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2010年3月 1日 (月)

3-3-3:紅衛兵の登場と狂乱

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第3節:紅衛兵の登場と狂乱

 「五・一六通知」を受けて、5月25日、北京大学で、北京市党委員会大学部と北京大学党委員会を批判する壁新聞が張り出された。この動きは、北京にあるその他の大学などへも直ちに波及した。多くの学生たちは、この動きの背景に毛沢東がいることを薄々感じており、大学当局を批判する動きを密かに始めていた。

 清華大学附属中学では、5月29日、一部の学生により、毛沢東思想の絶対的権威を確立すべきだと考える「紅衛兵」が密かに組織された。

(注1)中国における「中学」は、日本の中学校に相当する「初級中学」と日本の高校に相当する「高級中学」からなるが、清華大学附属中学は、清華大学キャンパスのすぐ北側に位置する初級中学・高級中学一貫校(6年制)である。この学校は、現在では、多才な人材を養成するための英才教育を行う有数のエリート校として有名になっている。

 同様の組織は、北京大学附属中学、北京鉱業学院附属中学、北京第二十五中学等でも組織された。これらの組織には当初様々な名称が付けられていたが、次第に「紅衛兵組織」という統一した名称で呼ばれるようになっていった。

 6月1日、5月25日に北京大学で張り出された壁新聞の内容が人民日報に掲載され、全国向けラジオ放送でも放送され、翌日の人民日報には「北京大学の壁新聞に歓呼する」と題する評論が掲載されたことは先に述べた。こういった人民日報等の報道は、密かに動いていた学生たちの動きに「お墨付き」を与え、学生たちの運動を急激に加速することになる。各大学や中学(日本の高校に相当)では、学校当局を批判する運動が一気に盛り上がり、正常な教育運営が難しくなった。学生らは「毛主席を支持し、毛沢東思想の権威を打ち立てる」と叫んでおり、人民日報がそれを支持する方向の記事や評論を掲載したことから、学校当局側も学生らの動きを抑える理屈を構築するのに苦慮した。

 劉少奇とトウ小平は、大学等における混乱を憂慮し、当時、浙江省杭州にいた毛沢東のもとに赴いて事態を報告するとともに、今後の対応を相談した。毛沢東は「自分はしばらく北京に戻る意志はないこと」「劉少奇とトウ小平に事態の把握と処理を委ねること」を伝えた。劉少奇とトウ小平は直ちに北京に戻って、政治局拡大会議を開き、各大学に「工作組」を派遣して事態を収拾することを決定した。劉少奇とトウ小平は電報で杭州にいる毛沢東に同意を求め、毛沢東はこれに同意した(参考資料14:文化大革命十年史)。

 党中央は、大学における混乱を避けるため「壁新聞の街頭張り出し禁止」「集会は学内で行う。学外集会は禁止」「街頭での運動・デモは禁止」「大規模糾弾集会禁止」などからなる「中央八条」を決定した。「工作組」は、この「中央八条」に従って大学における学生の運動の収拾に当たった。しかし、学生たちは「中央八条」の決定や大学への「工作組」の派遣を「上からの締め付け」だと受け取り、混乱収拾に当たろうとする大学当局と「工作組」に反抗した。

 6月8日、北京郵電学院では学生らにより「工作組」は学外へ追放された。6月18日、北京大学工作組は会議を招集したが、学生らはこれを無視し、大学当局幹部約60名を「黒い分子」として捕まえてきて、三角帽を被らせ、顔に隅を塗り、体には壁新聞を貼り付けて、殴る蹴るの暴行を加えた上、市街地を引き回した。これが「六・一八事件」と呼ばれる事件である。これ以降、批判の対象となる幹部らに三角帽子を被せて糾弾する、というスタイルは、文化大革命期における一種の「定形スタイル」となった。

 北京大学の動きは、北京の多くの大学に伝染し、多くの大学で「工作組」が追放された。しかし、「工作組」として劉少奇夫人の王光美が派遣された清華大学だけは別で、清華大学では、「工作組」追放を提案した学生が逆に批判され、「工作組」を支持する、と主張する清華大学の一部の学生や教員らによるデモが行われた(参考文献14:文化大革命十年史)。このことは、後に劉少奇が失脚する一つのきっかけになる。

 なお、この文化大革命初期における北京大学と清華大学の反応の違いが、中関村北大街を挟んで隣接するキャンパスを持つ北京大学と清華大学において、「北京大学=理想主義」「清華大学=現実主義」という形で「伝統の違い」として現在に至るまで生き続けていることは注目に値する。現実主義の上に立脚した改革開放路線を進めている現在において、何かに付けて清華大学の方が北京大学より上を行っているように見えるのは、こういったところに遠因があるのかもしれない。

 こういった北京の大学において混乱が拡大する中、7月16日、毛沢東は、突如、武漢に姿を現し、長江(揚子江)を遊泳してみせた。その様子は、7月25日付けの人民日報などの新聞各紙で写真付きで一斉に報道された。前年、11月26日にカンボジア代表と会談して以降、新聞等のニュースに登場していなかった毛沢東については、72歳という高齢から、国内外の多くの人々は毛沢東の健康状態が実はあまりよくないのではないか、と考えていた。そんな中で毛沢東が中国の象徴とも言える長江で遊泳してみせ、その健在ぶりをアピールしたことは、多くの人々に、この頃の様々な政治的な動きが実は毛沢東が裏でコントロールしていたものだったのだ、と思わせるのに十分だった。

 揚子江を泳いだ翌々日の7月18日、毛沢東は長らく不在にしていた北京に戻った。これを知った劉少奇国家主席は、直ちに毛沢東の自宅へ向かった。毛沢東の自宅の前には数台の車が止まっており、家の明かりは点いていて、毛沢東が誰かと協議していることは明らかだったが、守衛は劉少奇国家主席に対して「毛主席(毛沢東は中国共産党主席)は北京に戻ったばかりで非常に疲れており、既に寝ている」と述べ、劉少奇を追い返した。翌日、劉少奇と会見した毛沢東は「工作組の派遣は間違いだ」と明言した(参考文献14:文化大革命十年史)。毛沢東のこうした対応に劉少奇は困惑した。工作組の派遣については、毛沢東に電報で報告し同意を得ていたからである。劉少奇は、この時点でも、一連の動きが自分(劉少奇)を追い落とそうとしている毛沢東の意図に基づくものであるとは思っていなかったようである。

 8月1日には、毛沢東は清華大学附属中学の紅衛兵に「造反することには道理がある。私はあなたたちを熱烈に支持する。」と書いた手紙を送った。清華大学附属中学の紅衛兵たちは、この手紙を直ちに公開した。「尊敬する偉大な指導者・毛沢東」から直接「熱烈に支持する」と言われた「造反派」の若者たちは熱狂した。

 「造反することには道理がある(=「造反有理」)」という言葉は、もともとは、毛沢東が抗日戦争中の1939年12月21日、当時根拠地にしていた延安において行われたスターリン60歳誕生祝賀会」で述べた言葉「マルクス主義の道理には千万条あるが、根本は『造反有理』の一言である」が出発点である。この「造反有理」という言葉は、「革命無罪」という言葉と対句になって、このあと、紅衛兵の間でスローガンとして盛んに使われるようになる。

 8月1日から12日まで第8期中国共産党第11回全体会議(第8期十一全会)が開催された。その最中の8月4日、「中央文化革命小組」組長の陳伯達は清華大学へ出向き、工作組追放に反対する動きを批判する大会に出席し、工作組追放を提案した学生の名誉回復を行った。清華大学において工作組追放に反対する運動を指導したのは劉少奇夫人の王光美であったことから、これらの動きも劉少奇追い落としのための動きの一環であったことは明らかであった。

 8月5日、毛沢東は中南海(中国共産党本部のある場所)の中庭に「司令部を砲撃しよう-私の大字報」(「大字報」とは壁新聞のこと)と題する壁新聞を貼り、これを「光明日報」で公表した。名指しこそしていなかったものの「司令部」とは、国家主席・劉少奇であることは明らかだった。党の主席が党本部において「壁新聞」を張り出すこと自体異様なことであるし、党の主席が「司令部を砲撃しよう」と呼びかけることは自己矛盾に満ちているが、この「私の大字報」により、党内幹部の多くは、毛沢東が何を考えているのかを理解した。

 8月8日、第8期十一全会は「プロレタリア文化大革命に関する決定」(16項目からなることから略して「十六条」と呼ばれる)を採択した。この決定のポイントは「党内の資本主義の道を歩む実権派」に打撃を加えることと、思想・文化・風俗・習慣の「旧い四つ」を打破すること(「四旧打破」)であった。第8期十一全会は、11名の政治局常務委員を選出したが、劉少奇はナンバー2からナンバー8に格下げされ、ナンバー2の地位には国防部長の林彪が就き、林彪は「副主席」と呼ばれることとなった。形式上、この時点でも国家主席は劉少奇であったが、劉少奇は、この時点では既に政治的実権を失っていた、と言ってよい。この政治局常務委員の序列が決まったことにより、中国人民と全世界の人々は、何が起こったのか、即ち、劉少奇が政治権力を失ったことを明確に理解したのだった。

(注2)この時の政治局常務委員の序列では、トウ小平はナンバー6に位置していた。「格下げ」になったとは言え、劉少奇もトウ小平もまだ政治局常務委員ではあり続けていたので、彼らはこの時点では「失脚した」というわけではなかった。党内には、まだ劉少奇やトウ小平を支持する勢力もかなりいたことを思わせる人事である。

 8月12日、これまでの毛沢東の著作をまとめた「毛沢東選集」が発売された。また、この頃、1964年に国防部長の林彪が兵士たちに毛沢東思想を教育するため作成して与えていた毛沢東の発言のエッセンスをまとめた赤い表紙の小冊子「毛沢東語録」が一般向けにも発売された。

 8月18日、天安門前広場では「文化大革命祝賀大会」が開かれ、100万人の人々が集まった。この「文化大革命祝賀大会」の様子は、人民日報等の紙面で大々的に報道されたが、人民日報に掲載された40枚近い写真のうち、劉少奇が写っている写真は1枚もなかったという。逆に序列24位の江青が写っている写真は多数あった、とのことである(参考資料14:文化大革命十年歴史)。

 これから2年弱前の1964年10月1日、中華人民共和国成立15周年を祝う国慶節の人民日報のトップには、毛沢東中国共産党主席と劉少奇国家主席の顔写真が同じ大きさで載っていた。

(参考URL)2008年の国慶節に当たって「人民日報」のホームページに掲載された「写真集:人民日報上の国慶節(14)」1964年10月1日付け「人民日報」1面
http://politics.people.com.cn/GB/101380/8111769.html

 人民日報の報道の仕方を見ても、時代が変わり、ナンバー2の実力者だった劉少奇の権力基盤が失われつつあることは誰の目にも明白だった。

 この8月18日に行われたこの「文化大革命祝賀大会」をきっかけとして、若い紅衛兵たちによる「四旧打破」を行う様々な運動が中国全土へ広がっていった。

 これらの動きは外国人記者によって海外でも報道された。この頃私が住んでいた仙台を中心とする東北地方で販売されている新聞「河北新報」の1966年8月25日付け夕刊は、この頃の中国の様子を伝える記事を1面トップに載せた。見出しは「紅衛兵旋風 上海・天津にも波及~反革命分子宅を襲う、ラマ教寺院も破壊される(北京)」「輪タクは客が踏め ビラに埋まる北京~預金利息停止せよ~」というものだった。この紙面にはポイントとして以下のような記事が載っている。

「北京8月24日発:ロイター=共同」

○「私は革命に反対した」というプラカードを持たされて行進させられている男を取り囲みながら紅衛兵がスローガンを叫んで気勢を上げている。

○「北海公園」のチベット式の白塔の近くにあるラマ教寺院の壁からかなりの数の仏像がえぐり出された。

○公園の入り口には「若い男女がさびしいところで逢い引きし『他人の目をひくような行為』をすること」「夜遅くまでラブレターを書くようなこと」などに断固反対する、と書かれている。

○外国外交官とその家族が住んでいるアパートでも、紅衛兵らの来襲を受けていることから、これを防ぐため各戸口に毛主席の肖像画を掲げている。

「北京8月24日発:共同」

○紅衛兵の要求書、建議書には次のようなものがある

・現在の国歌である「義勇軍行進曲」を廃止して歌曲「東方紅」を国歌にしよう。今の国歌は反動分子である田漢の作詞だからである。

・預金の利息、貸付金の利子支払いを停止しよう。

・中国将棋、チェス、トランプなどは廃棄せよ。中国将棋のコマの名称は封建的であり、チェスやトランプは資本主義の遊びだ。

○さらに「AFP=時事」によると、紅衛兵は以下のような警告、指示を出している。

・ブルジョア分子は筋肉労働をすべきである。

・高級レストランを廃止せよ。

・指令を放送する拡声器を全ての街路にとりつけるべきである。

・毛沢東思想の学習は幼稚園から始めなければならない。

・毛思想を反映しない本は全て焼くべきである。

・交通巡査の使っている白い棒は赤旗にかえる。

・ブルジョアの俳優は悪役しか演じてはならない。

○また紅衛兵は次のような指令を出している。

「輪タクを利用する全てのブルジョアは自分でペダルを踏まなければならない(この間、輪タク屋は客席に座っていられる。輪タク屋がペダルを踏まなければならないのは車庫に帰る時と客を待つ場所に行くときだけである)」

 上記の記事で紹介されているほかにも、文化大革命の最中は、様々な「旧来からの常識を覆すこと」が行われた。道路の名前も紅衛兵の手によって「正しい名前」に変更させられた。解放前、外国公館が並んでいた東交民巷という通りは「反帝路」(帝国主義に反対する道路)、ソ連大使館前の通りは「反修路」(修正主義に反対する道路)、王府井にあった市場「東安市場」は「東風市場」(毛沢東語録にある「東風が西風を制する」にちなんだもの)などというように通りの名称や地名が変えられた。これら「文革風」に変えられ通りの名称や地名は、1983年2月に私が始めて北京を訪問した時には、まだその一部が看板や地図の上では残っていた。

 このほかにも「赤旗は『正しい色の旗』なのだから、走り幅跳びでファウルの時に赤旗を上げるのはけしからん」ということで、走り幅跳びでは、ファウルがあった時には白旗を、ファウルがなかった時に赤旗を上げることにした、というような陸上競技のルール変更があったりした(これは私も当時のそういう競技大会の映像をテレビで見たことがあるので、中国の国内競技大会ではこのルール変更は実際に行われていたらしい)。

 また、「赤い色は『前進』の象徴なのだから、交通信号が『赤は止まれ』となっているのはおかしい。交通信号は『赤になったら進め』に改めるべきである」という主張があったらしく、映画「ラスト・エンペラー」では、文化大革命の時代を描写する場面で、信号待ちをしていた自転車の大群が信号が赤になった途端に動き出す、という場面が出てくる。ただし、そもそも中国では自転車に乗っている人は普通は交通信号を守らないので、たくさんの自転車が信号を変わるのをきちんと待っている、という場面は実際の中国の雰囲気からするとかなり「不自然」であって、この交通信号の場面はいささか「まゆつば」な感じがあり、映画「ラスト・エンペラー」の映画制作者による「作り話」である可能性がある。

 いずれにせよ、これらの話に象徴されるように、「四旧打破」の名の下にありとあらゆる旧来からの「常識」が破壊された。中国社会に残っていた前近代的な部分が一掃された、という前向きの部分はあるにせよ、多くの貴重な文物が破壊されるなどこの文化大革命は大きな社会的混乱を招いていくことになる。中国共産党内部には、こういった社会的混乱を収拾し、政治を正常な状況に戻そうとする勢力もまだかなり強く残っており、この後しばらく政治的にも混乱した状況が続くことになる。

以上

次回「3-3-3:【コラム:文化大革命と大学紛争】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-e8fd.html
へ続く。

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