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2010年3月 2日 (火)

3-3-4:文化大革命下の政治と社会の混乱

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第4節:文化大革命下の政治と社会の混乱

 1978年12月から現在に至る中国の改革開放路線は、文化大革命を否定するところから始まっている。従って、文化大革命を批判することは、現在の中国では政治的なタブーでもなんでもない。しかし、この当時を経験した多くの中国の人々はあまり文化大革命時代のことを語りたがらない。外国では、文化大革命については「赤い腕章に付けて、赤い表紙の毛沢東語録を掲げてスローガンを叫ぶ紅衛兵の群れ」「走り幅飛びでファウルをした時には赤旗ではなく白旗を揚げる」「輪タク屋が汗を流してペダルを漕いでいる後ろで客が客席にふんぞり返っているのはブルジョア的だから、輪タクのペダルは客が踏むべきである」といった「滑稽なほどに常識はずれなもの」というイメージが強く残っている。しかし、文化大革命の本当の「悲惨さ」を外国のメディアはあまり伝えてはいなかった。文化大革命は、外国人があまり知らない大きな深い心の傷を多くの中国の人々に与えたのである。

 「四旧打破」を叫ぶ紅衛兵たちによる歴史的文物の破壊の嵐の中で、高名な文化人たちも迫害を受けた。1966年8月23日、67歳の小説家で劇作家の老舎ら文化人たちは、首から「黒い仲間」「妖怪変化(中国語で「牛鬼蛇神」)」といったプラカードを下げさせられ、跪(ひざまず)かされて、深夜まで、殴る・蹴るの暴行を受けた。老舎は、翌8月24日未明、入水自殺した(1978年に名誉回復)。

 1950年代後半以降、「革命幹部、革命軍人、革命遺族、労働者、農民」の出身の人々は「紅五類」とされ、「旧地主、旧富農、反動分子、悪質分子、右派分子」の出身の人々は「黒五類」に分類されて、戸籍とともに「トウ案」(「トウ」は「木」へんに「當」=身上調書のこと)として記録され、その「トウ案」は公安当局で保存されていた。こういった区別は、親の世代が何であったかに基づいており、本人の思想や行動とは関係しない一種の「差別構造」であった。本来、文化大革命は、こういった不合理な「差別構造」を破壊して、純粋な平等社会を目指すことを理想としていたはずなのであるが、若くて未熟な紅衛兵たちは、往々にして「文化大革命はブルジョア階級打倒の革命であるから『紅五類』が『黒五類』を打倒して当然である」と解釈して、「黒五類」の人々を迫害した。

 「黒五類」と目された人々や学者、経済的に比較的裕福な暮らしをしていた人々は、紅衛兵から「ブルジョア的である」として「打倒の対象」とされた。紅衛兵たちは、こういった人々の家に押し入り、「ブルジョア的である」とみなされた人々を引きずり出して「糾弾」し、家中を家捜しして「ブルジョア的である」とみなされた高価なものを没収した。公安当局は、こうした行為を取り締まるどころか、むしろ公安当局側から「トウ案」に関する情報を提供し、誰が「黒五類」であるか、といった情報を提供する場合もあった。こうした状況の下、経済的に裕福な家から金銀財宝を「没収」することが公認同然に行われたことから、もっぱら高価な金銀財宝を「没収」することだけを目的にしてこういった「家探し活動」が行われたケースもあったことは否定できない。

 紅衛兵の跋扈(ばっこ)により、街はほとんど無法状態となった。こういった混乱した状況の下で、現在の視点から見えれば「違法」といえる行為がどの程度の数行われたかは知る由もないが、ひとつの例として、「参考文献14:文化大革命十年史」では、1966年8月27日から9月1日に掛けて、北京市南郊外にある大興県で、公安当局から提供された「黒四類」(地主、富農、反革命分子、悪質分子)に関する情報に基づき、「黒四類」の人々及びその家族325人が殺害された事件を記録している。

 大学は完全にその機能を停止した。中国では新学期は9月から始まり、通常、大学の入学試験は6月に行われるが、この文化大革命の運動により、1966年~1976年の間は大学の入学試験は行われなかった。選抜により大学への入学は行われたが、大学は教育や研究の場ではなく、政治運動の場となった。大学の学者・研究者などの「知識分子」は、労働者の実態を知るべきである、として、各地方の農村へ派遣され、労働に従事させられた。これは「下放」と呼ばれていた。

 1966年~1976年の間、大学が機能を停止していたことにより、この期間に大学教育を受けるべき年齢であった1944年頃~1958年頃生まれの人々(2009年の時点で51歳~65歳前後の人々)は現在の中国ではほとんど組織のトップに立っていない。現在の中国の大学や研究所では、この年齢層の研究者が極端に少なくなっている。2009年の時点で、多くの大学の学長や研究所の所長に40代の人々が就任しているのは、こういった事情による。51歳~65歳前後の年齢層に研究所所長や学長になるような経歴を持つ人がいないのである。一定の年齢層の人々が指導的地位に就くことができず、研究者や大学の指導層において、世代交代がスムーズに行うことができない、という意味で、文化大革命は、現在の中国に対しても大きな負の遺産を残していると言える。

 「プロレタリア文化大革命に関する決定」を決定した第8期十一全会の直前の7月29日、大学における混乱状態について議論するため、人民大会堂で「北京市大学及び中学、文化革命積極分子大会」が開催された。この会議の席上、劉少奇は出席者に対して「プロレタリア文化大革命をどのように推進するのか、君たちははっきりとわかっていない。君たちからどうやって革命をするのかと聞かれれば、正直のところ、私もわからない。」と述べた。この発言は、この時点における劉少奇の正直な気持ちだったろうと思われる。これに対し、8月22日、清華大学内に「劉少奇同志が7月29日に行った講話は反毛沢東思想である」との壁新聞が現れた(参考文献14:文化大革命十年史)。これ以降、劉少奇国家主席を名指しで批判する動きが露骨になっていく。

 多くの人々は、劉少奇を擁護することにより、自分が迫害されることを怖れていたが、上記に述べたような紅衛兵らによって作り出されたほとんど無政府状態的な状態に対しては、党の内部にも批判的な考えを持つ人々は多かった。毛沢東と文化大革命を推進しようとする林彪、江青らのグループは、こういった党内に残る「社会の秩序を守ろうとする勢力」に徹底的な打撃を加えるため、再び「大衆を動員する」という作戦に出る。9月5日、党中央と国務院は「地方革命教員・学生の北京訪問と革命運動見学を組織することの通知」を公布した。赤い腕章を着けて「紅衛兵である」と名乗れば、タダで列車に乗ることができ、目的地ではタダで宿泊することができ、食堂ではタダで食事をすることができるようにするという運動で、「全国経験大交流」(中国語では俗称「串連」)と呼ばれた。これにより、多くの地方の学生が北京に集まり、紅衛兵運動は中国全土に広まっていった。

 「全国経験大交流」で北京に集まった紅衛兵たちは「革命戦士」というよりは、「タダで見知らぬ世界を見ることができる」と考えた好奇心にあふれた純粋で素朴な若者たちが多かったようである。当時北京にいた「北京三十五年」(参考文献12)の著者の山本市朗氏は、同書の中で山本氏が実際に会ったこれらの素直な若者たちの姿を暖かい眼で活き活きと描写している。

 「全国経験大交流」の号令は、当時の中国の交通事情の能力をはるかに超える数の人々の移動を促した。ある学生たちは、人々であふれかえる列車に乗れないことから、大連から約1,000キロの道程を徒歩でやってきて北京にたどり着いた。10月22日付けの人民日報は「紅衛兵は遠征の難きをおそれず」と題する社説を掲載し、これらの大連から歩いて北京に来た学生たちを激賞し、さらなる「全国経験大交流」を煽った。

 しかし、各大学では、学生が「大交流」に出掛けてしまったため、若者たちによる「追求運動」のパワーは分散され、この運動が何のために行われているのかわからなくなってしまった。毛沢東や文化大革命を進めるグループは、劉少奇・トウ小平らの「実権派」を打倒するという本来の目的が「大交流」による混乱によって頓挫することを懸念した。そのため、11月末には「大交流は一時中止する。来年、暖かくなったらまた大交流を再開するので、学生たちは、自分たちが所属するところへ戻るように」との布告が出された。しかし、実のところ翌年1967年春になっても「大交流を再開する」との布告は出されなかった。

 1966年の秋の時点において、毛沢東と文化大革命推進派は、自分たちの政敵、即ち劉少奇やトウ小平ら「実権派」と社会の秩序を維持すべきと考える勢力(今の観点から見れば「良識派」と名付けてもよいかもしれない)を圧殺するために、「大交流」による若者たちのパワーを利用したのである。山本市朗氏が描く純粋で素朴な若者たちの姿と毛沢東や文化大革命推進派が抱いていた政治的意図とを見比べるとき、文革推進派の罪深さに思いを致さざるを得ないと思うのは私だけであろうか。

 10月9日から毛沢東は自ら主宰して全国の省、市、自治区の幹部を集めて中央工作会議を開いた。中間レベルの幹部たちの中から反文革派を一掃するためである。毛沢東や林彪が演説を行い、劉少奇とトウ小平は自己批判をさせられた。この会議でトウ小平は「第8期十一全会の開催中に出された毛沢東主席の壁新聞(「司令部を砲撃しよう-私の大字報」)は、すなわち劉少奇同志と私(トウ小平)の司令部を砲撃するためのものであった」と率直に認めた。また、林彪は「劉少奇とトウ小平の路線は、即ち毛主席の壁新聞が言うように『反動的ブルジョア階級の立場に立って、ブルジョア階級独裁を実行する』路線である」とはっきりと指摘した(参考文献14:文化大革命十年史)。こうして文化大革命の目標が名実ともに明確に提示されたのである。12月25日には、清華大学から始まった5,000人規模のデモ行進が天安門前広場へ到達し「打倒、劉少奇!」「打倒、トウ小平!」のシュプレヒコールが繰り返された。

 しかし、この時点に至っても、劉少奇とトウ小平はまだ政治局常務委員であり「失脚」したわけではなかった。彼らが党内で公式に要職を解任され「失脚」するのは、約1年10か月後の1968年10月に行われた第8期十二全会(中国共産党第8期中央委員会第12回全体会議)の場においてであった。逆に言えば、党内での劉少奇やトウ小平の追放にそれだけ時間が掛かった、ということは、この時点では、文革推進派は、まだ中国共産党全体をコントロールできておらず、党内にも劉少奇やトウ小平に密かに同調する考えを持っている勢力や社会的混乱を良しとしない勢力(今の目で見た「良識派」)の力もまだかなりあったことを意味している。

 特に抗日戦争や国共内戦の苦しい時代を戦い抜いてきた古参の革命軍人たちの中には、革命期を知らない若い紅衛兵たちが革命によってようやく築き上げた中華人民共和国の社会をめちゃくちゃな混乱に陥れていることに大きな不満を募らせる者が数多くいた。こうして、1967年は、文革を徹底的に推進しようとする勢力と文革による「行き過ぎ」を是正しようとする勢力が入り乱れ、誰が敵で誰が味方だかわからない混乱の年となっていくのである。

 文革推進派の張春橋、姚文元らは上海市党委員会に対する「実権派打倒運動」を展開し、1967年1月5日、上海の労働者造反派による上海市党委員会の権力の奪取に成功した。上海労働者造反派は、権力奪取に成功した後、既存の党委員会や人民政府を打倒して、コミューン型自治組織の設立を目指した。そして2月5日には、上海の労働者や農民の組織は、旧来の上海市党委員会と上海市人民政府を解体して新しく「上海人民公社」(上海コミューン)が設立されたことを宣言した。この「上海コミューンの設立」は「造反有理」の理念に基づいて、旧来の支配体制を打破する「四旧打破」を徹底して現実化させたものであった。

 しかし、2月12日、毛沢東は、この新しくできた「上海コミューン」という権力体制について「やはり妥当なやり方をした方がよい」と述べて、同意しない旨の発言を行った。自治組織の「コミューン」の設立は北京の党中央から独立した権力構造ができたことを意味し、上海の動きが中国各地に伝播すれば、中国全土はバラバラな「コミューン」の群れに分解されてしまうと考えたからである。ちょうどこの頃、黒竜江省で、革命的大衆・革命的軍人・革命的党員の「三結合」の方式による権力機関「革命委員会」が設立されていたことから、上海においても、「上海コミューン」は、2月24日に「上海革命委員会」と改称されて、その短い命を終えた。「造反有理」「革命無罪」とは言いながら、毛沢東が掌握する党中央に対する「造反」や党中央からの「独立」は許されなかったのである。この上海での動きは、文化大革命が「混乱を拡大させる方向」から「混乱を収拾させる方向」へ方向転換するひとつのきっかけとなった。

 一方、党中央では、革命を知らない紅衛兵世代のため引き起こされた社会的混乱に対する古参の革命軍人らの不満が爆発する事件があった。2月16日、中南海(中国共産党本部がある場所)の懐仁堂という建物において、周恩来の主催で、党、政府、軍の関係者の会議が開かれた。この会議は日常的に関係者の意見を調整する会議であった。この日の会議で、陳毅、葉剣英、徐向前、聶栄臻、李富春、李先念、譚震林、余秋里、谷牧ら古参の革命軍人らのグループと康生、陳伯達、江青、張春橋、姚文元ら文革推進派のグループとの間で激しい議論(ののしり合いも含む)が行われた。譚震林は、この会議の翌日、林彪に対して「江青は則天武后よりはるかに凶悪である」とののしる手紙を送った。林彪はこの手紙を毛沢東に見せた。毛沢東は、2月18日、文革推進派を罵った古参革命軍人たちを批判する態度を明らかにした。

(注)則天武后:西暦624年~705年。唐の第3代皇帝高宗の皇后で、高宗の死後、皇帝の権力を簒奪(さんだつ)して帝位に就き、国号を「周」に改めた。

 2月25日以降、7回にわたり「政治生活会」と称する会議が開かれた。実質的に古参革命軍人グループを批判する会議だった。それ以降、懐仁堂での会議のような党・政府・軍の打ち合わせ会議は開かれなくなった。党政治局、党軍事委員会常務委員会は機能を停止し、その代わりに文革小組と党軍事委員会事務組が党と軍を牛耳るようになり、党と軍は文革推進グループの手に掌握されるようになった。古参革命軍人らが懐仁堂の会議で文革推進グループを批判した事件は「二月逆流」と呼ばれるようになった。

 毛沢東の意向を背景として、江青はまず自分を「則天武皇より凶悪」と罵った譚震林を標的として「譚震林打倒!」の運動を展開した。それに引き続いて、陳毅、余秋里、谷牧らに対する打倒運動が展開された。これら古参革命軍人らは、抗日戦争期、国共内戦期の歴戦の勇士であり、多くの人々から尊敬を集めていたことから、一部の人々は「二月逆流」批判の運動に対して反発した。しかし、そういった古参革命軍人らを擁護する人々は、「プロレタリア文化大革命に反対するブルジョア勢力」として批判闘争の対象とされていった。

 周恩来も古参革命軍人らに対する攻撃には批判的だった。周恩来は様々な手段を使って党に対して功績のある人々を守ろうとした。そのため、林彪、江青ら文革推進グループは「周恩来こそ『二月逆流』の黒幕だ」とみなした。一部の急進派の文革推進グループは周恩来を批判する壁新聞を登場させた。しかし、周恩来に対する批判は、多くの大衆から猛反発を受けた。周恩来は、それまであまり自らが政治運動の先頭に立つことはしなかったが、着実に政策実務をこなし、優れた外交手腕を発揮する実務家タイプの政治家であり、毛沢東が持つ畏怖感を与えるカリスマ性とは異なる親近感の持てる指導者として、多くの人民から大きな敬愛を集めていた。毛沢東もその政権を維持するためには周恩来の実務能力と外交手腕を絶対的に必要としていた。

 毛沢東が政治の実務において周恩来を必要としていたことは、「第3章第1部第3節:国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期の中華人民共和国」で述べた実例が示している。中華人民共和国直後、毛沢東は建国期の援助を求めるためソ連を訪問したが、この時、スターリンは毛沢東を軽くあしらったために交渉は難航した。そこで、毛沢東は急きょ周恩来を北京からモスクワに呼び寄せて、ソ連との間で交渉に当たらせ、「中ソ友好同盟相互援助条約」を締結することに成功したのである。周恩来の外交手腕は、1955年にインドネシアのバンドンで開かれたアジア・アフリカ会議において、中国を開発途上国をリードする国として位置付けることに成功したことでも示されているし、後にニクソン訪中実現の際にも大いに発揮され、中国の国際的地位の向上に大いに貢献した。実際、毛沢東自身、周恩来を信頼できる実務をこなせる優秀な副官として、生涯、全幅の信頼を置いていたと思われる。

 従って、毛沢東は、林彪や江青ら文革推進グループが古参幹部を批判することは許していた中で、周恩来を攻撃することだけは認めなかった。そのため、文革推進グループにとっては、周恩来は「目の上のたんこぶ」的存在となった。この周恩来と文革推進グループとの対立関係が、林彪が失脚した後、文化大革命後半の1973年頃に江青らが周恩来を標的として展開したとされる「批林批孔運動」や、1976年に周恩来の死後、周恩来の死を悼む北京市民の気持ちを蹴散らした「第一次天安門事件」として後に現実のものとして噴出していくことになるのである。

以上

次回「3-3-5:『七・二○武漢事件』をはじめとする『武闘』」
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へ続く。

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