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2010年3月 8日 (月)

3-3-9(2/2):ニクソンによる米中接近への動き(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第9節:ニクソンによる米中接近への動き(2/2)

 ニクソン氏は、公約通りベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を実現するためには、北ベトナムの後ろ盾となっているソ連と中国が対立関係にあることを最大限に利用すべきであると考えていた。このため、ニクソン氏は大統領就任直後から特別補佐官に指名したキッシンジャー氏に指示して中国との接近を探らせた(「映像・音声資料8:NHK・BSドキュメンタリー『証言でつづる現代史~世紀の外交・米中接近~』」でキッシンジャー氏はそのように証言している)。

 ニクソン大統領は、まず、アメリカと中華人民共和国とがともに外交関係を持っているポーランドの首都ワルシャワにあるアメリカ大使館の館員を、在ワルシャワ中国大使館大使館員に接触させ、アメリカ側から中国と関係を改善する用意があることを伝えさせた。ニクソン氏が大統領になった1969年は、3月にウスリー江の中ソ国境で大規模な軍事衝突が起きるなど、中ソ関係が緊迫していた時期だった。中国は、国内的には文化大革命の混乱が収まっておらず、前年1968年8月にソ連がチェコスロバキアに対して見せた軍事介入を見て、ソ連に対する恐怖感は強かった。極東に配備されたソ連軍が中国東北部の平原地帯を侵攻して北京に攻め入ることは簡単だと考えられていたからである。実際、1945年8月、ソ連が日本に対して宣戦布告し、あっという間に中国東北部(旧満州)を制圧した事実は、中国自身がよく知っていた。

 このため、毛沢東と周恩来はワルシャワにおけるアメリカからの接近の呼び掛けに積極的に反応した。この時点で、軍の責任者である国防部長の林彪がアメリカとの接近についてどういった考え方を持っていたのかについてはよくわからない。「中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」(参考資料8)で著者の天児慧氏は、1970年1月頃の時点でも、林彪はアメリカと接近する方針に反対だった、との見解を示している。もっとも、毛沢東と周恩来にしても、アメリカが台湾をどう扱うか、がアメリカとの関係改善の最大のネックであると考えていた。当時、アメリカは台湾にある蒋介石の政権を「中華民国」として承認し、外交関係を結んでおり、その上、アメリカ軍が台湾に駐留していた。中国側としては、アメリカがこういった現状を変えない限り、アメリカとの関係改善は無理だと考えていたのである。

 中国側もアメリカとの関係改善への動きに前向きであると見て取ったニクソン大統領は、さらにベトナム戦争を早期に終わらせようとする動きに出る。当時、南ベトナム領内にいる解放戦線に対する北ベトナムからの支援は、南ベトナム領内のルートがアメリカ軍による激しい爆撃にさらされていたため、カンボジア領内のジャングルの中の迂回路を通るルートによって行われていた。これを阻止するため、1970年5月、アメリカ軍は中立国であるカンボジア領内に軍隊を進めた。これにより、戦火がベトナム以外の国に広がったことから、ベトナム戦争はインドシナ戦争と呼ばれるようになった。

 当時のカンボジアは王国で、シハヌーク殿下(既に国王は退位し国家元首に就任していた)が政府の実権を握っていた。アメリカは、カンボジア領内への侵攻に先立って、シハヌーク殿下が病気療養のため外国にいる機会を利用して、1970年3月、親米的なロン・ノル将軍を支援して軍事クーデターを起こさせていた。

 これらのアメリカの行為は、シハヌーク殿下と友好関係を持っていた中国政府を激怒させ、ワルシャワでの米中接触は破綻した(アメリカは、カンボジアの後ろ盾となっていた中国政府のメンツをつぶしたからである。中国との外交交渉においては、「中国のメンツをつぶさないようにする」ことが、極めて重要なキーワードである)。

 しかし、ベトナム戦争を有利に終結させるためには中国と接近することが有利であると考えるアメリカの考え方と、中ソ対立の中でソ連に対する牽制としてアメリカと接近することが有利であるという中国の考え方に、基本的に変化はなかった。

 ワルシャワ大使館での交渉が破綻した中で、ニクソン大統領は次の手を考えた。1970年10月にアメリカを訪問したパキスタンのカーン大統領に対し、通常の会談が終わった後、ニクソン大統領は通訳を交えただけの二人だけの会談を要請した。この席で、ニクソン大統領は、中国に対して米中関係を改善したいと考えるアメリカ側の意向を中国に伝えて欲しい、と極秘裏にカーン大統領に要請した。このニクソン大統領の要請は、アメリカの国務省(国務長官も含む)にも知らされないまま極秘のうちに行われた。

 翌月(1970年11月)に中国を訪問したしたカーン大統領は、通常の会談の後、周恩来総理と二人だけの会談の場を持ち、ニクソン大統領のメッセージを周恩来総理に伝えた。これに対する中国側の返事は、アメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノー氏との会見において、毛沢東主席が「旅行者としてでも、大統領としてでもニクソン氏と会う意向である」と伝えたことによってアメリカにもたらされた。

 1971年3月28日から、日本の名古屋で世界卓球選手権大会が開かれた。卓球は当時から中国の得意種目で、中国からも代表団が参加した。アメリカ選手団も参加していた。この世界卓球選手権大会の期間中、中国側は突然アメリカ選手団を中国へ招待したいと申し入れ、アメリカ代表団もこれを了承した。この時、名古屋に行った中国代表団に加わっていた中国の卓球選手の証言によれば、この代表団は名古屋へ入る前に周恩来総理と会談し、「友好第一、勝負第二の精神で行ってきて欲しい」と言われた、とのことである。この会談において、周恩来総理は「友好第一とは、政治第一という意味だ」と念を押したという(「映像・音声資料8:NHK・BSドキュメンタリー『証言でつづる現代史~世紀の外交・米中接近~』」)。

 4月10日に北京入りしたアメリカ卓球選手団は、中国側からの大歓迎を受け、周恩来総理との会見なども行われた。しかし、この当時でも、中国国内では「アメリカ帝国主義打倒!」のキャンペーンが行われており、このアメリカ卓球選手団の中国訪問は、あくまで「友好第一、勝負第二」のスポーツのレベルの民間交流だと思われていた。しかし、実態は、上記に述べた中国選手団に語った周恩来の言葉でわかるように、スポーツ交流を利用した明確な外交的メッセージだった。こういった外交的手法は「ピンポン外交」という名で歴史にその足跡を残すこととなった。

 この後、4月下旬、中国側はパキスタンにある中国大使館を通じてアメリカ側に「大統領特使を受け入れる用意がある」との意向を伝えてきた。これを受けて、キッシンジャー特別補佐官は、パキスタン大統領府の協力の下、北京訪問を極秘裏に進めた。7月上旬、キッシンジャー特別補佐官は、東南アジア歴訪の旅に出た。最後の訪問国はパキスタンであった。当時、訪問先の国々とは特段の案件はなく、このキッシンジャー補佐官の訪問に対しては、報道関係者はほとんど関心を示さなかった。

 キッシンジャー補佐官はパキスタンでカーン大統領と会談した後、「体調を崩したためしばらくカーン大統領の別荘で休養する」との発表が行われた。実際、1台の車がカーン大統領の別荘へ走ったが、この車に乗っていたのは「影武者」で、キッシンジャー補佐官はこの車には乗っていなかった。キッシンジャー補佐官は、隠密裏にパキスタン空軍基地へ向かい、パキスタン空軍機により北京へ向けて飛び立った。キッシンジャー補佐官は、7月9日、北京に入り、周恩来総理と会談し、次の3つの意向を中国側に伝えた。

(1)アメリカは台湾の独立を支持しない。

(2) ニクソンの第二期政権(1972年の選挙で勝てば1973年1月から始まる)で、アメリカは中華人民共和国を承認するだろう。

(3) 中国の国連加盟に対しても前向きに考える。

 このうち(1)の考え方は、従来のアメリカの主張から一歩踏み込むものであった(参考資料8:中国の歴史(11)「巨龍の胎動」)。このアメリカ側の考え方の提示を受けて、米中双方はニクソン大統領の訪中実現について合意した。

 キッシンジャー補佐官が東南アジア歴訪から帰国した後の7月15日、米中両国政府は「来年5月までの間にニクソン大統領が中国を訪問することで合意した」と発表した。当時の中国は文化大革命において「打倒!アメリカ帝国主義!」をスローガンとしており、一方のニクソン氏は筋金入りの反共主義者だと思われていため、この発表を聞いて世界中の多くの人は耳を疑った。いわゆる「ニクソン・ショック」である。このキッシンジャーの隠密裏の北京訪問は、アメリカ国内の国務省に対しても極秘とされ、完全なホワイト・ハウス主導の下に行われた。国務省内には、従来までの蒋介石の国民政府との関係を考えれば、蒋介石政権を「切る」ことはできない、との考え方が支配的だったからである。ニクソン氏は、国務省の官僚主義的な抵抗を想定して「国務省はずし」によって米中接近を図ったのである。

 なお、この時のキッシンジャー補佐官の隠密裏の北京訪問に関しては、キッシンジャー氏の北京空港への到着、周恩来総理との会談の様子、会談終了後のキッシンジャー氏の故宮参観などの様子が中国側によって映像として記録されており、いくつかのドキュメンタリー番組の中で見ることができる(「映像・音声資料4:CNN Cold War 第15集 "China"」「映像・音声資料7:DVD『歴史をして未来を語らしめる(四)』『文革十年』」「映像・音声資料8:NHK・BSドキュメンタリー『証言でつづる現代史~世紀の外交・米中接近~』」)。

 「参考資料8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」が引用している「米中奔流」(ジェームズ・マン著、鈴木主税訳、共同通信社、1999年)によれば、キッシンジャー補佐官の隠密裏の北京訪問の数日後、周恩来総理がハノイに飛んで北ベトナム政府に事情を説明しているとのことである。また、ニクソン大統領訪中の事前準備のためにこの年(1971年)12月に再び訪中したキッシンジャー補佐官と周恩来総理との間で、アメリカが偵察衛星によって把握した中ソ国境地帯におけるソ連軍の動きに関する情報を中国側に提供するなどの、極秘情報交換の合意がなされていたとのことである。

 こうした中、国連では、中華人民共和国の国連への復帰問題が議論されていた。安全保障理事会で議論すると、当時の常任理事国であった台湾当局(「中華民国」)が拒否権を発動するため、中国は、国連総会での決議によって復帰を果たそうと考えていた。アジア・アフリカ諸国の賛成を得て、中国の国連復帰は国連総会で過半数の賛成を得られる勢いであった。1970年にはアルバニアが提案した中華人民共和国を国連に招請し「中華民国」を追放するという決議案(アルバニア決議案)に対し、賛成票が反対票を上回った(棄権票もあり過半数の賛成を得られなかったため、この時は成立はしなかった)。

 1971年9月から始まった国連総会において、アルバニアは再び同様の決議案を提案した。ニクソン大統領が米中接近を試みていたものの、アメリカは、アルバニア決議案の成立を阻止するため、アルバニア決議案は国連にとって重要な案件であることから、成立のためには総会の3分の2の賛成を必要とする「重要事項」に指定するよう提案しようと考えた。しかし、アルバニア決議案を重要事項に指定する決議案では国連加盟国の過半数の賛成を得られる見通しが立たない、と判断したアメリカは、国連において中華人民共和国政府と蒋介石の政権が二重に代表権を持てることとする(安全保障理事会の席は中華人民共和国に与える)ことを内容とする二重代表権決議案、「中華民国」(蒋介石政権)を追放する場合にはその決定を「重要事項」(3分の2の賛成を必要とする)に指定する決議案(逆重要事項指定決議案)の二つをパッケージで国連総会で議論するよう提案した(日本もこれらの決議案の共同提案国となった)。

 10月25日、まず決議案を審議する順序について議論がなされ、逆重要事項指定決議案、アルバニア決議案、二重代表権決議案の順で採決が行われることになった。逆重要事項決議案は賛成55、反対59、棄権15、欠席2で否決された。この結果を受けて、多くの国々が中華人民共和国招請の流れができたと判断し、続いて行われたアルバニア決議案の採決では、賛成76、反対35、棄権17、欠席3という結果となり、アルバニア決議案は賛成過半数で採択された。この結果、二重代表決議案は審議されないこととなった。「中華民国」代表団は、アルバニア決議案の採決の前に総会を退場した。こうして中華人民共和国の国連への参加が決まった。

(参考URL)日本の外務省の「外交青書」(昭和47年(1972年)版)
「第4章 国際連合における活動とその他の国際協力」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1972/s47-2-4-1.htm

 年が明けて、1972年2月21日、キッシンジャー特別補佐官の「忍者外交」によって築かれたレールに乗って、ニクソン大統領が中国を訪問し、2月27日には米中共同声明が発表された。そして、同年9月25日、日本の田中角栄総理が中国を訪問し9月29日には日中共同共同声明が出されて、日中の国交が正常化した。こうして中華人民共和国は国際政治の舞台へ登場することになる。(ただし、アメリカと中国との外交関係の樹立は、台湾問題の処理についてのアメリカ議会内の反発等もあって、ニクソン大統領が望んだ通りには進まなかった。アメリカと中国との外交関係が樹立されるのは、次の次の政権であるカーター政権下の1979年1月1日である)。

 ニクソン訪中によって、ベトナム戦争に関しては、中国は表面上は北ベトナム支援の立場を変えなかったが、実質的にはほぼ中立の立場に立った。アメリカは段階的なベトナムからのアメリカ軍の撤退の進展と交渉上の譲歩、それに軍事的強硬策(北爆の再開など)を交えながら北ベトナム側と和平交渉を行い、1973年1月27日、パリにおいてアメリカ政府、北ベトナム政府、南ベトナム政府、南ベトナム共和国臨時革命政府(解放戦線が組織した政府)の四者間でベトナム和平協定(パリ協定)が調印された。この協定では60日以内に南ベトナムからの外国軍隊の撤退が規定されており、この規定に基づき、3月29日、アメリカ軍は南ベトナムから撤退した。こうしてニクソン大統領は「ベトナムからの名誉ある撤退」という大統領選挙期間中に掲げた公約を実現したのである。

 ニクソン氏は、1972年11月の大統領選挙の前にベトナム和平協定を結ぶことを希望していたようであるが、最終段階で南ベトナム政府側がアメリカ側が北ベトナム側と交渉していた協定案について「譲歩し過ぎだ」として反対し、大統領選挙前の和平協定締結は実現しなかった。しかし、電撃的な訪中の実現などに見られるリーダーシップの発揮とベトナムからの着実な撤退の進展、ベトナム和平交渉の進展をアメリカ国民は評価し、ニクソン氏はこの年の大統領選挙に勝利し、再選を果たした。

 大統領選挙の後、ニクソン大統領は北ベトナム側に最終的な譲歩を迫るため、1972年12月、大規模な北爆を再開した。これに抗議した人気デュオのサイモンとガーファンクルは、クリスマス・ソングとして「きよしこの夜」のバックに悲惨なベトナム戦争の状況を伝えるラジオ・ニュースを重ねた「きよしこの夜~7時のニュース~」を発表した。これはこの時代を経験した人には忘れられない一曲となった。

 なお、ニクソン訪中と日中国交正常化については、「第3章第4部第1節:ニクソン訪中と日中国交正常化」で改めて述べることとしたい。

以上

次回「3-3-9(2/2):【コラム:その後のベトナム】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-96af.html
へ続く。

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