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2010年3月23日 (火)

3-4-6:【コラム:「第一次天安門事件」の記憶】

※「中国現代史概説」の目次全体及び参考資料については、下記の2010年1月4日付けの発言を御覧下さい。

「中国現代史概説~中国の新しい動きを理解するために~」目次
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/01/post-a953.html

【中国現代史概説】

第3章:改革開放に至るまでの中華人民共和国の歴史

-第4部:文化大革命(後半:ニクソン訪中から四人組追放まで)

--第6節:周恩来の死と「第一次天安門事件」

【コラム:「第一次天安門事件」の記憶】

 現在の中国では「天安門事件」と言えばこの1976年4月5日の事件を指す。1989年6月4日の事件は現在の中国では「政治風波」と呼ばれることはあっても「天安門事件」と呼ばれることはない。つまり現在の中国では「天安門事件」は1回しか起きていないと認識されているので「第一次」「第二次」と接頭語を付ける必要はないのである。

 この1976年4月5日の「第一次天安門事件」の記憶が、中国の人々とその他の多くの人々(私も含む)に「誤解」を与え、1989年6月4日の悲劇を生むことになるのである。中国は、文化大革命など他の国にはない特異な運動が起きたりする国ではあるが、政治的な大衆運動が起き、運動を起こしている群衆が武器を持っていない場合、当局側がそれを鎮圧する時に動員するのは警察や民兵であり、鎮圧する側が「武装」するとしても、棍棒や皮ベルト、せいぜい鉄パイプであって、ある程度の流血の騒ぎになったとしても、鎮圧される側の群衆に大量の死者が出ることはあり得ない、という「誤解」である。人民解放軍の戦車や装甲車、小銃は、外国の軍隊が中国に攻めてきた時に中国を防衛するためにあるのであって、人民解放軍が国内における治安活動に出動して大衆運動をしている人民に向かって発砲するようなことはあり得ない、という「誤解」である。

 1989年4月以降、多くの人が天安門広場に集まった時、私は集まった大衆が自主的に解散しない限り、いつかは当局は実力で人々を排除するだろうと思っていた。しかし、その排除の仕方は、1976年4月の「第一次天安門事件」と同じようなやり方になるだろうと思っていた。むしろ、時代が進んでいたから、放水銃とか催涙弾とか、もうちょっと非武装の群衆に対処するのに「ふさわしい近代的な」道具を使うと思っていた。1989年の春以降天安門広場に集まっていた多くの人々もそう思っていたに違いない。

 この「誤解」が、「第二次天安門事件」において、1989年6月4日未明まで多くの人々が天安門広場から去らず、実際に多くの死者を出す悲劇を生んだ背景のひとつだったと私は考えている。

 しかし、その認識は完全な「誤解」だった。1989年6月4日、天安門広場に現れたのは人民解放軍本体の戦車、装甲車であり、人民に対して小銃の実弾が発射された。これは私にとって全くの衝撃だった。おそらくは中国の人々にとっても衝撃であったに違いない。人民を守るために外敵と戦うと思っていた人民解放軍が中国人民に銃口を向けたからである。現在の中国当局があれほど「悪辣だ」と批判している「四人組」が行った「第一次天安門事件」の際の鎮圧においてすら警察と民兵が棍棒と皮ベルトと鉄パイプで群衆に対処したのに対し、その「四人組」を追放して始まった改革開放を掲げる当局が1989年に戦車・装甲車の出動と小銃による実弾射撃という行為に出るとは私は全く考えていなかった。多くの中国の人々も考えていなかったと思う。

 今回、「第一次天安門事件」についてやや詳細に描写したのは、読者に後に述べることになる「第二次天安門事件」と対比して、これら二つの事件について考えて欲しかったからである。

以上

次回「3-4-7:毛沢東の死、そして『四人組』の逮捕」
http://ivanwil.cocolog-nifty.com/ivan/2010/03/post-489c.html
へ続く。

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