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2010年3月28日 (日)

3-5-3:西単(シータン)の「民主の壁」

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第5部:改革開放政策への大転換

--第3節:西単(シータン)の「民主の壁」

 1977年のトウ小平氏の再復活以降、トウ小平氏の路線の最先端を切って、文革時代に失脚した人々の復活や名誉回復を進めていたのが胡耀邦氏(1977年11月に中国共産党組織部長に就任)だったことは前に述べた。1977年3月に中央党校の副校長になった胡耀邦氏は、自らの路線を示すため中央党校による理論誌「理論動態」を創刊した。「理論動態」は、その創刊号で「革命継続論について」と題する論文を発表した。この論文はまさにトウ小平氏が1978年3月18日に全国科学大会開会式での講話で述べたように生産力の向上とそのための技術革新の重要性を述べた論文で、実質的に毛沢東が主張続けた「階級闘争の継続が要である」との考え方を批判するものだった。

 また、「理論動態」誌は、1978年5月10日、「実践は真理を検証する唯一の基準である」と題する論文を掲載した。この論文は、毛沢東が述べた「実事求是」を用いて現状と今後進めるべき方向について論じており、5月11日「光明日報」に転載され、さらには「人民日報」にも転載され、新華社は全国にこの論文を配信した。

 この論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」のポイントは以下の通りである。

○毛主席は「真の革命的指導者とは、自分の思想・理論・計画・手法が誤っていたとき、それを正すことができる者であり、客観的な情勢が変化した時、状況の変化に応じて新しい革命任務と新しい業務の手法を提案できる者のことである」と述べている。

○林彪と「四人組」は、党の実権を奪うため、「一言が一万の言葉に相当する」「一言一言が真理である」などと口から出まかせを言っていた。実践の経験によれば、彼らが言っていたことは毛沢東思想の真理どころではなく、逆に毛沢東思想を誤って解釈したものだった。

○「四人組」は人々の思想に「タブー」(中国語で「禁区」=触れてはいけない部分)を作ってしまった。我々はこの「タブー」に敢えて触れ、この「タブー」を除去しなければならない。科学には「タブー」はない。実践を以て自ら判断することで絶対的な「タブー」を超えなければならない。

 これは華国鋒氏の「二つのすべて」論に対するあからさまな反対だった。「すべて派」の人々はこの論文が発表されたこと、特にこの論文が「人民日報」に転載され、新華社がこれを全国に配信したことに驚嘆した。「トウ小平秘録」(参考資料17)では、この論文は、通常の論文とは異なり、最初、党宣伝部のチェックを受けない中央党校の機関誌「理論動態」に掲載され、それが「光明日報」から「人民日報」「新華社」に転載されたため、「すべて派」が押さえていた党宣伝部がこの論文の掲載をチェックできなかった、との見方を示している。この論文は「すべて派」(華国鋒氏ら)とそれを攻撃する「実践派」(トウ小平氏、胡耀邦氏ら)との間の論争(「真理標準問題」と呼ばれる)の始まりを告げるものだった。

(参考URL1)「新華社」ホームページ2008年5月9日21:11アップ
「資料:『実践は真理を検証する唯一の基準である』全文」
http://news.xinhuanet.com/politics/2008-05/09/content_8138077.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

(参考URL2)「新華社」ホームーページ「新華資料」
「真理標準問題に関する討論」
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2003-01/20/content_698076.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 なお、「光明日報」がこの論文を掲載した1978年5月11日、華国鋒主席は北朝鮮を訪問中で北京にいなかった。従って、この論文の掲載は、華国鋒主席の北京不在のタイミングを狙って行われたトウ小平氏・胡耀邦氏らによる華国鋒主席ら「すべて派」に対する計画的な策略だった可能性がある。

(参考URL3)「光明日報」ホームページ2008年6月1日アップ記事
「私が『実践は真理を検証する唯一の基準である』を発表した」(王強華)
http://www.gmw.cn/02sz/2008-06/01/content_812570.htm

(注1)上記の記事には、1978年5月11日付けの「光明日報」1面の写真が掲載されている。この写真を見れば、論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」は1面下半分に掲載されているが、1面上半分では北朝鮮を訪問した華国鋒主席がピョンヤン駅で金日成主席と別れを告げる写真が掲載されているのがわかる。

(注2)党のトップが北朝鮮訪問のために北京を留守にしている間に「人民日報」にトップが了承しないような論文を発表する、という手法は1989年4月に再び使われることになる。胡耀邦氏の死去を切っ掛けにして、若い人たちの自由な論争を支持していた胡耀邦氏を追悼する学生らが天安門前で集会を繰り返していた1989年4月26日、趙紫陽総書記は北朝鮮訪問のため北京を留守にしていた。このタイミングを狙うかのように、「人民日報」に学生らの動きを「動乱」と規定する「必ずや旗幟を鮮明にして動乱に反対しよう」という社説が掲載された。この「人民日報」の社説が「第二次天安門事件」を弾圧する流れと趙紫陽総書記の失脚への道を開くものになったのである。

 「光明日報」「人民日報」などに論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」が掲載されてから1か月も経たない6月2日、トウ小平氏は全軍政治工作会議において講話を行った。この講話でトウ小平氏は、毛沢東が常々「実事求是」を主張していたことを強調して、次のように述べた。

「一部の同志は、日々毛沢東思想について論じているのに、往々にして毛沢東同志が語っていた『実事求是』を忘れている。彼らはマルクス、レーニン、毛沢東同志の話した原文を引っ張ってきてそのまま実行していると主張しているが、しかしながら、実はこれはマルクス・レーニン主義と毛沢東思想に反し、中央の精神に反しているのである。」

 これは党の主席、国務院総理であり、かつ中央軍事委員会主席でもある華国鋒氏の「二つのすべて」論に対する明確な反対であった。

 さらに軍の新聞である「解放軍報」は、6月24日、「実践は真理を検証する唯一の基準である」と論調を同じくする論文「マルクス主義の最も根本的な原則」を掲載した。「すべて派」を批判するような講話が全軍政治工作会議でなされ、同様の趣旨の論文が軍の新聞である「解放軍報」に掲載されるということで、もはや軍のトップであるはずの中央軍事委員会主席の華国鋒氏が現実的には軍を掌握していないことは明らかとなった。

 華国鋒主席ら「すべて派」は依然として汪東興副主席をヘッドとして党宣伝部を掌握してはいたが、論文「実践は真理を検証する唯一の基準である」が掲載されたことに見られるように、「すべて派」は「人民日報」や「新華社」などの主要メディアを完全にコントロールできているとは言えなかった。それに加えて、「すべて派」は軍も掌握してしていないことが明らかになった以上、華国鋒氏ら「すべて派」は、寄って立つところを既に全て失ってしまったことは明らかだった。

 1978年も9月になると、胡耀邦氏がかつて第一書記を務めていた中国共産主義青年団の機関誌「中国青年」が復活した。「中国青年」復活第一号には、1976年4月の「第一次天安門事件」で天安門広場に張り出された詩文が「天安門革命詩抄」として掲載された。また「第一次天安門事件」で逮捕された労働者の文章も載っていた。「すべて派」で宣伝担当の党副主席だった汪東興氏がこれを問題視し、刷り直しを命じた。「すべて派」による最後の抵抗だった。しかし、この「中国青年」刷り直し事件は、北京の青年たちを刺激し、10月になると長安街(天安門前を東西に通る大通り)の北京の西半分の様々な場所で様々な壁新聞が張り出されるようになった。さらに11月になると西単(シータン:北京市西部にある地名)付近の壁に様々な壁新聞が張り出されるようになった。多くは「すべて派」を批判し、天安門事件の名誉回復を求めるものだった。

 こういった多くの人々の「すべて派」に対する批判の声を利用して、トウ小平氏は一気に「すべて派」、即ち華国鋒主席周辺の実権を骨抜きにし、「改革開放路線」の決定へと突き進んでいくことになる。

 「中国青年」の復刊第一号の刷り直しを命じた「すべて派」で宣伝担当の党副主席だった汪東興氏に対して、異議を唱え怒りを表明した若い人々の頭の中には、トウ小平氏が前年(1977年)2月の中国共産党第11回全国代表大会の閉会の辞で述べた言葉「意見をまとめるとともに民主的であり、規律を守るとともに自由であり、意志を統一させるとともに個々人をのびのびとさせ活き活きと活発にするような政治局面を作ることは毛主席が掲げた良き伝統である」があった。このトウ小平氏の言葉は、多くの若者たちに自分の意見を率直に表現する気持ちを奮い起こさせた。

 西単(シータン)付近の様々な壁新聞の多くは「すべて派」を批判し、「第一次天安門事件」の名誉回復を求めるものであり、「第一次天安門事件」の再評価を求める人々の声は日増しに高まっていった。こうした中、1978年11月16日付けの「人民日報」と「光明日報」は、北京市中国共産党委員会が「第一次天安門事件」について、周恩来総理を追悼し「四人組」打倒を叫んだ人々の行動は「革命的行動」であり、そのために迫害された人々の名誉を回復することを11月14日に決定した、と報じた。

 なお、この部分、伊藤正著「トウ小平秘録」(参考資料17)によると、当時の事情を知る于光遠中国社会科学院副院長は、北京市党委員会が決めたのは「第一次天安門事件」によって迫害された人たちの名誉回復と復職だけで、この事件を「革命行動」として評価したわけではなかった、としている。しかしながら、現在、ネットで見ることができる「新華社」ホームページの「中国共産党大事記」の1978年の部分によれば、「11月14日、北京市中国共産党委員会は、中国共産党中央政治局常務委員会の批准を経た上で、1976年4月に幅広い大衆が天安門前広場で周恩来総理を追悼し『四人組』に対する怒りの声を挙げたのは完全な革命行動だったことを宣言した。」とされている。

(参考URL4)「新華社」ホームページ
「資料」-「中国共産党大事記(1978年)」(後半部分)
http://news.xinhuanet.com/ziliao/2004-10/15/content_2094079_1.htm
※このサイトは、サイトの安全性が確認できないため、リンクを張っておりません。

 ちょうどこの時期、11月10日から中国共産党中央工作会議が開かれていた。この会議は、今後の政策の方針を決定するための非公開の会議だった。

 西単の壁に張られた多くの壁新聞は外国メディアによって世界に報道され、「民主の壁」と呼ばれるようになった。11月25日には、ハンドマイクを持って持論を展開する人を市民が取り巻くという自発的な「民主討論会」も行われた。「文化大革命十年史」(参考資料14)によれば、この動きについて、トウ小平氏は、外国要人や外国メディアに次のように語っている。

○11月26日、日本の民社党佐々木良作委員長に対して;
「壁新聞を書くことはわが国の憲法が許している。われわれは大衆が民主を発揚し壁新聞を書くことを否定したり批判する権利はない。大衆に不満があるなら彼らにはき出させなければならない。」

○11月27日、「ワシントン・ポスト」紙のコラムニストであるジム・ノバック氏に対して;
「『民主の壁』はよいことだ。人民にはその権利がある。」

○12月初め、中仏貿易協定調印式に出席した後、フランス人記者団に対して;
「壁新聞の運動はなお続くであろう。なぜならそれはよいことだからだ。」

 これらの「民主の壁」の運動を容認するトウ小平氏の発言は外国のメディアを通じてすぐに北京市民に伝わり、この運動は大いに盛り上がった。この運動を通じて「第一次天安門事件」は「正しい行動だった」という人々の考え方は明確になり、それが世界中に報道された。

 こうなると、この時行われていた中国共産党中央工作会議において、華国鋒氏ら「すべて派」がその主張を展開することがもはや無理なことは明らかだった。「トウ小平秘録」(参考資料17)によれば、この中央工作会議は当初会期二週間の予定で11月10日に開幕したが、陳雲氏らが提起した文化大革命中に批判された多くの人々の名誉回復や「第一次天安門事件」の再評価を巡って議論が紛糾し、何度も延長され、結果的には1か月以上続いた。

以上

次回「3-5-3:【コラム:論文『実践は真理を検証する唯一の基準である』の扱い】」
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へ続く。

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