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2010年3月16日 (火)

3-4-3(2/2):トウ小平の復活と批林批孔運動(2/2)

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第3節:トウ小平の復活と批林批孔運動(2/2)

 江青ら文革グループは、1973年5月に始まった「批林批孔運動」の「批孔」の部分を次第に周恩来に対する攻撃に徐々に変化させていく。孔子とは、春秋・戦国時代の全国で戦乱が絶えなかった頃、周の初期の政治形態を尊び、周公の政治を尊んだ。その孔子を批判することは「周」即ち周恩来を批判することだ、という「あてつけ」である。周恩来は、文化大革命でめちゃくちゃになった行政組織をできるだけ整えようとし、政策の実務を担当する実務官僚にはきちんと執務させようとしたが、江青らは、そういったこと自体「孔子的」であるとし、「造反有理」「革命無罪」を主張する文化大革命に反するものだと考えて、周恩来攻撃の材料としていった。

 こういった経緯を踏まえ、孔子批判を言い出したのは毛沢東であり、「林彪は『極左』だから批判されるべきである」との周恩来の主張を退けて、「林彪は『極右』だから批判されるべきだ」と主張したのも毛沢東なのであるから、この時点(1973年頃)の中国の政治世界は、「毛沢東と江青ら文革グループ」と「周恩来と実務官僚グループ」との対立という図式で整理されるべきである、と分析する向きはかなり多い。「参考資料14:文化大革命十年史」もそうであるし、「参考資料8:「中国の歴史(11)『巨龍の胎動』」でもそういった見方を採っている。

 しかし、私は、毛沢東と周恩来との関係を「対立」という言葉で表現するのは必ずしも当たらないのではないかと考えている。毛沢東は、確かに林彪の批判の仕方として「林彪は『極左』だ」と主張する周恩来の考え方には反対だったし、周恩来の傘下にいる実務官僚が政治運営に口出しをすることに対する警戒感を持っていたのは確かだと思われるが、周恩来そのものを批判したり、ましてや周恩来を失脚させようなどという考えは毛沢東は全く持っていなかっただろう、と私は考えているのである。その理由は以下のとおりである。

○文化大革命初期(1967年頃)、林彪や江青ら文革グループが様々な古参幹部を批判するのを容認していた毛沢東だが、批判の矛先が周恩来に向いた途端にブレーキを掛け、周恩来だけは批判の対象とならないようにしていたこと(「第3章第3部第4節:文化大革命下の政治と社会の混乱」参照)。

○下に述べるように毛沢東は1973年前半には毛沢東と周恩来とは協力してトウ小平の復活を認めていること。トウ小平を復活させたのは、既に70歳代半ばになりガンに冒されていることがわかっていた周恩来の後継者としてトウ小平を据えるためであることは明らかであり、毛沢東が本当に周恩来を排除しようとしていたならばトウ小平の復活を認めるはずがないこと。

○後に再び述べることになるが、毛沢東は、江青ら文革グループによる周恩来批判が露骨になった1974年7月の中央政治局会議の場で、江青、張春橋、姚文元、王洪元らに対して「四人の小派閥を作ってはならない」と批判していること。毛沢東が本当に周恩来と対立し周恩来の失脚を望んでいたならば、この1974年7月の江青ら四人に対する批判は説明できない。

○この時期、毛沢東の健康はかなり悪化しており、毛沢東は十分な時間を取って政治活動を行える状況ではなく、江青ら文革グループが毛沢東のほんの些細な発言をことさら大きく取り上げて「毛沢東の指示」として大げさに振り回していた可能性があり、そもそも1973年5月に毛沢東が行った「孔子批判」の中では、毛沢東自身は、周恩来が持っていた個別の政策判断に対する批判はあったにせよ、周恩来を失脚させようとまで考えていなかった可能性が高いと思われること。

○少なくともニクソン総理との会談、田中総理との会談、その他の外国要人との会談等において、毛沢東は周恩来を批判するような言葉は一切語っていないこと。むしろ、この時期、毛沢東は外国人に対しては、田中総理に「(周恩来総理との)けんかはもう済みましたか。」と問い掛けたことに見られるように、政治の実務は完全に周恩来に任せてある、という態度を取っていた。

 また、私は歴史学者ではないので、やや心情的な話をすることを許していただければ、江青は毛沢東夫人とは言え、この時期はほとんど別居状態であり、林彪事件以降、毛沢東の孤独感はかなり強かったと思われる。そんな中、毛沢東にとって、心から信頼し相談できる人物は周恩来以外にはいなかったと思われる。林彪の批判の仕方など個別の問題について意見の相違はあったにせよ、毛沢東は周恩来を政治家としてだけではなく、無二の盟友として厚く信頼していたのではないかと思われる。また、周恩来は有能な実務政治家として毛沢東の政治を支えてきたとともに、人間・毛沢東を心から信頼し尊敬する友として支えてきたことを毛沢東自身がよくわかっていたのではないかと思われる。

 1976年1月、周恩来がガンで死去した時、毛沢東は既に高齢で相当に健康を害していたと思われるが、周恩来の死は毛沢東にかなりのショックを与えたのではないかと思われる。毛沢東が周恩来の後を追うように8か月後の1976年9月に死去したことは、激しい政治の荒波の中で最後まで自分を信頼してくれた盟友・周恩来の死が毛沢東の最後の生きる気力を失わせた結果によるものではないか、と私は思っている。

 さて、江青ら文革グループが周恩来による中央政界の把握に警戒感を強めている中、1968年の中国共産党第8期中央委員会第12回全体会議(第8期十二全会)で劉少奇国家主席とともに失脚したトウ小平氏が中央政界に復活してくる。第8期十二全会では、劉少奇が党籍の永久剥奪と公民権の永久停止という最大限の処分を受けたのに対し、トウ小平は、党籍は剥奪されず「留党監察」処分になったこと、トウ小平の党籍剥奪は林彪・江青ら文革グループが主張したにも係わらず、毛沢東がこれに反対したために実現しなかったこと、については「第3章第3部第7節:国家主席・劉少奇の失脚と死」で述べた。

 トウ小平は、第8期十二全会で失脚した後、北京で軟禁状態に置かれていたが、1969年10月の「第1号命令」(ソ連が中国国内の失脚者を担ぎ出して内部で反乱を起こすことを恐れた林彪が失脚した幹部を北京から地方へ移送するよう命じた命令)によって、江西省に送られて幽閉生活を送っていた。トウ小平は、毛沢東が「あの小男は役に立つ男だ」と言って自分の党籍剥奪に反対したことを知っていたようで、林彪墜落死事件後、毛沢東に手紙を書いて、自分は再び人民のため国家のために仕事がしたい、と願い出ている。1972年1月、毛沢東が陳毅の追悼大会でトウ小平を評価する発言をしたことは上に書いた。

 1972年5月、定期健康診断で周恩来がガンに冒されていることがわかった。当時、周恩来はニクソン訪中、田中総理訪中等を処理するため、激務に追われていた。毛沢東は、自らの健康状態を考えた時、周恩来(この時既に74歳)が病に倒れた場合、誰が中国政府を引っ張っていけるのか、を真剣に考えたのではないかと思われる。江青ら文革グループに中国の政治を任せられないことは、毛沢東自身が一番よく知っていたと思われる。もちろん、トウ小平の政治理念は毛沢東の理想とは異なるものであったが、もし周恩来が病に倒れたとすれば、中国の政治を任せられるのはトウ小平しかいない、と毛沢東は考えたのだと思われる。

 将来の歴史家は、毛沢東の様々な面について様々な評価を行うであろうが、自らの政治信条と異なる考え方を持つトウ小平を中国の将来を託すために中央に呼び戻したこの毛沢東の判断は、人材登用の観点において、毛沢東の偉大な政治指導者としての一面を示すものとして高く評価されることになるだろう。その後の中国の歴史は、周恩来亡き後の複雑な中国の政治の世界を統括し、引っ張って行く力を持つ政治家は、トウ小平以外にはいなかったことを如実に示している。(ただし、別の言い方をすれば、トウ小平が復活したことにより、中国の政治世界の中に、毛沢東、周恩来、トウ小平のようなスーパー政治家に頼ざるをえない体制を温存してしまった、強いリーダーシップを持つスーパー政治家がいなくても安定的に政治が行えるシステムを構築するチャンスを先送りしてしまった、という言い方もできる)。

 毛沢東と周恩来の意向を受けて、1973年2月20日、トウ小平は江西省から北京に呼び戻された。3月10日、中国共産党中央は、毛沢東と周恩来の指示に基づき、トウ小平の党での職務復帰と副総理への復帰を決定した。4月12日にはトウ小平はカンボジアのシハヌーク殿下訪中に際してのレセプションに姿を現し、マスコミにその復活した姿を登場させたのである。

 トウ小平の復活は、江青ら文革グループは、大きな力を持っていたとは言え、党中央を完全にコントロールする力はなかったこと、上に述べたように毛沢東が江青ら文革グループと組んで周恩来を追放しようとしてたとは考えられないことを明確に示している。

以上

次回「3-4-3:【コラム:『孔子批判』に対する日本のマスコミの反応】」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-7430.html
へ続く。

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