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2010年3月 4日 (木)

3-3-6:「文革」に翻弄(ほんろう)される有力者たち

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第3部:文化大革命(前半:林彪墜落死事件まで)

--第6節:「文革」に翻弄(ほんろう)される有力者たち

 文化大革命について、ここまで読んでこられた読者の中には、誰が何派で、誰と誰が味方で、誰と誰が敵なのか、よくわからなくなってしまった方々もおられるかもしれない。後世の我々が資料を見ながら整理しても、誰が味方で誰が敵なのかよくわからないような状態をリアルタイムで経験した当時の中国の人々の多くは、おそらく何が何だかわからないような状態で、様々な派閥グループの間で行われる武闘の中をかいくぐって必死に生き抜いていたのではないかと思われる。

 文化大革命の初期は、林彪が毛沢東の発動した紅衛兵の運動などを利用して軍の中における自らの地位を高めるための策略の連続だったと考えてよい。葉剣英、徐向前、聶栄臻ら古参革命軍人らが「二月逆流」に参画したとして批判されていったことはこれまで述べたとおりである。主に「文化大革命十年史」(参考文献14)を基にして、文化大革命の初期(1968年頃まで)の期間中に迫害を受けた人々のうちいくつかの例について個別に説明することにしよう。

○羅瑞卿:

 羅瑞卿は、長征に参加した古参の軍人で、中華人民共和国成立後、公安部長、国務院副総理、人民解放軍総参謀本部長などを務めた。1965年11月10日、「文匯報」に姚文元の書いた「新編歴史劇『海瑞免官』を評す」が掲載された後、最初に標的にされたのは軍の総参謀部長の羅瑞卿だった。1965年12月8日~15日に上海で開かれた党軍事委員会の緊急会議で、羅瑞卿は全ての職務を解任された。「文化大革命十年史」では、(i)林彪が毛沢東の信任が厚い羅瑞卿に嫉妬したこと、(ii)江青が姚文元の「『海瑞免官』を評す」を宣伝する際に軍の協力を得ようとした時、軍籍のない江青が軍を利用することに羅瑞卿が反対したため江青が羅瑞卿を恨んだこと、(iii)林彪の妻の葉群が軍の中で准将に昇進したいと願った時、そのあまりにも速い昇進に対して羅瑞卿が反対したため、葉群が羅瑞卿を恨んだこと、が背景にあると説明している。

 こういった「個人的な恨み」で羅瑞卿解任を説明するのは、いささか単純過ぎるような気もするが、事実として、羅瑞卿は1965年12月の「緊急会議」で全ての職を解任され、翌年1966年3月、北京で開かれた会議では羅瑞卿批判の議論が展開された。自らの置かれた立場を悟った羅瑞卿は、1966年3月18日深夜、自宅の宿舎の屋上から飛び降りて自殺を図った。しかし、左の大腿骨を骨折しただけで一命は取り留めた。

 その後、5月に開催され「五・一六通知」を採択して文化大革命をスタートさせた党中央政治局拡大会議において、羅瑞卿は、彭真北京市長、陸定一党宣伝部長、楊尚昆広東省党書記(改革開放後に復活し1988年に国家主席となる)らとともに批判の対象となる。

 羅瑞卿は、自殺未遂で骨折した後、十分な治療を与えられず、半身不随状態となった。半身不随の状態のまま、1966年12月24日に北京市内の工人体育館で行われた「羅瑞卿をはじめとする軍権簒奪反党集団批判闘争大会」に引きずり出され、約10万人の紅衛兵の批判の前にさらされた。この後、羅瑞卿は1967年9月14日、高熱に冒される中、便所へ行こうとして転倒し、直りきっていない左の大腿骨を再び骨折させた。1969年1月には、結局は左脚を切断する手術を受けた。

 羅瑞卿はこの状態で、1971年の林彪の墜落死、1976年の「四人組追放」の時期を生き抜き、1977年に党中央委員に復活し、1978年に死去した。

○賀竜:

 賀竜は、長征に参加した軍人で、中華人民共和国成立後に副総理となった。空軍の中では林彪のライバル的存在だった。

 1966年初め、北京軍区が民兵訓練のため北京大学の宿舎の一部を借り上げ、同じ時期に北京市党委員会が北京大学の学生を農村へ行って学習させるために大学にテントとジープを用意させたことがあった。これらの北京大学での動きは、「二月テーゼ」(「第2節:四清運動と『海瑞免官』批判~文化大革命の開始」参照)が出されたのと時期的に同じタイミングだったため、1966年7月27日、文革小組のメンバーの康生は、北京師範大学の集会で演説を行い、この2月頃の北京大学での動きを「クーデターを画策したものだ」と断定し、これを「二月クーデター」と呼んだ。そして、この「二月クーデター」は賀竜が画策したものだ、と断定した(この時期、トウ小平は「そもそも『二月クーデター』などというものはない」と指摘していた)。こうして賀竜の自宅は、紅衛兵の「打倒賀竜!」のシュプレヒコールに悩まされることになる。

 事態を憂慮した周恩来は、賀竜を中南海(中国共産党本部と党幹部の自宅がある地域)に呼び寄せて住まわせたが、1967年になって林彪が軍内に対して「打倒賀竜」の方針を宣言したことから、周恩来も賀竜を中南海に住まわせておくことが困難になり、別に住居を探して、そこに引っ越しさせた。しかし、1967年の夏以降、周恩来が用意した住居も林彪一派の支配下に置かれることになり、賀竜は実質的に軟禁状態に置かれた。

 1968年になると、文革推進派の康生は、中国共産党が国民党と争っていた頃の1933年に賀竜が知り合いの国民党の有力者と会談を行ったという古い事実を引っ張り出して「賀竜はかつて党を裏切ったことがあるのに、今問題がないはずがない」と主張して、賀竜を攻撃した。長年糖尿病を患っていた賀竜は、この軟禁状態の中で、十分や薬品や食事、暖房すらも与えられず、心身ともに衰弱して1969年6月9日に死去した。

 なお、「文化大革命十年史」では、次のような背景も紹介している。

「林彪夫妻と賀竜夫妻は、古くからの知り合いであった。林彪の妻・葉群は、かつて国民党支配下の南京でアナウンサーをしており、国民党の人々とも付き合いがあった。葉群は、その後、賀竜の妻・薛明の説得により中国共産党の運動に参加するようになった。こういった経緯から、葉群は自分が国民党の人々と付き合いがあった頃のことを賀竜や薛明に持ち出されることを極度に恐れていた。このことも、林彪夫妻が賀竜を追い落とすことになる一因だった。」

○彭徳懐:

 これまでも書いてきたように、彭徳懐は、長征に参加した軍人で、中華人民共和国成立後、副総理や国防部長を務めた。1959年の「廬山会議」の後に国防部長を解任された(「第3章第2部第5節:『大躍進政策』の結果を受けた権力闘争」参照)。この彭徳懐の処遇を巡って、皇帝を批判して罷免された明代の官僚・海瑞について書かれた「海瑞免官」を批判する論文「新編歴史劇『海瑞免官』を評す」を姚文元が書いたことが文化大革命の開始を予告する「のろし」であったことはこれまでも何回も書いた。

 「廬山会議」では、彭徳懐は国防部長は解任されたものの、国務院副総理と党政治局委員の肩書きはそのままだった。文化大革命が始まった当時、文革スタートのきっかけとなった彭徳懐本人は、四川省にいた。1965年秋、毛沢東自身が彭徳懐を呼んで、第三線建設の現場で任務に就くよう指示したからである。

(注)アメリカとの対立及び中ソ対立の中で、毛沢東は外国から攻撃した場合に備えるため、第一線(沿岸部)、第二線(平原部)を避けて、第三線(内陸部のセン西省や四川省等)に工場や軍事施設、それをサポートする鉄道等を重点的に建設するよう指示していた。これを「第三線建設」という。現在でも、多くの軍事施設や重要な工場、重要な研究施設、ロケット発射場などが成都、重慶、西安地区などの周辺にあるのはこのためである(「セン西省」の「セン」はこざとへんに「狭」のつくりに似た字)。

 この毛沢東の彭徳懐に対する指示は、やがて起こるであろう文化大革命の運動を想定して、功績ある彭徳懐を中央で起こる荒波から守ることを考えた毛沢東の配慮であると考えられる(そもそも彭徳懐は毛沢東と同じ湖南省出身の盟友だった)。しかし、全国に拡大していった紅衛兵運動は、毛沢東の意図とは関係なく、四川省にいた彭徳懐を放って置くはずはなかった。林彪や江青ら文革推進派グループの支持の下、紅衛兵たちは、四川省で彭徳懐を拉致し、北京に連行してきた。北京に到着後の1966年12月28日、彭徳懐は逮捕され、監禁状態に置かれた。

 1967年7月19日、北京航空学院では本人を引きずり出して「彭徳懐批判闘争大会」が開かれた。様々な罪状を挙げて紅衛兵は彭徳懐を吊し上げ、床に打ち据えて、自己批判を要求したが、この気骨ある軍人は自己批判することを拒否した。7月26日には、「七・二○武漢事件」を処理した謝富治や王力を迎えて天安門前広場で開かれた100万人規模の集会の後、彭徳懐は「党内のひとにぎりの資本主義を歩む実権派」として市内を引き回された。

 その後、監禁状態の中で彭徳懐は健康を害していく。1970年11月になって、彭徳懐の党内外の一切の職務の取り消し、党籍からの永久除名、無期懲役及び公民権の終身剥奪が正式に決定された。そして1974年11月29日、彭徳懐はガンのため死去した(1978年以降、トウ小平による改革開放への政策の転換と文化大革命等により失脚した人々の名誉回復が行われるが、その中で、彭徳懐は、真っ先に名誉が回復された。これについては後に述べる)。

○朱徳:

 朱徳は、毛沢東より9歳年上の中国共産党設立初期からの軍人であり、毛沢東らによる1927年8月の南昌蜂起や毛沢東がその後・井岡山を根拠地にしていた頃から毛沢東の片腕となってきた人物である。紅軍の中では毛沢東とともに「毛朱」と並び称され、年齢的に毛沢東より年上であることもあり、多くの人民の尊敬を集めていた(「第2章第3部第1節:国共分裂・北伐の完成と張作霖爆殺事件」参照)。文化大革命当時の小中学校の教科書には、武器がなかったのでいつも天秤棒を持っていたという「朱徳の天秤棒」のエピソードが載っていたという。

 林彪・江青らのグループは、朱徳が陳毅、李富春、徐向前、葉剣英(いずれも「二月逆流」で批判された人々)及び賀竜らと語らって1967年7月に「偽共産党」を結成し、軍事的に重要な拠点である武漢を手に入れた(「七・二○武漢事件のこと」)として朱徳を批判した。しかし、事実としては、この時点で既に80歳を超えていた朱徳は、表立った動きはしていなかったのである。

 林彪・江青らによるこの「朱徳批判」は、おそらくは政治的には「明らかなやり過ぎ」だった。毛沢東より9歳も年上で、輝かしい軍功があり、教科書にも載っている軍の大御所に対して容赦なく批判を加える林彪・江青らに対しては、表立った批判はできなかったものの、「やり過ぎ」と感じる人が多かったのではないかと思われる。事実、朱徳は、紅衛兵には批判されたものの、文化大革命の真っ最中の1969年には党中央委員に再選され、1973年には党中央政治局常務委員になっている。この事実は、荒れ狂う文化大革命の最中にあっても、林彪・江青らのグループに反対する勢力が中国共産党内部には確実に存在していたことを示している。それが1971年の林彪墜落死事件や1976年の「四人組追放」の伏線になっていたと考えられる。

 朱徳は、その尊厳と人々からの尊敬の念を失うことなく文化大革命を生き抜き、毛沢東の死の2か月前の1976年7月6日に死去した。

○葉剣英:

 葉剣英は、孫文時代からの革命家で、中国共産党成立後、共産党の運動に参加し、長征にも参加した。中華人民共和国建国後、人民解放軍の元帥となる。1967年2月「二月逆流」に参加したとして批判された。

 中国共産党は、抗日戦争期、作戦として、党中央の指示により、国民党内に共産党員を潜入させていた。これを取り仕切っていたのが長江局、南方局という部署であるが、これらの部署は周恩来や葉剣英らが指揮していた。林彪・江青らは、これらの過去の歴史を引っ張り出し、これを「国民党に寝返る裏切り行為だった」として葉剣英らを批判した。

 しかし、これも政治的には「やり過ぎ」だったと思われる。抗日戦争をよく知っている古参幹部は、長江局や南方局による国民党への共産党員の潜入活動は、中国共産党中央の指示に基づく諜報活動の一つであり、決して「裏切り行為」ではなかったことをよく知っていたからである。

 事実、葉剣英は1968年頃には文革推進派グループには批判されるが、1971年の林彪墜落死事件の後、文化大革命が終わる前の1973年に党副主席、75年には国防部長となり、党内での実力を維持し続けた。そして、1976年10月には、当時の華国鋒総理とともに「四人組逮捕」の先頭に立つのである。その後、1978年12月、改革開放政策が始まって以降、1983年に国家主席が復活して李先念が国家主席に就任するまでの間、葉剣英は全国人民代表大会常務委員会委員長として、対外的には国家元首として振る舞う地位に就くことになる。

○陳毅:

 陳毅は、長征に参加し、中華人民共和国成立後、初代の上海市長となった。その後、外交部長、国務院副総理となる。陳毅は「二月逆流」に参加したとして批判された。1967年8月、文革推進派グループの姚登山に外交部内の実権を奪われたことは前節で述べた。この時期、人民大会堂にいる陳毅をつるし上げろ、と「造反派」が息巻いた際、周恩来は「君らが陳毅同志を吊し上げるというならば、私が人民大会堂の前に立ちはだかる。それでもやる、というのなら、私の体を踏みつけて行け」と述べたという。

 林彪は、1969年10月18日、当時激しく対立していたソ連が失脚中の中国の有力者を担ぎ上げて傀儡(かいらい)政権を樹立する動きを事前に防ぐため、劉少奇、彭真ら失脚中の有力者を北京から追放したが、この時、陳毅も河北省に追放された(1969年の中ソ軍事衝突については後述する)。陳毅は、そこでガンを発病し、後に北京に戻ることが許されたものの、林彪墜落死事件後の1972年1月6日、ガンのため死去した。(この陳毅の葬儀には、毛沢東自らが出席した。これは、この時点で既に陳毅の名誉は回復されたことを意味しており、文化大革命がひとつの「角」を曲がった(文化大革命が「後半」に入った)ことを意味する象徴的なできごとだった。この点については、後に述べる)。

 なお、現在、上海市の中心部の観光名所、浦東に林立する高層ビル群を見られる浦江西岸の堤防上の公園「外灘」(ワイタン:英語名バンド(解放前、欧米列強の租界があったことから、堤防、埠頭、海岸通りを意味する bund の名が付けられた))」に、この解放後の初代上海市長・陳毅の銅像が建っている。

以上

次回「3-3-7:国家主席・劉少奇の失脚と死」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-2538.html
へ続く。

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