« 3-4-1:ニクソン訪中 | トップページ | 3-4-2:【コラム:「日中国交正常化」「台湾当局」という表現について】 »

2010年3月13日 (土)

3-4-2:日中国交正常化

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第2節:日中国交正常化

 中国の国連加盟とニクソン訪中により、日本国内の経済界では中国との外交関係の樹立に対する期待が高まった。その当時、日本は高度経済成長期が最終段階にあり、資源が豊富で膨大な「手つかずの市場」として残されている中国大陸部は経済界にとっては非常に魅力的だったからである(当時の中国の人口は約7億人)。しかし、当時の日本の佐藤栄作総理は、従来から蒋介石政権と近い関係にあった。中国政府の側からは、佐藤栄作総理と接近を図ることは(外交上のメンツの上からも)全く考えられないことだった。キッシンジャー氏による隠密裡の北京訪問とニクソン訪中の発表は、佐藤政権はアメリカから全く知らされておらず、ニクソン訪中は、全く日本の頭越しに行われたものだった。そのため佐藤政権の対中政策は日本国内でも批判を集めていた。

 佐藤栄作氏は、東京オリンピック直後の1964年11月に病気により退陣した池田勇人氏の後を受けて総理大臣に就任した。その後、7年半にわたる長期政権を維持したが、1972年5月15日に長年の懸案だった沖縄のアメリカからの返還を実現させた後、それを花道にして1972年(昭和47年)の通常国会終了後に退陣することを表明していた。

 佐藤栄作氏の後任として、自民党の総裁選挙に立候補したのは、三木武夫氏、田中角栄氏、大平正芳氏、福田赳夫氏の四氏であった(当時、俗に「三角大福」と言われた)。総裁選挙の結果、田中角栄氏が自民党総裁となり、7月7日に国会で指名を受けて内閣総理大臣となった。佐藤内閣で通商産業大臣をしていた田中角栄氏に対して、日本の経済界は、中国との関係正常化を大いに期待した。

 日中間では、外交関係がない中、1950年代頃から一部の商社(いわゆる友好商社)を通じて民間企業による貿易が行われていた。1962年11月9日には、長い滞日経験のある華僑事務委員会主任の廖承志氏と元通産大臣の高碕達之助氏との間で「日中覚書貿易協定」が締結され、日中双方に「覚書貿易事務所」が設置された(この頃行われていた貿易を廖承志氏と高碕達之助氏の頭文字を取って「LT貿易」と呼ぶ)。外交関係のない日中両国にとって、この「覚書貿易事務所」が大使館の代わりに両国間の非公式な接触を行う窓口となっていた。

 佐藤栄作氏は、総理就任当初から中華人民共和国に対して強硬な姿勢をとっていたが、一方で、佐藤内閣発足直後の1964年11月に結成された公明党は、当時の野党としての立場から中国に接近する意向を示していた。公明党の支持母体である創価学会の池田大作会長は1968年9月に「日中国交正常化提言」を発表し、中国寄りの姿勢を明確にしていた。

 日本の外務省の「外交青書」(1973年版)によれば、自民党総裁選挙に当選した田中角栄氏は、1972年7月5日、記者会見において「日中国交正常化の機は熟している」と述べ、7月7日に正式に田中内閣が成立すると田中総理は「中華人民共和国との国交正常化を急ぐ」との談話を発表した。これに対して、中国側は直ちに好意的に反応し、7月9日、周恩来総理が「日中国交正常化の実現に努力したいという田中内閣の声明は歓迎に値する」と発言した。

(参考URL1)日本の外務省の「外交青書」1973年版
「-わが国と各国との諸問題-2.各国との関係(2)中国」
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1973/s48-2-1-1-2.htm#m220

 田中角栄氏が、総理になる直前まで通産大臣であり、ビジネス・チャンスの拡大を期待する経済界からの強力なバックアップがあったことは間違いないが、佐藤栄作氏に比べれば、三木氏、大平氏、福田氏のいずれも中国寄りと言うことができ、もし田中角栄氏以外の三者のうちの誰が総理大臣になっても日中国交正常化の方向へ向かった可能性が高い。また、かなり前から佐藤栄作氏が沖縄返還後に引退する意向を表明していたことから、中国側としては佐藤栄作氏以外の人物であれば誰でも接近が可能、と考えていたのではないかと思われる。

 従って、日本の「外交青書」では、最初に田中角栄氏が日中国交正常化への希望を述べ、周恩来総理が「歓迎する」と応えた、という順序で記しているが、実際は、ニクソン訪中後に中国側から先に何らかの形で(例えば、経済界ルートや公明党ルートで)日本側に対して日中国交正常化へ向けての打診が行われていた可能性が高い。中国側もアメリカとの国交正常化にはまだ時間を要することはわかっていたし、国際社会への進出と、国内の経済発展のためには、日本との協力を進めることは中国にとってもプラスになると中国側が考えたとしても不思議ではないからである。また、もし、本当に「外交青書」が言うように7月5日の田中角栄氏の発言が全てのスタートなのだとしたら、それから3か月も経たないうちに日中国交正常化が実現するとは、あまりにも速すぎる。日中国交正常化へ向けての交渉は、田中内閣発足前から水面下で行われていたと考える方が自然である。

 なお、田中内閣の成立から2週間後の7月27日から3日間、公明党の竹入義勝委員長が訪中して周恩来総理と3回、時間にして合計6時間45分にわたって会談している。

(参考URL2)東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室
「日本政治・国際関係データベース」-「日中関係資料集」
「第1回 竹入義勝・周恩来会談記録」(1972年7月27日)
「第2回 竹入義勝・周恩来会談記録」(1972年7月28日)
「第3回 竹入義勝・周恩来会談記録」(1972年7月29日)
※情報公開法に基づいて読売新聞社が外務省に開示を求めて公開された手書きの文書をテキスト化したもの。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/

 この当時公明党は野党であったが、上記の会談記録を見ると、この会談が後に日中間で行われる日中共同声明の文言に関する具体的な交渉の場であったことがわかる。当時、この事実は、当時、政界・官界・経済界を挙げて、ほとんど挙国一致体制で日中国交正常化へ向けての流れができていたことを示すものである。

 また、記録上、表には現れないが、それまで覚書貿易事務所を通じて培われてきた経済界ルートでの日中間の意志の疎通が、1972年の急速な日中接近の背景にあったことは忘れてはならない。

(注)「日中覚書貿易事務所」(初代代表は岡崎嘉平太全日空社長)は1972年9月の日中国交正常化によりその役目を終えた。それまで日中覚書貿易事務所が担っていた業務は、その年の11月に設立された(財)日中経済協会に引き継がれた。現在、公明党が中国側との関係で強い関係を持ち、日中経済協会が財団法人でありながら中国側との関係では重要な地位を占め、1987年に全日空が始めた海外定期路線の最初の路線が中国路線であった背景には、こういった歴史的な経緯があるのである。

(参考URL3)(財)日中経済協会ホームページ「協会沿革」
http://www.jc-web.or.jp/JCCont.aspx?SNO=001&b=001&s=007&k=104

 日中間の国交正常化交渉でも、最も困難な問題はやはり台湾問題であった。自民党内の台湾寄りの議員の発言により、日中間の交渉に暗雲が立ちこめたこともあった。しかし、日中間の交渉では、米中間で合意された「上海コミュニケ」という前例があったために、これをひとつのモデルとして交渉を行うことができたのは幸いであった。田中角栄総理大臣、大平正芳外務大臣、二階堂進官房長官ら日本政府代表団は、1972年9月25日、北京入りし、周恩来総理らと日中国交正常化へ向けた最終的な交渉が行われた。その結果、9月29日、日中共同声明が出されて、日中国交正常化が実現した。

(参考URL4)在中国日本大使館ホームページ
「二国間関係」-「日中関係重要文献集」
「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(1972年9月29日)
http://www.cn.emb-japan.go.jp/bilateral_j/bunken_1972seimei_j.htm

 この共同声明の台湾問題に関する部分は以下の通りである。

「二. 日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。

三. 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。」

 ここの部分については、大平外務大臣が共同声明発表後の記者会見で次のように説明している。

「台湾問題に対する日本政府の立場は,第3項に明らかにされておる通りであります。カイロ宣言において,台湾は中国に返還されることがうたわれ,これを受けたポツダム宣言,この宣言の第8項には,カイロ宣言の条項は履行されるべしとうたわれておりますが,このポツダム宣言をわが国が承諾した経緯に照らせば,政府がポツダム宣言に基づく立場を堅持するということは当然のことであります。」

 この大平外務大臣の発言と日中共同声明を合わせて読めば、「カイロ宣言を履行すべきことをうたったポツダム宣言を日本が受諾したことによって、台湾は中国に返還され、かつ、日中共同声明第二項により日本政府は中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認しているのだから、日本政府は台湾が中華人民共和国の統治している中国の一部であると認めている。」ということになる。この部分は、現在の日中関係の出発点である(「台湾の帰属については中国内部の問題であり、日本政府としてはコメントする立場にない」というのが現在の日本政府の公式見解のようである)。

 しかしながら、現在、日本国内には「『台湾は中華人民共和国の一部である』というのは中国政府の主張であり、日本は同調する必要はない。」と主張している人がいる。上記の日中国交正常化の経緯に基づけば、「台湾は中華人民共和国の一部である」という認識は中国政府の一方的な主張ではなく、日本政府はそういった中国政府の主張を「理解し尊重して」いるのである。日本の人々が台湾の人々と様々なレベルで交流を深めることは何ら問題はないが、「中華民国」という国名や青天白日旗(中華民国の国旗)を歴史上のものとしてではなく、現在の台湾当局を代表するものとして使うことは、こうった日本政府の態度に反するものとなるのである。

 一方、歴代の台湾当局も「台湾は中国の一部である」という認識を完全に消し去ることはしていない(民進党は独立傾向の強い主張をしているが、完全な独立を指向しているわけではない)。

 なお、台湾は日清戦争の結果、1895年の下関条約で日本の植民地となり、日本により大陸とは別系統の統治が行われていた結果として、蒋介石の国民党が台湾を大陸と切り離して実効支配することを可能にした、という歴史的経緯を踏まえれば、現在の台湾問題のそもそもの原因を作ったのは日本である、という認識は忘れないようにしなければならない。台湾問題は、台湾と大陸との両方に住む中国の人々が自らの判断で解決すべき問題であり、問題の原因を作った日本(あるいは日本人)が、台湾問題についてあれこれ主張することに対しては、不要な反発を招くことを日本人は自覚しておく必要がある。

 上記のニクソン訪中や日中国交正常化に際して、毛沢東と周恩来が西側のテレビに頻繁に登場したが、それらの映像は、毛沢東がかなり高齢で健康を害していること、周恩来が第一線の政治家として厳しい交渉の先頭に立って活躍していることを内外に強く印象付けた。林彪墜落死事件の処理やこれらの外交案件で改めて見せ付けた周恩来の政治家としての優秀さと毛沢東の健康問題が、この後の中国の政治情勢に微妙な影響を与えていく。

 即ち、中国政治の世界において、周恩来に対する信頼が一層高まり、毛沢東が健康を害していたことと相まって、周恩来は名実ともに中国政府の中心的存在となっていく。これが江青ら文革派の反発を招くことになる。しかし、周恩来はこの時(1972年9月の時点で)既に74歳になっており、いつまで激務に耐えられるかわからなかった(「参考資料14:文化大革命十年史」によれば、1972年5月の時点で既に周恩来はガンに冒されていることがわかっていたのだという)。そこで、毛沢東と周恩来は、周恩来に匹敵しうる実務能力を持った次世代の政治家としてトウ小平(1972年9月時点で68歳)に期待を寄せ、その復活を図っていくのである。

 そして、この後、周恩来・トウ小平グループと江青ら文革派グループとの確執が中国政府を動かす機軸となっていく。

以上

次回「3-4-2:【コラム:『日中国交正常化』『台湾当局』という表現について】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-25db.html
へ続く。

|

« 3-4-1:ニクソン訪中 | トップページ | 3-4-2:【コラム:「日中国交正常化」「台湾当局」という表現について】 »

「中国現代史概説」」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 3-4-1:ニクソン訪中 | トップページ | 3-4-2:【コラム:「日中国交正常化」「台湾当局」という表現について】 »