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2010年3月31日 (水)

3-5-5:改革開放と「四つの基本原則」で終わった「北京の春」

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第5節:改革開放と「四つの基本原則」で終わった「北京の春」

 これまでに述べてきたように、党中央工作会議に引き続いて、12月18日~22日、第11期三中全会が開催された。この会議で決定された事項は、直前まで開かれていた中央工作会議で議論されていたものであり、基本的考え方は12月13日のトウ小平氏の講話の中に凝縮されている。しかし、中央工作会議は公開されていなかったことから、具体的な議論の内容は、この三中全会を通じて、初めて公にされることになった。

 この第11期三中全会で決定された具体的な事項は以下のとおりである。

(参考URL1)「新華社」ホームページ「新華資料」
「中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議公報」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2005-02/05/content_2550304.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

○毛沢東同志が言っていたような大規模で集中豪雨的な大衆による階級闘争は基本的に終結した。社会的矛盾に対しては憲法と法律が規定する秩序に従って解決することとする。

○経済体制に対して改革を行い、自力更正の基礎の上に立ちつつ積極的に世界各国との間で平等互恵関係に基づく経済協力を進め、世界の先進的な技術と設備を導入し、近代化に必要な科学と教育に関する政策を進める。

○経済管理体制については、権力の過度の集中という欠点を改め、地方と企業に対して、国家の統一的な計画的指導の下、大胆に経営自主権を降ろす。党の一元的な指導の下、党と政府、党と企業とが別れていないという問題を解決する。これらの措置により、中央の各部門、地方、企業及び労働者の主導性、積極性、創造性を発揮させる。

○人民公社、生産大隊の所有権と自主権は法律により保護する。労働の量と質に応じて報酬を計算し、平均主義を克服する。人民公社社員の自留地(注:農家が自分の判断で作付けできる自宅周辺の土地)、家庭の副業及び市場での売買を社会主義経済に必要な補完的部分であると位置付け、何人たりともこれに干渉を加えてはならない。

○1976年4月5日の天安門事件は完全に革命的な行動であり、天安門事件の中心は全国人民の周恩来同志に対する哀悼と「四人組」に対する憤怒の声による偉大な革命行動だった。我が党は「四人組」を粉砕した大衆の基礎の上に立ち、全会一致で、党中央が出した「右からの巻き返しに反撃する運動」(注:1975年11月以降行われたトウ小平氏排撃のための運動)及び天安門事件に関する誤った文件を撤回することを決定した。

○彭徳懐、陶鋳、薄一波、楊尚昆の各同志の名誉を回復する。

(注1)「大躍進政策」を批判した当時国防部長だった彭徳懐が1959年7月の廬山会議で批判され失脚したことについては「第3章第2部第5節:『大躍進政策』の結果を受けた権力闘争」参照。

(注2)「文化大革命」の最大の標的だった劉少奇元国家主席については、この第11期三中全会での名誉回復はなされなかった。劉少奇の名誉回復は、「文化大革命」の評価自体に関連するため、簡単にはできなかったのである。

○文化大革命については、歴史的かつ科学的見地から、実事求是の精神で見る必要があるとの認識が全会一致で示された。

○中央の指導者も含めいかなる党員も個人的な意見を「指示」と称してはならない。全ての党員に対し上からの指導に対して中央常務委員会にそれを批判する意見を提出する権利を保障する。

 これらの決定は、12月13日のトウ小平氏の講話の路線を具体的な党の決定として結実させたものだった。この1978年12月の第11期三中全会は、現在に至るまで、「改革開放を決定した会議」として記録されることになる。ただ、事実関係を見れば、この路線は、直前まで開かれていた中央工作会議の中で決まっていたのだった。

 この第11期三中全会の決定では、人民公社や生産隊の自主権の尊重や農民の自留地の権利を保護することをうたってはいるが、人民公社の解体や農業生産の共同化の終了を決めたものではなかった。しかし、党中央の思惑を超えて、農業生産の共同化の終了の試みは現場レベルで進みつつあった。

 第11期三中全会の直前、ちょうど北京の西単で「民主の壁」運動が盛り上がっていた頃の1978年11月24日、安徽省鳳陽県小崗生産隊の18戸の農家は秘密裏に相談し、各農家ごとの責任で生産を行う「各戸責任生産制」を行うことを決めた。これは人民公社とその下にある生産隊による共同生産が原則だった当時の制度では違法なものだった。このため小崗生産隊の18戸の農家は、血判状を作成し、誰かが逮捕されたら残りの者が家族の面倒を見る、という密約を交わした上で、「各戸責任生産制」を始めたのだった。この「各戸責任生産制」は、各農家の向上心を刺激し、翌1979年、小崗生産隊の各農家の食糧生産は急増した。1980年1月、安徽省党書記だった万里氏は小崗生産隊を訪れ各農家が「各戸責任生産制」をやっていたことを知ったが、これを黙認した。黙認するどころか、万里氏はこの「各戸責任生産制」を安徽省内の各地でやらせることにした。

 「各戸責任生産制」により安徽省の農業生産は向上し、後に万里氏は中央に呼ばれて副総理となる。そして、「各戸責任生産制」は中国各地で試みられるようになり、その効果が出てくるにつれて、農業の共同生産の意味は失われていき、ついに1982年には人民公社自体が解体されることになるのである。

 この安徽省鳳陽県小崗生産隊の実例は、現在では、「実事求是」(事実に基づいて真理を追究する)を身をもって実践したものであり、「逮捕される危険性を省みずに敢えて新しい試みを実践した革命的な行動」として賞賛されている。

(参考URL2)「新京報」2008年11月24日付け記事
「連載特集:中国30年日誌11月24日」
「小崗生産隊が一挙に農村改革の序幕を告げた」
http://www.thebeijingnews.com/news/reform30/2008/11-24/037@110223.htm

※中国の改革開放の過程では、常に現実の改革が先行し、それを追認する形で法律の改正がなされることが多い。それは従来の規定に捕らわれずに「実事求是」の精神で改革を進める、という意味では社会を前に進める原動力になっているが、別の一方では、多くの人に「現在の法律を破っても将来は賞賛されることになるかもしれない」という気持ちを抱かせ、遵法意識を希薄にさせている面もあることは指摘しておく必要がある。

 「民主の壁」の運動の盛り上がりから「改革開放政策の決定」へと中国は大きな変化を見せた。三中全会が開催される直前の1978年12月5日には、「民主の壁」に「金生」というペンネームで「第五の近代化~民主およびその他」と題する壁新聞が張り出された。中国共産党による30年来の独裁の現状を述べ、自由も民主もない現状を見つめるよう呼びかけるものだった。「金生」とは、この後、中国の民主化運動のシンボルとなる人物・魏京生氏のペンネームである(参考資料14:文化大革命十年史)。なお、2008年12月9日にインターネット上で発表された「08憲章」(民主化を呼びかける綱領)は、魏京生氏の「第五の近代化~民主およびその他」という壁新聞に象徴される「民主の壁」運動から30年というタイミングを意識していたことは明らかであった。

 「民主の壁」を盛り上げる市民らは「四五論壇」「民主の壁」「群衆参考消息」といった手作りの雑誌を発行した。魏京生氏は、1979年1月8日、「探索」という雑誌を発刊した。厳家祺氏(「参考資料14:文化大革命十年史」の著者)は、1979年1月に発刊した雑誌に「北京の春」と名付けた。まだ季節は冬であったが、1968年の春から夏に掛けてチェコスロバキアで盛り上がった民主化運動(結局はソ連軍の介入によって鎮圧されてしまう)が、「プラハの春」と呼ばれていたことから、それにちなんで命名したものと思われる。このため1978年秋以降盛り上がった「民主の壁」の運動は「北京の春」とも呼ばれる(「プラハの春」については「第3章第3部第8節:中ソ軍事衝突」参照)。

 党組織部長だった胡耀邦氏は第11期三中全会で中央政治局委員に抜擢された。胡耀邦氏は、1979年1月18日~4月3日まで「理論会議」を開催した。これは三中全会での決定を受けて、それまでタブーとされてきたことを見直し、批判の対象とされていた人々や文芸作品の名誉回復を図ることを議論する会議だった。三中全会での決定とこうした党中央の動きは「北京の春」の活動をさらに盛り上げた(「理論会議」は中国語では「理論工作務虚会」という。「務虚」は「実務」に対する言葉で、思想的な理論に関すること、という意味)。

 しかし、1979年1月18日、北京市公安局は、西単の壁に壁新聞を張り「飢餓と迫害に反対し、民主と人権を要求する」デモを計画したとして傳月華という女性を逮捕した(参考資料14:文化大革命十年史)。「北京の春」の運動は、彼女の釈放要求という形で次第に当局と対立するようになっていく。

 この月(1979年1月)、中国政府はいわゆる「一人っ子政策」を発表した。一方、中国は次節で述べるように2月17日から3月5日までベトナムとの間で中越戦争を起こした。トウ小平氏にとっては、1978年11月末の時点で華国鋒氏らの「すべて派」を追い詰めるために利用した「民主の壁」(北京の春)の運動は、既に「すべて派」を自己批判させて彼らから実権を奪い、三中全会で改革開放路線が決定された後は、もはや不要であるばかりでなく、それどころか、邪魔になりつつあった。1979年3月29日、北京市党委員会は、集会・デモ・壁新聞の掲示等を規制する通告を発し、プロレタリア独裁、社会主義、中国共産党による指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想に反対する壁新聞の張り出しや出版物の出版を禁止した。同じ日、魏京生氏は「反革命罪」で逮捕された。

 3月30日、トウ小平氏は、胡耀邦氏が主宰する「理論会議」で「四つの基本原則を堅持する」と題する演説を行った。四つの基本原則とは「社会主義の道」「プロレタリア独裁」「共産党による指導」「マルクス・レーニン主義と毛沢東思想」の4つを堅持することである。

(参考URL3)「人民日報」ホームページ「中国共産党新聞」
「党史人物記念館」-「トウ小平記念館」-「著作選集」-「トウ小平文選第二巻」
「四つの基本原則を堅持する」(1979年3月30日)
http://cpc.people.com.cn/GB/69112/69113/69684/69695/4949681.html

 この「四つの基本原則」は、改革開放が進む中でも堅持され、現在まで続いている基本的な原則である(ただし「プロレタリア独裁」は後に「人民民主主義独裁」に変わった。この変質については「第4章第2部第3節:江沢民主席による『三つの代表』論の本質」で述べる)。このトウ小平氏の演説の4日後、「理論会議」は終了した。胡耀邦氏が2か月半にわたって開いてきた「理論会議」としては、トウ小平氏が示した「四つの基本原則」が結論だったのである。魏京生氏の逮捕とこのトウ小平氏による「四つの基本原則」の宣言により、「民主の壁」(北京の春)の運動は終了する。「北京の春」は、実際の季節の春が北京に訪れる前に終わってしまったのである。

以上

次回「3-5-6(1/2):改革開放政策決定前後の中国の外交政策(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/04/post-ab01.html
へ続く。

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