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2010年3月 6日 (土)

3-3-8:中ソ軍事衝突

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第8節:中ソ軍事衝突

 次々節で述べる林彪墜落死事件(1971年9月13日)は、中国を巡って目まぐるしく動く国際情勢の動きと並行して起きた。林彪墜落死事件については、今なお謎の部分が多いが、当時の国際情勢を踏まえるとき、次の二つの可能性が見えてくる。

(1)1969年の中ソ軍事対立は林彪が軍の内部での地位を高める当たって対外的な緊張関係を作ることを目的に林彪一派がソ連を挑発した結果だった。

(2)国際戦略上の見地からアメリカとの接近を図ろうとする毛沢東・周恩来の路線に対し、朝鮮戦争以来、アメリカを敵視する軍の内部の強硬な意見を背景とした林彪がこれに反対したため、毛沢東が林彪を排除しようと動いたことにより林彪は毛沢東の暗殺を計り、それが失敗した結果が林彪の墜落死事件となって現れた。

 1969年の中ソ軍事衝突は、中ソ双方とも「相手側から先に挑発してきた」と主張しており、具体的にどういう経緯で始まったかは必ずしも明らかでははいが、軍事的衝突は、3月に極東部のウスリー江において起きているほか、その後、新疆ウィグル自治区など、長い中ソ国境の様々な場所で起きており、誰かの考えに基づく計画的なものであったとは考えにくい。従って、中ソ軍事衝突を「林彪一派が自らの軍内部での地位を高めるために起こした謀略」とみなすのは、おそらくは正しくない。しかし結果として、中ソ軍事衝突に起因する軍内の緊張感が林彪一派の軍全体に対する求心力を高め、1969年4月に党の規約に「林彪同志は毛沢東同志の親密な親友で後継者である」とまで規定されるに至った背景のひとつになった可能性はある。

 また、林彪墜落死事件の背景に米中接近がある、という考え方の根拠は、1972年2月に毛沢東がアメリカのニクソン大統領と会見した際、「我が国にも貴国と接近することに反対するグループがいるが、彼らは飛行機で外国へ逃亡した」と述べた、というアメリカ側の記録(「参考文献8:中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」で引用されている「ニクソン訪中機密会談録」名古屋大学出版会(2001年))がひとつの根拠とされている。しかし、毛沢東はニクソン大統領との会見時にほんとうのことを述べたのかどうかは不明であるし、林彪が米中接近に反対の意見を持っていたのだとしても、そのことだけに林彪墜落死事件の原因を求めることはできないと考えられる。1968年10月の第8期十二全会において、林彪・江青らがトウ小平に対し永久党籍剥奪の処分を求めたのに対して毛沢東がこれを拒否したことから考えて、ニクソン大統領が米中接近を模索し始める以前から、毛沢東が林彪に対して警戒感を抱いていたと考える方が自然であると思われるからである。

 いずれにせよ、林彪墜落死事件を考えるに当たっては、当時の中国を巡る国際情勢をざっと理解しておくことが必要だと思われるので、以下、中国国内の情勢を離れて、本節と次節において、中国を巡る当時の国際情勢について述べることとする。まず本節では1969年の中ソ軍事衝突について述べたい。

 今まで述べてきたように、そもそも1956年のフルシチョフによるスターリン批判以降、中国共産党とソ連共産党との間の対立は次第に高まってきた。フルシチョフによるアメリカとの平和共存路線とそれに基づく中国に対する原爆の技術資料と原爆模型の提供の拒否は、共産党同士の路線上の対立から、中国とソ連という国家同士の対立へと発展した。その結果、1960年には、ソ連が当時中国に派遣していた技術専門家の総引き上げを決め、中ソ対立が決定的になったことは以前に述べた(第3章第2部第4節:フルシチョフによる「平和共存路線」と中ソ対立)。その後、毛沢東は、1960年代初頭の劉少奇、トウ小平らによる「経済調整政策」を批判する過程で、ソ連を「修正主義」として批判するようになった(「第3章第3部第1節:中ソ論争と文化大革命前夜」)。

 1960年の決定的中ソ対立とその後の中国による対ソ批判に引き続き、中国は独自の技術開発により、1964年に原爆実験を、1967年には水爆実験を成功させた。こういった中国の動きに対し、中国と長い国境線を有するソ連は神経質な目で見ていた。しかし、ソ連にとって中国の領土を侵すような行動に出るメリットは何もなかったし、中国側としても現在の国境線を大きく変えてソ連側に侵入しようとするメリットはなかった。従って、路線対立と核兵器の開発による両国間の緊張は高まりつつあったものの、中ソが軍事的に衝突する必然性は、中ソ両国とも持っていなかったはずである。

 しかし、中国側にソ連を「脅威」とみなす根拠となった事件が1968年8月に起こった。チェコスロバキア事件(「『プラハの春』事件」)である。当時、チェコスロバキア共産党の書記長ドプチェクは「人間の顔をした社会主義」を唱え、社会主義体制は維持しつつも、一定の報道や言論の自由を認める、という政策を打ち出した。いわゆる「プラハの春」である。ドプチェクによる政策は、社会主義体制を変革することまでは考えていなかったが、言論の自由によって、ソ連の影響力からの脱却を求め、チェコスロバキアのワルシャワ条約からの脱退を指向する意見も出始めるようになった。自らの勢力圏からの脱却を許さないソ連軍は、1968年8月、ワルシャワ条約機構軍を率いてチェコスロバキアに進駐し、ドプチェクの改革推進を阻止した。ソ連は1956年にハンガリーで起こしたのと同じような行動を1968年のチェコスロバキアに対して行ったのである。

 この「プラハの春」事件は、ソ連とは独自の路線を歩む中国に対して大きな恐怖心を与えた。ソ連にとって、チェコスロバキアと中国とでは、その国の規模の大きさがあまりにも違いすぎることから、中国がソ連の意向に従わないからと言って軍隊を派遣して中国を従わせようなどとはソ連も考えていなかったはずであるが、中国側からすれば、中国に比べて圧倒的な軍事力、特に強大な核兵器を持つソ連のチェコスロバキアに対する態度は、中国に対しても軍事的圧力を掛けてくるのではないか、との疑いを持たせるに十分だった。そのため、中国は、ソ連国境における軍事配備を強化した。

 そうした中で、1969年3月2日、極東の中ソ国境を流れるウスリー江の中洲(中国名「珍宝島」、ソ連名「ダマンスキー島」)の領有を巡って軍事衝突が起きた。ウスリー江は、この中洲の部分で中国側に食い込むようにU字型に蛇行し、後にU字の根本のところが短絡して中洲ができた。中国側、ソ連側ともこの中洲は自国のものだと主張していたのであるが、中国側にとっては、自国領内に大きくU字型に食い込む部分の中洲にソ連軍が駐留することは戦略的に許されるものではなかったのである。この1969年3月2日の衝突が、どちら側からの挑発で始まったのかは必ずしも明らかではない。また、双方の死傷者の数も明らかにされていないが、数十人の死傷者が出たと言われている(この戦闘で中国側はソ連の戦車をろ獲し、それを軍事博物館で展示している)。

 このソ連との鋭い対立を通して、中国の軍の内部が林彪の下に一本化されたことは間違いなく、この中ソ対立が、直後の4月に行われた中国共産党第9回全国代表大会で決められた党の規約の中に「林彪同志は毛沢東同志の親密な親友で後継者である」との規定が盛り込まれることになる「雰囲気作り」になったことは間違いない。しかし、林彪を「裏切り者の反党集団の首領」として激しく攻撃する現在の中国当局も、このウスリー江における中ソ軍事衝突が林彪一派による挑発によって起こされた、といった言い方は全くしていない。従って、林彪とその一派が軍の内部で権力を掌握していく過程と、この1969年3月の中ソ軍事衝突を直接的に結びつけて考えるのは必ずしも適切ではないと思われる。

 この軍事的な中ソ衝突は、例えば北京の地下に巨大な防空壕を作ったり、第三線計画(四川省やセン西省などの内陸部に重要施設や鉄道等のインフラを集中的に整備すること)をさらに進めたりする役割を果たした。

 なお、ニクソン大統領の特別補佐官だったキッシンジャー氏は、ニクソン大統領は就任(1969年1月)直後から中国との接近を図ろうとしていた、と語っており、ニクソン大統領は、このウスリー江での中ソ軍事衝突の前(おそらく1968年の大統領選挙の期間中)から既に中国との接近を図ろうとしていたと思われるので、次節に述べる米中接近はこの中ソ軍事衝突がきっかけだったと考えるのは正しくない。ニクソン氏は、珍宝島(ダマンスキー島)での軍事衝突の以前から、中ソ間の緊張関係をベトナム戦争をアメリカに有利な形で終結させるために利用しようと考えていたと見るのが正しいと思われる。

 前に述べたように、文化大革命が終了し、1978年に改革開放路線が始まると、次第に中ソ両国が対立する要因は弱まっていった。1991年にソ連が解体されると、必然的に中国共産党とソ連共産党の路線対立は完全に消滅した。ソ連が解体されると、中国とロシアは、世界におけるアメリカの影響力が過大になることは避けたい、という世界戦略的観点と、中央アジア地域におけるイスラム原理主義に基づく民族運動を抑え込みたい、という観点で利害が一致するようになる。その結果、2001年には、中央アジア各国も加えて、上海協力機構が成立し、現在では中ロ両国は良好な隣国関係を保っている。

 1969年の中ソ対立の最も象徴的な事件だったウスリー江の珍宝島(ダマンスキー島)の領有権問題は、このような中ロ両国の関係改善により、現在までに交渉によって完全に解決されている。北京オリンピックが開催される直前の2008年7月、中ロ両国はウスリー江における国境線を画定する議定書に署名した。そして、2008年10月には両国国境を確定する記念碑の除幕式が中ロ両国共催により行われた。これも、日米欧などの世界の有力地域を横目で見ながら、中ロ関係が完全に良好になったことを世界にアピールしたひとつのセレモニーであったと言ってよい。

 私は2009年6月に内モンゴル自治区の中ロ国境にある満州里(マンチューリ)を訪問したことがある。満州里で、中ロ両国の鉄道は接続されており、活発な中ロ貿易が行われている。満州里における中ロ国境は、大草原の中に鉄条網が敷設されていて「国境」であることはわかるが、中国側には中ロ国境をつなぐ鉄道をまたぐ形で記念館が建設されていてロシア領内が見渡せるようになっており、完全に観光地化されている。観光客は国境線から数十メートルのところまで近付くことができる。一応、監視員がいて観光客が国境の鉄条網のところに近づかないように注意しているが、緊張感は全くない。国境地帯を背景にして観光客が記念撮影をしても、何もとがめられない。ロシア側には、昔使っていたのだろうと思われる監視塔が建っているが、監視員が見張っている様子はない。ロシア側の駅からは、ロシア語のアナウンスが聞こえてくる。満州里の町中には、ロシア語の看板を掲げた店も多いが、タクシーの運転手は「今年(2009年)は、世界的な経済危機の影響でロシアの経済が打撃を受け、満州里に来るロシア人の数が減ったので困っている」と話していた。40年前、本格的な軍事衝突に至った両国の国境地帯の状況を知っている私としては、この国境の町ののどかな雰囲気は、非常に感慨深いものだった。

以上

次回「3-3-9(1/2):ニクソンによる米中接近への動き(1/2)」
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へ続く。

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