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2010年3月18日 (木)

3-4-4(1/2):文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第4節:文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(1/2)

 中華人民共和国の歴史の中で、偉大な政治家を3人挙げよ、と言われれば、まずほとんどの人が毛沢東、周恩来、トウ小平の3人を挙げるだろう。1973年~1975年の中国の政治世界はこの3人を中心に展開するが、この3人の関係については、人によってその見方がだいぶ異なる。

 毛沢東は1893年12月生まれ、周恩来は1898年3月生まれ、トウ小平は1904年8月生まれである。周恩来は日本留学の後、フランスへも留学するが、それと同じ時期にトウ小平もフランスへ留学していた。フランスで、周恩来とトウ小平は知り合い、周恩来がトウ小平を共産主義運動に誘った、と言われている。従って、トウ小平は周恩来を良き先輩として敬っており、この二人の関係がよかったことについては、誰も異論を挟まない。

 毛沢東が優れた(というよりも天才的な)政治的思想家、軍事戦略家であったことは誰も否定しない。ただ毛沢東が平和な時代における優れた政治家であったのかどうか、には多くの人が疑問を呈すると思われる。発想が天才的であっただけに、毛沢東が発動する政策は、戦争の時代には抜群の効果を発揮することがあるが、平和時においては現実離れしていて誰も付いていけないこともあった(1958年に発動した「大躍進政策」がその典型例である)。そういった毛沢東を支え、戦争のない時代における政策実務を一手に引き受けたのが周恩来であった。

 周恩来は、政治家というよりは極めて優秀な実務官僚だった、と言った方がよいかもしれない。周恩来は、政治の基本路線を自ら打ち出すことはせず、常に毛沢東が敷いた路線を実際の政策として実行するために働いた。周恩来は、中国革命の初期の第一次国共合作時代に孫文が開いた黄浦軍官学校の政治部副主任を務めた(校長は蒋介石)(第2章第2部第3節:第一次国共合作」参照)が、周恩来の名前はその後、抗日戦争期、国共内戦期を通じて、軍事作戦の指揮官としてはあまり登場しない。

 周恩来が歴史の表舞台に名を残しているのは、西安事件における蒋介石との交渉(1936年12月)、中華人民共和国成立直後の「中ソ友好同盟相互援助条約」の締結交渉(1950年2月)、1955年のバンドン会議における発展途上国の中での中国の国際的地位の向上、1972年のニクソン訪中へ至る対米交渉や日中国交正常化など、行政官・外交官として登場する場面である。周恩来は、戦争時の軍人としてではなく、平和時の現実的な政策運営に能力を発揮するタイプの人物なのである。地味なのであまり目立たないが、内政面でも周恩来は堅実な政策運営に努めた。文化大革命が始まった後、周恩来は毛沢東の路線を一貫して支持していたが、例えば、軍の内部に文化大革命の影響による混乱が及ばないよう、様々な指示を出すとともに、江青・林彪らが排撃しようとした古参軍人らを擁護した(「第3章第3部第4節:文化大革命下の政治と社会の混乱」参照)。

 また、毛沢東が核兵器の開発を急がせる中で、1970年11月、周恩来は「第二機械工業部(当時核兵器開発を担当していた部署)は爆弾を担当するだけでなく、原子力発電所もやらなければならない。」と述べている(参考資料13:当代中国的核工業)。政治的理想を目指すだけではなく、政治は現実の人民生活の向上のために努めなければならないと考えていた周恩来の考えを示すエピソードである。この考え方は「黒い猫でも白い猫でもネズミを捕る猫はよい猫だ」と述べたトウ小平の考え方と同じ方向を示すものである。

 トウ小平は、1960年代初期に劉少奇とともに行った「経済調整政策」や1978年以降の改革開放政策において優れた能力を発揮するとともに、「経済特区」「一国二制度」などの独創的な政策を考え出し、「総設計師」と呼ばれるように平和時において自ら政策のビジョンを示し、しかもそれを着実に実行する能力を持った優れた政治家であったことは、誰も疑いを挟まない。しかし、それと同時に、トウ小平は優れた軍人でもあった。特に国共内戦期においては、軍を率いる将軍として数々の戦いに参加している(第3章第1部の「第2節:中華人民共和国の成立」「第3節:国際情勢に翻弄(ほんろう)される建国期の中華人民共和国」参照)。このことは、文化大革命後半期と改革開放期におけるトウ小平の政治力に大きな影響を与えた。過去の輝かしい軍歴と軍人としての統率力により、トウ小平は軍の内部でも一定の尊敬と支持を集めていたからである(軍からの支持に立脚しているかどうかが、トウ小平とトウ小平以降の現在至るまでの中国の国家指導者との決定的な違いである)。

 毛沢東は、トウ小平について、目指している政治理念のベクトルは全く異なるが、実務政治家として政策のビジョン策定能力と実行能力があり、しかも軍の内部を掌握できる者として、その能力を高く評価していたと考えられる。従って、文化大革命によって混乱した党と軍と政府をまとめる役割を期待して、1973年2月にトウ小平を北京に呼び戻したものと思われる。毛沢東は、トウ小平には、毛沢東の目指す政策目標の方向に考え方を変えてくれれば、自分の死後も中国を任せられる人物であると考えていたものと思われる(しかしながら、その後の歴史が示すように、トウ小平は毛沢東の理想の方向へ考え方を改めることは全くせず、当時批判された通り、最後まで「悔い改めない走資派(資本主義に走る者)」としての道を歩むことになる)。

 毛沢東と周恩来の二人の間の関係については、人によって見方がだいぶ異なる。

 周恩来については「自分の主張を一切出さず、ただ毛沢東に黙って従い、毛沢東が右へ行けと言えば右へ、左へ行けと言えば左へ行くという定見のない政治家であった。」とか「毛沢東が自分に反対する者に対して残酷なほどに冷徹なことをよく知っていて非常に恐れており、毛沢東が言わんとすることを忖度(そんたく)して、右に左に毛沢東の思う方向へうまく渡り歩いてきた風見鶏的存在である。」とか言う人もいる。逆に、周恩来は「自分の考えを前面に出して毛沢東と対立したのでは中国のためにならないと考え、舵取りは毛沢東に任せ、毛沢東の指示に従ってその政策が実現するように務めることが自分の役割だ、と考えたのだ。」と高く評価する人もいる。

 毛沢東側から見た周恩来像についても、二つの見方がある。ひとつは「実務政治家としての能力はあるので必要な場面では使っていたが、毛沢東は心の底から周恩来を信頼していたわけではない」とする見方である。もうひとつは「毛沢東は、周恩来に対し、最後まで自分を裏切らないのは彼だけだ、といった最大限の信頼を置き、自分が政策ビジョンを示した後、その実施は全面的に周恩来に任せていた。」「毛沢東が『批林批孔運動』において孔子になぞらえて周恩来を批判する『四人組』グループに同調したのは、周恩来に自分の理想と異なる方向へ行って欲しくないことを示そうとしただけであり、周恩来を失脚させようなどとはつゆほどにも思っていなかった。」という見方である。

 冷静な判断をすべき歴史家の立場からすれば、具体的な証拠に基づいて、どの見方が正しいかを判断すべきなのだと思う。しかし、私は、最も偉大な指導者である毛沢東と最も敬愛すべき指導者である周恩来とが、お互いに相手を信用しておらず、周恩来は毛沢東の冷徹さを恐れており、毛沢東は実務官僚的な周恩来に対して猜疑心を持っていた、と考えるのは心情的には受け入れがたい。政治家としての目指すところと、政策の進め方に違いはあったが、毛沢東と周恩来の二人は、互いの長所と欠点を理解し合い、お互いに尊敬の念を持ち、深い信頼関係で結ばれていた、と信じたい、というのが私の偽らざる気持ちである。おそらくこういった心情は、多くの中国の人々も共通に持っている気持ちなのではないかと思っている。

 1976年1月、周恩来が死去した時の追悼大会は、トウ小平が取り仕切ったが、毛沢東は出席しなかった。「参考資料17:トウ小平秘録」によれば、この時、毛沢東は既にかなり健康を害していたが、車イスを使えば短時間ならば追悼大会に出席できる状況だったという。毛沢東が周恩来の追悼大会に出席しなかったのは、周恩来が進めトウ小平が引き継ごうとしている経済建設路線に反対していたからなのか、周恩来の死によって唯一の信頼できる者・心を許せる者を失った毛沢東が自らの揺れ動く感情を大衆の前に晒(さら)したくないと思うほどに大きなショックを受けていたからなのか。この時の毛沢東の本当の心情は永遠にわからないだろうと思う。しかし、私としては、後者であると信じたいのである。

 いずれにしても、前節で述べたように、1973年3月10日、中国共産党中央は、トウ小平の党の職務への復帰と副総理への復職を決定した。この時、トウ小平は、行政府としての国務院では副総理であったが、党内の立場としてはヒラ党員のままであった(トウ小平が党中央委員に選出されるのは1973年8月の第10回党大会)。一方で、この後の5月に行われた党中央工作会議で毛沢東が改めて孔子批判を行い、それにより「批林批孔運動」が始まった。

以上

次回「3-4-4(2/2):文革グループと周恩来・トウ小平グループとの確執(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-c9ce.html
へ続く。

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