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2010年3月15日 (月)

3-4-3(1/2):トウ小平の復活と批林批孔運動(1/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第3節:トウ小平の復活と批林批孔運動(1/2)

 1971年9月13日の林彪墜落死事件は、中国の政治に大きな衝撃を与えた。この林彪事件の処理に対する周恩来の対応の仕方、1971年の10月1日の国慶節の祝賀行事が中止になったこと、この事件の直後あたりから急に毛沢東が健康を害したらしいこと等を考えると、林彪が毛沢東の暗殺を企てたり、軍事クーデターを起こそうとまで考えていたとは、毛沢東や周恩来も考えていなかったのではないかと思われ、毛沢東や周恩来もかなりのショックを受けたのではないかと思われる。

 特に、国防部長で軍を統括する立場にあった林彪が毛沢東に反旗を翻したことの衝撃は大きかった。軍全体が本気で林彪と行動をともにすれば、実際にクーデターが成功したかもしれなかったからである。しかし、林彪は、文化大革命の波を利用して軍の内部にいた自分に対する反対派、特に革命戦争以来功績のあった軍の老幹部たちを次々に失脚させていったことによって、自分の意のままになるグループを軍の中枢に据えていったことから、実際は軍の内部には林彪に反発する勢力が大きく存在しており、林彪グループのクーデター計画は軍全体には広がらなかった。

 そもそも、朱徳元帥や陳毅、葉剣英、徐向前、聶栄臻、李富春、李先念、譚震林、余秋里、谷牧ら1967年の「二月逆流」で批判された古参の革命軍人・老幹部は、抗日戦争や国共内戦期における輝かしい功績によって、軍の内部で幅広く尊敬を集めていた(「二月逆流」については「第3章第3部第4節:文化大革命下の政治と社会の混乱」参照)。こういった古参革命軍人・老幹部を文化大革命に反対する勢力として排除していった林彪らのやり方に対しては、多くの実直でまじめな軍人たちは表立って反対できないながらも、内心強い反発を感じていたと思われる。

 これらの「反林彪感情」は、林彪墜落死事件で一気に表面化する。革命戦争と中華人民共和国の成立に功績のあった軍の老幹部を尊敬する気持ちは、極めて自然なものであり、その自然な感情が林彪の死とそれに伴う林彪一派の逮捕によって一気に軍の内部に広まった。毛沢東も、林彪墜落死事件により、林彪が軍の内部で様々な方法で自らの息の掛かったグループの地位を高め、多くの反発を買っていたことを改めて認識した。毛沢東としても、軍の分裂を防ぎ、軍をひとつにまとめることが林彪事件後の最も重要な課題であった。

 そのため林彪墜落死事件後の動きは、まず軍の中で始まった。林彪がモンゴルで墜落死していから1か月も経たない1971年10月3日には、中国共産党中央は、林彪派が牛耳っていた党軍事委員会弁事室を解体し、「二月逆流」で批判されていた葉剣英が党軍事委員会を主事することとした。葉剣英は、後に1976年10月に華国鋒らとともに江青ら「四人組」逮捕の中で主導的な働きをし、改革開放後の1978年~1983年まで全国人民代表大会常務委員会委員長(当時はまだ国家主席職がなかったので国家元首として扱われていた)を務めている。つまり、文化大革命は1976年10月の「四人組」逮捕で終わるのであるが、軍の内部においては、文化大革命は実質的には林彪墜落死事件によって既に終了していたのである。この後も、江青ら文革グループが中央政界の中で暗躍するが、林彪がいなくなった後の文革グループは軍を掌握することは結局できなかった。このことが文化大革命後半期を考える上で非常に重要なポイントである。

 中国共産党中央は、1971年12月11日、「林陳反党集団反革命政変粉砕闘争」という資料を全国に配布して「批林整風運動」の展開を開始した。「林」はもちろん林彪のこと、「陳」は、1970年8月に江西省廬山で開かれた中国共産党第9期中央委員会第二回全体会議で「毛沢東天才論と国家主席就任提案」を行って毛沢東から批判を受けた陳伯達のことである。

 1972年1月6日、「二月逆流」で批判された古参幹部の一人である初代上海市長の陳毅が死去した。1月10日には、陳毅の追悼大会が開かれたが、この追悼大会には毛沢東自らが参加し、陳毅の遺影の前で深々と頭を下げた。この時の映像は中国国内に残されている(映像・音声資料7:DVD「歴史をして未来を語らしめる(四)文革十年)。この映像を見ると、毛沢東は陳毅の遺影の前に進み出て頭を下げて弔意を表したが、この時の毛沢東は一人で歩くことができず介添人に支えられてやっと歩ける状態だったことがわかる。前年(1971年8月)には、毛沢東は南方を視察して林彪を批判する講話等を行っていることから、毛沢東が林彪事件を挟んでこの半年の間に急に健康を害したことは明らかである。林彪事件がさすがの毛沢東に対してもかなりの精神的ショックを与えたのではないか、と言われているゆえんである。

 なお、この時の映像をよく見るとカンボジアのシハヌーク殿下が陳毅の追悼大会に出ていたことがわかる。アメリカに支援されたロン・ノルによるクーデターで政権を追われたシハヌークは、この頃、多くの時間を中国で過ごしていたのである(「第3章第3部第9節:ニクソンによる米中接近への動き」参照)。

 この追悼大会で、毛沢東は陳毅の遺影の前に頭を下げるとともに、「二月逆流」で失脚した古参幹部を復活させるべきことを人々に語ったとのことである。また、この席で、毛沢東はトウ小平を評価する発言もした、とされている。これはアメリカのニクソン大統領が訪中する約1か月前のできごとであった。当時、この陳毅追悼大会の様子やこの時の毛沢東の発言が外国に伝えられることはなかったが、あきらかにこの時が文化大革命におけるひとつの変節点であった。

 アメリカのニクソン政権との外交交渉等を通じて、この時期、中国政府の実質的な運営権は周恩来が握っていた。江青ら文革グループの力はまだ強かったが、実務的な政策遂行能力については、周恩来や彼に従う実務官僚の手腕に江青ら文革グループがかなうはずはなかった。1971年10月の中国の国連への復帰、1972年2月のニクソン大統領の訪中等を通じて、世界への窓を開こうと考えていた周恩来は、経済面においても鎖国的政策をやめ、必要な部分については、外国の技術や製品を利用しようと考えていた。そこで1972年1月、周恩来は毛沢東の了承の下、化学肥料、化学繊維に関する8基のプラント(約43億ドル)を外国から導入することを決めた。対外開放政策は1978年12月にトウ小平が始めたことになっているが、実はそこへ至るレールは、周恩来によって文化大革命の最中の1972年頃から既に敷かれ始めていたのである

(注)1972年9月の日中国交正常化が中国の対外経済開放路線の推進に大いにプラスに働いたことは再認識すべきである。日本人は、往々にして戦後の国際関係における自らの影響力を過小評価する傾向があるが、中国の現代史を考える上において、戦前におけるのとは全く別の意味で、中華人民共和国の歴史に対して、日本は日本人が考えている以上に大きな影響を与えているのである。

 日中国交正常化直後の1972年10月6日、「光明日報」は、北京大学副学長の周培源による論文「総合大学理科教育革命に対する一つの見方」を掲載した。この論文は、自然科学基礎理論の学習と研究を重視し強化しなければならないと主張していた。この論文は、周恩来の指示に基づいて書かれたものだと言われている。周恩来による中央政府の実務の掌握、アメリカや日本との関係改善、外国からのプラントの導入、そしてこういった自然科学研究の重視を主張する論文の発表は、文化大革命の原理を推し進めて政治の実権を握りたいと願っていた江青ら文革グループに大きな警戒感を呼び起こした。「参考資料14:文化大革命十年史」によれば、この周培源の論文は、7月頃には書き上げられ、「人民日報」に掲載する予定だったが、文革グループの張春橋、姚文元らが「人民日報」社に働きかけて掲載を見合わさせたため、やむなく10月になって「光明日報」に掲載された、とのことである。

 周恩来と江青ら文革グループとの間では「批林整風運動」の中で「林彪をどのように批判するのか」という点について意見の対立があった。周恩来は「林彪は『極左』である」として批判しようと考えていた。江青らは「極左」とは、共産主義の理論を最も純粋に推し進めようとする自分たち文革グループのことを指し、周恩来が行おうとする「林彪=極左」という主張は、林彪を批判することを通じて自分たち文革グループを攻撃しようとすることだと考えた。そのため、江青らは、林彪は革命を進める毛沢東を暗殺し軍事クーデターを起こそうとしたのだから「極右」であり、林彪は「極右」だからこそ批判されなければならないのだ、と主張しようとした。

 江青らは、林彪グループがクーデター計画として作成した「五七一工程紀要」の中で「毛沢東は秦の始皇帝のような独裁者になった」と批判していることを利用しようと考えた。秦の始皇帝は、孔子が広げた儒教を批判し、中国として初めての統一国家を作ったのであるが、孔子はそもそも君主に対する忠誠を重要視したり男尊女卑の考え方を採ったりする封建思想の根元であり、孫文等による中国革命初期にも批判されていたのであるから、秦の始皇帝を批判することは、孔子を礼賛することにつながり、封建主義を尊ぶ極右思想と同じだ、という論理構成を考えたのである。この論理には、毛沢東も賛成する部分があった。毛沢東も、多くの中国の近代革命家と同じように孔子に批判的な考え方を持っていたからである(田中総理が訪中して毛沢東と会談した際、毛沢東が儒教が日本に伝わったことを「中国が日本に迷惑を掛けたことのひとつ」と指摘したことは前節の【コラム:日中国交正常化時のエピソード】で述べた)。

 江青らは、乱世を統一した秦の始皇帝は、封建思想を広げた孔子を批判した点でも、一定の近代性を有しており、本来もっとプラスに評価されるべきである、と主張した。そして、始皇帝を否定した林彪は孔子を擁護する封建思想に基づく「極右分子」である、として批判しようとしたのである。林彪を批判する批判の仕方としてこのような考え方を使うことについては、毛沢東も同意した。孔子は批判されるべきだとする毛沢東の考えと合致していたからである。

 このため、毛沢東は、1973年5月に行われた党中央工作会議において、林彪を批判すると同時に孔子を批判することを提唱した。つまり、毛沢東は、林彪を批判する際の批判の仕方として、周恩来が主張しようとしていた「林彪は『極左』だから批判されるべき」という論理ではなく、「林彪は『極右』だから批判されるべき」という江青ら文革グループの主張に同意したのである。このため、1973年5月以降、「批林整風運動」は「批林批孔運動」へと形を変えていく。

以上

次回「3-4-3(2/2):トウ小平の復活と批林批孔運動(2/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-876e.html
へ続く。

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