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2010年3月24日 (水)

3-4-7:毛沢東の死、そして「四人組」の逮捕

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第7節:毛沢東の死、そして「四人組」の逮捕

 周恩来の死とトウ小平の失脚で、前年の1975年に「四つの近代化」と「全面整頓」を行った中心人物がいなくなり、形式的には華国鋒をトップとしつつも、実質的には江青、張春橋らを中心とするグループが政治を運営するようになった。江青らの文革グループは、「第一次天安門事件」で、江青らのグループを批判する詩を張り出したり演説したりした者を割り出し、これに係わった者たちを一斉に逮捕した。

 毛沢東の健康状態は一段と悪化し、5月27日にパキスタンのブット首相と会見したのが外国の賓客と会った最後だった。6月15日に予定されていたマダガスカルの首脳と毛沢東との会見がキャンセルされたが、その際、中国の外交部は、中国共産党中央の決定として、今後、毛沢東主席は高齢と多忙のため今後外国賓客との会見は行わないことなった、と発表した。多くの人は毛沢東の死が近いことを悟った。そうした中、1976年7月6日、革命戦争当時「毛朱」と言われ毛沢東とともに並び称された革命軍人で、この時全国人民代表大会常務委員会委員長だった朱徳が死去した。90歳だった。周恩来に引き続く、朱徳の死は、革命第一世代の時代が既に終わりつつあることを人々に告げていた。

 朱徳の死後三週間も経たない7月28日、河北省唐山市でマグニチュード7.8の大地震が発生した。震源に近い唐山市は壊滅状態となり、24万人以上が死亡した(なお、この死亡者数は、当時は国家秘密扱いとされ、死亡者数が公式に発表されたのは数年後だった)。この唐山地震では北京でもかなりの揺れを感じた。周恩来、朱徳ら革命の先駆者たちの相次ぐ死の後だっただけに、多くの人々が将来に不安を感じた。

 そして、この年、1976年9月9日の正午、午後4時から重要な放送が流される旨の予告放送があった。午後4時(日本時間午後5時)、中国共産党中央委員会、中華人民共和国全国人民代表大会常務委員会、中華人民共和国国務院、中国共産党中央軍事委員会の連名による「全党・全軍・全国各民族人民に告ぐる書」という形で、9月9日午前0時10分、毛沢東が死去したことが伝えられた。このニュースは世界中を駆けめぐった。

 当時、大学1年生だった私は、このニュースを知って、発表があった1時間後の日本時間午後6時から放送されたNHKのラジオ・ニュースを録音した。NHKラジオの午後6時のニュースは通常は5分間だったが、この日は特別にニュースの時間を15分間に拡大し、その全てを使って毛沢東主席の死去を伝えた。また、午後8時過ぎには、北京から直接流されてくる北京放送日本語版ラジオ放送にダイヤルを合わせ、この北京放送が伝える「全党・全軍・全国各民族人民に告ぐる書」を録音した。この「全人民に告ぐる書」を伝える北京放送の日本語アナウンサーは「毛沢東同志は・・・治療のかいなく、1976年9月9日0時10分、北京で逝去しました。」と読み上げる部分で、思わず声を詰まらせていた。

 この毛沢東の死を伝える「全党・全軍・全国各民族人民に告ぐる書」では、毛沢東の業績を伝える部分で、次のように述べている。

「毛主席は、わが党を指導して党内の右と左の日和見主義路線と長期にわたる鋭い複雑な闘争を進め、陳独秀、瞿秋白(注:日本語よみで「くしゅうはく」)、李立三、羅章竜、王明(注:本名は陳紹禹)、張国トウ(注:「トウ」は「寿」の旧字体の下の四つの点をつけた字)、高崗(注:日本語読みは「こうこう」)、饒漱石(注:日本語読みは「じょうそうせき」)、彭徳懐の日和見主義路線に打ち勝ち、プロレタリア文化大革命の中でまたも劉少奇、林彪、トウ小平の反革命の修正主義路線に打ち勝ち、階級闘争と二つの路線の闘争の中で、わが党を絶えず発展させ、強化させてきました。」

(注1)陳独秀は中国共産党創立者の一人。以下、張国トウまでは新中国成立前の革命期に党内の権力闘争の過程で失脚した有力者。高崗、饒漱石は新中国成立後、政治闘争の中で失脚した指導者(「第3章第2部第1節:社会主義化の進展と『百花斉放・百家争鳴』」参照)。1959年7月に開かれたいわゆる「廬山会議」で、国防部長だった彭徳懐が批判され失脚したことについては「第3章第2部第5節:『大躍進政策』の結果を受けた権力闘争」参照。上記のようにトウ小平を「反革命」として批判しているため、トウ小平が始めた改革開放路線を進めている現在の中国では、この毛沢東の死を告げる「全党・全軍・全国各民族人民に告ぐる書」をネット上で見付けることは困難である。

 毛沢東の死後、誰が政権の中心となるかは、多くの人にとっては想定するのが難しい問題だった。既に「第一次天安門事件」後の4月に周恩来の後任の国務院総理として華国鋒が就任していたことから、毛沢東の後任の党の主席にも党副主席の華国鋒がそのまま昇格するのではないか、と見る人が多かったが、張春橋、江青、王洪文らや軍の関係者の動きなどが、外部にはよくわからなかったからである。毛沢東の死を伝える9月9日午後6時からのNHKニュースでは、華国鋒が昇格するのが順当とする見方を示す一方、4月の華国鋒の総理就任が党内の左右の勢力の妥協の産物だった可能性があるとの見方も紹介して、毛沢東なきあとの中国の政権の行方の不透明さについて伝えていた。

 毛沢東の追悼大会は、9月18日に行われ、華国鋒が主宰して弔辞を述べた。華国鋒の隣には、江青、張春橋、王洪文が並んだ。この追悼大会が開かれる2日前の9月16日の「人民日報」では、毛沢東の「既定方針通りにやれ」(中国語で「按既定方針弁」)という毛沢東の生前の指示を伝えていた。最大の問題は、毛沢東の後の党中央主席に誰がなるか、であった。毛沢東の生前の指示は「華国鋒を第一副主席及び国務院総理にせよ」ということである。別の言い方をすれば「毛沢東は、華国鋒を自分の死後、党の主席にせよ、とは言っていなかった」ということになる。

 江青、張春橋、姚文元、王洪文らは、毛沢東の死後、この「既定方針通りにやれ」という指示をあちこちで宣伝していた。また、王洪文は、毛沢東の死の直前、二人の秘書を毛沢東の見舞いに派遣し、毛沢東の様子を見させるとととも、各地方の省に対して、地方で何か動きがあったら華国鋒を飛び越して王洪文に直接連絡するよう指示していた。この情報を得た華国鋒と軍の有力者である葉剣英は、王洪文の動きに懸念を感じ、直ちに党中央の名義で各地方の省市に有事の際は直接華国鋒に報告するよう指示した。

 軍の内部では、1968年2月の「二月逆流」(「第3章第3部第4節:文化大革命下の政治と社会の混乱」参照)のように文化大革命の初期の頃から古参革命幹部を失脚させていった文革グループに対する反発が強かった。また、「第一次天安門事件」前後の動きを見れば、多くの人民が江青らのグループに反発を感じていることは明らかだった。葉剣英ら軍の幹部は、江青らのグループが必死になって毛沢東の「既定方針通りにやれ」という指示を守ろう、と宣伝していることは、「毛沢東は、華国鋒を第一副主席にせよ、と言ったのだから、華国鋒を党の主席にしてはならない」と主張するための動きであると判断した。

 江青らの動きに不穏なものを感じた古参革命軍人の一人である聶栄臻(1968年の「二月逆流」で文革グループから批判された者の一人)は、9月21日、これも軍の古参幹部である楊成武のところへ行き、葉剣英に江青らの四人に対して「断固たる措置」を講ずべきであるとの考えを伝えさせた。同じ日、党中央政治局委員だった李先念が華国鋒を訪れ、江青らのグループの動きが危険であるとして、対処を相談した。李先念はさらに9月24日、葉剣英を訪れて相談した。こうして、華国鋒、聶栄臻、葉剣英、李先念らは、江青らに対して「断固たる措置」を採ることで考えが一致していった。

 そもそも「既定方針通りにやれ」という毛沢東の指示は、この年の4月30日、華国鋒が「第一次天安門事件」の後の国内情勢を報告し、一部の省(地方)の状況について憂慮している旨を毛沢東に報告した時になされたものだという。この当時、毛沢東はほとんど話をすることができなくなっていたが、頭はハッキリしており、時として、文字を書いて周囲に意志を伝えることがあったことについては、この年2月に毛沢東と会見したアメリカのニクソン前大統領が当時の毛沢東の様子について語っていたこととして、前節で触れた。4月30日に毛沢東が文字に書いて華国鋒に示した意志は「ゆっくりやることだ。気を揉むことはない。」「これまでの方針通りにやれ。」「あなたがやれば私も安心だ。」の3つだったという。

 江青、王洪文らもこの席におり、この時の「これまでの方針通りにやれ。」という言葉を江青らは宣伝したのである。ところが、華国鋒によれば、この時の毛沢東の言葉は、姚文元が中心となって各新聞などで書かせている「既定方針通りにやれ(按既定方針弁)」ではなく、「これまでの方針通りにやれ(照過去方針弁)」だったという。後者は「過去の方針に照らして実施せよ」ということで、過去の既定方針を全く変えずにそのままその通りに行え、という前者とは微妙にニュアンスが異なる。

 この違いを意識した華国鋒は、9月30日、外交部長の喬冠華が国連総会で行う予定にしていた演説原稿の中に「既定方針通りにやれ(按既定方針弁)」という言葉があることを指摘して、「私が毛主席の遺稿を確認したところ、この部分は『これまでの方針通りにやれ(照過去方針弁)』である。今後、間違って伝えられることのないようここの部分は削除せよ。」と指示した。このことを知った張春橋は「この華国鋒同志の指示は下部に伝えるべきでない」と提案し、江青、張春橋も同意した。

 華国鋒が喬冠華外相に対して「既定方針通りにやれ(按既定方針弁)」という毛主席の遺稿は誤りであると指摘していたのにも係わらず、10月4日付けの「光明日報」は梁效というペンネームによる「既定方針通りにやれ(按既定方針弁)」という毛沢東の遺志を強調する論文を掲載した。梁效とは、北京大学と清華大学の合同理論組のペンネーム(「梁效」は「両校」と発音が同じ)であった。北京大学・清華大学の合同理論組が当時江青らのグループに牛耳られていることは周知の事実であり、この論文の背後に江青らのグループがいることは明らかだった。

 江青、張春橋、姚文元、王洪文が自分の指示に従っていないと確信した華国鋒は、葉剣英らと協議し、行動を起こすことを決めた。10月6日、中南海懐仁堂において政治局常務委員会会議を開催することが通知された。会議に参加するため、張春橋、姚文元、王洪文も参集してきた。姚文元は政治局常務委員ではなかったが、この日の会議で「毛沢東選集」の編集について議論するから、という理由で、編集責任者としての姚文元も呼ばれていたのだった。先に来ていた華国鋒はこの3人に対して「隔離審査」を行うことを通告し、身柄を拘束した。同じ時刻、江青も中南海の別の場所で身柄を拘束された。

(注2)中南海懐仁堂は、重要会議が行われる場所である。1968年に「二月逆流」の原因となった軍の古参幹部が文革グループを批判したことにより失脚させられた会議が開かれたのもここだった。

 なお、「四人組逮捕」の経緯については、2008年8月20日に華国鋒が死去した後、葬儀が行われた翌日の9月1日付けの「人民日報」の紙面では、次のように記している。

「華国鋒同志は『四人組』による党の権力を簒奪(さんだつ)しようという陰謀活動に対して決然と闘争を進め、『四人組』の問題を解決することを提案し、葉剣英、李先念等の党中央の指導者の賛同と支持を得て、断固たる措置を採り、一挙に『四人組』を粉砕し、党を救い、社会主義事業を救い、党と国家の発展に対して新たな1ページを開いた。」

 「四人組」が逮捕された10月6日から翌日の10月7日未明に掛けて行われた党政治局会議で、華国鋒を党中央委員会主席及び中央軍事委員会主席とすることが決定された。10月8日に北京の部隊内部に「四人組」の逮捕と華国鋒の党中央委員会主席及び中央軍事委員会主席への就任決定の知らせが内々に伝えられた。華国鋒を党中央委員会主席及び中央軍事委員会主席とするとの決定が「人民日報」等により公表されたのは10月10日だった。このことは人々に、薄々、江青らのグループが勢力争いに敗れたことを感じさせるのに十分だったが、正式に「四人組」の逮捕が公表されたのは、10月18日だった。

 「北京三十五年」(参考資料12)の著者の山本市朗氏は、「四人組」の逮捕については、当初、一般市民も薄々ウワサとして聞いていたが、自分が勤めていた工場の中では、逮捕されたのが誰であるのか等の確かな情報については、外国の在北京特派員が伝えた外国のニュースを聞いていた自分が最も早く知っており、工場の人々に自分が伝えてやった、と述べている。

 「四人組」逮捕のいきさつは以上の通りであるが、この経緯は、後に「四人組裁判」等を通じて中国政府当局から発表されたものであり、逮捕された「四人組」側の主張は一切含まれていない。従って、「四人組裁判」で公表された資料等に基づいて組み立てられたこのストーリー、即ち、「四人組」が党主席の座を華国鋒から奪おうとする陰謀を企てたため、事前にそれを封じ込めるために華国鋒らが「四人組」逮捕を断行した、というのが歴史的事実として正しいのかどうかは、今後なお検証を要する事項である。

 「トウ小平秘録」(参考資料17)では、「四人組」逮捕実行のきっかけとなったとされる1976年10月4日の「光明日報」の記事を書いた梁效論文執筆グループの一人の范達人氏が、2005年7月に香港の鳳凰テレビのインタビューで、1976年10月4日に「光明日報」に掲載された論文は9月30日の時点では既に書き上げられていてゲラ校正も終わっていた、と証言していることを紹介している。「トウ小平秘録」では、「既定方針通りにやれ(按既定方針弁)」という表現は、9月16日に「人民日報」に掲載されて以降、極めて頻繁に新聞等で使われており、華国鋒が9月30日になって喬冠華外相の国連演説原稿のチェックの際に初めて間違いを指摘した、というのは不自然であるとして、「『四人組』が毛沢東の遺稿を改ざんした」という話は、「四人組逮捕」という実力行使を正当化するための後付けの口実だった、と考える研究者もいることを指摘している。

 華国鋒主席は、文化大革命を継続する、と宣言し、自らが毛沢東の正しい継承者であることを主張することになるが、翌年(1977年)トウ小平が再復活し、1978年12月の第11期中国共産党中央委員会第3回全体会議(第11期三中全会)で改革開放路線が決定されると、この1976年10月6日の「四人組の逮捕」をもって文化大革命は終了した、と認識されるようになる。ただし、そういった認識が最終的に確定するのは、1981年6月に決定された「建国以来の党の若干の歴史的問題に関する決議」においてであり、文化大革命の終了と文化大革命が「誤り」だったと最終的に認識されるまでには、この後、まださらに5年近い年月を要することになるのである。

以上

次回「3-5-1:華国鋒政権下でのトウ小平氏の再復活」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-d02f.html
へ続く。

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