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2010年4月11日 (日)

4-1-5(1/2):1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第5節:1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(1/2)

 1986年12月5日に始まった安徽省合肥市の中国科学技術大学学生の民主化要求の動きはすぐに南京や上海へも広がった。この学生運動が起きる少し前の1986年10月から私は1回目の北京駐在を始めていた。大都市の南京や上海で学生がデモを始めると、外国のメディアもこれに注目して記事を配信するようになった。当時、私は、新聞等で知り得た学生らの動きを本社へレポートしていたが、その資料は今は残っていない。ただ個人的に書き留めておいたメモは残っており、そのメモと記憶に頼って、その当時の様子を記してみたい。

 この当時の学生たちは「なぜ我々が住んでいる都市の市長を我々自身が選挙できないのか」「他の都市での学生の動きをなぜ中国の新聞やテレビは伝えないのか。我々は中国国内の他の都市の学生の動きをBBCやVOAの英語放送で知ったのだ。」といった主張をしていた。学生らの主張の中心は「一部地方政府幹部の腐敗反対」を呼び掛けるものであり、決して共産党による支配体制を批判することはしなかった。学生らも、何を主張すると当局を刺激するかをよく知っていたからである。

 私が記憶している当時の西側のメディアの報道によれば、12月中旬、上海で学生デモが発生した時、当時、上海市長だった江沢民氏が学生らの集会へ出向き、「腐敗幹部を批判する君たちの主張は理解できる。政府も腐敗幹部追放に全力を尽くす。しかし、デモを行っても問題は解決しない。冷静に考えて大学に戻って欲しい。」と説得したという。当時の学生運動の指導者たちは、上海市長自らが出てきて自分たちと話をしてくれたことに対して、一定の評価をしたという。この時の上海市長・江沢民氏の迅速な行動が、後にトウ小平氏に評価されて、1989年の「第二次天安門事件」の際、当時、まだ上海党委員会の書記(中国の市では市長よりも党書記の方が位が上)をしていた江沢民氏をトウ小平氏が中央に呼び寄せて趙紫陽総書記の後任として抜擢したひとつの遠因になったのではないかと私は考えている。

 この時に江沢民氏が学生たちに言った「君たちの行動は理解できる」という言葉と同じ言葉を、1989年5月、趙紫陽氏は使うことになる。これは後に「第二次天安門事件」のところで述べることになるが、しかし、趙紫陽氏のこの言葉は、趙紫陽氏自身が「私たちはここへ来るのが遅すぎた」と語ったことでわかるように、タイミングとしては遅すぎたのである。江沢民氏がトウ小平氏に抜擢されることになる理由は、その言葉の内容ではなく、タイミングを失しない対応の速さにあった。この「タイミングの速さ」の重要性は、現在の胡錦濤主席もよく承知している。

 胡錦濤主席は、2008年4月、欧米でオリンピック聖火リレーの妨害が起こり、学生たちの間で排他的な愛国主義的な動きが出ると、5月3日、突然北京大学に現れて講話を行った。5月12日に発生した四川大地震では、胡錦濤主席は、地震発生から1時間ちょっとたった時点で、まだ現地の状況が全くわからないにも係わらず、温家宝総理に現地へ飛ぶように指示した。6月に日本との間で合意した大陸棚ガス電開発問題で、ネット上に不満が噴き出すと、すぐさま自ら人民日報のインターネット掲示板「強国論壇」に登場し、ネットワーカーたちと対話を行った。さらに2009年7月、新疆ウィグル自治区ウルムチでウィグル族と漢族との間の対立から暴動が起こると、サミットに出席するためイタリアを訪問中だった胡錦濤主席は予定を切り上げて急きょ帰国している。現在の中国の指導者たちは、過去の経験に基づき、迅速な判断とタイミングを失しない行動が最も重要であることを身に染みて知っているのである(後に述べるように、1989年4月以降の動きに対しては、中国の指導部が迅速かつ的確に対応できなかったことが、結果的に悲劇を生むことになる)。

 この1986年12月中旬の上海市における学生のデモについて、中国中央テレビは「学生によるデモが行われた」という事実をプラスにもマイナスにも評価せずに伝えた(そのテレビニュースを私は北京で見た)。一方、「人民日報」では「安定と団結の政治局面を守り発展させよう」という異例の社説を1面に掲載した。こういった報道をしたのは「他の都市で学生デモがあったことを外国メディアを通じてしか知り得ない現状はおかしい」という学生たちの主張に一定の配慮をしたためと思われる。

 合肥に始まり、南京や上海へ広がった学生デモが、全国的なものになるのかどうかは、北京の学生がどう動くかに掛かっていた。当時北京にいた私は、NHK国際放送やBBC、VOA(ヴォイス・オヴ・アメリカ)といった外国のラジオの短波放送と中国国内の新聞・テレビ等しか情報源はなかったので、実態をよく把握していなかった。1986年12月24日付けの私のメモには、「上海の学生運動が北京清華大学に飛び火した」という「ウワサ」を耳にしたことを記している。しかし、私の行動範囲で見る限り、北京の街は平静だった。

 1986年12月31日、NHKのラジオ国際放送では、北京の大学生がデモを計画している、と伝えていた。1月1日は中国でも休日なので、私は1987年1月1日の午後、天安門広場へ出掛けてみた。この日はかなりの寒波が来ており、相当に冷え込んだ日だった。

 この当時、天安門前広場の周囲の天安門前を東西に走る長安街と、広場の東側の国家歴史博物館、西側の人民大会堂と広場とを隔てる道路には横断歩道があり、人々は道路を渡って東西南北から自由に広場に入ることができた。現在の天安門前広場には周囲に柵があり、周囲の道路から広場へ入るには、いくつかの地下道をくぐって入るような構造になっている。このような形に改造されたのは、地下道を封鎖すれば人々が広場の中へ入ることを簡単に制限できるからである。このような天安門広場の周囲における柵の設置と広場へ出入りする地下道による制限は、1989年の「第二次天安門事件」の後に行われたものである。また、今は、天安門広場の中心にある人民英雄記念碑の回りにも柵があり、警備員が警備しているので、一般人民が人民英雄記念碑の根本に行くことはできないが、当時はそういった柵がなかったので、誰でも人民英雄記念碑の近くに行くことができた。人民が人民英雄記念碑のすぐ下へ行ってかつての「人民英雄」に思いを馳せることができない、というのが「第二次天安門事件」の後の中国の情勢を端的に表していると言える。

 1987年1月1日午後3時過ぎ、私が天安門広場へ行ってみると、凍えるような冬場の曇天の下、天安門前広場の周囲には、数メートル間隔で深緑色の制服を着た人々が並んで、誰も広場の中へ入れないように規制が行われていた。私は、中国官憲の制服に詳しくないので、天安門広場で人民を入れないように規制していた深緑色の制服を着た人々が人民解放軍の兵士なのか武装警察なのか一般の公安(警察)なのか区別がつかなかったが、いずれにせよ天安門広場は完全に当局によって「制圧」されていた。これらの深緑色の制服を着た人々は銃などの武器を持っているようには見えなかった。もちろん、寒いので分厚いオーバーコートを着ていたので、オーバーコートの下に武器を持っていたのかどうかはわからない。

 後で聞いた話では、この日(1987年1月1日)昼過ぎ12時半頃、少数の学生が天安門広場でデモをやったととのことである。そのことはその日の夜のNHK国際放送やVOAのニュースでも伝えられた。それと、私が驚いたのは、前々日(1986年12月30日)に始まったばかりの中国中央電視台総合チャンネルの「英語の時間」(22:10~23:30頃)の冒頭にあるニュースの時間で、北京で学生によるデモが行われたことを伝えていたことだった。

 私は、天安門前広場に到着した後、あたかも何も知らない観光客のように首からカメラを提げて、「腰溜め」の状態で、この時の天安門広場の様子を撮影した。さすがに警備陣や周囲に集まった人々をカメラを構えて撮影するのは危険すぎると判断したからである。この時撮影した写真は、歴史の断片を撮影した貴重な写真だとは思うが、こういった写真を撮影しようという行為は時によっては身に危険が及ぶ可能性があり、今思うと、ちょっと無茶なことをしたと思う。

 私が天安門前広場へ行った時には、上述のように天安門前広場の中へは入れないように警備が行われていたが、回りには一般の人々が集まっていた。しかし、私が行ったときに広場の中心にいた人たちは、デモをやろう、と集まっていたのではなく、私自身と同じように、何が起こるのか見てみよう、という「野次馬」的な人たちばかりであったことは様子を見ればすぐにわかった。「第二次天安門事件」が起こる前の1980年代においては、警備人員がデモ等を行う人々に対して発砲する、などということは誰も考えていなかった。だから、多くの「野次馬」が危険を感じることなく集まっていたのである(私もその一人だったのだが)。デモをやろう、と考えて天安門前広場へ行った人たちは、私が行ったときには、既に解散させられていたのであろう。

 天安門前広場への行き帰りの途中、街中のデパートや郵便局などに「安定団結の政治局面を維持しよう」「新しくできた治安処罰条例を守ろう」といった赤地の布に白字を染め抜いたスローガンが掲げられていた。この時の運動に対し、「人民日報」や中国中央電視台のテレビでは、デモを行う学生らを非難するような論調はなかったが、「新しくできた治安処罰条例を守ろう」といったスローガンは、人々を威圧するのに十分だったのだろうと思う。1月1日に天安門前広場で少数の学生がデモを行った、と伝えられた後、北京やその他の都市で学生らがデモを行ったというような報道は、中国国内のメディアでも外国のメディアでもなされなくなった。

 これからどうなるのだろう、と多くの市民が思っていた矢先の1987年1月6日、人民日報は「旗幟を鮮明にしてブルジョア自由化に反対しよう」という社説を掲載した。この社説では、「ブルジョア自由化(中国語では「有産階級自由化」)」とは、「社会主義を否定し、資本主義を主張することである」と定義していた。多くの市民は、人民日報が掲げる「旗幟を鮮明にして」という言葉は、歴史的経験に鑑みて、中国共産党の断固たる意志を示す言葉だ、ということをよく理解していた。なお、後に述べるが、人民日報の社説における「旗幟を鮮明にして」という言葉は、「第二次天安門事件」の運動が始まった後の1989年4月26日、「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対しよう」という形で再び使われることになる。しかし、1987年1月6日付けの「人民日報」社説では「動乱」という言葉は使われていなかった。

 そして、それに続いて意外な事態が起きた。1987年1月16日、中国共産党拡大政治局会議が開催され、党のトップである胡耀邦総書記自らが辞任を申し出たのである。胡耀邦総書記の辞任の申し出は承認され、後任の総書記代行として趙紫陽氏が選出された(趙紫陽氏の総書記への正式な就任は同年10月末に開催された第13回党大会で行われた)。趙紫陽氏の後任として李鵬氏が総理代行となった(李鵬氏の正式な国務院総理就任は、1988年3月末の第7期第1回全人代で決定された)。胡耀邦氏は、総書記は辞任したが政治局委員としての立場には留まった。従って、形式上「失脚した」というのは正しくないが、1981年6月の第11期中国共産党中央委員会第6回全体会議(第11期六中全会)で、華国鋒氏が党主席を辞任し、政治局委員に留まった前例に鑑みれば、胡耀邦氏が「完全に実権を失った」ということは明らかだった。

 胡耀邦氏は、トウ小平氏が次世代を任せる人物として早くから抜擢して活躍させていたいわばトウ小平氏の「懐刀」であったことから、学生運動の広がりを見て批判を強めた保守派勢力に押されて、トウ小平氏が泣く泣く胡耀邦氏を辞めさせた、いわば「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」決定だった、という見方が当時あった。

(注)「泣いて馬謖を斬る」とは、諸葛孔明が軍律に違反して敗れた信頼する部下の馬謖を、周囲の将軍の助命嘆願を退けて、規律を守るために斬罪に処した、という三国演義に出てくる故事である。

 この件について、1年後の1988年1月の時点で「1987年の回顧」として私が本社向けの報告として書いた文章の中にある私の見方を書いておこう。

「1987年の中国は1月1日、天安門前広場における学生たちの『民主化要求デモ』によって始まった。このデモは、中国の激動の一年を予想させたが、結局その直後の1月16日に胡耀邦氏の中国共産党総書記の辞任があったものの、終わってみれば、それ以外は何もなく既定の路線が続いただけだった。当の胡耀邦氏にしても総書記は辞任したものの、今もって中央政治局員の職は続けており、10月の党大会ではトウ小平氏や趙紫陽氏と並んでちゃんとヒナ壇に座っていた。『胡耀邦の党総書記辞任!』というまことにハデな刀のひと振りによって、学生たちはとたんにシュンとなってしまったし、開放政策に不満の保守派の人々も反撃する糸口がなくなってしまった。

 右と左で騒ごうとしていた連中が両方とも静かになったので、主役は堂々と今までと同じ道を何事もなかったように歩き続けたのである。トウ小平氏の役者振りは『お見事!』というほかはない。」

 つまり私は、当時、トウ小平氏が保守派に押し切られて泣く泣く胡耀邦氏を辞めさせたのではなく、学生たちと保守派の両方を黙らせるために自らのイニシアティブで発動した「ショック療法」だったと考えていたのである。この考え方は、今でも変わっていない。「参考資料17:トウ小平秘録」の中で著者の伊藤正氏も同様の見方をしている。

 当時、一部の西側のメディアには、国務院総理の趙紫陽氏が意見の異なる胡耀邦氏を追い落とすように暗躍したのだ、という見方もあったが、私は当時から「そんなことはあり得ない」と思っていた。趙紫陽氏のそれまでの、及びそれから後の言動を見れば、趙紫陽氏は胡耀邦氏の路線(改革開放方針の推進)と同じベクトルを目指していたことは明らかだからである。趙紫陽氏自身は、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)の中で、胡耀邦氏の解任は趙紫陽氏が画策したものという見方を、真っ向から否定している。

 ただ、胡耀邦氏辞任(実質的な解任)は、確かにトウ小平氏の「お見事なショック療法」ではあったが、自らの後継者と頼んでいた胡耀邦氏を切らざるを得なかったのはトウ小平氏にとって痛手だったのは間違いない。後任の総書記となった趙紫陽氏は、実務官僚タイプの政治家で、政策実務を取り仕切る国務院総理にはうってつけの人物だったが、思想を統括し、派閥争いをまとめる党のトップには向いていない人物だった。少なくとも私はそう思っていたし、多くの人もそう思っていたはずである。「趙紫陽極秘回想録」の中で、趙紫陽氏自身、自分は党総書記には向いておらず、ずっと国務院総理を続けたと思っており、実際、胡耀邦氏解任を決める過程で行われる会議において「自分は総書記代行として適任ではないから、私よりふさわしい人物を早く見つけてもらいたい。」と発言した旨述べている。

 当時、私は胡耀邦氏の辞任(実質的な解任)は、世の中をビックリさせる「ショック療法」だと思っていたが、「趙紫陽極秘回想録」によれば、これまで書いてきたようにトウ小平氏はかなり以前から胡耀邦氏の自由奔放な言動を問題視しており、胡耀邦氏はいずれ解任されると思われその時期が2、3か月早まっただけだ、と趙紫陽氏は考えていたという。

 トウ小平氏は、保守派の主張を退け、改革開放路線を継続するために、胡耀邦氏の後任には、保守派ではなく、胡耀邦氏と同じ改革開放派の趙紫陽氏を充てるほかはなかったのである。趙紫陽氏の後任になるべき改革開放派の総理候補はおらず、結局保守派の李鵬氏が総理代行となった(1年後の1988年3月の全国人民代表大会で正式に総理に就任)。この時の人事が、結果的に1989年の悲劇を生むことなるのである。

以上

次回「4-1-5(2/2):1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/1986-0d1a.html
へ続く。

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コメント

初めまして。中国の歴史を調べている大学生です。
私が加入している経済サークルの研究テーマとして、中国の共産党支配における資本主義導入期、を現在扱っています。
このサイトは大変参考になり、よく訪問させてもらってます。

この回では、トウ小平氏の政治決断を「ショック療法」と名付け、頻繁にこの言葉を用いていますが。
これはナオミ・ケイリン著「ショック・ドクトリン」を意識しての事でしょうか。

ショック・ドクトリンでは第二次天安門事件を、チリのピノチェト将軍によるクーデターと重なる部分が多いと主張していますが
ブログ主様はショック・ドクトリンの内容に関してどのような評価・感想をお持ちでしょうか。

投稿: シュレジ | 2015年10月17日 (土) 17時24分

 コメントありがとうございます。

 恥ずかしながらコメントを頂くまで私は「ショック・ドクトリン」という概念について知りませんでした(今、あわててウィキペディアで「ショック・ドクトリン」とはなんぞや、を調べました)。この回の発言で、1987年1月のトウ小平氏による胡耀邦総書記の事実上の解任の判断について、私が「ショック療法」と複数にわたって書いたのは、私が北京駐在時に前年の出来事について書いて東京の本社宛に送った「1988年年頭所感」と題する1988年1月7日付けのメモの中に下記のような記述があり、その延長線上としてこのブログを書いたからです。

(1988年1月7日付けの北京で書いた私のメモ)
「胡耀邦氏の辞任は、ショックの割には、政策や路線にはほとんど影響がなかった。要するに、熱気にはやる学生たちに冷水を浴びせるのが目的だったのである。その目的は完全に達成された。」

 従って、ウィキペディアによれば、「ショック・ドクトリン」とは、カナダのジャーナリストであるナオミ・クライン氏が2007年に出版された本の中で指摘した概念、とのことですので、書いたタイミングからしても「ショック・ドクトリン」と私が使った「ショック療法」とは全く関係はありません。

 ウィキペディアの解説によれば「ショック・ドクトリン」とは、「社会的に危機的な状況によってのみ真の改革は進む」とする考え方のようですが、少なくとも、私は、トウ小平氏が「改革を進めようと考えてあえて社会にショックを与えるために胡耀邦氏を解任した」とは考えていません。

 トウ小平氏の考え方は一貫して「経済的には市場経済的要素を導入するし、文化面や考え方の面で西側のものを導入しても構わないが、政治体制としては『中国共産党による指導体制』を揺るがせてはならない。なぜなら、文化大革命の経験を踏まえれば、政治的動揺は、中国の経済的発展に必ずマイナスになり、それは『人民生活の向上』と『国際社会における中国の地位向上』という最終的政治目的に反するからだ。」というものだったと思います。従って、トウ小平氏は、総書記とは言えども「中国共産党による指導体制」を揺るがす可能性のあった学生運動に甘かった胡耀邦氏には辞めてもらうしかない、と考えたのだと思います。

 トウ小平氏は、学生らを黙らせるための「ショック」として胡耀邦解任を行ったのであり、胡耀邦氏解任を経済改革を進めるために行ったのではないことは明らかなので、トウ小平氏の胡耀邦解任の判断は、ナオミ・クライン氏の指摘した「ショック・ドクトリン」とは全く関係ないと私は考えています。

 なお、社会の変革には様々な形態があり、日本の明治維新、1980年代末以降の韓国や台湾の軍事独裁体制から民主的体制への変遷、1989年~1991年のソ連・東欧諸国の変化(大量の流血のあったルーマニアは除く)などの例があり、「真の改革」のためには社会の危機的大混乱が必ず必要である、との考え方には、私は同調しません。

投稿: イヴァン・ウィル | 2015年10月17日 (土) 18時31分

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