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2010年4月12日 (月)

4-1-5(2/2):1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第5節:1986年末の学生運動と胡耀邦総書記の解任(2/2)

 トウ小平氏は、なぜ「第三世代」の筆頭であり次世代を任せる人物として自ら登用してきた胡耀邦氏を切ったのであろうか。

 「第3章第4部第5節:『四つの近代化』の提唱と水滸伝批判」で述べたように、胡耀邦氏は、文化大革命の末期、トウ小平氏の支持に基づき、1975年には中国科学院の状況を調査して、自由な発想に基づく科学研究の重要性を指摘している。また、胡耀邦氏は、トウ小平氏が文革路線から改革開放路線への大転換を図ろうとするに当たって、1978年の改革開放政策決定時には党の組織部長として「民主の壁」(北京の春)の運動により華国鋒氏ら「すべて派」の勢力を削ぐことに力を注いでいた。党総書記になってからの豪放磊落な胡耀邦氏の言動を見る限り、胡耀邦氏は、いわゆる「百花斉放」「百家争鳴」という言葉で表現される自由闊達な議論が進歩を生む、と考えていたようである。

 トウ小平氏も、経済に関しては、集団によるコントロールを最小限にし、各個人の意志を尊重することによってインセンティブを引き出すことが発展につながる、という点では、胡耀邦氏とは考え方は違っていなかった。トウ小平氏が目指した目標は、中国の人民を貧困から脱却させ、中国を外国の言いなりにならない、自らの意志で自らの政策を決定できる自立した国にすることだった。トウ小平氏は極めて現実的な感覚の持ち主だったから、国際政治の中で中国が十分な発言権を持つためには、まずは国として一定の経済力を持つべきだ、と考えていたと思われる。アメリカが国際社会で大きな発言権を持っている背景には、巨大な軍事力とともに、アメリカが経済的にも世界をリードしている現実があったことをトウ小平氏はよく理解していた。

 だから、トウ小平氏は、中国の人民を貧困から救うことと中国を世界の中で自立した国にすることの両方の目的を達成するためには、とにかくまずは中国全体の経済力を高めることが最優先課題であると考えていた。トウ小平氏の頭の中には、将来的な課題として政治的自由化の必要性も認識していたと思われるが、文化大革命時代の政治闘争の苦しい経験を持つトウ小平氏は、経済が未発達な段階で政治論争を行うことは、国内を混乱させるだけであり、中国経済の発展を妨げるものである、と考えていたと思われる。中国の経済が一定のレベルになれば、次のステップとして政治体制改革も検討課題になるだろうが、それはおそらく自分が死んだ後のかなり遠い将来の話だ、とトウ小平氏は考えていたに違いない。

 しかし、トウ小平氏より一世代若い胡耀邦氏は、経済が一定程度成長した後に来るであろう政治体制改革の時代は、自分が生きているうちに到来すると考えていた可能性がある。特に自分の出身母体である中国共産主義青年団のメンバーである青年たちが社会の中心になる頃には、政治体制改革も重要なテーマになると考えていたと思われる。従って、政治体制改革については、今すぐ何か実現できるわけではないにしても、将来に起こるであろう次のステップのための準備として、青年たちが議論すること自体は否定すべきではない、と胡耀邦氏は考えていたと思われる。

 こういった胡耀邦氏の考え方は、保守派の人々からは「中国共産党による支配体制を揺るがしかねない危険な考え方」と見られていたようだ。一般には、1986年12月に起きた学生運動の動きに胡耀邦氏は同情的な態度を示し、そのことが保守派から反発を受けた、と言われている。しかし、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)によれば、社会の安定のためには「四つの基本原則」の堅持が絶対的に必要だと考えていたトウ小平氏は、学生運動が起こるかなり前から、自由奔放な言動を繰り返す胡耀邦氏を「党の総書記としてはふさわしくない」と考えていた。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、1986年12月30日、トウ小平氏は、胡耀邦氏、趙紫陽氏、万里氏、胡啓立氏、何東昌氏(国家教育委員会副主任)と会談した。

 この日の会談で、トウ小平氏は下記のような態度を取ったという。

・学生運動に同情的だった中国科学技術大学副学長の方励之氏と作家の王若望氏を、社会主義及び共産党に反対するものとして糾弾した。

・王若望氏についてはトウ小平氏は以前から党から除名すべきだと指示していたのに胡耀邦氏は除名しなかった、として胡耀邦氏を糾弾した。

・学生デモに関しては、厳格な手段を用いて(たとえそれが独裁的な手法を使うことになったとしても)沈静化を図るよう提案した。

・学生デモが起きた責任はすべて胡耀邦氏にある、と断言した。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、上記のトウ小平氏の発言は直ちに印刷され、行政の様々なレベルに配布され、多くの人々が知るところとなった、とのことである。この時のトウ小平氏の判断が1987年1月1日における天安門広場の当局による「制圧」や1月6日付けの人民日報の社説「旗幟を鮮明にしてブルジョア自由化に反対しよう」に繋がったものと思われる。

 中国共産党総書記は胡耀邦氏であったが、やはり全てはトウ小平氏が決めていたのであった。トウ小平氏は、ソ連に見られるような「老人支配」の危険性を認識しており、「第二世代」の古参幹部の政治への口出しをやめさせ、政治の実権を胡耀邦氏ら「第三世代」に移管させなければならない、と考えていたが、実際は結局は全てのことを「第二世代」であるトウ小平氏自身が決めていたのだった。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、1987年1月4日、トウ小平氏の自宅に、陳雲氏、万里氏、楊尚昆氏、薄一波氏、王震氏、彭真氏、趙紫陽氏が集まった。そこで胡耀邦氏からトウ小平氏あてに出された辞表が示された、という。この会議で、トウ小平氏は、胡耀邦氏が党総書記を辞任した後、この年の秋に開催される予定の第13回中国共産党全国代表大会までの間は、趙紫陽氏、薄一波氏、楊尚昆氏、万里氏に党政治局常務委員会の運営を任せると提案した、という。趙紫陽氏は、これに胡啓立氏を加えることを提案し、トウ小平氏も同意したため、彼ら5人が「五人小組」として、秋の党大会までの間、政治局常務委員会の運営にあたることになった。

 この日、李先念氏(当時は国家主席)は上海におり、この会合に参加しなかった。李鵬氏、姚依林氏はこの会合に呼ばれなかった。「趙紫陽極秘回想録」では何も語られていないが、これら三人は「保守派」であり、この三人を「小組」の外に置いたのは、胡耀邦氏を辞任させたとは言え、トウ小平氏は、保守派に党の実権を握らせる考えはなかったからではないかと推測される。

 1月10日~15日、6日連続で党組織生活会(党員が自らの行動を披露し、批判したり、自己批判したりする会合)が開かれた。「趙紫陽極秘回想録」によれば、この党組織生活会にはトウ小平は出席しなかったという。この党組織生活会は、長老の一人である薄一波氏が議長を務め、トウ力群氏、余秋里氏らが胡耀邦氏を批判する演説を行った。「趙紫陽極秘回想録」で、趙紫陽氏は、余秋里氏について、以前から胡耀邦氏とは個人的に親しかったのに胡耀邦氏を激しく非難する演説を行ったことに対し、「いつもは誠実そうだが、いざという時になると、自己保身のために他人の足を引っ張る人物だということを自ら露呈した」と語っている。しかし一方で、「趙紫陽極秘回想録」では触れていないが、趙紫陽氏自身、この党組織生活会で胡耀邦氏を批判する演説を行っているという(参考資料17:「トウ小平秘録」)。

 趙紫陽氏は、「趙紫陽極秘回想録」の中で、この時の党組織生活会における胡耀邦氏の様子について、「組織生活会の最後に胡耀邦は自己批判の演説を行い、重大な政治的過ちを犯したことを認めた。演説の終わりには感情が高ぶり、人目もはばからず、しくしくと泣きはじめた。」と語っている。

 「第4章第1部第3節:中国指導部内部での路線闘争とイギリスとの香港返還交渉」で述べたように、「趙紫陽極秘回想録」によれば、この党組織生活会の最終日の1月15日、胡啓立氏は、彼が1984年6月28日にトウ小平氏と会った際、トウ小平氏が「胡耀邦氏は『四つの基本原則』の堅持と反自由化の観点で総書記としてあまりに弱腰で、これは基本的な欠点だ」と述べた事実を明らかにしたとのことである。

 党組織生活会が終わった翌日(1987年1月16日)に開かれた党政治局拡大会議において、胡耀邦氏の党総書記の辞任が承認され、そのことが公表された。党のトップである総書記の辞任が、党中央委員会全体会議ではなく、党政治局拡大会議で決定されたのは、正式な党手続きからすると本来はおかしい。政治局拡大会議には、政治局委員以外の長老なども参加しているからである。しかし、陳雲氏は、参会者に対して「この会議は合法的だからな」と念を押したという(参考資料17:「トウ小平秘録」)。

 1986年12月30日に行われたトウ小平氏と胡耀邦氏、趙紫陽氏らとの会議、1987年1月4日のトウ小平氏の自宅で行われた会議、1月10日~15日に行われた党組織生活会などは、会議が行われたこと自体公表されていなかった。従って、当時北京に駐在していた私や中国の一般市民は、中国指導部内部で何が起こっているのか全くわかっておらず、1月16日に党総書記の胡耀邦氏が辞任したとの発表を聞いて驚愕したのであった。

 私がこの日(1987年1月16日)に書いたメモによると、当時の私は下記のように感じていた。

・学生運動が起きたのは確かであるが、なぜ今、党のトップの辞任までやるのか。

・解放されつつある人々の慢性的な欲求不満はあるものの、革命が起こるような危機的状況はない。胡耀邦氏は『みせしめ』『スケープゴート』として辞任させられただけに違いない。

 胡耀邦氏の党総書記辞任に引き続き、1986年末の学生運動の発端の動きが起きた中国科学技術大学副学長の方励之氏、作家の王若望氏、それに学生運動に理解を示した作家で人民日報記者の劉賓雁氏が、社会主義及び共産党に反対した、として相次いで党籍を剥奪された。中国において共産党員が党籍を剥奪されることは、論文発表や本の出版を禁止されることを意味し、学者・作家にとっては、実質的にその活動を禁止されることに等しかった。これらの措置により、民主化を求める学生たちの動きやそれを支持する知識人たちの動きは表面上停止された。新聞やテレビでは「ブルジョア自由化反対」の言葉があふれ、街中にも「ブルジョア自由化反対」「安定団結の政治局面を維持しよう」というスローガンの紅い横断幕があふれた。

 当時北京にいた私は「ブルジョア自由化」とは具体的には何なのか理解できなかった。多くの中国の人々も理解できなかったに違いない。王若望氏は「資本主義では各人の能力を引き出すシステムがうまく機能して社会全体の発展によい効果をもたらしているが、我が国にはそれがない」と発言したことが批判の対象とされたと言われたが、この発言は、改革開放路線を支持する発言であって、何ら批判される性質ものもではないはずだ、と当時の私は考えていた。

 この後、「何を発言してよく、何を発言してはまずいのか」について、多くの人々は手探りしながら探っていくことになる。

 胡耀邦総書記の辞任を伝える1月16日の夜7時からの中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」では、いつもは背広を着てニュースを伝えるアナウンサーがこの日だけは中山服(日本のマスコミ用語でいう「人民服」)を着てニュースを伝えた。この中国中央電視台の映像は世界に配信され、世界中の人々を驚かせた。テレビのアナウンサーが「人民服」を着て登場したことは、あたかも中国が文化大革命の時代に逆戻りしたかのような印象を与えたからである。ただ、アナウンサーに「人民服」を着せたのは、たぶん中央電視台の現場担当者の「勇み足」だったようで、この映像の反響の大きさに対し、中国政府はこの後、改革開放路線の継続には全く変更がない、と繰り返し釈明する羽目になった。特に、既に中国にとって有力な輸出産業に成長しつつあった繊維製品製造業に影響が出ては大変だと、すぐさま紡績工業部長が「中国が文化大革命時代のような時代に逆戻りすることはあり得ない。これからも自由なファッションの服飾製品を作り続けることに変わりはない。」と弁明するなど、中国政府は対応に追われた。

 「趙紫陽極秘回想録」によれば、胡耀邦氏の辞任に勢いを得た保守派が各方面で「ブルジョア自由化反対」の運動を進め、経済的な自主権拡大にもブレーキを掛けようとしたが、趙紫陽氏は、「ブルジョア自由化反対運動」が経済面での改革開放に影響を与えないよう必死で抵抗したという。その結果、経済における改革開放路線は、何らの変更を受けることはなかった。新聞には「経営の神様:土光敏夫」といった日本型経営の優れた点を紹介する記事が掲載され続けたし、工場に見学に行けば工場の職員が「QC研究会」といった西側の品質管理手法を学ぶ勉強会を盛んに開いている状況に変わりはなかった。要するに、胡耀邦総書記の辞任は「経済については今までどおり改革開放を強力に推進するが、政治については民主化を求めるような動きは認めない」という強いメッセージだったと多くの人々には受け取られたのである。

以上

次回「4-1-6:中国の社会・経済で進む微妙な変化」
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へ続く。

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