀邦氏の考え方は、保守派の人々からは「中国共産党による支配体制を揺るがしかねない危険な考え方」と見られていたようだ。一般には、1986年12月に起きた学生運動の動きに胡耀邦氏は同情的な態度を示し、そのことが保守派から反発を受けた、と言われている。しかし、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)によれば、社会の安定のためには「四つの基本原則」の堅持が絶対的に必要だと考えていたトウ小平氏は、学生運動が起こるかなり前から、自由奔放な言動を繰り返す胡耀邦氏を「党の総書記としてはふさわしくない」と考えていた。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、1986年12月30日、トウ小平氏は、胡耀邦氏、趙紫陽氏、万里氏、胡啓立氏、何東昌氏(国家教育委員会副主任)と会談した。

 この日の会談で、トウ小平氏は下記のような態度を取ったという。

・学生運動に同情的だった中国科学技術大学副学長の方励之氏と作家の王若望氏を、社会主義及び共産党に反対するものとして糾弾した。

・王若望氏についてはトウ小平氏は以前から党から除名すべきだと指示していたのに胡耀邦氏は除名しなかった、として胡耀邦氏を糾弾した。

・学生デモに関しては、厳格な手段を用いて(たとえそれが独裁的な手法を使うことになったとしても)沈静化を図るよう提案した。

・学生デモが起きた責任はすべて胡耀邦氏にある、と断言した。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、上記のトウ小平氏の発言は直ちに印刷され、行政の様々なレベルに配布され、多くの人々が知るところとなった、とのことである。この時のトウ小平氏の判断が1987年1月1日における天安門広場の当局による「制圧」や1月6日付けの人民日報の社説「旗幟を鮮明にしてブルジョア自由化に反対しよう」に繋がったものと思われる。

 中国共産党総書記は胡耀邦氏であったが、やはり全てはトウ小平氏が決めていたのであった。トウ小平氏は、ソ連に見られるような「老人支配」の危険性を認識しており、「第二世代」の古参幹部の政治への口出しをやめさせ、政治の実権を胡耀邦氏ら「第三世代」に移管させなければならない、と考えていたが、実際は結局は全てのことを「第二世代」であるトウ小平氏自身が決めていたのだった。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、1987年1月4日、トウ小平氏の自宅に、陳雲氏、万里氏、楊尚昆氏、薄一波氏、王震氏、彭真氏、趙紫陽氏が集まった。そこで胡耀邦氏からトウ小平氏あてに出された辞表が示された、という。この会議で、トウ小平氏は、胡耀邦氏が党総書記を辞任した後、この年の秋に開催される予定の第13回中国共産党全国代表大会までの間は、趙紫陽氏、薄一波氏、楊尚昆氏、万里氏に党政治局常務委員会の運営を任せると提案した、という。趙紫陽氏は、これに胡啓立氏を加えることを提案し、トウ小平氏も同意したため、彼ら5人が「五人小組」として、秋の党大会までの間、政治局常務委員会の運営にあたることになった。

 この日、李先念氏(当時は国家主席)は上海におり、この会合に参加しなかった。李鵬氏、姚依林氏はこの会合に呼ばれなかった。「趙紫陽極秘回想録」では何も語られていないが、これら三人は「保守派」であり、この三人を「小組」の外に置いたのは、胡耀邦氏を辞任させたとは言え、トウ小平氏は、保守派に党の実権を握らせる考えはなかったからではないかと推測される。

 1月10日~15日、6日連続で党組織生活会(党員が自らの行動を披露し、批判したり、自己批判したりする会合)が開かれた。「趙紫陽極秘回想録」によれば、この党組織生活会にはトウ小平は出席しなかったという。この党組織生活会は、長老の一人である薄一波氏が議長を務め、トウ力群氏、余秋里氏らが胡耀邦氏を批判する演説を行った。「趙紫陽極秘回想録」で、趙紫陽氏は、余秋里氏について、以前から胡耀邦氏とは個人的に親しかったのに胡耀邦氏を激しく非難する演説を行ったことに対し、「いつもは誠実そうだが、いざという時になると、自己保身のために他人の足を引っ張る人物だということを自ら露呈した」と語っている。しかし一方で、「趙紫陽極秘回想録」では触れていないが、趙紫陽氏自身、この党組織生活会で胡耀邦氏を批判する演説を行っているという(参考資料17:「トウ小平秘録」)。

 趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」の中で、この時の党組織生活会における胡耀邦氏の様子について、「組織生活会の最後に胡耀邦は自己批判の演説を行い、重大な政治的過ちを犯したことを認めた。演説の終わりには感情が高ぶり、人目もはばからず、しくしくと泣きはじめた。」と語っている。

 「第4章第1部第3節:中国指導部内部での路線闘争とイギリスとの香港返還交渉」で述べたように、「趙紫陽極秘回想録」によれば、この党組織生活会の最終日の1月15日、胡啓立氏は、彼が1984年6月28日にトウ小平氏と会った際、トウ小平氏が「胡耀邦氏は『四つの基本原則』の堅持と反自由化の観点で総書記としてあまりに弱腰で、これは基本的な欠点だ」と述べた事実を明らかにしたとのことである。

 党組織生活会が終わった翌日(1987年1月16日)に開かれた党政治局拡大会議において、胡耀邦氏の党総書記の辞任が承認され、そのことが公表された。党のトップである総書記の辞任が、党中央委員会全体会議ではなく、党政治局拡大会議で決定されたのは、正式な党手続きからすると本来はおかしい。政治局拡大会議には、政治局委員以外の長老なども参加しているからである。しかし、陳雲氏は、参会者に対して「この会議は合法的だからな」と念を押したという(参考資料17:「トウ小平秘録」)。

 1986年12月30日に行われたトウ小平氏と胡耀邦氏、趙紫陽氏らとの会議、1987年1月4日のトウ小平氏の自宅で行われた会議、1月10日~15日に行われた党組織生活会などは、会議が行われたこと自体公表されていなかった。従って、当時北京に駐在していた私や中国の一般市民は、中国指導部内部で何が起こっているのか全くわかっておらず、1月16日に党総書記の胡耀邦氏が辞任したとの発表を聞いて驚愕したのであった。

 私がこの日(1987年1月16日)に書いたメモによると、当時の私は下記のように感じていた。

・学生運動が起きたのは確かであるが、なぜ今、党のトップの辞任までやるのか。

・解放されつつある人々の慢性的な欲求不満はあるものの、革命が起こるような危機的状況はない。胡耀邦氏は『みせしめ』『スケープゴート』として辞任させられただけに違いない。

 胡耀邦氏の党総書記辞任に引き続き、1986年末の学生運動の発端の動きが起きた中国科学技術大学副学長の方励之氏、作家の王若望氏、それに学生運動に理解を示した作家で人民日報記者の劉賓雁氏が、社会主義及び共産党に反対した、として相次いで党籍を剥奪された。中国において共産党員が党籍を剥奪されることは、論文発表や本の出版を禁止されることを意味し、学者・作家にとっては、実質的にその活動を禁止されることに等しかった。これらの措置により、民主化を求める学生たちの動きやそれを支持する知識人たちの動きは表面上停止された。新聞やテレビでは「ブルジョア自由化反対」の言葉があふれ、街中にも「ブルジョア自由化反対」「安定団結の政治局面を維持しよう」というスローガンの紅い横断幕があふれた。

 当時北京にいた私は「ブルジョア自由化」とは具体的には何なのか理解できなかった。多くの中国の人々も理解できなかったに違いない。王若望氏は「資本主義では各人の能力を引き出すシステムがうまく機能して社会全体の発展によい効果をもたらしているが、我が国にはそれがない」と発言したことが批判の対象とされたと言われたが、この発言は、改革開放路線を支持する発言であって、何ら批判される性質ものもではないはずだ、と当時の私は考えていた。

 この後、「何を発言してよく、何を発言してはまずいのか」について、多くの人々は手探りしながら探っていくことになる。

 胡耀邦総書記の辞任を伝える1月16日の夜7時からの中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」では、いつもは背広を着てニュースを伝えるアナウンサーがこの日だけは中山服(日本のマスコミ用語でいう「人民服」)を着てニュースを伝えた。この中国中央電視台の映像は世界に配信され、世界中の人々を驚かせた。テレビのアナウンサーが「人民服」を着て登場したことは、あたかも中国が文化大革命の時代に逆戻りしたかのような印象を与えたからである。ただ、アナウンサーに「人民服」を着せたのは、たぶん中央電視台の現場担当者の「勇み足」だったようで、この映像の反響の大きさに対し、中国政府はこの後、改革開放路線の継続には全く変更がない、と繰り返し釈明する羽目になった。特に、既に中国にとって有力な輸出産業に成長しつつあった繊維製品製造業に影響が出ては大変だと、すぐさま紡績工業部長が「中国が文化大革命時代のような時代に逆戻りすることはあり得ない。これからも自由なファッションの服飾製品を作り続けることに変わりはない。」と弁明するなど、中国政府は対応に追われた。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、胡耀邦氏の辞任に勢いを得た保守派が各方面で「ブルジョア自由化反対」の運動を進め、経済的な自主権拡大にもブレーキを掛けようとしたが、趙紫陽氏は、「ブルジョア自由化反対運動」が経済面での改革開放に影響を与えないよう必死で抵抗したという。その結果、経済における改革開放路線は、何らの変更を受けることはなかった。新聞には「経営の神様:土光敏夫」といった日本型経営の優れた点を紹介する記事が掲載され続けたし、工場に見学に行けば工場の職員が「QC研究会」といった西側の品質管理手法を学ぶ勉強会を盛んに開いている状況に変わりはなかった。要するに、胡耀邦総書記の辞任は「経済については今までどおり改革開放を強力に推進するが、政治については民主化を求めるような動きは認めない」という強いメッセージだったと多くの人々には受け取られたのである。

以上

次回「4-1-6:中国の社会・経済で進む微妙な変化」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-c9e5.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月11日 (日)

4-1-5(1/2):1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第5節:1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(1/2)

 1986年12月5日に始まった安徽省合肥市の中国科学技術大学学生の民主化要求の動きはすぐに南京や上海へも広がった。この学生運動が起きる少し前の1986年10月から私は1回目の北京駐在を始めていた。大都市の南京や上海で学生がデモを始めると、外国のメディアもこれに注目して記事を配信するようになった。当時、私は、新聞等で知り得た学生らの動きを本社へレポートしていたが、その資料は今は残っていない。ただ個人的に書き留めておいたメモは残っており、そのメモと記憶に頼って、その当時の様子を記してみたい。

 この当時の学生たちは「なぜ我々が住んでいる都市の市長を我々自身が選挙できないのか」「他の都市での学生の動きをなぜ中国の新聞やテレビは伝えないのか。我々は中国国内の他の都市の学生の動きをBBCやVOAの英語放送で知ったのだ。」といった主張をしていた。学生らの主張の中心は「一部地方政府幹部の腐敗反対」を呼び掛けるものであり、決して共産党による支配体制を批判することはしなかった。学生らも、何を主張すると当局を刺激するかをよく知っていたからである。

 私が記憶している当時の西側のメディアの報道によれば、12月中旬、上海で学生デモが発生した時、当時、上海市長だった江沢民氏が学生らの集会へ出向き、「腐敗幹部を批判する君たちの主張は理解できる。政府も腐敗幹部追放に全力を尽くす。しかし、デモを行っても問題は解決しない。冷静に考えて大学に戻って欲しい。」と説得したという。当時の学生運動の指導者たちは、上海市長自らが出てきて自分たちと話をしてくれたことに対して、一定の評価をしたという。この時の上海市長・江沢民氏の迅速な行動が、後にトウ小平氏に評価されて、1989年の「第二次天安門事件」の際、当時、まだ上海党委員会の書記(中国の市では市長よりも党書記の方が位が上)をしていた江沢民氏をトウ小平氏が中央に呼び寄せて趙紫陽総書記の後任として抜擢したひとつの遠因になったのではないかと私は考えている。

 この時に江沢民氏が学生たちに言った「君たちの行動は理解できる」という言葉と同じ言葉を、1989年5月、趙紫陽氏は使うことになる。これは後に「第二次天安門事件」のところで述べることになるが、しかし、趙紫陽氏のこの言葉は、趙紫陽氏自身が「私たちはここへ来るのが遅すぎた」と語ったことでわかるように、タイミングとしては遅すぎたのである。江沢民氏がトウ小平氏に抜擢されることになる理由は、その言葉の内容ではなく、タイミングを失しない対応の速さにあった。この「タイミングの速さ」の重要性は、現在の胡錦濤主席もよく承知している。

 胡錦濤主席は、2008年4月、欧米でオリンピック聖火リレーの妨害が起こり、学生たちの間で排他的な愛国主義的な動きが出ると、5月3日、突然北京大学に現れて講話を行った。5月12日に発生した四川大地震では、胡錦濤主席は、地震発生から1時間ちょっとたった時点で、まだ現地の状況が全くわからないにも係わらず、温家宝総理に現地へ飛ぶように指示した。6月に日本との間で合意した大陸棚ガス電開発問題で、ネット上に不満が噴き出すと、すぐさま自ら人民日報のインターネット掲示板「強国論壇」に登場し、ネットワーカーたちと対話を行った。さらに2009年7月、新疆ウィグル自治区ウルムチでウィグル族と漢族との間の対立から暴動が起こると、サミットに出席するためイタリアを訪問中だった胡錦濤主席は予定を切り上げて急きょ帰国している。現在の中国の指導者たちは、過去の経験に基づき、迅速な判断とタイミングを失しない行動が最も重要であることを身に染みて知っているのである(後に述べるように、1989年4月以降の動きに対しては、中国の指導部が迅速かつ的確に対応できなかったことが、結果的に悲劇を生むことになる)。

 この1986年12月中旬の上海市における学生のデモについて、中国中央テレビは「学生によるデモが行われた」という事実をプラスにもマイナスにも評価せずに伝えた(そのテレビニュースを私は北京で見た)。一方、「人民日報」では「安定と団結の政治局面を守り発展させよう」という異例の社説を1面に掲載した。こういった報道をしたのは「他の都市で学生デモがあったことを外国メディアを通じてしか知り得ない現状はおかしい」という学生たちの主張に一定の配慮をしたためと思われる。

 合肥に始まり、南京や上海へ広がった学生デモが、全国的なものになるのかどうかは、北京の学生がどう動くかに掛かっていた。当時北京にいた私は、NHK国際放送やBBC、VOA(ヴォイス・オヴ・アメリカ)といった外国のラジオの短波放送と中国国内の新聞・テレビ等しか情報源はなかったので、実態をよく把握していなかった。1986年12月24日付けの私のメモには、「上海の学生運動が北京清華大学に飛び火した」という「ウワサ」を耳にしたことを記している。しかし、私の行動範囲で見る限り、北京の街は平静だった。

 1986年12月31日、NHKのラジオ国際放送では、北京の大学生がデモを計画している、と伝えていた。1月1日は中国でも休日なので、私は1987年1月1日の午後、天安門広場へ出掛けてみた。この日はかなりの寒波が来ており、相当に冷え込んだ日だった。

 この当時、天安門前広場の周囲の天安門前を東西に走る長安街と、広場の東側の国家歴史博物館、西側の人民大会堂と広場とを隔てる道路には横断歩道があり、人々は道路を渡って東西南北から自由に広場に入ることができた。現在の天安門前広場には周囲に柵があり、周囲の道路から広場へ入るには、いくつかの地下道をくぐって入るような構造になっている。このような形に改造されたのは、地下道を封鎖すれば人々が広場の中へ入ることを簡単に制限できるからである。このような天安門広場の周囲における柵の設置と広場へ出入りする地下道による制限は、1989年の「第二次天安門事件」の後に行われたものである。また、今は、天安門広場の中心にある人民英雄記念碑の回りにも柵があり、警備員が警備しているので、一般人民が人民英雄記念碑の根本に行くことはできないが、当時はそういった柵がなかったので、誰でも人民英雄記念碑の近くに行くことができた。人民が人民英雄記念碑のすぐ下へ行ってかつての「人民英雄」に思いを馳せることができない、というのが「第二次天安門事件」の後の中国の情勢を端的に表していると言える。

 1987年1月1日午後3時過ぎ、私が天安門広場へ行ってみると、凍えるような冬場の曇天の下、天安門前広場の周囲には、数メートル間隔で深緑色の制服を着た人々が並んで、誰も広場の中へ入れないように規制が行われていた。私は、中国官憲の制服に詳しくないので、天安門広場で人民を入れないように規制していた深緑色の制服を着た人々が人民解放軍の兵士なのか武装警察なのか一般の公安(警察)なのか区別がつかなかったが、いずれにせよ天安門広場は完全に当局によって「制圧」されていた。これらの深緑色の制服を着た人々は銃などの武器を持っているようには見えなかった。もちろん、寒いので分厚いオーバーコートを着ていたので、オーバーコートの下に武器を持っていたのかどうかはわからない。

 後で聞いた話では、この日(1987年1月1日)昼過ぎ12時半頃、少数の学生が天安門広場でデモをやったととのことである。そのことはその日の夜のNHK国際放送やVOAのニュースでも伝えられた。それと、私が驚いたのは、前々日(1986年12月30日)に始まったばかりの中国中央電視台総合チャンネルの「英語の時間」(22:10~23:30頃)の冒頭にあるニュースの時間で、北京で学生によるデモが行われたことを伝えていたことだった。

 私は、天安門前広場に到着した後、あたかも何も知らない観光客のように首からカメラを提げて、「腰溜め」の状態で、この時の天安門広場の様子を撮影した。さすがに警備陣や周囲に集まった人々をカメラを構えて撮影するのは危険すぎると判断したからである。この時撮影した写真は、歴史の断片を撮影した貴重な写真だとは思うが、こういった写真を撮影しようという行為は時によっては身に危険が及ぶ可能性があり、今思うと、ちょっと無茶なことをしたと思う。

 私が天安門前広場へ行った時には、上述のように天安門前広場の中へは入れないように警備が行われていたが、回りには一般の人々が集まっていた。しかし、私が行ったときに広場の中心にいた人たちは、デモをやろう、と集まっていたのではなく、私自身と同じように、何が起こるのか見てみよう、という「野次馬」的な人たちばかりであったことは様子を見ればすぐにわかった。「第二次天安門事件」が起こる前の1980年代においては、警備人員がデモ等を行う人々に対して発砲する、などということは誰も考えていなかった。だから、多くの「野次馬」が危険を感じることなく集まっていたのである(私もその一人だったのだが)。デモをやろう、と考えて天安門前広場へ行った人たちは、私が行ったときには、既に解散させられていたのであろう。

 天安門前広場への行き帰りの途中、街中のデパートや郵便局などに「安定団結の政治局面を維持しよう」「新しくできた治安処罰条例を守ろう」といった赤地の布に白字を染め抜いたスローガンが掲げられていた。この時の運動に対し、「人民日報」や中国中央電視台のテレビでは、デモを行う学生らを非難するような論調はなかったが、「新しくできた治安処罰条例を守ろう」といったスローガンは、人々を威圧するのに十分だったのだろうと思う。1月1日に天安門前広場で少数の学生がデモを行った、と伝えられた後、北京やその他の都市で学生らがデモを行ったというような報道は、中国国内のメディアでも外国のメディアでもなされなくなった。

 これからどうなるのだろう、と多くの市民が思っていた矢先の1987年1月6日、人民日報は「旗幟を鮮明にしてブルジョア自由化に反対しよう」という社説を掲載した。この社説では、「ブルジョア自由化(中国語では「有産階級自由化」)」とは、「社会主義を否定し、資本主義を主張することである」と定義していた。多くの市民は、人民日報が掲げる「旗幟を鮮明にして」という言葉は、歴史的経験に鑑みて、中国共産党の断固たる意志を示す言葉だ、ということをよく理解していた。なお、後に述べるが、人民日報の社説における「旗幟を鮮明にして」という言葉は、「第二次天安門事件」の運動が始まった後の1989年4月26日、「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対しよう」という形で再び使われることになる。しかし、1987年1月6日付けの「人民日報」社説では「動乱」という言葉は使われていなかった。

 そして、それに続いて意外な事態が起きた。1987年1月16日、中国共産党拡大政治局会議が開催され、党のトップである胡耀邦総書記自らが辞任を申し出たのである。胡耀邦総書記の辞任の申し出は承認され、後任の総書記代行として趙紫陽氏が選出された(趙紫陽氏の総書記への正式な就任は同年10月末に開催された第13回党大会で行われた)。趙紫陽氏の後任として李鵬氏が総理代行となった(李鵬氏の正式な国務院総理就任は、1988年3月末の第7期第1回全人代で決定された)。胡耀邦氏は、総書記は辞任したが政治局委員としての立場には留まった。従って、形式上「失脚した」というのは正しくないが、1981年6月の第11期中国共産党中央委員会第6回全体会議(第11期六中全会)で、華国鋒氏が党主席を辞任し、政治局委員に留まった前例に鑑みれば、胡耀邦氏が「完全に実権を失った」ということは明らかだった。

 胡耀邦氏は、トウ小平氏が次世代を任せる人物として早くから抜擢して活躍させていたいわばトウ小平氏の「懐刀」であったことから、学生運動の広がりを見て批判を強めた保守派勢力に押されて、トウ小平氏が泣く泣く胡耀邦氏を辞めさせた、いわば「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」決定だった、という見方が当時あった。

(注)「泣いて馬謖を斬る」とは、諸葛孔明が軍律に違反して敗れた信頼する部下の馬謖を、周囲の将軍の助命嘆願を退けて、規律を守るために斬罪に処した、という三国演義に出てくる故事である。

 この件について、1年後の1988年1月の時点で「1987年の回顧」として私が本社向けの報告として書いた文章の中にある私の見方を書いておこう。

「1987年の中国は1月1日、天安門前広場における学生たちの『民主化要求デモ』によって始まった。このデモは、中国の激動の一年を予想させたが、結局その直後の1月16日に胡耀邦氏の中国共産党総書記の辞任があったものの、終わってみれば、それ以外は何もなく既定の路線が続いただけだった。当の胡耀邦氏にしても総書記は辞任したものの、今もって中央政治局員の職は続けており、10月の党大会ではトウ小平氏や趙紫陽氏と並んでちゃんとヒナ壇に座っていた。『胡耀邦の党総書記辞任!』というまことにハデな刀のひと振りによって、学生たちはとたんにシュンとなってしまったし、開放政策に不満の保守派の人々も反撃する糸口がなくなってしまった。

 右と左で騒ごうとしていた連中が両方とも静かになったので、主役は堂々と今までと同じ道を何事もなかったように歩き続けたのである。トウ小平氏の役者振りは『お見事!』というほかはない。」

 つまり私は、当時、トウ小平氏が保守派に押し切られて泣く泣く胡耀邦氏を辞めさせたのではなく、学生たちと保守派の両方を黙らせるために自らのイニシアティブで発動した「ショック療法」だったと考えていたのである。この考え方は、今でも変わっていない。「参考資料17:トウ小平秘録」の中で著者の伊藤正氏も同様の見方をしている。

 当時、一部の西側のメディアには、国務院総理の趙紫陽氏が意見の異なる胡耀邦氏を追い落とすように暗躍したのだ、という見方もあったが、私は当時から「そんなことはあり得ない」と思っていた。趙紫陽氏のそれまでの、及びそれから後の言動を見れば、趙紫陽氏は胡耀邦氏の路線(改革開放方針の推進)と同じベクトルを目指していたことは明らかだからである。趙紫陽氏自身は、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)の中で、胡耀邦氏の解任は趙紫陽氏が画策したものという見方を、真っ向から否定している。

 ただ、胡耀邦氏辞任(実質的な解任)は、確かにトウ小平氏の「お見事なショック療法」ではあったが、自らの後継者と頼んでいた胡耀邦氏を切らざるを得なかったのはトウ小平氏にとって痛手だったのは間違いない。後任の総書記となった趙紫陽氏は、実務官僚タイプの政治家で、政策実務を取り仕切る国務院総理にはうってつけの人物だったが、思想を統括し、派閥争いをまとめる党のトップには向いていない人物だった。少なくとも私はそう思っていたし、多くの人もそう思っていたはずである。「趙紫陽極秘回想録」の中で、趙紫陽氏自身、自分は党総書記には向いておらず、ずっと国務院総理を続けたと思っており、実際、胡耀邦氏解任を決める過程で行われる会議において「自分は総書記代行として適任ではないから、私よりふさわしい人物を早く見つけてもらいたい。」と発言した旨述べている。

 当時、私は胡耀邦氏の辞任(実質的な解任)は、世の中をビックリさせる「ショック療法」だと思っていたが、「趙紫陽極秘回想録」によれば、これまで書いてきたようにトウ小平氏はかなり以前から胡耀邦氏の自由奔放な言動を問題視しており、胡耀邦氏はいずれ解任されると思われその時期が2、3か月早まっただけだ、と趙紫陽氏は考えていたという。

 トウ小平氏は、保守派の主張を退け、改革開放路線を継続するために、胡耀邦氏の後任には、保守派ではなく、胡耀邦氏と同じ改革開放派の趙紫陽氏を充てるほかはなかったのである。趙紫陽氏の後任になるべき改革開放派の総理候補はおらず、結局保守派の李鵬氏が総理代行となった(1年後の1988年3月の全国人民代表大会で正式に総理に就任)。この時の人事が、結果的に1989年の悲劇を生むことなるのである。

以上

次回「4-1-5(2/2):1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/1986-0d1a.html
へ続く。

| | コメント (2)

2010年4月10日 (土)

4-1-4(2/2):対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第4節:対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(2/2)

 日本1980年代の中頃は、改革開放政策が始まり、「高度経済成長の離陸」が始まり、文化的には極めて開放的な雰囲気が広がったとは言え、中国の経済レベルはまだまだ低いものであり、多くの人々は貧しかった。1986年夏頃、私は北京赴任準備のため東京にいたが、この頃、東京から北京に国際電話を掛けようとすると、朝、KDD(当時の唯一の国際電話会社)の交換手に通話を申し込んでも、実際につながるのは昼過ぎ頃になることが多かった。国際電話回線の数が圧倒的に不足していたからである。北京に赴任した1986年10月頃には、海底ケーブルの回線が増えて、申し込んで5分程度待てば日本との国際電話ができるようになったが、ダイヤル直通通話はできなかった。私が駐在していた北京の事務所では、1986年秋にダイヤル国際通話設置を中国の国際電話局に申し込んでいたが、実際に北京の事務所に国際ダイヤル通話回線が開通したのは1年後の1987年の秋だった。

 北京や上海はまだ電話事情はよい方だった。この当時、北京からだと、国際電話より、中国国内の地方都市へ電話をする方が大変だった。1987年頃になっても、北京から中国国内へ長距離電話をするためには、申し込んでから半日も待たされることはしばしばだった。このため、中国国内の通信には電報がよく使われた。現場のフィールドへ出ることが多い仕事の場合、朝、地方にある現場事務所から北京に電報を打っておいて、フィールドでひと仕事をして現場事務所に戻ると北京から返事の電報が来ている、といった形でコミュニケーションを取ることが多かった。電話で連絡しようとすると、申し込んでからつながるまで現場事務所でずっと待っていなければならず、フィールドへ出ることができないからである。1980年代の中国は、通信事情に関しては、ちょうど19世紀半ばの西部開拓時代のアメリカで、ワイアット・アープ保安官が電報で他の街の保安官と連絡を取っていたのと同じ程度の状況だったのである。

 ちなみに1986年の中国の電話普及率は100人当たり0.67台で、当時のアフリカ全体の平均よりも少ないと言われていた(当時の日本の電話普及率は100人当たり39.2台)。携帯電話などの移動電話契約数が6億件を超え、携帯電話の普及によって固定電話の数が減少傾向にある現在の中国からすると考えられない話である。

 しかしながら、私が2年間北京に駐在していた1986年~1988年頃には、既にフォルクスワーゲン・サンタナをはじめとする外資との合弁によるメイド・イン・チャイナの自動車が市内を走るようになっていた。当時、ソ連や東ヨーロッパ系の大使館や会社では、ボルガというソ連製の自動車を使っている人も多かったが、メイド・イン・チャイナのフォルクスワーゲン・サンタナとソ連製のボルガを見れば、そのデザインと性能の差は明らかだった。当時、既に外国からの技術導入も進み、中国の国営企業でもそこそこのテレビや冷蔵庫を製造するようになっていた。1980年代後半になると、ソ連の人が中国に来ると中国製のテレビや冷蔵庫を買って帰る、と言われるようになった。当時、中国では外国から輸入されたテレビや冷蔵庫もたくさん売られていたが、ソ連の人には西側から輸入したテレビや冷蔵庫は高くて買えないが、中国製のテレビや冷蔵庫ならば、入手可能な値段でそこそこの性能の製品が買えたからである。

 1980年代、中国の経済改革は徐々に具体化していった。農業においては、人民公社が解体され、「各戸責任生産制」、即ち農家各戸に生産の主体が移るようになっていった。一般産業においても、「経営の個体化」は進んだ。大型機械の導入が必要な製造業では個人経営は認められなかったが、飲食店や自転車修理などのサービス業を個人で営業することは認められるようになった。製造業も、例えば当初は「従業員は5人以内」といった制限を付けた上で、家内手工業的なものから徐々に認められるようになっていった。こうした個人経営の事業は、公有企業経済の「すきま」を埋めるものであったし、社会のニーズも高く、人民生活の向上にプラスになったので、これらの個人経営企業は人々の「やる気」を大いに発揮させる舞台となり、経済全体を活性化させた。中国政府も個人経営企業の有用性を認識するようになり、業種や従業員数などに掛けられていた制限は、徐々に緩和されるようになっていった。

 特に大都市近郊の農村では、都会で売れる野菜や卵などを集中的に生産したり、余剰労働力を用いて日用品等を生産する小規模工場を村単位で建設したりすること(こういった工場は「郷鎮企業」と呼ばれた)が盛んに行われるようになった。労働者の賃金が月額60~100元と言われる当時、1年間で1万元以上稼ぐ農家も現れるようになった。このような高額収入を得るようになった農家は「万元戸」と呼ばれるようになった。改革開放の開始とともに、経済格差が生まれ始めたのである(当時のレートは1980年代前半では1元=110円程度、1980年代後半では1元=35円程度。中国の経済成長に伴って、元の対外通貨との交換レートは急激に上昇した。2010年現在では1元=13円程度)。

 当時でも、石油・石炭・電力のようなエネルギー資源は国家管理下にあったし、多くの重要な素材や機材は「計画経済」に組み込まれた国営企業で生産されていた。このため、個人経営企業や郷鎮企業は、常に「計画経済」の壁にぶつかった。政府関係機関に頼んで「計画経済」下で流通しているエネルギー資源や素材、機材をいかに回してもらえるかが、個人経営企業や郷鎮企業にとっては死活問題だった。

 「実事求是」(事実に基づいて真理を追求する)がスローガンとなっている改革開放体制下の中国では、「計画経済の原則」に抵触するケースでも、法律や規則に違反したやり方をやってみて、もしそれがうまく行った場合には、実態に合うように法律や規則の方を後から改正する、ということが今でも日常的に行われている。そのため、企業経営者にとっては、法律や規則を取り締まる地方政府の当局者に現行の法律や規則では認められない行為や制度上認められていない融資を「大目に見てもらえる」かどうかが事業発展のための重要なポイントだった。中国では、企業経営者が地方政府当局と「うまくわたりを付ける」ことが重要な企業経営戦略の一環なのである。

 中国の企業をざっくりと分類すれば、国営企業、集団所有制企業、個人経営企業、外資系企業(合弁企業など)となる。集団所有制企業とは、村などの地方政府が所有する企業であり、公有経済を担う企業のひとつである。人民公社が崩壊した後の改革開放体制の中国においては、「集団」とは「村」などの地方政府を意味するが、中国共産党の地方組織が地方政府をコントロールしている中国においては、「地方政府」の概念は極めて曖昧な概念であり、実態上、地方政府の幹部=中国共産党地方組織の幹部であった。地方政府が集団所有制企業を立ち上げる、ということは、地方政府の有力者(=地方の党幹部)が地方政府に与えられた権限を利用して、企業を立ち上げてそれを私物化して経営しているのが実態であった。郷鎮企業を奨励する、という政策は、一面ではこういった地方の党・政府の有力者が私物化した企業を振興する政策だった、と言うこともできる。

 必然的に計画経済の名の下での市場経済を導入するという経済の改革開放は、計画経済をコントロールしている党・政府の幹部と企業経営者との癒着を生む構造を持っていた。実態上地方の党・政府の幹部が経営しているような郷鎮企業はそれを象徴する存在である。企業の形態に関わらず、地方の党・政府の有力者と「うまくわたりを付けた」企業がどんどん伸び、地方の党・政府の有力者とコネのない企業は「計画経済」の名の下で圧迫を受けることになる。こうして、中国社会の中には、不公平感と地方の党・政府幹部の腐敗に対する不満がマグマのように溜まる一方、法律や規則を守らない連中が利益を得るというモラルハザード(法遵守倫理の崩壊)が深刻化していくことになる。

 1980年代、改革開放が始まったばかりの中国では、経済の最先端部分から末端部分まで、全体が上向きに成長し始めていたので、こういった地方の党・政府幹部の腐敗に対する不満は、社会的に爆発するころまでは至っていなかった。そうした中、最も敏感に反応したのは、モラルハザードに反発する正義感を持ち、外国からの情報や文化の流入に刺激を受けた敏感な学生たちだった。

 当時、大学生の数は極めて少なく、大学教育を受けているというだけで、大学生は社会の中ではエリートとみなされていた。大学の定員は少なかったので、大学生になるためには厳しい選抜試験に合格する必要があったが、入学試験に合格すれば、学費は全て国が面倒を見てくれたし、学生寮や学生食堂もあるので、大学生は生活に不自由することはなかった。一方で当時の大学生は少数精鋭のエリートだっただけに、彼らには、次の時代は自分たちが担う、という自負もあった。しかし、そういった1980年代の誇り高き大学生にとって、卒業後の就職先を自分で自由に選択できないことが最も大きな不満だった。

 この当時、大学卒業生の就職先は国家が計画的に決めていた。多くの大学卒業生は、地方にある国営企業の幹部などに配分されていた。もちろん国家による職業配分を辞退する権利は学生にあったが、当時はまだ外資系合弁企業等の数は少なく、国による職業配分を断った学生が選択できる就職先は極めて少なかった。また、外貨が不足していた当時においては、外国留学のチャンスを与えられる者はごく少数だった。

 私は1986年~1988年の北京駐在中に、ある英語がうまい大学卒の観光ガイドに会ったことがある。彼は、国から地方の国営企業への就職するよう斡旋されたが、恋人が北京にいて別れて住むことは嫌だったので、国から斡旋された就職先を断り、北京に残って、大学で学んだ語学を活用して、外国人観光客相手に観光ガイドになったのだそうである。観光ガイドも立派な職業ではあるが、少数精鋭で専門教育を受けた大学卒業生が外国人観光客の相手をしているのは、中国という国家全体にとってもったいない、と私は当時思ったことを思い出す。

 ソ連では、1985年3月、「老人支配」が続いて体制の硬直化が進み、後発の中国の後塵を拝するようになってしまった事態を改善しようと、若手の改革派、ゴルバチョフ氏が書記長に選ばれた。ゴルバチョフ氏は「ペレストロイカ」と呼ばれる改革政策を進めるとともに、特に1986年4月26日に起きたチェルノブィル原子力発電所の事故処理に当たって秘密主義が被害を大きくしたことを反省して、「グラスノスチ」と呼ばれる情報公開方針を推し進めていった。

 韓国では、1980年に軍事クーデターで大統領に就任したチョン・ドゥファン(全斗煥)氏が、オリンピック開催を前に自分が退陣し、民主的な選挙で大統領を選ぶこととする、と宣言することによって1988年のソウル・オリンピックの誘致に成功した。その韓国(当時、中国とは国交がなかったので、中国では「南朝鮮」と呼ばれていた)で、チョン・ドゥファン軍事独裁政権に対抗して学生らが激しいデモを行い、機動隊の放水銃や催涙弾で鎮圧されるニュースが中国でもしょっちゅう報道されていた。中国当局は「南朝鮮では軍事独裁政権により苦しむ学生らが抵抗運動を繰り広げている」という韓国政府を批判する目的で韓国の学生運動のニュース映像を流していたのだろうと思われるが、多くの中国の学生たちは、「あの軍事独裁政権下の南朝鮮ですら学生がああいう運動ができるのに、なぜ改革開放政策下の我が中国ではできないのだろうか」と思ったに違いない。

 そういっためまぐるしく動く世界の情報がどんどん入ってくる時代の中で、腐敗が蔓延する社会制度と、「自由に就職を選択できない」という極めて切実な問題との両方に対する不満を背景として、中国の大学生たちも、自らの主張を行動によって訴え始めるようになる。

 具体的な動きは、1986年12月5日、安徽省合肥にある中国科学技術大学から始まった。普通の大学が教育部の傘下にあるのに対して、中国科学技術大学は中国科学院直属の大学で、昔から多くの科学者を輩出している(合肥は、ITER(国際核融合炉計画)の中国側拠点であるトカマク核融合装置(EAST)があるなど、現在でも中国科学院の重要な研究拠点のひとつである)。中国科学技術大学の学生らは、開放政策によって外国からもたらされる様々な情報を得て、民主化を求める運動を起こした。当時の中国科学技術大学の副学長は、天体物理学者の方励之氏だった。世界の自然科学の状況をよく知っていた方励之氏は、自然科学にとって自由な発想と自由な議論は不可欠であると考え、学生たちの動きを容認した。

(注)日本では講談社のブルーバックスから方励之・李淑嫺(方励之夫人)著「方励之が語る宇宙のはじまり 最初に何が起こったか?」(佐藤文隆、青木薫訳:1990年)が出版されている。ただし、この本も今は絶版になっているようで古本屋さんでしか手に入らないようである。方励之氏夫妻(及び長男)は、「第二次天安門事件」による武力鎮圧の翌日の 1989年6月5日、北京のアメリカ大使館に保護を求めた。その後、方励之氏一家の出国問題は、米中間の外交問題に発展したが、結局、翌年の1990年、病気治療を理由に中国は方励之氏夫妻が英国へ出国することを認めた。方励之氏夫妻はその後アメリカに移住している。

 いつの時代でも、純粋に真実を求める科学者は、科学の分野だけではなく、社会全体の歴史の最先端を切り開くのである。

以上

次回「4-1-5(1/2):1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/1986-5de4.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月 9日 (金)

4-1-4(1/2):対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第4節:対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(1/2)

 中国の改革開放政策は、西側各国企業の中国進出を促した。1985年には、西ドイツ(当時)のフォルクスワーゲン社と中国側との合弁企業・上海フォルクスワーゲン有限公司が設立され、大衆車サンタナの生産が開始された。

(参考URL)上海大衆汽車有限公司ホームページ
「上海大衆の歴史」
http://www.csvw.com/csvw/csvw/gsjs/shdzls/index.shtml

※「大衆汽車」は、ドイツ語「フォルクス・ワーゲン」の中国語訳である。

 中国は、大胆に外国との経済関係構築を進めたが、外国側に支配権を握られたり、外資導入により国内企業が打撃を受けることは慎重に避ける政策を採った。また、乏しい外貨事情の中において、中国政府は、合弁企業に、外国の資本と技術によって中国国内で生産された製品を輸出することによって、外貨を稼ぐ役割を負わせた。このため、外国との合弁企業の設立においては、製品の輸出比率の確保や一定割合の部品の国内調達を外資側に求めた。1980年代中頃、日本の自動車メーカーも中国側との合弁交渉を行っていたが、中国に設立された最初の合弁自動車生産会社が日系の会社ではなく上海フォルクスワーゲンだったのは、日本企業が中国側の要求する部品の国内調達比率の高さ等の条件に難色を示していたのに対し、フォルクスワーゲン社が中国側の要求を飲んだからだ、と言われている。

 当時の中国の外貨不足は深刻で、少ない外貨は産業基盤を支えるためにどうしても輸入しなければならない資機材の輸入に振り当てられた。当時は、外貨管理のため、中国国内で流通している人民元のほかに、外貨を兌換することによってしか手に入れることができない特別な紙幣(「外貨兌換券」と呼ばれていた)が発行され、人民元を外貨に兌換することは禁止されていた。また、輸入品は人民元紙幣では購入できず、外貨兌換券でなければ購入できなかった。

 外資との合弁企業でも同じ規制を受けたから、合弁企業が部品や資機材を輸入するための外貨兌換券を用意するためには、製品を輸出して外貨を稼ぐしかなかった。製品の販売先が国内だけだと、外貨兌換券が入手できず、外国から部品を輸入することができなかったのである。つまり、当時の外資系合弁企業は、部品の一部を輸入して製品を作り、その製品を中国国内に販売して利益を上げることは制度的にできないような仕組みになっていたのである。

 中国の経済発展が進んで中国の外貨準備が増加し、こうした外貨管理の手法は必要なくなったのは1990年代に入ってからだった。1993年3月1日に人民元から外貨への兌換が解禁され、1995年1月1日をもって外貨兌換券は廃止された。それまでは、各企業は、自分が必要な外貨は製品を輸出することによって自分で稼ぐ必要があった。これが中国の製造業が過度に輸出向け製品中心となり、今に至るまで内需向け製品の製造業の弱い中国経済の体質の原因となっている。

 こうした外貨管理や部品や材料の国内調達比率といった様々な条件をはめられながらも、中国の安い賃金で働く向上心の強い豊富で優秀な労働力は多くの西側企業を中国に引きつけた。一方、「社会主義国の先輩」であるソ連では、中国のような改革がうまく行われず、旧態依然とした体制が続いていた。

 これまで中国を取り巻く国際情勢として書いてきたように、1970年代半ば、米ソは「デ・タント」と呼ばれる共存の時代に入った。しかし、1975年4月30日に南ベトナム政府が崩壊するなど、アメリカ軍の存在感は世界各地で小さくなっていった。1977年1月に大統領に就任した民主党のカーター氏は「人権外交」を掲げ、発展途上国国内に起きる政治闘争にアメリカが直接軍事的に介入することはしなくなった。体制改革が進まず、アメリカとの核軍拡競争のために経済的に疲弊しつつあったソ連にも、発展途上国に軍隊を派遣して世界の国々を直接コントロールする力はなくなっていた。このため、 1970年代後半以降、発展途上国内部で起こる様々な政治闘争に対しては、アメリカとソ連は、直接軍事介入せず、それぞれに近い勢力に資金や武器を提供することによる間接的な介入が主流となった。

 こういった流れは、1979年初めに起きたイラン・イスラム革命のように米ソ両大国が石油の主要産出国のような戦略上重要な地域をコントロールできない事態を引き起こした。イランにおいて親アメリカ政権がイスラム革命により瓦解するのをアメリカは許してしまったが、それと同じような失敗を避けようとして、ソ連は1979年12月、アフガニスタンに直接ソ連軍を介入して、親ソ政権を支援した。こうした動きは、アメリカ国民からは、地球上でアメリカ勢力が退潮しソ連勢力が拡大した、と受け止められた。このため、カーター大統領(民主党)は1980年の再選へ向けての選挙戦で苦しい戦いを強いられた。結局、1980年の大統領選挙では、対外的に強硬な姿勢を採ることを訴えた共和党のレーガン氏が勝利し、現職のカーター大統領は破れた。

 レーガン氏は、1981年1月に大統領に就任すると、アフガニスタンでの動きやアフリカ、中南米への社会主義勢力支援の動きは「東側の戦略的なプランに基づく世界支配だ」として警戒感を強めた。レーガン大統領は、そういった戦略的プランの親玉であるソ連を「悪の帝国」とさえ呼んだ。しかし、当時のソ連は、既にレーガン大統領が考えているような統一的で戦略的な意志決定が行えるような国家ではなくなっていたのである。1970年代後半、ソ連のブレジネフ書記長は、高齢により健康を害することが多くなったが、ソ連には、指導者交代のシステムができておらず、ブレジネフ書記長が高齢になっても、若手の指導者に権力をスムーズに譲渡することができなかったからである。

 1970年代後半から1980年代初頭の頃の東側の動きをレーガン政権が「東側が統一的かつ戦略的なプランに基づいて世界支配をしようとしている」と非難していたことに対して、キューバのカストロ首相は、1998年に制作されたCNNのドキュメンタリー「Cold War」の中でインタビューに答えて自嘲気味に次のように語っている。

 「『統一的かつ戦略的なプランに基づいて』だって? そんなものは全くなかったさ。各国のいろいろな勢力が全くバラバラにその場その場の判断で勝手に動いていただけだ。もし本当にソ連を中心とした『統一的かつ戦略的なプラン』なるものがあったのなら、我々東側は冷戦に負けることはなかった。だが、残念ながら、実際には、そんなものは全く存在しなかったのだ。」

 こうした中、1982年11月、ブレジネフ氏は書記長職を若手に譲ることなく死去した。その後任の書記長にはアンドロポフ氏が就任したが、アンドロポフ氏も後任を決められないまま1984年2月に死去した。その後任の書記長にはチェルネンコ氏が就任したが、チェルネンコ氏も後任を決められないまま1985年3月に死去した。チェルネンコ氏の後任にはチェルネンコ氏より20歳若いミハイル・ゴルバチョフ氏が就任した。ブレジネフ氏の晩年とアンドロポフ氏、チェルネンコ氏の時代は、老人支配の時代であった。レーガン大統領は当時のソ連を「悪の帝国」と呼んでいたが、実際は、ソ連は有力な指導者が不在で、有効な政策決定すら打ち出せない旧態依然とした機能不全状態に陥っていたのである。

 それを象徴するのが、1983年9月1日に起きた大韓航空機撃墜事件(誤ってサハリン近くに侵入したアメリカ発ソウル行きの大韓航空の旅客機をソ連空軍が撃墜した事件)や1986年4月26日に起きたチェルノブィル原子力発電所の事故である。これらの重大な事件・事故は、中央の「タガ」がゆるむと、組織の末端で考えられないようなミスが起きることを象徴するものである。

 ソ連の「老人支配」がソ連の体制を硬直化させていたことをトウ小平氏はよく見抜いていた。中国では、1980年代初頭、文化大革命によって失脚させられていた多くの幹部の名誉回復がなされ、多くの旧幹部が発言権を復活させるようになっていた。中国では、毛沢東や周恩来のように抗日戦争期の革命戦争を戦い抜いた世代を「第一世代」、国共内戦から新中国建国の中心を担ってきた世代を「第二世代」(トウ小平氏自身もこの中に入る)と呼んでいたが、1984年に80歳になるトウ小平氏は、既に実際の政治は胡耀邦総書記、趙紫陽総理ら「第三世代」に任せるべきだ、と考えていた。しかし、「第二世代」のトウ小平氏が改革開放の指揮を振るっている現状にあっては、トウ小平氏と同世代の旧幹部の多くもまだまだ現実の政治に影響力を持ちたいと考えていた。

 これら「第二世代」の旧幹部の不満を解消するため、トウ小平氏は1982年9月に中央顧問委員会を設置し、古参幹部を中央顧問委員に任命し、トウ小平氏自らがその委員長に就任した。率先垂範してトウ小平氏自身も含めて「第二世代」は引退し、政治の実態は胡耀邦総書記や趙紫陽総理ら「第三世代」に任せようと考えたからである。しかし、この後の経緯が示すように、胡耀邦総書記や趙紫陽総理は、「第二世代」の有力な古参幹部の意見をコントロールすることができなかった。結局は最終的な事態の収拾はトウ小平氏自身に頼らざるを得ず、ソ連を悩ませた「老人支配」の構図は、中国においても克服することはできなかったのである。

 しかし、胡耀邦総書記や趙紫陽総理にできるだけ自由に力を発揮させようとしていたトウ小平氏の意図は1980年代半ばまでは功を奏して、斜陽化するソ連を尻目に、中国はどんどん外国の資本と技術を導入し、文化的にも対外開放を進め、ほとんど「西側世界の一員」であるかのように西側世界との一体となって経済成長のスタート・ダッシュを始めていた。1984年、アメリカで開催されたロサンゼルス・オリンピックに中国が初めて参加し、多くのメダルを獲得したのは、そういった当時の中国を象徴するできごとだった。

 1984年4月に私が中国を訪問した際、夜になると中国大陸でも聞こえる日本の国内向けラジオの中波放送には、まだ妨害電波が掛かっていた。しかし、1986年10月に北京に駐在するようになった時点では、日本のラジオ放送に対する妨害電波は既に停止されていた。1986年には、イギリスのBBCやアメリカのVOA(ボイス・オブ・アメリカ)を北京で聞くことも可能だった。1988年になると台湾発の英語放送に対しても妨害電波は停止され、台湾発の英語のラジオ放送を北京で聞くことが可能になっていた。

 1980年代半ば、技術革新により、世界のオーディオ機器はレコードからCD(コンパクト・ディスク)へと急激な変化を遂げたが、1987年には既に北京でもCDが販売されるようになっていた。マイケル・ジャクソンやマドンナなどのCDやミュージック・テープは北京で普通に手に入るようになった。1988年4月からは、FMラジオで「美国音楽一個小時(アメリカン・ミュージック・アワー)」という番組が始まった。ジョン・デンバー、マイケル・ジャクソン、マドンナなどのアメリカの音楽を1時間ぶっ通しで流す、という番組だった。この当時、中国の指導部は、改革開放政策により経済は順調に成長しており、少々外国から情報が入ってきたとしても体制はびくともしない、という自信があったのだろうと思われる。日本のテレビドラマ「おしん」や「赤い疑惑」等のシリーズ(山口百恵主演)などが中国で放送され人気を集めたのも1980年代である。

  1984年には陳凱歌監督の映画「黄色い大地」(撮影は北京オリンピック開会式・閉会式の監督を務めた張芸謀氏)が発表された。革命戦争時代を背景にして、黄土高原に住む貧しい少女と若き中国共産党文芸隊員が登場する映画だが、善良な中国共産党員でも救えない中国の貧しい農村の現状を広大な黄土高原の映像をバックに美しく表現した作品だった。この映画は、外国の映画評論家からは、美しい映像や音楽とともに、厳しい自然と貧しさの現実の前に中国共産党も力が及ばなかったことを表現した点で(「中国共産党が全てを解決する」というパターンから脱却しているという点で)、画期的だと評せられた(しかし、登場する中国共産党員は、極めて善良で良心的に描かれている)。

 1987年には謝晋監督の映画「芙蓉鎮」が発表された。文化大革命の荒波に揉まれながら生きていく庶民の力強さを描いた作品である。この作品には、激しく揺れ動く時代の流れの中で、その時々の支配勢力にすり寄りながら日和見的に時代をうまく泳ぎ抜く中国共産党員の姿が冷やかな目で描かれている。

 「芙蓉鎮」は海外の映画祭でいくつも賞を受けた中国でも有名な映画だが、2007年4月に再び北京に赴任して以降、私は機会があるたびに北京のDVD屋さんを覗いたが、結局この映画のDVDを見つけることができなかった。私は現在の中国ではこの「芙蓉鎮」は作れないと考えている。現在の中国共産党宣伝部は、中国共産党員を冷笑するような映画作品の製作は許さないだろうと思われるからである。私が、文化・思想を巡る状況については、現在は1987年に比べて時代が逆転していると感じているゆえんである。

 1987年10月に開かれた第13回中国共産党全国代表大会は、初めてテレビで全国に生中継された。会議終了後には、中国共産党幹部による内外記者会見がこれもテレビ生中継で行われた。この記者会見は、中国語と英語の通訳付きで、外国人記者も自由に質問することができた。これ以降、共産党大会や全国人民代表大会などの重要な会議では、テレビによる生中継や内外記者による記者会見は当たり前のことになった。この原則は現在でも続いており、現在ではこれにインターネットによる生中継と文字実録のアップが加わっている。

 私は、この第13回党大会が開かれていた当時、北京に駐在していて、党大会の様子をテレビの生中継で見ていた。「趙紫陽極秘回想録」(資料25)において、この回想録を取りまとめた編者の一人であるアディ・イグナシアス氏は、この本の「はじめに」の冒頭において次のように記している。

「それは中国と世界にとって、胸躍る瞬間だった。1987年10月~11月に開かれた党大会は活気に満ち、中国をさらなる進歩へと進歩へと駆り立てるかのようだった。」

この印象は、私が北京で受けたのと全く同じものだった。

 経済面での中国の成長も本格化し始めた。改革開放政策開始当時、トウ小平氏は「『四つの近代化』により、2000年までに中国のGDPを1980年の値の四倍にする」と宣言していた。私は1982年7月~1984年9月に中国との通商貿易を担当する職場にいたが、当時、経済政策の専門家は「トウ小平氏が、ああ言って国内にハッパを掛けている気持ちは理解できるが、20年間でGDPを4倍にするというのは、日本の高度経済成長期の『所得倍増計画』を2回やることであり、実態的にはできるはずはない」と言っていたのをよく覚えている。しかし、21世紀になった現在、トウ小平氏が宣言した「2000年のGDPを1980年の4倍にする」という目標がいとも簡単に実現してしまったことを確認することができる。

 私は1984年10月に人事異動により中国担当からははずれた。しかし、1985年10月からは、その後に予定されていた北京赴任のための準備のため、週に2回、勤務終了後に中国語学校に通うようになっていた。そして、1986年5月には中国関係の部署に異動になって北京駐在の準備を始め、1986年10月~1988年9月、実際に北京に赴任した。従って、この時期は、私は、ほぼ一貫して、中国を見る立場にあった、と言ってよい。

以上

次回「4-1-4(2/2):対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-5956.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月 7日 (水)

4-1-3:中国指導部内部での路線闘争とイギリスとの香港返還交渉

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第3節:中国指導部内部での路線闘争とイギリスとの香港返還交渉

 もともと経済開発促進のために設けられた「経済特区」であるが、これには政治的にも大きな意味が含まれていた。香港と内陸部との境界に設けられた「深セン経済特区」とマカオと内陸部との境界に設けられた「珠海経済特区」は、香港とマカオの中国への返還を見込んだ「緩衝地帯」として設けられたのは明らかだった。深センや珠海の「経済特区」の運営がうまく行くのであれば、それと同じように、将来、香港やマカオを「経済特区」と位置付けることによって中国の一部にすることが可能だからである。福建省の廈門(アモイ)経済特区は、台湾当局が実効支配する金門島の対岸に位置している。香港やマカオを「経済特区」として中国の一部に取り込むことに成功すれば、将来的には、台湾も「経済特区」として「中国の一部」とすることが可能となるかもしれない。

 そういった政治的な思惑があったにせよ、「経済特区」の設置については、当初から「資本主義的要素を取り入れ過ぎだ」という批判があったことは「第3節第5部第7節:『歴史決議』~『文革は誤りだった』との正式な自己批判~」で述べた。経済政策では保守的な主張をしていた陳雲副主席は「経済特区」の設置についても慎重だった、と言われている。「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)で、当時国務院総理だった趙紫陽氏は、陳雲氏が結局一度も「経済特区」に足を踏み入れることはなかった、と語っている。

 1980年代前半、当時私も中国との通商貿易関係の仕事をしていながら気が付かなかったのであるが、中国指導部の中では、急速な改革を進めようとする改革派と、市場原理の導入は「補助的なもの」であり根幹は社会主義的計画経済に基づくべき、とする保守派との路線の争いがあったのである。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、改革派と保守派の中でも、人によって微妙なスタンスの違いがあった。

 改革派はトウ小平氏と胡耀邦氏が中心であった。トウ小平氏は、経済の面では急いで市場主義的要素を取り入れて、スピードを上げて経済建設を進めようとしていたが、思想面では「四つの基本原則」を厳然と堅持し、政治体制改革(政治的民主化)は今はやるべきではない、とのスタンスだった。政治面で慎重だったのは、トウ小平氏は、政治闘争に明け暮れて、経済建設が完全になおざりにされていた文化大革命時代を痛いほど味わっていたからである。胡耀邦氏は、経済政策においてはトウ小平氏と同じスタンスだったが、政治体制改革については、もう少し進歩的であった可能性が高い。趙紫陽氏は「趙紫陽極秘回想録」の中で、胡耀邦氏が1987年1月に失脚することなく、もう少し長く中国共産党総書記の職を務めていたら、政治体制改革は進んでいただろう、という感想を述べている。

 保守派には、陳雲氏、李先念氏、余秋里氏、姚依林氏らがいた。陳雲氏は、トウ小平氏も一目置く経済理論家で、ソ連型計画経済を理想とし、1950年代の第一次五カ年計画の路線を延長することが最もよいやり方だと思っていた。趙紫陽氏が「趙紫陽極秘回想録」で述べているところによれば、李先念氏と余秋里氏は、華国鋒政権時代に経済運営を担当しており、経済への市場原理の導入は彼らの過去の政策を否定することになるという理由で、経済における改革開放政策にブレーキを掛けようとしていた、とのことである。また、同じく趙紫陽氏によれば、姚依林氏は、1980年代前半には国家計画委員会主任を務め、外国要人との会談も頻繁に行っていたことから、外国人からは「改革派」だと思われていたが、実際は、市場原理の導入は補助的なものに留めるべき、という陳雲氏の考え方に近かったとのことである。

 1981年6月の「歴史決議」により、文化大革命や華国鋒政権に対する評価が固まったはずなのであるが、その後、改革派と保守派は、ことあるごとに、経済活動に市場原理を強力に入れるのか、市場経済は補助的なものに留め中心は計画経済に重点を置くべきなのか、という点で、路線闘争を行うことになる。「趙紫陽極秘回想録」の中で趙紫陽氏は、密輸、汚職等を撲滅しようという運動の中においてさえ、保守派は「新たな環境における階級闘争の重要なあらわれ」であるとか、「腐敗した資本主義思想を用いる階級敵による、体制に対する破壊・浸食効果」だとか称して、経済政策の中への市場原理の取り込みを妨害した、と指摘している。保守派は、「ブルジョア生活様式が拡大している」とも批判していたが、趙紫陽氏は、経済運営において、改革開放政策が目指すところの市場原理の有効な活用が妨害されないように、保守派からの攻撃を防がなければならなかったのである。

 保守派の中には、陳雲氏のように、ロシア革命後にソ連の経済力が成長したように、中国でも計画経済を中心とした経済運営をすべきだと純粋に理論的に考えていた人たちもいただろうが、一方で、資材の流通、様々な規制の運用等を通じて、党や政府の政治権力を用いて経済活動をコントロールして私腹を肥やしていた「既得権益保護派」と見なせる人たちもいたに違いない。そうした「既得権益保護派」は現在でも根強くはびこっていると考えられるが、彼らは「社会主義の理想」という「錦の御旗」を掲げて、経済への市場原理の導入を妨害したがる。経済が自由化され市場原理によって全てがコントロールされるルールになってしまえば、自分たちが政治権力をもって経済に介入して利益を得ることができなくなるからである。彼ら「既得権益保護派」は、報道の自由や政治的民主化も嫌う。自由な報道により自らの腐敗体質を報道されることは避けたいし、自由選挙によって自らの政治権力を失いたくないからである。

 1982年11月の全人代で決まった憲法改正により、人民公社が完全に解体されたこともあり、保守派の人々は、中国の社会全体が社会主義からの離脱の方向へ向かうことを警戒していた。そうした保守派の人々の考えを背景として、1983年秋頃から「精神汚染一掃キャンペーン」が始まった。このキャンペーンは、表向きは経済の自由化に伴って目立ってきた地方の政府や党幹部による汚職や腐敗を一掃することが目的だったが、一面では保守派の人々による「資本主義的思想に精神が汚染されるのを食い止める運動」という側面もあった。

 この1983年秋以降の「精神汚染一層キャンペーン」について、趙紫陽氏は「趙紫陽極秘回想録」の中で、この運動はトウ小平氏自らが主体的に進めていた運動だった、と語っている。つまりこの「精神汚染一掃キャンペーン」は、経済の自由化が進む中で、陳雲氏ら保守派がトウ小平氏らの改革派に反撃を加えるための運動を起こした、ということではなく、トウ小平氏自身が、この頃既に経済の自由化に伴って出つつあった思想面での自由化要求にブレーキを掛けようとしたものだった、というのである。

 趙紫陽氏は、胡耀邦氏が思想や政治の自由化を進めようとしていた、とは述べていないが、趙紫陽氏自身、経済政策の面では、改革開放をとにかくスピードを速く進めるべきと主張する胡耀邦氏との間に、この頃(1980年代前半)から既に「やり方の違い」を感じ始めていた、と述べている。一方、趙紫陽氏は、胡耀邦氏が「精神汚染一掃キャンペーン」に懐疑的であり、1984年2月の時点で「『精神汚染の一掃』という言葉は不適切だ」と述べており、そのことでトウ小平氏は胡耀邦氏のことを不快に思っていた、と「趙紫陽極秘回想録」で語っている。

 後に述べるが、胡耀邦氏は、1986年末に起こった政治的自由化を求める学生運動に対する対応が甘かったとして1987年1月に党総書記を辞任させられた。「趙紫陽極秘回想録」で、趙紫陽氏は、この胡耀邦氏の党総書記辞任(実質的には解任)の最終結論を出した1987年1月15日の党組織生活会(党員が経験を発表し、批判や自己批判を行う会)において、胡啓立氏(胡耀邦氏と同じ中国共産主義青年団系の幹部で当時政治局常務委員)が、自分(胡啓立氏)が1984年6月28日にトウ小平氏と会った際、トウ小平氏が「胡耀邦氏は『四つの基本原則』の堅持と反自由化の観点で総書記としてあまりに弱腰で、これは基本的な欠点だ」と述べた事実を明らかにした、と語っている。これが事実であれば、1983年秋から始まった「精神汚染一掃キャンペーン」を進めていた段階から既にトウ小平氏は胡耀邦氏の態度を問題視していた、ということになる。つまり、1987年1月の胡耀邦氏の党総書記辞任は、外からは「突然」に見えたが、実際はかなり前から伏線があった、ということになる。

 当時の私は、胡耀邦氏は思想や政治の自由化を求めていた、とは思っていなかった。ただ、胡耀邦氏の言動からは、やや大げさに中国の明るい未来を自由奔放に語り、若い人々を鼓舞していた、という印象を受けていた。この印象は、趙紫陽氏も「趙紫陽極秘回想録」で胡耀邦氏に対する同じような印象を語っている。胡耀邦氏は、思想や政治の自由化を明確に語ることはなかったが、多くの若い人たちは、豪放磊落な胡耀邦氏の話を聞いて、中国の自由な未来を思い描くようになったのではないだろうか、と想像される。そういったこともあり、胡耀邦氏自身がどういう思想信条を持っていたかは明らかではないものの、1989年4月15日に胡耀邦氏が亡くなったのを追悼することで始まった「第二次天安門事件」における学生たちの動きを見れば、当時の中国の若い人たちが胡耀邦氏を「思想と政治の自由化のシンボル」と見ていたことは間違いない。胡耀邦氏が若い人たちからそう見られることをトウ小平氏は許さなかったのだと思われる。

 こういった胡耀邦氏に対する認識は、現在の胡錦濤政権を考える上で非常に重要である。というのは、胡耀邦氏と当時の日本の中曽根康弘首相は日中青年三千人交流事業を始めたが、その一環として1985年3月に訪日した代表団の団長として、胡錦濤氏が来日しているからである。この時、胡錦濤氏は、胡耀邦総書記の後任の中国共産主義青年団第一書記だった。胡錦濤氏が、胡耀邦氏に近い「団派」(中国共産主義青年団に関係する一派、という意味)と呼ばれるグループの一員とみなされていることは、中国では誰もが知っている。

 1983年秋に「精神汚染一掃キャンペーン」が始まると、私の周囲の中国との通商貿易に関係している人々の中にも「また文化大革命のような時代へ戻るのであろうか」といった懸念を持つ人が出始めた。しかし、当時の日本のマスコミの論調は、中国の改革開放路線は、既に「ポイント・オブ・ノー・リターン」(引き返せない地点)を超えてしまっており、中国が文化大革命のような時代へ戻ることはあり得ない、というものだった。この当時の論調は、経済の面では当たっていたが、1989年の「第二次天安門事件」の後の体制を考えた場合、結果的に見れば、政治体制改革の面では「はずれ」だったと言わざるを得ない。政治体制改革の面では、中国は今でもまだ「ポイント・オブ・ノー・リターン」を踏み越していないからである。

 「精神汚染一掃キャンペーン」は、上に書いたようにトウ小平氏自身が主張していたことであるが、「趙紫陽極秘回想録」によれば、保守派は「精神汚染一層キャンペーン」の流れに乗って、経済改革においても市場原理の導入にブレーキを掛けようとし始めていた。トウ小平氏や趙紫陽氏にとっては、経済改革に対する保守派の抵抗の行き過ぎを止める必要があった。

 トウ小平氏にとっては、「経済特区」は中国の経済発展のモデル地区であると同時に、香港返還、遠い将来においては台湾を取り込むための政治的「布石」でもあった。香港については、下記に述べるように、1997年というひとつの目標タイミングが既に設定されていた。従って、「精神汚染一掃キャンペーン」に便乗した「保守派による巻き返し」の「行き過ぎ」は早急に阻止する必要があった。そこで、トウ小平氏は、1984年1月24日~29日に深セン経済特区と珠海経済特区を、2月9日には廈門経済特区を視察し、その結果を受けて、2月24日に「経済特区はうまくやり、もっと対外経済都市を増やさなければならない。」という講話を行った。

(参考URL)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」-「トウ小平記念館」
「トウ小平文選第三巻」
「経済特区はうまくやり、対外開放としを増加させよ」(1984年2月24日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69696/4949924.html

 このトウ小平氏の講話は、当時「南巡講話」と呼ばれた(現在では「第二次天安門事件」の後に保守化しつつあった情勢にカツを入れるために1992年に行われた講話のことを「南巡講話」と呼ぶことが多く、この1984年の講話は今では普通「南巡講話」とは呼ばれない)。この講話を受けて、中国共産党中央書記処は、1984年3月26日~4月6日に沿海部都市座談会を開催し、大連、秦皇島、天津、烟台、青島、連雲港、南通、上海、寧波、温州、福州、広州、湛江、北海の14の沿海都市と海南島を開放することを提案した。

 私が参加した「対中投資環境調査団」が派遣されたのは、これらトウ小平氏の1984年の「南巡講話」と沿海部都市座談会での14都市と海南島の開放の提案の直後だったことは前節で述べた。「精神汚染一掃キャンペーン」の経済への悪影響を抑えて、「経済特区」政策の推進を強く後押しする政策を打ち出した背景には、当時、最終段階を迎えていたイギリスとの香港返還交渉があったことは想像に難くない。

 香港については、アヘン戦争の後の南京条約(1842年)によって香港島がイギリスに割譲され、アロー号戦争の後の北京条約(1860年)によって九龍半島の先端部がイギリスに割譲されていた。さらに、日清戦争に敗れた中国(清)に付け込んで列強各国が中国に強要して多くの租界を設定していった中、イギリスは1898年に既に割譲を受けていた九龍半島先端部に接する後背地(この地域を「新界」と呼ぶ)を99年間の期限付きで租借することを清に認めさせていた。「新界」を租借する時に付けた「99年間」という期限については、当時のイギリスは「永遠に」という意味で捉えていたと思われるが、トウ小平氏は「99年経ったら返す」というこの約束を実行するよう実際にその99年目(1997年)が迫りつつあった1980年代前半にイギリスに求めたのである。

 イギリスにとっても、21世紀が近付く中、香港を「植民地」のまま維持する必要性はもはやなかった。ただ、香港がアジアの自由港としての位置付けを変えることなく、香港に投資されたイギリス企業の利益が保全されればよい、とだけ考えていた。こうした中国とイギリスの思惑の中、1982年10月、イギリスのサッチャー首相がイギリスの首相として初めて中国を訪問した。そして中英両国は香港問題について話し合いを開始することになる。

 1898年の約束に基づけば、イギリスが中国に返還しなければならないのは「新界」のみである。香港島と九龍半島先端部は「租借」ではなく「割譲」を受けたのであるから、国際法上、イギリスは中国に返還する義務はない。しかし、香港島と九龍半島先端部は、水の供給などの点において「新界」に頼っていたし、「新界」だけが中国に返還されることになると、「新界」の住民が香港島や九龍半島先端部に殺到して混乱が生じることが予想された。そのため、イギリスは「新界」を返還するのと同じタイミングで、割譲を受けていた香港島と九龍半島先端部も中国に返還することを決めたのである。

 しかし、イギリスにとって、香港のアジアの自由港としての位置付けの維持と香港におけるイギリス企業の資産の保護は譲れない条件だった。このイギリス側の主張に対する対案として、トウ小平氏の用意した提案が「一国二制度」である。トウ小平氏は、香港が中国に返還された後も香港を「特別行政区」と位置付け、外交と防衛は北京政府が担当するものの、返還後50年間は香港における資本主義経済制度を継続させ、報道・集会の自由は認めることとする、と提案したのである。「経済特区」を設けることにより、ひとつの国の中に「自由な経済特別区」を設ける経験を積んでいた当時の中国にとって、この「一国二制度」による「香港特別行政区」の制度は、「経済特区」の延長線上と捉えることができたのである。

 トウ小平氏としては、イギリスに「一国二制度」によって自由港としての香港と香港におけるイギリス企業の権益が守られることを納得させるため、今後とも「経済特区」の政策は強力に進めていくことを示す必要があった。「精神汚染一掃キャンペーン」が展開される中で、1984年2月に「南巡講話」を出し、沿海14都市と海南島を開放する政策を打ち出したのは、香港返還交渉において「精神汚染一掃キャンペーン」によりイギリス側が警戒感を持つのを防ぐ意図もあったものと思われる。

 このトウ小平氏の「一国二制度」による提案をイギリス側は受諾した。こうして、1984年9月26日、中国とイギリスは中英共同声明によって、1997年7月1日をもって香港が中国に返還されること、返還後50年間は香港における資本主義経済体制と報道・集会等の自由を保障することに合意したのである。

 この香港返還についてのイギリスとの合意は、トウ小平氏の政治的大勝利だった。というのは、もし香港返還後の香港の運営がうまく行けば、将来は台湾も同じ方式で統一する可能性が生じるからである。1984年の中英共同声明では、香港の行政長官は選挙または話し合いによって選出される、とされ、行政長官や立法議会議員を住民の自由選挙により選出するかどうかについては、大きな課題として残った。1990年に全国人民代表大会で採択された香港特別行政区基本法においては、行政長官及び立法議会議員は、最終的には普通選挙によって選出する、との目標が掲げられたが、普通選挙実施の時期的目標は明示されなかった。今後、香港における選挙制度がどうなるか、が、トウ小平氏がもくろんだ「香港方式による台湾統一」が実現するかどうか、のカギになると言えるであろう。

 現在、香港の行政長官は代議員による間接選挙であり、立法議会議員は職能団体推薦枠議員と直接選挙枠議員が混在する状況である。2007年12月29日、第10期全国人民代表大会常務委員会第31回会議において「2017年に第5期の行政長官と全ての立法議会議員に対する直接選挙を実施することを認識した上で、2012年には行政長官と職能団体推薦枠議員に関する直接選挙は行わない」とする決定がなされた。この決定については、「2017年に香港の行政長官と全ての立法議会議員は住民による直接選挙により選出されることが決定された」との報道が一部なされたが、正式にはこの決定は2012年の選挙に関する決定であり、2017年の選挙に関しては結論を述べていない。2017年の選挙については、今後、改めて全国人民代表大会の決定が行われることになる。

 いずれにしても、1980年代の中国が抱える多くの困難な問題について、このように次々と具体的な解決を図っていったトウ小平氏の政治手腕は、客観的に言っても他に類を見ないと言えることは間違いない。

 1980年代、このような華々しい経済的、政治的成功が続く中で、中国国内にも、次第に様々な社会的問題が噴出してくるようになる。それは皮肉にも、中国のような改革がうまくできなかったソ連において、トウ小平氏による中国での改革を見習おうというゴルバチョフ氏が登場し、それが逆に中国に対して影響を与えることによってもたらされることになるのである。

以上

次回「4-1-4(1/2):対外経済交流の深化と外国からの情報の流入(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-68cc.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月 6日 (火)

4-1-2:改革開放政策下の1980年代の日中協力(私の経験)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第2節:改革開放政策下の1980年代の日中協力(私の経験)

 私が最初に中国を訪問したのは、1983年2月、中国の工場の近代化に協力するためのプロジェクトの一貫として、日本の技術者とともに中国の工場を訪問するために出張した時であった。このプロジェクトは、日本企業の技術専門家を中国の企業に派遣し、工場を診断して問題点を指摘し、中国の工場の近代化に資する、というものだった。日本側としては、技術専門家の診断の結果、中国側が新しい機器やプラントの導入を決めれば、日本からの機器やプラントの輸出に繋がる可能性がある、という発想で協力を行っていたものだった。

 私が訪問したのは上海のガラス瓶工場だった。訪中前に日本のガラス瓶工場を見せてもらっていたので、日本と中国とのガラス瓶工場の違いを実感することができた。私が見た日本のガラス瓶工場では清涼飲料水用のガラス瓶を製造していたが、食料品を入れる瓶であるだけに、清涼飲料水メーカーからは、非常に厳しい品質管理を求められている、とのことだった。そのため、私が見た日本の工場では、製造ラインの長さの二倍の長さの検査工程があり、様々な機器による何重にもわたる検査が行われていた。そして最後には、ベテラン検査員による人間の目による目視検査工程があった。

 上海のガラス瓶工場へ行ってみてすぐ気が付いたのは、上海の工場では、製造工程が終わると製品をそのまま袋詰めにしており、検査工程が全くなかったことだった。また、その工場では、生産量を増加させるために後で生産ラインを後から増設したためか、ひとつの煙突に対して製造ライン2本が付けられていた。日本の技術者は、2本の製造ラインのそれぞれに煙突がないとエネルギー効率が悪いし、各ラインごとのガラス溶融炉の温度のコントロールが十分にできず品質にバラツキが出る、と指摘していた。日本ならば「当たり前のこと」が中国ではできていなかったのである。

 また、上海の工場の人は「せっかく作ったガラス瓶が輸送中に割れて困る」と嘆いていた。この工場では、できたガラス瓶を無造作に大きな袋に詰め込んで、トラックで輸送していた。輸送途中で割れるのは当然だった。この頃、中国では、卵パックに使われるようなプラスチック容器や紙容器は製造されておらず、ガラス瓶を割れずに輸送するために必要な梱包素材が入手できなかったのである。一定のレベルの品質の製品を消費者まで届けるためには、単に製造技術だけではなく、包装・梱包や輸送といった生産から輸送・流通・販売まで全体をバックアップする社会的インフラが整っていなければならないことを痛感した。

 しかし、こういった工場の現状よりも印象的だったのは、現場の技術者の人々の態度だった。日本の技術者が自分が気が付いた問題点を話し出すと、中国側の技術者は通訳が話している途中で、口からつばを飛ばし日本の技術者を指さしながら「対!対!対!対!」と叫んだ。「対(トゥイ)」とは「その通り」という相槌を打つ言葉であるが、中国側の技術者は、日本側技術者の指摘に対して「それそれそれ! そこんとこが問題なんですよ!」と即座に反応したのである。技術の世界において、キーとなる点は共通であり、言葉の壁を超えて、同じ分野の技術者は同じ問題意識を共有できることを実感した瞬間だった。

 この時期、多くの日本の技術者が中国に出向き、中国の技術者と意見交換する場面において、多くの「対!対!対!対!」といった反応があったと思われる。こうして、中国の技術者は、外国の技術者と交流することの重要性を認識したものと思われる。また、日本側技術者も「将来ビジネスになる」といった思惑を超えて、自分の持つ技術知識が中国において非常に必要とされていることを実感したのではないかと思われる。

 これが私の「中国における原体験」のひとつである。こうしたひとつひとつの「町工場」における「技術交流」が、たくさん積み重なって、後の中国の強力な経済発展の原動力になったのだとしたら、そうした日中協力のほんの一場面に立ち会えたことを私としても誇りに思いたい。

 「ビジネスを度外視した技術者たちの誠意」は、時として「好意で渡した図面を使ってコピー商品を作られてしまった」といったトラブルを引き起こすこともある。そのため、日本企業の関係者の中には中国に対する警戒感を持つ人も多いが、それは他の国に比べて、日本人が中国の人々との間の関係に東洋的な親近感を感じ過ぎてしまうことに起因しているのかもしれない。時として、中国の人々に対して、ビジネス上の関係を超えた親近感を感じてしまうことが、中国との関係を進める上で、日本人にとっての強みでもあり、また同時に弱みでもあるのだと思う。

 私たち一行は、上海での工場診断を終えると、北京に戻って、国家経済委員会(現在の中国政府で言えば国家発展改革委員会、日本で言えば経済産業省に相当する)と打ち合わせを行った。打ち合わせの後で、中国側招待の夕食会があったが、その夕食会を主宰したのが、当時国家経済委員会副主任(日本の事務次官に相当する)の朱鎔基氏(後に江沢民国家主席の下で国務院総理になる)だった。朱鎔基氏は経済官僚のエリートだったが、この会食の際の周囲の人の様子から察すると、朱鎔基氏はこの時既に相当に高い位の人物として扱われていたことがわかった。

 私の二度目の訪中は、1984年4月に「対中投資環境調査団」の一員として、2週間にわたって、北京、上海、江蘇省南通、福建省福州、広東省広州、深セン経済特区へ行き、その後香港へ抜けた時だった(「深セン」の「セン」は「土へん」に「川」)。この「対中投資環境調査団」には日本を代表する各分野の大手のメーカー、商社などから幹部約40名が参加していた。各地で地方政府の関係者と会談して外国からの投資導入政策について聞くとともに、この頃既に稼働し始めていたいくつかの中国と外国との合弁企業を視察した。

 この頃、中国大陸部に立地していた日系の合弁企業はまだ5社程度しかなかった。この「調査団」の訪問先に江蘇省南通市が入っているのは、そのうちのひとつ、日本の地下足袋メーカー「力王たび」が設立した合弁企業・中国南通力王有限公司(調査団が訪問する前年の1983年から操業開始)が南通市にあったからである。

 いつの時代でもそうであるが、「時代の最先端」を行くのは一見すると古い経営方針を採っていると思われがちな「伝統的な」分野の会社の場合が多い。日本の工事現場で働く「とび職」の人たちが使う「地下足袋」を製造するメーカー「力王たび」もその例のひとつであろう。地下足袋は綿布を靴状の形にして底にゴムを縫いつけて作るものであるが、「力王たび」は綿布の生産地が近く(中国江蘇省)にあり、安い労働力を確保でき、外国からのゴムの輸入にも便利な江蘇省南通市(上海から揚子江を少し遡った揚子江の北岸にある)に目を付け、ここに合弁会社・中国南通力王有限公司を設立した。製品の地下足袋は100%日本への輸出である。この中国南通力王有限公司は、地元産の綿布を活用し、地元で雇用を確保し、外貨を稼ぐ優良企業として、地元政府からも高い評価を受けていた。

 私が工場を訪問した時、壁には各従業員ごとの生産数、不良品率などを示すグラフが張られており、従業員たちが一生懸命に働いていた。従業員同士の競争は激しいけれども、中国の国営企業よりも給与は高いし、頑張ってよい製品をたくさん作ればそれに合わせて給与も上がるとのことだった。従業員たちは喜々として働いている様子であり、工場は活気にあふれていた。従業員がおしゃべりしながらダラダラと作業しているといったイメージの強い社会主義体制下の国営企業とは全く異なる雰囲気だった。調査団に参加した日本の大手企業の約40名の幹部たちも、私と同じような強い印象を受け、中国経済の将来に対する「大きな可能性」を感じたに違いない。

 こういった「対中投資環境調査団」の派遣のような活動が、その後の日本企業の中国への進出と中国経済の発展のひとつのきっかけになったのだとしたら、当時、この調査団の派遣活動に参加した一人として私は嬉しく思う。

 この「投資環境調査団」のスケジュールの最後は、広東省広州から深セン経済特区を経て香港へ抜けるものだった。広州市から深セン経済特区までは列車で移動したが、その際、列車の中でパスポート・コントロールのチェックを受けた。深セン経済特区は、中華人民共和国の一部であるが、そこへの人や物資の出入りに対しては一定のチェックが行われていたのである。経済特区とその他の地区との境界線が俗に「第二国境線」と呼ばれていたのはそのためである。また、深セン経済特区から当時イギリスの植民地だった香港へ抜けるためには、当然のことながら「国境線」を通過するための手続きを受けた。

 私は2008年4月、上記の「投資環境調査団」に参加して以来24年ぶりに深センから香港へ抜ける機会があった。広東省の内陸部から深セン市へ入る高速道路の脇には、過去の「第二国境線」のチェックポイントのための検査場の建物が残っていたが、既に使われていなかった。今では広東省の他の地域と深セン市への出入りには何のチェックも受けない。深セン市と香港特別行政区との間は、1997年7月の香港の中国への返還以降もほぼ国境線と同様のラインが引かれ、国境線と同じような人と荷物に対するチェックが行われている(ただし、大陸側から香港への通勤者等については、一定の許可証が出され、香港と深センとの間の通行手続きは以前に比べればかなり簡素化されている)。

 2008年4月に私が深センを訪問した際、日本との経済交流を支援している深セン中日経済交流促進会の担当者に聞いた話によれば、税制面も含め深センに対して広東省のほかの地域と異なる「特別扱い」は既に完全になくなっているとのことだった。これは、改革開放後30年を経た今日、既に中国全土が「経済特区」と化しており、1980年代にはあった「経済特区」の「特区」たる意味が、現在では既に失われたことを意味している。

 私が参加した「対中投資環境調査団」は、トウ小平氏の1984年1月~2月の「南巡講話」と1984年3月26日~4月6日に開かれた沿海部都市座談会において14都市と海南島の開放の提案がなされた直後であった。それだけに、各地の地方政府との会談においては、1984年の「南巡講話」と沿岸部14都市と海南島の開放方針提案のことが話題になった。この「投資環境調査団」は、まさにこのような中国の対外経済開放政策促進の波に乗るようなタイミングで派遣されたのだった。

 今、トウ小平氏による「南巡講話」と言えば1992年に行われたものが有名だが、1980年代には「南巡講話」と言えば1984年1月~2月のものを指した。1983年秋頃から行われた「精神汚染一層キャンペーン」と1984年の「南巡講話」と沿岸部14都市と海南島の開放提案は、その当時の私は認識していなかったが、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)で示されている趙紫陽氏の認識を踏まえれば、1984年のイギリスとの香港返還交渉等を背景としたこの当時の中国指導部内部での路線闘争の産物であったと言える。それについては、次節で詳しく述べることとする。

以上

次回「4-1-3:中国指導部内部での路線闘争とイギリスとの香港返還交渉」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-8308.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月 5日 (月)

4-1-1:具体化する改革開放政策とまだ残る「文革のしっぽ」

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第1節:具体化する改革開放政策とまだ残る「文革のしっぽ」

 「歴史決議」を採択した1981年6月の第11期中国共産党中央委員会第6回全体会議(第11期六中全会)では、もう一つの重要な決定が行われた。華国鋒氏の党主席からの退任である。この決定で前年の全人代で国務院総理も辞任していた華国鋒氏は完全に中国政界の表舞台から姿を消した。華国鋒氏の党主席からの退任は「歴史決議」とともに、新しい時代が到来したことを告げる象徴的なできごとだった。この時、華国鋒氏は中国共産党中央軍事委員会主席も退任した。後任の中央軍事委員会主席にはトウ小平氏自身が就任することになる。

 ただし、華国鋒氏はヒラの中央政治局委員ではあり続けたので「失脚」ではなかった。華国鋒氏は北京オリンピック開催中の2008年8月20日に87歳で死去した。翌8月21日付けの人民日報では、1面の下の方に「中国共産党の優秀な党員で、共産主義に忠誠を尽くした経験ある戦士、プロレタリアート階級革命家であり、かつて党と国家の重要な指導的職務に就いていた華国鋒同志が死去した。」と報じられた。華国鋒氏は、周恩来に次ぐ国務院総理、毛沢東に次ぐ党の主席であったにも係わらず、党主席、国務院総理であったことはその時には報じられなかったのである。オリンピック開催期間中であったこともあり、あまり「過去の人」の死去を大きく報じる雰囲気ではなかったこともあるだろうが、華国鋒氏の微妙な位置付けを象徴するような人民日報の報道だった。

 華国鋒氏の葬儀は北京オリンピック終了後の8月31日に行われたが、この葬儀を伝える人民日報や新華社の報道では、華国鋒氏が「四人組」追放に功績があったこと、党主席や国務院総理を務めたことなどがきちんと報じられていた。葬儀の際の報道では華国鋒氏についてきちんとした報道がなされたのは、死去直後の報道があまりに簡素だったために党内でも「もっと華国鋒氏の功績をきちんと報道すべきだ」という議論があったためなのか、単に葬儀の時点ではオリンピックが終わっていて「過去の人」の葬儀についても報道する雰囲気になったからなのか、は定かではない。

 「歴史決議」と華国鋒氏の中国共産党主席退任により、完全にトウ小平氏を中心とする組織体制が確立した。翌1982年の党の決定及び全人代の決定において、党のトップは総書記である胡耀邦氏、国務院総理は趙紫陽氏、軍のトップである中国共産党軍事委員会主席にはトウ小平氏という体制になった。国家主席は1968年に劉少奇が失脚して以来空席だったが、外交儀礼上の国家元首としての役割は全国人民代表大会常務委員会委員長の葉剣英が担っていた(国家主席は1983年6月に復活する。復活後の初代の国家主席は李先念氏)。

 この体制は、党、国務院、軍のトップ、国家元首を全て別の人物が担う、という権力分散型の体制だった。これは、全ての権力が毛沢東に集中し、党と政府の役割分担が不分明だった文化大革命の時期に対する反省に立脚した体制で、この体制もひとつの「改革開放体制の原点」であった。しかし、この党と軍と国家元首の独立、という体制は、1989年の「第二次天安門事件」の経験を通じて、党内で論争が起きたときにそれを収拾できない体制だとして反省され、1990年代以降の江沢民体制においては、党のトップ、軍のトップ(中央軍事委員会主席)、国家元首(国家主席)の三職を一人の人物が独占する、という体制が復活した(現在の胡錦濤政権でも、権力が移譲される過渡期の時期を除き、これら三職の一人の人物による独占は続いている)。この体制はあたかも毛沢東時代が再現したように見える。このことも私が1989年以降は「改革開放体制の原点」が失われた、と考える理由である。党のトップと軍のトップと国家元首を一人の人物が独占する体制は、権力の相互牽制によるチェック・アンド・バランスが機能せず、「改革開放体制の精神」を体現していないからである。

 別の言葉で言えば、党・軍・国家のトップを分離していた1980年代の体制が「混乱が起きたときに収拾できない」という理由で反省され、一人の人間が独占する体制に戻ったということは、「中国共産党の指導」が大前提である現在の中国の体制においては、権力体制内部にチェック・アンド・バランス機能を求めること自体がそもそも無理であることを示しているとも言える。

 1982年9月1日~11日に開催された第12回中国共産党全国代表大会において、党規約が改正され、前年まで華国鋒氏が就いていた党主席が廃止され、中央委員会総書記という職が設けられ、党務を統括することになった。党全国代表大会に引き続いて行われた中央委員会第1回全体会議において、中央委員会の初代総書記には、それまで中央書記処総書記として実質的に党務を取りまとめてきた胡耀邦氏が就任した。また、この会議で、華国鋒氏の後任としてトウ小平氏が党中央軍事委員会主席に就任した。

 1982年11月26日~12月10には第5期全国人民代表大会第5回全体会議が開催され、憲法が改正された。この憲法改正により、人民公社が持つ経済主体としての性格と政治組織としての性格が分離されることとなり、1958年にスタートした人民公社制度は完全に解体された。これまでに述べてきたように、農村では農家各戸ごとに生産を請け負わせる「各戸生産請負制」が浸透してきており、人民公社は既に実質的に意味を失っていたからである。人民公社の解体、即ち「各戸生産請負制」の進展により、各農家の生産意欲は高まり、1980年代前半、中国の農業はそれまでになかった生産量の伸びを記録することになる。

 このようにして「文化大革命」時代の政策はひとつひとつ転換されていき、新しい「改革開放」の考え方に基づき、中国は新たなレールの上に完全に乗って、これから驚異的な経済成長が始まることになる。

 この当時、外国からの資金と進んだ技術を導入し経済成長の基礎を固めたいと考えていた中国と、膨大な人口を抱える市場としての中国に大きな魅力を感じていた日本の経済界の利害は完全に一致していた。このため、1980年代、日本と中国との関係は緊密の度を深めていく。

 そういう時代の1982年7月、私は中国との通商貿易を担当する職場に配属になった。私の最初の仕事は、同年9月、日中国交正常化10周年を記念して次々に中国を訪問する代表団のロジ(スケジュール管理等の事務的支援)だった。1982年9月だけで、政府関係では、安倍晋太郎通産大臣訪中、通産省事務次官訪中、鈴木善幸総理訪中があり、経済界では日中経済協会代表団の訪中があった(毎年9月の日中経済協会代表団の訪中は恒例行事)。総理訪中と同じ月に通産大臣と通産省事務次官が訪中するのは極めて異例のことだった。この月が日中国交正常化10周年という記念の月だったからであるが、今思えば、日本側・中国側ともに経済関係の日中交流に非常に熱い思いを持っていたことがこういう「集中豪雨的訪中」の背景にあったものと思われる。

 なお、私の業務は1982年9月は多忙を極め、この月の超過勤務時間(休日出勤も含む)は200時間を超えた。これは今でも私の超過勤務時間の月間記録であるが、当時24歳という若さだったからこそそれが可能だったのだろうと今でも思っている。

 ここで、当時の中国と日本との関係を理解する上で参考になると思うので、当時の私の仕事に関係する話を少し紹介することにしたい。

 中国では、改革開放政策が打ち出された翌年の1979年、「中外合資経営企業法」が制定され、外国企業が中国国内に投資を行って合弁企業を設立するための法的根拠ができていた。当時、多くの日本企業は、大きな未開拓の中国大陸市場に非常に魅力を感じていたが、中国における政治的環境が変化して、また「文化大革命」のような時代に揺れ戻ることを危惧しており、日本企業による中国への投資はすぐには進まなかった。そのため、日中両国政府は、外国企業からの投資をお互いに保護し合うことを内容とする「日中投資保護協定」の締結へ向けての交渉を行っていた。

 当時の日中間には、基盤となる二国間の国際約束としては、1972年の日中共同声明と1978年に締結された平和友好条約しかなく、経済関係の基盤となる条約がなかった。ある意味で、日本が幕末にアメリカと締結した「日米通商修交条約」に該当する条約すらなかった、と言ってもよい状態だった。そこで「日中投資保護協定」には、本来「通商修交条約」に盛り込まれるようなごく基本的なこと(最恵国待遇や相手国内での経済活動の自由の保障)も盛り込むことが想定されていた。もちろん、作られるべき条約は、幕末に日本が締結した「日米通商修交条約」のような不平等条約ではなく、日中双方が平等な立場で権利を主張できる双務的な条約とすべきものだった。

 「日中投資保護協定」は1988年8月27日に署名された。交渉は1980年代はじめから行われていたにもかかわらず、署名が1988年になったのは、交渉に時間が掛かったからであるが、交渉に時間が掛かった背景には、中国側の「資本主義的考え方」に対する警戒感があったからだと思われる。この時期の中国内部での改革推進派(トウ小平氏、胡耀邦氏ら)と保守派(陳雲氏、李先念氏、姚依林氏ら)との対立関係については、2010年1月に日本語版が出版された「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)に詳しい。「趙紫陽極秘回想録」によれば、趙紫陽氏自身は、改革は進めるべきだがトウ小平氏や胡耀邦氏が主張するほどのスピードで進めるのではなく、逐次段階を追ってゆっくりと進めるべきだと考えており、この時期自分(国務院総理だった趙紫陽氏)は改革推進派と保守派の間の「中間派」だと思われていた、と自ら語っている。

 1988年に署名された「日中投資保護協定」の全文は、下記のURLに掲げられている。

(参考URL1)経済産業省ホームページ「対外経済政策総合サイト」
「日中投資保護協定について」
http://www.meti.go.jp/policy/trade_policy/asia/china/html/investment_treaty.html

 この時期、中国側は、対外開放政策の方針の下、積極的に外資導入を計ろうとしていたが、私は中国関係の仕事をしていて、中国側関係者が話す言葉の端々に現れる中国側に残る「文革のしっぽ」を常々感じていた。例えば、いろいろな外資導入に関する文書の中で「資本利得」などという資本主義国では普通に使われる言葉を使おうとした場合、中国側が難色を示す場合があった。なまじ日本と中国は同じ漢字を使っているため「資本利得」といった言葉は中国語としても読めてしまうので、こういった「資本主義用語」をどこでどのように使うかについて、中国側は、中国側の国内で説明する際に非常に神経を使う必要があったためらしい。「外資を導入する」という大方針は既に決まっていたとは言え、やはり資本主義体制の日本と社会主義体制の中国とでは価値観も違うし、使う言葉も違っていたのである。

 この辺の事情について、中国の経済学者の呉敬璉氏(1990年代以降の中国経済の改革開放政策のブレーンの中心人物と言われる)は、2008年9月2日付けの経済専門週刊紙「経済観察報」とのインタビュー記事において、1980年代には経済活動を市場原理に基づいて調整することを「市場経済」と呼ぶことに対してすら一種の「はばかり」があり、当時は「市場経済」と呼ばずに「商品経済」と言い表していた、と述べている。

(参考URL2)「経済観察報」2008年9月2日アップ記事
「『呉市場』から『呉法治』へ(1)」
http://www.eeo.com.cn/observer/dajia/2008/09/02/112308.html

 この頃(1980年代前半)、中国国内では「改革開放はよいが、どこまで市場原理に任せるのか、社会主義的要素をどこまで残すのか」について、保守派と改革派の間で相当な論争があったのである。1982年7月~1984年9月、私は中国との通商貿易を担当する仕事をしていて「文革のしっぽ」のようなものがまだ中国にあることは感じていたのだが、「中国国内で改革派と保守派との間で論争が行われていた」とは全く知らなかった。中国国内の論争の実態は、外からは非常に見えにくいものだったのである。

 改革派の筆頭はトウ小平氏だった。トウ小平氏は、大胆に市場原理を導入することを主張していた。保守派の筆頭は、トウ小平氏とともに改革開放体制のスタートに寄与した陳雲副主席であった。陳雲氏は、改革開放政策のスタート時においてトウ小平氏を支持するとともに、古い革命幹部が高齢になってもなお党の決定に係わるのを防ぐことの重要性を指摘するなど、トウ小平氏の考え方に非常に近かった。1981年5月、陳雲氏が党中央に青年指導者の抜擢の必要性を提言する意見書を出した時、トウ小平氏は、「陳雲同志の意見について私は両手だけでなく両足も挙げて賛成だ」と述べたという(参考資料17:トウ小平秘録)。

 しかし、陳雲氏は、経済政策については、トウ小平氏とは異なり、保守的な考え方、即ち中華人民共和国成立直後の五カ年計画に基づく社会主義的計画経済が理想的な姿だとする考え方を持っていた。陳雲氏は、改革開放政策により市場原理による経済調整を導入するのはよいが、それはあくまで社会主義的計画経済の枠内における調整に留めるべきだと主張していた。市場原理による経済調整を鳥に例えて、鳥は計画経済というカゴの中においてのみ自由に羽ばたかせるべきだ、と主張したことから、陳雲氏のこの考え方は「鳥カゴ経済論」と呼ばれた。このトウ小平氏と陳雲氏の経済政策論争は、1980年代から「第二次天安門事件」を経て1992年にトウ小平氏が「南巡講話」により「やはり大胆に市場原理を導入すべき」と檄(げき)を飛ばすまで続いた。

 「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)によれば、この時期、国務院総理として改革開放政策の実施を陣頭指揮していた趙紫陽氏自身は、トウ小平氏、陳雲氏ともに尊敬する理論的指導者として、同等に敬意を持っていたと述べている。

 この当時、私が中国との関係する職場にいて常々感じていたもう一つの点は、中国側が「経済力が大きく異なる二つの国の関係において『平等』を求めることは、公正(フェア)ではない」という考え方に立脚している、という点だった。これはある意味で正当な考え方である。経済力が大きく異なる二者がハンデなしに対峙したら経済力の強い方に有利にことが運ぶことは明らかだからである。

 この点は、アメリカがよく主張する「各国は平等の立場で対応すべきだ。平等に扱うことこそが公正(フェア)なのだ。」という主張は実は正しくない、という点に通じる。アメリカは「平等こそ公正(フェア)だ」と主張することが多いが、アメリカ自身は、北アメリカ大陸のうち極寒の北部はカナダに譲り、南部の乾燥地帯はメキシコに譲り、中央部の温帯地域の最も農業に適していて石油等の地下資源の豊富な広大な地域を確保した上で「平等な扱いこそが公正(フェア)なのだ」と主張しているのである。こういったアメリカ式の主張は、実は「まやかしの公正(フェア)でしかない」というのが、中国の主張なのである。

 この主張は、現在でも中国の外交姿勢の基本的考え方のひとつである。二酸化炭素排出問題において、「現在の地球上の二酸化炭素増加の主な原因が先進国であるのに対し、これから発展しようとしている中国やインドに規制を掛けるのは公正(フェア)ではない」と中国が主張していることがそれを端的に表している。

 さらにこの当時私が感じた中国側の主張の中で重要な視点は、中国が外国によるコントロールに非常に強い警戒感を持っている、という点である。19世紀後半から新中国成立までの間、中国は列強各国により、鉄道、通信、基幹産業を支配され、自らの政策を自らの手で決定する能力を失っていた。中国は、そういった状態に戻ること極度に警戒している。経済の自由化は進めるが、それによって中国経済が外国政府や外国企業にコントロールされるような事態は絶対に避けたい、というのが中国側の基本的考え方である。この考え方は現在でも続いている。例えば、現在でも自動車などの主要産業における合弁企業において、外資側が50%を超えるマジョリティを採ることは認められていない。

 上に述べたように1988年に「日中投資保護協定」が署名された。「投資保護協定」は、お互いの国の企業や人が相手国で投資活動等の経済活動を支障なく行い、その経済活動のために投資した資金等が保護されることを約束する協定である。従って、外国企業や外国人であっても、経済活動をしている範囲においては、相手国内における自由な活動を認めるのが原則である。しかし、「日中投資保護協定」には以下の規定がある。

「日中投資保護協定」(議定書)第5項:
「いずれの一方の締約国も、投資を行うこと及び投資に関連する事業活動を行うことを目的として自国の領域に入国し及び滞在する希望を有する他方の締約国の国民の入国、滞在及び居住に係る申請に対し、自国の関係法令に従い、好意的な考慮を払う。」

 「好意的な考慮を払う」という文言は、おそらくは両国関係者の苦心の作であろう。「他方の締約国の国民の入国、滞在及び居住に対し、自国の関係法令に従い、自由を保障する。」と書けなかったところに中国との協定における「自由度」の規定の限界を感じることができる。

 私が初めて中国を訪問した1983年2月頃には、中国国内における外国人の行動範囲は「原則禁止、都市部など一部認められている範囲においてのみ自由」だった。外国人が自由に行動できる範囲は「開放区」と呼ばれていた。北京の市街地は「開放区」で、外国人でも自由に行動できたが、その範囲の西南の境は廬溝橋の西詰だった。1983年2月の北京訪問時、私は廬溝橋へ行った(当時は「抗日人民戦争博物館」はまだなかった)。廬溝橋を東から渡って橋の西側の端に行くと、そこには「外国人は許可なくこの先へ行くことを禁じる」という中国語・英語・ロシア語で書かれた標識があり、そばには外国人を監視するための人民解放軍の兵士が銃剣を持って立っていた。中国の一般住民は、その標識の下を自由に行き来していた。それを見て、私は当時の中国では外国人には行動する自由がないことを実感した。

(ただし、この後「開放区」は急速に拡大し、1984年頃には「広東省全体を開放区とする」「遼寧省全体を開放区とする」といった決定が相次ぎ、外国人の行動は次第に「原則自由、国境地帯や軍事施設周辺など特別な地域に立ち入る場合にのみ許可が必要」というふうに変わっていった)。

 また、この「日中投資保護協定」では、他の国との「通商修交条約」でよく規定される「最恵国待遇」に関する規定(第三国に与えられる待遇は協定締約相手国に与える(締約相手国を他の第三国より不利に扱わない)とする規定)もひとつの柱となっているが、議定書第3項に以下の規定があり、日中間の場合、この「最恵国待遇」には一定の「限界」があることを示している。

「日中投資保護協定」(議定書)第3項:
「協定第3条2の規定(注:最恵国待遇を定めた規定)の適用上、いずれか一方の締約国が、関係法令に従って、公の秩序、国の安全又は国民経済の健全な発展のため真に必要な場合において他方の締約国の国民及び会社に差別的な待遇を与えることは、『不利な待遇』とみなしてはならない。」

 この規定は「公の秩序、国の安全又は国民経済の健全な発展のため真に必要な場合」という名目が立てば、最恵国待遇を与えなくてもよい、と解釈できる。

(注)これらの規定については、中国側が都合がよい時に日本人あるいは日系企業に対して制限を掛けられる規定であると解釈することもできる。しかし、一方で、現在、入国ビザの発給については、中国側が日本人の入国については2週間以内の短期滞在ならばビザなし渡航を認めているのに対し、日本側は全ての中国人の入国に際してビザを求めている、といった片務的な対応を取っており、現状では、むしろ日本側の方がより制限的な措置を設けているケースがある点に留意する必要がある。

 上記の1980年代前半に私が中国との通商貿易関連の仕事をしていたことを通じて感じた中国側の基本的姿勢のうち後者の二つ(「状況が異なる二者の間では『平等=公正(フェア)』ではない」「外国(外国企業)によるコントロールは受け入れない」)は、現在でも中国の対外政策の基軸であり、中国と関係して行こうとする人は常に頭に入れておく必要がある点だと私は思っている。

以上

次回「4-1-2:改革開放政策下の1980年代の日中協力(私の経験)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/1980-88ec.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月 4日 (日)

3-5-7(2/2):「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第7節:「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(2/2)

 これまで述べてきたような外的環境の中、ついに1981年6月、第11期六中全会において「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」(「歴史決議」)が採択された。

(参考URL)「新華社」ホームページ「資料」のページ
「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」
(1981年6月27日中国共産党第11期中央委員会第6回全体会議で採択)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2002-03/04/content_2543544.htm

 この「歴史決議」は、次のような構成で成り立っている(項目の頭の番号と( )内の年号は、わかりやすいように私が付けたもの)

I. 建国以前の28年間の歴史の回顧(1921年~1949年)

II. 建国以来32年間(1949年~1981年)の歴史の基本的評価

 (1) 社会主義改造を基本的に完成させた最初の7年(1949年~1956年)

 (2) 全面的な社会主義建設を開始した10年(1956年~1966年)

 (3) 「文化大革命」の10年(1966年5月~1976年10月)

 (4) 歴史的な偉大な転換(1976年10月~)

III. 毛沢東同志の歴史的地位と毛沢東思想

IV. 団結して社会主義近代化強国の建設へ向けて奮闘しよう(まとめ)

 この決議の最初に「建国以前の28年間の歴史の回顧」が入ったのは、建国前の時期における毛沢東の評価を加えることにより、全体として毛沢東を肯定的に評価できるようにしようという陳雲副主席の提案によるもので、その提案にトウ小平氏が即座に同意したためという(参考資料17:トウ小平秘録)。

 まず「建国以前の28年間の歴史の回顧」では、毛沢東の指導により、中国共産党が日本軍との戦いに勝ち、国民党との間の国共内戦に勝利して、中華人民共和国が成立されたことを述べて、毛沢東の功績を讃えている。

 「社会主義改造を基本的に完成させた最初の7年」では、共産党と共産党の指導に基づく他の民主政党との協力(いわゆる「新民主主義」)によって、建国が進められたことが述べられている。

 「全面的な社会主義建設を開始した10年」では、毛沢東と中央・地方の少なくない指導者が「大躍進」と人民公社化運動の中で「左」の誤りを犯した、と指摘している。また、毛沢東は、1959年7月の廬山会議後、誤って彭徳懐を批判し、全党を挙げて誤って「反右傾化闘争」を展開した、と指摘している。そしてこの「大躍進」と「反右傾化闘争」の誤りにより、1959年~1961年に掛けて「生産の重大な困難を招き、国家と人民に重大な損害を与えた」としている(この時期、農業生産の減退等により数千万人単位の餓死者が出たことについては「第3章第2部第3節:大躍進政策と人民公社の成立」参照)。この時期について、この「歴史決議」では、「毛沢東同志に主要な責任があるが、しかしこの誤りを毛沢東同志個人の誤りとしてとがめることはできない」として党中央指導部全体にも責任があったことを明確に指摘している。

 「文化大革命」については「『文化大革命』の10年」の部分で明確に評価している。この「歴史決議」における「文化大革命の評価」をまとめると以下のとおりである。

○「文化大革命」は、党、国家及び人民に対して建国以来最も重大な挫折と損失を与えた。

○この「文化大革命」は、毛沢東同志が発動し、指導したものである。

○「文化大革命」の経緯が証明しているところを見れば、毛沢東同志が発動した「文化大革命」の主要な論点は、マルクス・レーニン主義に合致していないし、中国の現実とも符号していない。「文化大革命」における当時の我が国の階級の状況及び党と国家の政治状況に対する評価は、完全に誤りだった。

○「文化大革命」の全局面における長期間にわたる「左」の重大な誤りに対しては、毛沢東同志が責任を負わなければならない。ただ、毛沢東同志の誤りは偉大なプロレタリア階級革命家としての誤りであったと言うべきで、毛沢東同志は常に党と国家の欠陥を注意深く克服してきたが、その晩年における多くの問題について「文化大革命」の混沌の中で是非と敵味方の正確な分析ができなかったのである。

○毛沢東同志は、林彪反革命集団を粉砕する闘争で指導的役割を果たしたし、「四人組」が最高指導権力を奪取しようと野心を抱いた時もそれを阻止した。それは、後年、我々が「四人組」を粉砕するために重要な役割を果たした。

 続いてこの「歴史決議」では「歴史的な偉大な転換」の部分で、華国鋒氏についても次のように指摘している。

「華国鋒同志は、江青反革命集団を粉砕する闘争の中で功績があったが、その後『二つのすべて』という誤った方針をなかなか直さず、天安門事件を含む歴史上の誤った評価をした事件に関与した幹部の名誉回復を遅らせた。また、華国鋒同志は古い個人崇拝を維持すると同時に、自分に対する個人崇拝を作ろうとした。1977年8月の第11回党大会においては、『四人組』批判を掲げ、社会主義近代化を図ろうとしたのに、この華国鋒同志の誤りにより『文化大革命』の時の誤った理論や政策・スローガンを重ねて肯定してしまった。」

 この「歴史決議」の「毛沢東同志の歴史的地位と毛沢東思想」の部分では、「『文化大革命』の中で重大な誤りを犯したとは言え、一生を通じて見れば、毛沢東同志の中国革命における功績はその過失を大きく超えている。毛沢東同志は、功績が第一であり、誤りは第二である。」として全体としては毛沢東をプラスに評価すべきである、と指摘している。

 この「歴史決議」については、トウ小平氏が主体的に係わったとされる1957年の「反右派闘争」に対する批判が弱い、といった批判はあるものの、総体的に見れば、極めて客観的で、タブーを作ることなく、冷静に中国共産党の歴史を振り返り、現在の目で見ても自己批判すべきところは率直に自己批判していることは評価できると私は考えている(1957年の「反右派闘争」については「第3章第2部第2節:反右派闘争」参照)。この「歴史決議」の採択により、「文化大革命」に対して完全に「けじめ」が付き、改革開放路線の基本的考え方が党の決定として正式に確定した、と言える。

 この「歴史決議」を貫く精神は、毛沢東が繰り返し述べ、トウ小平氏が何回もそれを引用していた「実事求是」(事実に基づいて真理を追究する)だった。私が1982年7月~1984年9月、中国との通商貿易に係わる仕事をし、その後、1986年10月~1988年9月、北京に駐在していた1980年代の中国では、一貫してこの「歴史決議」の精神が底流を流れていたと私は思っている。個人崇拝を否定し、タブーなく議論し、誤りは率直に誤りだと認め、直すべき点は率直に是正する、それが「歴史決議」の基本理念、即ち「改革開放政策の原点」であり、1980年代の中国の底流にあった考え方だった(もっとも1980年代においても「『四つの基本原則(特に中国共産党による指導)』を否定すること」はタブーだったが)。

 2007年4月、私が再び北京で駐在を開始した時、この1980年代にはあった「改革開放路線の原点」が失われていることを強く感じた。端的に奇異に感じたのは、今の人民元のお札に印刷されている肖像が全て毛沢東であることである。「歴史決議」で確定した改革開放路線は、個人崇拝を否定し、毛沢東の誤りを認めたことから出発している。そのため、1980年代、当時まだ各地に残っていた毛沢東像は次々に撤去されていった。建国の功労者として毛沢東の肖像は天安門に掲げ続けられてきているが、それ以外の個人崇拝を助長するような毛沢東像は改革開放路線にそぐわなかったからである。

 従って、1980年代のお札では毛沢東像が使われることはなかった。1980年代に使われていたお札に印刷されていた肖像は、各民族人民や農民・労働者・知識分子といった一般人の肖像だった。誰でも知っている有名人の肖像でないと、「偽造をすぐに見破れないようにする」というお札に使うべき人物肖像に求められる機能から来る問題から誰もが知っている毛沢東の肖像を使った、ということなのだろうが、「改革開放路線=毛沢東がすべてだという『すべて派』の否定」という認識のある私にとって、現在のように「すべて」のお札に毛沢東の肖像が印刷されている状況は、改革開放路線の原点を否定しているかのように感じたのだった。

 さらに2009年10月の中華人民共和国成立60周年の式典の様子を伝えるテレビのニュースを見て、私は目を疑った(この時点では、私は既に2回目の北京駐在を終えて日本に帰国していた)。天安門前を行進するパレードにおいて、毛沢東主席、トウ小平氏、江沢民前国家主席、胡錦濤現国家主席の大きな肖像を掲げて行進が行われていたからである。それはまるでソ連時代のモスクワや北朝鮮のピョンヤンを思わせるような光景だった。あの近代化された1980年代から30年が経過した21世紀の中国の光景だとは思えなかった。トウ小平氏は、「歴史決議」で明確に指摘しているように、個人崇拝を否定していた。従って、トウ小平氏が生きていれば、こういった過去及び現在の指導者の大きな肖像を掲げてパレードを行うことなど許さなかったはずである。

 後に述べることになるが、個人崇拝は、江沢民政権になってから、中国共産党に対する求心力の「よりどころ」として徐々に復活させたものである。第二次天安門事件以降、毛沢東主席、トウ小平氏といった指導者のカリスマ性を用いなければ、中国共産党に対する「権威付け」をすることが難しくなったからである。現在の胡錦濤主席が個人崇拝についてどう考えているのかは明確ではない。

 また、2007年4月に私が2度目の北京駐在を開始した際にもうひとつ奇異に感じた点は、インターネットのアクセスにおいて「タブー」が存在していることである。北京オリンピックの開催を通じて、一時的にインターネットにおけるアクセス制限などはだいぶ緩和されたが、それでも今でもネット上では多くの「タブー」が存在している。最も象徴的なのは「第二次天安門事件」が、今、まだ完全な「タブー」となっていることである。この点は2010年3月にグーグル社が中国大陸部における検索事業から撤退したことで、改めて世界の注目を集めた。インターネットにおける「タブー」の存在は、「タブーなく議論し、誤っていたところは率直に正す」という「改革開放路線の原点」に反するものだと私は考えている。そういった状況を考えれば、中国が1980年代には確かに存在していた「歴史決議」の掲げた「改革開放路線の原点」から逸脱したのは、やはり1989年6月の「第二次天安門事件」がきっかけであることは明らかである。

 上に述べたように「改革開放路線の原点」、即ち1981年6月の「歴史決議」の根本精神は、「実事求是」(事実に基づいて真理を追究する)である。実は、それは現在の胡錦濤主席が掲げる「科学的発展観」と基本的には同じ考え方である。だから、私は現在の胡錦濤主席はこの「歴史決議」で示された「改革開放路線の原点」に回帰しようと努力している、と感じている。しかし、「『改革開放路線の原点』への回帰」は、「改革開放路線の原点からずれていた時代」、即ち江沢民氏が政権を担っていた時代に対する批判をも意味するから、江沢民氏の影響力がまだ相当に残っている現在の中国の政治状況においては、それはそう簡単なものではないと思われる。

以上

次回「4-1-1:具体化する改革開放政策とまだ残る『文革のしっぽ』」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-d9eb.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月 3日 (土)

3-5-7(1/2):「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第7節:「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(1/2)

 今節で述べる「歴史決議」とは、1981年6月21日に第11期中国共産党中央委員会第6回全体会議(第11期六中全会)で採択された「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」のことである。この決議は「文化大革命は誤りだった」と認め、毛沢東についても「その生涯の晩年において誤りを犯した」と評価し、中国共産党が自らの歴史の一部の誤りを認めるという画期的なものだった。この決議は、一連の改革開放路線決定の総まとめをしたものと位置付けられている。その意味では「歴史決議」は「歴史的決議」でもあるのである。

 私は、1982年7月に中国との通商貿易を担当する職場に着任したが、着任後、上司に真っ先に「読め」と指示された資料がこの「歴史決議」だった。この「歴史決議」を読まずして、その当時の中国を理解することは不可能だったからである。

 この「歴史決議」の採択に至るまでの流れをまず簡単に述べることとする。

 1978年12月18日~22日に開催された第11期中国共産党中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)で、企業や農業生産隊等の経営主体の自主性を重視するとともに外国との経済協力を進めるという「改革開放政策」が決められ、彭徳懐ら文化大革命に至るまでの一連の歴史の中で失脚した指導者の名誉回復が図られた。同時にこの会議では「毛主席が下したすべての決定を、我々は断固支持する。毛主席のすべての指示を、我々は終始一貫守る」という「二つのすべて」を主張し続けた華国鋒氏ら「すべて派」が批判された。「民主の壁」(北京の春)運動で示された一般大衆の声を背景とした党内からの圧力の下、最終的には華国鋒氏自身も自己批判した。トウ小平氏は、華国鋒氏を党中央主席、国務院総理の職に留めながら、華国鋒氏から実質的な権限を奪い、政治運営の実質的な決定権を握ることに成功した。しかし、この第11期三中全会では、文化大革命でトウ小平氏とともに攻撃のターゲットとなった劉少奇元国家主席の名誉回復はなされなかった。トウ小平氏が、この時点ではまだ周辺環境が整っていない、と判断していたためと思われる。

 この時期に復活した有力者の中に習仲勲氏(2007年10月の第17回党大会で党政治局常務委員に就任した習近平氏の父親)がいた。習仲勲氏は1978年4月に広東省党第二書記、翌年には第一書記となり、中央での改革開放政策決定を受けて、広東省での経済政策を進めた。広東省第一書記としての習仲勲氏の一番の悩みは隣接する香港との経済的ギャップの大きさだった。イギリスの植民地・香港は、イギリスから大きなインフラ投資を受けてアジアの重要な自由貿易港として大きく発展していた。隣接する経済発展の遅れた広東省との間では、香港へ逃れる密航者や香港との間の密貿易が後を絶たず、広東省政府にとって大きな悩みの種だった。

 1979年4月に開かれた党政治工作会議で、習仲勲氏は、当時「アジアの四小龍」と呼ばれて経済的発展の著しかった台湾、香港、シンガポール、韓国の現状を参考にして、外国からの投資を受け入れ、税制面での優遇を与え、加工貿易を行うための経済特別区の設置を提案した。既に改革開放路線は決定されていたとは言え、この提案は地域限定で「資本主義的なもの」を受け入れるものであり、会議では異論も出た。しかし、最終的にトウ小平氏が「なかなかいいアイデアではないか。」として、この提案を承認したという(参考資料17:トウ小平秘録)。

 習仲勲氏のアイデアは、翌1980年5月、広東省の深セン(センは「土」へんに「川」)、珠海、汕頭(スワトウ)、福建省の廈門(アモイ)の四つの「経済特区」を試験的に設けることとして正式に党中央の決定となった。この「経済特区」は、外資導入や税制面での優遇を行って加工貿易を主とする工場建設を進める経済特別区域のことを指すが、内陸の特区以外の地域との間の物資や人の流れをコントロールするために、「経済特区」と特区以外の地域の境界線には、あたかも国境線のようなラインが引かれ、そのラインを行き来する人には身分証明書(外国人の場合はパスポート)の提示が求められ、税関のような物資の検査も行われた。このため、「経済特区」と内陸地域との間のラインは、俗に「第二国境線」と呼ばれた(「経済特区」については次節で詳しく述べることとする)。

 農業分野では、1980年になると安徽省党書記の万里氏から、中央の決定を待たずに農民のアイデアで先走って進められていた各戸責任生産制が農業生産向上に有効であるとの報告がなされた(「第3章第5部第5節:改革開放と『四つの基本原則』で終わった『北京の春』」参照)。その他の地域からも同様な報告が相次ぎ、党中央においても、農家の意欲を引き出し、農業生産を高めるために農業における各戸生産責任制を採用すべきとの考え方に傾いていく。農業における各戸責任生産制は、農業は集団で行う、という毛沢東の理想を否定するものだった。

 「経済特区」の設定や農業における各戸責任生産制は、1960年代初期、劉少奇国家主席の下、トウ小平氏が主導して行った「経済調整政策」をさらに一歩踏み込んで進めるものである(「経済調整政策」については「第3章第2部第5節:『大躍進政策』の結果を受けた権力闘争」「第3章第2部第6節:『経済調整政策』に対する毛沢東の反撃」参照)。劉少奇が進めた政策を、今、党中央がさらに一歩進めようとしているのであるから、もはや劉少奇を批判の対象としていた根拠は完全に失われたと言ってよい。こうして1980年2月23~29日に開催された第11期中国共産党中央委員会第5回全体会議(第11期五中全会)において、ついに劉少奇元国家主席の名誉回復が決定された。

 この第11期五中全会においては、汪東興副主席をはじめかつて「すべて派」の有力者だった政治局委員が解任された。そして、この会議では、党中央書記処に総書記の役職が新設され、初代の総書記には胡耀邦氏が就任した。胡耀邦氏は総書記に就任するとともに党政治局常務委員となったが、同時に1975年10月から四川省党第一書記を務め1979年9月に政治局委員になっていた趙紫陽氏も党政治局常務委員に抜擢された。趙紫陽氏は、四川省第一書記時代、農業における生産自主権を下に降ろす「生産責任制」を大胆に進めて食糧増産に成功し、「メシが食いたければ趙紫陽のところへ行け」と言われていた。この業績をトウ小平氏が大いに評価し、趙紫陽氏の抜擢に繋がった、と言われている。

(参考URL)「新華社」ホームページ「新華資料」
「中国共産党第11期中央委員会第5回全体会議公報」(1980年2月29日)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/04/content_2548136.htm

 この会議でも華国鋒氏の党主席と国務院総理の地位は変わらなかったが、かつて「すべて派」と呼ばれていた華国鋒氏に近い人々はことごとく党中央から去り、華国鋒氏は完全に手足をもがれた格好となった。その華国鋒氏は1980年5月に中国の国務院総理としては初めての訪日を果たし、大平総理と会談を行った。この華国鋒氏の訪日に際して、日中科学技術協力協定が締結された。大平総理はその後行われた総選挙の選挙運動の最中に急死したが、華国鋒氏は1980年7月、大平総理の葬儀に参列するため再度訪日している。

(注)私は1980年4月に就職したが、その時の総理大臣が大平正芳氏だった。その大平総理の突然の死が、現職総理の死として、当時の日本の政界に大きな衝撃を与えたのを私はよく覚えている。

 既に孤立無援状態となっていた華国鋒氏は、1980年8月30日から開催された第5期全国人民代表大会第3回会議において、ついに国務院総理を辞任した。後任の国務院総理には趙紫陽氏が選出された。華国鋒氏は依然として党中央主席だったが、党の実務は実質的には中央書記処総書記の胡耀邦氏が掌握しており、華国鋒氏の「主席」の役職は名ばかりのものとなった。トウ小平氏は、こうして、文化大革命時代のような「解任」といった刺激的な策を採らず、真綿で首を絞めるように華国鋒氏から党と政府の実権を奪っていったのである。

 トウ小平氏は、これら劉少奇元国家主席の名誉回復、華国鋒氏ら「すべて派」からの完全な権力の奪取、実務的な改革開放政策の進展を通して、「文化大革命の否定」のための周辺環境を整えつつ、党の決定として文化大革命に対する評価(毛沢東に対する評価も含む)を明文化する「歴史決議」の策定作業を進めていくのである。

 1980年8月21日、イタリア人女性ジャーナリストのオリアナ・ファラチ氏がトウ小平氏に対するインタビューにおいて「中国人が四人組を語る時、五本の指を立てると聞いたが」と質問している。「五本目の指」とは、文化大革命を発動した毛沢東のことを指す。トウ小平氏は、笑いながら「毛主席の過ちと四人組の罪を区別しなければならない。毛主席は功績第一で、過ちは第二だ。」と答えたという(「参考資料17:トウ小平秘録」)。

 文化大革命に対する評価を定めるためには「四人組の罪」を確定する必要がある。そのため、林彪墜落死事件に関与した林彪の側近6人と「四人組」(江青、張春橋、姚文元、王洪文)に対する裁判が1980年11月20日から始まった(いわゆる「林彪・四人組裁判」)。この裁判では、1981年1月25日、江青と張春橋に死刑(2年の執行猶予付き、後に無期懲役に減刑)、姚文元に懲役20年、王洪文に無期懲役の判決が言い渡された。この裁判では江青らが喚(わめ)く場面がテレビで放映されたりした。政治的効果を狙った裁判だったと言えるが、江青が主張した「自分たちは毛主席の指示に従っただけだ」との主張は、ある意味では正しいものだった。

 この「四人組裁判」において毛沢東が裁かれなかったことについては、昭和天皇が裁かれなかった「東京裁判」と比較する人もいる。しかし「主体的な決定権限を持っていたか」という点においては、昭和天皇よりも毛沢東の方が大きな判断権限を持っていたことは客観的に言って明らかであろう。また、文化大革命の最後の半年、党を取りまとめ「第一次天安門事件」の処理に当たった華国鋒氏もこの裁判では裁かれなかった。「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、華国鋒氏については、この当時、「四人組裁判において華国鋒氏の責任や1976年4月の『第一次天安門事件』について触れない」ことと引き替えに、華国鋒氏が党主席を辞任するとの「政治的取引」が行われていた、という。

 いずれにせよ「四人組裁判」により、文化大革命の評価を定めるための「外堀を埋める作業」は全て終わった。

以上

次回「3-5-7(2/2):「歴史決議」~「文革は誤りだった」との正式な自己批判~(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-380e.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月 2日 (金)

3-5-6(2/2):改革開放政策決定前後の中国の外交政策(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第6節:改革開放政策決定前後の中国の外交政策(2/2)

 これまで述べたように、1970年代半ば、米ソ両国による平和共存路線「デ・タント」が進む裏で世界各地の発展途上国において米ソ代理戦争が起きていた。そうした中、アメリカでは、1977年1月、民主党のジミー・カーター氏が大統領に就任した。カーター大統領は、外交政策として「人権外交」を打ち出した。カーター大統領の「人権外交」は、「資本主義か社会主義か」という基準ではなく、「民意を反映した政府かどうか」という判断基準によるものだったため、選挙により社会主義政権が樹立された場合には、アメリカ政府はそれを承認せざるを得なくなった。このため、世界各地で、社会主義的な国や反米的な政権が次々と誕生した。一方、カーター政権の「人権外交」の推進は、ノーベル文学賞作家のソルジェニーチン氏を国外追放にするなど国内に人権問題を抱えるソ連政府を刺激した。こうしたソ連によるカーター政権への反発と世界各地での密やかな米ソ代理戦争の拡大は、「デ・タント」を崩壊に導いていく。

 こうした国際情勢を巧みに利用しようとしたのがトウ小平氏である。日本との間で「反覇権条項」の入った日中平和友好条約の締結に成功したトウ小平氏は、一方で、米国と国交正常化も急いだ。発展途上国の様々な国で社会主義国家や反米的な政権が誕生する中、発展途上国のリーダーとしての中国と接近することは国際戦略上重要だというアメリカの考えをトウ小平氏は有効に利用したのである。結局、中国は米中国交正常化に際しての合意においても「反覇権条項」を盛り込むことに成功する。中国の日本とアメリカとの国交正常化は、中国を国際社会に引っ張り出したという側面もある一方、中国が日米を巻き込んでソ連包囲網を完成させた、という側面もあったのである。

 前に述べたように、「改革開放政策」を決めた第11期三中全会が開催される直前の1978年12月16日、米中両国は1979年1月1日をもって国交を正常化することを発表した。米中国交正常化により、アメリカは台湾の政権との間で結んでいた米華相互防衛条約を破棄した。

 しかし、アメリカ議会は、台湾との同盟関係を全くゼロにすることはアメリカの安全保障上問題であると考え、1979年4月10日、「台湾関係法」を成立させた。「台湾関係法」は、国際条約ではなく、あくまでもアメリカの国内法であるが、台湾への武器供与を認め、アメリカ政府に台湾住民の安全がおびやかされた場合には適切な行動を求めるなど、あたかも台湾との間で安全保障条約を結んでいるかのような内容である。この「台湾関係法」は現在でも有効であり、中国は常々アメリカに対して抗議をしているが、アメリカ側は「台湾関係法」はアメリカの国内法である、として中国の抗議に取り合っていない。こうした関係があることが、日中関係と米中関係との決定的な違いである。

 米中国交正常化直後の1979年1月16日、イランでは親米的なパーレビ国王が国民による反体制運動の高まりに耐えかねて国外へ逃亡し、2月1日にはイスラム教指導者のホメイニ師が帰国してイラン・イスラム革命が成立した。革命で成立したイラン政府は反米であったが、親ソ連でもなかった。イラン・イスラム革命は、既に米ソ両国ともに世界各地において、その影響力が徐々に低下しつつあったことを象徴するできごとだった。

 全世界的なアメリカの影響力の低下の中、1979年12月24日、ソ連は親ソ連政権を守るためアフガニスタンに軍隊を侵攻させた。アメリカがイランで犯した失敗をソ連はアフガニスタンで繰り返したくなかったのである。しかし、結果的にこのアフガニスタン侵攻は後々ソ連自らの首を絞めることになる。また、この時アメリカは、ソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議し、ソ連に対抗するアフガニスタンのイスラム原理主義者を支援したが、それが21世紀に入ってから、逆にアメリカ自身に跳ね返ってくることになる。

 このソ連によるアフガニスタン侵攻に抗議して、アメリカは1980年のモスクワ・オリンピックをボイコットした。日本もアメリカに同調してボイコットした。中国は、それまでオリンピックには参加していなかったが、改革開放政策を打ち出し、モスクワ・オリンピックには参加する意向を示していた。しかし、ソ連によるアフガニスタン侵攻により、中国もアメリカや日本と同調してモスクワ・オリンピックをボイコットした。このことは、ある意味で、中国が日本やアメリカと「同じ側の国」になったことを示す象徴的なできごとだった(中国のオリンピック参加は、次の1984年のロサンゼルス大会からである)。

 いろいろな政策判断の局面において中国は日本やアメリカと「同じ側」に立つことが多くなったが、外交上の政策は独自に判断する姿勢は守り続けた。言葉を換えて言えば、中国は、国連に復帰し、日本やアメリカと外交関係を正常化することによって、むしろ国際社会の中で自由に自分の意志を主張する立場を得た、と言ってもよい。それを象徴するできごとが1979年2月に発生した中越戦争だった。

 1970年、当時ベトナム戦争を戦っていたアメリカが、カンボジア領内を通っていた北ベトナムから南ベトナム解放戦線への支援ルートを叩くため、カンボジアのシハヌーク殿下を追放して親米的なロンノル氏を政権に付け、カンボジア領内に侵攻したことは「第3章第3部第9節:ニクソンによる米中接近への動き」で述べた。かねてから中国と親しかったシハヌーク殿下は、ロンノル氏に政権を奪われてから、中国政府の庇護を受けていた。また、シハヌーク殿下は、反ロンノル派のクメール・ルージュ(カンボジア共産党)と行動を共にしていた。

 1975年3月、ベトナムにおける解放戦線の攻勢に合わせて、カンボジアでもポル・ポトが率いるクメール・ルージュが攻勢を掛け、4月17日、首都のプノンペンを陥落させ、親米派のロンノル政権は崩壊した。ポル・ポト政権は、原理主義的な共産主義政策を採り、都市の住民を農村部に強制移民させた。ポル・ポト政権は、貨幣経済を否定し、人々を農村共同体で作業させ、その政策に反対する者は徹底的に弾圧された。ポル・ポト政権下では、これらの弾圧や飢饉で百万人オーダーの人が死亡したとされているが、その実態は今でも必ずしも明らかではない。

 ポル・ポト政権による強圧的な原始共産主義政策は、それから逃れようとする大量の難民を生み出した。またポル・ポト派内部での闘争も相次ぎ、それらの闘争からも難民が大量に生まれた。これらの難民は隣国のベトナムへ流入した。ベトナム戦争が終わってようやくこれから経済建設を始めようとしていたベトナムにとって、カンボジアからの大量の難民の流入は脅威だった。ベトナムは、ポル・ポト派内部の闘争に敗れてベトナムに亡命して来ていたヘン・サムリンを先頭に立てて、1979年1月、カンボジアに侵攻した。ポル・ポト派はプノンペンから駆逐され、ヘン・サムリンがベトナムのバックアップのもとカンボジアの政権の座についた。

 この頃、既にシハヌークとポル・ポトは同一行動は取っていなかったが、中国にとってはポル・ポト政権は、インドシナ半島における重要な親中国政権だった。そのポル・ポト政権を追放し、インドシナ半島で影響力を拡大するベトナムに対して、中国は大きな警戒感を持った。

 1979年2月17日、中国は「ベトナムによるカンボジア侵攻を懲罰する」と称して、雲南省と広西チュワン族自治区から人民解放軍をベトナムに侵攻させた。そもそもベトナムは、ベトナム戦争末期に突如アメリカと急接近した中国に対して強い反感を持っていたから、この中国による侵攻に猛烈に反撃した。また、ベトナムは従来からソ連の支援を受けていたことから、この中越戦争は、中ソ対立がもたらした戦争、という側面もあった。

 当時の中国の人民解放軍はほとんど実戦経験がなかったのに対し、ベトナム軍は長年アメリカと厳しい戦いを続けてきており、実戦経験ではベトナム軍の方が圧倒的に勝っていた。また、ベトナムにはソ連から援助された武器・弾薬があったほか、かつて中国から供与されていた武器・弾薬も残っていたし、南ベトナム解放時に南ベトナム軍から接収した大量のアメリカ製の武器も保有していた。このため中国軍は相当の苦戦を強いられた。そうした中、軍事的には何ら得るものがないまま、中国は、3月6日、一方的に撤退を発表した。

 中国が一方的に戦闘を開始し一方的に戦争を終わらせたこの中越戦争の目的が何だったのかについては、現在でも疑問の点が多い。現在ネットワーク上で見られる中国の公式のホームページ上での歴史の記述で中越戦争について書かれているものは見掛けない。この中越戦争については、領有権が問題となっている南シナ海にある南海諸島の権益に関してベトナムを牽制するためだったという説、「すべて派」から実権を握ったトウ小平氏が軍の掌握を完全にするために国内の引き締めるのが目的だったとする説などいろいろあるが、いずれも説得力は弱い。

 当時、カンボジアのポル・ポト政権については、真相はよくはわからなかったものの、かなりひどいことをやっているらしい、という情報は世界に伝わっており、ベトナムがカンボジアに侵攻したことについては、国際社会からはそれほど大きな非難の声は上がらなかった。欧米各国は既にインドシナ半島情勢に対する興味を失っていたから、インドシナ半島内部での地域紛争にはあまり関心がなかったからである。それに対し、日本と平和友好条約を結び、アメリカと国交正常化を果たしたばかりの中国がベトナムに戦争を仕掛けた中越戦争に対しては、国際的には大きな批判の声が上がった。中国は国連の常任理事国であり、その大国が一方的にベトナムに仕掛けたこの中越戦争に、多くの国は「大義名分」を見い出すことはできなかったからである。中国側が発表した「ベトナムのカンボジア侵攻に対する懲罰」という理由は、国際社会には理解不可能だった。清の時代、ベトナムが中国を「宗主国」と仰いでいた頃を思わせるようなこの中国側の主張は、国際社会には時代錯誤であるかのような印象すら与えた。

 いずれにしても、この中越戦争では、中国側としても予想外に苦戦したと感じたのは事実のようである。この中越戦争の後、中国の軍関係者も人民解放軍の近代化の必要性を痛感するようになったと言われている。毛沢東が生きていた時代には、毛沢東は戦争は人民がやるものであって機械がやるものではない、という「人民戦争論」を主張し、人民解放軍の装備の機械化・近代化には否定的だった。しかし、近代的なアメリカ製の武器を使いこなすベトナム軍を目の当たりにして、中国の軍関係者も「人民戦争論」は既に過去のものであり、近代的な戦争においては、装備の近代化が重要であることを認識したのである。この後、トウ小平氏は、1980年代半ばに人民解放軍の要員数の大幅削減を決めている。トウ小平氏自身、軍備は兵士の数ではなく少数精鋭の近代兵器の設備が重要であることをこの中越戦争を通じて感じたためと言われている。

 この後、1980年代に入り、1981年6月に「建国以来の党の若干の歴史問題に関する決議」(歴史決議)において「文化大革命は誤りだった」という認識を決めて路線闘争に終止符を打つと、中国は国内経済の建設に集中するようになり、対外的に緊張関係を高めるような言動は避けるようになった。ソ連に対しても「覇権主義」といった批判は、次第にトーンダウンするようになっていった。

 「歴史決議」が出されてから約1年後の1982年7月、私は中国との通商貿易に関係する職場に配属された。その時、私に与えられた業務のひとつに「これからの中ソ関係がどうなるかについて部内に説明するペーパーをまとめよ」というのがあった。この時点で書いた「今後の中ソ関係について」というレポートは現在は手元に残ってはいないが、記憶をたどると、このレポートの結論として、私は以下のようなことを書いたと記憶している。

○過去の中ソ対立には次の要素があった。
・ソ連共産党と中国共産党との党レベルのイデオロギー的対立(農業集団化の手法等の社会主義の手法の違い、共産主義運動の国際化に対する認識の違い、個人崇拝に対する考え方の違いに基づく対立)
・協力を約束しながらソ連が原爆の模型と図面を中国に提供しなかったことに起因する政府と政府との対立
・長大な国境線を挟んで対峙する国家と国家との対立

○今後の中ソ関係の可能性については以下のとおり。
・1950年代のような中ソ蜜月時代が再現することはあり得ない。
・中国による対ソ批判が再燃し1960年代のような中ソ対立が復活することもあり得ない。
・党と党との関係についてはお互いに干渉しない関係となる。
・強い同盟関係になることはないが、案件ごとに協力すべきところは協力し、協力しないところは独自路線を歩む、という案件ごとに是々非々の態度で臨む「通常の国と国との関係」になる。

 1982年頃に私が書いたこのレポートの結論は、今振り返ってもそれほど間違いではなかった、と今でも思っている。

以上

次回「3-5-7(1/2):『歴史決議』~『文革は誤りだった』との正式な自己批判~(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-3f23.html
へ続く。

| | コメント (0)

2010年4月 1日 (木)

3-5-6(1/2):改革開放政策決定前後の中国の外交政策(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第6節:改革開放政策決定前後の中国の外交政策(1/2)

 ここで、中国が文化大革命の終了を宣言し、改革開放政策を決定した1978年~1980年頃の国際情勢について述べることにしよう。

 中国が1972年2月にアメリカのニクソン大統領の訪中を受け入れ、同年9月には日本との国交正常化を果たしたことは既に述べた(「第3章第4部第1節:ニクソン訪中」「第3章第4部第2節:日中国交正常化」)。

 文化大革命を否定し、毛沢東の指示がすべてであるとする「すべて派」の華国鋒氏から実権を奪ったトウ小平氏であったが、外交政策における「ソ連を非難する」という方針は、毛沢東が生きていた頃や華国鋒政権の方針をそのまま引き継いだ。中国は、1960年の決定的な中ソ対立の後、ソ連を「修正主義」としてイデオロギー面で批判し続けて来たが、1968年にチェコスロバキアへ軍事介入を行い、自分の勢力下の国々を武力で支配下に置こうとするソ連の態度が明確になると、中国は「社会帝国主義」「覇権主義」といった言葉を使ってさらにソ連を非難するようになっていた。

 トウ小平氏はこの「ソ連を非難する」という姿勢をそのまま引き継いだが、トウ小平氏のソ連批判の意図は、文化大革命時代とは若干異なっていた。文化大革命時代のソ連批判には次の3つの意味があった。

(1) スターリン批判に見られるような個人崇拝の否定への反発

(2) アメリカとの間で対立構造を作りつつ米ソ両国で世界を分割支配をしている現状に対する反発(それが明確になったのは1950年代末にソ連が中国に原爆の図面と模型の提供しなかったこと)

(3) ソ連が東欧諸国など自らの勢力圏の国々を武力による威嚇で支配下に置いていたことへの反発(特に1968年のチェコスロバキアへの軍事介入以降この反発は強まった)

 自分自身が個人崇拝に否定的なトウ小平氏にとって、(1)は既にソ連を非難する理由ではなかった。(2)と(3)はトウ小平氏の時代においても、なおソ連を批判する理由であり続けた。それに加えて、トウ小平氏には「ソ連との対立」を表面に出すことによって、ソ連と対抗する陣営、即ち、アメリカ、日本、西ヨーロッパ等からの経済的な支援を誘い出そうという意図もあった。これも「経済発展のためなら、何でも利用する」という現実主義的なトウ小平氏の考え方だった。

 日本との関係においては、中国は、1972年、ニクソン訪中の後、佐藤栄作総理の退陣を受けて、すぐさま新しい田中角栄政権との間で国交正常化を果たした。日中国交回復時の日中共同声明の第8項に「平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した」とあるので、日中関係の様々な関係の出発点として日中平和友好条約を締結する必要がある、と日中国交正常化の際には日中双方の関係者は考えていた。

(参考URL1)日本の「外務省」ホームページ
「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(1972年9月29日)
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_seimei.html

 第二次世界大戦時に戦争関係にあった各国との関係を清算するための条約は、サンフランシスコ講和条約であるが、サンフランシスコ講和条約は、中国に関しては、蒋介石政権との条約であり、共産党政権(中華人民共和国政府)との間でサンフランシスコ講和条約に相当する条約は締結されていなかった。中華人民共和国政府との間でもサンフランシスコ講和条約に該当する条約を締結する必要がある、という考え方もあったようであるが、1972年9月29日の「日中共同声明」では、戦争終結後の領土問題や賠償金問題についても言及しており、「日中共同声明」が講和条約の代わりをなすものであって、新たな講和条約は必要ない、との考え方が支配的だった。日本の外務省は後者の立場に立っている。

(参考)昭和53年(1978年)10月17日:参議院外務委員会における渋谷邦彦議員の質問に対する外務省条約局大森誠一局長の答弁(「国会会議録検索システム」より)

「○政府委員(大森誠一君) 日中平和友好条約というものは、先ほどアジア局長が述べましたように、日中共同声明第八項というものから双方がこの締結を約束し合ったというかかわりがございます。しかしながら、日中間の戦後処理、とりもなおさず平和条約的なもの、そういうものは日中共同声明で日中問の戦後処理の問題は最終的に解決済みである、こういうことにつきましては日中双方に全く見解の相違はないところでございます。したがいまして今回の日中平和友好条約というものは、その意味におきまして、いわゆる講和条約ないしは講和条約的性格のものでは全くないということははっきり申せるところでございます。」

 実際、日中航空協定、日中漁業協定など、実務上必要な政府間協定は、日中平和友好条約の締結を待たずに既に日中間で締結が進められていた。

 従って、日中平和友好条約は、日中関係の発展を象徴的に示す条約であって、条約としての実質的な意味はそれほど大きくはない、と考えられていた。このため、日中平和友好条約は、締結に当たって障害となるような事項はなく、すぐにも締結は可能であると日本側は考えていた。しかし、文化大革命が続いている間は、中国側は日本から経済協力を得ようという考えはなく、中国側にとっては日中平和友好条約を締結するインセンティブが必ずしも強くなかったので、条約締結交渉は国交正常化後すぐにはスタートしなかった。

 具体的な日中平和友好条約交渉は国交正常化から2年以上たった1974年11月から始まった。交渉は当初はそれほど難しくないと思われていたが、中国側が「両国は覇権主義を認めない」とするいわゆる「反覇権条項」を盛り込むことを主張したため、予想に反して交渉はすぐに暗礁に乗り上げた。「覇権主義」とは、中国が常々ソ連を非難する時に使っている言葉であり、これを日中平和友好条約に盛り込むことは、日中両国が「反ソ連」の立場で合意したと受け取られかねないため、日本としてはこの表現は受け入れがたいものだった。北方領土問題を抱え、ソ連とも一定の友好関係を維持したいと考えていた日本側は「覇権条項」を盛り込むことに反対した。

(参考URL2)「東京大学東洋文化研究所」-「田中明彦研究室」
「データベース『世界と日本』」-「日中関係資料集」
「日中平和友好条約交渉(第1回会談)」(1978年7月21日)
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/index.html
※この資料は情報公開法に基づき公開された外務省資料によるものである

 結局、この「反覇権条項」については、別の条項で「この条約は、第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」と規定し、日本側としては「反ソ連を意味するものではない」と主張できるようにすることで合意に達し、1978年8月12日に調印された。

(参考URL3)日本の「外務省」ホームページ
「日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/nc_heiwa.html

 なお、日中平和条約の調印を伝える1978年8月13日付けの朝日新聞の紙面では、7月24日、中国政府から北京の日本大使館に対して留学生派遣の申し入れがあったことを伝えている。この記事によれば、中国政府は「四つの近代化」の一つとして力を入れている科学技術振興の基礎づくりとともに、日中間の人的交流促進の一環として、日本への大規模な留学生の派遣計画をつくって日本側に打診してきた、とのことである。この留学生派遣計画は、全額中国側が負担し、最初はとりあえず500人規模でスタートし、逐次増員したい意向だったという。日中平和友好条約の締結をきっかけとして、日本との交流を拡大したいと考えていた当時の中国政府の意図を示すエピソードのひとつである。

 日中平和友好条約は、国会における批准手続き等を経て、1978年10月23日、東京において批准書の交換が行われた。この批准書交換式に出席するためトウ小平氏が初めて来日した。トウ小平氏は、批准書交換式に出席したほか、企業を訪問したり、新幹線に乗ったりして、精力的に日本国内を視察した。この当時から、日中間には尖閣諸島の領有権問題が存在していたが、尖閣諸島問題に対してトウ小平氏は「我々の世代には知恵が足りないのです。次の世代に委ねましょう。」と述べて、問題を先送りした。協力できるところから協力しよう、というトウ小平氏らしい現実主義的な考え方だった。この当時、大学三年生で既に中国語を少し勉強し始めていた私は、テレビのニュースで放映されるトウ小平氏の四川なまりのわかりにくい中国語を必死で聞き取ろうとしていたことを思い出す。

 日本訪問を終えて帰国したトウ小平氏は、これまで述べたように11月に開かれた中国共産党中央工作会議と12月に開かれた第11期中国共産党中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)で「改革開放政策」を決定させた。これにより、経済発展のために必要な場合は諸外国と協力するとの中国政府の姿勢が内外に示された。

 これらの動きを受け、翌1979年の12月に訪中した日本の大平総理は、中国に対する円借款などの経済協力を開始することを表明した。中国では華国鋒政権時代、外貨準備が足りるかどうかなどについての十分に実務的な検討を行わないままに外国からの大型プラント導入を次々に契約していた(トウ小平氏が実権を握ってから、これが「洋躍進」として批判されたことは「第3章第5部第1節:華国鋒政権下でのトウ小平氏の再復活」で述べた)。当時の中国には外貨を稼ぐための輸出産業は育っておらず、華国鋒政権時代の外国からの大型プラント導入契約はすぐに外貨不足をもたらした。華国鋒政権時代に締結された契約のいくつかは外貨不足のため契約が破棄されたが、中国にとって、経済建設のために外国から必要な機器や設備を導入する必要があることには変わりはなかった。この外貨不足時代に外貨を提供したのが日本による円借款等の経済協力だったのである。

 下記に述べるように、アメリカは1979年1月1日に中国と国交正常化したとは言え、議会内部に親台湾勢力も強く、本格的な中国への経済協力はできない状態だった。そのような中、日本による対中経済協力は、外貨不足の中国が「改革開放政策」に基づく経済発展を始めようとする際の「第一段ロケット」の強力な推進力となったのである。

(参考URL4)「在中国日本大使館ホームページ」
「日本の対中経済協力(概観)」
http://www.cn.emb-japan.go.jp/oda_j/summary_j.htm

 アメリカはニクソン大統領の強力なリーダーシップの下、1972年2月に大統領の訪中を実現させ、米中共同声明(いわゆる「上海コミュニケ」)を発表したが、アメリカ議会内部には台湾に近い勢力も多く、米中国交正常化交渉はなかなか進展しなかった。

 「第3章第4部第1節:ニクソン訪中」で述べたように、ニクソン大統領が中国と接近したのは、当時の中ソの対立関係を利用して、ベトナム戦争を有利に終わらせるためだった。北ベトナムと南ベトナム民族解放戦線の後ろ盾となっていた中ソ両国を切り崩す方策を採ったのである。このニクソン大統領の考え方と、中ソ対立の中で、ソ連を牽制するためアメリカに接近するのが得策だと判断した毛沢東・周恩来の考え方が一致したために、ニクソン大統領の訪中が実現したのだった。

 ニクソン大統領は、ベトナム戦争を有利に終わらせるため、中国に接近するとともに、ソ連との間でも戦略核兵器制限条約(SALT)交渉を通じて、米ソ共存の道を探っていた。ニクソン大統領は、ソ連にとってアメリカとの間で核軍備拡張競争を続けることは経済的負担が大き過ぎ、ソ連も核軍拡競争をやめたいと思っていることを知っていたのである。ニクソン大統領は北京を訪問した3か月後の1972年5月、モスクワを訪問し、ブレジネフ書記長との間で、初めての戦略核兵器制限条約(SALT-I)に調印した。

 ニクソン大統領はキッシンジャー補佐官を片腕として、こうして中国、ソ連と一定の接近を図りつつ、ベトナム和平交渉を進め、時に大規模な北爆を行うなどの強硬策も織り交ぜながら、1973年1月についにベトナム和平協定の調印にまでこぎ着けた。これによりニクソン大統領は、ベトナムから名誉ある撤退を果たす、という大きな政治的目標を達成した。

 中国との関係については、アメリカも日本が行ったのと同じ方式で米中国交正常化を行うことも可能だったが、米中国交正常化は台湾の蒋介石政権との間で締結されている米華相互防衛条約(日本との間の日米安保条約に相当する)を破棄することを意味し、アメリカの議会がそれを認める見込みはなかった。台湾はアメリカにとって、日本とともに、アジア地域における自由主義陣営を守るための重要な拠点だったからである。このため、米中国交正常化交渉は進展せず、そうしているうちに1974年8月、ニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任してしまった。米中関係の改善は1973年に北京とワシントンD.C.にそれぞれ連絡事務所を設置するなどしたが、それ以上は進まなかった。

(注)1975年、第2代在北京米国連絡事務所長としてジョージ・ブッシュ氏(第41代大統領(父親))が就任している。

 一方、ニクソン大統領は、ベトナム和平協定調印をひとつの契機として、世界各地に展開するアメリカ軍の段階的な削減と安全保障の現地化(いわゆる「ニクソン・ドクトリン」)を進めた。戦略核兵器制限条約(SALT)の交渉もさらに進め、アメリカとソ連はさらに「デ・タント」と呼ばれる平和共存の道を進んだ。この時期の「デ・タント」を象徴するのが、1975年7月に行われたアメリカのアポロ宇宙船とソ連のソユーズ宇宙船とのドッキング・プロジェクトだった。以下に述べるように、米ソ関係はこの後再び悪化するが、この1975年のアポロとソユーズのドッキング・プロジェクトが後にソ連崩壊後、国際宇宙ステーション計画にロシアが参加してくる伏線になっているのである。

 「デ・タント」の流れの中で、もはやアメリカが地域紛争に直接介入する可能性が少なくなった現状を捉えて、ベトナムでは、1975年3月、解放戦線側が大規模な攻勢を掛けた。1975年4月30日、南ベトナムの首都サイゴン(現在のホー・チ・ミン)が解放戦線軍の手によって陥落し、ベトナムにおける戦闘は最終的に終結した。

 アフリカでは、ポルトガルの植民地だったアフリカのアンゴラが、ポルトガルの撤退により1975年11月に独立した。この後、アンゴラでは3つの勢力による内戦が勃発したが、結局は共産主義政策を掲げるMPLAが首都ルアンダを確保した。また北部アフリカでは、エチオピアで1974年9月に皇帝ハイレ・セラシエ1世を退位させる革命が起き、社会主義政策を採る軍事政権が誕生した。新しく誕生したエチオピアの社会主義政権はソ連に支援を求めた。それに伴いエチオピアと対立するソマリアはアメリカに支援を求めるようになった。

 こうした例に見られるように、「デ・タント」の流れと世界各地からのアメリカ軍のプレゼンスの低下は、発展途上国における政治的な流動化を引き起こした。アメリカとソ連は、自国軍の本格的な派遣はしなかったが、各国の対立する勢力をそれぞれ裏から武器や資金の提供によって密かに支援することにより、1970年代半ば以降、アフリカや中南米において米ソの代理戦争が活発化していくことになる。

以上

次回「3-5-6(2/2):改革開放政策決定前後の中国の外交政策(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-ab90.html
へ続く。

| | コメント (0)

« 2010年3月 | トップページ | 2010年5月 »