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2010年3月19日 (金)

3-4-4(2/2):文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第4節:文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(2/2)

 ところで、1971年9月の林彪墜落死事件は、江青ら文革グループにとっても大きなショックだったと思われる。江青ら文革グループは林彪事件には係わってはいなかったが、1966年の文化大革命開始以来、江青らは林彪と一緒に文革を進めてきたことから、林彪事件の後しばらくは、江青ら文革グループは表立った動きをすることはできなかった。そうした中、林彪事件への対処、米中接近、日中国交正常化など困難で複雑な実務上の問題を周恩来が堅実に処理したことにより、江青ら文革グループの影は極めて薄いものになってしまった。

 もともと江青らの文革グループには実務的な政策執行能力などないので、周恩来が必然的に日常的な政策運営を取り仕切るようになった。この頃には毛沢東の健康状態もかなり悪くなっていたので、毛沢東が細かい政策決定に意見を言う機会は徐々に少なくなっていた。そうなると、政策決定の方針も自然に周恩来の考え方に沿った方向で行われるようになった。そもそも実務官僚型政治家である周恩来は「人民生活の向上を図ることが政治の目的だ」と考えていた。前節で述べたように、一部の工業分野において西側のプラントを導入しようとしたのもその考えを実現するための一つの方法である。また、上に書いたように、核兵器だけでなく原子力発電の導入も進めるべき、とする考えも周恩来の理念に基づくものである。林彪事件以降、毛沢東の健康悪化もあり、それまでは「黒子役」に徹するため内に秘めていた周恩来自身の政治理念が、自然に表面に出てくるようになってきたのである。

 周恩来の実務的な政策運営は、必然的に中国政府部内の実務官僚の地位を高めた。これは江青ら文革グループの相対的地位を低めるものであることから、江青らは周恩来と実務官僚を批判するため「批林批孔運動」を始めたと考えることができる。毛沢東も文化大革命の理想をあくまで追求したいと考えており、周恩来の経済建設優先の政策運営には不満であった。毛沢東は、周恩来とトウ小平の政策執行能力は高く評価していたが、あくまで中国が進むべき方向は毛沢東が理想とする文化大革命が目指す方向でなければならないと考えていた。そこで毛沢東も江青ら文革グループと一緒になって「批林批孔運動」を進めて周恩来に対する注意喚起を行ったのである。

 ただし、1973年の時点では「批林批孔」の「孔子批判」の部分が周恩来批判である、とは多くの人はわかっていなかったと思われる。前節の【コラム:「孔子批判」に対する日本のマスコミの反応】で書いたように、少なくとも日本のマスコミは「孔子批判」=「周恩来批判」だとは思っていなかった。私は、1973年に訪中した経験をお持ちの向坊隆元東大総長(元原子力委員長代理)に1987年に北京でお会いする機会があった。その際、私から「1973年の『批林批孔運動』の『批孔』とは実は周恩来に対する批判だったのだ」と伝えると、向坊氏は「1973年に訪中した時は誰もそんなことは言っていなかった。『批孔』が周恩来批判だというのは、考え過ぎなのではないか。」と言っておられた。しかし、この当時の「批孔」が実は周恩来批判だということは、現在の中国共産党の公式見解でもあるのである。

(参考URL)「新華社」ホームページ
「中国共産党ニュース」-「中国共産党簡史
「第七章:『文化大革命』十年の内乱(3)」
「三.『四人組』との闘争と1975年の全面整頓」
http://cpc.people.com.cn/GB/64184/64190/65724/4444930.html

※現在の中国共産党の公式見解では、毛沢東の立場を守るため「毛沢東が許可した『批林批判孔運動』を『四人組』が利用して周恩来を攻撃した。」という立場を取っている。

 この当時北京にいた日本人技師の山本市朗氏は、その著書「北京三十五年」(参考資料12)の中で、「『批林批孔』運動が始まると、中国の人々は、何でいまさら孔子批判をするのか、といぶかっていたが、孔子批判とは実は暗に周恩来を批判しているのだ、というウワサが流れてくると、敬愛する周恩来総理を批判するとは何事か、と怒りを感じるようになった。」旨を記している。山本氏は、1973年10月末まで約5年半に渡って「外国人スパイの疑いがある」として監禁生活を強いられていたので、上記の話は監禁生活を解かれた1973年11月以降の話である。つまり「批林批孔」運動は、最初のうちは、一般の中国の人々も周恩来批判だとはわからなかったということである。

 江青ら文革グループは、「批林批孔運動」を進めると同時に、周恩来と対決するため党内での足固めを行った。1973年8月24日~28日、第10回中国共産党全国代表大会が開かれた。この会議で、張春橋が政治局常務委員に、江青と姚文元が政治局員に選出された。第10回党大会の直後に開かれた第10期中央委員会第1回全体会議(第10期一中全会)で、王洪文は党副主席に選出された。副主席は、王洪文のほか、周恩来、文革グループの康生、軍関係者から葉剣英、李徳生が就任した。各派から何人かづつ選出された妥協の産物だった。第10回党大会でトウ小平は政治局中央委員になった。国務院副総理だと政治局常務委員になってもおかしくはないが、トウ小平は政治局常務委員には選ばれなかった。

 なお、この党大会の冒頭、周恩来が行った政治報告の中で1971年9月13日の林彪墜落死事件に関する詳細な経緯が公表されたことは「第3章第3部第10節:謎の林彪墜落死事件」で述べたとおりである。

 副主席に選出された王洪文はこの時38歳。1967年1月の上海での「奪還闘争」のリーダーで、1969年の第9回党大会で中央委員に当選した。王洪文は張春橋、江青(ともに50歳代)と比べて飛び抜けて若く、彼らを飛び越してこの年齢で党副主席への抜擢されたのは異例であった。「参考資料17:トウ小平秘録」では、これは毛沢東が文化大革命を今後とも進めるため、文革の中で台頭した若手指導者を後継者として抜擢したかったからだ、としている。毛沢東の真の意図は不明であるが、異例の抜擢をして王洪文が自らの後継者となりうるかどうか「試してみた」と見るのが妥当ではないかと思われる。

 この頃、周恩来や実務官僚らによる「正常な政府機能」が復活しつつある中で、教育現場も「正常化」への兆しが見え始めていた。当時、大学の入学は依然として労農兵の経験を経た者の中から選ばれる推薦入学であったが、1973年の入学候補者に対しては学力試験が課せられることになった。

 そんな中、張鉄平という入学候補者は、物理・化学の試験に臨んだ時、とても回答できないと考えて、答案用紙の裏に大学入学時における学力試験を批判する文章を書いて、白紙のまま提出して、教育担当の責任者に「学力試験は不当である」旨の手紙を書いた。実務官僚らによる政策運営を苦々しく思っていた文革グループは、この事実を知って喜んだ。この「白紙答案」を出した張鉄平の行為は「深く考えさせる行為」だとして、この件は「人民日報」に掲載され、張鉄平は英雄視されるようになった。張春橋は、大学入学時の学力試験は「プロレタリア階級に希望を寄せる青年を門外に閉め出し、修正主義に希望を与え、プロレタリア階級に希望を失わせるものだ。」と述べたという(参考資料14:文化大革命十年史)。

 こういった動きを通して、毛沢東は、周恩来が実務官僚らを使って進めている堅実な行政運営が文化大革命の理想から離れていくことを警戒しながらも、江青らが力を注いでいる非現実的な観念論争に対しても疑問を持つようになったのではないかと思われる。また、毛沢東は、林彪事件の教訓を踏まえ、軍だけは統率された秩序を維持したいと考えていたようである。毛沢東は、軍人としての経験も豊富なトウ小平氏に軍を掌握させようと考えた。1973年12月22日、党政治局会議においてトウ小平は党中央軍事委員会委員に抜擢された。

 毛沢東によるトウ小平の登用は、江青ら文革グループを大いに焦らせた。文革グループは、年が明け、1974年になると自分たちが掌握している新聞等のメディアを使って「批林批孔運動」による周恩来攻撃を強めていく。1974年1月4日付けの「人民日報」には孔子を批判する論文が載ったが、ここでは孔子を「儒者宰相」と表現した。このあたりから、多くの人は孔子批判とは周恩来批判であることを意識するようになったと思われる。

 1974年に入ると、毛沢東も周恩来も健康状態が悪化した。周恩来は手術と入退院を繰り返しながらも、国務院総理としての激務を続けた。1974年4月、国連特別総会が開かれることになったが、誰を派遣するか、が問題となった。本来は国務院総理の周恩来が渡米すべきところなのだが、毛沢東はトウ小平を代表団の団長とする判断を下した。江青はこの判断に強く反対したが、毛沢東は江青に「トウ小平同志の出国は私の意見であり、反対しない方がいい。注意し謹慎するように。」と手紙で注意したという。

 ニューヨークへ飛んだトウ小平は1974年4月10日、国連総会で演説した。この演説で、トウ小平は毛沢東が提唱する「三つの世界論」を展開し、「中国は第三世界の一員であり、永遠に覇権を唱えず、永遠に超大国にならない」と宣言した。このフレーズをトウ小平は、改革開放時代になってからも使い続ける。鮮烈なトウ小平の「外交デビュー」だった。

 毛沢東の「三つの世界論」とは、米ソ超大国を第一世界、東西ヨーロッパ・日本・カナダ・オーストラリアなど2大超大国に従属する国々を第二世界と呼び、それ以外の発展途上国を第三世界と呼ぶ考え方である。当時の米ソ冷戦構造を踏まえて、「第三世界」を米ソどちらの側にも属さない第三のグループのことを指す、と捉える人がいるがそれは誤りである。「三つの世界論」は、米ソ両国が冷戦構造の中で対立する姿勢を示しながら「超大国」としての共通の利益の下に手を結んで世界を支配している、という毛沢東独特の鋭い国際戦略観から出た考え方である。ちなみに、1974年当時、ベトナム戦争は既に終了し、米ソ両国は平和共存路線(デ・タント)の時代にあった。

 中国の国連代表団の団長としてトウ小平が世界に向かってアピールしたことは、江青らをさらに焦らせた。彼らはさらに「批林批孔運動」にかこつけた周恩来への批判を強めていく。6月18日、江青らの意向を受けた「人民日報」は、社説で「二千年にわたる儒法論争は、現在にも影響を及ぼし、現在まで継続している。」と述べ、人々は孔子批判の対象が周恩来であることを確信するようになる。

 こうした動きに対して、毛沢東もさすがに危機感を抱くようになった。7月17日に開かれた党中央政治局の会議において毛沢東は、江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人に対して「君たちは注意しなければならない。四人の小派閥を作ってはならない。」と注意した。「四人の小派閥」と言う言葉は、この時、毛沢東が言い始めたのである。この時点では、単に「四人だけで小さな派閥を作るような動きをしてはならない」という意味で注意しただけであり、毛沢東が「四人組」の動きを止めるように指示したわけではないが、1976年9月の毛沢東の死後、「四人組」の言葉は「文化大革命を推進した反革命分子の四人」という意味で使われるようになる。

(注)1980年から始まった「四人組裁判」で、江青は「当時はみんなで同じ運動をしてたじゃないか。私たち四人だけ裁かれるのはおかしい!」と叫ぶことになるが、たぶんこの江青の叫びは事実だと思われる。

 この頃、周恩来も毛沢東も健康状態がかなり悪化していた。毛沢東は湖南省の長沙で療養していた。江青らは相変わらず周恩来攻撃を続けていたが、党内の体制は、政府組織を立て直し、しっかりした行政体制を構築するべき、という方向に向かっていた。1974年10月11日、党中央は1964年以来開かれていなかった全人代(全国人民代表大会:日本の国会に相当)を近く開催する通知を出した。その通知には「プロレタリア文化大革命は開始から既に8年が過ぎた。現在は安定が必要だ。」という毛沢東の意見が添えられていた。この通知以降、全人代で決まる閣僚人事が焦点となった。

 毛沢東は、10月4日の時点でトウ小平を筆頭副総理にすることを提案していた。江青らはこれに反発し、何とか自分たちの息の掛かった者を登用するよう激しく立ち回ることになる。

 たまたま 1974年9月30日、中国が自力製造した遠洋貨物船「風慶丸」が初めてのヨーロッパ航海から上海に帰着していた。当時、国務院は遠洋貨物船の自力建造と外国からの購入とを並行して行う決定をしていた。江青らは、この「風慶丸」の帰着のニュースを使って、外国船の購入は「外国に媚を売るものだ」「買弁ブルジョア思想だ」として、決定を行った周恩来を攻撃した(風慶丸事件)。江青らは王洪文を長沙にいる毛沢東のところへ派遣して、(1970年の第9期二中全会の時の林彪のように)周恩来総理が病気だというのにトウ小平や葉剣英、李先念らと協議して人事のことを話している、と告げた。しかし、毛沢東は王洪文に対し「トウ小平同志と団結し、周恩来総理や葉剣英ともっと相談せよ。江青とつるんではいけない」と叱った。

 11月12日には、毛沢東は江青に手紙を送り「おまえが組閣してはならない」と告げた。毛沢東は「江青には野心がある。王洪文を全人代委員長にし、自分が党主席になるつもりだ。」として、周恩来に人事案件を決めるよう指示した。こうして周恩来とトウ小平を中心とした人事体制が1975年初に発足することになる。

以上

次回「3-4-5:『四つの近代化』の提唱と水滸伝批判」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-9dca.html
へ続く。

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