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2010年4月 6日 (火)

4-1-2:改革開放政策下の1980年代の日中協力(私の経験)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第4章:改革開放政策下で急激な経済成長を遂げる中国

-第1部:改革開放が急速に具体化した1980年代とその矛盾の爆発

--第2節:改革開放政策下の1980年代の日中協力(私の経験)

 私が最初に中国を訪問したのは、1983年2月、中国の工場の近代化に協力するためのプロジェクトの一貫として、日本の技術者とともに中国の工場を訪問するために出張した時であった。このプロジェクトは、日本企業の技術専門家を中国の企業に派遣し、工場を診断して問題点を指摘し、中国の工場の近代化に資する、というものだった。日本側としては、技術専門家の診断の結果、中国側が新しい機器やプラントの導入を決めれば、日本からの機器やプラントの輸出に繋がる可能性がある、という発想で協力を行っていたものだった。

 私が訪問したのは上海のガラス瓶工場だった。訪中前に日本のガラス瓶工場を見せてもらっていたので、日本と中国とのガラス瓶工場の違いを実感することができた。私が見た日本のガラス瓶工場では清涼飲料水用のガラス瓶を製造していたが、食料品を入れる瓶であるだけに、清涼飲料水メーカーからは、非常に厳しい品質管理を求められている、とのことだった。そのため、私が見た日本の工場では、製造ラインの長さの二倍の長さの検査工程があり、様々な機器による何重にもわたる検査が行われていた。そして最後には、ベテラン検査員による人間の目による目視検査工程があった。

 上海のガラス瓶工場へ行ってみてすぐ気が付いたのは、上海の工場では、製造工程が終わると製品をそのまま袋詰めにしており、検査工程が全くなかったことだった。また、その工場では、生産量を増加させるために後で生産ラインを後から増設したためか、ひとつの煙突に対して製造ライン2本が付けられていた。日本の技術者は、2本の製造ラインのそれぞれに煙突がないとエネルギー効率が悪いし、各ラインごとのガラス溶融炉の温度のコントロールが十分にできず品質にバラツキが出る、と指摘していた。日本ならば「当たり前のこと」が中国ではできていなかったのである。

 また、上海の工場の人は「せっかく作ったガラス瓶が輸送中に割れて困る」と嘆いていた。この工場では、できたガラス瓶を無造作に大きな袋に詰め込んで、トラックで輸送していた。輸送途中で割れるのは当然だった。この頃、中国では、卵パックに使われるようなプラスチック容器や紙容器は製造されておらず、ガラス瓶を割れずに輸送するために必要な梱包素材が入手できなかったのである。一定のレベルの品質の製品を消費者まで届けるためには、単に製造技術だけではなく、包装・梱包や輸送といった生産から輸送・流通・販売まで全体をバックアップする社会的インフラが整っていなければならないことを痛感した。

 しかし、こういった工場の現状よりも印象的だったのは、現場の技術者の人々の態度だった。日本の技術者が自分が気が付いた問題点を話し出すと、中国側の技術者は通訳が話している途中で、口からつばを飛ばし日本の技術者を指さしながら「対!対!対!対!」と叫んだ。「対(トゥイ)」とは「その通り」という相槌を打つ言葉であるが、中国側の技術者は、日本側技術者の指摘に対して「それそれそれ! そこんとこが問題なんですよ!」と即座に反応したのである。技術の世界において、キーとなる点は共通であり、言葉の壁を超えて、同じ分野の技術者は同じ問題意識を共有できることを実感した瞬間だった。

 この時期、多くの日本の技術者が中国に出向き、中国の技術者と意見交換する場面において、多くの「対!対!対!対!」といった反応があったと思われる。こうして、中国の技術者は、外国の技術者と交流することの重要性を認識したものと思われる。また、日本側技術者も「将来ビジネスになる」といった思惑を超えて、自分の持つ技術知識が中国において非常に必要とされていることを実感したのではないかと思われる。

 これが私の「中国における原体験」のひとつである。こうしたひとつひとつの「町工場」における「技術交流」が、たくさん積み重なって、後の中国の強力な経済発展の原動力になったのだとしたら、そうした日中協力のほんの一場面に立ち会えたことを私としても誇りに思いたい。

 「ビジネスを度外視した技術者たちの誠意」は、時として「好意で渡した図面を使ってコピー商品を作られてしまった」といったトラブルを引き起こすこともある。そのため、日本企業の関係者の中には中国に対する警戒感を持つ人も多いが、それは他の国に比べて、日本人が中国の人々との間の関係に東洋的な親近感を感じ過ぎてしまうことに起因しているのかもしれない。時として、中国の人々に対して、ビジネス上の関係を超えた親近感を感じてしまうことが、中国との関係を進める上で、日本人にとっての強みでもあり、また同時に弱みでもあるのだと思う。

 私たち一行は、上海での工場診断を終えると、北京に戻って、国家経済委員会(現在の中国政府で言えば国家発展改革委員会、日本で言えば経済産業省に相当する)と打ち合わせを行った。打ち合わせの後で、中国側招待の夕食会があったが、その夕食会を主宰したのが、当時国家経済委員会副主任(日本の事務次官に相当する)の朱鎔基氏(後に江沢民国家主席の下で国務院総理になる)だった。朱鎔基氏は経済官僚のエリートだったが、この会食の際の周囲の人の様子から察すると、朱鎔基氏はこの時既に相当に高い位の人物として扱われていたことがわかった。

 私の二度目の訪中は、1984年4月に「対中投資環境調査団」の一員として、2週間にわたって、北京、上海、江蘇省南通、福建省福州、広東省広州、深セン経済特区へ行き、その後香港へ抜けた時だった(「深セン」の「セン」は「土へん」に「川」)。この「対中投資環境調査団」には日本を代表する各分野の大手のメーカー、商社などから幹部約40名が参加していた。各地で地方政府の関係者と会談して外国からの投資導入政策について聞くとともに、この頃既に稼働し始めていたいくつかの中国と外国との合弁企業を視察した。

 この頃、中国大陸部に立地していた日系の合弁企業はまだ5社程度しかなかった。この「調査団」の訪問先に江蘇省南通市が入っているのは、そのうちのひとつ、日本の地下足袋メーカー「力王たび」が設立した合弁企業・中国南通力王有限公司(調査団が訪問する前年の1983年から操業開始)が南通市にあったからである。

 いつの時代でもそうであるが、「時代の最先端」を行くのは一見すると古い経営方針を採っていると思われがちな「伝統的な」分野の会社の場合が多い。日本の工事現場で働く「とび職」の人たちが使う「地下足袋」を製造するメーカー「力王たび」もその例のひとつであろう。地下足袋は綿布を靴状の形にして底にゴムを縫いつけて作るものであるが、「力王たび」は綿布の生産地が近く(中国江蘇省)にあり、安い労働力を確保でき、外国からのゴムの輸入にも便利な江蘇省南通市(上海から揚子江を少し遡った揚子江の北岸にある)に目を付け、ここに合弁会社・中国南通力王有限公司を設立した。製品の地下足袋は100%日本への輸出である。この中国南通力王有限公司は、地元産の綿布を活用し、地元で雇用を確保し、外貨を稼ぐ優良企業として、地元政府からも高い評価を受けていた。

 私が工場を訪問した時、壁には各従業員ごとの生産数、不良品率などを示すグラフが張られており、従業員たちが一生懸命に働いていた。従業員同士の競争は激しいけれども、中国の国営企業よりも給与は高いし、頑張ってよい製品をたくさん作ればそれに合わせて給与も上がるとのことだった。従業員たちは喜々として働いている様子であり、工場は活気にあふれていた。従業員がおしゃべりしながらダラダラと作業しているといったイメージの強い社会主義体制下の国営企業とは全く異なる雰囲気だった。調査団に参加した日本の大手企業の約40名の幹部たちも、私と同じような強い印象を受け、中国経済の将来に対する「大きな可能性」を感じたに違いない。

 こういった「対中投資環境調査団」の派遣のような活動が、その後の日本企業の中国への進出と中国経済の発展のひとつのきっかけになったのだとしたら、当時、この調査団の派遣活動に参加した一人として私は嬉しく思う。

 この「投資環境調査団」のスケジュールの最後は、広東省広州から深セン経済特区を経て香港へ抜けるものだった。広州市から深セン経済特区までは列車で移動したが、その際、列車の中でパスポート・コントロールのチェックを受けた。深セン経済特区は、中華人民共和国の一部であるが、そこへの人や物資の出入りに対しては一定のチェックが行われていたのである。経済特区とその他の地区との境界線が俗に「第二国境線」と呼ばれていたのはそのためである。また、深セン経済特区から当時イギリスの植民地だった香港へ抜けるためには、当然のことながら「国境線」を通過するための手続きを受けた。

 私は2008年4月、上記の「投資環境調査団」に参加して以来24年ぶりに深センから香港へ抜ける機会があった。広東省の内陸部から深セン市へ入る高速道路の脇には、過去の「第二国境線」のチェックポイントのための検査場の建物が残っていたが、既に使われていなかった。今では広東省の他の地域と深セン市への出入りには何のチェックも受けない。深セン市と香港特別行政区との間は、1997年7月の香港の中国への返還以降もほぼ国境線と同様のラインが引かれ、国境線と同じような人と荷物に対するチェックが行われている(ただし、大陸側から香港への通勤者等については、一定の許可証が出され、香港と深センとの間の通行手続きは以前に比べればかなり簡素化されている)。

 2008年4月に私が深センを訪問した際、日本との経済交流を支援している深セン中日経済交流促進会の担当者に聞いた話によれば、税制面も含め深センに対して広東省のほかの地域と異なる「特別扱い」は既に完全になくなっているとのことだった。これは、改革開放後30年を経た今日、既に中国全土が「経済特区」と化しており、1980年代にはあった「経済特区」の「特区」たる意味が、現在では既に失われたことを意味している。

 私が参加した「対中投資環境調査団」は、トウ小平氏の1984年1月~2月の「南巡講話」と1984年3月26日~4月6日に開かれた沿海部都市座談会において14都市と海南島の開放の提案がなされた直後であった。それだけに、各地の地方政府との会談においては、1984年の「南巡講話」と沿岸部14都市と海南島の開放方針提案のことが話題になった。この「投資環境調査団」は、まさにこのような中国の対外経済開放政策促進の波に乗るようなタイミングで派遣されたのだった。

 今、トウ小平氏による「南巡講話」と言えば1992年に行われたものが有名だが、1980年代には「南巡講話」と言えば1984年1月~2月のものを指した。1983年秋頃から行われた「精神汚染一層キャンペーン」と1984年の「南巡講話」と沿岸部14都市と海南島の開放提案は、その当時の私は認識していなかったが、「趙紫陽極秘回想録」(参考資料25)で示されている趙紫陽氏の認識を踏まえれば、1984年のイギリスとの香港返還交渉等を背景としたこの当時の中国指導部内部での路線闘争の産物であったと言える。それについては、次節で詳しく述べることとする。

以上

次回「4-1-3:中国指導部内部での路線闘争とイギリスとの香港返還交渉」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-8308.html
へ続く。

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