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2010年3月20日 (土)

3-4-5:「四つの近代化」の提唱と水滸伝批判

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第5節:「四つの近代化」の提唱と水滸伝批判

 1974年12月頃には、文化大革命による社会の混乱を収拾し、安定した政策運営を行うため、1964年以来11年振りに全国人民代表大会(日本の国会に相当)を開催して、閣僚臨時等を決めることとなっていた。毛沢東と周恩来は、この時点で既に健康状態が相当に悪かったが、1974年12月23日、周恩来は病状を押して毛沢東が療養する湖南省長沙へ飛び、人事について毛沢東と相談し、人事案件は周恩来が責任を持って取り仕切るよう指示を受けた、という(参考資料14:文化大革命十年史)。

 毛沢東のこういった意向を受けて、党中央は、1975年1月5日、トウ小平を党中央軍事委員会副主席兼中国人民解放軍総参謀長に任命した。これは、軍は江青グループらには任せられない、と考えていた毛沢東の意向が明確に現れたものだった。さらに1月8日~10日に開催された中国共産党第10期中央委員会第2回全体会議(第10期2中全会)で、トウ小平が党副主席、中央政治局常務委員に選出された。トウ小平は1973年3月10日に国務院副総理として復活したが、その時点では党の役割としてはヒラ党員だった。1974年8月に開かれた第10回党大会において、トウ小平は党の政治局員となったが、政治局常務委員には選ばれなかったことは前節で述べた。それが1975年1月には、党内での地位も国務院における副総理に相当する地位である政治局常務委員にまで復活したのだった。

 その直後の1975年1月13日~18日、11年ぶりに第4期全国人民代表大会(全人代)第1回全体会議が開催された。前回(第3回)の全国人民代表大会が開催されたのは、文化大革命が開始される前の1964年12月21日~1965年1月4日だった。

 この全人代の冒頭、周恩来総理は政治工作報告を行った。この時の周恩来は既にガンに健康を蝕まれており、見るからにげっそりとやせ細っていた。1964年の第3回の全国人民代表大会で政治工作報告を行ったのも周恩来だったが、この前回の第3回全人大の政治工作報告では、周恩来は国民経済と軍の近代化(中国語の原文では「現代化」)を主張していた。11年を経て、第4回全人代での政治工作報告で、周恩来はこれを再び強調する。1975年1月の第4回全人代の報告では、「近代化」を強調するだけでなく、より具体的に「第一歩として、1980年までの間に独立した比較的整った工業体系と国民経済体系を完成させ、第二歩として、今世紀内に、全面的に農業、工業、国防及び科学技術の近代化を成し遂げ、我が国国民経済を世界における第一線に押し出さなければならない」と強調した。

(注)中国語の原文では「現代化」であるが、日本語として「現代化」という言葉はしっくり来ないので、この文章では「現代化」とは言わず、「近代化」という言葉を使うことにする。

 文化大革命を飛び越えて、11年前の第3回全人代と第4回全人代を結びつけ、しかも経済と国防の近代化を強調するこの周恩来の政治工作報告は、政策路線としては文化大革命を否定するとも言えるもので、明らかに毛沢東の文化大革命路線に対する「異議申し立て」であった。終生、政治路線については毛沢東に指示に従ってきた周恩来にとって、この政治工作報告は、おそらくは自らの死を予期して行った最初にして最後の毛沢東に対する「異議申し立て」であり、「遺言」だったのだと思われる。「農業、工業、国防及び科学技術の近代化」、いわゆる「四つの近代化」は、1978年の改革開放開始後トウ小平が高く掲げたスローガンであったが、根本はこの周恩来の「遺言」にあった。トウ小平は、周恩来の「遺言」を堅実に実行に移し、「20世紀のうちに中国の国民経済を世界における第一線に押し出す」というこの時の周恩来の夢を現実のものとして実現したのであった。

 中国が、当初、2000年に北京でオリンピックを開催するとの名乗りを上げたのは、トウ小平存命中の1993年であったが、トウ小平及び当時の中国指導部の頭の中には、「20世紀のうちに中国の国民経済を世界における第一線に押し出す」というこの時の周恩来の言葉があったものと思われる。オリンピックの開催は、中国が世界の第一線の国の仲間入りをする象徴的出来事だからである。2000年のオリンピック開催地選定では北京はシドニーに敗れたが、北京は次々回のオリンピック開催地として選ばれ、2008年に北京オリンピックが開催されたのは読者御存じのとおりである。

 「四つの近代化」の夢を実現させるためには、社会の安定が不可欠であり、文化大革命のような政治的混乱は絶対に避けねばならない、というのがこの時のトウ小平の決意であったと思われる。そのことがトウ小平に、後に述べるように1979年の「北京の春」と呼ばれた民主化運動、1986年末の学生運動、そして1989年における「第二次天安門事件」のような民主化を求める政治運動を圧殺する道を選ばせた理由である。トウ小平が採ることになる民主化運動圧殺の政策については、後の歴史家は批判することになると思うが、その一方で「四つの近代化により、20世紀のうちに中国の国民経済を世界における第一線に押し出す」という周恩来の「遺言」を現実のものとして実現させたトウ小平の政策実現力については、どの歴史家も一定の評価を与えないわけにはいかないであろう。

(参考URL1)「新華社」ホームページ「新華資料」
「第四期全国人民代表大会歴代会議」
「政治工作報告」(1975年1月13日第4回全国人民代表大会第一回会議における周恩来による報告)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2004-10/15/content_2093466.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 この第4期全国人民代表大会第1回全体会議では、人事案件として、国務院総理には引き続き周恩来を、全国人民代表大会常務委員会委員長には革命軍人の最古参である朱徳を選出したほか、筆頭副総理にトウ小平を選出した。これでトウ小平は、党・軍・国務院の全てにおいて、実質的に毛沢東・周恩来に次ぐ地位に就いたことになる。主要閣僚はほとんど江青らのグループとは関係のない人々が占め、王洪文は全人代常務委員会副委員長にすらなれなかった。人事面では江青ら文革グループの完全な敗退だった。

 この第4期全国人民代表大会第1回全体会議では、憲法改正についても議論された。この時点まで有効だった憲法は1954年に制定されたものだったが、この1975年1月の全人代で決定された憲法改正により、中国共産党による指導や人民公社が憲法に書き込まれた。この後も中国では同様の経緯をたどるが、中国では現実的な社会の変化が先に起き、それを後から追認するような形で法律が制定されることが多い。この第4期全人代第1回全体会議でも、周恩来が「脱文化大革命」とも言える政治工作報告をする一方で、文化大革命の基礎となっている中国共産党による国家指導や人民公社制度が憲法に盛り込まれるという作業が行われた。この憲法改正案を提案する報告は「四人組」の一人であある張春橋が行っている。このような「法体系が現実の社会の進歩からいつもワンテンポ遅れている」という中国の状態は、今でも中国の現実の社会を悩まし続けている。

(参考URL2)中国政府全国文化情報資源共有プロジェクト
「法律法規」-「中華人民共和国憲法(1975年)」
http://edit.ndcnc.gov.cn/datalib/2003/PolicyLaw/DL/DL-10944

 この第4期全人代第1回会議の後、周恩来の病状は悪化し、具体的な政策実行業務は筆頭副総理となったトウ小平が指導して行われることになる。トウ小平は、周恩来が政治工作報告の中で述べた「四つの近代化」の路線に従って、農業、工業、国防及び科学技術の分野で「全面整頓」を開始した。「整頓」とは、各部門におけるセクト的派閥闘争をやめさせ、本来業務に集中させることだった。まず、トウ小平に近い立場にある万里鉄道部長に鉄道部門の整頓を行わせ、滞っていた鉄道運輸業を回復させた。続いて、鉄鋼業など主要産業においても整頓を実施した。軍においても「膨張」「放漫」「尊大」「贅沢」「怠惰」を戒める整頓を実施した。

 トウ小平は、科学技術の発展の遅れが国民経済の発展の足を引っ張っているとの認識を持っていた。このため、当時、共産主義青年団の第一書記だった胡耀邦に指示して中国科学院の現状の問題点を調査させた。胡耀邦は「科学技術工作に関するいくつかの問題」という報告書をまとめ、思想闘争に明け暮れて満足な科学研究ができていなかった中国科学院の当時の実情をトウ小平に報告した。トウ小平は「科学研究も生産力とみなさなければならない」として、科学研究者が研究に専念できるように、住居、交通、育児、食事、結婚などの問題点を解決するよう指示した。科学技術を重要視するトウ小平の考え方は、後に改革開放政策を正式に打ち出すより前の1978年3月18日に行われた全国科学大会において「科学技術こそ生産力」「近代化のカギは科学技術の近代化にある」と述べることに繋がっていく。

 現在の胡錦濤総書記は、2008年6月の中国科学院・中国工程院両院院士大会で、この1978年3月18日の全国科学大会におけるトウ小平の話を回顧する講話を行っている。このトウ小平の全国科学大会での話が改革開放政策のひとつの原点だからである。

(参考URL3)科学技術振興機構サイエンス・ポータル・チャイナ
「JST北京事務所快報08-006」(2008年6月26日)
「胡錦濤主席の中国科学院・中国工程院院士大会での講話」
http://www.spc.jst.go.jp/experiences/kaihou/b080626.html

※「JST北京事務所快報」を書いたのは私(この「中国現代史概説」の筆者)である。なお、胡錦濤主席が2008年6月の中国科学院・中国工程院院士大会での講話でトウ小平の科学技術重視の方針を回顧したのは、ひとつには2008年が改革開放30周年の記念の年であることもあるが、トウ小平の科学技術重視のスタートにおいて胡耀邦の中国科学院に関する報告書が役割を果たしたことを思い起こさせるという2008年時点における政治的意図があったからと思われる。胡錦濤主席は「科学的発展観」を自らの政権の中心スローガンに据えており、胡錦濤主席には、1980年代(胡耀邦総書記が指導した時代)の改革開放の原点(即ち「第二次天安門事件」以前)を見直そうとする意図があると思われるからである。この点は、この「第4章第2部第4節:胡錦濤主席は新しい道を切り開けるか」で再び触れることにする。

 こういったトウ小平が次から次へと打ち出す「全面整頓」の動きに対して、江青らは、物質的刺激、利潤優先、奨励金制度などが過去に効果を上げてきたというトウ小平らの主張は「経験主義」であり、「経験主義」は修正主義の共犯者で当面の大敵だ、と主張した。毛沢東は、文化大革命開始後8年以上を経過した今、社会の安定こそが重要であると考えており、江青らの「経験主義批判」を「経験主義に反対しているだけで、教条主義には反対していない」として批判した。こうした毛沢東の意向もあり、トウ小平による「全面整頓」は大いに進展した。実際、1975年の経済指標は好転した。

 江青らは、「人民日報」「紅旗」等の新聞や出版界を把握していたことから、文芸界からの反撃を試みる。江青らは、毛沢東がかつて行っていた中国の古典文学「水滸伝」に対する批判を持ち出したのである。「水滸伝」では不法者の集団ををまとめた首領の宋江が最後は朝廷に帰順し忠義を尽くす、という物語だが、毛沢東は宋江を権力に対する「投降主義」だとして批判していた。江青らのグループは毛沢東による「水滸伝」批判を利用して、暗に周恩来やトウ小平が進めている実務主義的な政策を批判した。

 毛沢東が「水滸伝」批判を通して本当に周恩来やトウ小平を批判しようと考えていたのかどうかは不明である。毛沢東の真意はともかく、江青らのグループが毛沢東の「水滸伝批判」を自分たちの都合のいいように利用した。ただ、毛沢東は、江青らの「教条主義」には反対していたものの、やはり理想としていたのは文化大革命の路線だったのも事実だった。従って、毛沢東は、中国の将来を託せる人物としては、江青らのグループの人間ではなく、トウ小平しかいない、と考えていたことは間違いないが、トウ小平が進める経済成長第一主義に対しては不満だった。毛沢東がトウ小平が進める「全面整頓」政策に不満を漏らしていたのは事実のようである。江青らは、この毛沢東によるトウ小平批判の言葉を最大限に利用して、「水滸伝」批判に引き続き1975年11月から「右からの巻き返しに対する反撃」運動を開始した。

 こうした中、ついに1976年1月8日、中華人民共和国建国以来一貫して国務院総理を務めた周恩来がガンのため死去した。「右からの巻き返しに対する反撃」運動が盛り上がり掛けたタイミングで、宿敵でありトウ小平の最大の後ろ盾であった周恩来が死去したことは、江青らのグループにとっては極めて好都合だった。江青らのグループは、周恩来の追悼行事をできるだけ質素なものにするとともに、周恩来追悼は自分たちのグループに対する反対の動きだと考えて、周恩来に対する追悼行動を禁止した。このことが、純粋な気持ちで周恩来総理を深く敬愛する中国人民の激しい怒りを呼び起こすことになるのである。

以上

次回「3-4-6(1/2):周恩来の死と『第一次天安門事件』(1/2)」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-37e3.html
へ続く。

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